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テモテへの手紙第ー

何を求め、何を待ち望んでいるのか

この世の人々は、さまざまなものを追い求めています。

名声、力、安心――その中でも、最も熱心に追い求められているのは、お金でしょう。名声はしばしば金銭的な利益につながり、お金は快楽や力、さらには安全さえも手に入れる手段と見なされているからです。

さらに、福音を通して裕福になろうとする牧師や伝道者たちさえいます。実際、パウロの時代にもそのような人物が存在していました。

けれども、パウロはそのようなものを追い求めてはならないと教えています。

むしろ、彼はこう語ったのです。

しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。(テモテへの手紙第一6:6)

さまざまな意味で、「満ち足りた心」と「敬虔」は深く結びついています。

敬虔な人々は、この世のものによって満たされているのではありません。むしろ、神様との平和を持っているからこそ、彼らの心は満ち足りているのです。だから彼らは、何よりもまず神様ご自身を求め続けます。彼らにとって本当に必要なのは、神様だけなのです。

その一方、不敬虔な人々にとって、満足することは極めて難しいのです。彼らは常に、より多くの物を欲しがります。そして、持てば持つほど、その心はますます空しさを感じるようになります。

ある人は、一時的に神様から離れても満足できると思うかもしれませんが、最終的にはすべてを失ってしまうのです。

パウロはこのことをよく知っていて、次のように語りました。

私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。(7)

やがて来る裁きの日、人々が神様の御前に立つとき、その地位や財産は何の意味も持たなくなります。神様はそのとき、こう尋ねられることはありません。

「あなたはどれほどの財産を持っていたか。私に何を捧げることができるか。」

むしろ、神様が尋ねられるのは、ただ一つの問いです。

「あなたは、私のひとり子との関係を持っていたか。」

だから、パウロはテモテに命じました。「お金を追い求めてはなりません。お金を愛することがあらゆる悪の根であり、ついには永遠の滅びに至ります」(9〜10節)。

今の世においても、お金への愛によって、多くの人々が自らの人生を壊しています。

たとえば、ギャンブルによって家庭や生活を崩壊させたり、金銭を追い求めるあまり過労し、家族関係や心身を壊してしまったりします。お金への愛が原因で、多くの人が多くの苦しみによって自らを刺し貫いてきたのです。

だから、パウロはこう語ったのです。

衣食があれば、それで満足すべきです。(8)

では、私たちは何を追い求めるべきなのでしょうか。

私たちは、義、敬虔、信仰、愛、忍耐、そして柔和を追い求めるべきです(11節)。それこそが、神の人にふさわしい歩みなのです。

もし私たちがこれらのものを心から追い求めるなら、どれほど人生が祝福されることでしょう。私たちの結婚生活や人間関係はどれほど豊かになるでしょう。私たちの神様との関係は、どれほど親密になるでしょうか。

そのような生き方には、はかり知れない益があります。

このあと、パウロは金持ちに対して、非常に実用的な助言を与えました。というのも、裕福な人にとって、自分の財産に頼るのは容易なことだからです(実際には、金持ちでなくても多くの人がそうしてしまいます)。

しかし、パウロはテモテにこのように命じました。

今の世で富んでいる人たちに命じなさい。

高慢にならず、頼りにならない富にではなく、むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置き、善を行い、立派な行いに富み、惜しみなく施し、喜んで分け与え、来たるべき世において立派な土台となるものを自分自身のために蓄え、まことのいのちを得るように命じなさい。(17-19)

お金は、それ自体が悪いものではありません。正しく用いるなら、実に多くの善を行うことができます。私たちは、たくさんの人々に触れることができます。

お金をそのように用いるなら、私たちは決して朽ちることのない資産を天に蓄えることになるのです。そしてその中で、私たちの人生の真の意味を見いだすことができるでしょう。

では、あなたはどうでしょうか。あなたは今、何を追い求めていますか。あなたの希望は、どこに置かれているでしょうか。

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テモテへの手紙第ー

キリストのことばから離れているなら

現代において、多くの人々はキリストのことばに耳を傾けようとせず、それに従いたくもないと考えています。

また別の人々は、自分の都合に合わせてイエス様のことばの一部だけを受け入れ、残りは切り捨ててしまいます。

しかし、イエス様の弟子として生きる私たちは、そのような態度を取ることはできません。イエス様ご自身が、それをはっきりと教えておられました(マタイ7:21〜27)。

この真理を、パウロはテモテに力強く伝えました。そして彼はこう語ったのです。

違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと、敬虔にかなう教えに同意しない者がいるなら、その人は高慢になっていて、何一つ理解しておらず、議論やことばの争いをする病気にかかっているのです。

そこから、ねたみ、争い、ののしり、邪推、絶え間ない言い争いが生じます。

これらは、知性が腐って真理を失い、敬虔を利得の手段と考える者たちの間に生じるのです。(テモテへの手紙第一6:3-5)

おそらくパウロがこのことばを語ったとき、イエス様のたとえ話「岩の上に建てられた家と砂の上に建てられた家」を思い起こしていた可能性は高いでしょう。

なぜなら、イエス様とパウロの語る結論は非常に似ているからです。すなわち、イエス様に従わない者は、実は何も理解していないということです。彼らは自分が賢いと思い込み、自分の知恵を誇りますが、実際には愚か者なのです。

その愚かさは、彼らが生み出す「実」によって明らかになります。彼らの語ることばは、ねたみ、争い、ののしり、邪推、そして絶え間ない言い争いを引き起こします。彼らは「敬虔」ということばの意味をねじまげ、それを利得の手段として用いてしまうのです。

残念ながら、現代のアメリカのテレビで放送されている一部の伝道師の番組にも、こうした様子が見受けられることがあります。

だからこそ、パウロはテモテに強く戒めを与えたのです。

テモテよ、委ねられたものを守りなさい。

そして、俗悪な無駄話や、間違って「知識」と呼ばれている反対論を避けなさい。ある者たちはこの「知識」を持っていると主張して、信仰から外れてしまっています。(20-21)

簡単に言えば、「私はイエス様のことばをあなたにゆだねました。そのことばを守りなさい。そのことばを手放して、他の人々が『知恵』と呼んでいるものを受け入れてはなりません。むしろ、命をもたらすことばを教え、勧めなさい」(2〜3節)。

もし、誰かがイエス様のことばを攻撃してくるなら、そのことばを擁護しなさい。なぜなら、イエス様が再び来られるとき、あなたに託されたみことばについて、あなたは責任を問われるからです(13〜14節)。

あなたはどうでしょうか。たとえ牧師でなくても、神様はそのみことばをあなたに託しておられます。

あなたは、そのことばを堅く守っているでしょうか。それとも、この時代の文化があなたの確信を揺るがしているでしょうか。

この世の知恵を退けましょう。この世の傲慢さに惑わされて、キリストのことばから引き離されないように。

むしろ、自分の心の奥深くにキリストのことばを大切にとどめましょう。そして、イエス様のことばが非難されるときには、恐れずに堅く立ち、そのことばを語り続けましょう。

この世が語る教えは、やがて死に至ります。しかし、イエス様のことばは命へと導きます。

では、あなたは今、誰のことばを語り、誰の声に従っているでしょうか。

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テモテへの手紙第ー

神様とその福音があがめられるために

前回の記事では、牧師たちが高い基準に照らして評価されるべきだということを述べました。それは、神様の御名と教会の評判が汚されないためです。

しかし実のところ、イエス様の代表として歩むよう召されているのは、すべてのクリスチャンです。だからこそ、私たちは日々の歩みの中で、自分がどのように生きているかに注意を払うべきなのです。

このことを踏まえて、パウロはやもめたちに対して、自分の振る舞いを慎み深く整えるように命じました。

そしてその勧めは、やもめたちだけでなく、すべての主婦にも当てはめることができます。それは、「反対者にそしる機会をいっさい与えない」ためです(テモテへの手紙第一5:14)。

