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コリント人への手紙第二のデボーション

自分自身を試し、吟味する

あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。

それとも、あなたがたは自分自身のことを、自分のうちにイエス・キリストがおられることを、自覚していないのですか。

あなたがたが不適格な者なら別ですが。(コリント人へん手紙第二13:5)

それはかなり厳しい言葉ですね。

でも、その文脈を覚えていた方がいいです。あるコリント人たちは、自分がクリスチャンと自称したのに、パウロの権威を拒絶し、神様の権威をも拒絶してしまいました。

さらに、彼らは自分の罪を悔い改めることを拒みました(10〜12章)。

そんなことをしてしまったら、自分がクリスチャンであると主張することはできません。

真のクリスチャンは、罪に何度も落ちてしまうかもしれませんが、神様の権威を拒絶しません。また、罪を犯したとき、言い訳をしません。むしろ、悲しんで、すぐに悔い改めます。

簡単に言うと、真のクリスチャンは神様に対して柔らかい心を持っています。

あなたは、そのような心を持っていますか。

もしそのような心を持っていないなら、自分がクリスチャンかどうかを疑わなくてはなりません。

でも、神様に対して柔らかい心を持っているなら、心配しなくていいです。なぜなら、神様はあなたのことを諦められないからです。

むしろ、神様はあなたのうちに始められたことを完成させてくださいます(ピリピ1:6)。

あなたが弱くて、何度も失敗しても、主イエスの恵み、天の父の愛、聖霊の交わりは、永遠にあなたとともにあります。

だから、毎日それを心に留めておいて、心を安らかにしましょう。

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へりくだって神様に頼る

1章にも12章にも、パウロは自分が耐えられない試練に直面しました。パウロはその二つの試練に圧倒されました。

そして、その二つの試練によって、パウロは同じ教訓を学びました。それは、へりくだって神に頼ることです。

私たちは、自分が賢くて、どんな問題に遭遇しても、自分の力によって解決できると思って、自分をよく騙してしまいます。

しかし、神様は私たちを自己に頼るものとして造られたのではありません。むしろ、神様は私たちを神に頼るものとして造られました。

そういうわけで、神様は私たちの試練を許されます。その試練によって、私たちは、自分が思っていたほどに賢くも強くもないことを実感します。

そして、私たちはもう一度、神様の御前に来て、子供のような依存と信頼をもって、神様に両手をあげます。

そうすれば、神の恵みが私たちに十分であることがわかるようになります。また、神の力が弱さのうちに完全に現れることがわかるようになります。

そのとき、私たちはパウロと一緒に、こう言います。

ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。

というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(コリント人への手紙第二12:9bー10)

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あなたの推薦を受けるために

私たちは、自分自身を推薦している人たちの中のだれかと、自分を同列に置いたり比較したりしようとは思いません。

彼らは自分たちの間で自分自身を量ったり、互いを比較し合ったりしていますが、愚かなことです。。。

自分自身を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ本物です。(コリント人への手紙第二10:12、18)

主よ。自分自身を他の人と比較するのは簡単なことです。つまり、自分の実績を周りの人々の実績と比較するのは簡単なことです。

しかし、そんな考え方は空しいものです。最終的に、大切なのはただ一つ──あなたの評価です。

あなたは私を他の人と比較しておられるのではありません。むしろ、私があなたに忠実であるかどうかを評価しておられるのです。

だから、私が忠実なしもべとなるように。あなたの推薦を受けたいです。そして、あなたの誉め言葉を聞きたいです。

「よくやったよ。良い忠実なしもべ。」

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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癒しがない?赦しがない?

私たち皆、後悔することがあります。そして、自分の罪と失敗の結果を見ると、罪悪感に圧倒される時もあります。

確かに、私たちの敵であるサタンは、私たちが自分の罪の重さに押しつぶされることを望んでいます。

けれども、神様は何を望んでおられるのでしょうか。

さまざまな意味で、パウロの心は私たちの天の父の心を映しています。

パウロは手紙を書きながら、コリント人たちを彼らの罪のために責めていました。その手紙を読んで、彼らは罪悪感を抱き、悲しみました。

それでも、パウロはその悲しみについて何と言ったでしょうか。

今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。

あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちから何の害も受けなかったのです。(コリント人への手紙第二7:9)

人に傷つけられるとき、私たちはよく、相手が自分の悪さを認め、苦しむことを望みます。相手が罪悪感に押しつぶされるのを見て、私たちは喜んでしまうことがあります。

実のところ、私たちが相手の苦しみによって滅びることを望む時さえあります。

しかし、パウロはそう望みませんでした。コリント人たちが害を受けることを望んだわけではありません。パウロが望んだのは、ただ彼らが悔い改めることでした。

私たちの天の父も、同じことを望んでおられます。

罪の結果は、本当に苦しい時もあります。圧倒的な罪悪感に押しつぶされそうになることもあります。

けれども、神様が私たちを押しつぶしたいわけではありません。むしろ、神様が望んでおられるのは、私たちが悔い改めることです。そして、悔い改めるなら、その結果は死ではなく、癒しです。

パウロはこう言っています。

神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(10節)

もしかしたら、あなたは罪悪感に押しつぶされそうになっているかもしれません。「私には癒しがない。赦しがない。」と思っているかもしれません。

しかし、癒しはあります。赦しもあります。

必要なのは、ただ悔い改めることです。自分の罪を認め、神様の赦しを願うなら、神様は必ず赦してくださいます。

「さあ、来たれ。論じ合おう。」──主は言われる──

「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。 たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ書1:18)

