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ガラテヤ人への手紙

大事なのは。。。

今日の箇所で、パウロはこの手紙の中で以前に述べたことをまとめています。特に、何が重要であり、何が重要ではないかについて語っています。パウロによれば、

  • 周りの人々が私たちについてどう考えるかは重要ではありません。特に、彼らに認められる必要はありません。(ガラテヤ人への手紙6:12)
  • 律法に従うための私たちの努力も重要ではありません。なぜなら、律法によって義と認められたいと思うなら、律法を完全に守らなければなりません。ところが、完全に律法を守れる人は誰もいないからです。(ガラテヤ人への手紙6:13a)
  • 神様のために私たちが成し遂げることへの誇りも重要ではありません。特に、神様の御心を誤解しているなら、その誇りは無意味なものになります。(ガラテヤ人への手紙6:13b)
  • 割礼を受けているかどうかも重要ではありません。心に変化をもたらさない儀式や宗教的な習慣は、何の意味も持ちません。(ガラテヤ人への手紙6:15a)

私たちは、これらすべてのものに対して死んだはずです。また、これらのものも私たちに対して死んだはずです。(14)

その一方で、重要なのはただ一つ。それは、イエス様の十字架の御業によって、私たちが新しい創造物とされたということです。(14-15)

私たち自身の努力によって変わるのではありません。むしろ、聖霊様の力によって、私たちは完全に変えられるのです。重要なのは、この真理です。

そして、パウロはこう語りました。

この基準にしたがって進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。(16)

ユダヤ人のクリスチャンたちは、ガラテヤのクリスチャンたちにこう言いました。「割礼を受け、モーセの律法に従えば、神のイスラエルに属することができます。」

しかし、パウロはこう答えました。「その考え方は誤っています。イエス様への信仰と聖霊様の力によって、あなたたちは変えられ、神様の民とされるのです。」

この真理を理解すると、どうなるでしょうか。あなたは平安を得ます。自分の力で神様の律法に従おうとすることの重圧から解放されます。そして、神様の憐れみをより深く知るにつれ、裁かれることへの恐れも消えていきます。

あなたはどうでしょうか。自分の力でクリスチャン生活を歩もうとしていませんか。聖書の規則を守ることで、良いクリスチャンになろうと考えていませんか。

あるいは、あなたは受けた恵みによって安心し、毎日、聖霊様と共に歩み、その導きに従っているでしょうか。

パウロがそうしたように、私もあなたのために祈ります。

兄弟たち。私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。アーメン。(18)

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ガラテヤ人への手紙

私たちが蒔く種

私は、良い農家にはなれなかっただろうと思います。子どものころ、みかんの種かリンゴの種を蒔きましたが、すぐに成長してほしいと思っていました。1~2日経っても何も変化がなかったので、すぐに諦めてしまいました。

農業には忍耐が必要ですが、当時の私には全く忍耐がありませんでした。

とはいえ、ある意味で私たちは皆、種を蒔く者です。そして、私がかつて蒔いた種とは違い、最終的に私たちは自分の蒔いたものを刈り取ることになります。

そして、パウロはこう書きました。

思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。

自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。(ガラテヤ人への手紙6:7-8)

ガラテヤの教会や他の教会でも、ある人々はパウロの教えを曲げました。パウロは恵みによる救いを教えましたが、彼らはこう言いました。

「パウロの言うことは、私たちが好き勝手に生きてもよいという意味です。あえて罪を犯しても、どうせ赦されるのだから。」

しかし、パウロは答えました。「神様は愚かではありません。あなたたちは神様を侮ることはできません。神様はあなたたちの心と行いをすべてご存じです。あなたたちがイエス様を信じると主張しながら、自分勝手に生きるなら、神様はその本質を見抜かれるでしょう。

だから、この世では罪の結果を何とか避けることができても、裁きの日に神様の前に立つとき、あなたは滅びます。」

その一方で、もしあなたが本当に神様を愛し、聖霊様を喜ばせようとするなら、永遠の命を刈り取ることになるのです。

そして、パウロは私たちを励まします。

失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。(9)

神様の働きの成果をすぐに見られないと、私たちは簡単に落胆してしまいます。私たちはファストフードの文化に生きており、すぐに結果を見たいと思ってしまいます。けれども、種が成長するには時間がかかります。一朝一夕で育つものではありません。

同じように、御霊を喜ばせるために蒔く種も、すぐに成長しないことがあります。時には、一生をかけてもその実を見ることができない場合もあるでしょう。

それでも、パウロは私たちを励ましているのです。

「その種は必ず成長します。あきらめてはいけません。失望してはいけません。蒔いたものから成果を刈り取ることができます。さらに、永遠の命を刈り取るのです。」

では、私たちはどうすればよいのでしょうか。パウロはこう語ります。

ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。(10)

御霊を愛し、喜ばせる方法の一つは、周りの人々を祝福することです。神様は私たちを、家族、友人、同僚、そしてクリスチャンの兄弟姉妹に対する祝福となるように召されました。

そのように歩むとき、神様は私たちが蒔いた種の実を刈り取ることを約束しておられます。

あなたはどのような種を蒔いているでしょうか。

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ガラテヤ人への手紙

私たちを支えてくれる人を支える

牧師の働きは非常に大変です。もし神様からの召しがなければ、私も牧師になろうとは思わないでしょう。

牧師は、日曜日のメッセージを準備するだけでなく、教会のメンバーの問題にも対応しなければなりません。その責任を担うとき、彼らはメンバーの不平にも耳を傾けなければなりません。

すべてのメンバーが教会や牧師に満足する教会は、おそらくどこにもないでしょう。

私たちの牧師たちも、自分自身の負担を抱えています。もちろん、イエス様は彼らに教会を導く使命を与えられました。

けれども、それだけではなく、彼らには家族を支える責任もあります。そのため、人の不平や批判を聞くと、その負担が急に重くなり、時には耐えきれなくなることもあるでしょう。

パウロは、この現実をよく理解していたと思います。だから、彼は「人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うことになるのです。」と言った後、こう語りました。

みことばを教えてもらう人は、教えてくれる人と、すべての良いものを分かち合いなさい。(ガラテヤ人への手紙6:6)

要するに、牧師は私たちに霊的な栄養を与え、霊的に支えてくれます。けれども、彼ら自身も支えられる必要があります。だからこそ、私たちはできる限り彼らを支えるべきです。

もちろん、彼らが家族を十分に支えることができるように、私たちは牧師を経済的に支える必要があります。そうすれば、彼らは神様から委ねられた働きに専念できるでしょう。しかし、それだけではなく、彼らには私たちの祈りと励ましの言葉が必要です。

私たちは牧師を「超クリスチャン」と見なしてしまいがちです。そのため、彼らもただの人間であり、私たちの支えを必要としていることを忘れてしまいます。私も時に忘れてしまうことがあります。

だから、意図的に彼らを支えましょう。彼らのために祈っていることを伝えましょう。メールや電話で励ましの言葉を届けましょう。言い換えると、牧師にとっての祝福となりましょう。

あなたはどうでしょうか。あなたは牧師にとって祝福となっていますか。

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神様から委ねられた仕事に集中する

信じられないことですが、約25年前に私は日本へ引っ越しました。この25年間、神様が私を通して人々に触れられるのを見てきました。

しかし同時に、私はどれだけのことを成し遂げたのかを自問することもあります。神様は私にもっと期待されていたのでしょうか。正直なところ、私には分かりません。

自分自身を他の人とその働きと比べてしまい、落胆することは簡単です。なぜなら、彼らは私よりも神様のために多くのことを成し遂げているように見えるからです。

このことを考えると、私は謙遜な態度を持つべきだと思います。

だから、今日の箇所を読み、じっくりと味わううちに、さまざまなことを思い巡らせました。

そして、パウロはこう語りました。

だれかが、何者でもないのに、自分を何者かであるように思うなら、自分自身を欺いているのです。(ガラテヤ人への手紙6:3)

それを読むと、私たちは謙遜にならざるを得ません。なぜなら、私たち皆、何者でもないからです。何か特別な存在でありたいと願いますが、実際には取るに足りないしもべであり、ただなすべきことをするだけなのです。(ルカ 17:10)

もし私たちが何者かであると思うなら、自分自身を欺いているのです。だからこそ、私たちは自分自身にこう問いかけるべきです。「私は果たすべき役割を忠実に果たしているだろうか。」

そして、パウロはこう語ります。

それぞれ自分の行いを吟味しなさい。そうすれば、自分にだけは誇ることができても、ほかの人には誇ることができなくなるでしょう。

人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うことになるのです。(ガラテや人への手紙6:4-5)

私たち皆、神様のしもべであり、神様は私たち一人ひとりにそれぞれの役割を与えてくださいました。だから、私たちは自分自身を他の人と比べるのではなく、神様から委ねられた仕事に集中すべきです。

また、もし私たちが神様のために何かを成すことができるなら、それを誇るべきではありません。自分が偉いと思ったり、他の人よりも優れた者だと思ったりしてはなりません。

むしろ、私たちはイエス様に「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と言っていただけることを望むべきです。

だから、自分自身を他のクリスチャンと比べてしまいそうになるとき、ペテロに対するイエス様の言葉を思い出しましょう。

あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。(ヨハネ21:22)

あなたは何に心を向けていますか。

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ガラテヤ人への手紙

御霊の実が形作る人間関係

神様との関係について考えるとき、私たちは次のような質問をよくします。「私は毎日、聖書を読んでいるだろうか。毎日祈っているだろうか。毎週の日曜日に教会へ行っているだろうか。」

けれども、神様との関係や自分の霊的な健康を考えるとき、本当に重要な尺度は私たちの人間関係です。

今日の箇所では、その真理を見ることができます。割礼やモーセの律法の従順についての議論のせいで、ガラテヤの教会では多くの人間関係の問題が次々と起こったようです。つまり、嫉みや争い、憤り、党派心、分裂などが生じたのでした(ガラテヤ人への手紙5:20-21)。

そのため、パウロは彼らに警告しました。

気をつけなさい。互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしているなら、互いの間で滅ぼされてしまいます。(ガラテヤ人への手紙5:15)

そして、パウロは、人間関係の中で私たちが御霊の実を結ぶべきであると語ります。例えば、愛、寛容、親切、善意、誠実などです。(22-23)

前回の記事で、私たちはガラテヤ人へのパウロの訓戒を見ました。

「あなたたちは、古い生き方を十字架につけたのではないでしょうか。その生き方に戻ってはなりません。自分の罪深い心に従ってはいけません。むしろ、御霊によって歩みなさい。

もしあなたたちがうぬぼれて、互いに挑み合ったり、妬み合ったりすると、聖霊様の導きに従うことができません。」(24-26)

では、私たちは互いにどのように接するべきでしょうか。6章では、パウロは実用的な勧告を与えています。

兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。(6:1)

律法主義的なクリスチャンには、二つの問題がありがちです。それはプライドと他者を責めることです。プライドによって、私たちは「私は良い人だ」と主張します。そして、人を責めるとき、私たちは「おまえはだめだ」と言ってしまいます。

もしかすると、ガラテヤの教会で、罪に陥った人がいたとき、ほかのクリスチャンたちは狼の群れのようにその人を攻撃したかもしれません。

けれども、パウロは彼らに問いかけました。「あなたたちは本当に御霊の人でしょうか。御霊はあなたたちを本当に導いているでしょうか。あなたたちは御霊の実を結んでいるでしょうか。

