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ゼカリヤ書

勝利、命、光を与える方

ゼカリヤ書の最後では、私たちはイエス様がこの世に戻られる様子を見ることができます。また、イエス様がこの世を治める1000年の時代についても描かれています。

将来、周辺の国々がエルサレムを攻撃し、エルサレムの民の半分が追放されることが起こります。けれども、その時、イエス様はすぐに戻られるのです。

その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。

オリーブ山は、その真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。(ゼカリヤ書14:4)

その時、世の光は無くなりますが、神様はご自身の栄光でこの世を照らされます。夜になっても、光があります。(6-7)

ヨハネはこう書きました。

都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。(黙示録21:23)

それだけではなく、エルサレムから湧き水が流れ出ます。おそらく、エゼキエル47:3-11も同じことについて言及しています。

神様はイスラエルのために戦い、その敵に災害を送られます。12節を読むと、神様が国々の核兵器を彼ら自身に向けて使われるのではないかと考えます。そうかもしれませんが、はっきりとは分かりません。

それでも、その患難の後、世のすべての人々は神様を王として認め、神様の正義と恵みを喜びます。

かつて、ユダヤ人たちは仮庵の祭りを祝いました。その時、彼らは神様に感謝を捧げました。なぜなら、神様は彼らをエジプトの奴隷生活から救い出し、砂漠を越える間、守ってくださったからです。

同じように、私たちも神様を賛美します。なぜなら、神様は私たちをサタンの国の奴隷生活から救い出し、私たちの試練を通して導き、守ってくださったからです。

しかし、悔い改めない人々には裁きが待っています。

ここから、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

1. 神様は勝利を与えてくださるお方です。

サタンは神様に逆らい、私たちを攻撃しますが、最終的に勝利を収めるのは神様です。実際、神様はすでに勝利しておられます。イエス様が十字架で死なれた時、神様は勝利されました。

とはいえ、サタンはその勝利を認めたくありません。それでも、どんな試練に遭っても、私たちは勝利を得ることを確信できます。それだけではなく、私たちは罪と死に対しても勝利を得るのです。

パウロはこう書きました。

しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。(第一コリント15:57)

2.神様は命を与えてくださるお方です。

エルサレムから水が流れて、死海を魚が生きる場所に変えるように、聖霊様は私たちの人生に流れ込み、命を与えてくださいます。

しかし、神様から離れている人は命を離れ、惨めな人生を送ることになります。

3.神様は光を与えてくださるお方です。

私たちの人生が暗く、希望が見えない時、神様は私たちに光を照らし、希望を与えてくださいます。また、私たちが迷い、どの道を進むべきか分からない時、神様は正しい道に光を当ててくださいます。

主よ。あなたが私たちに勝利と命と光を与えてくださり、感謝します。どうか毎日、私たちがあなたにすがりつき、聖なる人として歩めるよう助けてください。

そして、毎日、私たちがあなたの目的のために生きることができますように。イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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ゼカリヤ書

清められた

この箇所では、ゼカリヤはユダヤ人の悔い改めについてさらに詳しく話します。つまり、最後の日、神様の恵みによって、そして、イスラエル人が約2000年前に十字架に付けられたイエス様の血によって、彼らの罪は清められます。

その日、すべての偶像と偽の預言者たちはイスラエルから取り除かれます。こうして、イスラエルは神様のために本当に聖い国となります。

しかし、その前に、良い牧者は打ち殺されなければならず、その羊は散らされなければなりませんでした。

だから、イエス様は敵に捕らえられた時、彼の弟子たちは逃げ去りました。イエス様はあざけられ、鞭で打たれ、兵士たちの手で殴られ、そして十字架で殺されました。

ユダヤ人は自分の救い主を拒絶したため、神様は彼らを罰し、その国は滅ぼされました。

それでも、神様はご自分の恵みを彼らの上に注がれます。多くのユダヤ人が命を落としても、救い主イエス様に従うユダヤ人は残ります。神様は彼らについてこう言われます。

わたしは、その三分の一を火の中に入れ、銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす。

彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは「これはわたしの民」と言い、彼らは「主は私の神」と言う。(ゼカリヤ書13:9)

神様は私たちが試練を経験しないと約束されたわけではありません。実は、イエス様はこう言われました。

あなたがたは、世にあっては患難があります。(ヨハネ16:33)

しかし、その試練を通して、神様は私たちを練り、清めてくださいます。そして、私たちが神様を呼ぶ時、神様は応えてくださいます。

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ゼカリヤ書

私たちの目が開かれるように

この箇所で、私たちはイスラエルの将来を少し見ることができます。

あるクリスチャンは、神様がイスラエルをもう捨てられたのだと思っています。つまり、神様の全ての約束はイスラエルのためではなく、教会のためだというのです。

けれども、その考え方は間違っていると思います。パウロはイスラエルについてこう書きました。

彼らは。。。選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者なのです。神の賜物と召命とは変わることがありません。(ローマ11:28-29)

そして、ゼカリヤの預言によれば、ある日、神様はイスラエル人の目を開けてくださいます。

最後の日、周りの国々はイスラエルを滅ぼそうとし、エルサレムを攻撃します。しかし、神様はこう言われました。

わたしはエルサレムを、その回りのすべての国々の民をよろめかす杯とする。。。

その日、わたしはエルサレムを、すべての国々の民にとって重い石とする。すべてそれをかつぐ者は、ひどく傷を受ける。。。(ゼカリヤ書12:2-3)