同じように、パウロは奴隷たちにも戒めを与えました。

奴隷としてくびきの下にある人はみな、自分の主人をあらゆる面で尊敬に値する人と思わなければなりません。神の御名と教えが悪く言われないようにするためです。

信者である主人を持つ人は、主人が兄弟だからといって軽んじることなく、むしろ、ますますよく仕えなさい。その良い行いから益を受けるのは信者であり、愛されている人なのですから。

あなたはこれらのことを教え、また勧めなさい。(テモテへの手紙第一6:1-2)

もちろん、日本に奴隷制度は存在しません。けれども、パウロの言葉は今日の私たちの職場の状況にも応用できます。つまり、私たちは家庭でも職場でも、どこにいても、イエス様の代表者としてふさわしく振る舞うべきなのです。

私たちは上司を尊敬し、イエス様に仕えるように、誠実に上司に仕えなければなりません。同僚たちが私たちを見るとき、文句を言わず、真面目に働いている姿を見るべきです。

このような状況を少し想像してみてください。職場で、ある人がこう言ったとします。「あの人は怠け者で、真剣に働こうとしません。正直言って、彼がこの会社にいない方がありがたいです。」

もし、私たちに対して同僚たちがそのように思っているなら、果たして彼らはイエス様に心を惹かれるでしょうか。おそらく、そうはならないでしょう。

その一方で、私たちが誠実で勤勉に働き、良い態度をもって職務を果たしている姿を見たとき、同僚たちは私たちを自然と尊敬するようになります。

そして私たちがクリスチャンであると知ったとき、イエス様とその福音があがめられるのです。この暗い世にあって、私たちは星のように輝くのです(ピリピ2:15)。

では、あなたはどうでしょうか。あなたの職場における振る舞いを通して、神様に栄光をおささげしているでしょうか。それとも、イエス様とその福音に恥をかかせてはいないでしょうか。

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テモテへの手紙第ー

牧師の評価基準とは

牧師や教会の長老たちに対する評価の基準は、非常に高く定められています。なぜなら、彼らは教会の人々の前にあってキリストを代表し、さらにこの世においてもキリストを代表しているからです。

あなたは、牧師がその基準に達しない姿を目の当たりにしたことがあるかもしれません。そのとき、教会はスキャンダルによって揺さぶられ、信徒たちは傷つき、教会の評判は世間で著しく損なわれてしまいます。

だからこそ、二人または三人の証人がいる場合には、パウロはテモテに対して、牧師や長老たちに対する訴えを無視してはならないと教えました。むしろ、その人物を教会全体の前で責めなければならないと語ったのです。

なぜ、そのようにすべきなのでしょうか。

第一の理由は、長老たちと一般の信徒たちとの間で、二重基準を設けてはならないということです。

第二の理由は、地位にかかわらず、教会が罪を真剣に受け止め、どんな罪も必ず正しく取り扱う共同体であることを、すべての人に明らかにするという目的があります。

第三の理由は、同じ罪へと誘惑されている人々への警告と戒めとなるためです。

もちろん、私たちはこのような問題に正しく向き合わなければなりません。しかし、それ以上に重要なのは、そうした問題が起こる前に防ぐことです。

だから、リーダーを選ぶときには、その人物が高潔であるかどうかを慎重に見極めなければなりません。そうすれば、イエス様の御名も、教会の評判も、傷つけられることはないでしょう。

そのような背景を踏まえて、パウロはテモテにこう命じたのです。

だれにも性急に按手をしてはいけません。また、ほかの人の罪に加担してはいけません。自分を清く保ちなさい。(テモテへの手紙第一5:22)

パウロやテモテが牧師や長老を選ぶときには、その人に按手をし、ともに祈り、奉仕のために神様に捧げていました。

つまり、パウロが語っているのは、私たちは牧師や長老を性急に任命すべきではないということです。なぜなら、十分に慎重な選考を怠れば、その人が罪を犯したときに、選んだ側も責任を問われることになるからです。

だからこそ、リーダーを選ぶ前には、その人物の歩みをよく見極めるべきなのです。これについて、パウロは次のように語りました。

ある人たちの罪は、さばきを受ける前から明らかですが、ほかの人たちの罪は後で明らかになります。

同じように、良い行いも明らかですが、そうでない場合でも、隠れたままでいることはありません。(24-25)

要するに、ある人の罪は初めから明らかで、その人がリーダーとしてふさわしくないことがすぐに分かることがあります。けれども、別の人の罪はすぐには表に出ず、時間をかけて接するうちに明らかになっていきます。

その一方で、一目見た印象では、ある人がリーダーにふさわしくないと思えるかもしれません。けれども、その人と時間を過ごすことで、実際にはふさわしい人物であることが分かる場合もあるのです。

だから、牧師や長老を任命する前に、その候補者の生き方をよく観察する必要があります。そうしなければ、後々大きな問題が起こるかもしれません。

確かに、パウロはここで牧師や長老たちのことを語っていますが、この原則はあらゆる教会リーダーに適用できると思います。

スモールグループのリーダーや日曜学校の教師を選ぶときも、その人物の人生をよく見極めるべきです。なぜなら、教会を代表するリーダーや教師は、高い基準に照らして評価されるべきだからです。

ですから、私たちは人を任命するとき、慎重でなければなりません。

そして、もしあなたが教会のリーダーや教師なら、自分の生活の中でイエス様を正しく代表しているかを省みるべきです。

あなたは、そうできているでしょうか。

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テモテへの手紙第ー

私たちの牧師たちを支え、敬う

牧師たちは決して完全な存在ではありません。しかし、彼らは毎週、教会の皆さんの前に立って神様のことばを教える責任を担っているため、しばしば人々の批判にさらされることがあります。

そして、私たちはそのような状況の中で、神様の命令を軽んじてしまい、牧師たちを敬い、支えることを怠るのです。

けれども、神様は明確に命じておられます。私たちは、牧師たちを敬い、支えるべきなのです。

そのことについて、パウロはこう記しています。

よく指導している長老は、二倍の尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのために労苦している長老は特にそうです。

聖書に「脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない」、また「働く者が報酬を受けるのは当然である」と言われているからです。(テモテへの手紙第一5:17-18)

この箇所でパウロは、私たちが牧師たちや教会の長老たちをどのように受けとめるべきかを教えています。

私たちは彼らをただ尊敬するだけではなく、彼らが二倍の尊敬に値する存在だと認めるべきなのです。つまり、私たちは牧師たちを敬い、そして支えなければなりません。

では、私たちはどのようにして牧師たちを支えることができるのでしょうか。第一に、私たちの祈りをもって彼らを支えるべきです。けれども、それだけでは不十分です。私たちは彼らを励まし、さらに経済的にも支えるべきです。

多くの人は「什一献金は新約聖書の命令ではない」と考えています。実を言えば、私もそのように理解しています。けれども、そこで思考を止めてしまう人が多くいます。「だから私は、教会を経済的に支える責任がない」と結論づけてしまうのです。

しかし、パウロはその考え方を否定します。彼は明確に語っています。教会のメンバーには、自分の牧師を経済的に支える責任があるのです。

少し考えてみてください。もし牧師が自分の家族を支えるためにアルバイトをしなければならないとすれば、説教の準備に使える時間が減るでしょう。人々の相談に乗る時間も減るでしょう。牧師としての役割すべてに割ける時間が削られてしまうのです。

ところが、教会のメンバーたちが牧師について抱く不満の一つは、「牧師が自分の役割を果たしていない」ということです。

けれども、もしあなたがそのような不満を口にしているなら、私から尋ねたいのです。あなたは、牧師を経済的にきちんと支えているでしょうか。あなたの教会の他のメンバーたちは、どうでしょうか。しっかりと牧師を支えているでしょうか。