御霊の実は、柔和、親切、寛容、愛です。そのような態度をもって、その人を扱うべきです。その人を滅ぼそうとしてはいけません。その人を正してあげなさい。」

その際には謙遜な態度を持ちなさい。あなたたちも弱い者であることを認めなさい。あなたが罪に陥る可能性もあることを認めなさい。だから、相手の罪だけに集中するのではなく、自分自身も罪に落ちないように気をつけなさい。

そして、パウロはこう語りました。

互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。(6:2)

パウロが意味したことは、あるクリスチャンが罪悪感の重荷を担っているときや、罪と戦っているときに、私たちがその人を支え、励ますべきだということです。

パウロの言葉を言い換えると、「あなたはキリストの律法を守りたいと思うでしょうか。罪と戦っている人を攻撃してはなりません。その人を励ましなさい。その人のために祈りなさい。」

もちろん、罪だけではなく、クリスチャンが他の問題を抱えているときにも、私たちはその人を支え、励ますべきです。

それこそが御霊に導かれる人です。その人は、ただ聖書を読み、祈るだけではありません。むしろ、その人の人間関係には、御霊の実が豊かに結ばれます。

私は自分がそのような人かどうか分かりません。それでも、そのような人になりたいと願っています。あなたはどうでしょうか。

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全く新しい生き方

前回の記事では、罪の豚小屋から自由にされた私たちが、再びその豚小屋に戻らないことについて話しました。

しかし、パウロはもう一度繰り返します。私たちは、自分の力で律法を守ろうとする態度によって、その豚小屋を避けることはできません。

むしろ、パウロはこう言います。

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。

肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。(ガラテヤ人への手紙5:16-17)

パウロはこうは言いませんでした。「自分の力で律法を守れば、肉の欲望を満たさないだろう。」

むしろ、パウロは「御霊によって歩みなさい」と言います。要するに、私たちは毎日、聖霊様の力と導きによって歩まなければなりません。

だから、私たちは毎日、聖書を読み祈った後、神様に「じゃあ、行ってきます。またね。」とは言いません。

むしろ、私たちはこう祈るべきです。「聖霊様、私とともに歩んでください。一日中、私があなたの御声を聞こえるように。私があなたの導きに従うように助けてください。」

そうすれば、私たちは罪深い心の欲望を満たしません。

なぜでしょうか。私たちの罪深い心が望むことは、聖霊様が望まれることと正反対だからです。私たちの古い態度や習慣は、聖霊様が私たちの人生に望まれることとは、まったく異なっています。だから今なお、私たちは罪と戦い続けます。

パウロはローマ人への手紙 7:14-25 で、その戦いについて語っています。

しかし、毎日毎日、一瞬一瞬、私たちは聖霊様の声を聞き、従うことを学ぶにつれて、もはや古い道を歩むことはなく、むしろ、聖霊様は私たちを全く異なる道へと導いてくださいます。

だから心に留めておきましょう。律法の下にある人生は、聖霊様によって生きる人生とはまったく異なるものです。パウロはこの真理をはっきりと伝えています。

御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。(18)

その二つの道は、どのように違うのでしょうか。

律法の下にある場合、私たちは自分の力で生きなければなりません。つまり、自分の力で律法に従わなければならないということです。

けれども、聖霊様によって生きる場合、私たちは聖霊様の力によって生きます。

また、律法の下にある場合、私たちは常に裁かれているように感じます。

一方で、聖霊様によって生きる場合、私たちは「アバ、父」と叫びます。

さらに、聖霊様によって生きる人生は、罪の支配下にある人生とはまったく異なります。

パウロは、さまざまな罪を列挙しましたが、その内容は恐ろしいものです。(19-21)

パウロによれば、そのような罪を犯し続ける者は神の国を相続できません。

その一方で、聖霊様が住んでおられる人は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制を持つ人です。(22-23)

ここで二つのことに注意してください。

一つ目は、その実があなたの人生において未成熟かもしれませんが、成長しているはずだということです。今のあなたの人生は、以前の人生と比べると、少なくとも少しは変化しているはずです。

二つ目は、パウロが「あなたの努力の実は、愛、喜び、平安などです。」とは言わないことです。むしろ、「御霊の実は、愛、喜び、平安などです。」と言います。

あなたが、まことのぶどうの木—つまりイエス様にとどまるなら、その実を結び始めるのです。(ヨハネ15章)

けれども、その関係を持っていなければ、その実を結ぶことはできないのです。

だからこそ、私たちは律法を守ることに集中すべきではありません。むしろ、イエス様と聖霊様とともに歩むことに集中すべきです。

そして、パウロはこう語ります。

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。(24)

真のクリスチャンたちは、神様に対する頑なで反抗的な心を十字架につけました。彼らは罪深い心に屈服しません。罪との戦いはあるかもしれませんが、その罪を抱くことはありません。

だからこそ、パウロは私たちに訓戒します。

私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。(25)

あなたは、神様が与えてくださった聖霊様によって永遠の命を受けました。

それでも今、あなたは自分の力でクリスチャン生活を送ろうとしていないでしょうか。

あるいは、あなたは毎日、神様について行き、御声を聞き、神様の力によってその導きに従っているでしょうか。

あなたは、どのように生きていますか。

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豚小屋に戻る?

この手紙の中で、パウロは、救いを得るためには神様の律法にも従わなければならないと考える人々に語っています。

もちろん、パウロは彼らの考えに同意できませんでしたが、彼らの懸念の一つには共感できました。それは、もし私たちがもはや律法の下にないのなら、好き勝手に生きても構わないのではないかという誤った考え方です。

あるガラテヤ人たちは、「もし私たちが律法の下にないのなら、自分のために生きてもいいだろう。恋人と寝てもいいし、娼婦と寝てもいいだろう。どんな罪を犯しても構わないだろう」と考えました。

そのため、パウロはこの考え方について語ります。

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。(ガラテヤ人への手紙5:13)

パウロは言いました。「あなたがたは自由を与えられるために召されました。」

では、神様は私たちを何から自由にされたのでしょうか。

まず、神様は私たちを律法から自由にしてくださいました。神様の子として受け入れられるために、私たちは律法に完全に従う義務を負う必要はありません。また、神様の子供として、私たちが失敗しても、神様の裁きから解放されています。

けれども、神様は私たちをもう一つのものからも自由にされました。それは、私たちを滅ぼす罪深い生活です。クリスチャンになる前、私たちは罪の豚小屋に暮らしていました。そして、自分の罪深い心に従って生きていました。

では、罪深い心とは何でしょうか。その心は神様に反抗し、自分のために生きようとします。けれども、その罪深い心に従った結果、私たちの人生はめちゃくちゃになりました。結婚や人間関係、健康など、すべてが崩れてしまいました。

それでも、私たちを自由にするために、キリストは死なれました。イエス様は私たちの心に手術を施してくださいました。イエス様は、私たちの石の心を取り除き、肉の心を与えてくださいました。(エゼキエル書 36:26)

要するに、イエス様は私たちの反抗的な心を取り除き、神様に従いたい心を与えてくださいました。そして、私たちがイエス様に従うにつれて、イエス様は私たちを滅ぼす罪から自由にしてくださいます。

それでも、私たちの中には罪の名残がまだ残っています。つまり、罪深い態度や習慣が消えずに残っているのです。私たちは生きる限り、それらと戦い続けなければなりません。

だからこそ、パウロはこの言うのです。「その古い態度や習慣に屈服してはいけません。あなたは豚小屋に暮らしていた時、惨めな人生を送ったでしょう。なぜまたその豚小屋に戻りたいと思うのですか。むしろ、愛をもって互いに仕え合いなさい。」

律法と罪からの自由の喜びを本当に知りたいと思いますか。愛をもって人に仕えましょう。神様の愛を楽しむにつれて、その愛を周りの人々に分かち合いましょう。私たちは神様から受けた祝福を周りの人々に分け与えるためにデザインされました。

そうすれば、真の喜びを知るでしょう。豚小屋に戻ることは、喜びにつながりません。

そして、パウロはこう言います。

律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。(14)

言い換えると、もしあなたが本当に律法に従っているかどうかを心配しているなら、愛をもって人々に仕えなさい。自分の自由をそのように用いるなら、自然と律法に従うことになります。

一方で、もし私たちが豚小屋に戻るなら、その結果はどうなるでしょうか。

気をつけなさい。互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしているなら、互いの間で滅ぼされてしまいます。(15)

あなたはどうですか。イエス様からの自由の喜びを知っているでしょうか。もしかすると、豚小屋に戻ってしまったのかもしれません。では、あなたはこれからどうするでしょうか。

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十字架の躓きを取り除こうとしている?

この前、私は言いましたが、多くの人々はクリスチャンのことを偏狭だと思っています。なぜなら、私たちはキリストの十字架の御業だけによって人が救われると信じているからです。パウロは、その真理を「十字架の躓き」と呼びました。

ユダヤ人のクリスチャンたちは、その十字架の躓きを捨てようとしていました。けれども、彼らの動機は、現代の人々の動機とは異なっていました。

ユダヤ人のクリスチャンたちは、ノンクリスチャンのユダヤ人たちの意見を気にしていました。

ノンクリスチャンのユダヤ人たちは、十字架のメッセージに反発しました。なぜなら、福音は信仰によってイエス様に来るすべての人々を歓迎するからです。クリスチャンたちは、割礼を受ける必要もなく、律法の細かい規定に従う必要もありませんでした。

ノンクリスチャンのユダヤ人たちは、二つの理由で反発しました。

一つ目は、彼らがモーセの律法を真剣に考えていたことです。その律法によって、彼らは神様の民と認められていました。

ところが、パウロによれば、神様の民になる方法は律法に従うことではなく、イエス様に対する信仰です。

だから、パウロはこう言いました。

ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。(ガラテヤ人への手紙3:28)

簡単に言うと、ユダヤ人たちが誇る神様の律法によって、人は神様の民にはなりません。むしろ、イエス様を通して神様に来る人は皆、神様の民と認められます。

けれども、ユダヤ人たちは自分のプライドを捨てたくなかったため、その真理を受け入れることができませんでした。

それが、彼らがイエス様の十字架に反発する二つ目の理由でした。彼らは、神様に選ばれた民であることを誇っていました。神様が彼らだけに律法を与えたので、彼らは自分たちがほかの国民よりも正しいと思っていました。

もちろん、その律法を完全に守ることはできませんでしたが、それでも彼らは誇りを持っていました。

このように、プライドは人とキリストを隔てる大きな壁です。彼らは自分の宗教を誇り、自分の義を誇ります。

そのため、クリスチャンたちが「あなたの宗教は足りません。あなたの義は足りません」と言うと、ノンクリスチャンは怒ります。

けれども、自分の宗教や義にしがみついている限り、彼らは神様に近づくことができません。むしろ、神様から離れてしまっています。

パウロは、「割礼が必要だ」と教えた人について、こう言いました。

しかし、あなたがたを動揺させる者は、だれであろうと、裁きを受けます。。。

あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと切除(つまり、去勢)してしまえばよいのです。(ガラテヤ人への手紙5:10,12)

以前、パウロは偽りの福音を宣べ伝える者は神様に呪われると語りました。(ガラテヤ人への手紙 1:8-9)