イスラエル人が、神様が自分たちを守っていることを目の当たりにするとき、彼らはこう言うでしょう。

エルサレムの住民の力は彼らの神、万軍の主にある、と。(5)

そして、彼らが神様の救いを見るとき、もう一つのことが分かるようになります。つまり、彼らが待ち望んでいた救い主は、すでに来ていたということです。けれども、約2000年前に、彼らは自分たちの手でその救い主を殺してしまいました。

わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。

彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。(10)

その日、すべてのイスラエル人はイエス様をメシアとして、つまり救い主として認めます。そして、すべてのイスラエル人は救われます。(ローマ11:26)

この箇所を読むと、神様の恵みの不思議さに心を打たれます。イスラエル人が神様を求めなくても、(もしくは間違った場所で神様を求めても)、彼らは神様を見つけます。

なぜでしょうか。彼らは神様の愛に値しているわけではなく、他の国民よりも優れているわけでもありません。むしろ、神様の愛と憐れみによって、彼らは神様を見つけ、救われます。

同じように、私たちの霊的な目が開かれ、私たちが悔い改めるために、神様は恵みと哀願の霊を私たちの上に注いでくださいます。そして、私たちが救い主イエス様を見るとき、ユダヤ人と同じように私たちも救われます。

おどろくばかりの神の恵み。
なんて麗しい響きでしょう。

神のすばらしい恵みによって、
こんな惨めな私が救われたのです。

かつて、私は迷って混乱していましたが、
神様は私を見つけてくださいました。

かつて、私は何も見えませんでしたが、
今、私には見えるのです。

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ゼカリヤ書

救い主を拒絶すると

神様は比喩を好まれます。だから、イエス様はたとえ話をよく使われました。預言者たちも比喩やたとえ話をよく用いました。この箇所では、その一つの例があります。

神様はイスラエルの没落を森の木が倒れることに比べられます。

レバノンの森は主の宮を表します。なぜなら、その宮はレバノンの木材で造られたからです。(ゼカリヤ書11:1)

バシャンの樫の木もヨルダンの茂みも荒らされました。つまり、イスラエルのすべてが倒れます。ヨルダン川の東の所も(バシャン)、ヨルダン川の西の所も倒れます。

どうしてでしょうか。それは、イスラエル人がそのメシア、つまり救い主を拒絶したからです。

そのことを表すために、ゼカリヤは羊飼いの役割を取りました。

神様はゼカリヤにこう言われました。

ほふるための羊の群れを養え。(ゼカリヤ書11:4)

その羊はイスラエルを表します。彼らは神様を拒絶したので、すぐにほふられます。おそらく、その裁きは預言者マラキの時代の後から、ローマ帝国の時代まで起こりました。

そして、そのローマ帝国の時代、突然メシアが来ます。(ゼカリヤはそのメシアを表しました)。

彼は2本の杖を持ちました。「慈愛」という杖は神様のイスラエル人に対する慈愛を表しました。「結合」という杖はイスラエルの一致を表しました。

羊飼いは羊を傷つけた羊飼い(つまり、悪い王と偽の預言者と悪い祭司)を取り除いて、羊を世話しました。

ところが、羊(または、悪い羊飼い)は羊飼いを憎んだので、彼は羊を手放しました。そして彼は自分の慈愛の杖を取り上げて、折りました。

その結果、将来のローマ敵国の天皇ティトゥスは西暦70年にエルサレムを滅ぼしました。その時から1948年まで、イスラエルは国として存在しませんでした。

彼の仕事のために、羊飼いは銀三十シェケルをもらいました。それは奴隷の値段で、羊飼いは侮辱されました。(13節に、「尊い価」と書いてありますが、それは皮肉です。)

そして、羊飼いはそのお金を主の宮の陶器師に投げ与えました。

それはイエス様のことを示しています。イエス様は銀三十シェケルのために裏切られました。そして、祭司たちはそのお金を陶器師の畑を買うために使いました。

将来、もう一人の羊飼いが来ます。しかし、その羊飼いは羊を全然愛しません。おそらく、その人は反キリストです。結局、神様は彼を倒します。(15-17)

この箇所は、イスラエルがメシアを拒絶する結果を示していますが、私たちがメシアを拒絶する結果も示しています。

神様は私たちをサタンからの抑圧から解放するためにメシア、イエス様を送りました。

しかし、私たちがイエス様を拒絶すると、私たちは罪の結果を受け、結局裁かれます。私たちは神様の慈愛を知ることも、神様の家族の一致を知ることもありません。むしろ、私たちは死と破壊を知ります。

ヘブル書の著者はこう書きました。

もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。

ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。

だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。

まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。

私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」、また、「主がその民をさばかれる」と言われる方を知っています。

生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。(へブル10:26-31)

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ゼカリヤ書

全ての祝福は神様から来る

この箇所では、ゼカリヤはイスラエルの救いについて話し続けます。しかし、この箇所を読むと、この言葉は私の心を打ちます。

主はいなびかりを造り、大雨を人々に与え、野の草をすべての人に下さる。(ゼカリヤ書10:1)

わたしは雄やぎを罰しよう。万軍の主はご自分の群れであるユダの家を訪れ、彼らを戦場のすばらしい馬のようにされる。(3)

わたしはユダの家を強め、ヨセフの家を救う。わたしは彼らを連れ戻す。(6)

