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コリント人への手紙第一

主よ、来てください

この世の現実や悪を目の当たりにすると、失望するのは容易なことです。しかし、クリスチャンとして、私たちは希望を持っています。なぜでしょうか。

パウロはこう記しました。

主を愛さない者はみな、のろわれよ。

主よ、来てください。主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。(コリント人への手紙16:22-23)

その最初の言葉は厳しく感じるかもしれませんが、これは紛れもない現実です。主を愛さない者は呪われています。

彼らは神様の律法を破り、救いの唯一の方法――つまり、イエス様を拒絶しました。中には、イエス様を呪うことさえする者もいます。(第一コリント12:3)

けれども、イエス様を愛する私たちのために、イエス様ご自身が呪われたのです。パウロはこう記しました。

キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。

「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。(ガラテヤ3:13)

イエス様は十字架において、私たちの罪の代価を支払い、律法の要求を満たされました。しかし、それだけではなく、イエス様は復活し、死に打ち勝たれました。

イエス様は生きておられるので、私たちは永遠に生き続けるという確信を持つことができます。(ヨハネ14:12)

イエス様が再びこの世に来られる日、私たちは瞬く間にキリストに似た者とされます。そのとき、すべての涙は私たちの目からぬぐい取られ、すべての悲しみは消え去ります。

だからこそ、パウロのように私たち皆が「マラナタ」、つまり「イエス様、来てください」と叫ぶのです。

けれども、私たちにはもう一つの希望があります。それは、イエス様が来られるその日まで、イエス様が私たちに恵みを与え続けてくださることです。

私たちが罪を犯しても、失敗しても、イエス様は毎日私たちのためにとりなしをしてくださいます。試練に直面するとき、イエス様は私たちに力を与えてくださいます。そして、イエス様は私たちの内に始められた良い働きを完成へと導いてくださいます。(ピリピ1:6)

だから、どんな状況にあっても希望を失わないようにしましょう。むしろ毎日、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さず歩み続けましょう。イエス様にある私たちは、希望と命を持っているのです。

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コリント人への手紙第一

男らしく振る舞う

新改訳2017を見ると、あなたは気づかないかもしれませんが、パウロはもちろんコリントの人々全体に語りかけています。しかし、おそらく特に男性たちに向けて話しているのではないかと思います。

彼はこう語りました。

目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。雄々しく、強くありなさい。一切のことを、愛をもって行いなさい。(コリント人への手紙16:13-14)

以前の新改訳は、その箇所をより直訳に近い形で翻訳していました。

目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい。(13)

その言葉は、ソロモンに対してダビデが語った言葉に似ています。

私は世のすべての人が行く道を行こうとしている。あなたは強く、男らしくありなさい。(列王記第一2:2)

「男らしくありなさい」とは、新改訳2017の表現の通り、「雄々しくありなさい」という意味です。しかし、おそらくパウロは13ー14節のすべてを含めて語っているのでしょう。

1. 目を覚ましていなさい。

なぜ、私たちは目を覚ましているべきなのでしょうか。 それは、サタンと悪霊が私たちを攻撃しようとしているからです。また、私たちを迫害しようとする者もいます。

さらに、教会の中には誤った教えを広める者も現れます。私たちは霊的な戦いの中にあり、教会の内外で敵に直面しています。

だからこそ、私たちは目を覚ましていなければならないのです。

2. 堅く信仰に立ちなさい。

嵐が訪れるとき、試練や困難に直面するとき、あなたの信仰が揺らがないようにしましょう。躓くことなく、むしろ堅く立ち続けなさい。

3. 強くありなさい。

自分の力ではなく、主の力に頼りなさい。そして、敵に向き合うとき、神様があなたと共におられることを覚え、雄々しく立ち向かいなさい。

4. 一切のことを、愛をもって行いなさい。

傲慢やプライドのためではなく、力や尊敬を得るためでもなく、すべての行動を愛をもって行いなさい。

女性たちもそのように振る舞うべきでしょうか。もちろん、そうです。しかし、男性が男らしく振る舞いたいと思うなら、そのような生き方を実践しなければなりません。

男性の皆さん、あなたは本当に男性らしく振る舞っているでしょうか。

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コリント人への手紙第一

人々に安らぎを与える?

人々に仕えることを考えるとき、私は通常、神様から与えられた務めを果たすことだけに意識を向けます。もちろん、それは重要なことです。

パウロはこう書きました。

兄弟たちよ、あなたがたに勧めます。ご存じのとおり、ステファナの一家はアカイアの初穂であり、聖徒たちのために熱心に奉仕してくれました。

あなたがたも、このような人たちに、また、ともに働き、労苦しているすべての人たちに従いなさい。(コリント人への手紙16:15-16)

パウロは、ステファナとその家族の奉仕を認めました。そして、コリントの人々に、そのような人々に従うべきだと勧めました。なぜなら、ステファナたちはただ奉仕するだけでなく、その働きに大いに労苦していたからです。

奉仕は決して容易なものではありません。もちろん、神様はその務めを果たすために私たちに霊的な賜物を与えてくださいます。それでも、その働きを忠実に果たすためには、時間と努力を惜しまず捧げなければなりません。ステファナはまさにそのような人でした。

パウロは彼についてこう言いました。

ステファナとポルトナトとアカイコが来たので、私は喜んでいます。あなたがたがいない分を、彼らが埋めてくれたからです。

彼らは、私の心とあなたがたの心を安らがせてくれました。このような人たちを尊びなさい。(17-18)

私たちは、どれほど相手の心を安らげることの大切さを考えているでしょうか。

あるクリスチャンたちは勤勉に奉仕し、その働きを見事にこなすかもしれません。

けれども、彼らのもとを離れたとき、周囲の人々は安らぎを感じるどころか、むしろ疲れ果ててしまうことがあります。なぜでしょうか。

それは、その奉仕者が傲慢で短気であり、いつも他者を批判し、見下しているからです。

一方で、ステファナたちはそのような人ではありませんでした。ステファナたちのもとを訪れた人々は、いつも心の安らぎを感じていました。私たちも、ステファナたちのような人々になりたいものです。

では、あなたはどうでしょうか。周囲の人々はあなたのことをどう感じているでしょうか。あなたに会った後、彼らは疲れ果ててしまうでしょうか。あなたの態度のせいで、彼らはあなたを避けたいと思うでしょうか。

それとも、あなたは彼らを魅了しているでしょうか――それは、あなたの素晴らしい奉仕によるものではなく、いつも彼らに安らぎを与えているからです。

神様の愛が私たちを通して流れ、人々の心を安らげるものとなりますように。

ソロモンはこう記しました。

おおらかな人は豊かにされ、 他人を潤す人は自分も潤される。(箴言11:25)

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コリント人への手紙第一

献金を献げるとき

教会を訪れるたびに、パウロはしばしばエルサレムの貧しいクリスチャンたちのために献金を集めました。

パウロの献金に関する指示を通して、私たちは献げる際のいくつかの原則を見ることができます。

第一の原則は、自分の収入に応じて献げることです。あなたがより多くの収入を得る人と同じ金額を献げる必要はありません。

神様はあなたの収入を知っておられ、どれくらい献げることができるかも理解されています。神様にとって重要なのは金額ではなく、あなたの心なのです。(ルカ21:1ー4)

2つ目は、意図的に献げることです。それはどういう意味でしょうか。

要するに、いやいやながらでもなく、強制されてもなく、心から献げるべきです。(第二コリント9:7

また、最初からどれくらい献げたいと思うかを決めるべきです。言い換えると、自分の予算に献金の項目を組み込むべきです。

このように考えないでください。「私がほかの費用を支払った後、もし残りがあれば、その余りを献げましょう。」

むしろ、予算を立てるときに、どれくらい献げるかを先に決めましょう。そして、必要であれば、自分が決めた献金を献げるために、他の費用を調整しましょう。

パウロの言葉から、私たちはこの原則を学ぶことができます。

私がそちらに行ってから献金を集めることがないように、あなたがたはそれぞれ、いつも週の初めの日に、収入に応じて、いくらかでも手もとに蓄えておきなさい。(コリント人への手紙第一16:2)

しかし、あなたの教会が財務的な説明責任を適切に果たしているかを確認することも重要です。

だから、パウロはこう語りました。

私がそちらに着いたら、あなたがたの承認を得た人たちに手紙を持たせてエルサレムに派遣し、あなたがたの贈り物を届けさせましょう。

もし私も行くほうがよければ、その人たちは私と一緒に行くことになるでしょう。(3-4)

パウロの意図は、お金に関して説明責任を果たすこと、また、お金を扱う人が信頼できる存在であることでした。

神様は私たちにお金を託されました。だからこそ、そのことを意識しながら、お金の使い方を通して神様に栄光を帰しましょう。

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コリント人への手紙第一

希望があるからこそ

「私たちの人生は楽なものだ」と主張する人は誰もいません。

パウロもそのような主張はしませんでした。彼は石打ちに遭い、迫害され、投獄され、海を漂流したこともありました。

それほどの試練に直面しながらも、どうしてパウロは耐え抜くことができたのでしょうか。それは、彼が希望を持っていたからです。

パウロはコリントの人々にこう語りました。

死者が決してよみがえらないのなら。。。なぜ私たちも、絶えず危険にさらされているのでしょうか。

兄弟たち。私たちの主キリスト・イエスにあって私が抱いている、あなたがたについての誇りにかけて言いますが、私は日々死んでいるのです。

もし私が人間の考えからエペソで獣と戦ったのなら、何の得があったでしょう。

もし死者がよみがえらないのなら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」ということになります。(コリント人への手紙15:29-32)

しかし、復活があります。ある日、私たちが復活すると、新しい体は朽ちることなく、永遠に生きるものとなります。だからこそ、パウロは私たちを励まします。

ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。

あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。(コリント人への手紙第一15:58)

この世では、私たちは様々なことで容易に動揺してしまいます。私たちの悩みや試練、心配事に心を揺さぶられることがあります。

そうすると、クリスチャンとして歩み続ける意味があるのか、主に仕え続ける価値があるのか、疑問に思うこともあるかもしれません。

しかし、パウロは、私たちが人生の嵐の中で揺れ動かされないようにと励まします。むしろ、彼は私たちが神様に忠実に従い続けるよう促しているのです。なぜでしょうか。

それは、最終的に私たちの努力が報われると知っているからです。そして、ある日、私たちがイエス様のもとへ行くと、イエス様は微笑みながら私たちにこう言われます。

「よくやった。良い忠実なしもべだ。」

そのとき、イエス様のみ顔を見れば、私たちの試練や苦しみが「軽い患難」であったと気付くでしょう。また、「重い永遠の栄光」と比べれば、これまでの苦しみが取るに足りないものであることを悟るのです。

私は、リビングバイブルの詩篇 17:15の訳がとても好きです。

私は天で目覚めるとき、
この上ない満足感にひたるでしょう。
神の御顔をじかに見るからです。

だから、失望しそうなときや、困難のゆえに心が重くなるときは、この歌の歌詞を心に留めましょう。

Turn your eyes upon Jesus.
あなたの目をイエス様に向けましょう。
Look full in his wonderful face.
栄光に輝くイエス様の御顔を仰ぎ見ましょう。
And the things of earth will grow strangely dim in the light of his glory and grace.
そうすれば、この世のものは、イエス様の栄光と光の前にかすんで見えるでしょう。

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コリント人への手紙第一

最終の勝利

私はこの箇所が大好きです。この言葉を覚えておくべきだと思いますが、まだ完全にはできていません。

これは、パウロの勝利の叫びです。

そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に吞み込まれた。」(コリント人への手紙第一15:54)

もしかすると、パウロは預言者イザヤの言葉を引用したのかもしれません。

(主は)永久に死を吞み込まれる。(イザヤ書25:8)

そしてパウロはこう叫びました。

「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」(55)

パウロは興味深い箇所を引用しました。その言葉はホセア書13:14からのものです。この箇所を正確に翻訳するのはやや難しいですが、新改訳は、ある英語の聖書と同様に、次のように訳しています。

「私はよみの力から彼ら(つまり、イスラエル人たち)を贖い出し、死から贖う。」

けれども、別の英語の聖書では異なる翻訳と解釈が示されています。それは、

「わたしは、よみの力から彼らを贖い出し、死から彼らを贖うだろうか?そうはしない。死よ、おまえのとげはどこにあるのか?私たちの民を殺せ。よみよ、おまえの針はどこにあるのか?私たちの民を刺せ。」

つまり、神様はイスラエル人たちを彼ら自身の罪のために裁いていたということです。彼らは神様に対して不忠実だったため、裁きを受けました。

ところが、パウロはこう語っています。「神様はこの言葉を通して、人々を罪のために裁かれましたが、神様はその同じ言葉を用いて、かつて人々を支配していた罪と死に対する勝利を宣言されます。」

そして、パウロは続けてこう言います。

死のとげは罪であり、罪の力は律法です。(56)

「とげ」とは、バラのとげのようなものではなく、蜂やサソリの針のようなものです。また、「突き棒」という意味も含まれています。

そのため、罪はサソリの毒を持つ針のように私たちを刺し、その結果、死をもたらしました。また、突き棒のように、罪は私たちを破滅へと追いやりました。

パウロによれば、罪の力は神様の律法です。なぜなら、私たちはその律法を完全に守ることができなかったからです。

私たちは律法を知っていましたが、罪深い心のゆえにそれを破り、罪を犯しました。したがって、私たちは神様の裁きを受けるべき存在でした。(ローマ書7章)

しかし、イエス様がこの世に来られたとき、私たちの代わりに律法を完全に守られました。それだけではなく、十字架にかかり、私たちの罪のために死んでくださいました。

その結果、私たちはもはや律法の管轄下にはありません。むしろ、私たちは恵みの管轄下にあります。したがって、律法はもはや私たちに力を持ちません。

そして、律法が私たちに対する力を持っていないのなら、罪もまた私たちを支配する力を持っていません。

簡単に言えば、罪のとげは取り除かれたのです。

だからこそ、パウロは喜びをもって宣言します。

しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。(57)

では、私たちにとって、これにはどのような意味があるのでしょうか。

私たちはもはや神様の裁きを恐れる必要はありません。それゆえ、死をも恐れることはないのです。

神様は私たちを呪おうとされるのではなく、むしろ、ある日、新しい体を与えてくださいます。私たちは永遠に神様に栄光を帰し、受けた恵みを喜び続けることができるのです。

あなたはどうでしょうか。死を恐れますか?それとも、あなたはパウロとともに喜びの歌を歌うことができるでしょうか。

死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。(55)

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コリント人への手紙第一

私たちはぼんやりとイエス様を映し出すが…

この箇所を深く考えれば考えるほど、私たちがどのような存在になるのかに心が動かされます。

私たちの体は朽ちることなく、永遠に生きるものとなります。病にかかることもなく、傷つくこともありません。

さらに、パウロはこう述べました。

私たちは、土で造られた人(アダム)のかたちを持っていたように、天に属する方(イエス様)のかたちも持つことになるのです。(コリント人への手紙第一15:49)

パウロによれば、私たちの新しい体はイエス様のかたちを持つことになります。そして、イエス様が神様のかたちであるため(コロサイ1:15)、私たちは今よりもさらに神様のかたちを映し出すことになります。

アダムの子孫として、私たちは皆アダムの弱さを受け継いでいます。嫉妬、欺瞞、苦々しい思い、怒り、憎しみ、そして罪。それらによって、私たちにある神様の似姿は歪められています。

今の私たちの体は、かすかに神様を反映しています。けれども、新しい体を受けると、私たちは天使以上に神様の似姿をさらに映し出すことになります。

だからこそ、ヨハネはこう語りました。

しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。(第一ヨハネ3:2)

それでも、今の私たちの体を軽んじてはいけません。

パウロはこう書きました。

また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの輝きと地上のからだの輝きは異なり、太陽の輝き、月の輝き、星の輝き、それぞれ違います。星と星の間でも輝きが違います。(40-41)

つまり、神様が造られたものは、それぞれに輝きを持っているということです。

私たちの体は、不完全であり、朽ちゆくものですが、それでも固有の輝きを持っています。

目について考えてみてください。さまざまな部分が協力して働くことで、私たちは物を見ることができます。

また、耳も精巧なデザインを持っているため、私たちは音を聞くことができます。

さらに、脳と指の働きについて考えてみてください。何かを考えた瞬間、指はキーボードを打ちます。

私たちはこれらの機能を当然のものとして受け止めていますが、実はそれは驚くべきことなのです。

もちろん、私たちの体は不完全なものです。しかし、私たちを変えるために、神様は新しい体を受ける日まで待っておられるのではありません。

むしろ、パウロはこう述べています。

私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。第二コリント3:18)

だから、私たちの将来の体だけに喜びを見出すのではなく、今の体の輝きにも目を向けましょう。

たとえぼんやりとしたものであっても、今の私たちの体は神様の栄光を映し出しています。だからこそ、私たちは周りの人々にその栄光を反映できるよう努めましょう。

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コリント人への手紙第一

復活のとき、私たちはどうなる?

数年前、私は60代の生徒たちと新聞の記事について話しました。研究者によれば、60~65歳は現代の中年層に分類されるようになってきました。なぜなら、人間の平均寿命が延びているからです。

私は、彼らが何歳まで生き続けたいと思うか尋ねました。彼らは75~80歳までと答えました。その意見は理解できます。その年齢になると、私たちの健康は著しく衰え始めます。それを特に経験したくないと思うのは自然なことです。

それよりも、私は神様が与えてくださる新しい体を持ちたいと思います。この箇所で、パウロはその体について語ります。

あるコリントのクリスチャンたちはパウロに尋ねました。「私たちは復活すると、どんな体を持つのでしょうか。」

パウロは、私たちの現在の体を蒔かれた種に例えます。その蒔かれた種は、成長した木とはまったく異なります。

同様に、埋葬された私たちの肉体は、新しい体とはまったく違います。それでは、その新しい体はどのように違うのでしょうか。

パウロはそのことを説明します。

死者の復活もこれと同じです。

朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。

血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。(コリント人への手紙第一15:42-44)

私たちの現在の体は年を重ね、やがて死にます。一方で、私たちの新しい体は決して死ぬことはありません。

私たちが死んだ後、肉体は埋葬され、腐敗します。それでも、新しい体は栄光に満ちたものとしてよみがえらされます。

私たちの今の体は病にかかり、やがて衰えていきますが、新しい体は健やかで、決して病むことも弱ることもありません。

私は父のことを思い出します。彼は8年前に亡くなりました。

事故の影響で失明し、最後の数か月はほとんど歩くことができませんでした。彼は糖尿病を患い、心臓も弱っていました。最後の数日間、彼は話すこともできず、ただベッドに横たわるしかありませんでした。

父の状態を見るのは本当に辛いものでした。しかし今、彼はその弱い体から解放されました。そして、イエス様がこの世に戻られるとき、最後のラッパの響きのうちに、父は新しい体を得て、空中でイエス様と会うのです。

その日、私も新しい体を得て、イエス様と父に会います。そのとき、この世界のすべては新しくなり、人々は喜びの歌を歌うでしょう。

死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。(55)

その日が待ち遠しいです。

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コリント人への手紙第一

なぜ復活は重要なのか?

英会話学校で教えていたある日、私は隣の教室で交わされる会話を耳にしました。先生と生徒たちはイースターについて話していました。

生徒:「イースターとは何ですか。」

先生:「クリスチャンたちは、その日にイエス・キリストが復活したと信じています。」

生徒:(沈黙)

もしかすると、生徒たちは驚いた表情で先生を見つめていたのかもしれません。それを感じ取った先生は続けて言いました。「私はそれを信じていません。ただ、クリスチャンたちはそう信じています。」

私は子供のころからクリスチャンなので、イエス様の復活を当然のことだと思っていました。しかし、改めて考えてみると、それはとても不思議な教会の教えです。さらに、信じるのが難しいことでもあります。

もしかすると、あなたはこう尋ねるかもしれません。「クリスチャンにとって、イエス様の復活を信じることはそんなに重要なのでしょうか。イエス様の教えや十字架の働きだけを伝えれば十分なのではないですか。」

実は、コリントのクリスチャンたちも同じ疑問を抱きました。そして、ある人々はイエス様の復活を否定し始めたようです。

だからこそ、パウロは復活の真実性を強く論じました。彼はこう述べました。

ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。

もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。

そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。(コリント人への手紙第一15:14)

なぜパウロはそのように語ったのでしょうか。もしイエス様がよみがえらなかったとしたら、なぜ私たちの宣教と信仰は空しいものになってしまうのでしょうか。

パウロはその理由を説明します。

そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。(17-18)

なぜ、イエス様の復活はそれほど重要なのでしょうか。イエス様の復活によって、神様はイエス様の十字架の働きを受け入れたことを証明されました。

その復活を通して、神様は私たちにこう語られます。「イエスの十字架の働きによって、あなたは赦されました。」

しかし、もしイエス様がまだ死んだままであるなら、神様がイエス様の十字架の働きを受け入れていないことを意味します。その場合、私たちは死後、地獄へ行くことになります。それなら、「私たちはすべての人の中で最も哀れな者です。」(19)

なぜなら、私たちは救われたと思っていても、実際には地獄に行ってしまうからです。そのような希望は虚しいものとなってしまいます。

さらに、パウロや他のクリスチャンたちはイエス様のために迫害され、苦しんでいました。もしイエス様がよみがえられなかったとしたら、その苦しみも無意味なものになってしまいます。彼らは神様からの報いを受けることができません。(32)

それなら、私たちはただ自分自身のために生きるほうがよいのではないでしょうか。そこでパウロはこう語りました。

もし死者がよみがえらないのなら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」ということになります。(32)

けれども、イエス様は実際によみがえられました。神様はイエス様の十字架の働きを受け入れられたのです。だからこそ、イエス様を信じるなら、私たちもいつかイエス様と共に復活します。

さらに、イエス様がこの世に戻り、すべてを新しくされるという希望を持っています。イエス様はすべての人を治め、死をも治められます。(20ー27)

だから、この世でイエス様のために苦しもうとも、たとえ命を落とすことがあっても、私たちは神様からの報いをいただけるという確信を持っています。

では、なぜ復活はそれほど重要なのでしょうか。復活こそが、私たちの希望の土台だからです。もし復活がなかったとしたら、私たちには何の希望もありません。

しかし、復活があるからこそ、人に奪われることのない希望と喜びを持つことができるのです。

あなたは、その希望を持っていますか。

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コリント人への手紙第一

無駄な恵みではない

あなたは、自分自身をどのような人物だと思いますか。

パウロの自己認識は、とても興味深いものです。彼はクリスチャンになると、名前を「サウロ」から「パウロ」に変えました。「パウロ」という名前には、「小さい」という意味があります。

彼は「ヘブル人の中のヘブル人」でした。また、かつてはパリサイ人でした。クリスチャンになる前、彼は自分の立場や経歴を誇っていました。

けれども、イエス様と出会うことで、彼は謙遜になりました。それまで神様に仕えていると思っていた彼は、実は神様を迫害していたことに気づかされました。彼は、自分が正しい人ではなく、むしろ殺人者であったことを理解したのです。

この箇所で、パウロは自分自身を「月足らずで生まれた者のような人」と呼びました。つまり、彼は霊的な意味で死産児のような存在だったのです。

過去の罪深い歩みを振り返り、パウロは自分を「使徒の中で最も小さい者」と呼びました。また、「私は使徒と呼ばれるに値しない者だ」とも言いました。

あなたも、自分自身について同じように感じているかもしれません。自分を取るに足りない存在だと見なし、「生まれなければよかった」と思うことがあるかもしれません。

パウロの言葉を読んで、思い巡らしてください

ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず。。。(コリント人への手紙第一15:10)

パウロが伝えたかったことは何でしょうか。

それは、彼の過去にもかかわらず、神様が彼を受け入れ、恵みによって彼が変わり続けているということです。神様は決してパウロを見捨てませんでした。

私たちも、この真理を忘れてはなりません。あなたの過去にも、現在の状態にもかかわらず、神様はありのままのあなたを受け入れてくださいます。あなたの罪や失敗にもかかわらず、神様はあなたを受け入れます。

そして、神様はあなたを罪の中に放置することなく、あなたを清め、ご自身の計画に従って形作り続けてくださいます。

では、私たちはどのように応答すべきでしょうか。感謝と謙遜をもって応答するべきです。

パウロはこう書きました。

私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。(10)

パウロは神様への感謝から、心を尽くして仕えたいと願いました。それでも彼は自分の業績を誇ることはありませんでした。パウロは、神様が彼を用いることを選ばれたのは、神様の恵みであると理解していました。

神様がパウロを用いる必要はありませんでした。彼は汚れた、壊れた器でした。それでも、神様はご自身の栄光のために彼を用いられました。

あなたはどうでしょうか。自分自身をどのように見ていますか。

パウロのように、「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず」と言えるでしょうか。

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コリント人への手紙第一

最も大切なこと

この箇所は、この手紙の中で最も重要だと思います。なぜなら、この言葉こそが私たちの信仰の土台だからです。

パウロはこう書きました。

兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。

私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。

私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。

キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。。。

とにかく、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。(コリント人への手紙第一15:1-5,11)

福音とは何でしょうか。

1. イエス様が私たちの罪のために死なれたこと

2. イエス様が葬られたこと

3. イエス様が三日目に復活されたこと

そして、これらの出来事は、神様の預言者たちの言葉に従って成就しました。特に、イザヤ書53章にはその預言が詳しく記されていますが、他にもさまざまな箇所でイエス様についての預言を見ることができます。

パウロにとって、このメッセージは最も重要なものでした。なぜでしょうか。

あなたが。。。この福音によって救われます。(2)

