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サムエル記第二のデボーション

従順を選ぶ

いろんな意味で、これはとても難しい箇所です。

イスラエル人たちは罪を犯していました。

何の罪を犯したのか私たちは分かりませんが、もしかすると、その罪は、神様がイスラエルのために選ばれた王であるダビデを拒み、アブサロムやシェバに従ったことかもしれません。

とにかく、彼らの罪のために、神様はイスラエルの民を裁くことにされたのです。ところで、それはとても重要なポイントです。

ダビデの意見とは違って(17節)、イスラエル人たちは有罪であり、神の裁きにふさわしい者たちでした。

しかし、「ダビデをそそのかして、イスラエル人たちに向かわせた」とは、いったいどういう意味でしょうか。

神様はダビデに罪を犯させたのでしょうか。

また、歴代誌第一21章によれば、サタンがダビデをそそのかしてイスラエルの人口を数えさせたと書かれています。

では、ダビデの行動は誰の責任だったのでしょうか。

それは難しい疑問です。

けれども、私たちは三つのことを覚えていなくてはなりません。

一つ目は、サタンが常に神の民に敵対して立ち上がるということです。サタンは私たちを滅ぼそうとします。

しかし、ヨブ記の物語から分かるのは、神様がサタンの働きを制限されるということです(ヨブ記1〜2章)。

二つ目は、神様が人々を試すため、あるいは裁くために、その制限を一時的に緩められることがあるということです。

サウル王やアハブ王の場合には、神の裁きが示されました。(第一サムエル記16:14;列王記第一22:19〜23)

ヨブやイエス様(マタイ4:1)の場合には、神様が彼らを試されました。

三つ目は、神様が制限を緩められても、人が罪を犯さなければならないわけではないということです。人は正しいことを選ぶことができます。

ヨブとイエス様は正しい道を選びましたが、サウル王とアハブ王は罪を選びました。

ですから、神様が裁きの目的でサタンへの制限を緩められたとしても、ダビデには選択の余地がありました。そして、彼は罪を選びました。

ダビデ自身、自らの責任を認めています(10節、17節)。

神様がダビデに罪を犯すよう強制されたわけではなく、サタンが彼に罪を犯させたわけでもありません。

むしろ、ダビデは自らの心にある罪によって、罪を犯したのです(ヤコブ1:14)。

おそらく、ダビデの問題はプライドだったのかもしれません。つまり、自分の軍隊の力を誇りたかったのです。そのために、イスラエルの民を数えようとしたのでしょう。

ここで、さらに二つのポイントを指摘したいと思います。

一つ目は、イエス様の十字架のあと、私たちは神の子供として、神の裁きを恐れる必要がないということです。(第一ヨハネ4:14〜19)

イスラエルの民と同じように、私たちも神様の裁きにふさわしい者です。けれども、十字架において、イエス様は私たちの代わりに神の裁きを受けてくださいました。

神様が私たちを懲らしめられることはありますが、私たちは神様の裁きを受けることはありません。(へブル12:5〜11;ローマ8:1)

二つ目は、神様がサタンへの制限を緩められることがあり、私たちが試練や誘惑に直面することもありますが、私たちは罪を選ぶ必要はありません。

むしろ、パウロが言ったように、

あなたがたが経験した試練(別訳;誘惑)はみな、人の知らないものではありません。

神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。

むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。(第一コリント10:13)

だから、私たちへの神様の忠実さと愛を信じ、ヤコブの言葉を覚えながら、神様についていきましょう。

試練に耐える人は幸いです。

耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。(ヤコブ1:12)

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サムエル記第二のデボーション

神様が私たちを見るとき

主は、私を広い所に連れ出し、私を助け出された。主が私を喜びとされたからです。

主は、私の義にしたがって私に報い、手のきよさにしたがって顧みてくださいました。(サムエル記第二23:20-21)

ダビデの人生、特に彼の多くの失敗を考慮に入れると、その言葉は驚くべきものです。

それでも、ダビデはこう言えました。

私は主の道を守り、私の神に対して悪を行ないませんでした。

主のすべてのさばきは私の前にあり、主の掟から、私は遠ざかりませんでした。私は主に対して全き者。

自分の咎から身を守りまます。(22-24)