わたしは彼らに合図して、彼らを集める。わたしが彼らを贖ったからだ。(8)

彼らの力は主にあり、彼らは主の名によって歩き回る。――主の御告げ―― (12)

つまり、私たちの祝福のすべては神様から来ます。

神様から雨や作物が来ます。(1)

神様は悪いリーダー(つまり、雄やぎ)を罰し、ご自分の民を世話してくださいます。(3)

神様は私たちを強め、救い、癒してくださいます。私たちが呼ぶ時、神様は応えてくださいます。(6)

神様は私たちを呼び、集め、贖ってくださいます。(8)

神様の力と名前によって、私たちはこの世に恐れずに歩き回ることができます。(12)

どうして、神様は私たちをそのように祝福してくださるのでしょうか。私たちが良い人だからでしょうか。違います。神様の恵みによって、祝福してくださいます。

私たちのすべては、神様から来ます。私たちのすべては神様の恵みによって与えられたのです。

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ゼカリヤ書

平和の君

この箇所では、イエス様についての預言を見ることができます。既に成就した預言もあり、イエス様が戻られる時に成就する預言もあります。

9節には、こう書かれています。

シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。

この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。(ゼカリヤ書9:9)

イエス様が十字架で死ぬ前に、イエス様はエルサレムに行き、その預言を成就されました。

どうして馬ではなく、ろばに乗られたのでしょうか。その時代、戦争の時、王たちは馬に乗りました。しかし、平和な時は、ろばに乗りました。

イエス様はエルサレムに行かれた時、征服する王として行かれたのではなく、平和の君として行かれました。

そして、イエス様がこの世に戻られると、自分の民を守って、すべての戦争を終わらせてくださいます。10節には、こう書かれています。

わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれる。

この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る。(10)

その時イエス様は、絶望している囚人を開放して、彼らに希望を与えてくださいます。何によって、そうされるのでしょうか。

「あなたとの契約の血によって」そうされます。(11)

おそらく、ゼカリヤはモーセの時代の契約について話しているのでしょう。しかし、その古い契約のいけにえは、キリストの血によって結ばれた新しい契約を指し示しています。

キリストの血によって、サタンの国で結ばれていた私たちは解放され、希望を与えられました。

それゆえ、神様はイスラエル人について話しておられましたが、私たちについてもこう言われました。

その日、彼らの神、主は、彼らを主の民の群れとして救われる。彼らはその地で、きらめく王冠の宝石となる。それは、なんとしあわせなことよ。

それは、なんと麗しいことよ。穀物は若い男たちを栄えさせ、新しいぶどう酒は若い女たちを栄えさせる。(16-17)

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ゼカリヤ書

全てを見守ってくださる神

この箇所では、神様がイスラエルを見守っておられることがよくわかります。また、神様がどのようにアレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)を通して、シリアとツロとシドンとペリシテを裁いてくださったかわかります。

けれども、ゼカリヤが書いたのは、歴史について書いたのではありません。むしろ、預言が書かれました。

この預言は、具体的にアレクサンドロスの軍事行動の道を説明しています。

彼はシリアのハマテとダマスコから始めました。そして、ツロとシドンを征服しました。アッシリヤ人とバビロン人は以前ツロを攻撃しましたが、征服できませんでした。しかし、7か月で、アレクサンドロスはツロを征服しました。

そのあとで、アレクサンドロスはペリシテを征服しました。つまり、アシュケロン市とガザ市とエクロン市とアシュドデ市を征服しました。彼はその君主制を終わらせ、その民を追放し、彼らの代わりに他の民族をペリシテに連れて行きました。

けれども、第8節で神様はこう言われます。

わたしは、わたしの家のために、行き来する者を見張る衛所に立つ。それでもう、しいたげる者はそこを通らない。今わたしがこの目で見ているからだ。(ゼカリヤ書9:8)

神様はその約束を守られました。アレクサンドロスはいろいろな所を征服しましたが、エルサレムとその民を助命されました。

聖書の中には書いていませんが、ユダヤ人の歴史家フラウィウス・ヨセフスはこの話を記録しています。

アレクサンドロスがエルサレムに近づいたとき、神様は夢で大祭司にこう言われました。「恐れるな。エルサレムの門を開けて、アレクサンドロスを迎えに行きなさい。」

大祭司は、紫と金色の服を着て、アレクサンドロスを迎えに行きました。他の祭司たちは白い服を着ました。アレクサンドロスが彼らを見たとき、彼は大祭司に近づいて、大祭司のかぶり物に付けられた純金の札に口づけしました。

そして、アレクサンドロスは見た夢について話しました。その夢で、祭司の服を着た人を見ました。その人はアレクサンドロスに「アジアを超えて、ペルシャを征服しなさい」と言われました。

だから、アレクサンドロスはユダヤ人たちが自分の律法を守ることを許したし、ユダヤ人は7年間ごとに税金を払わなくてもよかったのです。

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。神様はすべてのことを見て、コントロールしておられることです。もし、神様に背くと、あなたは裁かれます。しかし、神様の前にへりくだると、神様はあなたを守ってくださいます。

神様がユダヤ人を守られたように、神様は私たちを守ってくださいます。

ダビデはこう書きました。

主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。

主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。

幸いなことよ。彼に身を避ける者は。(詩編34:7-8)