この箇所では、パウロは皮肉を用いて、同じことを繰り返しています。「もし、割礼を受けたいと思うなら、いっそ去勢された方がいいでしょう。」

ユダヤ人たちはパウロの言葉を聞いて驚いたことでしょう。なぜなら、モーセの律法によれば、去勢された者は主の集会に加わることが許されていなかったからです。(申命記 23:1)

しかし、それこそがパウロの意図でした。「あなたが割礼を受けるなら、主の集会に加わる資格を失います。あなたは真の神様の民ではありません。」

このように、イエス様の十字架を拒み、自分の宗教と義によって救いを得ようとする者は、神様とその民から離れています。

もしあなたが、クリスチャンのユダヤ人たちのように、他の人を喜ばせるために福音を薄めるなら、あなたも神様とその民から離れるかもしれません。

十字架は、多くの人々にとって躓きです。それでも、私たちは彼らを喜ばせようとしてはなりません。たとえ相手が怒ったとしても、私たちは福音を正しく伝えなければなりません。

だからこそ、自分自身に問いかけるべきです。「私は誰を喜ばせようとしているのか。神様か、それとも周りの人々か。」

パウロの言葉を心に留めておきましょう。

今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。

もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。(ガラテヤ人への手紙1:10)

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割り込まれた

私が大嫌いなことの一つは、運転中に突然私の車線に割り込む人がいることです。そのせいで、私は急ブレーキをかけざるを得なくなります。最悪の場合、すぐに別の車線へ移らなければなりません。

今日の箇所で、パウロはこのような例えを用いて語ります。

ガラテヤ人たちはクリスチャンのレースの中で、ゴールを目指し、恵みによって走っていました。

ところが、突然、ユダヤ人のクリスチャンたちが割り込み、ガラテヤ人たちがそのゴールに到達することを妨げました。さらに、ガラテヤ人たちは恵みの道から逸れ、律法の道を走り始めてしまったのです。

だから、パウロはガラテヤ人たちにこう語りました。

あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたの邪魔をして、真理に従わないようにさせたのですか。

そのような説得は、あなたがたを召された方から出たものではありません。(ガラテヤ人への手紙5:7-8)

要するに、「あなたたちはよく走っていたのに、なぜ恵みの道を逸れ、律法の道を走り始めたのですか?それはイエス様の導きではありません。イエス様は、あなたたちがイエス様への信仰によって恵みの道を走るように招かれたのです。」

そして、パウロはこう語りました。

わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませるのです。(9)

この箇所の伝統的な解説では、ガラテヤ人たちが注意しなければ、ユダヤ人クリスチャンたちの教えがすぐに教会に浸透してしまう危険性があるとされています。

けれども、もう一つの応用が考えられます。

もし私たちが「神様に受け入れていただくためには律法を守らなければならない」という教えの種を受け入れるならば、結局その考え方は私たちの思考や生き方を支配してしまいます。

その結果、私たちは「神様の愛に値しないにもかかわらず、神様に受け入れていただいている」という喜びを失ってしまうのです。

むしろ、私たちは律法を完全に守ることができないと気づき、落胆してしまいます。または、律法を守れていると思うことで、プライドを持ち始めてしまいます。

ガラテヤ人の問題は、『スター・ウォーズ』のヨーダの言葉を連想させます。 「もし暗い道を歩き始めると、その道はあなたの運命を支配します。その道はあなたを食い尽くしてしまいます。」

結局、ヨーダの言葉は完全に正しかったわけではありません。アナキン・スカイウォーカーは最終的にその道から脱出しました。しかし、その前に、彼は自らの人生をめちゃくちゃにしてしまいました。

だから、パウロはガラテヤ人たちに警告しました。 「割礼を受けるな。それを受ければ、律法に従う義務はそれだけでは終わりません。むしろ、あなたはすべての律法を守らなければならなくなるのです。

毎日毎日、一瞬一瞬、その律法を完全に守っているかどうかを気にしなければならなくなります。そして、その恐れがあなたの思いを支配し、神様があなたのために望まれた自由と喜びを失ってしまうのです。」

あなたは最終的にその道を抜け出せるかもしれません。しかし、その日が来るまで、あなたのクリスチャン生活は混乱してしまうでしょう。

さらに、律法主義の生き方によって、あなたは周りの人々を裁き始め、彼らの人生も混乱させてしまうかもしれません。

あなたはどうでしょうか。毎日、神様の恵みによって歩んでいるでしょうか。もしかすると、プライドによって歩んでいるかもしれません。または、神様の裁きを感じ、常に罪悪感を抱いているでしょうか。

ほかの人があなたの歩みを妨げることを許さないでください。

神様があなたをご自身の子供として受け入れてくださったことを覚えていてください。そのことを忘れずにいるならば、神様の計画のもとで、あなたは神様の子供として自由と喜びを知ることができるのです。

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恵みから落ちてしまう危険性

多くの人々はこの記事のタイトルを読んで、こう考えるかもしれません。「キリストから離れる?恵みから落ちてしまう?それは何と酷いことだろう。」

アメリカでは、ノン・クリスチャンであっても「恵みから落ちてしまう」という表現を使うことがあります。この言葉の意味は、ある尊敬されていた人が酷いことをしたために、その評判が失墜するということです。

しかし、この箇所でパウロが話しているのは、殺害や強姦、賄賂、その他の重大な犯罪についてではありません。

むしろ、パウロは律法主義について語っています。つまり、もし私たちが律法によって神様に義と認められようとするならば、私たちはキリストから離れ、恵みから落ちてしまうのです。

パウロは彼らに警告しました。

よく聞いてください。私パウロがあなたがたに言います。もしあなたがたが割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに、何の益ももたらさないことになります。

割礼を受けるすべての人に、もう一度はっきり言っておきます。そういう人には律法全体を行う義務があります。(ガラテヤ人への手紙5:2-3)

要するに、「律法主義の考え方を受け入れるならば、すべての律法を完全に守らなければ、あなたは神様に義と認められません。

割礼を受けるだけでは十分ではありません。旧約聖書に書かれているすべての律法に従わなければなりません。さらに、もしあなたが律法によって神様に義と認められようとするならば、キリストの死はあなたに何の益もないのです。」

ユダヤ人のクリスチャンたちが教えていたのは、「キリストの死を信じ、さらに努力して律法に従うならば、ガラテヤ人たちは義と認められる」という考え方でした。ところが、その考え方は間違っていました。

救いの道は二つしかありません。一つは、人が完全に律法を守ることです。もう一つは、イエス様を信じて、イエス様の義を受けることです。それ以外の方法は存在しません。

だから、パウロはガラテヤ人たちにこう語りました。

律法によって義と認められようとしているなら、あなたがたはキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。(4)

律法によって神様に義と認められようとするならば、あなたは実際にイエス様に背を向けているのです。あなたは基本的にイエス様にこう言っているのです。「あなたの十字架の働きは私には十分ではありません。」

その態度を取ることによって、あなたはイエス様の働きを否定することになってしまうでしょう。

モルモン教の教えによれば、あなたが努力して善を行えば、神様はあなたに恵みを与えてくださり、あなたは救われるとされています。

ところが、自分の行いによって救いを得ようとするならば、パウロの教えによれば、あなたは恵みを受けることができず、むしろ、恵みから落ちてしまうのです。

パウロは続けてこう言います。

私たちは、義とされる望みの実現を、信仰により、御霊によって待ち望んでいるのですから。(5)

私たちは今もなお罪を犯しています。それでもイエス様の十字架の働きによって義と認められています。

さらに、それだけではなく、私たちはより素晴らしい希望を持っています。それは、イエス様が再び来られる日、私たちは変えられ、真に義なる者となり、二度と罪を犯さなくなることです。

ローマ8:23で、パウロは「私たちは新しい体を受ける日を待ち望み、うめく」と語っています。なぜ、私たちはその日を待ち望むのでしょうか。

その理由の一つは、もう病気や死に向き合う必要がなくなるからです。

しかし、もう一つの理由は、罪との戦いを経験しなくなることです。その日、私たちは真に罪から自由にされます。

それこそが、私たちの義の希望です。そして、その希望を持っている人は罪に耽ることはありません。むしろ、自分を救ってくださった方を喜ばせたいと願うのです。それは、自らの救いを得るためではなく、すでに与えられた救いを喜ぶためです。

だから、パウロはこう語ります。

キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。(6)

あなたはどうでしょうか。まだ神様の好意を得ようとしているでしょうか。それが、神様を喜ばせるためのあなたの動機でしょうか。

あるいは、すでに神様に義と認められたことを知り、罪から完全に解放される日を楽しみにしているでしょうか。その希望があるゆえに、神様を愛し、喜ばせたいと願っているでしょうか。

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ガラテヤ人への手紙

約束の子供

この箇所で、パウロはアレゴリーを用いて、非常に重要なポイントを教えています。それは、律法への従順ではなく、神様の約束によって私たちが神様の子供となるということです。

この真理を説明するために、パウロはハガルとサラの物語に言及します。(この話は創世記16~21章に記されています。)

神様はアブラハムに息子を与えると約束されました。けれども、何年経っても子供が生まれなかったため、アブラハムとサラはその約束に疑念を抱くようになりました。そこで、サラはアブラハムに対し、自分の奴隷ハガルと寝て、その息子を相続人とするように勧めました。

現代の視点では衝撃的な提案ですが、当時の社会ではそれが一般的な習慣でした。

こうして、アブラハムはハガルと関係を持ち、イシュマエルが生まれました。しかし、イシュマエルは神様の約束と力によって生まれたのではなく、人間的な努力の結果として生まれたのです。

そのあと、サラも赤ちゃんを産みました。それがイサクでした。その時、サラはすでに90歳になっていたため、その出産はまさに奇跡でした。それは神様の御業でした。そして、神様はアブラハムに言われました。「イサクを通して、私はあなたを大いなる国民とします。」

そして、パウロは、ハガルとイシュマエルを、律法によって義と認められようとする人々の例として挙げました。彼らは、神様の約束と御業によって神様の祝福を受けようとは思いません。むしろ、自分の努力によって神様の祝福を得ようとします。

ところが、その考え方には大きな問題があります。奴隷の子供も奴隷です。

つまり、ハガルの子供、すなわち自分の努力によって義と認められようとする人は、結局、罪と死の律法の奴隷になってしまうのです。律法は人々を救うことはできません。律法ができるのは、ただ人の罪を指摘することだけです。(ガラテヤ人への手紙4:24~25)

その反面、恵みによって義と認められる人はイサクのようです。彼らは、神様の約束と御業によって、神様の子供と相続人になります。

そういうわけで、私たちは、もはや罪と死の奴隷ではありません。私たちは自由にされて、いと高きの神の子供になりました。(4:26-28)

それでも、人間の努力によって生まれたイシュマエルが、神様の約束によって生まれたイサクを迫害したように、一部のユダヤ人のクリスチャンたちはガラテヤ人のクリスチャンたちを迫害しました。

彼らはガラテヤ人たちを律法の奴隷としようとし、「そうしないと、あなたは本当のクリスチャンではない」と主張しました。(4:29)

そのため、パウロは厳しく語ります。

しかし、聖書は何と言っていますか。「女奴隷とその子どもを追い出してください。女奴隷の子どもは、決して自由の女の子どもとともに相続すべきではないのです。」(ガラテヤ人への手紙4:30)

つまり、「その偽教師たちを追い出しなさい。彼らは奴隷の子供であり、決して遺産を受け継ぐことはありません。彼らはあなたたちと何の関係もありません。彼らはあなたたちを退けようとしますが、実際には彼ら自身が退けられているのです。」ということです。

そして、パウロは改めて強調します。

こういうわけで、兄弟たち、私たちは女奴隷の子どもではなく、自由の女の子どもです。(4:31)

そして、パウロは彼らを戒めます。

キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。(ガラテヤ人への手紙5:1)

その真理を忘れないようにしましょう。イエス様は私たちを律法から解放してくださいました。その目的は、再び私たちを律法の束縛のもとに置くことではありません。むしろ、イエス様の目的は、私たちが永遠に律法から自由にされることです。

だから、神様の子供として、私たちは神様の愛に値するかどうかを心配する必要はなく、神様が私たちを受け入れてくださっているという確信を持つことができます。

あなたはどうでしょうか。神様の子供として、平和と喜びをもって生きているでしょうか。それとも、宗教のルールの重荷を担いながら、奴隷のように生きているでしょうか。

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ガラテヤ人への手紙

何に対して熱意を持っているのか?