もし人が、自分の罪から救われ、永遠の命を持ちたいと願うなら、この三つのことを信じなければなりません。他に救いの道は一切ないのです。

もし、私たちが良い行いによって救われるのであれば、パウロにとって最も重要なことは神様の律法だったでしょう。

また、もし永遠の命が存在しないのであれば、パウロにとって最も重要なのは、私たちがどのようにこの人生を生きるかということだったでしょう。

しかし、永遠の命は存在します。そして、その永遠への道はイエス様の十字架です。天の父は、イエス様の十字架の贖いを受け入れられました。その証拠に、神様はイエス様を復活させられました。

だからこそ、パウロはこの真理こそが最も重要なものだと考えました。彼はどこへ行っても、誰と話しても、このメッセージを伝えました。

あなたはどうでしょうか。あなたにとって福音は最も重要なものですか。周りの人々に福音を伝えるほどに、あなたは福音を大切にしていますか。

福音を本当に信じるなら、私たちは周りの人々にそのメッセージを伝えるはずです。

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コリント人への手紙第一

教会を成長させるには

この箇所で、パウロは教会の礼拝のあるべき姿を教えています。パウロにとって重要なのは、コリントの人々(そして私たち)が、礼拝を秩序正しく行うことです。

そのため、パウロはこう語りました。

だれかが異言で語るのであれば、二人か、多くても三人で順番に行い、一人が解き明かしをしなさい。

解き明かす者がいなければ、教会では黙っていて、自分に対し、また神に対して語りなさい。(コリント人への手紙第一14:27-28)

なぜ、異言を語る際に解き明かす人が必要だったのでしょうか。それは、解き明かす人がいなければ、異言はクリスチャンたちの成長に役立たないからです。

さらに、パウロは預言について次のように語りました。

預言する者たちも、二人か三人が語り、ほかの者たちはそれを吟味しなさい。(29)

彼らはどのように預言を吟味したでしょうか。主に三つの方法があります。

一つ目は、聖書です。 神様は決してご自身の言葉に反することはないため、もし預言が聖書の教えに反しているなら、その言葉は神様からのものではありません。

二つ目は、聖霊様の証しです。 聖霊様が人々の心に働き、その預言が神様からのものであることを確認させてくださいます。

三つ目は、その預言の成就を見極めることです。 もし預言が将来の出来事に関するものであれば、その言葉が実際に成就するかどうかを確認する必要があります。

また、異言を語るときと同様に、預言を語る際も人々は順番に話すべきです。もし多くの人が同時に預言しようとすれば、礼拝の場が混乱に陥るからです。

そして、パウロはここで少し奇妙なことを語りました。

女の人は教会では黙っていなさい。彼女たちは語ることを許されていません。律法も言っているように、従いなさい。(34)

この箇所にはさまざまな解釈がありますが、パウロはすべての女性が教会で完全に沈黙しなければならないと言ったわけではありません。

なぜなら、11章では、パウロは女性が祈ったり預言したりすることについて語っているからです。また、パウロが女性に沈黙を求めた理由を説明する際、彼は説教に関する女性たちの質問について言及しているようです。

現代では、教会で牧師が説教するとき、皆が静かに聞きます。ところが、おそらくコリントの女性たちはそうしなかったのでしょう。

ある聖書学者によれば、ユダヤ人の会堂の礼拝と同様に、コリントの教会でも男性と女性が別々に座っていた可能性があります。

そのため、女性たちが夫に何かを尋ねたいと思ったとき、大きな声で質問せざるを得ませんでした。けれども、それが礼拝の妨げとなってしまったのです。

この説が正しいかどうかは分かりませんが、女性たちが礼拝の進行を妨げていたことは確かです。そのため、パウロはこう語りました。

もし何かを知りたければ、家で自分の夫に尋ねなさい。教会で語ることは、女の人にとって恥ずかしいことなのです。(35)

でもパウロは決して、女性たちが預言することとか、祈ることを禁止しません。

むしろ、パウロはこう言いました。

それでは、兄弟たち、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれが賛美したり、教えたり、啓示を告げたり、異言を話したり、解き明かしたりすることができます。

そのすべてのことを、成長に役立てるためにしなさい。(26)

つまり、教会のすべての人が、教会の成長に貢献できるものを持っていくべきだということです。

では、この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

コリントの教会では、訳されない異言で話していたため、礼拝の妨げとなっていました。

また、順番を守らずに話す人がいたことで、教会内に混乱が生じていました。

さらに、説教の際にある人が大きな声で質問したため、その説教の妨げになっていました。

その結果、彼らは教会の成長を妨げました。

あなたはそうしないかもしれませんが、別の形で教会の成長を阻んでいることはないでしょうか。

人の問題のために祈らず、その問題について噂を広めてしまうことはないでしょうか。

人々を励ますことなく、批判してしまうことはないでしょうか。

自分の役割を守るために、同じ賜物を持つ人を助けることを拒んでしまうことはないでしょうか。

あなたの行動が、教会の成長を妨げてしまってはいないでしょうか。あるいは、怠惰な態度や消極的な姿勢のゆえに、教会の成長を阻んでしまってはいないでしょうか。

それとも、あなたは教会の成長を支え、建て上げる者として歩んでいるでしょうか。

私は、教会の成長に用いられたいと願っています。

あなたはどうですか。

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コリント人への手紙第一

教会に持ち寄る、与える心

教会を離れるとき、多くの人々はこう言います。「私はその教会から何の益も得られませんでした。」

つまり、彼らはエンターテインメントを期待し、教会のメンバーが常に世話をしてくれることを望んでいました。けれども、その期待が満たされなかったため、教会へ行くことに興味を失ってしまったのです。

それは自己中心的な考え方です。クリスチャンとして、そのように考えてはいけません。

パウロはこう語りました。

それでは、兄弟たち、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれが賛美したり、教えたり、啓示を告げたり、異言を話したり、解き明かしたりすることができます。

そのすべてのことを、成長に役立てるためにしなさい。(コリント人への手紙第一14:26)

パウロによれば、教会に来るとき、私たちはいつも「頂戴、頂戴、頂戴」という態度を持っていてはいけません。

むしろ、「私は何を人々に与えることができるだろうか。どのようにして人々を励まし、強めることができるだろうか」と考えるべきです。

パウロは、牧師たちだけがそのように考えるべきだとは言いません。むしろ、すべての人が何かを教会に持ち寄り、周りの兄弟姉妹に与えるべきだと言いました。

最も成熟したクリスチャンでも、洗礼を受けたばかりのクリスチャンでも、「私はどのように人々を祝福することができるだろうか」と考えるべきです。

若いクリスチャンでも、自分の心に響いた聖書の箇所を分かち合うことができます。子供でも、イエス様についての歌を歌うことができます。

ある日曜日、教会から帰る途中、私の娘は日曜学校で学んだ歌を歌いました。 「神様はどこですか。神様はここにおられます。あなたがどこへ行っても、神様はあなたと共におられます。」

だから、「今日、教会で何の益を得るのだろうか」と考え、自己中心的な態度で教会に行くのはやめましょう。

むしろ、どのように人を励まし、強めることができるかを考えましょう。

また、愛と善行を促すために互いに注意を払おうではありませんか。

ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ、励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。(へブル10:24-25)

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コリント人への手紙第一

分かりやすい言葉で伝える?

この異言と預言に関するパウロの話の中には、牧師に対しても、教会に集う人々に対しても、大切な真理があります。

パウロはこう語りました。

笛や竪琴など、いのちのない楽器でも、変化のある音を出さなければ、何を吹いているのか、何を弾いているのか、どうして分るでしょうか。また、ラッパがはっきりしない音を出したら、だれが戦いの準備をするでしょう。

同じようにあなたがたも、舌で明瞭なことばを語らなければ、話していることをどうして分かってもらえるでしょうか。空気に向かって話していることになります。

世界には、おそらく非常に多くの種類のことばがあるでしょうが、意味のないことばは一つもありません。

それで、もし私がそのことばの意味を知らなければ、私はそれを話す人にとって外国人であり、それを話す人も私には外国人となるでしょう。(コリント人への手紙第一14:7-11)

パウロの要点は、教会の礼拝において、訳されていない異言には価値がないということです。

ところが、時に牧師たちは、神様の真理を教会の人々に伝えようとするよりも、自分の聖書的な知識を披露しようとしているように見えることがあります。

彼らは難解な神学的な言葉を用いますが、その言葉を理解できる人はほとんどいません。そのため、メッセージの後、人々は次のように反応します。

「そのメッセージは素晴らしく、霊的に深いものに聞こえました。けれども、牧師が一体何を言いたかったのか、さっぱり分かりません。」

私もそのような神学書を読んだことがあります。もちろん、それは学問的な書籍であり、著者は読者が一般の人々よりも深い知識を持っていることを前提としています。それでも、私にはその本が難解すぎて、途中で読むのを諦めました。

さらに、時に私たちは福音を伝える際、「クリスチャン語」を使ってしまいます。たとえば、「贖い」や「イエス様の血によって救われる」、「聖化」、「義と認められる」といった言葉を用います。

しかし、相手がこれらの言葉を聞いても、その意味を理解できないでしょう。

「罪」という言葉も明確に説明する必要があります。「すべての人は罪を犯す」と言うと、相手は「え?私は一度も犯罪を犯したことがない」と思うかもしれません。

だからこそ、福音を伝えるときは、言葉の使い方に注意するべきです。

私たちが理解しやすい言葉を使わなければ、相手はそれを理解できず、私たちの努力は無駄になってしまいます。彼らにとって、私たちはまるで外国語を話しているように聞こえるのです。

そうではなく、むしろ、福音をシンプルかつ明確に伝えましょう。

また、もし聖書を教える立場にあるなら、人々を自分の知識で感動させようとするのではなく、彼らが理解できる言葉を用いましょう。そうすれば、神様は彼らの心に働かれることができます。

パウロの模範に従いましょう。

兄弟たち。私があなたがたのところに行ったとき、私は、すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を宣べ伝えることはしませんでした。

なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。

あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。

それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです。(第一コリント2:1-5)

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コリント人への手紙第一

私たちの賜物を正しく理解する?

この箇所を解釈するのは、非常に難しいです。私はさまざまな解釈を聞いてきたので、この箇所の意味を理解しているつもりですが、それが正しいのかどうかは分かりません。もしかすると、将来的に私の考えは変わるかもしれません。

前回の記事で述べたように、パウロは異言と預言の違いを説明し、教会においてなぜ預言がより重要なのかを教えています。

パウロはまず、こう語りました。

兄弟たち、考え方において子どもになってはいけません。悪事においては幼子でありなさい。けれども、考え方においては大人になりなさい。(コリント人への手紙第一14:20)

コリントの人々はどのように幼子のように振る舞っていたのでしょうか。

彼らにとって、霊的な賜物、特に異言はまるで新しいおもちゃのようでした。彼らはその賜物を用いましたが、周囲の人々への影響をほとんど考えていませんでした。むしろ、彼らはただ賜物を使うことを楽しんでいたのです。

もしかすると、彼らはそれによる霊的な益を感じていたかもしれません(4)。

あるいは、ノンクリスチャンの前で自分の賜物を披露したいと考えていたのかもしれません。

そのため、パウロは彼らにこう言いました。

「悪事においては幼子でありなさい。けれども、霊的な賜物やその他の霊的なことについては、大人のように考えなさい。

自分のことだけを考えるのではなく、周囲のノンクリスチャンのことを考え、特に、あなたの行動がどのように彼らに影響を与えるかをよく考えなさい。」

コリントの人々はどのように考えていたでしょうか。もしかすると、彼らはノンクリスチャンに良い影響を与えていると思っていたかもしれません。なぜなら、何年も前、ペンテコステの時に異言を通して、多くのノンクリスチャンが信仰に導かれたからです。

けれども、コリントの人々は大切なことを忘れてしまいました。ペンテコステの日、エルサレムに集まった外国人たちは異言を理解しました。それは、使徒たちや他のクリスチャンが彼らの言葉で神の栄光を賛美したからです。

その一方、コリントの礼拝では、参加したノンクリスチャンたちは異言をまったく理解できませんでした。そのため、彼らは感動するどころか、むしろコリントのクリスチャンたちを奇妙に思ったのです。

そこで、パウロは彼らにこう言いました。「あなたがたは礼拝の際に異言で話し、ノンクリスチャンを感動させようとしているかもしれません。けれども、聖書の言葉をよく考えなさい。」

つまり、

「わたしは、異国の舌で、異なる唇でこの民に語る。それでも彼らは、わたしの言うことを聞こうとはしない」と主は言われる。(コリント人への手紙第一14:21)

この言葉は、イザヤ書 28:11ー12 から来ています。

その文脈では、イスラエルの人々は神の言葉を意味のないものとして扱いました。そこで、神は彼らにこう言われました。

「あなたが私の言葉をちんぷんかんぷんだと思うのなら、では、本当の意味の分からない言葉を示そう。あなたがたが他国へ追放されれば、その国の言葉はあなたにとって全く理解できないものとなる。それでもあなたがたは悔い改めないだろう。」

パウロはこの神の言葉を異言に当てはめています。

「分からないのですか。訳されていない異言はノンクリスチャンにとっては、確かにしるしです(22)。

ところが、そのしるしは彼らの悔い改めのためではなく、むしろ裁きのためのものです。彼らが理解できる言葉を拒絶した結果、神の言葉はすべて彼らにとって意味の分からないものとなり、彼らの心はさらに頑なになるのです。」

そこで、パウロは彼らにこう言いました。

ですから、教会全体が一緒に集まって、皆が異言で語るなら、初心の人か信じていない人が入って来たとき、あなたがたは気が変になっていると言われることにならないでしょうか。(23)

ペンテコステの日にも、異言を理解できなかったユダヤ人たちはそのように言いました。(使徒の働き2:13)

対照的に、預言は信じる者となる人々へのしるしです。(コリント人へ手紙第一14:22)

しかし、皆が預言をするなら、信じていない人や初心の人が入って来たとき、その人は皆に誤りを指摘され、皆に問いただされ、心の秘密があらわにされます。

こうして、「神が確かにあなたがたの中におられる」と言い、ひれ伏して神を拝むでしょう。(24-25)

認めなければならないことがあります。22節で、パウロは「信じるようになる人」とは言わず、「信じている人」と述べています。

しかし、24-25節を見ると、パウロは将来信じるようになる人について語っているようです。

では、この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

コリントの人々は霊的な賜物とその目的を正しく理解できていませんでした。そこで、パウロは彼らに警告しました。

「あなたの賜物の使い方は、あなたの望む結果をもたらすのではなく、むしろ逆効果をもたらすでしょう。」

あなたはどうでしょうか。あなたは自分の賜物を正しく理解していますか。その賜物が誰のためであり、何のためであるかを覚えていますか。

その賜物を誤った方法で用いるなら、あなたはその結果に驚くことになるでしょう。

だから、心に留めておきましょう。賜物は主に私たち自身の益のためではありません。むしろ、それは神様の目的と栄光のためのものです。あなたはどのように自分の賜物を用いていますか。

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コリント人への手紙第一

言葉を通して人を励まし、育て、慰め、教える

正直に言うと、この箇所について話すとき、私はあまり自信がありません。

私は異言の賜物が今も続いていると考えています。クリスチャンの友人から彼らの経験を聞き、それを信じています。それでも、私自身はその賜物を持っていません。

また、一部の牧師たちの意見とは異なり、私は預言が単なる説教ではないと考えています。預言について学んだ結果、預言は説教以上のものだという結論に至りました。

パウロによれば、預言は教会の人々を成長させるため、人々を励ますため、慰めるため、そして教えるためのものです(コリント人への手紙第一14:3、31)。

もちろん、優れた説教はこれら四つの目的を果たします。けれども、説教と預言には大きな違いがあります。

良い説教には聖書の深い学びが必要ですが、ペテロによれば、預言は異なるものです。ペテロは、預言者について語る際、こう述べました。

預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。(第二ペテロ1:21)

そして、第一コリント14章では、パウロは聖書の学びによる説教ではなく、聖霊に動かされて語る言葉について述べているようです。

この箇所では、パウロは異言と預言を比較しています。主な違いは、異言を語る際、通訳がなければ、それは話している人自身にしか益がないということです。周囲の人々には何の益ももたらしません。

しかし、預言する人は、皆が理解できる言葉を語ります。そのため、パウロはコリントの人々が異言を語ることを願っていましたが、それ以上に彼らが預言をすることを望んでいました。

パウロはこう語りました。

異言で語る人がその解き明かしをして教会の成長に役立つのでないかぎり、預言する人のほうがまさっています。(コリント人への手紙第一14:5)

また、

同じようにあなたがたも、御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会を成長させるために、それが豊かに与えられるように求めなさい。(12)

預言や異言についてさらに語ることはできますが、最も心に残ったことは次の点です。

教会において、私たちが語る言葉は、慎重に用いるべき道具であるべきです。その言葉を通して、人々を成長させ、励まし、慰め、そして教えるべきです。

これこそが預言の目的です。預言の賜物は、人々を導くために超自然的な力をクリスチャンの言葉に加えます。

とはいえ、預言の賜物を持っているかどうかに関わらず、すべてのクリスチャンは周囲の人々と話すとき、そうした言葉を語るべきなのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの言葉は、人々を成長させ、励まし、慰め、そして教えていますか?

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コリント人への手紙第一

何が残るか

13章におけるパウロの最後の言葉は興味深いものです。パウロは、私たちがイエス様のみ顔を仰ぐとき、どの賜物がなくなるのかについて語ったばかりでした。

しかし、13節では、天国に残るものについて語ります。

彼はこう言いました。

こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。(コリント人への手紙第一13:13)

天国でも信仰が残るというのは、興味深いことだと思います。なぜなら、私たちは神様のみ顔を直接仰ぐからです。

では、天においても信仰が必要なのはなぜでしょうか。もしかすると、天にある信仰は、この世にある信仰とは異なるのかもしれません。

私たちが地上にいる間、罪深い心のゆえに神様を信じることに苦労します。私たちの心の一部は神様を信じていますが、一部は信じきれていません。

マルコ9章では、ある父が自分の心の中でそのような葛藤を抱えていました。私たちは神様を見ることもできず、御声を直接聞くこともできないため、信じることは難しいのです。

けれども、私たちが天の父のもとへ行くと、神様を信じることがはるかに容易になります。神様のみ顔と愛を直接見ることで、私たちが神様を信じるのは当然のこととなるでしょう。私は今、そのような確信に満ちた信仰を持ちたいと願います。

また、天国に希望があるというのも少し不思議に思えます。何を望むことができるのでしょうか。私たちはすでに救われ、天国にいるのです。

とはいえ、天国にある希望は、この世の希望とは異なると思います。私たちが天国で苦しみ、救いを求めるわけではありません。

むしろ、私たちはすでに喜びを持っており、さらに将来においても深い喜びを抱く希望を持っています。なぜなら、私たちは神様が良い方であると信じているからです。

それでも、パウロによれば、その中で最も優れているのは愛です。なぜでしょうか。はっきりとは分かりませんが、もしかすると、その理由の一つは、希望と信仰は残るものの、形が少し変わるからかもしれません。

今の信仰の大きな要素は、目に見えないものを信じることです(へブル11:1)。しかし、天国では私たちは神様のみ顔を直接仰ぎます。

同様に、希望の大きな要素は、目に見えないものを待ち望むことです(ローマ8:24)。

けれども、キリストを見ると、私たちの最も大きな希望は完全に満たされます。キリストにあってすでに与えられたものと比べると、私たちがまだ望むものは取るに足りないものとなるでしょう。

その一方、天国では私たちの愛の形が変わるのではなく、むしろ、完全なものとなるのです。私たちの嫉妬やプライド、自己中心的な態度はすべて取り除かれ、愛はこれまで経験したどの愛よりも、さらに満ち溢れ、純粋なものとなるでしょう。

私はその日が待ち遠しいです。

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コリント人への手紙第一

成熟へ向かって進む

コリント人への手紙第一13:11で、パウロはこう語っています。

私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました。(コリント人への手紙第一13:11)

この箇所の文脈を見ると、パウロは天国での人生と地上での人生を対比しているようです。

つまり、天国では私たちは成熟した存在となりますが、地上にいる間は、さまざまな意味でまだ幼子のような状態にあります。そのため、今の私たちには霊的な松葉杖が必要です。

神様の言葉をより明確に聞くために、預言が必要です。どう祈ればよいか分からないとき、異言が必要です。神様をより深く理解したいなら、限られた知識を持つ人間から学ぶ必要があります。

けれども、天国では霊的な松葉杖は不要になります。なぜなら、私たちは神様の御顔を直接仰ぎ見るからです。

それが、パウロの主旨だと思います。

もしかすると、パウロはコリントの人々に成長を促していたのかもしれません。

3章では、パウロは彼らの幼い考え方を批判しました(3:1-4)。

だから、この箇所で、パウロは基本的にこう伝えているのかもしれません。

「もう成長しなくてはなりません。幼いクリスチャンだった頃、あなたはこの世のように考えていました。しかし、今こそ成熟したクリスチャンになる時です。

くだらない争いは脇へ置きなさい。あなたが受けた賜物や祝福を誇るのではなく、思いと行動において成熟しなさい。」

あなたはどうでしょうか。幼子のように考えているでしょうか。幼子のように話しているでしょうか。幼子のように振る舞っているでしょうか。それとも、あなたの信仰は成熟へと進んでいるでしょうか。

幼いクリスチャンとして生きることに満足するのではなく、成長を目指しましょう。

もちろん、どれほど成長しても、私たちは完全な存在ではありません。天国に到達して初めて、私たちは完全になります。とはいえ、それを理由に成長を怠るべきではありません。

だからこそ、成熟へ向かって進みましょう。そして、キリストの恵みと知識において成長し続けましょう。(へブル6:1;第二ペテロ3:18)

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コリント人への手紙第一

将来の片鱗

この箇所を読んだとき、新たな気づきが私の心に響きました。それは、私たちの霊的な賜物が天国の片鱗であるということです。

パウロはこう語りました。

愛は決して絶えることがありません。

預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。

私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。(コリント人への手紙13:8-10)

パウロが語る賜物は、「不完全な賜物」です。おそらく、天国ではいくつかの賜物は続くでしょう。例えば、奉仕の賜物や、治める賜物、音楽の賜物は続くかもしれません。

けれども、預言はなくなります。なぜでしょうか。預言とは、基本的に神様の言葉を人々に伝えることです。ところが、天国では神様が直接私たちに語られるからです。

異言もなくなります。異言を通して、私たちは神様の御心に従って祈ることができます。けれども、天国では私たちはすでに神様の御心を知っています。

また、異言を通して、私たちは外国語で神様の栄光を伝えることができます。しかし、天国ではすべての人が神様を知っており、私たちは完全に互いを理解し合っています。

私たちの知識も不完全です。特に神様に関する知識は限られています。けれども、天国では私たちは神様のみ顔を直接仰ぎ見るのです。

この三つの賜物は、天国の片鱗です。今、私たちはある程度神様の声を聞くことができますが、天国でははっきりと聞こえるようになります。

神様とのコミュニケーション、そして周りの人々とのコミュニケーションも、今は限られています。しかし、天国では私たちのコミュニケーションは完全なものとなります。

私たちは今、部分的に神様を知っていますが、天国では神様を完全に知るようになります。

言い換えると、

今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。(12)

私たちがこの世で目にするもののすべては、天国からのかすかな映しです。けれども、イエス様のみ顔を仰ぐとき、私たちはイエス様を完全に知るようになります。そして、神様が私たちに備えておられた本来の人生の計画を理解するようになるのです。

だから、私は希望を持っています。時として、この世界は悲しみに満ちた場所のように感じられます。

とはいえ、この世は、私たちの未来のぼんやりとした映しに過ぎません。さらに、この世は永遠にこのまま続くわけではありません。

だからこそ、私たちの霊的な賜物を見るとき、また、周囲の人々や被造物を見るとき、それらはただぼんやりとした映しであることを心に留めましょう。私たちには確かな希望があります。それは、

愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。

やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。(第一ヨハネ3:2)

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コリント人への手紙第一

御言葉を自分の人生に適用する

私は数えきれないほどこの箇所を読んできましたが、今回は改めてその意味を深く認識しました。つまり、この言葉をこれまでとは異なる方法で、自分の人生に当てはめてみたのです。

おそらく、あなたも聖書の言葉を自分の人生に適用することの大切さを理解していると思います。私たちは聖書を単なる小説や、時代遅れの道徳を説く本として読むのではなく、神様が私たちに語りかける言葉として読むべきです。

今日の箇所を適用すると、多くのクリスチャンは「愛」の代わりに自分の名前を入れて読みます。例えば、「ブルースは寛容であり、ブルースは親切です。」

もちろん、それは良いことです。そうすることで、自分の心を吟味し、その愛の特質を持っているかどうかを考えることができます。

しかし、今日この箇所を読んだとき、私は異なる方法で自分の人生に当てはめようと思いました。

たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、妻に対する愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。

たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、娘に対する愛がないなら、私は無に等しいのです。(1-2)

「妻」と「娘」を考えながら、自分の人生について振り返りました。私は異言では話しませんが、教会でよく説教をします。

しかし、もし私が妻を愛さないなら、私はただの騒がしいどらや、うるさいシンバルにすぎません。

もし私が聖書に精通し、神様の言葉を力強く伝えられたとしても、娘を愛さないなら、私は無に等しいのです。

だから私はこう思い始めました。

「私は本当に妻と娘を愛しているのだろうか。彼女たちに対して、私は寛容だろうか。私は親切だろうか。私は自分の利益を求めていないだろうか。私は苛立っていないだろうか。