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ゼカリヤ書

祝福になるために救われた

ゼカリヤ書には、たくさんの警告と戒めがあります。けれども、同時に、励ましの言葉も記されています。

この箇所では、両方の要素を見ることができます。

神様はまず、ユダヤ人を励まされました。エルサレムは復興し、喜びと平和に満ちた安全な場所になると約束されました。また、散らされていた人々がイスラエルに帰還し、再び彼らは神様の民となり、神様も彼らの神となられるのです。

ユダヤ人にとって、それは想像を超える希望でした。それでも、神様は彼らに力強く語りかけられました。

もし、これが、その日、この民の残りの者の目に不思議に見えても、わたしの目に、これが不思議に見えるだろうか。――万軍の主の御告げ――(ゼカリヤ書8:6)

もちろん、そうではありません。なぜなら、神様は何でもできるからです。

だからこそ、神様は彼らにこう語られました。

勇気を出せ。あなたがたは、万軍の主の家である神殿を建てるための礎が据えられた日以来、預言者たちの口から、これらのことばを日ごろ聞いているではないか。(9)

ユダヤ人たちが神殿の礎を据えたとき、神様の預言者たちは彼らを励まされました。それゆえ、ゼカリヤは彼らに言いました。「その預言者の言葉を思い出し、諦めないでください。反対があっても勇気を出し、この神殿建設を終えなさい。」

神様は私たちにも同じように言われます。神様の力によって私たちは救われました。だからこそ、反対があっても私たちは勇気を出し、神様が計画されたように神様の宮となるべきです。

神様は私たちの内に住んでおられるのですから、私たちは聖なるものとなり、神様のために生きるべきです。

そして、神様はこう言われました。

ユダの家よ。イスラエルの家よ。あなたがたは諸国の民の間でのろいとなったが、そのように、わたしはあなたがたを救って、祝福とならせる。恐れるな。勇気を出せ。(13)

そのように、私たちが救われる前、私たちの人生は罪によって呪われていました。また、私たちの罪によって周りの人々をも呪っていました。

しかし、神様が私たちを救われたことによって、私たちは周りの人々に祝福をもたらす存在になります。神様は同じ約束をアブラハムにも与えられました。

地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。(創世記15:3)

神様は私たちにも同じことを望まれます。それゆえ、神様はこう言われました。

これがあなたがたのしなければならないことだ。互いに真実を語り、あなたがたの町囲みのうちで、真実と平和のさばきを行なえ。互いに心の中で悪を計るな。偽りの誓いを愛するな。

これらはみな、わたしが憎むからだ。――主の御告げ――」(16-17)

つまり、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」(マルコ12:31)

そうすれば、周りの人々は私たちに引き付けられ、神様にも引き付けられるでしょう。

最後にゼカリヤはこう言いました。

「多くの国々の民、強い国々がエルサレムで万軍の主を尋ね求め、主の恵みを請うために来よう。」万軍の主はこう仰せられる。

「その日には、外国語を話すあらゆる民のうちの十人が、ひとりのユダヤ人のすそを堅くつかみ、「私たちもあなたがたといっしょに行きたい。神があなたがたとともにおられる、と聞いたからだ」と言う。」(22-23)

いつか、すべての人がユダヤ人についてこう言うでしょう。 しかし、日ごとに人々が私たちについても同じことを言うようになりますように。

「私たちもあなたがたと一緒に行きたい。神があなたがたとともにおられると聞いたからです。」

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ゼカリヤ書

偽の敬虔

多くの人々は、クリスチャンをその偽善のために批判します。確かに、クリスチャンがその批判に値する時もありますが、そうではない時もあります。しかし、神様は偽善を非常に深刻に考えられるお方です。

この箇所では、バビロンから追放され、イスラエルに戻ってきたユダヤ人たちが、ゼカリヤに質問をしました。

私が長年やってきたように、第五の月にも、断食をして泣かなければならないでしょうか。(ゼカリヤ書7:3)

でも、神様はゼカリヤにこう答えられました。

この国のすべての民と祭司たちに向かってこう言え。この七十年の間、あなたがたが、第五の月と第七の月に断食して嘆いたとき、このわたしのために断食したのか。

あなたがたが食べたり飲んだりするとき、食べるのも飲むのも、自分たちのためではなかったか。(5-6)

つまり、「あなたたちはその宗教的な儀式を行いましたが、心からではありませんでした。そのため、それは全く意味のないものとなり、ただのショーに過ぎませんでした。」

英語の「hypocrite」、つまり「偽善者」という言葉はギリシャ語に由来します。ギリシャ語では、「偽善者」という言葉は「舞台俳優」を意味します。

そのユダヤ人たちは俳優のような存在でした。彼らは敬虔な人々のように振る舞いましたが、実際には心からの敬虔さを持っていませんでした。

その結果、神様は彼らに対し、追放前に彼らの先祖に与えられた命令を思い起こさせました。

万軍の主はこう仰せられる。「正しいさばきを行ない、互いに誠実を尽くし、あわれみ合え。やもめ、みなしご、在留異国人、貧しい者をしいたげるな。互いに心の中で悪をたくらむな。」

それなのに、彼らはこれを聞こうともせず、肩を怒らし、耳をふさいで聞き入れなかった。(9-11)

神様はそのユダヤ人たちに警告されました。「あなたたちの先祖は自分の心を堅くし、その結果として追放されました。」

「呼ばれたときも、彼らは聞かなかった。そのように、彼らが呼んでも、わたしは聞かない」と万軍の主は仰せられる。(13)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。神様は私たちの敬虔な儀式に感動されるわけではありません。神様にとって重要なのは、私たちが日々どのように生きるかということです。