今日の個所では、二種類の熱意を見ることができます。一つは良い結果をもたらし、もう一つは悪い結果をもたらします。

以前、ガラテヤ人たちはパウロに対して熱意を持っていました。パウロが宣べ伝えた福音によって彼らの心は喜びに満たされ、できる限りパウロを助けたいと願いました。(ガラテヤ人への手紙4:14-15)

また、パウロもガラテヤ人たちに対して深い熱意を持っていました。その熱心さは彼のすべての言葉に表れています。

特に、ガラテヤ人たちがユダヤ人のクリスチャンたちに惑わされたとき、パウロの悲しみが明確に現れています。彼はこう言いました。

私の子どもたち。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。

私は今、あなたがたと一緒にいて、口調を変えて話せたらと思います。あなたがたのことで私は途方に暮れているのです。(ガラテヤ人への手紙4:19-20)

パウロはガラテヤ人に対して強い熱意を持っていたため、彼らが彼を敵と見なしたとしても、率直に真理を語り続けました。

それは良い熱意です。

一方で、ユダヤ人のクリスチャンたちにも熱意がありました。パウロは彼らについてこう言いました。

あの人たちはあなたがたに対して熱心ですが、それは善意からではありません。彼らはあなたがたを私から引き離して、自分たちに熱心にならせようとしているのです。(17)

「彼らはあなたがたを私から引き離して」という翻訳では、「私から」という言葉が加えられています。けれども、ユダヤ人たちがガラテヤ人たちを何から引き離そうとしていたのかは、やや曖昧です。

私の意見では、新改訳2017の脚注にある別訳のほうがより正確であると思います。それは、

「彼らはあなたがたを福音の恵みから締め出そうとしています。」

ユダヤ人のクリスチャンたちは、ガラテヤ人たちにこう言いました。

「あなたたちは本当に私たちのグループに属していません。本当のクリスチャンではありません。もしキリストに受け入れられたいのなら、私たちの教えに従わなければなりません。」

そして、その教えによって、彼らはガラテヤ人たちを律法の束縛のもとに置き、彼らの喜びと祝福を奪ってしまいました。

要するに、彼らはガラテヤ人たちに対して熱意を持っていましたが、彼らの最善を求めていたわけではなかったのです。

そこで、パウロはガラテヤ人たちにこう語りました。

善意から熱心に慕われるのは、いつでも良いことです。それは、私があなたがたと一緒にいる時だけではありません。(18)

要するに、「熱意を持ちなさい。それは良いことです。あなたたちが私に対して熱意を持ち、喜びによって私を愛し、私の面倒を見てくれた時、その熱意は良いものでした。

私もあなたたちに対して熱意を持っています。私は、あなたたちのうちにキリストが形作られることを願います。あなたたちがますますキリストのようになることを望みます。

その一方、この人たちはあなたたちの最善を望んでいません。そして、彼らに対するあなたたちの熱意によって、あなたたちは自分の喜びと祝福を失ってしまいました。」

だから、私たちは自分自身に二つの問いを投げかけるべきだと思います。

私たちの周りには、熱意を持っているカリスマ的なリーダーたちがいるかもしれません。けれども、彼らは私たちをどこへ導いているのでしょうか。彼らの導きによって、私たちは神様に近づいているでしょうか。もしかしたら、彼らの教えによって、私たちの喜びと祝福が奪われてはいないでしょうか。

真理が痛みを伴うものであったとしても、彼らは私たちにその真理を教えているでしょうか。あるいは、彼らは私たちを誤った道へ導いているのでしょうか。

二つ目の問いは、「あなたは何に対して熱意を持っているでしょうか」ということです。

イエス様に対する熱心を持ち、イエス様をもっと知りたいと思うでしょうか。

キリストが周りの人々のうちに形作られるように祈っているでしょうか。あなたは、彼らが神様の喜びを知るように願っているでしょうか。

それとも、その熱意が知らず知らずのうちに、自分自身を誤った道へ導いているでしょうか。

かつて、熱心によってパウロは教会を迫害したことがありました。また、熱意によってガラテヤ人たちは律法の束縛のもとへ戻ってしまいました。

あなたの熱意は、あなたをどこへ導いているでしょうか。

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ガラテヤ人への手紙

私たちはどのように喜びと祝福を失うのか

この手紙から、私たちはパウロがガラテヤ人たちに対してどれほど困惑していたかを知ることができます。

パウロが初めてガラテヤに来たとき、彼は何かしらの肉体的な問題を抱えていました。そのため、彼はガラテヤ人たちに負担をかけましたが、それにもかかわらず、彼らは喜んでパウロを歓迎しました。

どうしてでしょうか。それは、パウロが宣べ伝えた福音が彼らを罪から解放し、新しい命を与えたからです。福音を聞いたとき、彼らは神様の喜びと祝福に満たされました。

こうした理由から、ガラテヤ人たちはパウロを心から気遣い、その愛が彼に溢れ出しました。彼らは、できる限りパウロを助けたいと願いました。パウロは彼らについてこう言いました。

私はあなたがたのために証ししますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出して私に与えようとさえしたのです。(ガラテヤ人への手紙4:15)

しかし、ユダヤ人のクリスチャンたちの影響によって、すべてが変わってしまいました。

彼らの喜びは失われ、パウロのことを疑い始めました。彼らは、パウロが福音を正しく教えたかどうかを疑いました。また、パウロが福音から重要な真理を削除したのではないかと考え、自分の救いさえも疑うようになりました。

そこで、パウロは彼らに問いかけました。

あなたがたの幸いは、今どこにあるのですか。。。私はあなたがたに真理を語ったために、あなたがたの敵になったのでしょうか。(15-16)

「幸い」という言葉は、「祝福」という意味もあります。つまり、ガラテヤ人たちは信仰によって受けた神様の尊い賜物を失ったのです。

どのようにしてその賜物を失ったのでしょうか。

彼らは古い宗教的な修行や儀式に戻りました。

救いを得るために、彼らは自分の行いと努力に頼ったため、彼らにとってイエス様の十字架の御業の価値は失われてしまいました。

気をつけなければ、私たちもガラテヤ人たちのようになってしまうかもしれません。もし私たちのクリスチャン生活がルールに基づくものになってしまえば、私たちは自分の喜びと祝福を失うでしょう。そして、神様の好意を得ようと努め始めるでしょう。

そして、最終的に二つの結果が生じます。

一つ目は、自分が成功していると思い、プライドを持つことです。

二つ目は、そのルールを完全に守れないと気付き、落ち込むことです。

しかし、成功したと思っても、失敗したと思っても、私たちは神様の喜びと祝福を失ってしまいます。

けれども、私たちの救いが恵みによるものであることを悟ると、私たちは謙遜と感謝の態度を持つようになります。

私たちは神様の恵みに値しないことを理解するので、謙遜になります。また、私たちは神様の裁きを受けるに値するはずなのに、神様が恵みと憐れみを私たちに注いでくださったことを知ります。

さらに、その恵みと憐れみによって、私たちは喜びと感謝に満たされます。したがって、私たちは神様の祝福を受けるだけでなく、その祝福は私たちを通して周りの人々へと流れていきます。

あなたはどうでしょうか。プライドに満ちたクリスチャン生活を送っているでしょうか。それとも、失敗と失望に満ちたクリスチャン生活を送っているでしょうか。もしかしたら、喜びと祝福に満ちたクリスチャン生活を送っているでしょうか。

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ガラテヤ人への手紙

無益な宗教に逆戻り

多くの人々は救いについて、なぜクリスチャンがそれほど排他的なのか疑問に思います。つまり、なぜクリスチャンは、イエス様以外には神様への道がないと主張するのでしょうか。

私は、ほかの宗教にも良い点があることを認めます。多くの宗教は悪に反対し、善行を促します。何が良いことであり、何が悪いことであるかについて、それぞれの宗教の教えは完全に一致するわけではありませんが、共通点は多くあります。

しかし、問題は宗教とその儀式が神様を描くという点にあります。ユダヤ教の場合、その描写は比較的正確です。なぜなら、神様ご自身がユダヤ人に対して、律法と儀式を通してご自身に関する描写や、キリストに関する描写を与えてくださったからです。

けれども、その他の宗教における神様の描写は、神様がどのような方であるかをほとんど分からなくするほどに、歪められています。そのため、その宗教の律法や儀式は、人々を神様へと近づけることができません。

ユダヤ教は他の宗教よりも優れていますが、それでもユダヤ教の律法と儀式は、イエス様と救いの現実そのものではなく、ただの描写にすぎません。

ユダヤ教の儀式、祭り、犠牲は、イエス様とその十字架の犠牲を描写していますが、それらは単なる象徴であり、現実ではありません。イエス様とその十字架の犠牲こそが現実なのです。

したがって、ユダヤ教の儀式、祭り、犠牲には、人を救う力がありません。そして、もし神様が定められた儀式や祭り、犠牲が人々を救うことができないのであれば、ましてや他の宗教のものが人を救うことはできないでしょう。

だから、パウロはこう言いました。

あなたがたは、かつて神を知らなかったとき、本来神ではない神々の奴隷でした。しかし、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうして弱くて貧弱な、もろもろの霊に逆戻りして、もう一度改めて奴隷になりたいと願うのですか。

あなたがたは、いろいろな日、月、季節、年を守っています。私は、あなたがたのために労したことが無駄になったのではないかと、あなたがたのことを心配しています。(ガラテや人への手紙4:9-11)

パウロは、かつての神々や修行について、ガラテヤ人たちに語ります。パウロは言いました。

「あなたたちが救われる前、本来神ではない神々の奴隷でした。救いをもたらすことのできない儀式や祭りを祝うように強制されていました。

けれども今や、あなたたちは知っているでしょう。あなたたちは神様を知っており、神様にも知られています。神様の子供として、神様と親しい関係を持っているのです。

それなら、どうして弱くて力のないものに戻ろうとしているのですか。あなたたちは、かつての神々や修行に戻っているわけではないかもしれません。けれども、今や自分の救いを得るために、ユダヤ教の儀式や修行に従い始めています。

ところが、かつての儀式や修行と同じく、ユダヤ教の儀式や修行にも力はまったくありません。

その儀式や修行は、神様を知るための初歩でした。その目的は、あなたが自分の罪と救い主の必要を理解することです。けれども、それ自体はあなたたちを救うことはできません。