私は、ダビデが自分の失敗を忘れていたとは思いませんし、その罪を軽視していたとも思いません。

しかし、ダビデは神の恵みを深く理解していました。ほかの詩篇では、ダビデはこう歌っています。

主は、いつまでも争ってはおられない。
とこしえに、怒ってはおられない。

私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、
私たちの咎にしたがって私たちに報いをされることもない。。。

東が西から遠く離れているように、
主は、私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。(詩篇103:9-10,12)

何年か後、神様は預言者イザヤを通して、こう言われました。

わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。(イザヤ書43:25)

でも、どれほど私たちは自分の罪と失敗をくよくよするでしょうか。どれほど私たちは自責の念で苦しむでしょうか。

神様は私たちの罪を忘れることを選ばれました。神様はもう二度とその罪のために私たちを責めることはありません。

神様が私たちをご覧になるとき、聖く、傷のない者、また、キリストの義を着ている者として見なされます。

私たちの「義」は不完全なものです。その「義」はしばしば不純な動機に汚されています。

それでも、神様は恵みによってダビデの義を受け入れられたように、私たちの義も受け入れてくださいます。

それでも、神様は恵みによってダビデの義を受け入れられたように、私たちの義も受け入れてくださるのです。

そればかりか、神様は私たちを喜びとされるのです。

主は生きておられる。ほむべきかな。
わが岩。あがむべきかな、わが救いの岩なる神。(47)

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正義?

「ダビデは神のみ心に従ったでしょうか。」

今日の箇所を読んだ時、私はそう思いました。

サウルはギブオン人たちとの条約に違反して、多くのギブオン人を殺していました。(ヨシュア記9:3〜17)

そのゆえ、イスラエルの土地は霊的に汚され、飢饉が起こりました(民数記35:30〜34)。

その飢饉は三年間続き、ダビデは神様のみ顔を求めました。そして、神様はその飢饉の理由を明らかにされました。

ところが、そのあと、この話は少し霊的に濁ります。

ダビデはギブオン人たちに、何の償いを求めるか尋ねました。

彼らは、サウルの子孫7人を処刑するために引き渡してほしいと願いました。ダビデはその願いを叶えました。

しかし、ダビデは正しいことをしていたのでしょうか。

神様の律法によれば、殺人者の血以外によって土地は宥められることはありませんでした。(民数記35:33)

さらに、その律法によれば、子が父の罪のために殺されてはならなかったのです。(申命記24:16)

最後に、神様は、殺人者がすでに亡くなっている場合については何も命じておられませんでした。

けれども、殺人者が見つからない場合についての戒めはありました。それは、いけにえと祈りによって、その罪が赦されるということです。(申命記21:1〜9)

もしかすると、サウルの場合、神様は少し違う指示を与えられたかもしれませんが、おそらく似たような戒めを与えられたでしょう。

しかし、ダビデは神様にどうすればよいかを尋ねませんでした。

皮肉なことに、ヨシュアも初めてギブオン人たちに出会ったとき、同じような過ちを犯していました。(ヨシュア記9:14)

神様の恵みによって、その飢饉は終わりました。

それでも、ダビデの行為が神のみ心にかなっていなかったことを示唆するものがあるでしょうか。

私は、その示唆があると思います。

つまり、サウルの子孫が殺された後も、その飢饉はしばらく続いたということです。

実は、もう一つの違反がありました。神様の律法によれば、かけられた死体は翌日まで木に残されてはならなかったのです(申命記21:22〜23)。

その死体が埋葬されて初めて、飢饉は終息しました。

私たちはこの話から何を学べるでしょうか。

私たちは神のみ言葉をよく知っているでしょうか。何が神様を喜ばせるか、喜ばせないかを知っているでしょうか。

もし私たちが神のみ言葉を知らなければ、良い意図があっても、神様を喜ばせないことをしてしまうかもしれません。

だからこそ、毎日神のみ言葉を読み、学びましょう。

その言葉によってのみ、私たちは神様をどのように喜ばせることができるかを知ることができます。

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罪悪感を手放す

王は身を震わせ、門の屋上に上り、そこで泣いた。彼は泣きながら、こう言い続けた。

「わが子アブサロム。わが子、わが子アブサロムよ。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。

アブサロム。わが子よ、わが子よ。」(サムエル記第二18:33)