私は彼女たちを信じているだろうか。彼女たちの最善を望んでいるだろうか。彼女たちのために私は耐え忍んでいるだろうか。」

正直に言うと、私はいつもそのように振る舞えているわけではありません。

もちろん、私は他の人の名前をこの箇所に当てはめることもできます。私は本当に同僚や教会のメンバーを愛しているだろうか。けれども、まずは妻との関係、そして娘との関係について考えることが重要だと思います。

あなたはどうでしょうか。あなたは本当に家族を愛していますか。

あなたはこの世界で素晴らしいことを成し遂げているかもしれません。また、教会で素晴らしい働きをしているかもしれません。けれども、もし自分の妻や子どもを愛していなければ、あなたは無に等しいのです。

この記事を読んでいるとき、神様はあなたに誰かの名前を思い起こさせているかもしれません。それは、あなたのご両親でしょうか。それとも、心の中に引っかかっている同僚や教会のメンバーでしょうか。

もし神様があなたの心に語りかけているなら、私はあなたが祈ることをおすすめします。その人を真に愛することができるように祈ってください。また、どのようにその人を愛するべきかを知ることができるように祈ってください。

主よ、私はただの騒がしいどらや、うるさいシンバルになりたくありません。どうすれば周りの人を愛することができるか、教えてください。私が妻と娘を心から愛することができるように助けてください。

また、他の人々をも愛することができるように導いてください。私は何度も失敗しますが、あなたのように愛したいと願っています。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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神様とはどのような方か、私たちはどのような人になるべきか

この箇所を読んだとき、興味深いことに気づきました。パウロが描く愛の姿は、コリントの人々の行動とは大きく異なっていました。

パウロによれば、愛は寛容であり、親切です。また、愛は礼儀に反することをせず、自分の利益を求めません。

けれども、聖餐式の後の晩餐では、金持ちは貧しい人々を差し置いて先に食事をし、良いものを食べ尽くしてしまいました。残り物があれば、貧しい人々はようやく食べることができました。(コリント人への手紙第一11:17-34)

さらに、良心が傷つきやすい人を気にせずに、コリントの人々は自分の「権利」を利用し、その兄弟姉妹を傷つけてしまいました。(8)

パウロによれば、愛はねたまず、自慢せず、高慢になりません。

けれども、コリントの教会では、メンバーたちは自分がどのリーダーに従うかを誇り、それをめぐって争いました。(1章、3章)

さらに、彼らは自分の持ち物を誇り、その結果、パウロを見下したようです。(4章)

しかし、神様はそのような方ではありません。私たちが何度失敗しても、神様は変わることなく親切であり、寛容です。

そして、神様は人間となられましたが、それは私たちを支配する王としてではなく、私たちの罪のために死ぬしもべとして来られました。

イエス様は悪を見て怒られましたが、真理を受け入れた人々を見て喜ばれました。

そして今、イエス様の十字架の働きによって、天の父は私たちが犯した罪を心に留められません。

むしろ、神様は私たちに恵みを与えてくださいます。神様は私たちを信じ、最善を望まれます。さらに、私たちに対する神様の愛は決して絶えることがありません。

私たちはそのような人になろうと努めるべきです。神様のように、私たちは他の人々を愛し、敬意をもって接するよう努めるべきです。

正直に言うと、私はその基準を満たしていません。けれども、その愛を持っていなければ、私の人生はむなしいものです。だから私は祈ります。「私が愛する者となれるように助けてください。」

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コリント人への手紙第一

どのように霊的な賜物を使うべきか

これは聖書の中で最も有名な箇所の一つです。この箇所は愛について書かれていますが、パウロは特に結婚や恋愛関係について話しているのではありません。

むしろ、これまでの話をまとめています。つまり、私たちの賜物は教会を分裂させるためではなく、教会を成長させるためにあるのです。

だから、この箇所でパウロは、私たちがどのように賜物を用いるべきかを教えています。

パウロはその賜物の使い方を「はるかにまさる道」と呼びます。

そして、彼はこう語っています。

たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。

たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。

たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。(コリント人への手紙第一13:1-3)

簡単に言うと、私たちは世の中で最も素晴らしい賜物を持っていたり、自分自身を犠牲にしたり、すべての持ち物を貧しい人々に与えたりすることができます。けれども、神様への愛、また他の人々への愛を持っていなければ、それらは無意味です。

多くの人々は、神様や他の人々への愛のためではなく、自分のプライドのために賜物を使ったり、自分自身を犠牲にします。彼らが求めるのは、人からの誉れです。

しかし、そのプライドによって、彼らは他の人の賜物に嫉妬し、または自分と同じ賜物を持っていない人を見下します。

その結果、偽善に満ちた分裂した教会が生まれます。そのような賜物の使い方は、神様を喜ばせません。

私たちの賜物は、他者への愛の表現であるべきです。愛を持っていなければ、私たちの賜物の使い方は誤っています。

あなたはどうでしょうか。どのように賜物を使っていますか。

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コリント人への手紙第一

賜物を熱心に求める?

私たちがただ求めるなら、神様はどれほど与えてくださるでしょうか。

多くの場合、私たちは自己中心的な態度に注意したり、自分の動機を疑ったりすることで、神様に願うのをためらいます。

私の言葉を誤解しないでください。もちろん、私たちは自分の動機を吟味するべきです。しかし、ためらわずに願ってもよいのです。もし願っている途中で、神様が私たちの誤った動機を示されるなら、もちろん私たちは悔い改めるべきです。

忘れないでください。神様はご自身の子供たちに良いものを与えることを喜ばれる方です。だから、願うとき、私たちは遠慮する必要はありません。

霊的な賜物も、恥ずかしがらずに願ってよいのです。だから、パウロはこう語っています。

あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。(コリント人への手紙第一12:31)

「より優れた賜物」とは何でしょうか。私は後でそのことについて話しますが、14章によれば、より優れた賜物とは、教会を成長させる賜物を指します(14:12)。

だから、霊的な賜物を求めるときは、教会を成長させることを考えるべきです。その賜物がどのようにあなたの評判を高めるか、また、あなたがどのような利益を得るかを考えてはいけません。

むしろ、どのように人々を祝福できるかについて考えるべきです。霊的な賜物について考えるときは、自分ではなく、周りの人々のことを考えるべきです。

また、もう一つ忘れてはならないことがあります。神様は御心のままに、私たちに賜物を与えてくださいます(11)。

キリストのからだの中で、私たちは神様から自分の役割を与えられています。だから、その役割を果たすために、神様は私たちに適切な賜物を与えてくださいます。

神様はそれ以上にも与えてくださるかもしれませんが、私たちが望むすべての賜物を与えてくださるとは約束されていません。

パウロはこう語っています。

皆が使徒でしょうか。皆が預言者でしょうか。皆が教師でしょうか。すべてが力あるわざでしょうか。皆が癒やしの賜物を持っているでしょうか。皆が異言を語るでしょうか。皆がその解き明かしをするでしょうか。(29-30)

もちろん、その答えは「いいえ」です。

それでも、霊的な賜物を求めてもよいのです。特に、自分のミニストリーや役割を考えるとき、どの賜物が必要なのかを思い巡らし、その賜物を願うことが大切です。

そして、自分の役割を果たすために、神様が適切な賜物を与えてくださることを信じましょう。

どれほど神様が「はい、喜んで与えます」と答えられるかに驚くかもしれません。

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コリント人への手紙第一

私たちは他のクリスチャンをどう見るべきか

前回の記事では、私たちがどのように自分自身をキリストのからだの一部として見なすべきかについて話しました。では、私たちは他のクリスチャンたちをどのように見なすべきでしょうか。

パウロはこう書いています。

ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。

私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。(コリント人への手紙12:12-13)

パウロの言葉において、最も大切な真理は、私たちクリスチャンが一つのからだであるということです。もちろん、からだには多くの部分があります。しかし、私たちは一つのからだであり、互いに必要とし合っています。

また、パウロによれば、一つの御霊によって私たちはバプテスマを受け、一つの御霊を受けて、一つのからだとなりました。

さらに、同じ御霊が私たちをキリストのからだに置き、私たちの中で働いています。だから、どうして私たちは他のクリスチャンたちを見下すことができるでしょうか。

私たちが彼らを見るとき、彼らに住んでおられる御霊を見るはずです。どうして私たちは彼らに住んでおられる御霊を軽蔑できるでしょうか。どうして彼らの中で働いている御霊を見下すことができるでしょうか。

以前の記事で述べましたが、パウロによれば、私たちは他のクリスチャンに「あなたはいらない」と言うことはできません。私たちは皆、互いに必要とし合っているからです。

キリストのからだが正しく機能するためには、私たち一人ひとりが自分の役割を果たさなくてはなりません。私たちは皆、キリストのからだに欠かせない存在です。

さらに、パウロはこう語っています。

それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。(コリント人への手紙第一12:22)

数年前、バスケットボールをしていたとき、私は右手の薬指を骨折しました。それ以前は、自分の薬指の重要性を意識していませんでした。

しかし、薬指を負傷すると、その手で何も握ることができなくなり、メールを打つのも困難になりました。これまで簡単にできていた動作が、とても難しくなったのです。

パウロは続けてこう言いました。

また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。

こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、格好の良い部分はその必要がありません。(23-24a)

例えば、足と手について考えてみてください。「美しい手」という表現はよく聞きますが、「美しい足」という表現はあまり聞いたことがありません。(「美しい脚」という表現なら聞いたことがあるかもしれませんが。)

それでも、一般的に手よりも足のほうがマッサージされることが多いでしょう。また、靴を選ぶときはスタイルだけでなく、履き心地も考えるでしょう。

だから、パウロはこの話を次のようにまとめています。

神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。

それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。(24b-25)

同じように配慮し合うこと。この言葉は、霊的な賜物に関する人のプライドや利己的な態度に反対します。

あなたは自分の霊的な賜物について考えるとき、主に自分自身の益を考えるでしょうか。それとも、相手の益を考えるでしょうか。自分自身に焦点を当てるでしょうか。それとも、他の人に焦点を当てるでしょうか。

イエス様のことを思い出してください。イエス様はさまざまな力を持っていましたが、自分自身に栄光を与えるためにその力を使うことはありませんでした。むしろ、いつも周りの人々のニーズを考えておられました。

パウロはさらに語っています。

一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。(26)

痛みは興味深いものです。痛みを感じると、私たちは痛んでいる部分に意識を向けます。体のほかの部分は問題ないかもしれませんが、指を骨折すると、「まあ、私は99%元気だ」とは思わず、「痛い!」と感じます。

私たちが他の人々を見るときも、同じように考えるべきです。彼らが悩んでいるとき、私たちは彼らを無視してはいけません。むしろ、寄り添い、助けるべきです。

パウロはこう語っています。

あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。(27)

だから、他のクリスチャンたちを見下してはいけません。神様は決してそうされないので、私たちもそうしてはいけません。

むしろ、彼らを神様の目で見るべきです。神様が大切にされる者として、彼らを尊重して扱うべきです。

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コリント人への手紙第一

私たちはそれほど特別ではないと思うけれど

教会では、多くの人々が他のメンバーの賜物を見て、劣等感を抱くことがあります。神様が彼らを特別な存在として見ておられ、キリストのからだに欠かせない者であると聞いても、その真理を実感できないことがあります。

しかし、パウロは何度も、私たちが神様の目にとっても特別な存在であることを教えています。

パウロは基本的にこう語っています。

「他の人々の賜物を見て、劣等感を抱いているのですか?そんな必要はありません。『あなたの賜物は安物だが、彼らの賜物は高価なものだ』とは言えません。

その賜物は同じ方から与えられたものです。あなたの賜物の価値も高いのです。

『あなたの役割は取るに足りないが、彼らの役割はとても重要だ』とも言えません。

彼らに役割を与えられた主は、あなたに役割を与えられたのと同じ主です。

そして、神様は決して『あなたの役割はそれほど重要ではないから、私は助けなくてもいい。代わりに天使を送ろう』とは言われません。

むしろ、神様ご自身があなたを助けてくださいます。」

また、以前の記事で述べたように、神様があなたを造られたとき、「あ、失敗した。仕方がない。この人にはとりあえず何でもない仕事を与えておこう」とは決して言われません。

むしろ、パウロはこう語っています。

しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。(コリント人への手紙第一12:18)

この箇所によれば、神様があなたを造られたとき、誤られることは決してありませんでした。さらに、この箇所の文脈をよく見てください。

もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。。。

もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。(17節)

簡単に言うと、神様はご自身が定めた場所にあなたを置かれました。だから、ほかのクリスチャンはあなたに、「あなたはいらない」と言うことはできません。むしろ、あなたはキリストのからだに欠かせない存在です。

この言葉を読んで、「でも、私が欠かせない存在だとは言えません。だって、誰だって私の役割を果たすことができるから」と思うかもしれません。

けれども、少し考えてみてください。あなたのつま先はある程度まで指の役割を果たすことができます。だから、ある意味では指は必要ないと言えるかもしれません。でも、つま先は指ほどその役割を上手に果たすことはできません。

また、腕が一本しかなくても、さまざまな仕事をこなすことはできるかもしれません。それでも、その一本の腕に負担をかけすぎると、疲れて力を失ってしまうかもしれません。

そのように、他の人があなたの仕事をすることができるかもしれません。けれども、彼らがあなたの賜物を持っていないなら、あなたほどその仕事を上手にこなせないでしょう。

また、彼らはあなたと同じ賜物を持っているかもしれません。さらに、彼らの賜物はあなたのものよりも優れているかもしれません。しかし、あなたが自分の役割を果たさなければ、彼らはやがて疲れ果て、燃え尽きてしまうかもしれません。

だから、神様から与えられた賜物を用いてください。神様はご自身の目的のために、あなたを今の場所に置かれました。誰かがあなたを見下すことを許さないでください。

また、自分自身を軽視しないでください。なぜなら、神様はゴミを作られません。あなたは決してゴミではありません。

では、キリストのからだの中で、あなたはどんな役割を担っているでしょうか。

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コリント人への手紙第一

神様の目的と栄光のため

霊的な賜物に関するプライドや嫉妬について考えると、最大の問題は、私たちが大切な真理を忘れてしまうことかもしれません。

それは、人生の中心は私たち自身ではないということです。私たちは自分の目的を達成するために造られたのではなく、自分の栄光のために存在しているのでもありません。

むしろ、神様の目的を果たすために造られ、神様の栄光のために生きるようにされています。

4ー6節では、その真理が示されています。私たちはそれぞれ異なる賜物を持っていますが、それは自分自身で得たものではありません。むしろ、神様が私たちに与えてくださったのです。だからこそ、パウロはこう語りました。

いったいだれが、あなたをほかの人よりもすぐれていると認めるのですか。(そのように認める人は誰もいません)。

あなたには、何か、もらわなかったものがあるのですか。(もらっていないものは何もありません)。

もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。(誇る理由はまったくありません)。(コリント人への手紙第一4:7)

けれども、私たちは時に、自分自身が神様からの賜物であるかのように振る舞ってしまうことがあります。

確かに、ある意味では、私たちは神様の賜物です。神様は私たちが周囲の人々を祝福することを望んでおられます。とはいえ、それは私たち自身の栄光や利益のためではありません。それは周りの人々の益となり、神様の栄光を現すためのものです。

前回の記事で述べたように、私たちの賜物は教会の人々の益のために与えられました。(12:7)

パウロは続けてこう言います。

同じ一つの御霊がこれらすべてのことをなさるのであり、御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです。(コリント人への手紙12:11)

パウロによれば、聖霊様はご自身の目的を果たすために、私たちに賜物を与えてくださいます。

そしてパウロはさらにこう語ります。

しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。(18)

私たちは神様の目的を果たすために、キリストのからだ—つまり教会に—置かれていることを改めて見ます。

したがって、私たちにはプライドを持つ余地はありません。私たちは自分の目的のためではなく、神様の目的のために賜物を与えられ、教会に置かれました。

また、嫉妬を抱く余地もありません。神様はご自身の理由によって、あなたをその場所に置かれました。

神様は決してこう言われることはありません。 「あ、しまった。あなたを造ったとき、失敗した。まあ、しょうがない。 あなたをあまり用いることはできないけど、とりあえずそこに置いておこう。」

むしろ、神様があなたを造られたとき、こう言われました。 「特別な目的のためにあなたを造った。キリストのからだにおいて、この役割を果たすために、私はあなたを特別にデザインした。」

あなたはどうでしょうか。自分の賜物があなた自身の目的を果たすためのものだと思っていますか。あるいは、自分の賜物があなたの栄光のためのものだと思っていますか。

もしかすると、その賜物が神様の目的、そして神様の栄光のために与えられたものだと気づいているでしょうか。

賜物に関する自己中心的な態度は、プライドと嫉妬を生む原因となります。あなたはどのような態度を持っているでしょうか。

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コリント人への手紙第一

教会を団結させるための賜物

この箇所で、パウロはまだコリント教会の分裂について考えていたかもしれません。この手紙の中で、彼はすでに二度その問題について触れています。

パウロは、霊的な賜物がコリント教会を分裂させたとは述べていません。しかし、その賜物が分裂を引き起こす可能性があることは見ていたかもしれません。

実際、現代の教会でも同じような問題が見られます。

だから、パウロは冒頭から明確に語ります。霊的な賜物は教会を分裂させるためのものではなく、教会のメンバーたちを団結させるためのものです。

パウロはこう記しました。

さて、賜物はいろいろありますが、与える方は同じ御霊です。

奉仕はいろいろありますが、仕える相手は同じ主です。

働きはいろいろありますが、同じ神がすべての人の中で、すべての働きをなさいます。(コリント人への手紙第一12:4-6)

パウロの言葉から、三位一体が霊的な賜物に深く関わっていることが分かります。

異なる賜物がありますが、同じ御霊によって与えられます。

異なる奉仕がありますが、同じ主(イエス)に仕えます。

異なる働きがありますが、すべては同じ神(天の父)によって行われます。

パウロの意図はこうかもしれません。天の父、イエス様、聖霊様はそれぞれ異なる役割を持っておられますが、なお一つの神です。

同じように、私たちの賜物がそれぞれ異なっていても、私たちはなお一つの教会です。だから、私たちには心の一致が必要です。

7節で、パウロはこのことを明確に述べています。

皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。(7)

普通、私たちがプレゼントを受け取るとき、その贈り物は私たち自身の益のためです。けれども、霊的な賜物は異なります。それらは、すべての人の益のために与えられるものです。特に、教会の兄弟姉妹たちを支えるためのものです。

だからこそ、霊的な賜物について考えるとき、自分中心の考えを捨てるべきです。むしろ、その賜物をどのように用いて、周囲の人々に益をもたらせるかを考えるべきです。

このように、霊的な賜物に関しては、プライドや嫉妬の余地はありません。

パウロはこう記しました。

たとえ足が「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。

たとえ耳が「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。(15-16)

けれども、ある人は他者の賜物をうらやみ、その感情に基づいて行動してしまうことがあります。

自分が神様から与えられた賜物を気に入らず、不満を抱き、苦々しい態度を持ってしまいます。

または、同じ賜物を持っているものの、他者の方がより豊かにそれを持っているため、嫉妬し、怒りを抱くこともあります。

その結果、彼らは相手に対しても、神様に対しても怒りを向けてしまいます。

しかし、逆の問題もあります。

パウロはこう記しました。

目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。(21)

要するに、より「重要な」賜物を持っている人は、他の人を取るに足りない存在として見下してしまいがちです。

どちらの態度も害を及ぼし、教会を分裂へと導きます。皮肉なことに、以前述べたように、賜物は本来、教会を一つにするために与えられたものです。

だからこそ、私たちは自分自身に問いかけるべきです。

「兄弟姉妹に対する私の態度は正しいだろうか。自分の賜物と他者の賜物に関する私の態度は、教会を分裂へと導くか、それとも一致へと導くだろうか。」

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コリント人への手紙第一

霊を見分けること

私たちは、サタンについて忘れてはならない重要なことがあります。それは、サタンが常に神様の造られた良いものを偽造するということです。

例えば、互いに愛し合う夫婦の関係の代わりに、サタンは不倫やその他の性的な罪を誘惑として差し出します。

また、魂を満たす真の喜びの代わりに、サタンは決して満足をもたらさない一時的な快楽を提供します。

同様に、サタンは偽の霊的な賜物を差し出します。例えば、カルトやオカルトでは、偽の異言、偽の癒し、偽の奇跡が見られます。

ここで「偽」と言うとき、それは必ずしもその奇跡が存在しないという意味ではありません。むしろ、その奇跡の源が神様ではなく、サタンであることを意味します。

だから、パウロはコリント人たちが本物と偽物を正しく見分けられるかどうかを心配しました。

パウロは彼らにこう記しました。

さて、兄弟たち。御霊の賜物については、私はあなたがたに知らずにいてほしくありません。

ご存じのとおり、あなたがたが異教徒であったときには、誘われるまま、ものを言えない偶像のところに引かれて行きました。(コリント人への手紙第一12:1-2)

コリント人たちがどのように偶像に惹かれていったのかは明確ではありません。しかし、もしかすると、サタンによる偽の霊的な経験によって彼らは欺かれていたのかもしれません。

だからこそ、パウロは彼らに、サタンからのものと神様からのものを正しく見分ける方法を教えました。

パウロはこう語りました。

ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。(3)

一つの見分け方として、御霊に導かれる人は決してイエス様を呪うことができません。イエス様を呪う人を見れば、その人が神様からのものではないとすぐに分かるでしょう。

もう一つの見分け方は、聖霊に導かれる人が「イエスは主」と告白することです。

カルトやオカルト、その他の宗教に属する人々の多くは、イエス様についてさまざまな良いことを語ります。

「イエス様は善良な人物でした。」

「イエス様は偉大な宗教的指導者でした。」

「イエス様は預言者でした。」

しかし、彼らはイエス様がすべての主であることを認めず、また、イエス様が人間としてこの世に来られた唯一の神であることを受け入れません。

もう一つ注意すべき点があります。「イエスは主」と告白する人が、必ずしも聖霊に導かれているとは限りません。以前述べたように、サタンはさまざまな偽物を差し出します。

実は、サタンは偽のイエス様さえも売り込んでいます。第二コリント11:4で、パウロは「別のイエス」について語っています。

モルモン教では、イエス様は多くの神々の中の一人とされ、さらにサタンの兄弟とされています。

エホバの証人によれば、イエス様は御使いのかしらミカエルとされています。

だからこそ、人が「イエスは主」と言うとき、私たちは「どのイエスですか」と問わなくてはなりません。本物のイエスでしょうか。それとも、偽りのイエスでしょうか。

彼らが宣べ伝えるイエスが聖書に記されたイエスと一致しているかどうかを確かめる必要があります。

霊的な賜物や霊的な経験について話すときも、それがどこから来たものなのかを正しく見分けなくてはなりません。

それらが神様からのものであるならば、聖書の言葉と一致するはずです。すなわち、イエス様が人間としてこの世に来られた唯一の神であり、すべての主であることを認めるものです。

だから、人のすべての霊的な経験が神様からのものだと、すぐに信じるべきではありません。むしろ、パウロの言葉に従い、慎重に見極めるべきです。

ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。(第一テサロニケ5:21)

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コリント人への手紙第一

主があなたを懲らしめても

12章に進む前に、もう一つのことについて触れたいと思います。パウロは32節で、こう語りました。

私たちがさばかれるとすれば、それは、この世とともにさばきを下されることがないように、主によって懲らしめられる、ということなのです。(コリント人への手紙第一11:32)

私たちが罪を犯すとき、神様は私たちを懲らしめられます。その懲らしめが苦しいあまり、神様が私たちを憎んでいるのではないかと考えてしまうことがあるかもしれません。または、神様があなたを見放したのではないかと思うこともあるでしょう。

しかし、パウロはその考え方が間違っているとはっきり述べています。むしろ、神様が私たちを懲らしめられる目的は、私たちが世とともに裁かれないようにするためです。

要するに、神様は、世の人々が歩んでいる破滅へと至る道から、命へと至る道へと私たちを導いてくださるのです。

5章では、その一例を見ました。パウロは、悔い改めることを拒んだ兄弟について、こう語りました。

そのような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それによって彼の霊が主の日に救われるためです。(5:5)

パウロの目的は、その人を滅ぼすことではなく、むしろ救うことでした。

だから、神様があなたを懲らしめるとき、神様があなたを憎んでいるのではないことを覚えていてください。神様はあなたを敵としてではなく、愛する者として見ておられます。

あなたが実際に神様の敵であったとき、神様はイエス様を遣わされ、イエス様はあなたの罪のために死なれました。もし、あなたが神様の敵だったときにすでに和解してくださったのなら、なおさら神様はあなたを神様の子供として受け入れてくださるのではないでしょうか。(ローマ5:6-11)

自分の罪のために、神様の懲らしめを受けていますか。どうか希望を持ちましょう。神様は今もあなたを愛しておられ、あなたを見放してはいません。

その懲らしめの痛みを感じているとしても、へブル人への手紙の著者の言葉を思い出しましょう。

そして、あなたがたに向かって子どもたちに対するように語られた、この励ましのことばを忘れています。

「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」

訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。

もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。

さらに、私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。

肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。

すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。(へブル12:5-11)

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コリント人への手紙第一

自分自身を吟味する?