むしろ、それを通してあなたたちが理解するのは、自分が律法を完全に守ることができないために、裁きに値するということです。それは惨めなことでしょう。そのことを知っているはずなのに、どうしてそのものに戻りたいのですか。」

そして、パウロは言いました。

「考えてみてください。私はあなたのようになったでしょう。私はあなたたちと共に食事をし、あなたたちの食べ物を食べて、ユダヤ教の習慣を破りました。

だから、あなたたちも私のようになってください。宗教のルールではなく、むしろキリストへの信仰によって生きてください。」

パウロは私たちにも同じことを言います。

私たちはキリストの象徴に従うのではなく、つまりユダヤ教の律法と儀式に従うのではなく、イエス様ご自身に従いましょう。なぜなら、それらには私たちを救う力がないからです。

むしろ、イエス様の十字架の働きを覚え、神様の子供として、神様との関係を喜びましょう。

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ガラテヤ人への手紙

養子の縁組の不思議さ

神様が私たちを養子とされることは、驚くべきことです。

神様は、私たちをペットとして受け入れることもできたでしょう。

神様は、私たちを人間として認め、単なる知り合いの関係を築くこともできたでしょう。

神様は、私たちをただのしもべや奴隷として受け入れることもできたでしょう。

神様は、私たちを友人としてさえ受け入れることもできたでしょう。

ところが、神様はそれ以上のことをしてくださいました。神様は私たちを養子とされたのです。その結果、私たちは神様の子供となりました。

パウロはこう言いました。

あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。(ガラテヤ人への手紙3:26-27)

パウロによれば、私たちは信仰によって神様の子供となりました。文字通りパウロが言ったのは、私たちが神様の息子たちになったということです。

もちろん、パウロは女性のクリスチャンたちが男性になったと言っているわけではありません。むしろ、パウロは非常に驚くべきことを伝えたいと考えていました。そして、ガラテヤ人たちはそれを聞いて、おそらく衝撃を受けたでしょう。

なぜでしょうか。

その時代、息子たちだけが遺産を受ける権利を持っていました。しかし、パウロによれば、今やすべてのクリスチャン—男性であれ女性であれ—が、その遺産を受ける権利を持っているのです。

さらに、パウロはこう言いました。

ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。(ガラテヤ人への手紙3:28)

それ以前、ユダヤ人たちは異邦人を部外者として扱っていました。さらに、彼らは女性を見下しました。もちろん、奴隷の立場は決して良いものではありませんでした。

ところが、パウロによれば、神様の目には、イエス様に属する者は皆、天の父にも属し、神様の子供とされたのです。私たちは皆、イエス様の義の衣を着せられ、私たちの身分はイエス様にあります。

ガラテヤ人たち(そして、私たちも?)がそのことを十分に理解できなかったかもしれません。そこで、パウロは私たちを当時の子供になぞらえました。

その時代、子供はある意味、奴隷のような立場でした。要するに、子供は相続人でありながら、まだその遺産を受け取っていませんでした。むしろ、父がその子供を公式に自分の相続人として認めるまで、その子供は後見人や管理人のもとに置かれていたのです。(ガラテヤ人への手紙4:1-2)

そのように、神様に養子とされる前、私たちは奴隷のようでした。私たちは天の遺産を受ける権利を持っておらず、律法が私たちの管理人でした。律法は私たちに、「こうしなさい。ああしなさい」と命じました。

その戒めによって、私たちは大体正しい道を歩んでいましたが、律法を完全に守ることができなかったため、神様の相続人として認められず、その権利をまったく持っていませんでした。(ガラテヤ人への手紙4:3)

しかし、神様が私たちを正式に養子とし、ご自身の相続人とされたとき、すべてが変わりました。

まず、神様はイエス様の十字架の働きを通して、私たちを贖われました。つまり、神様は私たちをご自身のものとして買い取られたのです。そして、私たちが神様を信じた瞬間、神様は私たちを正式に養子とされました。(ガラテヤ人への手紙4:4-5)

それだけではなく、神様は御子の御霊を私たちの心に遣わされました。その御霊は叫びます。「アバ、父よ。」

要するに、三位一体の神様は私たちとの新しい関係を祝われます。

私たちは愛されているペットではありません。私たちはただの知り合いではありません。私たちは単なるしもべや奴隷ではありません。私たちはただの友人ではありません。

むしろ、私たちは王の息子たち、娘たちです。

だから、パウロはこう言いました。

ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。(ガラテヤ人への手紙4:7)

あなたは、自分のことをどのように見なすでしょうか。どのように神様を見なすでしょうか。神様があなたの父であり、自分が神様の子供であることを理解できるでしょうか。神様はそのように私たちを認めておられます。だから、私たちもそのように考えるべきです。

自分を取るに足らない者として考えないでください。あなたには価値があります。あなたは王の子供です。

だから、そのように生きましょう。

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ガラテヤ人への手紙

律法とは何か、その役割とは(3)

前回の記事で私たちが確認したのは、律法が神様の作られたもう一つの救いの道ではないということです。むしろ、律法の目的は、私たちをキリストへ導くことです。パウロはこの真理をさらに具体的に説明します。

しかし、聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人たちに与えられるためでした。

信仰が現れる前、私たちは律法の下で、監視され、来るべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。(ガラテヤ人への手紙3:22-23)

パウロはローマ人への手紙第7章から第8章で、似たことを書きました。

その箇所でパウロが述べたのは、律法が現れる前、人々は罪が何であるかを理解していなかったということです。彼らは、自分の行いが神様を悲しませていることを知らず、幸せな人生を送っていました。

そして、神様は律法を示され、「あなたはこのように生きるべきです」と言われました。

けれども、人々はその律法を見たとき、「ああ、そうか。知らなかった。ごめんなさい。これから、あなたの道を歩みます」とは言いませんでした。むしろ、彼らの神様への態度はさらに反抗的になったのです。

悔い改める人もいましたが、神様を喜ばせたいと思っても、律法を完全に守ることはできませんでした。彼らはまだ罪深い心を持っていたため、律法を完全に守ることは不可能でした。言い換えると、彼らはまだ罪の奴隷だったのです。

それでも、キリストが来られるまで、律法はある程度、人の罪を抑制していました。だから、パウロは言いました。

信仰が現れる前、私たちは律法の下で、監視され、来るべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。(23)

要するに、律法は旧約聖書の信者たちの罪を完全に止めることはできませんでしたが、その罪をある程度抑制しました。だから、パウロはこう言いました。

こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認めらえるためです。(24)

パウロの時代、養育係は少年の人生、特にその道徳を監視しました。その少年がどこへ行っても、養育係も同行し、少年がトラブルに巻き込まれないように見張っていました。登校するとき、養育係はその少年を連れて行き、先生に預けました。

律法も旧約聖書の信者たちに対して同じ役割を果たしました。律法は彼らが罪に巻き込まれないように監視しました。(もっとも、彼らが罪に陥ることもありました。)

そして、律法は彼らを本当の先生、すなわちイエス様へと導きました。、律法はどのようにして彼らを導いたのでしょうか。

律法を通して、神様は救い主についての多くの描写を与えられました。例えば、全焼のいけにえ、過ぎ越しの祭り、贖罪の日などは、イエス様を指し示すものでした。

もちろん、それ自体は信者たちを救うことはできませんでした。けれども、その描写を通して、イエス様の時代に至るまで、モーセやほかのイスラエルの民は神様に従い続けました。

そして、イエス様が現れたとき、神様を愛する人々は、その描写を覚えていて、イエス様とその十字架の働きの意義を理解し(ヨハネ5:39、46)、イエス様を信じました。

もう一度言います。律法自体は彼らを救うことはできませんでした。しかし、律法によって、彼らはイエス様を信じるようになりました。

もちろん、旧約聖書の信者たちはイエス様を知りませんでした。そのため、神様のご計画を具体的に知ることはできませんでした。

それでも、彼らは、そのイエス様の描写を信じたので救われました。彼らは律法の従順によって救われたのではなく、その信仰によって救われたのです。

パウロはこの真理を次のようにまとめます。

しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。(25)

イエス様がすでに来られたので、その描写が明らかになり、私たちの信仰はもはや微かなものではありません。

モーセやほかの旧約聖書の信者たちとは異なり、私たちには、もはや微かな描写は必要ありません。キリストにあって、私たちは真実のものを持っているので、律法という養育係は不要です。

むしろ、私たちは救いのためにイエス様だけを信頼します。そして、イエス様が私たちに与えてくださった聖霊様を通して、私たちは自然に神様を喜ばせ始めます。

だから、さまざまな規則に従うことに焦点を当てるのではなく、感謝を持って十字架を仰ぎ、聖霊様の導きによって歩みましょう。それが真のクリスチャンの生活です。

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ガラテヤ人への手紙

律法とは何か、その役割とは(2)

前回の記事では、律法が何をしないのかについてお話ししました。つまり、律法は神様の約束に取って代わるものではないということです。

神様とアブラハムの契約は、神様の約束による一方的なものでした。その契約は、アブラハムやその子孫の行いに基づくものではありませんでした。したがって、律法がその契約に取って代わることはありません。

パウロはこの真理をさらに説明します。

(律法は)御使いたちを通して仲介者の手で定められたものです。仲介者は、当事者が一人であれば、いりません。しかし約束を与えになった神は唯一の方です。(ガラテヤ人への手紙3:19-20)

モーセが十戒を受けるためにシナイ山を登ったとき、イスラエルの民は神様の偉大さに圧倒され、恐れおののきました。そして、彼らはモーセにこう言いました。

あなたが私たちに語ってください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお語りになりませんように。さもないと、私たちは死んでしまいます。(出エジプト記20:19)

だから、モーセは神様に近づきましたが、イスラエルの民は神様から遠く離れて立っていました。(出エジプト記20:21)

イスラエルの民への神様の言葉は、モーセを通して語られました。神様はモーセに言われました。「イスラエルの民は、これとこれとこれをしなければならない。そうすれば彼らは生きる。けれども、そうしなければ、彼らは死ぬ。」

そして、モーセはその指示をイスラエルの民に伝えました。

でも、少し考えてみてください。なぜ神様は仲介者(つまりモーセ)を必要とされたのでしょうか。

それは、律法が双方向の契約だったからです。

神様には果たさなければならない義務があり、イスラエルの民にも果たさなければならない義務がありました。そして、イスラエルの民が自分の義務を果たさなければ、神様が約束された祝福は無効になってしまいました。

最終的に、それが起こりました。イスラエルの民が何度もその契約を破ったため、神様はその契約を無効にされました。その契約は非常に壊れやすいものでした。

ところが、パウロはこう言いました。「約束を与えになった神は唯一の方です。」

要するに、神様がアブラハムとその子孫と契約を結ばれたとき、義務を果たさなければならないのは神様だけでした。祝福を得るために、アブラハムは何もする必要がありませんでした。

だからこそ、アブラハムとの契約はイスラエルの民との契約とは全く異なっていました。アブラハムとの契約は無効にすることのできないものでした。なぜなら、その契約は私たちの行動ではなく、神様の行動によるものだったからです。

簡単に言えば、壊れやすい契約が、無効にすることのできない契約に取って代わることはできないのです。

それでは、律法とは何でしょうか。(19)

それは論理的な質問ですね。

パウロは答えます。

それは、約束を受けたこの子孫が来られるときまで、違反を示すために付け加えられたもので(す)。。。(19b)

要するに、キリストが来られるまで、律法は一時的に罪を対処する方法でした。モーセの時代からイエス様が来られるまで、何百年もの歳月が流れました。その間、神様は罪を正しく扱わなければなりませんでした。そこで、神様は律法を用いられました。

とはいえ、パウロは重要な質問を投げかけます。

それでは、律法は神の約束に反するのでしょうか。(21)

言い換えると、律法はもう一つの救いの道でしょうか。

答えは?