私たちはどのように周りの人々を扱うでしょうか。彼らに憐れみを与えているでしょうか。正義を求めているでしょうか。

3年ほど前、私は「アメイジング・グレイス」という映画を観ました。この映画は、ウィリアム・ウィルバーフォースについての物語です。彼はイギリスで奴隷貿易を廃止するために戦いました。

ウィルバーフォースが奴隷に情けを示したように、私たちも周りの人々に憐れみを示すべきです。それが神様の望みです。

私たちはウィルバーフォースのように全国的な影響を与えることはできないかもしれません。しかし、私たちは周りの人々に影響を与えることができます。家庭でも、職場でも、近所でも、私たちは人々に影響を与えられます。

周りの人々は私たちの中にキリストの憐れみを見ているでしょうか。それが神様の望みです。もしキリストの体である私たちが、周りの人々に愛と憐れみを示すなら、この世界全体が変わるでしょう。

だから、偽善者にならないようにしましょう。ただ教会に行き、聖書を読み、祈るだけではなく、神様の愛と憐れみで私たちの心を満たしましょう。そして、私たちはキリストのために、この世の人々に触れましょう。

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ゼカリヤ書

再びこの世に来られる方

私が好きな歌の一つは、ダラス・ホルムの「Rise Again(よみがえる)」という歌です。この歌は、十字架のイエス様の言葉を想像しています。そして、イエス様が死からよみがえられた後、この歌の中で、イエス様はこう言われます。

どうぞ、私がもう死んだと言ってみてください。
しかし、あなたが間違っていることが分かるでしょう。

どうぞ、私を隠そうとしてみてください。
しかし、結局、この世のすべての人々が、私が救い主であることを知ることになります。

なぜなら、私はこの世に戻るからです。
私が戻ってくるのを止めることができる者は、誰もいません。

私はこの世に戻ります。 私の民を取り戻すために、私は戻ります。

この聖書の箇所は、キリストの再臨について記されています。1〜8節には、神様がこの世の国々とその民を裁かれることが書かれています。

この箇所を黙示録6章と比較すると、おそらく白い馬は戦争を表し、赤い馬は暴力と流血を象徴し、黒い馬は飢饉と死を表しています。また、まだら毛の馬は、黙示録に登場する青ざめた馬と同様に死病を象徴している可能性があります。

これは非常に恐ろしい光景ですが、それでも神様は全てをコントロールされています。あなたは、私たちがその災いをすでに経験していると思うかもしれません。けれども、実際、神様はまだ完全な裁きを注いでいないのです。

しかし、ある日、神様はご自身の怒りのすべてをこの世に注がれます。その時、これまで誰も知らなかったような苦しみがこの世に訪れるのです。

その後、イエス様がこの世に戻られます。この箇所では、大祭司ヨシュアがイエス様を象徴しています。(以前述べたように、「ヨシュア」という名前はギリシャ語で「イエス」を意味します。)

ゼカリヤはヨシュアのために冠を作り、その頭にかぶらせました。その時、ゼカリヤはヨシュアが象徴する救い主について預言しました。

ヨシュアは大祭司でした。一方で、ゼルバベルはダビデの子孫でしたが、王ではなく総督でした。しかし、将来現れる救い主は、王であり、同時に大祭司でもあるのです。

ゼカリヤはこう言いました。

彼は主の神殿を建て、彼は尊厳を帯び、その王座に着いて支配する。その王座のかたわらに、ひとりの祭司がいて、このふたりの間には平和の一致がある。(11)

多分、この宮はヨシュアとゼルバベルが建てた宮ではなく、むしろエゼキエル書40~43章に記されている宮でしょう。その時、イエス様は完全な王であり、大祭司となられます。

先に進む前に、少し説明しなくてはならないことがあります。聖書の翻訳は非常に難しく、この箇所ではヘブル語の意味が微妙です。

例えば、ヘブル語の11節では「二」と記されています。この「二」が、「二人」を指すのか、「二つの任務」、つまり「王と大祭司の任務」を指すのか解釈が分かれるのです。

ある英語訳では、「the counsel of peace will be between the two offices」(二つの任務の間に平和の一致がある)と訳されています。

一方、日本語訳では、「このふたりの間には平和の一致がある。」とされています。(実際、日本語訳に近い英語訳もあります。)

これらの解釈の違いは、さらに他の箇所の翻訳にも影響を与えています。日本語訳では、「その王座のかたわらに、ひとりの祭司がいる」と訳されていますが、英語訳では、「he will be a priest on his throne」(彼は祭司であって、王座にいる)とされています。

したがって、日本語訳を読むと、大祭司と王は別々の人物であるかのように感じられますが、英語訳では、大祭司と王が同一人物であることが示唆されています。

明確にしておきたいのは、英語訳も日本語訳もヘブル語に忠実であることです。とはいえ、神様が与えられたビジョンを考慮すると、多分英語訳がより適切かもしれません。

例えば、祭司ヨシュアが王の冠を受け取ったことは、この箇所の重要な象徴です。また、聖書の他の箇所からも、イエス様が王であるだけでなく、大祭司でもあることが明らかにされています。