私の意見ですが、おそらくダビデはアブサロムの死が自分のせいだと思い、深い罪悪感を抱いていたでしょう。

なぜなら、アムノンがアブサロムの妹タマルを辱めた時、ダビデは何も行わなかったからです。

そして、アブサロムがアムノンを殺したあとも、ダビデは自分に与えられた神の恵みとあわれみをアブサロムに示さず、かえって彼から遠ざかってしまったのです。

でも、19章でヨアブが指摘したように、その罪悪感によって、ダビデとその国が滅ぼされる恐れがありました。

ダビデのように、私たちは自分の罪と失敗のために罪悪感を抱いているかもしれません。

その罪と失敗が、私たちの愛する人々にどのような影響を与えたかを見ると、それは特に苦しいことです。

でも、私たちがその罪悪感を手放して前に進まなければ、私たちの人生は壊れてしまいます。

私たちが自分の罪と失敗を軽視した方がいいと言っているわけではありません。自分の行為がそれほど悪くなかったと自分に言い聞かせようとしているわけでもありません。

むしろ、私たちは自分の罪を神様に告白するべきです。

そして、できれば私たちが傷つけた人に、自分の過ちを認めて、償いをするべきです。

また、私たちは反省して、自分の失敗や罪から学ぶべきです。

でも、そのあと、私たちは神様の赦しを抱くべきです。人々が私たちを許してくれなくても、神様は私たちを赦してくださいます。

罪悪感には私たちを滅ぼす力があります。でも、それは私たちのための神の望みではありません。

イエス様は十字架で、私たちのすべての罪と咎を背負われました。

そして、イエス様の血によって、私たちの罪は清められました(第一ヨハネ1:7)。

神様の目には、私たちはしみ一つない者です。

神様の目には、私たちは傷のない者です(エペソ1:4;5:27)。

私たちは赦されました!

あなたにとっては、それが信じにくいことかもしれません。

でも、それは本当です。

サタンの嘘を信じてはいけません。あなたの罪、あなたの失敗は赦されないものではありません。

神様の目には、あなたはしみ一つない者です。

神様の目には、あなたは傷のない者です。

あなたは赦されました!

だから、パウロの言葉を覚えていて、自分のものにしましょう。

こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)

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「許せない!」

「許せない!」

アヒトフェルは、ダビデが自分の孫バテ・シェバとその夫ウリヤに何をしたかを知ったとき、たぶんそう言ったのでしょう。(第二サムエル記11:3;23:34)

自分の行為によって、ダビデはバテ・シェバに恥をかかせ、アヒトフェルの家名を汚してしまいました。

だから、私たちはダビデに関するアヒトフェルのアドバイスをよく理解できます。

たぶんアブサロムがダビデの側女たちと寝た場所さえも、アヒトフェルには意義があったのでしょう(第二サムエル記11:2;16:20-22)。

また、どうしてアヒトフェルが兵士ではなく、ただの助言者でありながら、自らダビデを殺す軍隊を率いたかったのか、私たちは理解できます。

でも、最終的に、アヒトフェルはダビデを許せなかったため、自分の人生が壊れてしまいました。

あなたはどうですか。許してあげなければならない人はいますか。

許すとは、
囚人を自由にし、
その囚人が自分であったと分かってくることです。

ルイス・B・スメデス
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サタンが私たちを責める時

出て行け、出て行け。血まみれの男、よこしまな者よ。主がサウ ルの家のすべての血に報いたのだ。。。

今、おまえはわざわいにあうのだ。 おまえは血まみれの男なのだから。(サムエル記第二16:7ー8)

たぶん、その言葉はダビデの心に染みたでしょう。

もちろん、ダビデはサウルとイシュ・ボシェテを殺したわけではないし、サウルの王座を奪ったわけでもありません。

それでも、ダビデは殺人者でした。そして、ナタンはダビデに、神様がその罪のゆえにダビデの家の中からダビデの上にわざわいを引き起こす、と言っていました(第二サムエル記12:11)。