決してそんなことはありません。もし、いのちを与えることが出来る律法が与えられたのであれば、義は確かに律法によるものだったでしょう。(21b)

要するに、もし律法がもう一つの救いの道だとしたら、イエス様が来られる必要はなかったでしょう。なぜなら、私たちが律法に従えば、救われるからです。

しかし、律法を完全に守ることができる人はいないので、律法にはいのちを与える力がありません。むしろ、律法は私たちを罪から救うことができる方へ導くのです。

次の記事で、そのことをさらに説明します。

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ガラテヤ人への手紙

律法とは何か、その役割とは

多くの人々は十戒や旧約聖書の律法を見ると、こう考えます。「律法によって私は義と認められるだろう。永遠の命を望むなら、その律法に従うべきだろう。」

ところが、この考え方は、律法が何であるか、そして何ではないかについての誤解です。また、律法が何をするのか、何をしないのかについての誤解でもあります。

そこで、パウロは律法について具体的に説明します。

人間の契約でも、いったん結ばれたら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはしません。

約束は、アブラハムとその子孫に告げられました。神は、「子孫たちに」と言って多数を指すことなく、一人を指して「あなたの子孫に」と言っておられます。それはキリストのことです。

私の言おうとしていることは、こうです。先に神によって結ばれた契約を、その後四百三十年たってできた律法が無効にし、その約束を破棄することはありません。(ガラテヤ人への手紙3:15-17)

パウロによれば、契約がいったん結ばれると、それを簡単に無効にすることはできません。この箇所で、パウロが言う「契約」とは、おそらく遺言について語っているのでしょう。

人が遺言を書き、亡くなった後、その遺言を簡単に無効にすることはできません。なぜでしょうか。それは一方的な契約だからです。つまり、一人の人だけが契約の条件を定め、その人の約束に従って契約の条件が実行されるのです。

神様はアブラハムとそのような契約を結ばれました。この契約はアブラハムの行いに基づいているのではなく、むしろ神様の約束のみに基づいていました。

創世記第15章では、神様はアブラハムの子孫についてさまざまな約束をされました。そして、煙の立つかまどと燃えているたいまつとして現れ、アブラハムへの約束の証として、切り裂かれた動物の間を通り過ぎられました。

現代の私たちの文化では、それは非常に不思議なことのように思えますが、当時の文化では、人々はそのように契約を結んでいました。(その時代には印鑑などが存在していませんでした。)

通常、契約を結んだ二者が、切り裂かれた動物の間を通り過ぎました。その意味は、「もし私がこの契約を守らなければ、この動物のように殺されることになる」というものでした。

ところが、神様とアブラハムの契約では、アブラハムはその切り裂かれた動物の間を通り過ぎませんでした。神様だけが通り過ぎられました。それは一方的な契約でした。

そして、パウロによれば、その契約はアブラハムだけのためではありませんでした。その契約はアブラハムの子孫、つまりイエス様のためだったのです。

創世記第12章7節、第13章6節、第15章18節におけるアブラハムへの神様の約束に関するパウロの解釈は、とても興味深いものです。

「子孫」という言葉は、一人の子孫を指す場合もあれば、多くの子孫を指す場合もあります。創世記では、神様は主にアブラハムの多くの子孫について語られました。

ところが、パウロによれば、もちろんその契約の祝福はアブラハムの真の子孫すべてのためでしたが、特にイエス様のためのものでした。そして、イエス様を通して、アブラハムのほかの子孫は祝福を受けるのです。

また、パウロは一つの重要なことをはっきりと教えています。律法は神様の約束の条件を変えるものではありません。その約束はアブラハムの行いに基づくものではありませんでした。だからこそ、神様の約束は私たちの律法を守る能力に基づくものでもないのです。

なぜでしょうか。パウロはこれについて説明します。

相続がもし律法によるなら、もはやそれは約束によるのではありません。しかし、神は約束を通して、アブラハムに相続の恵みを下さったのです。(18)

要するに、もし神様の祝福が律法の遵守によるものであるなら、その祝福はもはや神様の約束による一方的な契約に基づくものではなくなります。むしろ、その祝福は律法の遵守に依存することになります。

ところが、神様が祝福の約束を与えた時、その約束には条件がありませんでした。神様の契約は、恵みによる一方的なものです。

その契約が一方的なものであるため、神様はそれを簡単に無効にすることはできません。神様はご自身の約束を必ず守られます。なぜなら、それが神様の御性質だからです。神様はご自身が約束されたことを必ず成し遂げられます。

だから、覚えておきましょう。律法は神様の約束に取って代わるものではありません。アブラハムとその子孫に神様が約束された祝福は、神様の律法の遵守に基づいているのではありません。

では、律法の目的とは何でしょうか。次の記事で、そのことについてお話しします。

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ガラテヤ人への手紙

アブラハムの真の子孫

パウロがこの箇所を書いたとき、ヨハネの福音書第8章におけるイエス様とユダヤ人たちの議論を思い浮かべていたでしょうか。私には分かりませんが、パウロは同じテーマについて語っています。つまり、アブラハムの真の子孫とは誰かということです。

ユダヤ人たちは自分たちこそアブラハムの真の子孫であると考えていました。なぜなら、アブラハムは実際に彼らの先祖であり、彼らは神様がモーセに与えてくださった律法を持ち、それに従おうとしていたからです。

そこでイエス様は彼らにこう言われました。「もしあなたが私の教えを信じ、それに従うなら、あなたは真理を知り、真理はあなたを自由にする。」すると、彼らは驚いて答えました。

彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。どうして、「あなたがたは自由になる」と言われるのですか。」(ヨハネの福音書8:33)

そして、イエス様とユダヤ人たちは、アブラハムの真の子孫について長い間議論しました。

イエス様は彼らに言われました。「あなたがたはまだ罪を犯しています。アブラハムの子供であるからすでに自由だと主張していますが、実際にはまだ罪の奴隷です。

私は、あなたがたを罪から解放する者です。私があなたがたを自由にしたなら、あなたがたは本当に神様の子どもとなるのです。」(ヨハネ8:34-36)

ところが、ユダヤ人たちはそれを聞いてもなお、自分たちこそアブラハムの子孫であると主張し続けました。そこでイエス様は彼らにこう言われました。

あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行うはずです。

ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに語った者であるわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことをしませんでした。(ヨハネ8:39-40)

要するに、アブラハムは神様の言葉を聞いたとき、すぐにその言葉を信じました。信仰によってその言葉を受け入れたため、彼は救われました。その結果、彼は神様の子供と呼ばれるようになりました。

その一方、ユダヤ人たちはイエス様を拒絶し、その言葉を信じなかったため、自分たちこそアブラハムの真の子孫ではないことを証明してしまいました。

今日の箇所で、パウロはこのことを教えています。彼はこう言いました。

「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあるとおりです。ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。

聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して、「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」と、前もって福音を告げました。

ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです。(ガラテヤ人への手紙3:6-9)

パウロによれば、アブラハムが神様に義と認められたのは、律法に従ったからではありません。なぜなら、その当時、律法はまだ存在していなかったからです。それに、アブラハム自身も罪を犯したことがありました。

それでも、最終的にアブラハムは神様とその約束を信じたため、神様に義と認められました。

アブラハムの真の子孫は、彼と同じように生きます。私たちは失敗するときもありますし、罪を犯すこともあります。

私たちは、神様の律法を完全に守ることで義と認められるのではありません。むしろ、イエス様を信じることによって、神様に義と認められるのです。

実際のところ、もし私たちが自分の正しい行いによって義と認められようと努めるなら、パウロによれば、私たちはかえって呪われてしまいます。

律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。

「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」と書いてあるからです。(10)

しかし、良い知らせは、イエス様が私たちの代わりに呪われたということです。パウロはこのことを説明します。

キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。

「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。(13)

十字架で死なれたとき、イエス様は律法の呪いをすべて受け、私たちに対する神様の怒りを担われました。そして、パウロによれば、イエス様は私たちを贖い出してくださいました。言い換えると、イエス様は罪の奴隷である私たちをサタンの国から買い取って、解放してくださいました。

だから、私たちもアブラハムが受けた救いの祝福を受けることができます。私たちがしなければならないのは、ただ神様の約束を信じることです。

パウロは自らの議論をこのようにまとめています。

律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。(11)

あなたはどうでしょうか。あなたはアブラハムの真の子孫でしょうか。イエス様を信じていますか。それとも、自分の良い行いによって神様に義と認められようと努力しているでしょうか。

神様を信じず、自分の資格によって義と認められようとする者は、誰も救われません。

あなたの救いは何に基づいているでしょうか。自分の努力に頼っていますか。それとも、神様に頼っていますか。

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ガラテヤ人への手紙

信仰によって歩み続ける

クリスチャンになった後、「良いクリスチャン」になるためにキリスト教のルールに従わなければならないと思う人は少なくありません。

なぜなら、私たちの社会では、学校のクラブ、会社、家族など、どこでも従うべきルールや果たすべき義務があるからです。

そのため、クリスチャンになると、多くの人はこう考えます。

「ルールは何だろうか。クリスチャンとして、私は何をしなければならないのか。毎日、聖書を読まなければいけないのか。毎日、何分(何時間?)ぐらい祈らなければならないのか。教会で、どのように仕えるべきなのか。」

そして、そのルールに従わないと、罪悪感を抱き始めます。自分が「悪いクリスチャン」だと思うからです。

さらに、周囲のクリスチャンたちは、新しく信仰を持った人にさまざまなルールを教え始めます。

「本当のクリスチャンはお酒を飲みません。本当のクリスチャンは決して教会を休みません。本当のクリスチャンは什一献金をささげなければなりません。」

ガラテヤの教会では、このような問題が発生しました。ユダヤ人クリスチャンたちは、ガラテヤのクリスチャンたちにこう言いました。

「もちろん、クリスチャンになるための最初のステップはイエス様を信じることです。しかし、その後、割礼を受けなければなりません。また、豚肉やその他の『汚れた食べ物』を食べてはいけません。安息日を正しく守ることも忘れてはいけません。」

彼らがまるで権威を持っているかのように話したため、ガラテヤ人たちは彼らを信じました。その結果、パウロは困惑し、叫びました。

ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。(ガラテヤ人への手紙3:1)

そして、パウロは彼らに尋ねました。

これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。(2)

また、

あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で力あるわざを行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも信仰をもって聞いたから、そうなさるのでしょうか。(5)

その明らかな答えは、ガラテヤ人たちが聖霊様の賜物や神様からのその他の祝福を、神様の律法への従順によってではなく、むしろ彼らが聞いた福音を信じることによって受けたということです。

だから、パウロは彼らに尋ねました。

あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。(3)