私が以前述べたように、聖餐式に参加するとき、私たちは自分自身を吟味しなくてはなりません。パウロはこう語りました。

したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。

だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。

みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。

あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです。(コリント人への手紙第一11:27-30)

その最後の部分は、確かに考えさせられるものがあります。聖餐式を汚した結果、一部のコリント人が病にかかり、死んだとされています。

現代では、そのような直接的な裁きを見ることは少ないですが、教会の始まりの時期だったため、神様はその罪の深刻さをコリントのクリスチャンたちにはっきり示したのかもしれません。

イエス様は私たちの罪のために死なれましたが、それは私たちが故意に罪を犯してもよいということを意味するわけではありません。もしイエス様の十字架の働きを軽く考えるなら、私たちは主の懲らしめを受けることになるでしょう。

だからこそ、聖餐式に参加するときだけでなく、日々自分の心を吟味し続けることが大切なのだと思います。

ダビデのように、私たちはこう祈るべきです。

神よ、私を探り、私の心を知ってください。 私を調べ、私の思い煩いを知ってください。

私のうちに、傷のついた道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139:23-24)

私たちは決してイエス様の十字架を当たり前のものとして受け止めてはなりません。

イエス様の十字架を、ただの玄関マットのように扱うのではなく、 むしろ、感謝をもってイエス様の前に跪きましょう。

そして、イエス様が私たちの罪を示されるなら、悔い改めましょう。 聖餐式に参加するときだけでなく、日々そのような心を持ち続けましょう。

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コリント人への手紙第一

イエス様がこの世界に来られるまで

この箇所を読むと、聖餐式について、もう一つのことが私の心に深く響きます。パウロはこう記しました。

ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。(コリント人への手紙第一11:26)

「主が来られるまで。」

聖餐式の際、多くの人がこの真理を深く考えないかもしれません。けれども、それを覚えていることは非常に重要です。イエス様は必ずこの世界に戻られます。だからこそ、聖餐式に参加するとき、イエス様が来られるまで、自分がどのように生きるべきかを考えなくてはなりません。

では、私たちは何をすべきでしょうか。パウロはこう教えます。 「周りの人々にイエス様の死を告げ知らせなさい。」

パウロによれば、その方法の一つが聖餐式です。

しかし、私たちは教会の中だけでなく、職場、学校、近所へと出て行き、福音を宣べ伝えるべきです。イエス様が来られるまで、私たちはその使命を果たすべきなのです。

時々、私たちは日々の生活に没頭し、イエス様が来られることを忘れてしまいます。また、この世が永遠に続くものではないことを忘れてしまうこともあります。

だから、聖餐式は、この世が一時的なものであることを思い出させてくれます。私たちは、自分の時間を賢く使い、周りの人々に福音を宣べ伝えるべきことを再認識します。

あなたはどうでしょうか。周りの人々にイエス様の死を告げ知らせているでしょうか。

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コリント人への手紙第一

イエス様の死を告げ知らせる

もしパウロが現代の教会に来たら、彼は何を思うでしょうか。私はそのことを考えずにはいられません。

特に、パウロはノン・クリスチャンが聖餐式に参加するのを見たとき、どう感じるでしょうか。

ある教会では、ノン・クリスチャンの聖餐式への参加を禁止しています。一方で、ほかの教会(私の教会も含め)では、それを許可しています。

もしタイムスリップできるなら、新約聖書の時代に戻り、当時の教会で誰が聖餐式に参加していたのかを確かめたいと思います。それはクリスチャンだけだったのでしょうか。それとも、ノン・クリスチャンも参加していたのでしょうか。

なぜなら、14章でパウロは、ノン・クリスチャンが教会に来る可能性について語っていたからです。

そして、今日の箇所で、パウロはとても興味深いことを述べています。

ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。(コリント人への手紙第一11:26)

興味深いのは、「告げ知らせる」という言葉です。新約聖書の著者たちは、この言葉を使うとき、ほとんどの場合、イエス様とその福音を伝えることについて語っています。

この箇所でも、パウロは「告げ知らせる」という言葉を同じ意味で用いています。聖餐式を行うとき、私たちは人々に福音を告げ知らせているのです。

けれども、私たちは誰に福音を告げ知らせているのでしょうか。私たち自身に?それもあり得ます。なぜなら、私たちは皆、時には福音の基本的な教えが必要だからです。

また、もしかするとパウロは、ノン・クリスチャンが聖餐式に参加することを認識していたのかもしれません。

そのため、聖餐式を行うとき、私たちはもちろんイエス様の十字架の御業を覚えています。とはいえ、それだけではなく、ノン・クリスチャンにもイエス様の死を告げ知らせているのです。

私たちは彼らにこう伝えています。 「イエス様はあなたのために死なれました。あなたの罪が赦されるために、そしてあなたが新しい命を得るために、イエス様は死なれたのです。私たちはあなたにイエス様を信じる機会を与えます。あなたはどう応答するでしょうか。」

パウロによれば、彼らがパンを食べ、ぶどう酒を飲みながらも、イエス様を信じることを拒むなら、どうなるでしょうか。

したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。(27)

どうしてでしょうか。それは、彼らが福音を聞きながらも、その福音を拒絶したからです。

けれども、ここではっきりと言わなくてはならないことがあります。

パウロがこれを述べたとき、ノン・クリスチャンについて語っていたのではありません。彼は、貧しいクリスチャンを軽蔑するクリスチャンについて話しています。彼らの振る舞いによって、聖餐式は汚されてしまいました。

だから、32節でパウロは、悪い態度を持ちながら聖餐式に参加するクリスチャンへの懲らしめと、イエス様を拒絶するノン・クリスチャンへの裁きを区別しています。

パウロは、そのクリスチャンの救いを疑うことなく、むしろ彼らを兄弟と呼び続けています。

つまり、パウロの意図はこうです。

「自分自身を吟味しなさい。聖餐式に参加するときは、正しい態度を持ちなさい。あなたがたが主の懲らしめを受けないように、自分の兄弟を正しく扱いなさい。

もし兄弟に罪を犯すなら、それは主のからだと血に対する罪を犯すことになるのです。」(27-34)

少し不思議なことですが、パウロはノン・クリスチャンが聖餐式に参加できるかどうかについて、一切言及していませんでした。

もしかすると、彼はその参加の禁止が当然のことだと思っていたのかもしれません。または、その参加がそれほど重要な問題ではないと考えていたのかもしれません。

しかし、教会がノン・クリスチャンの参加を認めようとするなら、理解すべきことがあります。

それは、聖餐式においてノン・クリスチャンの参加を許すことは、単に彼らをイエス様を信じるように招くことにとどまらず、同時に警告を伝えることでもあるということです。

私たちは彼らにこう語ります。

「福音とは、イエス様があなたの罪のために死なれたことです。イエス様を通して永遠の命を得ることができます。イエス様をあなたの主として受け入れませんか。」

それを聞いて信仰を持ち、パンを食べ、ぶどう酒を飲むノン・クリスチャンは救われます。けれども、不信を貫く者は、こう言っているのと同じです。

「私は、イエス様が私のために何をしてくださったかを理解しています。しかし、私はイエス様を拒絶し、聖餐式によって自分自身に対する裁きを食べ、また裁きを飲みます。」(29)

要するに、ノン・クリスチャンが聖餐式に参加するとき、彼らは「私は兄弟たちをどのように扱うか」と自問するのではなく、「私はイエス様を受け入れるか」と自問するのです。

だからこそ、ノン・クリスチャンの聖餐式への参加を許すなら、私たちは彼らに挑戦すべきかもしれません。 「イエス様はあなたの罪のために死なれました。あなたはどうしますか。」

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コリント人への手紙第一

キリストとの交わり、兄弟姉妹との交わり

聖餐式の際、多くのクリスチャンはこの箇所を耳にします。パウロはこう述べました。

私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。

「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」

食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」(コリント人への手紙第一11:23-25)

聖餐式を単なる宗教的な儀式と考えてしまうのは容易なことです。コリントの人々もそうでした。その結果、彼らは貧しい兄弟姉妹を軽んじ、聖餐式を汚してしまいました。

けれども、イエス様はこう言われました。「パンを食べ、ぶどう酒を飲むとき、私のことを覚えなさい。あなたがたの罪を赦し、神と和解するために、私は自らの血を流します。」

この真理を心に留めるとき、私たちは忘れてはなりません。イエス様は私たちの兄弟姉妹のためにも死なれたのです。イエス様の目には、彼らもまた尊い存在です。

だからこそ、聖餐式に参加するとき、私たちはイエス様に近づくだけでなく、互いにも近づき合うべきです。

もちろん、イエス様は私たちを神と和解させるために死なれました。とはいえ、それだけではなく、クリスチャン同士が互いに和解し、一つとなるためにも、イエス様は命を捧げられたのです。

パウロはエペソの人々にこう書きました。

実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し(ました)。(エペソ2:15)

パウロは特に、異邦人とユダヤ人の間にある壁について語りました。その壁とは、モーセの律法です。しかし、その原則は私たちにも適用されます。クリスチャンの間に、人種の壁や身分の壁があってはなりません。

そして、パウロは続けてこう言いました。

こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。(エペソ2:15-16)

パウロによれば、私たちは皆、ユダヤ人であれ異邦人であれ、律法によってではなく、イエス様の十字架を通して神様に近づくのです。だからこそ、ユダヤ人と異邦人の間に分裂があってはなりません。

イエス様が死なれた理由の一つは、すべてのクリスチャンが一つとなることです。

このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。

こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。(エペソ2:18-19)

だから、教会の中には二流のメンバーなど存在しません。

私たちがユダヤ人であれ異邦人であれ、金持ちであれ貧しい者であれ、権力者であれ一般の人であれ、イエス様は私たちのために命を捧げられました。その目的は、私たちが神様と和解し、すべてのクリスチャンが一つとなることです。

だから、聖餐式でキリストを思い起こすとき、この最も重要な真理も心に留めるべきです。

あなたはどうでしょうか。聖餐式に参加するとき、神様との関係だけを考えているでしょうか。それとも、ほかのクリスチャンとの関係も意識しているでしょうか。

聖餐式に参加するとき、兄弟姉妹との関係はどうでしょうか。自分の教会のメンバーだけでなく、ほかのクリスチャンとの関係も考えているでしょうか。

彼らに対して苦々しい思いを抱いていませんか。もしそうであれば、その人と和解しなくてはなりません。そうしないと、あなたの飲み食いは自分をさばくことになってしまいます。(コリント人への手紙11:27-29)

あなたはキリストとの一致だけでなく、兄弟姉妹との一致も持っているでしょうか。

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コリント人への手紙第一

プライドや勝手な態度から生まれた分裂

この箇所で、パウロはコリントの教会における分裂について再び語っています。第一章では、私たちはその一例を見ました。それは、コリントの人々がどのリーダーが偉大であるかをめぐって議論したことです。

しかし、今日の箇所では、私たちはプライドや自己中心的な態度から生じた分裂を目にします。パウロはこう述べました。

ところで、次のことを命じるにあたって、私はあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが益にならず、かえって害になっているからです。

まず第一に、あなたがたが教会に集まる際、あなたがたの間に分裂があると聞いています。ある程度は、そういうこともあろうかと思います。

実際、あなたがたの間で本当の信者が明らかにされるためには、分派が生じるのもやむを得ません。(コリント人への手紙第一11:17-19)

多くの牧師は、この箇所を引用し、宗派に関わる聖書の議論が必要だと教えます。その議論を通して、私たちは聖書の本当の意味を理解できるようになるからです。

または、その議論を通して、偽のクリスチャンを見分けることができるとも考えられています。

確かにそうかもしれませんが、私の考えでは、パウロは皮肉を込めて語っているように思えます。

「あなたがたは議論しなければならないのですね。本当のクリスチャンが誰かを証明しなければならないのですね。」

要するに、この分裂はコリントの人々のプライドから生じたものであり、パウロは彼らを厳しく批判しました。なぜなら、彼らは自分の霊的な偉大さを証明しようとするあまり、他者を見下していたからです。

もしかすると、この問題の背景には、あるユダヤ人の考え方があるのかもしれません。彼らは、富を神様の祝福のしるしと信じていました。

だから、彼らは聖餐式を行い、その後、一緒に食事をするとき、金持ちは貧しい者を差し置いて、まるで食いしん坊のように振る舞いました。なぜなら、彼らは多くの食べ物を持ってきていたからです。

おそらく、彼らはこう考えていたでしょう。 「私がほとんどの食べ物を持ってきたのだから、先に食べるのは当然だろう。もし私が食べた後に残り物があれば、あいつらは食べてもいいだろう。」

しかし、パウロは彼らにこう言いました。

あなたがたには、食べたり飲んだりする家がないのですか。それとも、神の教会を軽んじて、貧しい人たちに恥ずかしい思いをさせたいのですか。

私はあなたがたにどう言うべきでしょうか。ほめるべきでしょうか。このことでは、ほめるわけにはいきません。(22)

要するに、「あなたがたはいったい何をしているのですか。本来ならキリストのからだを祝うはずなのに、むしろ貧しい兄弟たちを見下し、キリストのからだを軽蔑しているのです。」ということです。

彼らはどのようにしてキリストのからだを軽んじてしまったのでしょうか。自己中心的な態度と高ぶりによって、そのような行動を取ってしまったのです。

あなたはどうでしょうか。あなたのプライドや自己中心的な態度によって、キリストのからだを分裂させてはいませんか。

貧しい兄弟姉妹を見下してはいませんか。

霊的に未成熟な人々を軽んじてはいませんか。

自分の賜物を他の人の賜物と比べてはいませんか。

自分のミニストリーの縄張りを守ろうとしてはいませんか。

そのような態度によって、教会は引き裂かれてしまいます。

あなたは兄弟姉妹をどのように見ているでしょうか。

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コリント人への手紙第一

権威と従順

この箇所は、聖書の中でも特に解釈が難しく、適用しづらい部分の一つです。

例えば、ある牧師はこの箇所を根拠に、教会では女性が帽子をかぶるべきだと教えます。一方で、別の牧師は、この教えは単なる文化的な習慣に過ぎないと説明します。

正直に言えば、私自身もこのパウロの教えの意味を完全には理解していません。

それでも、この箇所から私たちは結婚に関する重要な原則を学ぶことができると思います。パウロはこう教えました。

しかし、あなたがたに次のことを知ってほしいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。(コリント人への手紙第一11:3)

パウロの言葉から、私たちは神様の本質について重要なことを学ぶことができます。神様の本質には、権威と従順の関係があり、それは私たちとイエス様の関係に反映されるだけでなく、夫婦の関係にも反映されています。

パウロは「キリストのかしらは神です」と言いました。それはどういう意味でしょうか。他の聖書の箇所を読むと、パウロの意図がより明確になると思います。

ヨハネはこう言いました。

。。。御父が御子を世の救い主として遣わされた。。。(第一ヨハネ4:14)

そして、この世に来たとき、イエス様は天の父にこう語られました。

今、わたしはここに来ております。巻物の書にわたしのことが書いてあります。神よ、あなたのみこころを行うために。(へブル10:7)

この世におられたとき、イエス様はユダヤ人たちにこう語られました。

わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。(ヨハネ6:38)

しかし、天の父に対するイエス様の従順は一時的なものではありませんでした。イエス様が復活し、天に戻られたあとも、その従順は続きました。

むしろ、パウロはイエス様の再臨と永遠の御国について語ったとき、こう述べました。

それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。

すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっているからです。。。

「神は万物をその方の足の下に従わせた」のです。

しかし、万物が従わせられたと言うとき、そこには万物をキリストに従わせた方が含まれていないことは明らかです。

そして、万物が御子に従うとき、御子自身も、万物をご自分に従わせてくださった方に従われます。

これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。(第一コリント15:24-25、27-28)

これらの聖書の箇所を考慮すると、一つのことが明らかです。イエス様は真に神の本質を持っておられますが、それでも永遠に天の父に従われます。

けれども、それによって天の父がイエス様よりも神であると言うことはできません。また、本質において天の父がイエス様よりも優れた方であるとも言えません。むしろ、本質において彼らは完全に平等です。

では、なぜこのポイントがそれほど重要なのでしょうか。それは、現代において、多くの人々が「妻が夫の権威に従うことは彼女の本質への侮辱だ」と主張するからです。彼らはこう言います。

「もしあなたが『妻は夫に従うべきだ』と教えるならば、それは女性を劣った存在として扱うことになる。」

そのため、「女のかしらは男である」という言葉を聞くと、彼らはパウロの言葉の意味を曖昧にしようとします。

しかし、パウロは、人間関係には秩序があると教えています。イエス様は天の父の権威に従われます。男性はイエス様に従い、女性は男性に従います。

とはいえ、人間の本質において、男性が女性よりも優れているとは決して言えません。パウロはそのような考えに断固として反対しました。そして、彼はこう述べました。

とはいえ、主にあっては、女は男なしにあるものではなく、男も女なしにあるものではありません。

女が男から出たのと同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から出ています。(11-12)

つまり、神様はリーダーシップの役割を男性に与えましたが、男性と女性は互いに必要とし合う存在です。

そして、男性が自らの権威を利用して女性を支配することは決して許されません。むしろ、天の父がイエス様を愛し、尊敬されるように、男性は女性を愛し、尊敬しなければなりません。

さらに、神様が私たちの創造主である以上、男性は神様に従うことを常に覚えていなければなりません。私たちは神様の前で責任を問われるのです。

だからこそ、既婚女性は自分自身にこう問いかけるべきです。

「イエス様が天の父に従われるように、私は夫に従っているだろうか。夫がキリストに従う限り、私は夫に従うべきだろうか。」

既婚男性は、自分自身にこう問いかけるべきです。

「天の父がイエス様を愛し、尊敬されるように、私は妻を愛し、尊敬しているだろうか。イエス様が私を愛し、ご自身の命を捧げられたように、私も妻を愛し、彼女のために私の命を捧げることができるだろうか。」

シングルの女性は、こう問いかけるべきです。

「私の彼氏(または婚約者)はイエス様に従っているだろうか。私がイエス様に従うように、彼に従うほど彼を信頼できるだろうか。」

もし「はい」と答えられないなら、結婚を後回しにするべきです。

シングルの男性は、こう問いかけるべきです。

「私はイエス様に従っているだろうか。もし私がイエス様に従うなら、結婚した後、私は妻をどのように扱うべきだろうか。」

その問いに正しく答えられないなら、結婚を後回しにするべきです。

あなたは誰に従っているでしょうか。

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コリント人への手紙第一

良い模範がいても

以前、私たちが誰に従うべきか注意する必要があると述べました。世の中には良いリーダーもいれば、悪いリーダーもいます。

そのため、私たちは彼らの行いを見極めなければなりません。特に、彼らの教えと行動に注意を払う必要があります。

しかし、良いリーダーに従うとしても、彼らが完全な存在ではないことを忘れてはなりません。彼らがいつも正しいわけではなく、時には誤った決断をすることもあります。

だからこそ、彼らを神様のように扱ってはいけません。彼らの考え方が間違っていることもあります。そのため、私たちはリーダーに従う際に、彼らの良い点と悪い点を見分けなければなりません。

そこで、パウロはこう言いました。

私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい。(コリント人への手紙第一11:1)

最終的に、私たちの模範はキリストです。キリストのかたちに倣う限り、私たちはその模範に従うべきです。

けれども、キリストとは異なる部分があるならば、人の模範ではなく、イエス様の模範に従うべきです。そうしなければ、最終的に迷いに陥ってしまいます。

ガラテヤ2:11–13では、その例を見ることができます。ペテロは教会のリーダーの一人でした。彼は確かに良い模範だったでしょう。

しかし、プレッシャーを感じたとき、ペテロはイエス様の模範に従いませんでした。

最初、彼はガラテヤの異邦人たちと語り合い、彼らの食べ物を共にし、良い時間を過ごしていました。

けれども、モーセの律法に従うユダヤ人のクリスチャンたちがやって来ました。そして、彼らが来ると、ペテロは異邦人たちから距離を置き、ユダヤ人のクリスチャンたちだけと交わり始めました。

ガラテヤにいたほかのユダヤ人のクリスチャンたちは、それを見て、ペテロの模範に倣い始めました。敬虔なクリスチャンであるバルナバさえも、ペテロの態度に影響されました。そのため、パウロはそれを見たとき、彼ら全員を厳しく責めました。

もちろん、ペテロの責任は最も大きいものでした。とはいえ、彼の模範に従ったクリスチャンたちも罪へと陥ってしまいました。

だからこそ、心に留めておきましょう。どんなに敬虔なクリスチャンであっても、彼らを神様と同じ立場に置いてはいけません。彼らは完全な存在ではありません。

牧師であっても、メンターであっても、有名な聖書学者であっても、彼らが過ちを犯すことがあります。そのとき、彼らの模範に従ってはなりません。

むしろ、彼らがキリストに従っている限り、彼らに従うべきです。けれども、彼らが落とし穴に陥ったならば、同じように陥ってはいけません。むしろ、彼らが以前あなたを警告し、助けたように、あなたも彼らを警告し、助けましょう。

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コリント人への手紙第一

誰を喜ばせようとしている?

ついに、この箇所を終えます。皆さんは忘れていたかもしれませんが、この議論は実際に8章から始まりました。

そして、パウロがこの箇所をまとめるとき、彼はコリントの人々にとって最も重要な疑問を指摘します。それは、「彼らは誰を喜ばせようとしているのか?」という問いです。

現代のクリスチャンも、同じ疑問に直面します。

私自身、自分の権利を大切にしています。そして、私の権利が踏みにじられると、すぐに怒りを感じます。また、私が正当に得るべきものが奪われると、心がかき乱されます。くだらない例ですが、誰かが列に割り込むと、私は腹が立ちます。

そして、私は妻、同僚、教会の人々をどのように扱うかを考えます。そのとき、自分の権利を主張するのは簡単です。私は公平さを求め、自分が値するものを受けるべきだと訴えます。

しかし、それに集中すると、私たちが誰を本当に喜ばせようとしているのかが明らかになります。 それは、自分自身です。

「信仰の強い」コリントのクリスチャンたちは、そのような者でした。彼らは、傷つきやすい良心を持つ兄弟たちを気にせず、その兄弟たちの前で何でも食べました。

また、ノン・クリスチャンに対する証しが損なわれても、彼らは偶像に捧げられた肉を食べました。なぜでしょうか。それは、彼らがその肉を食べる権利を持っていたからです。

11章では、彼らのわがままな態度を再び目にします。彼らは貧しい兄弟たちに恥をかかせ、聖餐式の本来の意味を汚しました。

そこで、パウロは彼らに問いかけます。 「誰を喜ばせようとしているのか。あなたたちは、『すべてのことが許されている』と言います。確かに、何を食べてもよいかもしれません。

それでも、すべてのことが益になるわけではありません。そして、あなたの行為によって周りの人々が傷ついているのです。」

そして、パウロはこう言いました。

だれでも、自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい。(コリント人への手紙第一10:24)

要するに、「自分の益を最優先にするな。また、自分の権利と自由を最も重要なものと考えるな。周りの人々をそれら以上に大切にしなさい。もし、兄弟やノン・クリスチャンのために肉を控える必要があるならば、それを選びなさい。」

なぜでしょうか。

それは、最終的に私たちが喜ばせるべき方はただお一人だからです。それは、自分自身ではありません。ではそれは誰でしょうか。

パウロは明確にその答えを語ります。

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。(31)

あなたはどうでしょうか。誰を喜ばせようとしているのでしょうか。

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コリント人への手紙第一

悪霊と交わること

日本では、多くのクリスチャンたちは仏教の葬式や法事について、どうすべきか悩みます。

意見はさまざまです。そうした儀式に参加しないクリスチャンもいれば、参加はするものの、数珠を使わず、焼香もしない人もいます。

私の考えですが、こうした儀式への参加については、自分の良心に従うべきです。

ただし、参加する場合は、事前に何をするのか、しないのかをよく考えておいたほうがよいでしょう。そうしなければ、自分の良心に反する行動を取ってしまうかもしれません。

例えば、あるクリスチャンはこう考えます。「私は焼香するけれど、特に深い意味はない。この偶像は本当に神々ではないし。」

コリントのクリスチャンも同じような考えを持っていたようです。パウロは彼らに、「偶像に捧げられた肉を食べてもよい」と語りました。

けれども、一部のクリスチャンはそれを聞いて、その言葉以上の行動に踏み出したようです。彼らは市場で偶像に捧げられた肉を購入するだけでなく、友人の家でその肉を食べるだけでなく、さらに偶像礼拝の祭りにも参加していたようです。

もしかすると、彼らはこう考えたかもしれません。 「私は本当にその偶像を礼拝しているわけではない。ただ家族や友人と過ごしているだけだ。」

または、こう考えたかもしれません。 「この祭りに参加することで、家族や友人に愛を示している。それに、この偶像は大したものではない。本当の神々ではないのだから。」

しかし、パウロは彼らにこう言いました。

ですから、私の愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい。(コリント人への手紙第一10:14)

そして、パウロは二つのことを指摘します。一つ目は聖餐式についてです。彼はこう言いました。 「聖餐式に参加するとき、キリストの血とからだにあずかることではありませんか。」(16)

つまり、「そのパンを食べ、そのぶどう酒を飲むとき、あなたはイエス様との交わりを示している。イエス様の十字架の御業によって、今やあなたはイエス様との関係を持っていることを表している。」ということです。

そして、パウロは旧約聖書を引用し、イスラエルの民のいけにえについて語ります。彼らの供え物のひとつが「和解のいけにえ」でした。

牛を捧げた後、その肉の一部を家に持ち帰り、家族と共に食しました。それは神様との平和、また神様との交わりの象徴でした。

パウロは言います。 「偶像礼拝の祭りに参加することは、まさに同じことをしているのではないでしょうか。あなたはその偶像との交わりを示しているのです。」

では、偶像の本当の問題とは何でしょうか。ただの金や銀や木の像でしょうか?

