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コリント人への手紙第一のデボーション

困難な時代にあっても

毎日のニュースを読むと、私たちが困難な時代に生きていることがよく分かります。そして、へこたれたり、恐れたり、絶望したりするのは、たやすいことです。

しかし、まさにこのような時代にこそ、パウロの言葉が本当に適切だと感じます。

目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。雄々しく、強くありなさい。一切のことを、愛をもって行いなさい。(コリント人への手紙第一16:13ー14)

「目を覚ましていなさい。」

なぜでしょうか。なぜなら、サタンは私たちを絶望させようとしているからです。また、私たちを恐れさせようとしています。

ペテロが言ったように、サタンは吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています(第一ペテロ5:8)。だから、私たちは気を付けなくてはなりません。

「雄々しく、強くありなさい。」

どうして私たちはそうできるのでしょうか。なぜなら、私たちのうちにおられるイエスは、この世にいる悪魔よりも偉大だからです(第一ヨハネ4:4)。

イエス様にあって、私たちはすでに勝利を得ています(第一コリント15:57–58)。

また、イエス様はもう一度この世に来られます。最初に来られたとき、イエス様は私たちの罪を背負われましたが、今度はすべての悪を滅ぼし、救いをもたらし、すべてを新しくしてくださいます(ヘブル9:28)。

「一切のことを、愛をもって行いなさい。」

なぜでしょうか。私たちが世の人々と違うのは、キリストの愛です。そして、その愛によってのみ、私たちは神の国のために、周りの人々に影響を与えることができます。

だから、堅く信仰に立ちましょう。ダビデが歌ったように、私たちは主のいつくしみを見るのです(詩篇27:13)。

待ち望め 主を。雄々しくあれ。
心を強くせよ。 待ち望め 主を。(詩篇27:14)

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互いに建て上げる

今日の箇所では、パウロは教会にさまざまな指示を与えています。特に、異言や預言に関する指示が中心です。

もちろん、それらの指示は重要ですが、それだけに注目するなら、私たちはパウロの主なポイントを見逃してしまうかもしれません。

それは、教会において、私たちはただ自分自身や自分の益について考えるべきではないということです。むしろ、周りの人々のことを考え、特にその人をどのように強めることができるかを思い巡らすべきです。

(新改訳第3版では「徳を高める」と訳され、第4版では「成長させる」と訳されていますが、ギリシャ語のニュアンスは「建てる」あるいは「強化する」という意味です。)

パウロは何度も教会を強めることについて語ります。けれども、彼が語っているのは組織の強化ではありません。むしろ、神の民をどのように強めることができるかを語っています。なぜなら、神の民そのものが教会だからです。

パウロによれば、教会に行くとき、ただ「どうすれば自分の益を得られるか」と考えるなら、私たちは子どものような考え方をしていることになります(20)。

多くのクリスチャンは教会に来て、「励まされたい」「力を受けたい」と言います。

もちろん、自分の教会で励まされたり、強められたりすることを願うのは自然なことです。

しかし、パウロが語っているのは、私たち全員が「どうすれば他の人を強めることができるか」を考えるべきだということです(26)。

ですから、日曜日に教会へ行くときは、意図的に誰かに声をかけましょう。その人を励ましましょう。その人のために祈りましょう。

もしオンライン礼拝に参加するなら、意図的に教会の人に電話やLINE、Zoomなどで連絡を取り、会話を持ちましょう。

意図的に互いに強め合い、励まし合う教会となりましょう。

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最も大切なこと

今日、私が気づいたのは、パウロが霊的な賜物について語っているものの、賜物そのものがパウロの主なポイントではないということです。

もし賜物が主題であるならば、パウロはそれらをもっと具体的に説明していたはずです。

たとえば、パウロは賜物を列挙しますが、ある賜物を省略しており(ローマ12:6〜8)、それぞれの賜物が何であるかを詳しく説明していません。

では、パウロは霊的な賜物について教えるよりも、何を伝えたかったのでしょうか。

それは、コリント人たちが教会の分裂や派閥を捨てるべきだということです。パウロは何度もそのテーマを繰り返しています。

「あなたがたは一つのからだです。あなたがたは同じ御霊、同じ主、同じ神に属しています。あなたがたの賜物は教会全体の益のために与えられています。互いに必要とされているのです。互いに敬い合うべきです。