要するに、私たちのクリスチャン生活は信仰によって始まり、それが単なるルールの遵守に変わるわけではありません。むしろ、私たちは毎日、信仰によって生き続けます。また、私たちのクリスチャン生活は恵みによって始まり、恵みによって続くものです。

私たちのクリスチャン生活は、単に神様のルールに従うことではありません。私たちの焦点は神様のルールの遵守ではないのです。

むしろ、私たちは毎日イエス様に目を向けなければなりません。私たちは毎日イエス様と共に歩み、その声を聞き、イエス様を信じ、イエス様が語られることに従います。

そして、私たちがイエス様を信じ、信仰によって踏み出すと、イエス様はご自身の言葉に従う力を私たちに与えてくださいます。それがクリスチャンの生活です。もう一度、私は言います。クリスチャンの生活は単なるルールの遵守ではありません。

あなたはどのようにクリスチャンの生活を送っているでしょうか。あなたの焦点は、努力してさまざまなルールを守ることですか。

そのような生活を送ろうとするなら、結局罪悪感に陥ることになります。なぜなら、それらのルールを完全に守ることができないからです。

だからこそ、イエス様に焦点を向けましょう。イエス様に近づくこと、イエス様の声を聞くこと、イエス様の導きに従うことを学びましょう。それが信仰によって生きる人生です。それこそがクリスチャンの生活です。

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ガラテヤ人への手紙

自力による救いを説く福音の問題点

この箇所では、パウロは福音をユダヤ人クリスチャンたちの攻撃から守ろうとしていました。彼らが主張するのは、パウロが宣べ伝える恵みの福音は罪に導くものだということです。

しかし、パウロは自分が伝えた福音を擁護するだけでなく、相手の福音の問題点を指摘しました。彼はこう言いました。

私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。(ガラテヤ人への手紙2:21)

簡単に言えば、もし私たちが神様に義と認められるために律法を守らなければならないとしたら、イエス様はなぜ死なれなければならなかったのでしょうか。神様は古い体制を続けて、イエス様が死ぬ必要はなかったはずです。

けれども、その必要がなかったとしたら、なぜ神様はイエス様が殴られ、鞭で打たれ、十字架につけられることを許されたのでしょうか。イエス様がその苦しみを受けられたにもかかわらず、なぜ神様はもう一度私たちを律法の下に置かれるのでしょうか。それは理にかなわない話です。

それでも、今もなお多くの人々がそのように考えています。特に、カルトの人々はこう言います。「もちろん、イエス様はあなたの罪のために死なれたが、彼はあなたの罪の代価を完全に支払うことができませんでした。だから、あなたは自分の救いのためにまだ働かなければなりません。」

しかし、パウロはその考え方に反論します。「その考え方は愚かです。自分の努力によって救いを得ることはできません。もしあなたがそうできるのなら、神様はイエス様を十字架に送られることはなかったでしょう。」

この議論を通して、パウロは「イエス様が神様への多くの道の一つである」という考え方に反論します。

もし仏教やヒンズー教、その他の宗教によって人が神様に義と認められるのなら、神様はその道を用いられたはずなのです。

もし他の道があったのなら、なぜ神様はイエス様が十字架で苦しまれることを許されたのでしょうか。それは意味をなさないのです。

だから、天国への別の道があるという考え方を捨てましょう。また、私たちが自分の努力によって救いを得られるという考え方も捨てましょう。

他に道がなかったからこそ、イエス様は十字架で死なれました。他の道があると主張し、イエス様の十字架を軽んじることがないようにしましょう。

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ガラテヤ人への手紙

神様に義と認められるために

前回の記事で、私たちは、あるユダヤ人のクリスチャンたちが、パウロの福音によってキリストが罪に仕える者になってしまうと主張したことを見ました。

そのため、パウロやほかのクリスチャンが罪に陥るのを見たとき、彼らはすぐに言いました。「ほら、それが恵みの福音の結果です。あなたは世の罪人のようになりました。」

しかし、パウロが語ったのは、たとえ律法を再び立て、人々が救われるために律法に従うべきだと宣べ伝えたとしても、人々はなお罪に陥るということです。

言い換えれば、律法は罪のない人を生み出したことが一度もないのです。律法ができることは、ただ人々の罪を指摘し、私たちが救い主を必要としていることを示すことだけなのです。

では、私たちが律法によって義と認められないのなら、どのようにして義と認められるのでしょうか。パウロは私たちにその答えを教えます。

しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。(ガラテヤ人への手紙2:19-20)

パウロが意味したことは何でしょうか。「律法によって律法に死にました」とは、どういう意味でしょうか。さらに、その概念はなぜそれほど重要なのでしょうか。

ローマ書7章では、パウロは、人が生きている限り律法の管轄下にあることを教えています。(ローマ書7:1)

例えば、私が生きている限り、税金を払わなければなりません。私は税法の管轄下にあります。けれども、私が死んだ瞬間、その管轄下から外れます。

もちろん、政府は私の妻に対して、私が支払わなければならなかった税金を求めるかもしれません。けれども、政府が私の死体から税金を徴収することはできません。私は税法に対して死んだのです。その法律は、もはや私に対して何の力も持っていません。

そして、ローマ書7:4では、パウロは、私たちがキリストのからだを通して律法に対して死んでいることを教えています。これはガラテヤ書2:20に対応します。すなわち、「私はキリストとともに十字架につけられました。」ということです。

とはいえ、それはどういう意味なのでしょうか。

私たち皆が罪を犯したため、律法は私たちの死を要求しました。

けれども、イエス様がこの世に来られたとき、律法の管轄下にある人として来られました。そして、イエス様はその律法を完全に守られました。

それにもかかわらず、イエス様は十字架で死に、私たちの罰を受けられました。イエス様が死なれたとき、神様は私たちの罪をすべてイエス様に置かれました。(イザヤ53:5-6;第二コリント5:21)

神様はイエス様をご覧になるとき、イエス様だけではなく、私たち皆をご覧になりました。

例えば、イエス様が死なれたとき、神様はイエス様をご覧になり、こう言われました。「それはブルースです。彼は今や死にました。律法は彼を自分の罪のために処刑しました。」

また、イエス様をご覧になるとき、神様は言われました。「それは聡子です。彼女は今や死にました。律法は彼女を自分の罪のために処刑しました。」

「私はキリストとともに十字架につけられました。」とは、このことを意味しています。

では、キリストとともに死んだとき、何が起こったのでしょうか。律法の私たちに対する力はなくなりました。私たちはその律法に対して死んだのです。

だから、「律法を守らなければ、神様は私を罰する」と心配する必要はありません。私たちは自分の力で必死に律法を守ろうと努める必要がないのです。何度失敗しても、裁かれることを心配する必要はありません。

むしろ、私たちはキリストがご自身の人生を私たちを通して生きてくださることを見始めます。毎日、イエス様が私たちを導いてくださることを体験します。聖霊様を通して、イエス様はどの道を歩むべきかを教え、その道を歩む力を与えてくださいます。

だから、クリスチャンの生活は、自分自身を変えようとすることではありません。

むしろ、クリスチャンの生活は、毎日イエス様の声を聞き、信頼することを学ぶことなのです。そうすればするほど、私たちは神様を喜ばせる人生を歩むようになります。そして、自然に律法に従い始めるのです。

あなたはどうでしょうか。たくさんのルールを守り、神様に義と認められるように努力しているでしょうか。自分の失敗に落胆しているでしょうか。

もしかしたら、あなたのために命をささげられたイエス様の愛を知っているでしょうか。神様の御前でリラックスし、その関係を楽しみながら、毎日どのように神様と歩むかを学んでいるでしょうか。神様との愛の関係、また信頼関係を持っているでしょうか。

それこそがクリスチャンの生活です。

それは、あなたの生活でしょうか。

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罪に仕える者なのか

ある人たち、特にカルトに属する人々がしばしば主張するのは、クリスチャンが律法の従順による福音ではなく、恵みによる福音を伝えるため、結果的にクリスチャンがあえて罪を犯すように促されるということです。

彼らの議論は次のようなものです。「律法の従順ではなく、恵みだけによって救われるとしたら、なぜ律法に従う必要があるのか。嘘をついたり、姦淫したり、ポルノを見たりしても、まだ救われるのではないか。もし恵みだけによって救われるのなら、罪を避ける理由は何なのか。」

実際に、この点について疑問を持つクリスチャンもいます。

もし、律法やルールによって救われるのではないのなら、どのように生きても構わないのではないか。むしろ、クリスチャンとしての生活を送りたいのであれば、ルールに従うべきではないか。もしルールに従わなければ、この世の人々と同じようになってしまうのではないか。

あるユダヤ人のクリスチャンたちは、パウロやガラテヤのクリスチャンたちにこう言いました。「もし律法を捨てるなら、あなたたちは不信者のようになってしまうでしょう。」

そして、彼らはパウロやガラテヤのクリスチャンたちがモーセの律法に違反したり、罪を犯したりする様子を見ると、こう言いました。

「ほら、私たちが言った通りでしょう。あなたたちは不信者のように振る舞っている。あなたたちが教えている恵みの福音によって、あなたたちはキリストを罪に仕える者にしてしまっている。」

けれども、パウロはペテロと他のユダヤ人のクリスチャンたちにこう言いました。

私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、「異邦人のような罪人」ではありません。

しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。

律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。(ガラテヤ人への手紙2:15-16)

要するに、「ペテロ、私たちは異邦人ではなく、ユダヤ人です。それでも、モーセの律法によって、人々が神様に義と認められることはできないことを認めるでしょう。律法に従うことによって、義と認められる人は誰もいません。」

どうしてでしょうか。それは、律法に完全に従う人が誰もいないからです。もし律法によって義と認められたいなら、律法に完全に従わなければならないのです。

そこで、パウロはペテロに言いました。「異邦人だけではなく、私たちも義と認められたいと思うなら、イエス様とその十字架の働きを信じなくてはならないのです。」(16)

そして、パウロはユダヤ人のクリスチャンたちの異議について話しました。

しかし、もし、私たちがキリストにあって義と認められようとすることで、私たち自身も「罪人」であることになるのなら、キリストは罪に仕える者なのですか。(17a)

要するに、ある人々はクリスチャンたちを指して、こう言いました。「あなたたちはイエス様に属していると主張しているが、まだ罪を犯しているではないか。あなたの福音は罪を促すものであり、あなたのキリストは罪に仕える者なのではないか。」

ところが、パウロは答えました。

決してそんなことはありません。(17b)

そしてパウロは説明します。

もし自分が打ち壊したものを再び建てるなら、私は自分が違反者であると証明することになるのです。(18)

パウロが意味したことは何でしょうか。おそらく、パウロは次のように意味しているのです。

「仮に、あなたの望み通りに私が律法を再び建て、異邦人たちに『あなたたちはクリスチャンになるためにモーセの律法に従わなくてはならない』と言ったとしたら、彼らは罪を犯さなくなるでしょうか。律法に従おうとしているあなたたちは、もう罪を犯さなくなるのでしょうか。

いいえ、あなたたちは律法に従おうとしても、なお罪を犯すでしょう。

では、律法を再び建てると、その結果はどうなるでしょうか。私たちは罪を犯さなくなるわけではありません。むしろ、私たちはもう一度悟るのです。『私たちは罪人なので、救い主が必要です。』」

では、この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。神様の律法の従順によって義と認められるという概念を捨てなければなりません。なぜなら、律法によって私たちは義と認められないからです。律法ができることは、ただ私たちの罪を指摘することだけなのです。

