いろんな意味で、これはとても難しい箇所です。
イスラエル人たちは罪を犯していました。
何の罪を犯したのか私たちは分かりませんが、もしかすると、その罪は、神様がイスラエルのために選ばれた王であるダビデを拒み、アブサロムやシェバに従ったことかもしれません。
とにかく、彼らの罪のために、神様はイスラエルの民を裁くことにされたのです。ところで、それはとても重要なポイントです。
ダビデの意見とは違って(17節)、イスラエル人たちは有罪であり、神の裁きにふさわしい者たちでした。
しかし、「ダビデをそそのかして、イスラエル人たちに向かわせた」とは、いったいどういう意味でしょうか。
神様はダビデに罪を犯させたのでしょうか。
また、歴代誌第一21章によれば、サタンがダビデをそそのかしてイスラエルの人口を数えさせたと書かれています。
では、ダビデの行動は誰の責任だったのでしょうか。
それは難しい疑問です。
けれども、私たちは三つのことを覚えていなくてはなりません。
一つ目は、サタンが常に神の民に敵対して立ち上がるということです。サタンは私たちを滅ぼそうとします。
しかし、ヨブ記の物語から分かるのは、神様がサタンの働きを制限されるということです(ヨブ記1〜2章)。
二つ目は、神様が人々を試すため、あるいは裁くために、その制限を一時的に緩められることがあるということです。
サウル王やアハブ王の場合には、神の裁きが示されました。(第一サムエル記16:14;列王記第一22:19〜23)
ヨブやイエス様(マタイ4:1)の場合には、神様が彼らを試されました。
三つ目は、神様が制限を緩められても、人が罪を犯さなければならないわけではないということです。人は正しいことを選ぶことができます。
ヨブとイエス様は正しい道を選びましたが、サウル王とアハブ王は罪を選びました。
ですから、神様が裁きの目的でサタンへの制限を緩められたとしても、ダビデには選択の余地がありました。そして、彼は罪を選びました。
ダビデ自身、自らの責任を認めています(10節、17節)。
神様がダビデに罪を犯すよう強制されたわけではなく、サタンが彼に罪を犯させたわけでもありません。
むしろ、ダビデは自らの心にある罪によって、罪を犯したのです(ヤコブ1:14)。
おそらく、ダビデの問題はプライドだったのかもしれません。つまり、自分の軍隊の力を誇りたかったのです。そのために、イスラエルの民を数えようとしたのでしょう。
ここで、さらに二つのポイントを指摘したいと思います。
一つ目は、イエス様の十字架のあと、私たちは神の子供として、神の裁きを恐れる必要がないということです。(第一ヨハネ4:14〜19)
イスラエルの民と同じように、私たちも神様の裁きにふさわしい者です。けれども、十字架において、イエス様は私たちの代わりに神の裁きを受けてくださいました。
神様が私たちを懲らしめられることはありますが、私たちは神様の裁きを受けることはありません。(へブル12:5〜11;ローマ8:1)
二つ目は、神様がサタンへの制限を緩められることがあり、私たちが試練や誘惑に直面することもありますが、私たちは罪を選ぶ必要はありません。
むしろ、パウロが言ったように、
あなたがたが経験した試練(別訳;誘惑)はみな、人の知らないものではありません。
神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。
むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。(第一コリント10:13)
だから、私たちへの神様の忠実さと愛を信じ、ヤコブの言葉を覚えながら、神様についていきましょう。
試練に耐える人は幸いです。
耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。(ヤコブ1:12)