それだけではなく、ほかの方法で牧師を支えているでしょうか。あなたは牧師のために祈っているでしょうか。(ここで言うのは、ぼやきながらする祈りのことではありません。)

また、あなたは積極的に牧師を励ましているでしょうか。

牧師が教会のあらゆる奉仕を一人で担う必要がないように、あなたは自分の役割をきちんと果たしているでしょうか。

もしかすると、あなたは毎週日曜日、自分の席に座りながら、誰かが自分に仕えてくれるのを待っているだけかもしれません。

けれども、教会はキリストのからだであり、それぞれの人が与えられた役割を担っています。あなたは、その役割を忠実に果たしているでしょうか。

ここで私の意図を誤解しないでください。牧師に対して注意を与えることが必要な場面もあります。パウロもこの手紙の中でそのことに言及しています。正しい批判もあれば、誤った批判もあるのです。

しかし、もしあなたが自分に与えられた奉仕の責任を果たしていないなら、牧師を批判するべきではありません。

ですから、牧師を批判する前に、まず自分自身を顧みましょう。

あなたは牧師を支え、敬っているでしょうか。あなたは自分の役割を果たし、牧師にかかる奉仕の重圧を和らげているでしょうか。それとも、教会の席に座ったまま、ただ牧師を批判しているだけなのでしょうか。

あなたの心の向きは、今どこを向いているでしょうか。

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テモテへの手紙第ー

悲しんでいても

夫や妻を亡くすという経験ほど、心を深く痛めることはそう多くありません。そして、そのような出来事が起きると、深い悲しみの中で人生のバランスを失い、信仰さえも見失ってしまいやすくなります。

もしかすると、エペソのやもめたちも、そのような誘惑に直面していたのかもしれません。

あるやもめたちは悲しみと孤独から再婚を望みましたが、ノンクリスチャンの男性と結婚してしまいました。その結果、イエス様に背を向けてしまい、夫の偶像を拝むようになってしまったのです(テモテへの手紙第一5:11-12節)。

また他のやもめたちは、教会からの経済的援助を受けていながらも怠けてしまい、うわさ話やおせっかいに時間を費やしていたようです(13節)。

このような事情があったからこそ、パウロはテモテにこう語ったのです。

ですから、私が願うのは、若いやもめは(クリスチャン)と結婚し(第一コリント7:39)、子を産み、家庭を治め、反対者にそしる機会をいっさい与えないことです。(テモテへの手紙第一5:14)

パウロの指示は、私たちにもどのように当てはまるのでしょうか。現代では、そのような言葉が男尊女卑的に聞こえることがあるかもしれません。女性の目的は、自分の家庭だけに限定されるべきなのでしょうか。決してそうではありません。

コリントの女性たちは、エペソの女性たちが陥ったような罪に落ちていなかったため、パウロは彼女たちにシングルの生活を勧めました。なぜなら、彼女たちは独身であることで、より集中してイエス様に仕えることができたからです。(第一コリント7:32〜40)

おそらくパウロの願いは、やもめたちが自分の悲しみに支配されないことでした。彼は、彼女たちがその悲しみの中で愚かな決断をすることなく、信仰を捨ててしまわないようにと願っていたのです。なぜなら、もし彼女たちがその悲しみに支配されてしまえば、自分の人生を無駄にしてしまうからです。

だからパウロは彼女たちに語りました。「あなたは今、深い悲しみの中にいるかもしれません。しかし、あなたの人生はまだ終わっていません。神様はあなたのために、なお良い計画を持っておられます。それを忘れないでください。

愚かな決断を避け、あなたの人生を無駄にしないでください。むしろ、神様があなたに与えておられる目的を果たしなさい。」

パウロは若いやもめたちのことを考えていましたが、年配のやもめたちのことも心に留めていました。彼は、良い行いによって認められているやもめたちだけを支えるように教会に勧めていました。

教会は、自分勝手に生きているやもめたちを支えるべきではありませんでした。むしろ、やもめたちが悲しみの中にあっても、神様の彼女たちのための目的を思い出し、神様に仕え続けるならば、教会はそのような人をこそ支えるべきなのです。

では、あなたはどうでしょうか。悲しみの中で、自分のことだけを考えてはいませんか。その悲しみによって、愚かな決断をしてしまってはいませんか。その痛みのゆえに、神様から心が離れてしまってはいませんか。

神様があなたを愛しておられることを思い起こしましょう。あなたが若くても、年を重ねていても、神様はあなたのために良いご計画を持っておられます。

だからこそ、その悲しみのただ中で、イエス様を仰ぎましょう。イエス様が、あなたのために今もご計画を持っておられることを覚えていましょう。神様がその目的を明らかにしてくださるように祈りましょう。毎日、神様と共に歩みましょう。

そうすれば、すべての慰めと平和の神は、あなたと共におられ、あなたを癒やしてくださいます。

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テモテへの手紙第ー

生きていながら、死んでいる?

ここでパウロは、特にやもめたちについて語っています。けれども、そのことばは、私たちすべてに当てはまる教えでもあります。

パウロが、教会がどのようなやもめを支えるべきかを語ったとき、こう述べました。

身寄りのない本当のやもめは、望みを神に置いて、夜昼、絶えず神に願いと祈りをささげています。。。(テモテへの手紙第一5:5)

要するに、教会は、支えてくれる人がいない敬虔なやもめを支えるべきです。そのやもめは、良い行いや、仕える姿勢、助ける行動によって知られている人であるはずです(9-10節)。

彼女たちは年配で、夫を失った後も、できる限り人に仕え続けた人々でした。自分をかわいそうだと思わず、自分のことだけを考えることもありませんでした。むしろ、神様を待ち望み、イエスの御名によって人々に触れようと努めたのです。

しかし、パウロは続けて語ります。

自堕落な生活をしているやもめは、生きてはいても死んでいるのです。(6)

やもめたちだけでなく、多くの人々は、あるときこう考え始めます。「私はずっと人に仕えてきました。これからは、自分のために生きます。」

引退の時にそう考える人もいれば、引退の前からそう考える人もいます。けれども、それは非常に自己中心的な生き方です。神様の目から見れば、もしそのような生活を送っているなら、たとえ生きていても、すでに死んでいるのです。

神様が私たちをキリストとともに復活させてくださったのは、私たちが自分のために生きるためではありません。むしろ、パウロはコリントの人々に、こう語りました。

キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。(第二コリント5:15)

自分のためだけに生きることは、本当のいのちではありません。それは死へと向かう生き方です。

私たちは、自分自身から目を離し、神様に心を向けるとき、神様が周りの人々の人生の中で何をしようとしておられるのかを理解することができます。そして、そのとき初めて、私たちは本当のいのちを知ることができるのです。

では、あなたはどうでしょうか。あなたは何に焦点を当てて生きていますか。自分の人生でしょうか。

それとも、神様や他の人々があなたのためにしてくれることばかりを考えてはいませんか。もしそうであるなら、あなたは生きていても、実際には死んでいるのです。

神様はあなたに、もっと良いものを望んでおられます。ですから、自分から目を離し、私たちに新しい命を与えてくださった神様に向かって生きましょう。そして、その新しい人生を歩み始めましょう。

あなたは、誰のために生きていますか。

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テモテへの手紙第ー

家庭で信仰を実践する

家庭において信仰を実践することは、何よりも大切なことだと思います。なぜなら、私たちは牧師や教会の兄姉に対しては、自分の本当の姿を隠すことができるかもしれませんが、家族にはそれが通用しません。

家族は、私たちの日々の言動を通して、本当の信仰の姿、本当の人柄を見るのです。家庭の中でこそ、私たちの心にあるものが現れるのです。

パウロもそのことをよく理解していました。彼がテモテに、やもめたちの支援について書いたとき、まずは彼女たちの家族に責任を果たすように命じたのです。

当時の教会は、やもめたちを積極的に支えていました(使徒の働き6章を参照)。けれども、家族がいる場合は、その家族がまず世話をすべきだとしたのです。

だからパウロは、テモテにこう語りました。

やもめの中の本当のやもめを大事にしなさい。(テモテへの手紙第一5:3)