さて、この箇所から私たちは何を学べるのでしょうか。それは、どんな状況にあっても私たちには希望があるということです。

私たちの世界には多くの問題があります。政治家に目を向けても、彼らを完全に信頼することは難しいです。アメリカでは「正直な政治家」という言葉が矛盾しているかのように感じられています。(日本人はどう思うでしょうか。)

さらに、スキャンダルの影響でクリスチャンのリーダーたちも評判を失うことがあります。

けれども、イエス様が再び戻られる時、この世を正義によって支配し、イエス様の清さはすべての人々に明らかにされます。そして、イエス様を通して、私たちは天の父なる神様の御性質を知ることができるのです。

ですから、戦争や病気、飢饉、天災を見るとき、失望しないでください。神様がすべてを支配しておられるからです。

また、腐敗した政治家や霊的に堕落したリーダーを見るときも、がっかりしないでください。イエス様は必ずこの世に戻って来られるのです。

だからこそ、イエス様に焦点を当ててください。他のものに焦点を当てると、私たちはすぐに失望してしまいます。しかし、イエス様に焦点を当て続ければ、希望は決して奪われることはありません。

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ゼカリヤ書

全ての悪を清める

この箇所では、ゼカリヤは再び幻を見ました。その幻は、イスラエルの罪が清められることを示しています。

最初の幻の中で、ゼカリヤは空を飛んでいる巻き物を見ました。その巻き物の両面には呪いが書かれていました。

一つ目の呪いは盗む者に対するものでした。

二つ目の呪いは偽って誓う者に対するものでした。

この巻き物は、十戒のうちの二つの命令を象徴していますが、おそらくその二つの命令は十戒全体を表しているのです。ヤコブはこう言いました。

律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。(ヤコブ2:10)

おそらく、イスラエル人はその二つの罪において、特に罪深い人々だったのかもしれません。もしくは、その二つの罪にはもっと広い意味があったのでしょう。

つまり、彼らは隣人を傷つける(盗むこと)、そして神様の聖さを侮る(神様の名前によって偽って誓うこと)という行為をしたのです。

この幻については、二つのことに注目する必要があります。

一つ目は、その巻物の大きさです。その巻物は非常に大きく(長さは約9メートル、幅は約4.5メートル)、誰も「裁きが来ていることを知らなかった」と言い逃れることはできませんでした。

誰でもその巻物を読むことができたのです。

二つ目は、その裁きが確実なものであるということです。神様はこう言われました。

わたしが、それ(つまり、呪い)を出て行かせる。――万軍の主の御告げ――それは、盗人の家に入り、また、わたしの名を使って偽りの誓いを立てる者の家に入り、その家の真ん中にとどまり、その家を梁と石とともに絶ち滅ぼす。(ゼカリヤ書5:4)

そして、ゼカリヤは別の幻を見ました。それは、穀物のための枡でした。

しかし、その枡の中には穀物ではなく、イスラエル人の罪がありました。そして、その枡の中には女の人が座っており、その女の人は罪の原因を象徴していました。

なぜ女の人なのでしょうか。一つの考えとして、イスラエル人が周囲の国々の女神を礼拝していたことが挙げられます。または、イスラエルの男性たちが偶像礼拝する女性と結婚していた可能性もあります。(マラキ2:11-12、エズラ9章)

いずれにしても、天使はその女の人を枡の中に閉じ込めました。そして、二人の女性がその枡をシヌアル(バビロン)に運びました。これは、バビロン人がその女の人を喜んで受け入れるからです。

私たちはこの幻から何を学べるでしょうか。一つ目は、神様が悪に対処する日が必ず来るということです。サタンは可能な限り神様と戦おうとしますが、最終的には打ち負かされます。

二つ目は、私たちは自分の中にある罪を清める必要があるということです。

神様は、罪に対するご自身の感情をはっきりと示されました。そして、神様は裁きが来ることを明確に警告されました。私たちは「知らなかった」と言い訳することはできません。

だから、パウロはこう言いました。

いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。(第二コリント7:1)

もちろんバランスが必要です。つまり、自分自身の努力だけで自分を清めることは不可能です。しかし、神様は私たちが聖なる人生を生きるために必要な力を与えてくださいます。(第二ペテロ1:3-4)

そして、神様がイスラエルから悪を取り除かれたように、私たちが神様に従うなら、神様は私たちの人生から罪を取り除いてくださいます。

だからパウロはこう書きました。

平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。

主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。

あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。(第一テサロニケ5:23-24)

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ゼカリヤ書

神様の働きを成し遂げるために満たされた

私がゼカリヤ書を読めば読むほど、ますます好きになります。この箇所も、私たちにとって深い意味があります。

その時、ユダヤ人たちは主の宮を再建していた最中でしたが、まだ反対に直面していました。彼らは、ダリヨス王がその再建に許可を出せるかどうかまだ分かりませんでした。だから、総督ゼルバベルは失望していたかもしれません。

しかし、神様はゼカリヤに金の燭台を示されました。その燭台は宮の燭台のようでしたが、一つ違いがありました。大祭司はいつもその燭台に油を注ぎ続けなければなりませんでした。

けれども、ゼカリヤの幻では、二本のオリーブの木がその燭台を満たしていました。

そして、天使はゼカリヤにこのメッセージを伝えました。

「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は仰せられる。

大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ』と叫びながら、かしら石を運び出そう。」

ついで私に次のような主のことばがあった。「ゼルバベルの手が、この宮の礎を据えた。彼の手が、それを完成する。このとき、あなたは、万軍の主が私をあなたがたに遣わされたことを知ろう。(ゼカリヤ書4:6-9)