教会のメンバーの苦しみは、あなたの苦しみです。その一方で、もしその人が尊ばれるなら、その人と共に喜びましょう。その人はあなたの一部です。または、あなたはその人の一部です。

あなたがたは霊的な賜物を求めています。それは良いことです。しかし、覚えておきなさい。あなたがたは一つのからだです。だから、分裂を捨てなさい。」

そして、パウロはこの話を第13章へと続けます。

私たちはどうでしょうか。私たちはパウロのように、神の教会とそのメンバーたちを大切にしているでしょうか。それとも、私たちはコリント人たちのように考えてしまっているでしょうか。

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裁きと懲らしめの違い

コリント人たちの一つの問題は、聖餐式において主とその十字架の御わざを祝いながら、キリストのからだを軽んじてしまったことです。つまり、彼らは貧しいクリスチャンたちに恥ずかしい思いをさせていたのです。

そのため、あるコリント人たちは主によって裁かれ、病気になったり、亡くなったりしました(コリント人への手紙第一11:22、30)。

それは本当に厳しい裁きであったため、パウロはコリント人たちに警告します。「そのような裁きを避けるために、聖餐式を受ける前に、自分の心を吟味しなさい」(28、31)。

神様の懲らしめが厳しいときもあります。しかし、覚えておきましょう。私たちが主から受ける懲らしめは、この世が受ける裁きとは異なります。

パウロはこう言いました。

私たちがさばかれるとすれば、それは、この世とともにさばきを下されることがないように、主によって懲らしめられる、ということなのです。(コリント人への手紙第一11:32)

主から私たちが受ける懲らしめがどんなに厳しくても、それは永遠の死に至るものではありません。その意味で、私たちは主の怒りを恐れる必要はありません。

しかし、覚えておきましょう。神様は私たちの罪を軽んじられません。だから、私たちも自分の罪を軽んじてはなりません。そうでなければ、神様の懲らしめが非常に苦しいものとなることがあります。その意味で、私たちは主を恐れるべきです。

もちろん、神様は私たちを愛しておられます。しかし、それは私たちが主の懲らしめを免れるという意味ではありません。だから、ヘブル人への手紙の著者の言葉を覚えておきましょう。

わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。 主に叱られて気落ちしてはならない。

主はその愛する者を訓練し、 受け入れるすべての子に、 むちを加えられるのだから。(へブル12:5ー6)

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私たちは誰のものか、何のために生きるのか

今週、コリント人への手紙第一第6章〜第10章を読むことは、本当に興味深い体験でした。実は、私たちは第6章〜第10章をひとつのまとまりとして読むべきです。

この章全体を通して、二つのテーマが貫かれています。

第一のテーマは、コリント人たちの口癖です。それは、「すべてのことが許されている」(6:12;10:23)という言葉です。

この口癖によって、彼らは性的な罪を犯すことや、偶像に捧げた肉を食べることはまったく問題ないと考えていました。

パウロは、性的な罪については厳しく責めました(6:12;10:8)。しかし、偶像に捧げた肉を食べることについては、ある程度まで許容しました(第8章)。

パウロがコリント人たちの考え方を正そうとする中で、私たちは第二のテーマを見ることになります。それは、「私たちは誰のものか」、そして「私たちは何のために生きているのか」という問いです。

私たちは誰のものでしょうか。私たちは主のものです。なぜなら、イエス様が十字架でご自身の血によって、私たちを買い取ってくださったからです(6:19〜20;10:14〜20)。

では、私たちは何のために生きるべきでしょうか。私たちは、神様とその御国のために生きるべきです。

この真理は、結婚(第7章)、奉仕(第9章)、そしてクリスチャンとしての自由と権利(第8章と第10章)に関する私たちの考え方を形づくるはずです。

このことや、その他の生活における決断をするとき、私たちはまず「主に自分が何を望むか」を考えるべきではありません。

むしろ、最初に考えるべきことは、「神とその御国に仕える最も良い方法は何か」、そして「どのようにすれば、神の御国にできるだけ多くの人を導くことができるか」ということです。

パウロは、この第二のテーマを次のようにまとめています。

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。

ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えない者になりなさい。

私も、人々が救われるために、自分の利益ではなく多くの人々の利益を求め、すべてのことですべての人を喜ばせようと努めているのです。(10:31ー33)