それでもなお、パウロはさらにこう語っています。

もし、やもめに子どもか孫がいるなら、まずその人たちに、自分の家の人に敬愛を示して、親の恩に報いることを学ばせなさい。それが神の御前に喜ばれることです。(4)

敬虔な人生とは、家庭の外だけで見せるものではありません。 私たちは、家庭の中においても敬虔に歩むべきなのです。友人や職場の同僚に対する態度と同じように、家族に対して敬愛を示さなければなりません。

この真理を、パウロは8節で明確に強調しています。

もしも親族、特に自分の家族の世話をしない人がいるなら、その人は信仰を否定しているのであって、不信者よりも劣っているのです。(8)

もちろん、パウロは、家族の物理的な必要に備えることについて語っています。しかし、敬虔とはそれだけに限られるものではありません。私たちはむしろ、家族に対する忍耐や親切、寛容、そして愛を通して、自分の敬虔さを表すのです。

簡潔に言えば、私たちが家族をどのように扱っているかによって、私たちの敬虔さが現れているのです。もし家族の前で信仰を実践していないとすれば、私たちの信仰とはいったい何なのでしょうか。

とはいえ、そのように生きることは容易ではありません。前回も触れたように、私たちは友人を選ぶことはできますが、家族を選ぶことはできません。

しかも、友人と違って、家族とは同じ屋根の下で生活しています。だから、逃げられないがゆえに、腹立たしく思ってしまうことも起こりやすいのです。加えて、私たちには家族に対する特別な責任があります。

それでも、もし私たちが敬虔な者になりたいと願うのであれば、 まずは家族の前で敬虔に歩むべきなのです。そうしてこそ、私たちは真の敬虔さを証ししていることになります。

あなたは、敬虔な者として歩んでいますか。

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テモテへの手紙第ー

神の家族として生きる

牧師として、テモテは自分とは異なる年齢層の人々と接しなければなりませんでした。年上の人々、年下の人々、そして同世代の人々に対しても、慎みと知恵をもって関わる必要があったのです。

そこでパウロは、テモテにこう思い出させました。「あなたは彼らの主ではありません。彼らは、あなたが仕えている神の家族なのです。だからこそ、家族として尊敬と愛をもって接しなさい。」

そしてパウロは、こう語ったのです。

年配の男の人を叱ってはいけません。むしろ、父親に対するように勧めなさい。

若い人には兄弟に対するように、年配の女の人には母親に対するように、若い女の人には姉妹に対するように真に純粋な心で勧めなさい。(テモテへの手紙第一5:1-2)

テモテは時に、年配の男性たちを訓戒しなければなりませんでした。パウロは、決して彼らを叱ってはならないと語ったわけではありません。

それでも、偉そうな態度で相手を辱めるような言い方をしてはなりませんでした。むしろ、父親に接するように、深い敬意をもって語るべきだったのです。

同じように、年配の女性たちには母親のように接し、彼女たちを尊び、やさしさをもって扱わなければなりませんでした。

また、若い男性たちに対しては、上から接するのではなく、兄弟として扱わなければなりませんでした。

若い女性たちを扱う時、テモテは注意深く行動しなければなりませんでした。もしかすると、ある女性たちはテモテに惹かれていたかもしれません。

だからこそ、テモテは自分の立場を決して乱用することなく、彼女たちを姉妹として扱わなければなりませんでした。

しかし、これは牧師だけでなく、教会全体にも当てはまります。 私たちは皆、神様の家族に属していることを忘れてはなりません。

私たちは友人を選ぶことはできますが、家族は選べません。そしてキリストにあって、私たちは一つの家族なのです。

ですから、あなたの姉妹や兄弟を見下してはなりません。むしろ、純潔をもって彼らを尊び、何よりも、愛をもって彼らと接しましょう。

あなたは、自分の家族をどのように扱っていますか。

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テモテへの手紙第ー

神の群れを導く

この箇所全体を読むとき、パウロのことばが私の心に深く響いてきます。テモテに語りかけるパウロのことばには、確かな力と緊張感があります。

そのことばによって、テモテは神様の召しに従い、教会のリーダーとして立ち上がるように励まされ、挑戦されたのです。そして現代の牧師たちも、このことばをしっかりと心に留めていなければなりません。

では、パウロは何を語ったのでしょうか。

まずパウロは、神様の御言葉をクリスチャンたちに忠実に教えるよう、テモテに命じました。この世では、神様の教えがねじ曲げられ、多くの人々が善を「悪」と呼び、悪を「善」と呼んでいます。

けれども、パウロは妥協せず、神様の御言葉をはっきりと教えました。だから彼は、テモテにこう語ったのです。

これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたは、信仰のことばと、自分が従ってきた良い教えのことばで養われて、キリスト・イエスの立派な奉仕者になります。(テモテへの手紙第一4:6)

言い換えれば、こういうことです。「あなたは、忠実で立派な奉仕者になりたいと願っているのですか。それなら、神様があなたにゆだねられた神の群れに対して、神様の真理を正しく、余すところなく伝えなさい。」

パウロはこの命令を、さらに力強く語っています。

あなたはこれらのことを命じ、また教えなさい。(11)

テモテが人々に教えるべきであったのは、敬虔な歩みをすることでした。そしてまた、私たちの救い主である神にある希望を示すことでもありました。

けれども、教えるときには、テモテは自分の知恵によってではなく、神様の知恵を土台として語らなければなりませんでした。

そのためにパウロは、彼にこう語ったのです。

私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。(13)

多くの牧師たちは、良いことや聖書的な内容を教えていますが、 そのメッセージの中心が、聖書そのものではなく、自分たちの思いや経験に傾いてしまうことがよくあります。

しかしパウロは、テモテにこう命じました。「聖書の朗読と、勧めと、教えに専念しなさい。聖書から出発し、神様が語られたことを忠実に伝えなさい。自分の意見ばかりを語ることがあってはなりません。」

さらにテモテは、そのことを人々に教えるだけではなく、自らも神様のことばに従って歩まなければなりませんでした。だからこそパウロは、彼にこう語ったのです。

あなたは、年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。むしろ、ことば、態度、愛、信仰、純潔において信者の模範となりなさい。(12)

テモテは、教会の多くの人々よりも若かったようです。しかしパウロは、テモテにこう語りました。「あなたは若いかもしれないが、クリスチャンたちのために良い模範となりなさい。あなたの生き方、愛し方、信仰、純潔において、模範となるのです。」

もしかすると、ある偽教師たちはテモテを威圧し、黙らせようとしたのかもしれません。けれどもパウロは、彼に思い出させました。「神様はあなたに賜物を与えてくださいました。その賜物を軽んじてはなりません。」(14節)

そしてその後、パウロはさらにこう語ったのです。

これらのことに心を砕き、ひたすら励みなさい。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。(15)

言い換えれば、こういうことです。

「あなたは勤勉に神様のことばを教えなさい。そして、敬虔な歩みを全力で追い求めなさい。 そうすれば、人々はあなたがイエス様の恵みと知識において日々成長している姿を見て、あなたの模範に従うようになるでしょう。」

最後に、パウロは自らの指示を、このように結びました。

自分自身にも、教えることにも、よく気をつけなさい。働きをあくまでも続けなさい。そうすれば、自分自身と、あなたの教えを聞く人たちとを、救うことになるのです。(16)

もう一度パウロは、テモテに注意を促しています。誘惑に気をつけ、聖書を正しく教えることが求められていたのです。なぜでしょうか。それは、牧師として、リーダーとして、彼が担っている責任が非常に大きいからです。