つまり、「心配しないでください。あなた自身の力や周りの人々の力によってこの宮を完成させるのではありません。むしろ、あなたを通して働いている聖霊によって、この宮の再建は完了するのです。

どんな大きな障害に遭遇しても、その山はあなたの前で平らになります。そして、その宮のかしら石を運び出すとき、あなたは私の恵みによってこの宮が完成したことを知るでしょう。」

その宮の再建が遅れ、またソロモンの宮と比べると、新しい宮が美しくなかったために、失望する人もいました。けれども、神様は彼らにこう言われました。

だれが、その日を小さな事としてさげすんだのか。これらは、ゼルバベルの手にある下げ振りを見て喜ぼう。これらの七つは、全地を行き巡る主の目である。(10)

つまり、「あなたの目には、あなたが成したことが小さく見えるかもしれません。

しかし、小さな一歩を軽んじてはいけません。また、私があなたに小さい仕事を与えても、その仕事を軽んじてはいけません。

なぜなら、私の民がその仕事をするとき、私はそれを喜び、あなたに報いを与えるからです。」

そして、天使は金の燭台とオリーブの木について説明しました。ゼカリヤがその意味、特にオリーブの二本の枝の意味について尋ねたとき、その天使は答えました。

これらは、全地の主のそばに立つ、ふたりの油そそがれた者だ。(14)

つまり、大祭司ヨシュアと総督ゼルバベルのことです。神様はその宮を完成させるために、彼らを自分のしもべとして選ばれました。

けれども、一番重要なのは、油が御霊のシンボルであるということです。そして、御霊は私たちを通して神様の働きを成し遂げるために注がれます。御霊は私たちを通じて周りの人々に触れ、その人々に影響を与えるのです。

そのため、神様の御心は私たち自身の力によって成就するのではなく、私たちを通して働かれる御霊によって成就します。

ですから、小さなことを軽んじずに神様の働きをしましょう。神様は御霊によって私たちを満たし、私たちを通して流れることで、この世に影響を与えることができます。

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ゼカリヤ書

非難されるところのない者

旧約聖書のこの箇所は、本当に心に残る箇所です。なぜなら、クリスチャンにとっても深い意味を持つからです。

ここでは、大祭司ヨシュア(ヨシュア記のヨシュアとは別人)が主の前に立っていました。

けれども、サタンは彼を激しく責め立てていました。おそらく、サタンの批判は正当なものであったかもしれません。なぜなら、ヨシュアの服は罪によって汚れていたからです。

しかし、主はこう言われました。

サタンよ。主がおまえをとがめている。エルサレムを選んだ主が、おまえをとがめている。これは、火から取り出した燃えさしではないか。(ゼカリヤ書3:2)

2節は本当に興味深いです。「主はサタンに仰せられた。「サタンよ。主がおまえをとがめている。」」

もしかすると、ヨシュアの前に立っている御使いはイエス様その方かもしれません。

いずれにしても、主はサタンをとがめられました。「私はこの人を救いました。どうして、あなたはこの人を責めるのか。」

その後、御使いは自分の前に立っている者たちにこう命じました。

彼のよごれた服を脱がせよ。(ゼカリヤ書3:4)

そのあと、彼はヨシュアにこう言いました。

見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。(ゼカリヤ書3:4)

そして、その御使いはヨシュアをさとして言いました。

万軍の主はこう仰せられる。もし、あなたがわたしの道に歩み、わたしの戒めを守るなら、あなたはまた、わたしの宮を治め、わたしの庭を守るようになる。

わたしは、あなたをこれらの立っている者たちの間で、宮に出入りする者とする。(ゼカリヤ書3:7)

神様はヨシュアに「先に自分自身をきれいにしなさい。それができれば、私に仕えなさい」とは言われませんでした。

むしろ、神様はこう言われました。

「私はもうあなたをきれいにしました。だから、私に仕えなさい。そうすれば、私の祭司として仕え続けることができ、あなたは私の宮に自由に入って、私のもとに近づくことができます。」

最後に、少し興味深い皮肉があります。神様はヨシュアに将来の「ヨシュア」について話されました。

つまり、イエス様について語られたのです。(「ヨシュア」という名前は、ギリシャ語で「イエス」と訳されます。)

次のヨシュアは神様の知恵を備えています(「一つの石の上に七つの目」という表現がそれを指します)。そして、イスラエルの罪を一日のうちに取り除かれるのです。

イエス様が再びこの世に戻るとき、彼はすべてを治め、ついに私たちは平和を知るのです。(ゼカリヤ書3:8-10)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。私たちは、かつてヨシュアのように罪によって汚れた者として神様の前に立ちました。しかし、私たちがイエス様を信じたとき、イエス様は私たちの弁護士となり、私たちを擁護してサタンをとがめられるのです。

さらに、イエス様は私たちの汚れた服を取り除き、彼の義の衣を私たちに着せてくださいました。

なぜでしょうか。それは私たちが良い行動をしたからでしょうか。いいえ、違います。それはイエス様の十字架での働きによってのみ可能になったのです。

今や、きれいにされた者として、私たちは神様に従い、神様の祭司として仕えるべきです。そして、私たちは他の聖徒たちと共に、自由に神様のもとに近づけるという素晴らしい恵みを知るのです。