だから、神様に義と認められたいなら、唯一の方法しかありません。それは、イエス様を信じることです。次のブログで、そのことについてさらに詳しく話します。

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福音のために戦う

今日の箇所では、私たちは福音のために戦ったパウロの姿を見ます。

最初に、パウロはエルサレムへ行きました。それは、他の使徒たちと同じ福音を伝えているかどうかを確認したいと思ったからです。つまり、人は律法の従順によってではなく、恵みによって救われるのです。

そのとき、一部のユダヤ人クリスチャンが、「もしパウロの弟子であるテトスが本当にクリスチャンであるなら、割礼を受けなければならない」と主張しました。

けれども、パウロはこのことについてこう語りました。

私たちは、一時も彼らに譲歩したり屈服することはありませんでした。(ガラテヤ人への手紙2:5)

他の使徒たちはパウロを支持し、彼が異邦人に恵みの福音を伝えるよう促しました。(ガラテヤ 2:7-9)

しかしその後、パウロはこの問題についてペテロに対して立ち上がらなければなりませんでした。

以前、ペテロはコルネリウスとの経験を通じて、異邦人をクリスチャンとして受け入れていました。(使徒の働き10-11章)

さらに、ユダヤ人の律法に反してでも、ペテロは異邦人と共に食事をし、彼らの食べ物を口にするようになっていました。

ところが、エルサレムの教会から来たユダヤ人クリスチャンたちがペテロの行動を疑いの目で見たとき、ペテロは異邦人から少し距離を置き、ユダヤ人だけと食事をするようになりました。そして、他のユダヤ人クリスチャンたちもペテロの行動に倣ったため、偽りの福音によって、その教会は分裂の危機に陥りました。

こうして、パウロは福音のためにもう一度戦いました。

「ペテロ、いったい何をしているのか。あなたはユダヤ人なのに、これまで異邦人と会話し、彼らのように食事をしてきたではないか。それは、律法の従順ではなく、キリストへの信仰によって人が救われることを知ったからだろう。

あなたも、それを理解しているはずだ。律法を完全に守ることができる者は誰もおらず、律法によって救われる者もいない。それを知っていながら、なぜこのような行動をとるのか。」(ガラテヤ 2:14-16)

パウロがこれほどまでに熱心に福音のために戦いましたのは、その福音によって彼が救われたからです。この福音は、パウロやほかの誰かによるものではなく、神によって与えられたものでありました。彼が死へと向かう道を進んでいたとき、福音が彼を引き止め、命の道へと導きましたのです。

けれども、パウロは福音を受けるに値する者ではありませんでした。彼が律法を完全に守り、救いに値したから神が彼に福音を示したのではありません。それどころか、彼は教会を迫害し、多くのクリスチャンを殺しましたのです。

しかし実際には、パウロが生まれる前に、神様は恵みによって彼を召されました。その恵みによって、神様は喜んでパウロにイエス・キリストのことを示されました。さらに、神様はパウロを召し、彼がその恵みの福音を異邦人に伝えるようにされました。(ガラテヤ 1:11-16)

このように、人々がパウロを救った福音を攻撃したとき、パウロは戦いました。

私たちも同じようにすべきです。

福音によって、私たちは命を受けました。私たちが生まれる前に、神様はご自身の目的のために私たちを選び、召されました。神様は私たちの善さゆえに召されたのではありません。神様は私たちの資格ゆえに召されたのでもありません。むしろ、恵みによって、神様は私たちを召されました。

だからこそ、神様は私たちが周りの人々にその福音を伝えるように召されています。そして、福音が攻撃されるとき、私たちはその福音を擁護しなければなりません。

あなたは福音に対して、どれほどの情熱を持っているでしょうか。

あなたはどれほど素晴らしい賜物を与えられたかを理解しているでしょうか。あなたに注がれた恵みを理解しているでしょうか。

その恵みを理解するなら、福音のために戦いましょう。その福音を擁護しましょう。

とはいえ、福音を攻撃する人々は私たちの敵ではないことを忘れないでください。むしろ、彼らもまた、私たちを救った福音を知る必要があることを覚えておきましょう。

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ガラテヤ人への手紙

人を喜ばせる福音?

クリスチャンが認めるべきことの一つは、福音が多くの人にとって簡単に受け入れるものではないということです。残念なことに、そのため、人々が福音を受け入れやすくするために、クリスチャンはときどき福音のメッセージを薄めたり、遠回しに伝えたりすることがあります。

「イエス様は、ご自身が神様への唯一の道であると宣言されました。でも、少し誇張した表現だったのかもしれません。もしかすると、イエス様を信じていなくても、神様に受け入れられる敬虔な人々がいるのかもしれません。」

「神様の御心は、私たちがこの世で決して苦しまず、繁栄し、健康的な生活を送ることです。」

「聖書には、その行為は罪であると記されていますが、それは昔の律法によるものです。今の私たちはその律法の下にあるわけではありません。大切なのは、人をそのままの姿で受け入れることです。」

もちろん、私たちは恵みによって救われています。とはいえ、だからといって、悔い改めずに罪を犯し続けながらクリスチャンであると主張することはできません。

ガラテヤの人々の場合、恵みは薄められていました。一部のユダヤ人クリスチャンの考えでは、ガラテヤの人々は恵みだけによって救われるわけではありませんでした。むしろ、彼らは割礼を受ける必要があり、特定の食べ物を避けなければならず、その他の儀式的な律法にも従わなければなりませんでした。

では、なぜ彼らは福音を薄めたのでしょうか。おそらく、彼らはノンクリスチャンのユダヤ人がクリスチャンについてどう思うかを気にしていたからでしょう。

つまり、もしクリスチャンが恵みだけによる救いを宣べ伝えれば、ユダヤ人クリスチャンは「良いユダヤ人」とは見なされなくなるかもしれません。その結果、ユダヤ人の家族や友人に拒絶される可能性がありました。

こうした理由から、彼らはユダヤ人にとって受け入れやすい福音を採用したのです。

今もなお、同じようなことをするクリスチャンがいます。周囲の人々に福音をより受け入れやすくするために、福音のメッセージを薄めてしまうのです。

けれども、パウロはこう言いました。

今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。(ガラテヤ人への手紙1:10)

要するに、「福音を宣べ伝えるとき、私は周囲の人々が福音に同意するかどうかを気にしません。彼らを喜ばせたいとは思いません。むしろ、私は神様を喜ばせたいのです。」

だからこそ、パウロは戦い、福音の単純さと純粋さを守ろうとしました。そのため、ペテロが福音を曖昧にしたとき、パウロは彼に対して異議を唱えました。(ガラテヤ書2:11-14)

あなたはどうでしょうか。福音を薄めてはいないでしょうか。それとも、福音を正直に伝えているでしょうか。

私たちが周囲の人々の意見を気にし続ける限り、神様を喜ばせることはできません。そして、薄められた福音を伝えるならば、私たちは神様を喜ばせることができないのです。

あなたはどんな福音を宣べ伝えているでしょうか。

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ガラテヤ人への手紙

神様から離れる?

多くの人々は、キリスト教を厳しい規則の多い宗教と見なしています。そのため、彼らは神様に受け入れられるためには、その規則を守らなければならないと考えています。

実際、多くのクリスチャンもそのように考えがちです。しかし、聖書は本当にそのようなことを教えているのでしょうか。

この手紙の中で、パウロは困難に直面している教会に向けて書きました。その教会は、ガラテヤという都市にありました。(現代のトルコに位置しています。)

パウロは最初の宣教旅行の際に、その地域で多くの教会を設立しました。当初、それらの教会は栄えていました。

けれども、間もなくパウロは悪い知らせを聞きました。それは、ガラテヤの教会で、一部のユダヤ人クリスチャンが異邦人のクリスチャンに対し、「本当のクリスチャンになりたいなら、モーセの律法に従わなければならない。ただイエス様を信じるだけでは十分ではない」と教えていたことです。

特に、そのユダヤ人たちは、異邦人が割礼を受けなければならないと主張しました。

彼らの影響によって、ガラテヤの教会の人々は混乱し、偽りの福音を信じ始めました。そこで、パウロはこの手紙を書いたのです。

この手紙の冒頭から、パウロは、自分が彼らに伝えた福音を思い出させました。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。

キリストは、今の悪の時代から私たちを救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださいました。私たちの父である神のみこころにしたがったのです。

この神に、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。(ガラテヤ人への手紙1:3-5)

その言葉によって、パウロはガラテヤの人々に、どのように恵みと神様との平和を受けたのかを思い出させました。では、彼らはそれをどのように受けたのでしょうか。律法によってでしょうか。割礼によってでしょうか。違います。

むしろ、神様は救いの道を計画され、イエス様は十字架の上で私たちの罪の罰を受けられました。救いのすべては神様の働きによるものであり、私たちは自分の救いを誇ることはできません。むしろ、私たちの救いの栄光はすべて神様のものです。

これこそが、パウロがガラテヤの人々に伝えた福音でした。

しかし今、パウロは彼らにこう言いました。

私は驚いています。あなたがたが、キリストの恵みによって自分たちを召してくださった方から、このように急に離れて、ほかの福音に移って行くことに。ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるわけではありません。

あなたがたを動揺させて、キリストの福音を変えてしまおうとする者たちがいるだけです。(6-7)

パウロの言葉は私の心を打ちました。

律法による福音を受け入れたことで、ガラテヤの人々は神様から離れてしまいました。彼らは神様を喜ばせていると思い、その規則を守ることによって神様に近づけると考えていました。けれども、実際には彼らは神様に背を向けてしまったのです。

彼らは、神様にこう言ったも同然です。「イエス様の十字架によって支払われたあなたの恵みによる救いの計画を拒みます。私たちは、この教師の教えに従い、あなたの救いの計画に別の条件を追加します。」

言い換えれば、ガラテヤの人々はもはや自分の救いを神様とその恵みに基づいていませんでした。むしろ、彼らは偽教師を信じ、律法に従う自分の努力に頼り始めたのです。

だからこそ、パウロは彼らに厳しく警告しました。

しかし、私たちであれ天の御使いであれ、もし私たちがあなたがたに宣べ伝えた福音に反することを、福音として宣べ伝えるなら、そのような者はのろわれるべきです。

私たちが以前にも言ったように、今もう一度、私は言います。もしだれかが、あなたがたが受けた福音に反する福音をあなたがたに宣べ伝えているなら、そのような者はのろわれるべきです。(8-9)

つまり、「あなたが受け入れた福音は、実際には福音ではありません。たとえ天使であろうと、私たちであろうと、もし私たちが最初に伝えた福音とは異なるものを教えるなら、その者は神の裁きを受けるのです。」ということです。

なぜでしょうか。なぜなら、彼らは神様から離れているからです。そして、規則による福音に従う者も、神様から離れているのです。

あなたはどんな福音に従っているでしょうか。あなたが従っている福音では、イエス様を信じることだけでは十分ではないのでしょうか。その福音では、救われるために、あなたは多くの規則に従わなければならないのでしょうか。

あるいは、あなたは十字架を仰ぎ、あなたの救いのためにただイエス様を信じるでしょうか。

私たちが偽りの福音に従い、神様から離れることのないようにしましょう。むしろ、神様を信じ、イエス様の十字架の働きを信じ続けましょう。