イエス様の言葉も心に留めておきましょう。

まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(つまり、あなたの必要なもの)はすべて、それに加えて与えられます。(マタイ6:33)

あなたの考え方や人生は何によって形成されているでしょうか。

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神様を喜ばせる選び

前にもこの箇所について書きましたので、今回は具体的な解説はしません。ただ、今日私が気づいたのは、第8章には第6章との強い関係があるということです。

(ちなみに、パウロがこの手紙を書いたときには、章と節の番号は付けられていませんでした。)

前回の記事でも触れましたが、コリント人たちには口癖がありました。それは、

すべてのことが私には許されている。(コリント人への手紙第一6:12a)

でも、パウロはこのように答えました。

すべてが益になるわけではありません。(6:12b)

第8章では、私たちはもう一度、コリント人たちの口癖を見ることになります。つまり、彼らは「偶像の神は実際には存在しないので、その偶像に捧げた肉を食べてもよい」と言っていました。

実のところ、パウロはその考えに同意しています(8:4〜6、8)。

しかし問題は、その肉を食べることが教会に益をもたらしていないという点です。なぜなら、弱い良心を持つクリスチャンたちがそれを見て、自分の信仰が滅びることになったからです(8:10〜11)。

そのため、パウロはコリント人たちに思い起こさせます。

すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。(新改訳, 第3版)

パウロは、ただ神学的な真理を教えているだけではないと思います。むしろ、以前に自分が語ったことを、コリント人たちに思い起こさせているのです。つまり、

あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。(6:19〜20)

だから、パウロはコリント人たちに訓戒を与えます。

あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。(8:12)

この場合、偶像に捧げた肉を食べること自体は罪ではありませんでしたが、兄弟たちがつまずいたため、彼らの行為は罪となりました。

ですから、覚えておきましょう。「何が許されているか?」という問いは、誤った問いです。

正しい問いは、「私は誰のものでしょうか。どのように神様を喜ばせることができるでしょうか」ということです。

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誤った問いかけ

コリントの教会はいろいろな問題を抱えていました。ある人は自分の兄弟を欺いていました。また、性的な罪を犯している人もいました。

なぜでしょうか。おそらく主な理由は、その教会でこの言葉が流行していたからです。

すべてのことが私には許されている。(コリント人への手紙第一6:12)

その言葉は、人々がパウロの教えを曲げたことから来たようです。それは、「あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです」(ローマ6:14-15)という言葉です。

現代でも、多くの人が同じようにパウロの教えを曲げています。彼らは神の恵みを放縦に変えてしまいます(ユダ1:4)。

しかし、パウロははっきりと言います。悔い改めず、あえて罪を犯す自称クリスチャンは、神の国に入ることができません(9-10)。

一方で、他の人々はいつもこう考えます。「罪を犯さずに、どれだけ罪に近づくことができるだろうか。」

たとえば、交際中の男女は、「キスなどのルールはどうだろうか」とよく尋ねます。

けれども、それは誤った問いです。

パウロが言ったように、あることは「許されている」かもしれませんが、それが益になるとは限りません(12)。

そして注意しなければ、その許されていることが罪に至る可能性もあります。

では、正しい問いとは何でしょうか。

それは、「私は誰のものでしょうか。どのようにして、その方を喜ばせることができるでしょうか」ということです。

クリスチャンにとって、その答えは明快です。

あなたがたは、もはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい(19-20)。

あなたは誰のものでしょうか。あなたは自分の行動によって主を喜ばせているでしょうか。

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故意に罪を犯す自称クリスチャン

「裁いてはいけません。」

「私たちは寛容をもって、人を受け入れなくてはいけません。」

現代では、この世の人々はその言葉をよく言います。

ある意味、その言葉は正しいです。

イエス様は偽善的な裁きに関して警告します。(マタイ7:1ー5)

パウロは、教会の外部の人たちを裁くすることを神様に委ねなさいと教えます。(11ー12a)

それでも、パウロははっきりと言います。「悔い改めずにあえて罪を犯す自称クリスチャンを裁きなさい。」(12b)

つまり、

あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。(13)

もちろん、私たちは怒りをもって、独善的な態度を取ってはいけません。

むしろ、私たちはその人とその罪のために悲しむべきです。(2)