パウロはこう書きました。

あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。

それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。

ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。

この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです。(コロサイ1:21-23)

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ゼカリヤ書

私たちを取り巻く火の城壁、私たちの内にある栄光

神様はこのメッセージ、そしてその後のすべてのメッセージを、主の宮の再建が進む間にゼカリヤに伝えられました。

ゼカリヤは不思議な幻を見ました。一人の人が赤い馬に乗っていました。その後ろには赤い馬、栗毛の馬、そして白い馬がいました。彼らは地を行き巡り、世の状態を観察しました。彼らは何を見たのでしょうか。

私たちは地を行き巡りましたが、まさに、全地は安らかで、穏やかでした。(ゼカリヤ書1:11)

イスラエル人がその言葉を聞いたら、驚いたことでしょう。なぜなら、神様が国々を揺り動かすと明言されたからです。

そのため、天使はこう問いかけました。

万軍の主よ。いつまで、あなたはエルサレムとユダの町々に、あわれみを施されないのですか。あなたがのろって、七十年になります。(1:12)

神様はその天使、そしてイスラエルの民に慰めの言葉を言われました。具体的には、神様がイスラエルの民を祝福し、主の宮が再建され、イスラエルの町々が再び繁栄するという約束です。(1:13-17)

また、神様はイスラエルを征服した国々を裁くことを約束されました。神様は次のように言われました。

わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。

しかし、安逸をむさぼっている諸国の民に対しては大いに怒る。わたしが少ししか怒らないでいると、彼らはほしいままに悪事を行なった。(1:14-15)

18-20節では、神様はイスラエルを攻撃し、イスラエル人を散らした「角」(つまり、国々)を打倒されると約束されています。

おそらく、その「角」とはアッシリア、エジプト、バビロン、そしてペルシアを指しているのでしょう。

けれども、2章の内容は本当に心に響きます。神様がイスラエルの復活について語られる箇所だからです。イスラエルはもう一度繁栄するので、

エルサレムは、その中の多くの人と家畜のため、城壁のない町とされよう。(2:4)

それだけではなく、神様はこう言われました。

しかし、わたしが、それを取り巻く火の城壁となる。――主の御告げ――わたしがその中の栄光となる。。。あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ。(2:5,8)

また、

シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。――主の御告げ――(2:10)

この言葉は本当に素晴らしいです。神様は私たちを取り巻く火の城壁であり、私たちの盾であり防衛です。神様は私たちを攻撃する者と戦ってくださいます。

そして、神様は私たちの内にある栄光です。聖霊様は私たちの心に住み、私たちを通して輝いてくださいます。

ダビデはこう歌いました。

しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。(詩編3:3)

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ゼカリヤ書

私たちの過去から学ぶ

ゼカリヤとハガイのミニストリーは同じ時期に始まりました。そして、彼らは力を合わせて、イスラエル人が主の宮を再建するよう励ましました。ゼカリヤは預言者であるだけでなく、祭司でもありました。

ところで、「ダリヨスの第二年の第八の月に」と記されていますが、このダリヨスはダニエル書に登場するダリヨスではありません。このダリヨスはダレイオス1世、すなわちエズラ書に出てくるダリヨスです。

(聖書では、名前の書き方が時々異なることがあります。それはおそらく、元々ヘブル語で書かれていたためでしょう。)

さて、ゼカリヤが自らのミニストリーを始めたとき、彼はイスラエルの人々に自分たちの歴史を振り返らせました。そして彼はこう語りました。

主はあなたがたの先祖たちを激しく怒られた。あなたは、彼らに言え。万軍の主はこう仰せられる。わたしに帰れ。――万軍の主の御告げ――

そうすれば、わたしもあなたがたに帰る、と万軍の主は仰せられる。

あなたがたの先祖たちのようであってはならない。

先の預言者たちが彼らに叫んで、「万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの悪の道から立ち返り、あなたがたの悪いわざを悔い改めよ」と言ったのに、彼らはわたしに聞き従わず、わたしに耳を傾けもしなかった。――主の御告げ――

あなたがたの先祖たちは今、どこにいるのか。預言者たちは永遠に生きているだろうか。しかし、わたしのしもべ、預言者たちにわたしが命じた、わたしのことばとおきてとは、あなたがたの先祖たちに追い迫ったではないか。

そこで彼らは立ち返って言った。「万軍の主は、私たちの行ないとわざに応じて、私たちにしようと考えられたとおりを、私たちにされた」と。(ゼカリヤ書1:1-6)

神様は何度もイスラエルの先祖に、「悔い改めなさい。私のもとに戻りなさい」と語られました。

けれども、彼らは神様を無視しました。彼らは預言者たちの言葉を無駄な言葉だと思い込んでいましたが、ついに裁きが訪れました。その後、彼らはようやく悔い改めたのです。

そこで、神様はこう言われました。

「あなたの過去から学びなさい。私があなたの先祖に警告した時、私の言葉は決して無駄ではなかった。今でも、私の言葉は無駄ではない。悔い改めなさい。さもなければ、再び裁きが訪れるでしょう。」

神様は私たちにも同じことを語られます。私たちすべてが罪を犯します。しかし、あなたは自分の過ちから学んでいるでしょうか。それとも、自分を滅ぼす罪を繰り返しているでしょうか。

私たちの過ちを繰り返さないようにしましょう。むしろ、賢明な道を歩み、悔い改めて、神様の恵みの中で生きましょう。