そのような考え方は誤りです。パウロはこう言いました。

私は何を言おうとしているのでしょうか。偶像に献げた肉に何か意味があるとか、偶像に何か意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。

むしろ、彼らが献げる物は、神にではなくて悪霊に献げられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。(19-20)

要するに、コリントの人々がその祭りに参加するとき、彼らは実際に悪霊と交わっていました。同様に、焼香をし、仏壇の前で拝むとき、人々は悪霊と交わっていることになります。

では、私たちクリスチャンはそのような行為をしてもよいのでしょうか。

パウロは、それを一切許しませんでした。

あなたがたは、主の杯を飲みながら、悪霊の杯を飲むことはできません。主の食卓にあずかりながら、悪霊の食卓にあずかることはできません。

それとも、私たちは主のねたみを引き起こすつもりなのですか。私たちは主よりも強い者なのですか。(21-22)

私たちは霊的な事柄を扱うとき、十分に注意する必要があります。私たちは何に向き合っているのでしょうか。神様でしょうか。それとも、悪霊でしょうか。

偶像だけでなく、占星術、手相占い、ウィジャ板、タロットカードも単なる娯楽ではありません。それらは悪霊と関わる行為です。

私たちはそのようなことを避けるべきです。むしろ、パウロの言葉に従いましょう。

愛する者たち。このような約束を与えられているのですから、肉と霊の一切の汚れから自分をきよめ、神を恐れつつ聖さを全うしようではありませんか。(コリント人への手紙第二7:1)

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コリント人への手紙第一

励ましと警告

この箇所では、私たちは誘惑についての励ましと警告を読むことができます。

まず、パウロはこう記しました。

ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。(コリント人への手紙第一10:12)

おそらく、パウロは特に「私の信仰は強い」と考えていたクリスチャンについて語っていました。

以前も述べたように、コリントには「信仰の弱い」人々がいました。つまり、彼らの良心は傷つきやすく、偶像に捧げられた肉を食べることに罪悪感を抱いていました。

現代では同じ状況は少ないかもしれませんが、ワインやビールを飲むことに罪悪感を抱くクリスチャンもいるでしょう。

そのため、「強いクリスチャン」にとって、「弱いクリスチャン」を見下し、「私は強い信仰を持っているので、そんなくだらないルールは必要ない」と自慢するのは簡単なことでした。

けれども、パウロは彼らに警告しました。 「気をつけなさい。自分が強いと思うかもしれないが、そのプライドによって罪に陥り、実際には弱いクリスチャンであることが証明されてしまうかもしれません。」

例えば、ビール一杯がすぐに二杯、三杯、四杯、五杯へと増え、気づけば酔っぱらってしまうかもしれません。そして、その習慣を続けると、アルコール依存の問題が生じる可能性もあります。

どちらの場合も、罪に陥ることになります。

しかし、その罪に直接陥らなくても、プライドの罪に囚われるかもしれません。自分の自由を誇示し、他者を見下すことで、彼らの目の前で自由を行使し、その結果として彼らを罪へと誘ってしまうこともあります。

また、ほかの罪に陥る可能性もあります。例えば、職場で神様に信頼せず、会社の業績を優先したり、自分の立場を守るために神様の教えを曲げてしまうかもしれません。

あるいは、周囲の人々に対して怒りを爆発させてしまうかもしれません。

または、傷ついたときに恨みを抱き、相手を許すことを拒むことがあるかもしれません。

私たちはさまざまな方法で罪に陥る可能性があります。けれども、プライドを持つと、パリサイ人のように、自分の罪が見えなくなってしまうでしょう。

だから、パウロは警告しています。 「注意しなさい。あなたが思うほど、あなたは強くありません。あなたも簡単に罪に陥る可能性があります。」

しかし、その後、パウロはコリントの人々を励ましました。

あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。

あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。

むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。(コリント人への手紙第一10:13)

原文では、「試練」には二つのニュアンスがあります。一つ目はもちろん「試練」です。けれども、この言葉には「誘惑」という意味も含まれています。

だからこそ、パウロの要点はこうです。どんな試練や誘惑に直面しても、神様はあなたの限界を知っておられます。だから、神様はあなたが耐えられない誘惑や試練を許されません。むしろ、神様はいつも脱出の道を備えてくださいます。

もう一つ覚えておくべきことがあります。それは、私たちが経験する試練や誘惑は、決して特別なものではないということです。

あるクリスチャンはこう考えることがあります。 「私だけがこの罪と戦っている。どうして私はこんなに悪い者なのだろうか。」

しかし、それこそサタンがあなたに思わせたいことなのです。

けれども、パウロははっきりと言います。 「あなたがどんな誘惑に直面しても、ほかのクリスチャンも同じ誘惑に直面したことがあります。」

自分の罪をほかのクリスチャンに告白することの益の一つは、同じ罪と戦っている仲間がいることを知ることです。

一人で戦うなら、弱さを感じるかもしれません。しかし、主の力によって共に戦うと、強くなることができます。

あなたはどうでしょうか。自分が強いと思いますか。気をつけないと、罪に陥る可能性があります。

それとも、自分が弱いと感じていますか。どうか勇気を持ちましょう。あなたは決して独りぼっちではありません。

ほかのクリスチャンもあなたと同じ戦いを経験し、その苦しみを理解しています。そして、神様もあなたとともにいて、助けてくださいます。

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コリント人への手紙第一

聖書の物語の目的

多くのクリスチャンは旧約聖書を避け、新約聖書だけを読みます。なぜなら、新約聖書に最も重要なことが書かれていると考えているからです。

もちろん、新約聖書にはイエス様の十字架の働きや、恵みによる信仰による救いがより明確に記されています。しかし、新約聖書の著者たちは、旧約聖書を不要なものとして捨てたわけではありません。

むしろ、彼らは何度も旧約聖書を引用しました。彼らは旧約聖書から抜粋したり、旧約聖書の出来事について語ったり、その教訓を適用することを教えたりしました。イエス様も、使徒たちも同様でした。

だからこそ、私たちもそうしなければなりません。

10章の冒頭で、パウロはイスラエルの民の荒野の旅を思い起こし、それについて語ります。そして、彼はコリントの人々にこう言いました。

これらのことは、私たちを戒める実例として起こったのです。彼らが貪ったように、私たちが悪を貪ることのないようにするためです。(コリント人への手紙第一10:6)

また、

これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。(コリント人への手紙第一10:11)

パウロは特に偶像礼拝、性的な罪、そして神様への不信について語っています。そして、彼によれば、これらの話を読むとき、私たちはそこから教訓を学ばなければなりません。

実際、どの聖書の話を読んでも、私たちはそうすべきです。不信者のように童話として読むのではなく、また単なる歴史的な物語として読むのでもありません。

むしろ、聖書を読むときには、こう祈るべきです。「神様、あなたは私に何を教えたいと望んでおられるでしょうか。私に何を伝えようとしておられるでしょうか。」

そのような心を持つなら、神様は私たちに教えてくださいます。このブログでは、私はその模範を示そうとしています。ただ事実を述べるのではなく、私たちの人生への適用を教えようとしています。

しかし、私たちは子供たちのためにもそうすべきです。子供たちに聖書の物語を教えることはとても良いことですが、その適用を簡単に説明することが大切です。

例えば、「神様は私たちの必要を満たしてくださいます。」(神様がエリヤに食べ物を与えた話、またはイスラエルの民にマナを与えた話。)

または、「神様に従うことは重要です。」(アダムとエバの話。)

とにかく、忘れないでください。聖書の物語は単なる話ではありません。神様は私たちへの教訓として、そして私たちの益のためにこれらを与えてくださいました。

あなたはこのような視点を持って、聖書を読もうとするでしょうか。

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コリント人への手紙第一

失格の危機にある?

9章では、パウロはコリントの人々に「冠を失うことのないよう注意すべきだ」と警告しました。

彼の要点は、自己中心的な態度を持ってはならないということです。なぜなら、彼らが自分の権利ばかりを主張し、自己中心に行動したことで、良心の弱い人々が罪に陥ってしまったからです。

そのため、パウロは、コリントの人々が報いを失う危機にあることを警告しました。

パウロ自身も、自らの報いを失わないために、自分の権利を犠牲にしました。

10章では、パウロはさらに自身の考えを説明します。

彼は、神様がエジプトから救い出されたイスラエルの民について語ります。そして、彼らが荒野で経験した出来事をクリスチャンの歩みに例えます。

イスラエルの民が紅海を渡ったことは、バプテスマの経験に似ています。彼らは古い人生、つまり奴隷の生活に対して死に、神様の民となりました。

彼らは天からのパンを食べました。(イエス様はヨハネ6:33-35で、ご自身を「天からのパン」と呼ばれました。)

そして、彼らは岩から生ける水を飲みました。(ヨハネ7:37-39によれば、その水は聖霊様の象徴でした。パウロによれば、その岩もキリストの象徴でした。)

けれども、イスラエルの民は約束の地という報いを受けたでしょうか。残念ながら、彼らはその土地に入る権利を失い、荒野で命を落としました。

なぜでしょうか。

一部のイスラエルの民が偶像礼拝を行ったからです。彼らは自ら造った偶像を拝む際に、酔っぱらったり、あるいは性的な罪を犯した可能性もあります。(出エジプト記32章)

正直なところ、その時彼らが性的な罪を犯したかどうかは定かではありません。とはいえ、民数記25章では、彼らが確かにその罪を犯し、その結果として滅びてしまいました。

ほかのイスラエルの民は主に信頼せず、不平を言いました。彼らは食べ物や水がないことに不満を抱き(民数記21:4-9)、また約束の地にいる強大な敵を見て、カナンに入ることを拒みました(民数記14)。

だから、パウロはこう記しています。

これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。(コリント人への手紙第一10:11)

要するに、イスラエルの経験は、私たちへの例えです。その例えは何を教えているでしょうか。

私たちは洗礼を受け、聖餐式に参加し、神様の御霊に満たされます。それでも報いを失う可能性があります。もし本当にクリスチャンであるなら、救いは失われませんが、冠を失うことがあります。(第一コリント3:15)

では、どのようにして冠を失うのでしょうか。それは、一時的なものに焦点を当てることによって失われます。つまり、この世の快楽に夢中になったり、試練に直面して不平を言ったりすることです。

この世の快楽に心を奪われると、私たちは最も大切なものを見失います。すなわち、神様とその御国です。試練に焦点を当てて不満を述べるなら、私たちは信仰を失い、走るべきレースを途中でやめてしまいます。

だから、パウロは私たちに警告を与えています。

ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。(12)

一時的な快楽に夢中になり、報いを失わないように。

また、この世のものに執着し、神様や兄弟姉妹への愛を忘れないように。 そして、試練によって信仰を失わないように。

むしろ、

一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。(へブル人への手紙12:1)

あなたはどうでしょうか。報いを失う危機にあるでしょうか。

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コリント人への手紙第一

何としても

この箇所は非常に有名です。

25-27節で、パウロは私たちの人生をマラソンに例えています。神様が定められたこのマラソンの中で、私たちは走り続けています。

では、私たちはどのような報いを求めているのでしょうか。それは、イエス様が私たちに託された使命を成し遂げるための冠です。

私たちに託された使命とは何でしょうか。それは、御国を広げることです。

では、その冠とは何でしょうか。詳細はわかりません。けれども、イエス様の教えによれば、私たちはイエス様の称賛を受け、イエス様の喜びを共に味わうことができます。

さらに、この世での忠実さに応じて、御国においてより大きな責任を委ねられるようです。(マタイ25:21、23)

だからこそ、私たちは自らに問いかけるべきです。その冠を得るために何をするでしょうか。何としても、神様から託された使命を果たすでしょうか。

パウロはこう記しています。

競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。

ですから、私は目標がはっきりしないような走り方はしません。空を打つような拳闘もしません。むしろ、私は自分のからだを打ちたたいて服従させます。

ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにするためです。(コリント人への手紙第一9:25~27)

少し考えてみてください。もしマラソンに参加しようと思うなら、ただ今日どのように人生を楽しむかを考えるのではなく、むしろ目的を果たすために今日の楽しみを犠牲にするでしょう。

例えば、ポテトチップスやハンバーガーを食べずに、健康的な食事を選びます。テレビやインターネットを見る時間を減らし、毎日努力して何時間も走ります。そうすれば、賞を得る可能性が高まります。

同様に、神様の御国を本当に広げたいと願うなら、私たちは自分の人生を中心に据えてはいけません。この世の快楽を追い求めるのではなく、むしろ御国に仕えるために、自分の欲するものを犠牲にしなければならない時もあります。

だから、パウロは福音を伝える際に報酬を受けることを断りました。その結果、より多くの人々がクリスチャンとなりました。

また、パウロはユダヤ人と共に食事をする際、クリスチャンとしての自由を犠牲にし、モーセの律法に従って聖い食べ物だけを食べました。

さらに、傷つきやすい良心を持つ人々と共に食事をする際も、クリスチャンとしての自由を犠牲にし、偶像に捧げられた肉を避けました。

けれども、私たちの多くは自己中心的です。自分自身を喜ばせることだけに意識を向け、時に自分の権利ばかりを考えすぎて、他者の気持ちを踏みにじってしまうことがあります。

あるいは、私たちはケチで、必要としている人々を助けないかもしれません。また、自分の時間を大切にするあまり、困っている人のために時間を割くことを避けてしまうこともあります。

もしかすると、ミニストリーにおいて、私たちの動機が誤っていることがあるかもしれません。私たちは、何よりも相手からの尊敬や金銭的な報酬を求めてしまうことがあります。

しかし、そのような態度を持つなら、裁きの日に失格者となり、冠を受けることはできません。

では、その冠を受けるために、何としても成し遂げようとするでしょうか。冠を得るために、今日の快楽を犠牲にするでしょうか。冠を得るために、自らの権利や時間、財産、プライドなどを犠牲にするでしょうか。

それとも、この世のものを求め、失格者となるでしょうか。

あなたはどう歩みますか?

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コリント人への手紙第一

ミニストリーへの私たちの態度

ミニストリー、つまり奉仕をする際、自分自身に焦点を当てるのは容易なことです。

例えば、私たちは次のように考え始めます。

「奉仕をすれば、私はどんな益を受けるのだろうか。私への尊敬はどこにあるのだろうか。経済的な報いはどこにあるのだろうか。」

しかし、パウロの心には、説教への強い熱意がありました。彼はこう語りました。

私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。(コリント人への手紙第一9:16)

パウロの言葉を読むと、私は預言者エレミヤの言葉を思い出します。

私が、「主のことばは宣べ伝えない。もう御名によっては語らない」と思っても、主のことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私は内にしまっておくのに耐えられません。もうできません。(エレミヤ書20:9)

だから、神様のメッセージを伝えるべきかどうかを考えるとき、パウロもエレミヤも経済的な報いや、人々からの尊敬を計算することはありませんでした。もしそのメッセージを伝えなかったなら、彼らは惨めな思いをしたでしょう。

そして、パウロはさらに説明しました。

私が自発的にそれをしているなら、報いがあります。自発的にするのでないとしても、それは私に務めとして委ねられているのです。(17)

パウロは何を伝えたかったのでしょうか。彼にとって、喜びに満ちた心から、そして主と人への愛を持つ心から福音を語ること自体が報いでした。

18節で、パウロは福音を宣べ伝える際、無報酬で提供することこそが報いであると述べています。なぜ彼はそのように感じたのでしょうか。それは、無報酬で福音を提供することで、御国に入る人が増えたからかもしれません。

現代と同じように、一部の人々はパウロの動機を疑いました。彼らは、パウロが金銭的な利益を求めているのではないかと思ったのです。

けれども、パウロは彼らにこう語りました。「私はあなたからお金を求めていません。私があなたに与えたいものは、神様の赦しと永遠のいのちです。」

さらに、人々がパウロを見たとき、彼らは自分の利益を求める人物ではなく、仕えることを望む人物を見ました。人々に仕えるため、パウロは常に自らの権利を手放しました。

その結果、多くの人々が御国に入ることができ、パウロは大いに喜びました。(19-23)

それだけではなく、パウロは、主が喜んでおられることを知っていました。

しかし、人を愛していなくても、福音を伝えたい気持ちがなくても、パウロは福音を宣べ伝えなければなりませんでした。なぜなら、神様が彼にその責任を託されたからです。

そして、もしパウロがその使命を果たさなかったなら、神様は彼に責任を問われたでしょう。

タラントのたとえ話に、その原則を見ることができます。あるしもべは、主人を愛することなく、むしろ恐れていました。

だからこそ、主人が彼にお金を預けたとき、そのしもべはそれを投資せずに地中に埋めてしまいました。そして結局、主人はそのしもべの責任を問いました。(マタイ25:24-30)

エレミヤもまた、その責任を強く感じていました。エレミヤ書20章を見ると、彼の奉仕が常に自発的なものではなかったことがわかります。

エレミヤは、神様が自分を正しく扱っていないと不満を述べ、また、イスラエルの民からの迫害について嘆きました。(20:7-8)

それでも、エレミヤは神様のメッセージを伝え続けました。なぜなら、主のことばは彼の心のうちにあり、骨の中に閉じ込められた燃えさかる火のようになり、彼はそれを抑えきることができなかったからです。

パウロと同じように、エレミヤもそのメッセージを語らなければなりませんでした。もしそうしなかったなら、彼は災いを招いたことでしょう。

とはいえ、心から仕えることは、何よりも価値のあることです。「しなければならない」という義務感ではなく、「仕えたい」という心が大切です。

そのような心を持つなら、私たちの人生はより充実したものとなり、ミニストリーも喜びをもたらすものとなるでしょう。

何よりも、主にお会いする時、私たちはその報いを受けるのです。

あなたはどうでしょうか。どのような心で仕えますか?

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コリント人への手紙第一

牧師たちを経済的に支える

「なぜ教会に献金を捧げるべきなのでしょうか。十一献金は新約聖書の教えではありません。」

多くのクリスチャンがそのように言います。確かに、十一献金は新約聖書の教えではないかもしれません。しかし、牧師たちを経済的に支えることは、新約聖書に明確に記されています。

パウロはこう書きました。

はたして、自分の費用で兵役に服す人がいるでしょうか。自分でぶどう園を造りながら、その実を食べない人がいるでしょうか。羊の群れを飼いながら、その乳を飲まない人がいるでしょうか。(コリント人への手紙第一9:7)

簡単に言えば、そのような人はいません。そして、最後の二つの例の要点は明確です。何かの手入れをするなら、その労働の結果として益を受けるのは当然です。

ぶどう園を造り、手入れをするなら、その実を食べる権利があるべきです。

羊を飼うなら、その乳を飲む権利があるべきです。

同様に、牧師が人々の世話をするなら、その人々から支えを受けるのは自然なことです。

そこで、パウロはモーセの律法に言及します。神様は、脱穀をしている牛が地面に落ちた穀物を食べる権利を持っていると定めました。

パウロはこの律法を参考にしてこう述べています。「神様は牛よりも人を愛しています。だから、畑で働く人もその働きの報いを受けるべきです。」

そして、パウロはこの原則をキリストのしもべたちにも適用します。

私たちがあなたがたに御霊のものを蒔いたのながら、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。

ほかの人々があなたがたに対する権利にあずかっているのなら、私たちは、なおさらそうではありませんか。(11-12a)

そして、パウロは宮に奉仕する者が宮から下がる物を食べ、祭壇でいけにえを捧げる祭司たちが、その肉を受け取ることを指摘します。

パウロはこの教えを次のようにまとめます。

同じように主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活の支えを得るように定めておられます。(14)

パウロは自らの理由でその権利を手放しました。けれども、私たちが牧師たちにパウロのような生活を強制するべきだというわけではありません。

牧師たちが教会の外で働くことは、本来望ましくありません。

なぜでしょうか。それは、彼らが外の仕事に時間を割くことで、神様が託された教会の人々を十分に世話することが難しくなるからです。

彼らのメッセージを準備する時間が減り、人々を訪問する時間も限られます。また、相談に乗る時間が少なくなり、教会のために祈る時間も減ってしまいます。

教会の経済的事情のために、私の牧師は長い間そのような生活を余儀なくされました。それは避けられなかったのかもしれません。だから、私の牧師は懸命に働きました。心から感謝しています。

それでも、それは決して理想的な状況ではありません。もし牧師たちが外で働かざるを得ないなら、彼らが私たちのために十分な時間を確保できなくても、私たちは不満を言うことはできないでしょう。

イエス様は、私たちが牧師たちを経済的に支えるよう命じられました。あなたは、それを実践しているでしょうか。

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コリント人への手紙第一

御国のために権利を譲ること

聖書を読む際、私たちは時に文脈に注意を払わず、その著者の意図を見逃してしまうことがあります。

そこで、この記事では8-10章をまとめて概観し、後の別の記事で各章をより詳しく見ていきたいと思います。

もちろん、各章ごとに興味深い学びがありますが、パウロの主旨を見落とすことは避けたいと考えています。

では、8-10章におけるパウロの主旨とは何でしょうか。

それは、「私たちの権利ではなく、神の御国こそが最も重要である」ということです。したがって、時には神の御国のために、自らの権利を手放さなければならないのです。

8章ですでに私たちは一つの例を見ました。パウロによれば、私たちは偶像に捧げられた食べ物を食べる権利を持っています。けれども、パウロはこう語りました。

「もし私がその肉を食べることで、私の兄弟が罪に陥るなら、私はその肉を食べません。さらに、彼が罪に陥らないように、私は今後決して肉を食べません。」(コリント人への手紙第一8:13)

そして、パウロはコリントの人々が抱くであろう疑問を予測します。「しかし、私は食べる権利を持っている。それなのに、なぜ私の権利を手放さなければならないのか。」

パウロは12節で一つの理由を示します。それは、もし私たちの行為によって兄弟が罪に陥るなら、その行為自体が罪となるということです。

それだけではなく、パウロは自らの人生を例として示しました。使徒として、彼にはさまざまな権利がありましたが、それらの権利を行使することを主張しませんでした。

たとえば、パウロには結婚して妻と共に宣教旅行をする権利がありました。しかし、彼は結婚すらしませんでした。

また、福音を伝える働きに対して報酬を受け取る権利もありましたが、彼はその権利を用いませんでした。

実際、モーセの律法やキリストの言葉によれば、私たちはそのような働き人に対して経済的支援をするべきです。けれども、パウロはその報酬を断りました。(9:1-14)

では、なぜパウロは自らの権利を主張しなかったのでしょうか。それは、おそらく彼が貧しい人々に福音を伝えていたからです。

もし彼が彼らから金銭を受け取っていたら、彼らはさらに経済的に苦しんだことでしょう。さらに、パウロは「貧しい者を利用している」と言われることを避けたかったのかもしれません。

もう一つの可能性として、パウロは「福音を利用して金銭を得ている」と非難されることを避けたかったのかもしれません。

そのような非難は、福音の普及を妨げることになったでしょう。

さらに、パウロは福音のために払った他の犠牲についても語りました。

モーセの律法のもとにあるユダヤ人たちと共にいる際、パウロはユダヤ人のように振る舞いました。たとえば、モーセの律法に従い、豚肉や貝を食べませんでした。

しかし、異邦人と共に食事をするときには、パウロは何でも食べました。

また、傷つきやすい良心を持つ人々と共に食事をする際には、偶像に捧げられた肉を口にしませんでした。

多くのコリントの人々にとって、パウロの慎重さは過剰に思えたかもしれません。おそらく、彼らは「パウロが権利を譲るのは、やりすぎだ」と考えたでしょう。

それでも、パウロはその生き方をマラソンの訓練に例えました。マラソンの準備をするために、ランナーは時に好きな食べ物を控えたり、好みの活動を制限しなければなりません。

そうしなければ、報酬を得ることはできません。

同様に、もし私たちがキリストとその御国のためではなく、自分のために生きるなら、報酬を受けることはないでしょう。

だから、10章でパウロはこう語りました。

「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが益になるわけではありません。

「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが人を育てるとはかぎりません。

だれでも、自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい。(23-24)

また、

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。

ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えない者になりなさい。

私も、人々が救われるために、自分の利益ではなく多くの人々の利益を求め、すべてのことですべての人を喜ばせようと努めているのです。(31-33)

だから、自分の権利について考えるとき、自らに問いかける必要があります。

「私は何のために生きているのか。だれのために生きているのか。自分のためなのか。それとも、神様とその御国のためなのか。」

神様のために生きるなら、最後には報いを受けることができます。けれども、自分のために生きるなら、あなたの業績は消え去り、神様からの報いを受けることはありません。

あなたは何のために、そしてだれのために生きているのでしょうか。

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コリント人への手紙第一

知識をどのように扱うか

さまざまな意味で、この箇所はローマ書14書に似ています。そこで、まず1〜3節を見て、この言葉がどのようにこの章の残りの部分に関わるのかについて考えたいと思います。

パウロはこう語っています。

次に、偶像に献げた肉についてですが、「私たちはみな知識を持っている」ということは分かっています。

しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。

自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。(コリント人への手紙第一8:1-3)

クリスチャンの兄弟たちが偶像に捧げられた食べ物を食べることに対して、あるコリントの人々は戸惑いを感じたようです。彼らは、そのような食べ物を口にすることは罪だと考えました。

このような人々について、パウロはこう書いています。

しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。(ローマ書14:23)

一方で、ほかのコリントの信者たちは、偶像に捧げられた肉を食べることが彼らの霊的な歩みに影響を与えないことを理解していました。実際、イエス様は「すべての食べ物は清い」と教えられました。(マルコ7:19)

ところが、その知識が彼らのプライドへとつながりました。そして、傷つきやすい良心を持つ兄弟たちの前で、自らの自由を積極的に行使し、偶像に捧げられた肉を食べました。

彼らの行為によって、傷つきやすい良心を持つ兄弟たちは、自分の良心に反しながらその肉を口にし始めました。しかし、彼らの行為が信仰から出たものではなかったため、その肉を食べることは彼らにとって罪となりました。