だから、シムイの言葉が大分間違っていても、その言葉には真実味がありました。

もしかしたら、そういうわけで、ダビデは、「彼が呪うのは、主が彼に『ダビデを呪え』と言われた。だれが彼に『おまえは、どうしてこういうことをするのだ』と言えるだろうか」と言ったのかもしれません(10節)。

ダビデは自分の罪の実を刈り取っていました。

それでも、神様はダビデを責めていたわけではありません。神様はすでにダビデを赦してくださっていたのです(第二サムエル記12:12)。

さらに、私たちは後で見ることになりますが、神様はダビデの味方でした(第二サムエル記17:14)。

時々、この世界で、私たちは自分の罪の実を刈り取ります。

その時、サタンが私たちを責め、その言葉は私たちの心に染みます。なぜなら、その言葉には真実味があるからです。

でも、私たちがすでに悔い改めたのなら、神様は私たちを責めていないことを覚えておきましょう。

神様は私たちをすでに赦してくださいました。さらに、神様は私たちの味方です。

だから、パウロの言葉を心に留めておきましょう。

だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。(神ではありません。)

神が義と認めてくださるのです。

だれが、私たちを罪ありとするのですか。(イエスではありません。)

死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。 (ローマ8:33ー34)

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私の王がおられるところに

イタイは王に答えて言った。

「主は生きておられます。そして、王様も生きておられます。王様がおられるところに、生きるためでも死ぬためでも、このしもべも必ずそこにいます。」(サムエル記第二15:21)

その言葉は私の心に響きました。

イタイは外国人でした。おそらくピリシテ人で、ダビデがサウルから逃れていた頃に彼に従い始めました。

なぜ彼がピリシテを離れたのかは聖書に記されていませんが、ダビデがついに王となった時、イタイは新しい国、新しい家を見出しました。

しかし今、ダビデは再び逃亡中でした。今回は、息子アブサロムからの逃亡でした。

イタイはエルサレムの居心地の良い家に留まることもできましたが、彼は再びダビデに従う道を選びました。

ダビデは彼に残るよう説得しようとしましたが、イタイはどうしてもダビデと共に行くことを望みました。

彼の言葉を読んで、新約聖書に登場するもう一人の人物を思い出しました。その人はイエス様にこう言いました。

「あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」

イエス様はその人に、ダビデがイタイに語った言葉とよく似たことを語られました。

狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。(マタイ8:20)

私たちは、その人がどう答えたかわかりません。彼はイタイのように、「私の主がおられるところに、生きるためでも死ぬためでも、このしもべも必ずそこにおります」と答えたでしょうか。

主よ、あなたは楽な人生を約束されません。しかし、あなたは私を愛してくださっています。あなたは私を救ってくださいました。あなたがおられるところこそ、私の家なのです。

だから、私の王、あなたがおられるところに、このしもべも必ずおります。

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子どもたちへの赦しと希望の言葉

私たちの子どもたちが大きな失敗をしたとき、私たちはどんなメッセージを伝えるでしょうか。

私たちは彼らから距離を置くでしょうか。

彼らがしたことは許されないという印象を与えるでしょうか。

ダビデはそのようなメッセージをアブサロムに伝えてしまいました。

ダビデがアブサロムを抱きしめ、もう一度自分の愛を伝えていたらよかったのに。

ダビデがアブサロムに、次のような言葉を伝えていたと想像してみましょう。

「私はあなたと同じ立場に立ったことがある。私も人を殺した。しかも、私の理由はあなたの理由よりももっとひどかった。でも、神様は私にご自分のもとに戻る道を備えてくださった。神様はあなたにも、その道を備えることができる。」

ダビデがそう言っていたら、アブサロムは悔い改めたでしょうか。

私はわかりません。そうだったかもしれませんが、私にはわかりません。

しかし、神のいつくしみ深さが私たちを悔い改めへと導いてくださいます(ローマ2:4)。

だからこそ、私たちの子どもたちが大きな失敗をしたとき、その同じ恵みを与え、主のもとに帰る道を示してあげましょう。

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主に愛された者

彼女は男の子を生み、彼はその名をソロモンと名づけた。主は彼を愛されたので、預言者ナタンを遣わし、主のために、その名をエディデヤと名づけさせた。(「エディデヤ」とは「主に愛されたもの」を意味します)。(サムエル記第二12:24-25)