もしテモテが、パウロからの教えに忠実に従うなら、自分自身だけでなく、神様の群れまでも救うことになるでしょう。しかしもし、それを怠るなら、その群れはテモテとともに滅び、神様は彼の責任を問われるのです。

牧師の務めは、軽んじられるべきものではありません。神様によって召された者だけが、その働きに立つべきなのです。もしあなたが、神様から牧師として召されているのであれば、あなたはパウロのことばを心に刻んでいなければなりません。

その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。(第一コリント4:2)

あなたはどうでしょうか。あなたは、忠実な者として歩んでいますか。

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テモテへの手紙第ー

敬虔に生きる

以前の記事でも述べましたが、パウロの時代には、外見だけの敬虔を教える人々がいました。その敬虔は、特別な修行や、想像上の物語や系図に基づいたものでした。

しかしパウロは、テモテにはっきりとこう命じています。「そのようなむなしい教えを拒み、むしろ本当に重要なことに心を向けなさい。」

具体的に、パウロは次のように語っています。

俗悪で愚にもつかない作り話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分自身を鍛錬しなさい。

肉体の鍛錬も少しは有益ですが、今のいのちと来たるべきいのちを約束する敬虔は、すべてに有益です。

このことばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私たちが労苦し、苦闘しているのは、すべての人々、特に信じる人々の救い主である生ける神に、望みを置いているからです。

あなたはこれらのことを命じ、また教えなさい。(テモテへの手紙第一4:7-11)

パウロにとって最も重要なのは、私たちが神様の召しに従って歩むことです。神様は、ご自身のご計画のゆえに、私たちを救ってくださいました。それゆえ、私たちはそのご計画にかなって生きるべきなのです。

では、私たちはどのような者になるべきでしょうか。それは、神様に似た者となることです。すなわち、神様のご性質を身につけていくということです。これこそが、「敬虔」が意味するところなのです。

パウロによれば、敬虔はこの世においても、来たるべき御国においても、有益なものです。なぜなら、敬虔は人生において最も大切な二つのことに深く関わるからです。すなわち、神様との関係と、周囲の人々との関係です。

私たちが罪に陥るとき、その罪はこれらの関係を壊してしまうのです。

それでも私たちは、決して忘れてはならない大切なことがあります。敬虔は、私たち自身の努力だけで成り立つものではないということです。

確かに、パウロは「敬虔のために自分自身を鍛錬しなさい」と命じました。

しかし、真に敬虔な者となるためには、救い主である生ける神に望みを置かなければなりません。すなわち、私たちは聖霊を通して、神様が私たちを御子の姿に変えてくださるという希望に生きているのです。

そして、敬虔を目指して自分を鍛えるとき、最も大切なのは、私たちが天の父の声に聞き従うことです。私たちの言葉、態度、愛、信仰、純潔において、天の父の導きに従って歩むべきなのです。

そのとき、神様は御言葉に従う力を、私たちに豊かに与えてくださいます。

あなたはどうでしょうか。あなたは、自分のトレーナーに従って生きていますか。

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テモテへの手紙第ー

麻痺した良心

現代において、多くの人々は、善と悪とを見分けることができません。彼らは悪を「善」と呼び、善を「悪」と呼ぶのです。

なぜ、人々はこれほどまでに混乱しているのでしょうか。

ところが、この混乱は今に始まったことではありません。パウロの時代にも、同じ問題が存在していました。そしてこの箇所で、パウロはその原因を明らかにしています。

パウロは、テモテに次のように書いています。

しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。

それは、良心が麻痺した、偽りを語る者たちの偽善によるものです。

彼らは結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人々が感謝して受けるように、神が造られたものです。

神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません。神のことばと祈りによって、聖なるものとされるからです。

これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたは、信仰のことばと、自分が従ってきた良い教えのことばで養われて、キリスト・イエスの立派な奉仕者になります。(テモテへの手紙第一4:1-6)

パウロがテモテに警告したのは、やがて多くの人々が信仰から離れ、悪霊の教えに従うようになるということでした。そのような教えに見られる特徴は、人々が善と悪との区別を失っているという点です。

なぜ、これほど多くの人々がそのような教えに騙されてしまうのでしょうか。

それは、彼らの良心が麻痺してしまっているからです。善と悪を見分けられないほどに、その良心は深く傷つけられているのです。

そのため、パウロの時代にも、神様が「良い」とされたものを「悪い」と呼ぶ人々が存在していました。たとえば、結婚や食物のことなどです。

一方で、彼らはさまざまな議論を持ち出し、福音をぼかし、教会を分裂させながら、その議論を「良い」と呼んでいたのです。

現代において、人々はさまざまな事柄をめぐって議論していますが、問題の本質は変わりません。つまり、麻痺した良心のゆえに、彼らは悪を「善」と呼び、善を「悪」と呼ぶのです。

そのため、パウロはテモテにこう命じました。

「あなたは、若いころから学んできた真理を人々に教えなさい。彼らが偽教師に騙されることを許してはなりません。彼らの良心が麻痺していくことを見過ごしてはなりません。」

今なお、牧師や教会の教師たちは、パウロのこの戒めを真剣に受け止めるべきです。神様のことばを曲げてはなりません。たとえこの文化が御言葉を書き換えようとしたとしても、それを許してはなりません。

もし私たちがこの時代の価値観に屈するなら、 私たちは知らぬ間に悪霊の教えを受け入れることになるのです。

あなたが牧師や教師でなかったとしても、御言葉に精通していなければなりません。文化を基準とするのではなく、神様のことばを自分の基準としなければならないのです。さもなければ、あなたの良心は鈍くなり、やがて麻痺してしまうでしょう。

あなたはどうでしょうか。自分の文化に合わせるために、聖書のことばをゆがめてはいませんか。

悪霊の教えによって、あなたの良心が鈍らされることがないようにしましょう。むしろ、いつも神様の御言葉を信じ、善を「善」、悪を「悪」とはっきり呼び続けましょう。

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福音の不思議さ

私はクリスマスが大好きです。それは、一年のうちで最も好きな季節です。イエス様がこの世に来られたという出来事は、まさに驚くべきことです。

けれども、私たちはその出来事を、当たり前のこととして受け止めてしまってはいないでしょうか。その出来事の不思議さについて、どれほど深く思い巡らしているでしょうか。

パウロは、その不思議さをよく理解していました。彼はこう語っています。

だれもが認めるように、この敬虔の奥義は偉大です。(テモテへの手紙第一3:16a)

敬虔の奥義。

パウロの時代、多くの人々は、敬虔の鍵は自分自身の努力にあると考えていました。彼らは、律法の実行や禁欲的な生活を通して敬虔になれると信じていたのです。また他の人々は、敬虔の奥義は、系図や想像の物語の中に見出されると考えていました(1:4)。

しかし、本当の敬虔は、宗教的な規則や自己修練によって生まれるものではありません。むしろ、それはイエス様とその十字架の働きによってのみ生じるのです。

パウロは、次のように記しています。

「キリストは肉において現れ、霊において義とされ、御使いたちに見られ、諸国の民の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」(16b)

神様は赤ちゃんとしてこの世に来られました。この世界を創造された神、自らの言葉によってすべてを保っておられる神、この宇宙の王であり源である方が、赤ちゃんとして来られたのです。

イエス様は、大工の子として育てられました。養父ヨセフが亡くなると、イエス様はその家族を支える責任を担われました。

その後、イエス様は家を離れ、ご自身の公の働きを始められました。福音を宣べ伝え、神様がどのような方であるかを人々に教えられ、また、御国の力を現されました。悪霊を追い出し、人々を癒し、死者たちをも復活させました。

群衆は、イエス様を王として迎えようとしました。けれどもそのわずか一週間後、彼らはイエス様を十字架につけてしまいました。

しかし、御霊によってイエス様は復活され、イエス様が力ある神の御子であることが証しされました。天使たちは復活の知らせを弟子たちに伝え、イエス様ご自身も彼らに現れ、その後、天に上げられたのです。