そのため、パウロは知識のある兄弟たちに厳しく戒めました。なぜなら、彼らの行為によって、弱い兄弟たちが罪に陥ってしまったからです。

そのうえでパウロはこう語りました。

「もちろん、偶像は真の神ではありません。私たちはそのことを知っています。だから、偶像に捧げられた肉を食べても問題はありません。」

とはいえ、パウロはさらにこうも語りました。

自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。(コリント人への手紙第一8:2)

パウロは何を伝えようとしているのでしょうか。単に知識を持っているだけでは十分ではありません。その知識をどのように扱うかを理解し、正しく用いなければなりません。知識の扱い方を知らなければ、その知識は不完全なものとなります。

では、私たちはどのように知識を用いるべきでしょうか。それは、愛をもって知識を扱うことです。

パウロはコリントの人々にこう語りました。

知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。(1)

知識を持つことは、時にプライドへとつながるかもしれません。「私は知っている。あなたは知らない。」

そのプライドによって、ある人は聖書について延々と議論しますが、何も解決しません。

また、知識とプライドのゆえに、人は相手を見下し、裁いてしまいます。

さらには、そのプライドによって、教会が分裂してしまうことさえあります。

コリントの教会でも、このような問題が生じました。そこで、パウロは彼らに語りました。

「あなたが知識を持っていること自体を、神様は喜ばれるわけではありません。神様が喜ばれるのは、あなたたちがその知識をどのように用いるかです。

その知識によって人々を築き上げるでしょうか。あるいは、その知識によって人々を壊してしまうでしょうか。」

そして、パウロはこの教えを次のようにまとめます。

しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。(3)

私たちは、人が神様を愛しているかどうかをどのように見分けることができるでしょうか。ヨハネはこのことについて、私たちに教えています。

神を愛する者は兄弟も愛すべきです。(第一ヨハネ4:21)

残念なことですが、コリントの人々はそうしませんでした。彼らは、自らの知識によって兄弟たちを築き上げるのではなく、かえって崩してしまいました。その結果はどうなったのでしょうか。

つまり、その弱い人は、あなたの知識によって滅びることになります。この兄弟のためにも、キリストは死んでくださったのです。(11)

だから、パウロは彼らに警告します。

あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。(12)

そして、パウロは彼らに、知識をどのように用いるべきかを教えています。

ですから、食物が私の兄弟をつまずかせるのなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません。(13)

あなたはどうでしょうか。自分の知識をどのように用いていますか。

自分を高ぶらせ、兄弟姉妹を傷つけてしまうでしょうか。それとも、彼らを築き上げ、成長を助けるでしょうか。

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コリント人への手紙第一

人生は儚いからこそ

私たちの命は、とても儚いものです。

私の高校時代の友人の中には、すでに亡くなった人もいます。

明日は、私たちに約束されたものではありません。

イエス様はこの世に再び来られるかもしれません。

もしかすると、私たちは事故に遭うかもしれません。

パウロは「時は短くなっています」と語りました。

おそらく、彼はコリントの人々が直面していた「差し迫る危機」について話していたのでしょう。

けれども、私たちもまた、この世で永遠に生き続けるわけではないことを忘れてはなりません。その真理は、私たちの生き方に影響を与えるはずです。

そして、パウロはこう書いています。

今からは、妻のいる人は妻のいない人のようにしていなさい。(コリント人への手紙第一7:29)

この言葉は少し不思議に感じられます。しかし、文脈を見ると、パウロは「離婚しなさい」や「奉仕に集中するために、妻(または夫)を無視しなさい」と言っているわけではありません。

とはいえ、私たちの人生が配偶者中心であるべきではないことも確かです。むしろ、夫婦は神様を中心とした人生を歩み、御国を第一にするべきです。

また、独身の人々も結婚活動を人生の中心に据えてはなりません。むしろ、まず神の御国を求めるべきです。そして、神様の最善のタイミングで、ふさわしい配偶者を与えてくださいます。

パウロは続けてこう言います。

泣いている人は泣いていないかのように。。。していなさい。(30)

私たちは皆、さまざまな苦しみを経験します。私たちの周りには、死や悲劇があふれています。そのような時、涙を流すことは悪いことではありません。それは健康的であり、私たちにとって必要なことです。

けれども、いつまでも涙に囚われていてはいけません。むしろ、私たちは立ち上がり、神様の働きへと戻らなければなりません。

もし泣き続けているなら、過去に縛られ、神様が私たちのために計画された未来を見ることができなくなってしまいます。

そして、パウロはさらに語ります。

喜んでいる人は喜んでいないかのように。。。していなさい。(30)

この言葉は少し不思議に聞こえるかもしれません。しかし、時に私たちは自分の幸せに夢中になり、満足しすぎるあまり、先へ進むことを忘れてしまいます。そうすると、別の意味で過去に縛られてしまうのです。

私たちは前に進まなければなりません。たとえ今、喜びの中にいるとしても、私たちの周りには苦しんでいる人が多くいます。彼らもまた、真の喜びを与えてくださる方を知る必要があります。

買う人は所有していないかのようにしていなさい。世と関わる人は関わり過ぎないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです。(30-31)

要するに、この世のものは一時的なものであることを忘れてはなりません。私たちが天国へ行くとき、自分のお金や持ち物を持っていくことはできません。

ただ、持っていけるものが二つあります。それは、神様との関係と、ほかのクリスチャンとの関係です。

だから、そのことを心に留めながら生きましょう。この世の物に焦点を当てるのではなく、神様と周りの人々に焦点を当てるべきです。

あなたの人生は儚いものです。あなたはどのように自分の時間を使っていますか。

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コリント人への手紙第一

後悔

私たちは皆、後悔を抱えています。もちろん、私も後悔があります。例えば、過去に人を傷つけてしまったことがあり、その出来事を変えたいと思うことがあります。

また、後悔している決断もあります。例えば、私は長い間、日本に来ることについて迷い続けていました。もしもっと早くその決断を神様に委ねていたら、大学で日本語を専攻し、英語を教える授業を受けることができたでしょう。

けれども、自分の過去を変えることはできません。誰も過去を変えることはできないのです。では、どうすればよいでしょうか。

コリントの人々も同じ疑問に直面しました。ある人々はクリスチャンになる前にノンクリスチャンと結婚しましたが、クリスチャンになった後で「ノンクリスチャンとの結婚は避けるべきだ」というパウロの教えを聞きました。

そこで彼らは、「離婚した方がよいのだろうか」と問いかけました。しかし、パウロはこう答えました。

「そんな必要はありません。もし相手があなたと共に住み続けたいと望むなら、離婚してはいけません。」

ほかの異邦人は、クリスチャンになる前にユダヤ教を信じていたため、割礼を受けました。けれども、クリスチャンになった後、「異邦人は割礼を受けるべきではない」というパウロの教えを聞いたのです。

そこで、彼らは問いかけました。「割礼の跡をなくした方がよいでしょうか。」

しかし、パウロはもう一度答えました。「その必要はありません。」

また、別の人々は、クリスチャンになる前に借金のために自分自身を奴隷として売りましたが、後になって後悔しました。けれども、パウロは彼らにこう言いました。

「自分の自由を得られるなら、もちろんその自由を得てください。しかし、もし自由を得られないなら、心配しないでください。」

要するに、パウロの教えはこうです。

それぞれ自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。(コリント人への手紙第一7:20)

要するに、過去の決断によって困難な状況にあったとしても、その後悔に囚われないようにしましょう。たとえ今その状況に置かれていても、神様はあなたを用いることができます。

おそらく、割礼や奴隷になったことを後悔する人はもういないでしょう。

けれども、ノンクリスチャンと結婚しているクリスチャンは今もいます。神様は彼らに語ります。

「その結婚から逃げてはいけません。あなたを通して、私はあなたの家族に触れるのだから。」

また、あるクリスチャンは離婚し、別の人と再婚しました。あるいは、元夫や元妻がすでに再婚しているかもしれません。

そのような人々に神様は語ります。

「心配しないでください。むしろ、今の配偶者に仕え、子供の世話をしなさい。そして、周りの人々にも私のために触れなさい。」

他のクリスチャンの中には、自らの罪のゆえに刑務所にいる人もいます。神様は、そうした人々にも語りかけておられます。

「それで大丈夫です。もし仮釈放が許されるなら、それは素晴らしいことです。しかし、もしそれが叶わないなら、そのまま刑務所にとどまりなさい。なぜなら、私は刑務所の中でもあなたを用いることができるのだから。」

要するに、どのような状況にあっても、どれほど過去に失敗していたとしても、神様はあなたを用いることができます。

だから、パウロはこう語ります。

ただ、それぞれ主からいただいた分に応じて、また、それぞれ神から召されたときのままの状態で歩むべきです。私はすべての教会に、そのように命じています。(17)

また、

兄弟たち、それぞれ召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。(24)

だから、自分の後悔に囚われないようにしましょう。むしろ、神様が今語っていることに心を向け、それに従いましょう。過去に起こったことよりも、今の神様の導きがより重要なのです。

パウロの言葉を借りるなら、

重要なのは神の命令を守ることです。(19)

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結婚を後回しにすべきか?

さまざまな理由から、日本でもアメリカでも、多くの人々が結婚を二十代後半から三十代になるまで後回しにしています。

ある意味、それは良いことかもしれません。私の友人の中には、19歳や20歳で結婚した人もいましたが、私の考えでは、それは少し若すぎるように思えます。

(とはいえ、その友人は今も結婚生活を続けているので、彼らにとっては早く結婚することが良い選択だったのでしょう。)

いずれにせよ、私たちは皆異なる状況にあります。ある人にとっては早い結婚が良い選択となる場合もあれば、別の人にとっては待つ方が適していることもあります。この箇所で、パウロはその点を教えています。

コリントの教会では、ある婚約者たちが、結婚すべきか、待つべきか、それとも結婚の予定を取りやめるべきかについて悩んでいたようです。

結婚すべきか、それとも後回しにすべきかを考える人に対して、パウロは三つの重要な視点を示しています。

第一の視点は、結婚に対するあなたの態度です。つまり、あなたには本当に結婚に対する強いコミットメントがあるでしょうか。もしかすると、すでに逃げ道を探しているのではないでしょうか。

あなたは、すでにこのように考えているかもしれません。「もし私たちの結婚がうまくいかないなら、離婚すればいい。」

しかし、もし結婚に逃げ道を求めているなら、結婚しない方がよいでしょう。なぜでしょうか。

イエス様は結婚が生涯続くものであると教えられました。

そして、パウロは次のように書いています。

すでに結婚した人たちに命じます。命じるのは私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。

もし別れたのなら、再婚せずにいるか、夫と和解するか、どちらかにしなさい。また、夫は妻と離婚してはいけません。(コリント人への手紙第一7:10-11)

これは、マタイ19:3-12に記されたイエス様の教えをもとにしたパウロの応用です。イエス様の弟子たちでさえ、その教えを聞いたとき驚きました。彼らは、「それなら、結婚しない方がよいでしょう」と言いました。

もしあなたがこの弟子たちのような考えを持っているなら、結婚しない方がよいでしょう。あなたの態度が変わるまで、結婚を後回しにすべきです。そして、もしあなたの態度が変わらないなら、結婚しない方がよいでしょう。

さらに、もう一つ考慮すべきことがあります。それはあなたの状況です。コリントの人々は「差し迫っている危機」のゆえに、パウロが結婚を後回しにすべきだと勧めました。

ここで、パウロはその理由を説明しています。

(この大変な状況にいる)結婚する人たちは、身に苦難を招くでしょう。私はあなたがたを、そのような目にあわせたくないのです。(28)

コリントの人々がどのような危機に直面していたのかは明確ではありませんが、もしかすると迫害の影響を受けていたのかもしれません。

いずれにせよ、パウロの根本的な教えは、状況によっては結婚を後回しにした方がよい場合もあるということです。

たとえば、あなたの経済状況があまり良くないかもしれません。もし経済的に不安定であれば、結婚生活は困難を伴う可能性があります。実際、多くの結婚は経済的な問題によって破綻してしまいます。

もう一つの重要な要素は、あなたの感情的な負担や精神的な重荷です。もしかすると、過去に元恋人から虐待を受けた経験があるかもしれません。また、幼少期に父親からの虐待を経験したかもしれません。

こうした問題は、あなたの結婚生活に影響を与える可能性があります。そのため、感情的・精神的な問題を乗り越えるまで、結婚を後回しにする方が賢明かもしれません。

さらに、もう一つ考慮すべきことがあります。性的な誘惑を避けるためだけに結婚するのは、一見すると誤った選択に思えるかもしれません。もちろん、それが最良の結婚理由ではないことは明らかです。けれども、多くの人々がその誘惑と戦い続けています。

だから、パウロは次のように書いています。

結婚していない人とやもめに言います。私のようにしていられるなら、それが良いのです。

しかし、自制することができないなら、結婚しなさい。欲情に燃えるより、結婚するほうがよいからです。(8-9)

つまり、もしあなたの恋人への欲望があまりにも強く、自制できないと感じるなら、たとえ状況が理想的でなくても、結婚した方がよいでしょう。

けれども、まだ自制できるなら、厳しい状況が改善されるまで、結婚を後回しにする方が賢明です。

早すぎる結婚は、大きな困難を伴うことがあります。しかし、もし結婚に逃げ道を求めず、配偶者に対する真のコミットメントを持っているなら、神様の恵みによって、どんな問題でも乗り越えることができるでしょう。

だからこそ、結婚を決断する前に、最も大切な問いかけは次のようになります。

「逃げ道を探すことなく、結婚への確かなコミットメントを持って、私は自分自身を相手に捧げることができるだろうか。」

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コリント人への手紙第一

シングルの生活の方がいい?

この箇所を読むと、パウロが結婚に対してそれほど積極的ではないと結論づけるのは容易かもしれません。

パウロは決して、「結婚は素晴らしいものです。結婚する方がよい」とは述べていません。

むしろ、彼は次のように語っています。「結婚するなら、それは罪ではありません。」(コリント人への手紙第一7:28,36)

これは、熱心な勧めとは言えませんね。

さらに、パウロはこう語ります。

婚約者と結婚する人は良いことをしており、結婚しない人はもっと良いことをしているのです。(コリント人への手紙第一7:38)

私たちは、パウロの言葉をどのように理解すべきでしょうか。

パウロは、結婚の良さを控えめに語るというよりも、むしろ独身生活の利点を強調しようとしています。

彼の言葉は、しばしば私たちの家族や友人が言うことと対照的です。

「そろそろ結婚した方がいいんじゃない?もう結婚の年ごろでしょう。」

「あなたはとても素敵な人なのに、どうしてまだ結婚しないの?この人はどう?あの人はどう?」

けれども、パウロははっきりと語ります。「独身の生活で問題ありません。」

なぜでしょうか。

独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を配ります。

しかし、結婚した男は、どうすれば妻に喜ばれるかと世のことに心を配り、心が分かれるのです。

独身の女や未婚の女は、身も心も聖なるものになろうとして、主のことに心を配りますが、結婚した女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世のことに心を配ります。

私がこう言うのは、あなたがた自身の益のためです。あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろ、あなたがたが品位ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるようになるためです。(32-35)

私の経験では、パウロの言葉は真実です。独身でいれば、既婚者よりも主に仕えることが容易です。

奉仕をするとき、私は常に妻と娘の必要を考慮しなければなりません。幸いにも、私の妻もクリスチャンであり、私の奉仕を応援してくれています。

けれども、それでも時間のバランスには気を配る必要があります。妻との時間、娘との時間、そして奉仕の時間を適切に配分することが求められます。

一方、独身の人はこのようなことを考える必要がありません。だからこそ、パウロによれば、結婚せずに独身生活を続けることは神様からの賜物なのです。

では、どのようにして自分がその賜物を持っているかを知ることができるでしょうか。

もし、独身生活を賜物とは思えないなら、もしかすると、それはあなたに与えられた賜物ではないのかもしれませんね。😊

たとえあなたが独身の賜物を持っていたとしても、あるいはそれを待っていなくても、神様はその独身生活を御自身の栄光のために用いることができます。あなたは神様のために多くの人々に触れ、この世に良い影響を与えることができるのです。

私の知り合いの中にも、そのように歩んでいる人がたくさんいました。神様はある友人には後に配偶者を与え、別の人々には独身の生活に満足する心を与えてくださいました。

だからこそ、もしあなたが独身であるなら、自己憐憫に陥らないでください。むしろ、独身の人として、その時間を最大限に活かし、神様に仕えるよう努めましょう。

そして、神様が最も良いタイミングで、最善の相手を与えてくださることを信じてください。

独身として、あなたはどのように自分の時間を活かしていますか。

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コリント人への手紙第一

結婚と離婚

コリント人への手紙第一7章では、パウロはさまざまなテーマについて語っています。

前回の記事で私は結婚について触れたため、今回もこのテーマについて書き続けようと思います。

今日の箇所では、パウロはイエス様の結婚に関する教えを改めて強調しています。

そこで、パウロは次のように語りました。

すでに結婚した人たちに命じます。命じるのは私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。

もし別れたのなら、再婚せずにいるか、夫と和解するか、どちらかにしなさい。また、夫は妻と離婚してはいけません。(コリント人への手紙第一7:10-11)

パウロは、イエス様がパリサイ人に語られた言葉を参考にしています。

イエス様は次のように語られました。

あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され」ました。

そして、「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである」と言われました。ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。

そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。(マタイ19:4-6)

また、

モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。しかし、はじめの時からそうだったのではありません。

あなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すことになるのです。(マタイ19:8-9)

私は以前の記事でイエス様の言葉について触れたので、この記事では詳しく取り上げません。

パウロの教えの核心は、結婚が末永く続くべきものであるということです。だからこそ、私たちはそのように結婚を捉えるべきなのです。

39節で、パウロは次のように語っています。

妻は、夫が生きている間は夫に縛られています。(39)

もちろん、夫も妻が生きている間は妻に結びつけられています。だから、私たちはできる限り、その結婚を守るよう努めなければなりません。

それでも、時には相手がどうしても離婚を望むことがあります。その場合、私たちはどうすべきでしょうか。

パウロは次のように語っています。

そのほかの人々に言います。これを言うのは主ではなく私です。

信者である夫に信者でない妻がいて、その妻が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。

また、女の人に信者でない夫がいて、その夫が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。

なぜなら、信者でない夫は妻によって聖なるものとされており、また、信者でない妻も信者である夫によって聖なるものとされているからです。

そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れていることになりますが、実際には聖なるものです。

しかし、信者でないほうの者が離れて行くなら、離れて行かせなさい。

そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとして、あなたがたを召されたのです。

妻よ。あなたが夫を救えるかどうか、どうして分かりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうか、どうして分かりますか。(12-16)

パウロの教えは分かりやすいと思うので、簡単に解説します。

まず、パウロが「これを言うのは主ではなく私です」と述べたとき、それは単なる個人的な意見であり、「気に入らなければ無視してもよい」という意味ではありません。

むしろ、彼の言葉の意図は、イエス様が信者ではない者が信者と離婚したい場合について直接語られたことがなかった、という事実を示しています。そのため、パウロはこう述べました。

「イエス様はこのケースについて具体的に語っていないので、イエス様に任命された使徒として、私は何をすべきか教えます。」

使徒として、パウロの言葉には権威があります。したがって、私たちはその教えに従わなければなりません。

だから、信者ではない者がどうしてもあなたとの離婚を望むなら、離婚しても構いません。神様はそれを許されています。

とはいえ、あなたの配偶者が信者ではない場合、必ず離婚しなければならないとは限りません。なぜなら、あなたを通して神様の御手があなたの家族の上にあるからです。神様はあなたを通して、配偶者や子供たちに触れることができるのです。

この箇所で「聖なるもの」とは「救われる」という意味ではありません。むしろ、神様はその家族を見て「これは私のものだ」と宣言し、ご自身の目的のためにその家族の中で働かれるのです。

最後に、シングルの人々に対するパウロの教えに注意してください。つまり、結婚を望むなら、クリスチャンはクリスチャンと結婚すべきです。

39節で、パウロは次のように語っています。

しかし、(女の人の)夫が死んだら、自分が願う人と結婚する自由があります。ただし、主にある結婚に限ります。(39)

もちろん、パウロは特に寡婦に語っていますが、その言葉はすべての独身の人にも当てはまります。主に属する人と結婚しなければなりません。

時に、クリスチャンはこう考えます。「その人と結婚すれば、後に救われるかもしれない。」

けれども、よく考えてみましょう。パウロが教えたのは、信者ではない者が離婚を望むなら、その人を自由にさせなさいということです。なぜでしょうか。

妻よ。あなたが夫を救えるかどうか、どうして分かりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうか、どうして分かりますか。(16)

では、その答えは何でしょうか。実際のところ、その人が将来救われるかどうかは分かりません。それについて、神様からの確約はありません。

多くのクリスチャンがノンクリスチャンと結婚し、その結果、大きな葛藤や悩みを抱えてしまいます。クリスチャン同士の結婚であっても、結婚生活は決して容易なものではありません。

それでも、夫婦の根本的な信仰が異なれば、その困難はさらに深まります。

だから、そもそもそのような関係を避けることが最善なのだと思います。

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コリント人への手紙第一

結婚と性的な関係

多くの人々は、性的な必要性を強く感じています。おそらく、その理由の一つは、神様が人間を結婚し、子どもを生み出すように設計され、その欲求を人の心に与えられたからでしょう。

とはいえ、前回の記事でも述べたように、神様は性的な関係に制限を設けておられます。つまり、性的な関係は夫婦のために備えられたものなのです。

日本では、セックスレスの夫婦が増えているようです。このトピックについて書かれた記事も多く見られます。

コリントのクリスチャンたちも、結婚や性的な関係について疑問を抱いていたようです。そこで彼らは、どのように歩むべきかをパウロに尋ねました。

パウロは次のように答えました。

さて、「男が女に触れないのは良いことだ」と、あなたがたが書いてきたことについてですが。。。(コリント人への手紙第一7:1)

「男が女に触れないのは良いことだ」、つまり「性的な関係を持たない方がよい」と考えるコリントの人々もいたようです。

一方で、あるコリントの人々は性的な罪を犯していました。(5章)

その一方で、別のコリントの人々は「性的な関係を持たない方がよい」と主張していました。

もちろん、クリスチャンにとって性的な関係は、夫婦のために設けられたものです。そのため、彼らの主張が意味するところは、「結婚しない方がよい」ということでした。

パウロは、独身の生活も良いものであると教えました(7:7-8, 32-35節)。それでも、彼は彼らに次のように語りました。

淫らな行いを避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。(コリント人への手紙第一7:2)

つまり、性的な欲望が非常に強いため、結婚しないと人が性的な罪に陥る可能性が高いということです。そして、私が以前述べたように、神様の御心は人間が結婚し、子供を作ることであるため、神様はその強い欲望を人々に与えられたのです。

実は、結婚は神様との関係の描写です。私たちはキリストと結ばれます。キリストは花婿のようであり、私たちは花嫁のようです。そして、その結婚を通して、私たちはイエス様への愛を持ち、義の実を結ぶのです。

とにかく、パウロが教えたのは、夫婦が結婚した後、配偶者との性的な関係を持つことは許されているということです。さらに、パウロは、彼らがそれを定期的に行うべきだと述べています。

そこで、パウロは次のように語りました。

夫は自分の妻に対して義務を果たし、同じように妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。

妻は自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは夫のものです。

同じように、夫も自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは妻のものです。

互いに相手を拒んではいけません。ただし、祈りに専心するために合意の上でしばらく離れていて、再び一緒になるというのならかまいません。

これは、あなたがたの自制力の無さに乗じて、サタンがあなたがたを誘惑しないようにするためです。(3-5)

パウロはこの言葉を通して、私たちが忘れてはならない結婚の原則を教えています。

第一に、結婚すると、あなたの体はもはや自分だけのものではなくなります。あなたは配偶者に属し、同様に配偶者もあなたに属するのです。だからこそ、パウロは「互いに相手を拒んではいけない」と教えています。

パウロによれば、祈りに専念するために一時的に控えることは許されますが、それでも相手の合意が必要です。

けれども、パウロは夫婦が再び結びつくべきだと教えています。なぜでしょうか。それは、そうしないとサタンがすぐにあなたたちを性的な罪へと誘惑するからです。

これは特に男性にとっての問題ですが、もちろん女性も誘惑される可能性があります。

しかし、多くの夫婦はこの指示に従わないため、結婚が崩れてしまいます。彼らは結婚の外で自分の性的な欲求を満たそうとし、その結果、夫婦関係を破壊し、配偶者を傷つけ、さらには子供にも深い傷を与えてしまいます。

だから、そうではなく、神の導きに従い、不倫を避け、配偶者との関係の中で性的な満足と幸せを求めましょう。

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コリント人への手紙第一

なぜ性的な罪はそれほど深刻なのか

もちろん、すべての罪は悪いものです。けれども、パウロは特に性的な罪が深刻であると語っています。

特に、クリスチャンにとって性的な罪は重大なものだと強調しています。

そこで、パウロは次のように語りました。

あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだはキリストのからだの一部なのです。(コリント人への手紙第一6:615a)

パウロはさらに説明します。

しかし、主と交わる者(つまり、クリスチャン)は、主と一つの霊になるのです。(17)

また、

あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり(ます)(19a)

では、もし私たちが遊女と関係を持ったら、どうなるでしょうか。

パウロは次のように語っています。

それとも、あなたがたは知らないのですか。遊女と交わる者は、彼女と一つのからだになります。「ふたりは一体となる」と言われているからです。(16)

要するに、神様がセックスを創造された目的は、単に子供を生み出すことや楽しむことだけではありません。それは、夫と妻が一体となるためのものです。

セックスによって、単なる肉体的な結びつきだけでなく、深い感情的な一致も生まれます。たとえ遊女と関係を持ったとしても、その一致が形成されるのです。

このことを踏まえ、パウロは非常に衝撃的な描写を用いて警告を与えています。

それなのに、キリストのからだの一部を取って、遊女のからだの一部とするのですか。(15b)