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福音の務めを汚さないように

私たちは、この務めがそしられないように、どんなことにおいても決してつまずきを与えず、  むしろ、あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しています。(コリント人への手紙第二6:3ー4)

今朝、その言葉は私の心を打ちました。

福音は多くの人につまずきを与えるものです。人々に彼らの罪や神様の聖さについて語るとき、また、イエス様だけが救いの道であると主張するとき、私たちは相手を怒らせる可能性があります。

しかし、彼らが怒ったとしても、私たちを見ると、私たちの中に疑う余地のない誠実さを見るはずです。また、私たちの中に御霊の実、愛や親切や忍耐などを見るはずです。

では、なぜパウロの言葉が私の心を打ったのでしょうか。

時に、私は自分の行為や言葉によって、人々に福音をそしる機会を与えてしまっているのではないかと疑問に思います。

正直に言うと、私はそうしたことがあります。そのとき、私は悔い改めなくてはなりませんでした。

けれども、私だけではなく、私たち皆が、キリストの使節として召されています。

神様の恵みと力によって、その召しにふさわしく歩み、私たちの務めを果たしましょう。私たちが自分の言葉や行為によって、人々に福音をそしる機会を与えないように。

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あなたに喜ばれる者となるために

そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。

私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。。。

というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。

キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。(コリント人への手紙第二5:9ー10、14ー15)

主よ。私が心から願うのは、あなたに喜ばれることです。私のすべての行為や思いによって、あなたを喜ばせたいのです。

しかし、私は自分の人生を振り返ると、どれほど失敗してきたかが分かります。そして、私は改めて、なぜあなたが十字架で死なれなければならなかったのかを悟ります。けれども、あなたの十字架の御わざによって、私は神の義とされました。

あなたが私を見ると、私の罪や失敗を認めません。むしろ、私はキリストの完全な義に包まれています。

そういうわけで、あなたは私を受け入れます。あなたは私に言われます。「あなたはわたしの愛する子です。わたしはあなたを喜ぶ。」

あなたの愛は素晴らしいものです。

その愛が私の人生を動かしますように。あなたの愛が、私の人生観を形づけますように。また、あなたの愛が、私が周りの人々を見る目を形づけますように。

私が毎日、自分のためではなく、あなたのために生きますように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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神様の栄光を見る

モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」

主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、主の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」

 また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」」(出エジプト記33:18ー20)

その出エジプト記の箇所と第二コリント3章には、深い関係があります。

私たち罪深い人間にとって、神様の栄光は恐ろしいものです。神様が聖なる方であり、人間がそうではないため、人は神様の顔を見ると死んでしまいます。

そのため、神様の栄光が通り過ぎるとき、モーセは岩の後ろに隠れなければなりませんでした(出エジプト記33:21–23)。

また、幕屋や神殿の中には、至聖所の前に垂れ幕がありました。なぜなら、神様が至聖所でご自身の栄光を現されたため、通常は祭司たちでさえ入ることができなかったからです(レビ記16:2)。

一年に一度だけ、宥めの日に大祭司は至聖所に入ることができましたが、そのとき、香を主の前の火にくべて「雲」を作りました。それは、神様の栄光が霞むためです(レビ記16:12–13)。

イスラエル人にとって、神様の栄光によって輝いていたモーセの顔を見るのは、恐ろしいことでした。だから、その栄光が消えていったにもかかわらず、モーセは覆いをかけました(出エジプト記34:29–30)。

しかし、十字架でイエス様が死なれたとき、その垂れ幕は裂かれました。そして、私たちは主に立ち返ると、覆いは取り除かれます。イエス様の顔を見るとき、私たちは神様の栄光を見るのです。

その栄光を見ても、私たちは滅びることはありません。むしろ、私たちは主と同じかたちに姿を変えられていきます。

私たちは罪深い者であるにもかかわらず、神様は私たちを少しずつ変えてくださいます。そして、イエス様がもう一度この世に来られると、私たちはたちまちイエス様に似た者とされます(第一ヨハネ3:2)。

そして、最も素晴らしいことは、モーセの場合は神様の栄光が消えていきましたが、私たちの場合は、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていくということです(第二コリント3:18)。

だから、パウロのように大胆に振る舞いましょう(第二コリント3:13)。

大胆に神様に近づきましょう(ヘブル10:19–22)。

また、大胆に命を与える福音を伝えましょう(第二コリント4:4–6)。

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信頼と希望を神様に向けて

私たちは、困難や試練に直面するとき、自分に頼るのはたやすいことです。私たちはよく、自分の力と知恵に頼ります。私も、しばしばそうしてしまいます。

だからこそ、時に、神様は私たちが対処できないほどの圧倒的な試練を経験することを許されるのかもしれません。その試練を通して、私たちは自分の力と知恵に頼るのではなく、神様に頼ることを学びます。

パウロも、そう考えていたようです。

彼はこう言いました。

兄弟たち。アジアで起こった私たちの苦難について、あなたがたに知らずにいてほしくありません。

私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、生きる望みさえ失うほどでした。

実際、私たちは死刑の宣告を受けた思いでした。それは、私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるためだったのです。(コリント人への手紙第二1:8ー9)

しかし、パウロは神様に信頼を寄せることを学び、希望を知るようになりました。

神は、それほど大きな死の危険から私たちを救い出してくださいました。これからも救い出してくださいます。私たちはこの神に希望を置いています。(10)

あなたはどうでしょうか。どんな試練に遭っているでしょうか。

誰に信頼を寄せているでしょうか。誰に希望を置いているでしょうか。