ダビデは大きな失敗をしていました。自分の罪によって、ダビデは主を蔑んでしまいました。そして、その罪の結果は、ダビデとその家族に長い間、大きな影響を与えました。

それでも。。。

ダビデの悔い改めに伴って、彼は神様の赦しを知りました。そのあと、ダビデはこの言葉を書きました。

東が西から遠く離れているように、
主は、私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。(詩篇103:12)

もし私が神様だったら、たぶんこう言っていたと思います。

「ダビデとバテ・シェバを赦しはするが、この結婚を絶対に祝福しない。」

でも、神様はそのようには考えられませんでした。

ソロモンを「主に愛された者」と名づけることによって、神様はダビデとバテ・シェバにこのメッセージを伝えたかったのだと思われます。

「私はあなたたちをまだ愛している。あなたたちの罪によって、つらい時に直面することになるが、この子どもを見るとき、私の愛があなたたちから取り去られていないことを心に留めなさい。

ソロモンは私の愛する子どもです。あなたたちも、私の愛する子どもたちです。」

そして最終的に、ダビデとバテ・シェバとソロモンを通して、イエス様はこの世に来られました。(マタイ1:6–16)

それは恵みです。それは神の忠実な愛です。

あなたはどんな後悔を抱えているでしょうか。自分の過去の罪の結果によって、今も苦しんでいるでしょうか。

心に留めておきましょう。ダビデとバテ・シェバとソロモンのように、あなたは主に愛されている子どもです。

イエス様にあって、赦しがあり、神があなたのために整えられた道があります。

だからこそ、イエス様と共に、次の一歩を踏み出しましょう。

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神様がどう思っておられるか

しかし、ダビデが行ったことは主のみこころを損なった。(サムエル記第二11:27)

私の意見ですが、聖書には、特に歴史書(ヨシュア記から歴代誌第二まで)には、上のような言葉がもっと書かれていたらいいのにと思います。

聖書には、時々「良い登場人物」が疑問に思われるような決断、あるいはまったく悪い決断をすることがありますが、神様がそのことについてどう思っておられたかは書かれていません。

私たちはその行動の悪い結果を見るかもしれません。それでも、神様はその人に対して一言の叱責も語られないのです。

だから、私たちはこう思うのです。 「もし神様がその行為を憎んでおられたとしたら、どうして何も言われなかったのだろうか。」

私はしばしばそう感じます。

しかし、心に留めなければならないのは、聖書の著者たちが、私たちがすでに神様がその行為についてどう感じておられるかを知っていることを前提にしている、ということなのです。

なぜなら、私たちは十戒や神の他の律法を知っているし、ほかの箇所では神様が同じような行為にどう反応されたかを知っているからです。

だから、多くの場合、聖書の著者たちはわざわざ「ところで、その人は悪かった」とは言いません。

でも、この場合、著者はわざわざ「ダビデが行ったことは主のみこころを損なった」と書いています。

なぜでしょうか。私はわかりません。

でも、その言葉から、私たちは大切な訓戒を学ぶことができると思います。

時々、ダビデのように、私たちは神様の戒めに違反しても、自分を騙し、自分が別に悪いことをしていないと自分に言い聞かせます。(第二サムエル記11:25)

特に、すぐに悪い結果が現れないとき、また、神様の叱責を感じないとき、私たちは自分を騙してしまいます。

それでも、私たちが行ったことは、神様の御心を損なっています。

神様はその行為をご覧になっています。そして、ある日、私たちは神様のみ前で、自分のことを申し開きしなければなりません。

地上でそうしなければならないかもしれませんし、神様の裁きの座の前でそうしなければならないかもしれません。

でも、いつか私たちは、自分のことを申し開きしなければなりません。

だから、自分を騙してはいけません。むしろ、神様に対して柔らかい心を保ち、私たちの良心が麻痺しないように、神の言葉を無視しないようにしましょう。

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神の忠実な愛を受ける者として

王は言った。「サウルの家の者で、まだ、だれかいないか。私はその人に神の恵み(つまり、忠実な愛)を施そう。」(サムエル記第二9:3)