私は、パウロの論点をさらに説明する必要はないと思います。

しかし、罪は遊女との関係だけに限らず、あらゆる性的な罪が悪いのです。

「淫らな行い」や「不品行」とは何でしょうか。それは、夫婦の関係以外での性的行為を指します。

夫と妻の間のセックスは神様に祝福されるものですが、それ以外の性的な行為は神様に呪われてしまいます。(9)

では、なぜ性的な罪は他の罪と異なるのでしょうか。それは、性的な罪が特別な形で私たちに影響を及ぼすからです。この罪によって、私たちは相手と深く結びついてしまいます。

だから、パウロは次のように語っています。

人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、淫らなことを行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。(18)

おそらく、多くの人々はパウロの言葉を理解できるでしょう。

けれども、心に留めておきましょう。私たちの体は、キリストの体の一部なのです。

ですから、遊女と関係を持つことは、まるで私たちがイエス様をその遊女と結びつけているかのようです。

また、他の人の配偶者と関係を持つことは、まるでキリストがその罪に関与するかのようです。さらに、彼や彼女と関係を持つことは、まるでイエス様がその罪に加わるかのようです。

それは、非常に恐ろしい考えではないでしょうか。

だから、パウロは次のように語っています。

淫らな行いを避けなさい。。。あなたがたはもはや自分自身のものではありません。

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。(18-20)

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コリント人への手紙第一

キリストにある自由の誤解

パウロの書簡の中で、一つの重要なテーマは、私たちが律法から解放されていることです。私たちはもはや律法の下にはなく、恵みの下にあるのです。

けれども、現代の人々と同様に、パウロの時代の人々もその教えを曲げてしまいました。

コリントの人々は故意に罪を犯し、互いに傷つけ合っていたため、パウロは彼らを厳しく戒めました。

そこで、パウロは次のように語りました。

あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。

思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。(コリント人への手紙第一6:9-10)

コリントの人々はどのように反応したのでしょうか。彼らはこう言いました。

「でもね、パウロ。あなたは『すべてのことが私には許されている』と言いましたよね。だったら、罪を犯してもいいんじゃないですか?結局、これは私の人生でしょう?」

けれども、パウロは答えました。

「すべてのことが許されているかもしれない。しかし、すべてが益となるわけではありません。」(12)

8章では、一つの例が示されています。

偶像に捧げられた食べ物を食べること自体は罪ではありません。とはいえ、もしあなたの兄弟がそれを見て躓いてしまうと分かっているなら、あなたはそのような食べ物を食べてはならないのです。それは兄弟にとって益にならないからです。

さらに、パウロは続けます。「すべてのことがあなたに許されている。それでも、あなたは何ものにも支配されてはなりません。特に、罪に支配されてはなりません。」(12)

ローマ人への手紙では、パウロはさらに詳しく説明します。

あなたがたは知らないのですか。あなたがたが自分自身を奴隷として献げて服従すれば、その服従する相手の奴隷となるのです。

つまり、罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至ります。(ローマ人への手紙6:16)

多くの人は、最初は自ら罪を選ぶが、やがてその罪の奴隷となってしまいます。

飽食はその一例です。ポルノもまた一例です。人々は故意にその罪に耽りますが、ある時、自分の行動をもはやコントロールできなくなっていることに気づきます。

医師が「体重を減らさなければならない。そうしなければ、必ず心臓発作を起こすでしょう」と警告しても、彼らは食生活を変えることができません。

または、結婚生活が困難になっても、ポルノをやめることができません。

あるコリントの人々はこう言いました。

「でも、神様の御心は私たちが食べることです。そのために私たちに胃袋を与えられました。また、神様は私たちを性的な存在として創造されました。それゆえ、私たちにはそのニーズを満たすことが必要です。なぜ、さまざまな制限が課されるのでしょうか。」

しかし、パウロが答えたのは、確かに私たちは胃袋を持ち、性的な存在であるものの、それらの欲求を満たすことが私たちの主な目的ではないということです。

私たちは単に自分のために生きるために創造されたのではありません。私たちは自分自身を喜ばせるためだけに存在するのではないのです。

そこで、パウロは次のように語りました。

「食物は腹のためにあり、腹は食物のためにある」と言いますが、神は、そのどちらも滅ぼされます。(13a)

要するに、食べ物も腹も永遠のものではなく、一時的なものです。したがって、私たちはただ自分の腹を満たすために創造されたのではありません。

パウロは続けてこう言いました。

からだは淫らな行いのためではなく、主のためにあり、主はからだのためにおられるのです。(13b)

つまり、私たちは罪を犯すためではなく、むしろ主を喜ばせるために創造されたのです。

私たちは主の宮となるように創造されました。そして、イエス様は私たちを贖うために、十字架で大きな代価を支払われました。

そこで、パウロは次のように書き記しました。

あなたがたは知らないのですか。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。

ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。(19-20)

キリストにある自由とは、私たちが自分のためだけに生き、罪に耽ることではありません。むしろ、それは私たちを滅ぼしていた罪から解放するものです。

したがって、私たちはもはや神様からの罰を恐れる必要はありません。むしろ、神様が私たちを愛しておられ、聖霊様が私たちのうちに住んでおられることを知り、安心して歩むことができます。そして、私たちが創造された本来の目的を全うするのです。

それは、神様を愛し、敬い、栄光を捧げることです。

あなたはどうでしょうか。あなたはどのように自分の自由を用いるでしょうか。

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コリント人への手紙第一

私たちは世にどう映るのか

アメリカでは訴訟が日常茶飯事となっています。どんなに理不尽な訴えであっても、人々は相手を訴えることがあります。

アメリカと比べると、日本では訴訟の件数はそれほど多くありませんが、それでも相手を訴える人はいます。

コリントのクリスチャンたちの間でも、多くの訴訟が行われていたようです。パウロはそれを見て、二つの点に困惑しました。

一つ目は、兄弟姉妹が故意に罪を犯していたことです。二つ目は、傷ついた兄弟姉妹が相手を訴えていたことです。

さらに、傷ついた者自身が「毒をもって毒を制す」ように、相手に対して悪事を働いてしまいました。

そこで、パウロは彼らに次のように語りました。

それどころか、あなたがた自身が不正を行い、だまし取っています。しかも、そのようなことを兄弟たちに対してしています。

あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。

淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をするもの、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することが出来ません。(コリント人への手紙第一6:8-10)

要するに、自分自身を欺いてはいけないということです。たとえクリスチャンを自称していたとしても、悔い改めることなく罪を犯し続けるなら、神の国を相続することはできません。

ある人は、パウロが救いを失った人について語っていると考えます。けれども、そのような人はそもそも真のクリスチャンではなかったのではないでしょうか。

とはいえ、パウロはコリントの人々が本物のクリスチャンであることを前提としています。だから、パウロは次のように語りました。

あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。

しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。(11)

つまり、「あなたたちは神様に清められ、神様のために聖別されました。あなたたちは新しく造られた者となったのです。それなのに、どうして兄弟姉妹をこのように扱うのでしょうか」ということです。

そして、クリスチャン同士の訴訟について、パウロは次のように語りました。

「やがて、あなたたちは世界の人々を裁くことになるのです。さらに、天使たちをも裁く立場となるでしょう。それならば、どうしてこんな些細な問題すら解決できないのでしょうか。」(2~5節)

けれども、パウロが本当に怒ったのは、コリントの人々が自らの恥をノンクリスチャンの前にさらしてしまったことです。それを目の当たりにしたノンクリスチャンは、こう問いかけます。

「クリスチャンとは、そのようなものなのですか?結局、私たちと変わらないのではないですか?彼らも互いに傷つけ合っているではありませんか。」

要するに、彼らの罪は教会の汚点となってしまったのです。

だから、パウロは次のように語りました。

そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。

どうして、むしろ不正な行いを甘んじて受けないのですか。

どうして、むしろ、だまし取られるままでいないのですか。(7)

コリントの人々は二つの点で敗北してしまいました。

一つ目は、彼らがサタンと戦うことなく、互いに争い合ってしまったことです。

二つ目は、彼らの評判が損なわれてしまったことです。

イエス様は次のように語られました。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネ13:35)

しかし、私たちは教会でそのように行動しているでしょうか。それとも、互いに争い合い、サタンに勝利を許してしまっているのでしょうか。

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コリント人への手紙第一

兄弟姉妹が故意に罪を犯すとき

前回の記事で、私は兄弟姉妹が厚かましく罪を犯す場合、教会がそのような態度を寛容に許すべきではないと述べました。

けれども、二つの重要な注意点があります。

一つ目は、パウロが「罪と戦っている人を避けるべきだ」と言っているわけではないということです。ここでのキーワードは「戦っている」です。

私たちは皆、自分の罪と戦っています。毎日、克服しなければならない罪があります。さらに、どれほど戦っても、ある罪はしつこく残ることがあります。

とはいえ、罪と戦うことと、故意に罪を犯すことは全く異なります。

クリスチャンにとって、罪との戦いは困難です。自分の行為が悪いと認識し、その罪に苦しんでいます。心の中では本当にその罪を捨てたいと願い、毎日神様の前に来て、その罪を克服する力を求めて祈ります。

もし、罪によって本当に苦しんでいるのなら、他のクリスチャンに祈りと支援を求めるべきです。そして、もし罪に陥ったなら、すぐに悔い改めることが必要です。

しかし、故意に罪を犯すことは、自らの罪を誇り、全く悔い改めようとしないことを意味します。そのような人は次のように言うでしょう。

「これは私の性格です。私は変わらないので、あなたは私をありのままで受け入れなければなりません。」

もし他のクリスチャンが御言葉を通してその人を戒めようとすると、その人は自分自身の行為を正当化しようとします。

コリントの教会の兄弟も、そのような態度で振る舞っていました。彼は罪と戦っていませんでした。むしろ、故意に罪を犯し続けていたのです。

そして、パウロは「そのような人と交際してはならない」と語りました。もし、その人の罪を見過ごし、その人を受け入れるなら、その罪はパン種のように教会全体へと広がってしまうからです。

もう一つの重要な注意点があります。それは、その人を戒めるときの私たちの心の態度です。パウロは次のように語りました。

「その人の罪の故に、あなたたちは悲しむべきだったでしょう。」(コリント人への手紙第一5:2)

その人に対する態度は、傲慢ではなく、悲しみであるべきです。私たちの願いは、彼らが悔い改めることにあります。

故意に罪を犯すクリスチャンを教会から除く理由は二つあります。

一つ目は、その罪が教会全体に広がらないようにするためです。

二つ目は、その人が悔い改める機会を得るためです。

パウロは次のように語りました。

そのような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それによって彼の霊が主の日に救われるためです。(5)

「その人をサタンに引き渡しなさい。」

これは非常に厳しい言葉です。けれども、パウロの意図はこうです。「その人が故意に罪を犯すので、この世に送り出しなさい。彼を教会の守りから離れさせ、サタンの攻撃を許しなさい。」

なぜ、そのようなことを許すのでしょうか。サタンがその人を滅ぼすためでしょうか。

そうではありません。

私たちの願いは、その人が放蕩息子のように自らの罪の悲惨さを悟り、悔い改めることです。その結果として、彼の罪深い心が砕かれ、イエス様が再び来られるときに、その人が救われることです。

要するに、その人に対する私たちの態度は愛であるべきです。とはいえ、愛とは故意に罪を犯す人を無条件に受け入れることではありません。

愛とは、その罪を悲しみ、その人をこの世に送り出し、悔い改めを待つことです。

罪の深刻さを決して忘れないでください。イエス様が罪のために命を捧げられたほどに、罪は重大なものです。

イエス様の犠牲を知りながら故意に罪を犯すことは、「神の御子を踏みつけること」であり、「恵みの御霊を侮ること」なのです。(へブル人への手紙10:29)

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コリント人への手紙第一

罪を容認し、誇る?

以前の記事で、私は「寛容」について述べました。「寛容」という言葉は、アメリカ人にとっては一種の合言葉のようなものです。

もちろん、ある意味で寛容は素晴らしいことです。たとえば、相手と意見が異なっていても、互いに尊敬し合い、良好な関係を築くことができるなら、それは非常に価値のあることです。

私たちクリスチャンは、当然ながらノン・クリスチャンに対して寛容であるべきです。彼らは私たちと同じ信仰を持っていないため、私たちと同じように振る舞うことは期待できません。

そのことを理解しつつ、彼らを愛し、共に時間を過ごし、福音を伝え、彼らのために祈るべきです。

イエス様はそのようにされました。イエス様は「罪びとの友」と呼ばれていました。実際、宗教的な人々が反感を抱くほど、イエス様は罪人たちと積極的に時間を過ごされました。

それでも、パウロははっきりと語ります。自らをクリスチャンだと主張しながら厚かましく罪を犯す者に対して、私たちは安易に寛容であってはなりません。

けれども、ある教会は「愛」と「受け入れ」という名のもとに、そうした振る舞いを許容してしまうことがあります。コリントの人々もそのようにしていたようです。

ある人は、自分をクリスチャンだと主張しながら、母と関係を持っていました。もしかすると、それは実の母ではなく義理の母だったかもしれません。一般のコリントの人々でも、そのような関係を容認していませんでした。

それでも、コリントの教会はこうした態度をとっていたようです。

「私たちは愛に満ちた教会です。私たちはすぐに人を許し、受け入れます。私たちはとても寛容な教会なので、たとえ義理の母と関係を持っていたとしても、その人を受け入れます。」

この報告を聞いたパウロは、深く驚きました。そして、彼は次のように語りました。

あなたがたが誇っているのは、良くないことです。わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか。

新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。

ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。(コリント人への手紙第一5:6-8)

聖書では、パン種は罪の比喩とされています。そのため、過ぎ越し祭りの時、ユダヤ人たちはパン種のないパンを食べました。

何百年後、過ぎ越しの祭りの時に、イエス様はパンを裂いて「これは私の体だ」と言われました。そのパンは、イエス様の罪のない人生を象徴しています。イエス様は罪を犯さなかったにもかかわらず、私たちのために命を捧げてくださいました。

そこで、パウロはコリントの人々に次のように語りました。

「もしその罪を放置すれば、やがて教会全体に広がってしまいます。もし、このクリスチャンが厚かましく罪を犯しているにもかかわらず、あなたたちがその振る舞いを容認するなら、他の人々もその模範に倣い始めるでしょう。」

だから、その悪意と邪悪のパン種を取り除き、誠実と真実に満ちた教会となりなさい。

パウロはさらに続けて語りました。

私が今書いたのは、兄弟と呼ばれる者で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、そのような者とは付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。(11)

それは厳しい言葉です。多くの教会は今日、その言葉を愛の言葉とは見なしません。けれども、パウロの言葉は極めて明確です。

ただし、注意が必要です。パウロは、ノン・クリスチャンの罪人と、厚かましく罪を犯すクリスチャンを区別しています。

パウロは次のように語りました。

外部の人たちをさばくことは、私がすべきことでしょうか。(それは違います。)

あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。(もちろん。)(12)

そしてパウロはこう言います。

外部の人たちは神がおさばきになります。「あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。(13)」

教会の人々は罪人を愛するべきでしょうか。当然です。

しかし、愛の名のもとに、クリスチャンの厚かましい罪を許容すべきでしょうか。それは許されることではありません。

それでも、明日、私はさらに詳しく説明することがあると思います。どうぞお楽しみに。

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コリント人への手紙第一

誰に従っている?

私たちは人生を歩む中で、さまざまな人を尊敬し、見上げることがあります。例えば、両親や先生、コーチ、牧師などです。

多くの場合、彼らは良い模範となります。けれども、パウロは誰に従うかを慎重に選ぶべきだと警告しています。

クリスチャンの世界でも、多くの人々の言葉は魅力的に聞こえます。とはいえ、パウロは次のように語りました。

神の国はことばではなく、力にあるのです。(コリント人への手紙第一4:20)

そして、パウロはコリントの人々に次のように語りました。

主のみこころであれば、すぐにでもあなたがたのところに行きます。そして、思い上がっている人たちの、ことばではなく力を見せてもらいましょう。(19)

私たちが従うリーダーについて、「彼らはどのような力を持っているのか」と問いかけるべきです。彼らの力は神様から来ているのでしょうか。それとも、別のところから来ているのでしょうか。

彼らは自分のカリスマに頼っているのでしょうか。財産に依存しているのでしょうか。それとも、権力を頼りにしているのでしょうか。あるいは、彼らの力はサタンから来ているのでしょうか。

私たちはどのように彼らの力の源を見極めることができるでしょうか。それは、彼らの実によって判断できます。

イエス様は次のように語られました。

偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、裏側は貪欲な狼です。

あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。(マタイ7:15-16)

私たちはどのような実を見極めるべきでしょうか。それは、彼らの教えと行いです。

パウロは、自分自身とテモテについて語った際に、同じ基準を用いました。彼は次のように語りました。

そのために、私はあなたがたのところにテモテを送りました。テモテは、私が愛する、主にあって忠実な子です。

彼は、あらゆるところのあらゆる教会で私が教えている通りに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。(17)

そのような人を見つけたなら、彼らの模範に倣うべきです。だからこそ、パウロは次のように語りました。

ですから、あなたがたに勧めます。私に倣う者となってください。(16)

しかし、もし彼らの実が腐っているなら、私たちは彼らを避けるべきです。

あなたはどうでしょうか。あなたは誰に従っていますか。

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コリント人への手紙第一

プライドについての警告

C.S.ルイスというクリスチャンの著者は、プライドを「最大の罪」と呼びました。なぜでしょうか。それは、プライドが神様と私たちの間に壁を築くだけでなく、私たちと周囲の人々の間にも壁を生み出すからです。

エデンの物語の中で、その問題を見ることができます。エバはプライドによって「神様のようになりたい」と願い、罪に陥ってしまいました。また、プライドによってサタンも罪に落ちたとされています。

今日の箇所では、プライドがコリントの教会を引き裂いていたことが分かります。さらに、プライドはパウロとコリント人の間に壁を作っていました。

コリント人への手紙第一4章4〜13節と18〜19節によれば、コリントの人々はパウロを見下していたようです。自分の持ち物や知識に誇りを持ち、満足していたため、パウロの弱さや苦しみを目にしたとき、彼らは彼を軽蔑しました。

しかし、パウロは彼らに次のように語りました。

それは、私たちの例から「書かれていることを超えない」ことをあなたがたが学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して思い上がることのないようにするためです。(コリント人への手紙第一4:6)

「書かれていることを超えない」とは、どういう意味でしょうか。

答えははっきりしませんが、おそらくパウロは、キリストにある私たちの立場に関する教えについて語っているのだと思われます。

つまり、私たちの救いは身分や行いによるものではなく、神様の恵みに基づいているのです。

もし私たちが神様の恵みによって救われた者であることを覚えていれば、他の人々を軽蔑することはありません。また、リーダーたちを比較することもありません。

パウロはその真理を明確に教え、コリントの人々に思い出させました。

いったい誰が、あなたをほかの人よりも優れていると認めるのですか。

あなたには、何か、もらわなかったものがあるのですか。

もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。(7)

最初の答えは少し曖昧です。もしかすると、パウロは「私は偉い」という態度を批判しているのかもしれません。

もしそれがパウロの意図であるなら、その答えは「あなたを他の人よりも優れていると認める者は誰もいません」となるでしょう。

けれども、パウロのポイントは別の可能性も考えられます。「もしあなたが本当に優れている人なら、それは神様の恵みによってその立場が与えられたのです。」

最後の二つの答えは明確です。二番目の答えは「何も」です。つまり、あなたが受け取らなかったものは何もないのです。

そして、三番目の答えは「あなたには誇る理由がありません。」

これらの答えを考えると、私たちは謙遜な態度を持たなければならないのです。

しかし、多くの場合、私たちはそのようには考えません。むしろ、私たちのプライドによって、神様との間に壁を築き、さらには周囲の人々との間にも壁を作ってしまいます。

もし私たちが神様の恵みを深く実感するなら、私たちの考え方は大きく変わるでしょう。そして、神様との関係だけでなく、配偶者との関係、教会の人々との関係、さらにはその他の人間関係もどれほど良くなることでしょうか。

あなたはどうでしょうか。あなたのプライドによって、どのような壁を築いてしまっているでしょうか。

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コリント人への手紙第一

忠実であると認められること

使徒ヤコブは次のように記しました。

私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。(ヤコブの手紙3:1)

私は聖書を教える立場にあるため、それは私にとって少し恐れを感じる言葉です。神様は私にみ言葉を与え、そのみ言葉を教える賜物を委ねてくださいました。だから、パウロの言葉は私の心に深く響きます。

その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。(コリント人への手紙第一4:2)

しかし、私たちすべてが神様から託されたものを持っています。神様は私たちに多くの資源や賜物、才能を委ねてくださいました。そして、神様はそれらを忠実に用いることを私たちに期待されます。

もし私たちがそうしなければ、神様の前で責任を問われることになります。

神様は私たちの裁き主であるため、私たちは他の人以上に神様を喜ばせようとしなければなりません。最終的には、牧師や教会の人々、周囲の誰かではなく、ただ神様だけを喜ばせることが求められるのです。

だからこそ、私たちは常に自分の心を探るべきです。私たちの動機は何でしょうか。私たちは正しい動機を持って神様に仕えているでしょうか。

私自身も、自分の動機について疑問を抱くことがあります。裁きの日にキリストが私に何を語るかを思うと、少し恐れを感じます。イエス様は何を言われるでしょうか。

パウロにはやましいことは何ひとつありませんでしたが、それでも彼は自分の動機について慎重に考えていました。彼は次のように語りました。

しかし私にとって、あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。それどころか、私は自分で自分をさばくことさえしません。

私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。

ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。

主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。(3-5)

おそらく、パウロの要点の一つは、私たちが自分の心をプライドから守る必要があるということです。自分の動機は正しいと思うかもしれませんが、その自己評価が正しいとは限りません。

預言者エレミヤは次のように記しました。

人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。(エレミヤ書17:9)

主は次のように応答されました。

わたし、主が心を探り、心の奥を試し、それぞれその生き方により、行いの実にしたがって報いる。(エレミヤ書17:10)

だから、どのようなことをするにしても、自分の心を探りましょう。また、主があなたの心を探ってくださるように祈りましょう。さらに、主が私たちの動機を明らかにしてくださるように祈りましょう。

そうすれば、私たちは謙遜な態度を保ち、神様から託されたものを忠実に用いることができるのです。

あなたはどうでしょうか。神様から託されたものを忠実に用いていますか。

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コリント人への手紙第一

どのような心で主に仕えるか?