その後、弟子たちがその良い知らせをこの世界に伝えたことによって、今もなお、イエス様の御名は全地に宣べ伝えられ、多くの人々がイエス様を信じるようになっています。

この福音を通して、人々は神様に義と認められます。イエス様を復活させた神様の力によって、彼らの人生は変えられていくのです。

これこそが、福音の不思議さです。そしてまた、それがクリスマスの不思議さでもあります。

私たちが神様の教会として、真理の柱と土台となりますように。 その真理を、この死につつある希望のない世界に向かって、はっきりと伝えていきましょう。

私たちの心が鈍くならないように。この福音を、決して当たり前のものとして受け止めてしまわないように。

あなたはどうでしょうか。あなたは今もなお、福音を不思議に思っていますか。

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どうして私たちの行動は大切なのでしょうか

この手紙の2章から3章13節にかけて、パウロは教会について語っていました。とくに、礼拝の場において人々がどのようにふるまうべきか、また、牧師や執事がどのような性格を備えているべきかについて語っています。

その後、パウロは1章で示した要点に立ち返ります。それは、何よりも大切なのは神の働きであるということです。私たちは、神の御国のために信仰の務めを果たしていくべきなのです(テモテへの手紙第一1:4)。

このような理由から、パウロは偽教師たちと彼らのむなしい議論を厳しく非難しました。彼らは神の働きを妨げていたからです。

しかし、神の働きを妨げるのは偽教師だけではありません。クリスチャン自身のふるまいが妨げになることもあります。そのためにパウロは、教会における男性と女性のふるまいや、リーダーたちの資質について詳しく語ったのです。

それらを語り終えたあとで、パウロはこの教えをまとめます。

私は、近いうちにあなたのところに行きたいと思いながら、これらのことを書いています。

たとえ遅くなった場合でも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたに知っておいてもらうためです。

神の家とは、真理の柱と土台である、生ける神の教会のことです。(テモテへの手紙第一3:14-15)

この世界に対して、教会は真理の柱であり、土台としての役割を果たすべきです。

世の人々は、教会やクリスチャンの男性、女性、そしてリーダーたちを見るとき、福音の真理を目にするはずです。それは、私たちの言葉によってではなく、神様によって変えられた人生を通して、その真理が明らかになるからです。

教会のリーダーが、世のリーダーたちと同じように振る舞い、 また、クリスチャンの男性や女性がこの世の人々と同様に生きているとしたら、私たちが宣べ伝える神の真理は、世の目には汚されて映ってしまうでしょう。

本来、そうであってはならないのです。しかし残念ながら、多くの場合、それが現実です。

だからこそ、私たちは自らの行動に注意を払わなければなりません。神の教会として、この世の価値観に調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにされることによって、自分を変えていただきましょう。

この文化の圧力に屈してはなりません。この文化の思考に従ってもなりません。むしろ、この世に対して真理の柱と土台として、クリスチャンの兄弟姉妹と共にしっかりと立ちましょう。

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リーダーになりたいと願うなら

前回の記事では、私は牧師や教会の長老について語りました。 けれども、多くのクリスチャンにとって、牧師や長老になることはあまり関心のあるテーマではないかもしれません。

とはいえ、あるクリスチャンはミニストリーのリーダーになりたいと願っているかもしれません。たとえば、教会の財政を管理したり、ホームレスの方々への奉仕を担ったり、スモールグループや教会行事の運営を任されたりするような働きです。

多くの教会では「執事」という言葉をあまり用いませんが、聖書の観点からすれば、こうした奉仕を担うリーダーたちは、まさに執事と呼ぶべき存在です。

彼らは牧師や長老ではないにしても、教会が健全に働きを進めていくために、重要な責任を担っています。彼らの働きによって、牧師や長老たちは自分たちの務めに集中することができるのです。

多くのクリスチャンは、自分の賜物があるから執事にふさわしいと考えがちですが、そのような見方は正確ではありません。

パウロが執事の資格について語るとき、彼はその人の賜物や能力についてまず触れることはしません。むしろ、牧師の場合と同じように、執事に求められる最も重要な資格は「良い性格」なのです。

そのことを踏まえて、パウロはこう語りました。

(教会の監督と)同じように執事たちも、品位があり、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利を求めず。。。(テモテへの手紙第一3:8)

牧師と同じように、執事も自分の妻に対して忠実であり、自らの家庭をよく治めなければなりません(11)。

ただし、牧師とは異なり、執事には聖書を教える賜物が必須ではありません。それでも、キリスト教信仰に堅く立ち、御言葉に従って歩むことが求められます(9)。

私たちは、誰かをすぐにリーダーに任命すべきではありません。 その前に、まず審査を経るべきです。もし非難される点がなければ、そのとき初めてリーダーに任命してもよいのです。この手順を省くなら、その結果は非常に重いものとなるでしょう。

そしてパウロは、女性の執事についても語っています。

この奉仕に就く女の人も同じように、品位があり、人を中傷する者でなく、自分を制し、すべてに忠実な人でなければなりません。(11)

最後のポイントは、どのような役割を担っていたとしても、執事は「しもべ」であるべきだということです。実際、「執事」という言葉そのものが、「しもべ」という意味を持っています。そして、神のしもべとして、また教会のしもべとして、彼らは誠実に仕えることが求められるのです。

パウロは、この教えを次のように締めくくっています。

執事として立派に仕えた人は、良い地歩を占め、また、キリスト・イエスを信じる信仰について、強い確信を持つことができるのです。(13)

忠実に仕えるなら、当然、教会の中で良い評判を得ることができます。しかし、それ以上に大きな報いは、神があなたを通して働かれ、周囲の人々がその祝福に触れるのを見ることです。そのとき、あなた自身の信仰もいっそう深められていくでしょう。

あなたはリーダーになりたいと願っていますか。そのとき、あなたはどのような性格を持っているでしょうか。

すでにリーダーとして仕えているなら、あなたは忠実に仕えていると言えるでしょうか。

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牧師になりたいと願うなら

この箇所は、すべてのクリスチャンに向けられたものではありません。なぜなら、パウロの言葉は「牧師になろうとする人々」に対して語られているからです。

私自身、牧師として召されているとは思っていません。もちろん、いつか神様が私を牧師として召される可能性はありますが、少なくとも今のところ、私はそのような御声を受け取ってはいません。

とはいえ、若い頃の私は、神様が私を宣教師として召されるとは到底思っていませんでした。それでも、今では約25年間、日本で宣教師として仕えています。

いずれにせよ、もし「牧師になりたい」と願っているなら、この箇所は非常に重要です。また、教会が新しい牧師を選ぶときにも、この箇所を丁寧に読むべきです。

なぜなら、パウロは牧師や長老の資格について語っているからです。ただし、パウロは「牧師」や「長老」という言葉ではなく、「監督」という語を用いています。

パウロは次のように記しています。

次のことばは真実です。「もしだれかが監督の職に就きたいと思うなら、それは立派な働きを求めることである。」(テモテへの手紙第一3:1)

私の心を打ったのは、「もし、だれかが監督の職に就きたいと思うなら」という言葉でした。

私自身は、それを望んだことはありません。けれども、神様は特定の人々の心に、その願いを与えられます。パウロは、そうした人々に向かってこう語っています。「それを望むなら、それは素晴らしいことです。」

しかし、その後パウロは、牧師としての資格について語り始めます。そして私たちが注目すべきことは、パウロが牧師の学歴や神学校の訓練について、まったく触れていないという点です。むしろ、彼が最初に語っているのは、その人の性格です。

「あなたは牧師になりたいと願っていますか。では、あなたはどんな性格を持っているでしょうか。私は、まずそのことを知りたいのです。」

あなたには、非難されるところがないでしょうか。隠れた罪を抱えてはいないでしょうか。周囲の人々が、あなたを正当に咎めることができるような点はないでしょうか。あなたは、人々の前に立つにふさわしい、良い模範となっているでしょうか。