上の言葉は、私の心を打ちました。

第二サムエル記7章では、神様がご自分の忠実な愛をダビデに与えられ、ダビデは圧倒されました。

けれども、ダビデは神様に感謝しただけではありませんでした。

むしろ、ダビデは他の人々への神の忠実な愛のパイプラインになりたいと願っていました。

だからこそ、彼は積極的に、誰にその愛を与えられるかを探しました。

ヨナタンへのダビデの愛と約束のゆえに、メフィボシェテが選ばれたのは当然のことでした。(第一サムエル記20:14–15)

しかし、ダビデはメフィボシェテに、自分の忠実な愛だけでなく、神の忠実な愛を示したかったのです。

だから、この話の中で、ダビデはそのように行動しました。

主よ、私は周りの人々への、あなたの忠実な愛のパイプラインになりたいと願っています。

ダビデのように、私が積極的に、誰にあなたの愛を示すことができるかを探すように、私を助けてください。

そして、私と共にいるその人が、あなたの忠実な愛に圧倒され、喜びをもって叫びます。

「いったい私は何者なのでしょうか。神様がこのように私を愛してくださっているとは!」

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神の忠実な愛

わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が不義を行ったときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。

しかしわたしの恵み(英訳、忠実な愛)は、わたしが、あなたの前から取り除いたサウルからそれを取り去ったように、彼から取り去られることはない(サムエル記第二7:14-15)

神様はソロモンに関して、ダビデにそのように約束されました。しかし、興味深いのは、パウロがその言葉を少し変えて、私たちに当てはめたということです。

わたしはあなたがたの父となり、 あなたがたはわたしの息子、娘となる。 ──全能の主は言われる。(第二コリント6:18)

パウロが私たちに語っているのは、「ソロモンに関する言葉は、あなたたちにも当てはめられます。なぜなら、神様はあなたたちを、ご自分の子どもと呼ばれるからです」ということです。

たとえ私たちがソロモンのように大きな失敗をし、神様が私たちを厳しく懲らしめなければならなくなったとしても、神様はご自分の忠実な愛を私たちから決して取り去ることはありません。

この大切な真理を心に留めておきましょう。

「私たちの神との関係は、私たちの忠実さではなく、私たちへの神様の忠実な愛に基づいています。」(第二テモテ2:13)

天のお父さん、あなたが私を、ご自分の子どもと呼んでくださることに感謝します。私への、あなたの忠実な愛を与えてくださることに感謝します。

私は何者でしょうか。あなたが私をここまで導いてくださったとは。

私は何度も失敗し、あなたに忠実ではありませんでした。

あなたは大いなる方です。あなたのような方はほかになく、あなたのほかに神はいません。

あなたの言葉と、私への約束はまことです。

だからこそ、この祈りをあなたにささげる勇気を得ました。

天のお父さん、あなたを愛しています。私へのあなたの忠実な愛に確信を持っています。

だから今、あなたに近づき、その愛のうちに安心しています。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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私たちのアイデンティティー

今日、ミカルの話を考えていました。

興味深いことに、第二サムエル記6章では、ミカルは「ダビデの妻」ではなく、「サウルの娘」と呼ばれています。

もしかしたら、第一サムエル記の著者には、それは深い意味がなかったかもしれません。その著者はヨナタンを「サウルの息子」と何度も呼びました。

それにしても、ダビデの友だちであることと、ダビデの妻であることは全く違うことでしょう。

創世記には、モーセが言ったのは、「男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる」ということです。(創世記2:24)

そのように、女も父と母を離れ、その夫と結ばれ、ふたりは一体となるはずです。

でも、ミカルが「ダビデの妻」と呼ばれるのは3回だけです。それに対して、ミカルは8回「サウルの娘」と呼ばれます。

第二サムエル記6章では、ミカルは2回「サウルの娘」と呼ばれています。

それは適切なことだと思います。なぜなら、第一サムエル記15章では、彼女は父サウルと同じように考えていたからです。

つまり、ミカルは周囲の人々の意見を、神様を喜ばせることよりも大事にしたということです。(第一サムエル記15:24,30;18:7–8;第二サムエル記6:16,20)