ある程度、私は前回のブログの内容を繰り返します。しかし、今回は特に強調したい点があります。

まず第一に、神様と共に働くことは私たちの特権です。パウロは次のように語りました。

私たちは神のために働く同労者であります。(コリント人への手紙第一3:9)

聖書の脚注を参考にすると、別の訳を見ることができます。

「私たちは神の協力者。」

この言葉について少し考えてみましょう。神様は実際には私たちの助けを必要とされません。神様は一人でご自身の働きを成すことができます。

しかし、神様は私たちを用いることを選ばれます。そして、神様は私たちをその働きに参加するよう招いておられます。それは本当に驚くべきことです。

神様が私たちを救われた目的は、単に座って神様の恵みを享受することではありません。神様は、私たちが御国において積極的に働くことを望まれます。

だから、神様は私たちを招いておられます。「私の働きに参加しませんか。一緒に働きましょう。」

しかし、二つ目のポイントは、神様が私たちを招かれる目的が、私たちの栄光ではないということです。パウロは次のように語りました。

アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。

あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられたとおりのことをしたのです。(5)

しもべは周囲の人々の注意を引こうとはしません。本当に良いしもべは、人に気づかれることがありません。それでも、その人は与えられた務めを忠実に果たします。

そして、一日の終わりに、その人はこう言います。

私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです。(ルカ17:10)

この世の主人はしもべを評価しないかもしれず、あるいは見下すことさえあるかもしれません。しかし、神様は私たちを協力者として見なされ、私たちと共に働かれます。

なぜなら、神様が私たちの人生の中で働かれず、また私たちを通して働かれなければ、私たちは何も達成することができないからです。だから、パウロは次のように書きました。

私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。(6)

したがって、私たちには誇るべき余地はありません。パウロは続けてこう言います。

ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。(7)

最後に覚えておくべきことは、神様の働きに参加する人々は教会のリーダーたちの労働者ではないということです。彼らは神様の畑であり、神様の建物なのです。(9)

多くの人々は、ミニストリーの縄張りを作りがちです。同じミニストリーに携わっていると、それを自分の縄張りと考え、そこで働く人々を自分の労働者のように思い始めてしまうことがあります。

しかし、主はそれぞれの人々に働きを任命されます。そして、主は常に人々をその働きに参加するよう招いておられるため、新しい人々が加わると、既存の人々の責任が変わることもあります。それは御国の成長のためなのです。

しかし、イエス様が他のクリスチャンを招くとき、あるクリスチャンは怒ることがあります。なぜなら、新しく加わった人々が自分の縄張りを脅かしていると感じるからです。

そして、もしその人々がより才能に恵まれていたなら、彼らは嫉妬してしまうでしょう。

しかし、心に留めておきましょう。すべてのクリスチャンはキリストの体の中で、それぞれの役割を持っています。神様は一人ひとりに異なる働きを与えてくださいました。

私たちはもちろん神様と共に働きますが、同時に他のクリスチャンたちと協力して働くのです。

だからこそ、縄張り意識と嫉妬を手放しましょう。教会は神様の畑であり、神様の建物なのです。

何よりも、私たちは神様との関係に焦点を当てるべきです。神様が私たちをご自身の働きに招く理由は、私たちが神様とより多くの時間を過ごすことです。その中でこそ、私たちは本当の喜びを見つけるのです。

あなたは神様の働きをするとき、どのような心構えを持っていますか。

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コリント人への手紙第一

何の原料で教会を建てるでしょうか

今日の箇所で、パウロは私たちがどのように教会を建てているかについて語っています。そして、私たちはその建て方に注意を払わなければならないと警告しています。

まず、パウロは教会の土台について語ります。もちろん、その土台はキリストです。(11)

しかし、私たちはどのような材料を用いて、その土台の上に教会を建てるのでしょうか。牧師のカリスマでしょうか。それとも、ねたみでしょうか。陰口でしょうか。あるいは、プライドでしょうか。

牧師のカリスマは悪いものではありませんが、それは安定した建材ではありません。

では、その他のものはどうでしょうか。それらは教会を壊してしまいます。

だから、教会のメンバー—牧師であれ、新しく加わったばかりのメンバーであれ—それぞれが自分の役割を果たしている間に、自ら問いかけるべきです。「私はどのような材料を用いて、この教会を建てようとしているのだろうか。」

私たちが用いる材料によって、私たちは裁かれます。

パウロは次のように語りました。

だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、それぞれの働きは明らかになります。「その日」がそれを明るみに出すのです。

その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。

だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。

だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。(コリント人への手紙第一3:12-15)

もし自分の役割を十分に果たさなければ、私たちは地獄に行くことはありませんが、自分の報いを失ってしまいます。そのため、ある人は天国に入るものの、彼らの成果はすべて失われてしまうのです。

なぜでしょうか。それは、彼らの心が神様の目に正しくなかったからです。彼らはねたみやプライドに満ちた心を持っていました。そのような態度によって教会に分裂が生じ、さらには教会が破壊されてしまうこともあります。

だから、パウロは次のように語りました。

あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。

もし、だれかが神の宮を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。神の宮は聖なるものだからです。あなたがたは、その宮です。(16-17)

パウロが語ったのは、クリスチャンである私たちは神様の宮であるということです。言い換えれば、教会は神様の宮なのです。

もし私たちの行動によって教会が滅びるなら、神様は私たちを裁かれます。私たちのプライドやねたみによって教会が壊れたなら、私たちは神様の前で責任を問われることになります。

だから、パウロは「そんなものを捨てなさい」と命じています。プライドやねたみ、そして分裂を生み出す知恵を捨て去りましょう。むしろ、十字架の「愚かさ」を抱きましょう。

十字架の愚かさこそが、私たちに謙遜と感謝の心をもたらします。そのような心を持つなら、私たちは互いに受け入れ合う態度へと導かれるのです。

あなたはどうでしょうか。あなたが牧師であれ、教会の最も新しいメンバーであれ、あなたには教会を建てる役割があります。どのような材料を用いて教会を建てているでしょうか。

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コリント人への手紙第一

幼子

2章で、パウロは「成熟したクリスチャン」や「御霊を受けている人」について語っています。

この場合、「御霊を受けている人」には「霊的な人」というニュアンスがあります。つまり、聖霊様を受けているだけでなく、その人は聖霊様の導きに従っているのです。

しかし、パウロはコリントの人々を「成熟したクリスチャン」や「聖霊様の導きに従っているクリスチャン」とは呼ぶことができませんでした。むしろ、パウロは次のように語りました。

兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。

私は、あなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。

あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。

ある人は「私はパウロにつく」と言い、別の人は「私はアポロに」と言っているのであれば、あなたがたは、ただの人ではありませんか。(コリント人への手紙第一3:1-4)

それは非常に厳しい言葉かもしれません。しかし、もしパウロがあなたを見たなら、何と言うでしょうか。もしイエス様があなたを見たなら、どのように語られるでしょうか。

私の言葉を誤解しないでください。もしあなたが最近クリスチャンになったばかりなら、私はあなたのことを言っているのではありません。

もちろん、あなたは霊的に幼い段階にあるため、成長すべきことが多くあるでしょう。しかし、もし赤ちゃんが決して成長しないなら、それは深刻な問題です。

例えば、もし私の10歳の娘がまだ哺乳瓶でミルクを飲んでいたら、それはおかしいでしょう。赤ちゃんの頃なら微笑ましい光景ですが、10歳の子どもにはふさわしくありません。

もし彼女が歩かずに、まだはいはいしていたら、それはおかしいでしょう。

また、もし彼女が赤ちゃん言葉しか話せないなら、それもおかしいでしょう。

しかし、多くのクリスチャンは、今もなお霊的に幼い状態にあります。彼らは、ほとんど成長することなく歩み続けているのです。

つまり、彼らはまだ「肉に属する人」と言えるでしょう。そのような人は、ノンクリスチャンのように生き続けます。

コリントの人々の場合、彼らの心はねたみに満ち、絶えず争っていました。彼らはプライドを持ち、リーダーたちを比較し、他のクリスチャンを見下していました。その結果、彼らの教会は分裂してしまったのです。

現代においても、どれほど多くの教会が同じ理由で引き裂かれているでしょうか。また、その問題によって、どれほど多くの人々が教会を離れているでしょうか。それは霊的未成熟の兆候です。

もしあなたの心がそのようなものに満ちているなら、どのように霊的に成長できるでしょうか。あなたは根本的なことに立ち戻らなくてはなりません。つまり、あなたは福音のミルクをもう一度飲む必要があります。

そのミルクとは何でしょうか。そのミルクにはどのような真理が含まれているでしょうか。

それは、神様があなたを愛しているということです。あなたの身分によってではなく、あなたの行いによってでもなく、神様ご自身の性質によって、神様はあなたを愛しておられます。

そして、あなたの罪のためにイエス様をこの世に送り、十字架で死なせるほどに、神様はあなたを愛してくださいました。

では、なぜ私たちはプライドを持つのでしょうか。なぜ自分自身を他の人と比べるのでしょうか。なぜ私たちは相手をねたみ、争うのでしょうか。それは、神様があなたを愛しているという真理を、まだ心から実感していないからです。

もし私たちが神様の愛を本当に知っているなら、他の人の評価を気にすることはありません。

私たちは相手をねたむこともなく、自分自身を他の人と比べることもありません。なぜなら、神様が私たちをありのままで受け入れてくださるからです。

さらに、私たちはプライドを捨てます。なぜなら、私たちには誇るべきものが何もないと悟るからです。私たちが持っているものすべては神様から与えられたものです。

もし私たちがその祝福を得るために何かをしたのではなく、ただ恵みによって受け取ったのなら、自慢する余地はないのです。

あなたはどうでしょうか。その真理が心に深く刻まれていますか。

私たちがこの世の考え方に流されないように。私たちが霊的に幼いままで留まらないように。

むしろ、その真理をしっかりと受け入れましょう。そうすれば、私たちは成長し、神様が望まれる姿へと変えられていきます。

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コリント人への手紙第一

神様の思いを知るため

目に見えない神がご自身を私たちに現されなければ、私たちはその神について何も知ることはできません。

さらに、たとえ神がご自身を私たちに現されたとしても、私たちに理解できる心を与えてくださらなければ、その啓示を正しく認識することはできないでしょう。

これこそ、救いと恵みの神秘の一つです。私たちの目には神様は見えませんが、神様はご自身を現してくださいました。

そして、私たちは自分の知恵によって神様の啓示を理解することができませんでしたが、神様は御霊を通して私たちにその理解を与えてくださいました。

この箇所において、私たちはこの真理を知ることができます。

パウロは次のように問いかけました。

人間のことは、その人のうちにある人間の霊のほかに、いったいだれが知っているでしょう。

同じように、神のことは、神の霊のほかにはだれも知りません。(コリント人への手紙第一2:11)

結婚する前、私は婚約者にこう言いました。「私はあなたの思いを読み取ることはできません。だから、気になることがあれば、私に教えてください。」

人の思いを読み取ることは、とても難しいことです。彼らはいったい何を考えているのでしょうか。何を感じているのでしょうか。何を計画しているのでしょうか。

もし目に見える人の思いさえ読み取ることができないなら、どうして目に見えない神の思いを理解できるでしょうか。

人は自分の知恵によって神様とその計画を理解することはできません。

7~8節で、パウロはその例として神様の救いの計画を示しました。神様は初めからご自身の計画を知っておられましたが、人々はその計画を完全に理解することができませんでした。

神様はユダヤ人に儀式や預言者の言葉を通して救いの描写を示してくださいました。けれども、彼らはその描写を正しく把握することができませんでした。

だから、パウロは次のように語りました。

この知恵を、この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした。もし知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。(8)

大祭司であったカヤパでさえ、その計画を理解することはできませんでした。皮肉なことに、カヤパは自分の言葉の意味を正しく把握していませんでした。彼はイエス様について次のように語りました。

一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない。(ヨハネの福音書11:50)

ヨハネは後にカヤパの言葉を解説しました。

このことは、彼が自分から言ったのではなかった。

彼はその年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。(ヨハネの福音書11:51-52)

神様がカヤパを通して預言されたのは、実に不思議なことです。けれども、パウロの次の言葉はまさにカヤパの姿を的確に描写しています。

生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。

それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。(14)

カヤパは大祭司でしたが、もし誰かが「イエス様は人々の罪のために死ななければならない」と伝えていたなら、カヤパはその人を愚かだと思ったことでしょう。

なぜでしょうか。それは、聖霊様がカヤパのうちに住んでおられなかったからです。

しかし、聖霊様は私たちのうちに住んでおられます。だから、パウロは次のように語りました。

しかし、このことは、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった」と書いてあるとおりでした。

それを、神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです。(9-10)

また、

しかし私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神が私たちに恵みとして与えてくださったものを知るのです。(12)

また、

「だれが主の心を知り、主に助言するというのですか。」しかし、私たちはキリストの心を持っています。(16)

私たちはすべてのことを理解できるでしょうか。もちろん、そうではありません。まだはっきりと見えないことがたくさんあります。神様は私たちの救いを明らかにしてくださいましたが、救いはなお神秘的なものです。

けれども、神様に近づき、霊的に成長するにつれて、神様は霊的な真理を教え、さらに多くのことを示してくださいます。(13)

だから、このように祈りましょう。

聖霊様、私があなたを知るように、また、あなたが整えてくださったことを知るように、私の心の目と耳を開いてください。

そのように祈れば、聖霊様は必ずご自身を現してくださいます。

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コリント人への手紙第一

神の力をもってみ言葉を宣べ伝える

私は教会でよく話をするし、もちろんこのブログも書いているので、この箇所は私にとって非常に重要です。

パウロは次のように書きました。

兄弟たち。私があなたがたのところに行ったとき、私は、すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を宣べ伝えることはしませんでした。

なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。

あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました。

そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。

それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです。(コリント人への手紙第一2:1-5)

牧師やバイブルスタディーのリーダー、または日曜学校の先生として聖書を教えているなら、この箇所を暗記し、メッセージを準備するたび、そして語るたびに、その言葉を深く味わうべきだと思います。

正直に言えば、私自身もこの箇所をもっと復習すべきなのです。

私は日曜日に良いメッセージを伝えたいと思っています。そして、私のメッセージが分かりやすいものであることを願っています。

しかし、忘れてはならないことがあります。私の言葉や知恵によって人々に影響を与えることはできるかもしれません。けれども、私の力で人を変えようとするには限界があります。

なぜでしょうか。それは、私の知恵と説得力が極めて限られたものだからです。

さらに、私は人々に自分自身を変える力を与えることはできません。彼らは私の言葉を聞いて同意するかもしれません。

彼らは、「敵を愛するべきだと同意します。相手を許すべきだと同意します。罪を捨てて、義を着るべきだと同意します。」と言うかもしれません。

しかし、もし神様が彼らの心の内で働かれないなら、何も変わることはないでしょう。

パウロが理解したのは、人を変えることができるのはただ一つ、それは十字架のメッセージにある神様の力だということです。

十字架にかけられたイエス様の働きによって、私たちは神様との関係を持つことができました。

イエス様の働きによって、神様に対する反抗的な心が取り除かれ、新しい心が与えられました。

イエス様の働きによって、私たちは古い人生を捨て、本当の命を知ることができるのです。

だから、パウロは次のように語りました。

なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。(2)

あなたはどうでしょうか。教会でどのようなメッセージを聞いていますか。そのメッセージは、十字架を中心としたものでしょうか。それとも、牧師の知恵に基づいたものですか。

あるいは、「自分自身を変えるべきだ」という内容でしょうか。

もしあなたが聖書を教える立場にあるなら、あなたのメッセージの準備における焦点は何でしょうか。

それは、教会の人々を楽しませることですか。自分の知恵と知識を用いて、人々を感動させようとしているでしょうか。あるいは、あなたはイエス様、とりわけ十字架につけられたキリストを述べ伝えているでしょうか。

あなたが語るとき、神様の力はあなたを通して流れているでしょうか。教会の人々の信仰は、あなたではなく、イエス様に基づいているでしょうか。

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コリント人への手紙第一

自慢する余地がない

神様の「愚かさ」を描写するために、パウロはコリントの教会を示しています。

もしあなたが神であり、多くの人々を救いたいと願うなら、まず金持ちや権力者、賢い者たちを救おうとするのではないでしょうか。なぜなら、彼らは多くの人々に影響を与えることができるからです。

ところが、パウロはコリントの人々について、次のように語りました。

兄弟たち、自分たちの召しのことを考えて見なさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるためにこの世の弱い者を選ばれました。

あるものをないものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。

肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。(コリント人への手紙第一1:26-29)

もちろん、パウロは、神様が知者や力ある者、身分の高い者を決して救わないと言っているわけではありません。彼は、教会にそうした人々が全くいないとは言わず、「そのような人は多くない」と述べたのです。

けれども、パウロの強調点は、神様が人の財産や身分によってではなく、恵みによって人々を選ばれることです。そして、神様は弱い者や取るに足りないと見なされた者を用いて、強い者や賢い者を恥じ入らせました。

では、どのようにしてその弱い者や取るに足りない者が、強い者や賢い者を恥じ入らせたのでしょうか。それは、彼らが神様に信仰を置いたからです。

例えば、年老いたノアは神様を信じ、大きな箱舟を造りました。隣人たちはノアを愚かだと思ったことでしょう。なぜなら、その地域には海がなく、そんな巨大な箱舟を必要とする理由が見当たらなかったからです。

ところが、雨が降り、洪水が到来したとき、ノアの知恵が証明されたのです。

イスラエルの民をエジプトから救い出した後、神様は彼らを堅固な城壁を持つエリコへ導かれました。けれども、彼らはすぐに攻撃せず、まずエリコの周囲を一度回りました。

これを6日間続け、7日目には7度エリコを回り、祭司たちが角笛を吹き鳴らしました。そして、彼らは叫びながら城壁に向かって走り始めました。

この作戦を初めて聞いたとき、イスラエルの兵士たちは将軍ヨシュアの判断を疑ったかもしれません。さらに、エリコの人々もイスラエルの民が町の周囲を回るのを見て、彼らが何をしているのか不思議に思ったことでしょう。

ところが、7日目にイスラエルの民が城壁に向かって走り始めた瞬間、城壁は崩れ落ちました。こうして、その日、イスラエルの民は大勝利を収めたのです。

何百年後、若きユダヤ人ダニエルはバビロンへ追放されました。それでも、ダニエルとその仲間は神様の律法に従いたいと願い、王が用意した食事を拒みました。彼らはただ野菜を食べ、水を飲むことを選びました。

ほかのユダヤ人たちはそれを見て、ダニエルたちの行動を愚かだと思ったかもしれません。ところが最終的に、ダニエルたちはほかのユダヤ人たちよりも健康で、賢く、有能な者となりました。

神様は幾度となくこのようなことをなされました。

しかし、その究極の例は十字架です。その時代の人々にとって、十字架は弱さと敗北の象徴でした。

それでも、十字架を通して、神様は私たちに救いをもたらしました。そして、神様は世が称賛する者だけでなく、世が軽蔑する者も救われるのです。

クリスチャンは弱い存在だと考える人もいます。彼らは、賢くない者や、感情的に傷ついた者だけが神様を必要とするのだと思っています。私たちが自分自身に頼らず、神様に頼るからこそ、彼らは私たちを軽蔑するのです。

しかし最終的に、彼らは恥じ入ることになるでしょう。

そして、忘れないでください。クリスチャンであるあなたには、自慢する余地はありません。神様があなたを救われたのは、あなたの身分や行いによるものではなく、神様がどのようなお方であるか、そして神様の御業によるものです。

だからこそ、パウロはこう書きました。

しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。(30)

パウロの結論は何でしょうか。

「誇ろ物は主を誇れ」と書いてある通りになるためです。(31)

あなたは何を誇りますか。自分自身を誇るのでしょうか。それなら、最終的には恥じることになります。

神様を誇るのでしょうか。もしそうであれば、プライドを持つ余地はありません。

あなたはどのような態度を持っていますか。

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コリント人への手紙第一

人間の哲学と知恵の空しさ

第18節を読んだとき、パウロの言葉は私の心に深く響きました。

十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。(コリント人への手紙第一1:18)

私は子供のころからクリスチャンだったので、十字架の言葉(つまり、十字架のメッセージ)は私にとって当たり前のものでした。幼い頃からそのメッセージを教えられ、それを信じてきました。

とはいえ、もし誰かが「あなたの救いは電気椅子のメッセージによるものです」と言ったり、「あなたの救いは絞縄のメッセージによるものです」と言ったりしたら、私はその人が正気ではないと思うでしょう。

同じように、ユダヤ人やギリシア人たちはパウロのメッセージを聞いたとき、彼の言葉が理解できず、彼の頭がおかしいと思ったのです。

パウロは次のように語りました。

ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。

しかし、私たちは十字架につけられたキリストを述べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとってはおろかなことです。。。(22-23)

神様がさまざまな奇跡を通してイスラエルの民をエジプトから救い出されたように、ユダヤ人は神様が力を振るい、彼らを再び救い出されることを期待していました。

神様がモーセを通して数々のしるしを行い、エジプトの軍隊を滅ぼされたため、ユダヤ人はメシアが同じようなしるしを行い、ローマ帝国を滅ぼすことを望んでいました。

しかし、パウロが宣べ伝えた救いのメッセージは、ローマの十字架にかけられて死なれたメシアについてのものでした。ローマ人はそのメシアを打ち、十字架につけて殺しました。

そのため、多くのユダヤ人はイエス様がメシアであることを受け入れることができませんでした。

一方で、ギリシア人は哲学に深く感銘を受けていました。そのため、イエス様の教えが彼らの思考に挑戦するものであれば、興味を持ったでしょう。

ところが、パウロがアテネでイエス様について語ったとき、彼が話したのはイエス様の教えではなく、イエス様の死と復活についてでした。そのため、彼らはパウロの言葉をすぐに拒み、「このパウロは正気ではない」と思ったのです。(使徒の働き17:31-32)

自分の考えや知恵に固執しながら、神様の知恵を求めることは大きな問題です。そのような姿勢では、神様が私たちの期待に沿うことを求めてしまいます。神様の言葉と行いが私たちの知恵と論理に適合することを求めてしまうのです。

そして、もし神様の知恵や行いが私たちの知恵や考えに合わない場合、神様の言葉と行いを愚かだと判断し、退けてしまいます。

しかし、パウロは次のように語ります。

神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。(25)

私は、神様の行いとその理由が分からないときがあることを率直に認めます。例えば、なぜイエス様の十字架の働きが私たちの罪の代価を支払うことができるのでしょうか。その具体的な説明を知りたいと思います。

なぜ、一人の行いがすべてのクリスチャンの罪を覆うことができるのでしょうか。私は完全には理解できません。

これまで多くの説明や描写を聞いてきたため、ある程度は分かります。けれども、それと同時に、なぜある人々がこの教えを愚かだと考え、信じようとしないのかも理解できます。

しかし、神様は、私たちが愚かだと思うものが実際には賢明であることを証明されます。私たちが神様の弱さを見出したと思うとき、神様はその弱さこそが力であることを示されるのです。

そして最終的に、神様は「知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを消し去る。」(19)

だから、パウロは問いかけます。

知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。

神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教の言葉の愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。(20-21)

私たちは自分の知恵や条件によって神様を見つけることはできません。なぜなら、私たちの考えはあまりにも限られているからです。もし神様を見出したいと願うなら、私たちは神様とその知恵に従わなくてはなりません。

最初のステップは、イエス様を主として認めることです。なぜなら、十字架につけられたイエス様こそが私たちにとって神様の力と知恵だからです。(24)

イエス様は、私たちを救う神様の力です。そして、イエス様は人間となった神様の知恵です。その知恵は人間の知恵をはるかに超えています。

今、イエス様に従いませんか。

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コリント人への手紙第一

人々をイエス様の立場まで引き上げる?

クリスチャンがリーダーに感心し、模範として見上げるのは自然なことです。なぜなら、彼らは長年イエス様に従い、豊かな知恵と知識を持っているはずだからです。さらに、私たちは彼らと直接会い、話すこともできます。

もちろん、人を模範として見上げること自体は悪いことではありません。

ところが、もし私たちが彼らをイエス様の立場にまで引き上げるなら、それは危険です。なぜなら、私たちはイエス様ではなく、そのリーダーに従い始めてしまうからです。そして、そのリーダーがイエス様よりも私たちの模範となってしまいます。

こうなると、教会の分裂が生じやすくなります。コリントのクリスチャンたちはまさにこの問題を抱えていました。

ある人々は「私はパウロにつく」と言い、ほかの人々は「私はアポロにつく」と言い、さらに別の人々は「私はケファ(つまり、ペテロ)につく」と言いました。

そこで、パウロは皮肉を込めて語ったのです。

キリストが分割されたのですか。

パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのですか。(コリント人への手紙1:13)

要するに、「いったい誰に従っているのか。」

第3章で、パウロは次のように語りました。

アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられた通りのことをしたのです。

私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。

ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐものでもなく、成長させてくださる神です。(3:5-7)

簡単に言えば、「人を神様の立場にまで引き上げるのはやめなさい。その人々はただ神様のしもべなのです。主人よりもしもべを大切にする人はいません。

だからこそ、教会のリーダーたちがしもべにすぎないのなら、どうして彼らを神様の立場にまで引き上げるのでしょうか。」ということです。

それでも、多くのクリスチャンはそうしてしまいます。そのため、多くの教会にはさまざまな分裂が生じています。

さらに、人を神様の立場に上げることには、もう一つの問題があります。それは、彼らがただの人間であるがゆえに、最終的には私たちを失望させてしまうということです。

もし、私たちの信仰が神様ではなく人に基づいているなら、その人が失敗したり、私たちを落胆させたりすると、私たちの信仰そのものが揺らいでしまうかもしれません。

だから、人がどれほど敬虔であろうとも、私たちのために死んで復活されたイエス様の立場に引き上げることはしてはなりません。

牧師を比較しないでください。どの牧師がより偉大かを議論することも避けましょう。

神様は彼らそれぞれに働きを与えておられます。私たちには彼らを裁く権利はなく、また他の牧師と比較する権利もありません。その判断は彼らの主であるイエス様に委ねましょう。

そして、自分の信仰を他の人の信仰に基づけるべきではありません。むしろ、自分の信仰と希望は神様にこそ基づくべきです。

もし私たちの信仰を人に基づけてしまうなら、最終的に失望することになります。しかし、イエス様に信頼するなら、決して失望させられることはありません。(ローマ書10:11)

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コリント人への手紙第一

清められ、聖なる人生を送るように呼ばれた

この手紙を読むと、コリントの教会にはさまざまな深刻な問題があったことが分かります。

その問題を考慮すると、パウロの言葉は驚くべきものです。彼はその教会の人々を聖なる者と呼び、彼らが聖徒として召されたと述べています。

彼らの問題を考えると、コリントのクリスチャンたちを聖なる者と呼ぶのは適切ではないように思えます。なぜなら、彼らは聖徒として召されたかもしれませんが、聖徒として歩んでいなかったからです。

けれども、神様は私たちの現在の状態だけを見ているのではなく、私たちの将来も見ておられます。

そのため、兄弟姉妹を見るとき、私たちも同じ姿勢を持つべきです。彼らの現在の状態だけを見るのではなく、キリストにあって聖別された者として見なければなりません。彼らはキリストのものなのです。

そして、パウロと同じように、私たちは彼らが聖徒として歩むよう励ますべきです。私たちは、彼らがもはや自分のためではなく、彼のために死んで復活されたイエス様のために生きるべきだということを思い出させる必要があります。(第二コリント5:15)

それだけでなく、私たち自身もそのことを忘れずに思い出さなければなりません。

私たちが自分自身を見るとき、落胆するのは容易なことです。なぜなら、自分の罪に目を向けると、どうして神様が私たちを受け入れてくださるのか疑問に思うからです。

しかし、神様がすでに私たちを受け入れておられることを思い出しましょう。神様はご自身のために私たちを聖別されました。だから、そのように歩みましょう。

ただし、私たちは自分の力だけで歩む必要はないことを忘れないでください。パウロは次のように語っています。

主はあなたがたを最後まで堅く保って、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところがない者としてくださいます。神は真実です。

その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。(コリント人への手紙第一1:8-9)

私たちは常に忠実であるわけではありません。しかし、神様は常に忠実な方です。そして、私たちが責められることのない者としてキリストの前に立つ日まで、神様は私たちの人生に働き続けてくださいます。

あなたはどうでしょうか。兄弟姉妹を見るとき、どのような人として見ているでしょうか。

自分自身を見るとき、どのような人として見ているでしょうか。