あなたは妻に対して忠実でしょうか。結婚の誓約を、誠実に守っているでしょうか。もしあなたが妻に忠実でないとしたら、どうして私たちは、あなたが神様とその教会に忠実であると信じることができるでしょうか。

あなたは怒りを適切に抑えることができるでしょうか。それとも、すぐに感情的になってしまう傾向があるでしょうか。

あなたには自制心が備わっているでしょうか。食生活、アルコール、時間やお金の管理、異性との関係において、自制をもって歩んでいるでしょうか。

あなたの生活は、周囲の人々から尊敬されるようなものとなっているでしょうか。教会の内でも外でも、あなたには良い評判があるでしょうか。

あなたは人をよくもてなしますか。時間やお金を、気前よく与えているでしょうか。

あなたの妻や子ども、あるいは他の人があなたを怒らせるとき、 あなたはどのように反応するでしょうか。暴力に訴えるようなことはないでしょうか。それとも、柔和な態度を保つことができるでしょうか。

あなたは、できる限り平和を保とうとしているでしょうか。それとも、すぐに争ってしまう傾向があるでしょうか。相手の怒りをわざとあおることに、どこか快感を覚えているということはないでしょうか。

あなたはお金に執着してはいないでしょうか。あなたの神は、富なのでしょうか。世が定義する「出世」や成功を追い求めているのでしょうか。それとも、どのような境遇にあっても、あなたの心には満ち足りる思いがあるでしょうか(ピリピ4:11-13)。

あなたは、自分の家庭をきちんと治めているでしょうか。あなたの妻や子どもたちは、あなたを尊敬しているでしょうか。

これらのことは、あなたの性格をよく表しています。ですから、もしあなたがまだ信仰の若いクリスチャンであるなら、牧師になるという夢を、もう少し先に延ばした方がよいかもしれません。

牧師を志すなら、謙遜な態度はきわめて重要です。多くの牧師たちが、自らのプライドによって大きな失敗をしてきました。特に、若いクリスチャンがその罠に陥る危険性は少なくありません。

そして、これまで述べたような資質を備えているとしても、もう一つの要件が必要です。それは、「教える賜物」です。たとえ聖書について深く学んでいたとしても、それを人々にわかりやすく教えることができるでしょうか。

しかし、もう一度申し上げます。たとえ教える賜物を持っていたとしても、性格にふさわしさがなければ、牧師になる資格が整っているとは言えないでしょう。

あなたは牧師になりたいと願っていますか。では、あなたはどのような性格を持っているでしょうか。

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女性たちと教会のリーダーシップ(3)

この箇所をまとめる前に、もうひとつ触れておくべき点があります。

15節で、パウロはこう語っています。

女は、慎みをもって、信仰と愛と聖さにとどまるなら、子を産むことによって救われます。(テモテへの手紙第一2:15)

ある聖書の解釈者はこう述べています。「この節は、聖書学者にとっても極めて解釈の難しい箇所です。」

私もその意見に深く同意します。では、パウロがここで語ろうとしたことは一体何だったのでしょうか。

もちろん、パウロが「女性は救われるために子どもを産まなければならない」と言ったとは考えられません。なぜなら、彼は他の手紙の中で、救いは信仰によって与えられると一貫して語っているからです。

この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2:8-9)

では、パウロが意味したこととは何でしょうか。

14節では、彼はこう語っています。

そして、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて過ちを犯したのです。

この言葉は、非常に厳しく響くかもしれません。「女性たち、すべての罪はエバのせいです。彼女のせいで、この世界は混乱に満ちているのです」――そんな印象を与えるかもしれません。

だからこそ、もしかするとパウロは、その厳しさを少し和らげようとしたのかもしれません。つまり彼は、女性たちに神様がエバに与えられた刑罰を思い起こさせているのです。それは、女性が苦しみを伴って子を産まなければならないという現実です。

パウロは女性たちにこう伝えています。出産の苦しみは、この世がエバの罪によってもたらされた痛みと呪いにあることを思い出させるものです。出産の痛みを通して、私たちはエバの罪と世界の嘆きを思い起こすのです。

けれども――あなたたちがイエス様とその十字架の御業を信じ、 神様に対する信仰、周囲の人々への愛、そして聖霊の力による聖い歩みに生きるならば、あなたたちは必ず救われるのです。

この解釈が正しいとすれば、「子を産むことによって」という日本語訳――特に「によって」という表現――は、あまり適切ではないかもしれません。別の訳し方として、「〜をくぐって」あるいは「〜を通って」という表現が考えられます。

たとえば、第一コリント3章15節で、パウロは同じギリシャ語の語を用いてこう記しています。

その人自身は火の中をくぐるようにして、助かります。

ですから、もしかするとパウロは、女性たちにこのように語っていたのかもしれません。「たとえあなたたちが、エバに与えられた呪いを受け、出産の苦しみをくぐり抜けるとしても、イエス様を信じて歩むなら、あなたたちは救われるのです。」

この希望について、パウロはローマ書の中でも語っています。

私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。

それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。

私たちは、この望みとともに救われたのです。(ローマ書8:22-24)

とにかく、他にもさまざまな解釈はありますが、これが私の理解です。

さて、女性と教会のリーダーシップの話題に立ち返り、この内容をまとめたいと思います。

この問題について、私たちは慎重に思いを巡らせる必要があります。このテーマを議論している人々がそうしているように、このブログを読んでいる皆さんにも、ぜひ考えていただきたいのです。

仮にパウロの指示がエペソの教会に限定されたものであると考えるならば、次の点を考えてみてください。

1.文法的にやや解釈の幅がありますが、おそらくパウロは女性が誰に対しても教えてはいけないと言っているわけではありません。(このシリーズのパート1で、私がそう考える理由を説明しました。)

むしろ、パウロは女性が男性に対して教えることを禁じているのです。ですから、あの箇所を言い換えるならこうなります。「女が男を教えたり、男を支配したりすることを許しません。」

しかしもし、エペソ教会の問題が「女性たちが十分に教えられていなかったこと」だったとするなら、なぜパウロは「女性が誰に対しても教えたり、支配したりすることを禁じます」とは語らなかったのでしょうか。

なぜその指示は「男性に教えたり、支配したりすること」に限定されているのでしょうか。その女性の偽教師たちは、他の女性や子どもに対してなら教えたり支配したりしても構わない、ということでしょうか。

2.エペソの教会に女性の偽教師がいたという証拠は、どこにあるのでしょうか。パウロはどこで「女性の偽教師」について言及したのでしょうか。彼女たちの名前を挙げていたでしょうか。

一方で、エペソには男性の偽教師がいたことは確かです。なぜなら、パウロは彼らの名前を挙げているからです(第一テモテ1:19–20;第二テモテ2:16–17)。

もし女性の偽教師が重大な問題だったのなら、なぜパウロは彼女たちの名前を挙げなかったのでしょうか。

3.もしパウロが「十分に教えられていない者たちが教えたり、支配したりすること」を禁じたかったのだとすれば、なぜ彼は「女性の偽教師」だけに限定して語ったのでしょうか。

なぜ「偽教師たちが教えたり、支配したりすることを許しません」と言わなかったのでしょうか。

一方で、女性が主任牧師や長老になってはならないと考える人は、次の問いにも向き合うべきです。

1.なぜプリスカという女性は、夫と共にアポロを教えることが許されたのでしょうか(使徒の働き18:26)。

2.もし教会のリーダーは男性であるべきであり、かつ使徒が特別に偉大なリーダーであるとするなら、ユニアとはいったい誰だったのでしょうか(ローマ16:7)。

では、その箇所をどのように解釈すればよいのでしょうか。

「使徒たちはユニアをよく知っています。」

あるいは、「ユニアは使徒として知られています」と訳すべきかもしれません。

その原語の表現には、やや解釈の余地があります。しかし、もしユニアが使徒であったのなら、パウロの指示はエペソ教会に限定されると考えるのが自然でしょう。

ともかく、以前にも述べたとおり、聖書学者たちの間にはより詳細な議論があります。ですから、可能であれば、両方の立場に耳を傾けてみてください。そして、それぞれの議論を聖書と照らし合わせながら、自らの結論を導いてください。