ミカルがダビデと結婚したとき、前の生活、前のアイデンティティー、前の考え方を捨てたはずです。でも、むしろ、彼女はサウルの娘として生き続けました。

そのように、私たちキリストの教会は、キリストの花嫁として、前の生活、前のアイデンティティー、前の考え方を捨てたはずなのです。

しかし、私たちは本当にそうしているでしょうか。もしかすると、私たちはまだこの世の子として生き、この世の民と同じように考え、行動しているのかもしれません。

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私たちのリーダーたちのために祈る

私たちは、リーダーたちからしばしばがっかりさせられることがあります。

政治家も教会のリーダーたちも、私たちを失望させる時が多いです。

なぜなら、彼らはただの人間だからです。そういうわけで、彼らには欠点も失敗も多くあります。

ダビデはイシュ・ボシェテよりも強い王だったかもしれませんが、イシュ・ボシェテがアブネルのことをうまく扱えなかったように、ダビデもヨアブのことをうまく扱うことができませんでした。

さらに、王に関する神様の戒めを無視して、ダビデは多くの妻を持っていました。(申命記17:17)

ダビデは、少なくとも一人の妻と政治的な理由で結婚しました。(第二サムエル記3:3)

また、たぶん愛のためではなく、むしろ政治的な理由のために、ダビデはサウルの娘ミカルを自分に返してくれるように要求しました。ミカルの夫は彼女を愛していたのに、ダビデはその要求をしました。

ミカルはどう感じたでしょうか。もちろん、彼女はかつてダビデを愛していました。(第一サムエル記18:28)

しかし、父サウルに悪く扱われ(第一サムエル記25:44)、ミカルは新しい夫と歩んでいくことを選んだようです。

ところが今、彼女はダビデの愛のために他の妻たちと競争しなければなりませんでした。

もしかすると、そういうわけで、彼女はダビデを軽蔑するようになったのかもしれません。(第二サムエル記6:20)

それでも、神様はご自分の目的をダビデを通してもたらしました。

今なお、私たちが神様の目的を理解できなくても、神様は政治家や教会のリーダーたちを通してその目的をもたらされます。

だから、そのリーダーたちのために祈りましょう。彼らの欠点や弱さにもかかわらず、彼らを通して神様がご自分の目的をもたらされるように祈りましょう。

もし、そのリーダーたちが神様をまだ知らないなら、彼らの救いのために祈りましょう。

もし、彼らが神様を知っているなら、神様が彼らを導かれるように祈りましょう。

そしてその導きによって、彼らがリーダーとして、また人間として成長し、彼らに与えられた神様の召しを果たすことができるように祈りましょう。

神様は彼らに恵みを与えてくださっているのです。

その恵みの心をもって、彼らのために祈りましょう。

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いつまで?

いつまで私たちは怒りや苦々しい思いを持ち続けるでしょうか。

いつ、その怒りと苦々しい思いを手放すのでしょうか。

アブネルはヨアブの弟アサエルを殺していたため、ヨアブともう一人の弟アビシャイはアブネルを殺そうとしました。

しかし、彼らがアブネルを追うにつれて、他の兵士たちも殺されていきました。

そして、太陽が沈んでもヨアブとアビシャイが諦めようとしないのがわかったとき、アブネルは彼らにこう言いました。

いつまでも剣が人を食い尽くしてよいものか。その果ては、ひどいことになるのを知らないのか。

いつになったら、兵たちに、自分の兄弟たちを追うのをやめて帰れ、と命じるつもりか。(サムエル記第二2:26)

後の章で見るように、ヨアブは非常に暴力的な人でした。(アビシャイも暴力的な人でした。)それでも、その日、彼はアブネルの知恵を認めて、帰りました。

あなたはどうでしょうか。心の中に、どんな傷を抱えているでしょうか。

許せない人がいるでしょうか。

自分の怒りのゆえに、相手を傷つけ続けようとしているでしょうか。

私たちの主の言葉に耳を傾けましょう。

「いつまでも剣が人を食い尽くしてよいものか。その果ては、ひどいことになるのを知らないのか。

あなたの怒りを手放しなさい。あなたの痛みを私に委ねなさい。そうすれば、私はあなたを癒します。」