また、私たちは、その人が悔い改めるように望んで、祈るべきです。(5)

でも、私たちはその人の罪を受け入れてはいけません。むしろ、その人を私たちの中から除き去らなくてはなりません。

その原則は神様の律法から来ました。モーセは、罪の問題を扱って裁くことに関して話したとき、こう言いました。

もし人が、あなたの神、主に仕えてそこに立つ祭司やさばき人に聞き従わず、不遜なふるまいをするなら、その者は死ななければならない。

あなたはイスラエルのうちからその悪い者を除き去りなさい。

そうすれば、民はみな聞いて恐れ、もう不遜なふるまいをすることはないであろう。(新命記17:12ー13)

モーセの時代、不遜な罪の罰は死刑でした。教会の時代では、その罰は教会から追い出されることです。でも原則は同じです。教会では、私たちは悔い改めずにあえて罪を犯す人を許してはいけません。

残念なことですけど、コリント人たちは不遜な態度を取っていました。「私たちはそんな人を歓迎するよ。私たちは愛の教会だから」と自慢しました。だから、パウロは彼らを厳しく責めました。(2、6)

誤解しないでください。私たち皆は、罪に落ちてしまう時もあります。

また、よく同じ誘惑に負けてしまうクリスチャンもいます。

でも、もしそのクリスチャンが悔い改めて、本当に神様に従いたいなら、私たちはその人のために祈り、その人を支え、励ますべきです。

でも、故意に罪を犯し、「神様の御言葉を気にせずに、勝手にする」と言う人は別です。

その人は、正直に、「私はクリスチャン」と主張できません。そして、私たちはその人を私たちの教会に歓迎することができません。

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清い良心?

私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。(コリント人への手紙第一4:4)

パウロはきっと、私たちが神様の御前に清い良心を保つべきだと言うはずです。

しかし、パウロが理解していたのは、私たちは自分の心によく欺かれるということです。

つまり、私たちは自分が清いと思っていても、自分の罪を見ることができません。パウロがコリント人たちに4〜5節を書いたとき、預言者エレミヤの言葉を思い浮かべていたことでしょう。

人の心は何よりもねじ曲がっている。 それは癒やしがたい。 だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。

わたし、主が心を探り、心の奥を試し、 それぞれその生き方により、 行いの実にしたがって報いる。(エレミヤ書17:9ー10)

では、私たちはいつも自分の心が清いかどうか心配するべきでしょうか。「私の心の中に、隠れた罪があるだろうか。私が気づいていない悪い動機があるだろうか。」と、ずっと疑問に思うべきでしょうか。

いいえ、神様は、私たちがいつも罪悪感をもって、恐れによって生きることを望んでおられません。

もちろん、謙遜な心を持つべきです。

毎日、ダビデのように祈ればよいと思います。「私の心を探ってください。悪いものがあれば、教えてください。」(詩篇19:12〜13;139:23〜24)

もし神様が何か罪を現されたなら、ぜひそれを告白し、悔い改めましょう。

しかし、神様が何も現されないなら、私たちが立っている恵みを感謝しましょう。

実際、もし神様が私たちの罪のすべてを一度に現されたなら、私たちは圧倒されてしまうでしょう。

けれども、恵みによって、神様は私たちを最後まで堅く保ち、裁きの日に責められるところがない者としてくださいます。(第一コリント1:8)

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救いの土台

神は真実です。(コリント人への手紙第一1:9a)

その言葉をちょっと噛み締めましょう。

神は真実です。

どうして私たちの救いは確実なものでしょうか。その答えは、この短い言葉にあります。

神は真実です。

素晴らしい愛によって、神様は私たちを召し、御子との交わりに入れてくださいました。(9b)

恵みによって、神様は私たちを聖なる者とし、聖徒として召してくださいました。(2)

そして、神の真実のゆえに、神様は私たちを最後まで堅く保ち、裁きの日に責められるところがない者としてくださいます。(8)

私の救いは、自分の忠実さによるものではなくて良かった。なぜなら、私はよく真実でない者だからです。

そういうわけで、私はテモテへのパウロの言葉が大好きです。

私たちが真実でなくても、 キリストは常に真実である。 ご自分を否むことができないからである。(第二テモテ2:13)

だから、自分が真実でないと思って落胆している時、心に留めておきましょう。

神は真実です。