ただし、私はもう一度強調したいのです。この問題によって、自分の教会を分裂させてはなりません。もしあなたが教会のリーダーたちの方針に納得できないのであれば、静かに別の教会に移ることを検討してください。

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女性たちと教会のリーダーシップ(2)

前回の記事では、教会における女性たちのリーダーシップに関するパウロの教えについて取り上げました。その中で、パウロはこう語っています。

私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。(テモテへの手紙第一2:12)

前回の記事でお伝えしたように、ある解釈者たちは、パウロの指示がエペソにいた女性たちに限定されていると考えています。

しかし一方で、他の解釈者たちは、パウロの指示はすべての教会に適用されるべきだと主張しています。

では、その立場の根拠は何でしょうか。

まず1つ目の根拠は、第3章の記述です。パウロが教会の監督(現代における主任牧師や長老)について語る際、その任務を男性に限定しているように見える、という点です。

そこには、女性がその働きに加わる可能性についての示唆は見られません。実際、パウロは「監督の妻たち」については言及しますが、「監督の夫たち」には一切触れていません(比較対象としては、5章9節を参照してください)。

さらに、この立場の解釈者たちは、第13〜14節にも注目します。

アダムが初めに造られ、それからエバが造られたからです。そして、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて過ちを犯したのです。(13-14)

この議論の中心は、神様がアダムとエバを同時に造られなかった、という点にあります。神様はまずアダムを造り、次にエバを造られました。つまり、アダムが家庭におけるリーダーとして召されていたことを示しているのです。

そして、神様はアダムが使命を果たすことができるように、彼にエバを「助け手」として与えてくださったのです(創世記2:18)。

第一コリント11章3節、および7〜10節では、パウロがそのような創造の秩序について教えています。

また、パウロは夫婦関係について語る際、夫にリーダーシップを委ねられていることを明確にしています(エペソ5章参照)。

もちろん、ある意味で夫婦は互いに従い合うべきですが、パウロによれば、妻は主に従うように、夫にも従うべきだと語られています。なお、彼はそのような従順の命令を夫側には与えていません。

そのため、この立場の解釈者たちは、家庭における男性のリーダーシップの原則を、教会におけるリーダーシップにも当てはめます。彼らによれば、夫が自分の家族を導くように、男性は神の家族である教会を導くべきだというのです。

また、彼らは13〜14節におけるパウロの要点として、アダムがエバを正しく導かなかったことにより、エバが惑わされて罪を犯し、その影響でアダム自身も罪に陥った、という理解を提示します。

この立場についてさらに詳しく論じることもできますが、ここではこれが彼らの中心的な議論であると押さえておきましょう。

では、なぜクリスチャンたちはこのパッセージの意味についてこれほど議論するのでしょうか。

それは、パウロがアダムとエバの物語を引用するときに、彼の意図をテモテが当然理解しているものとして語っているからです。

パウロは次のようなことは語っていません。

「エバはアダムから十分に教えられていませんでした。だから彼女は罪を犯してしまったのです。同じように、エペソの女性たちもまだ十分に教えられていないので、しばらくの間、彼女たちが教えたり、男性を導いたりすることは許可しません。」

一方で、パウロはこうも語っていません。「アダムにはリーダーシップの務めがありました。したがって、彼は教会のリーダーシップの模範です。ゆえに、男性たちは教会を導くべきなのです。」

このように、もしこの問題についての議論が教会の一致を脅かすと判断したならば、私はその議論を続けることを避けます。この問題においては、私は教会の方針に従います。

明日、このテーマについての結論をまとめる予定です。

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女性たちと教会のリーダーシップ

この箇所は、聖書を信じるクリスチャンのあいだでも、最も議論を呼ぶ部分のひとつです。議論の焦点は、教会において女性が男性をリードしてもよいのか、特に、女性が主任牧師として仕えてもよいのか、という点です。

私の教会では、女性が主任牧師として仕えることを認めています。しかし一方で、今日の箇所に基づいて、女性は主任牧師として仕えてはならないと教えている教会もあります。

では、パウロが「私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません」と語ったとき、彼が意図していたのは、どのようなことだったのでしょうか。

もちろん、パウロが女性は絶対に教えてはならないと言っているのではないことは明らかです。なぜなら、彼はテモテの祖母ロイスと母ユニケが、テモテに聖書を教えたことを称賛しているからです(第二テモテ1:5、3:14〜15)。

さらにパウロは、年配の女性たちが若い女性たちに教えることを望んでいました(テトス2:3〜4)。

さらに、パウロの言葉が「女性は男性に対して絶対に教えてはならない」という意味ではないこともわかります。なぜなら、使徒の働き18章26節では、ある夫婦がアポロという人物に対して、より正確な神の道を教えたと記されているからです。

このことから、パウロが“何を意味していないか”は明確です。

では、“何を意味していたのか”についてはどうでしょうか。ここが、非常に議論を呼ぶ点です。

そこで、今回と次回の記事では、2つの主要な解釈を見ていきます。それぞれの立場の良い点も、課題となる点も公平に見ていきたいと思います。ですから、私は皆さんに挑戦します。この問いをよく調べて、ご自身の結論を導き出してください。

まず1つ目の立場は、パウロの指示がテモテの教会、すなわちエペソの状況に限定されているという考え方です。

この立場によれば、当時エペソの教会では女性たちが偽教師に騙されており、その結果、彼女たちは公の場で教えたり、男性たちを導いたりすべきではなかったというのです。

では、この立場の根拠は何でしょうか。

第一に、エペソには偽教師が確かに存在していたことが、はっきりと記されています(1:3〜7)。

第二に、この立場は新約聖書の記述に基づいています。パウロ自身が女性たちと共に頻繁に奉仕していたことが示されており、ローマ書16章をはじめ、他の複数の箇所にその様子が記されています。

そして最後に、この立場を支持する人々による14節の解釈を見てみましょう。

パウロはこう語っています。

そして、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて過ちを犯したのです。(テモテへの手紙第一2:14)

ある解釈によれば、パウロが語った意図はこうです。エバがアダムから十分に教えられていなかったために、サタンに騙され、罪を犯してしまった。それと同じように、エペソの女性たちもまだ十分に教えられていなかったため、まずは静かに学ぶべきだった、というのです。

しかし、正しい教えを受けたあとは、彼女たちも教えることができたのだ、というのがこの立場の理解です。

もちろん、他にもさまざまな議論がありますが、これがこの見解における中心的な論点です。

明日、もうひとつの立場を取り上げて、この箇所についてさらに考えていきましょう。

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本当の美

ある有名な英語のことわざに、こうあります。“Beauty is only skin-deep.”

つまり、美しさとは、表面的なものにすぎない、という意味です。

私たちはこのことばを本当に信じているでしょうか。また、そのことばは、私たちのふるまいに影響を与えているでしょうか。

少なくとも、当時のエペソの女性たちにとっては、信じがたいことばだったようです。彼女たちは、教会において不適切な服装をしていたようです。また、裕福な一部の女性たちは、派手な服や宝石を身に着けていたようです。

そこで、パウロはこのように語りました。

同じように女たちも、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪型や、金や真珠や高価な衣服ではなく、神を敬うと言っている女たちにふさわしく、良い行いで自分を飾りなさい。(テモテへの手紙第一2:9-10)

つまり、女性を定義するのは外見ではなく、内面です。もし外見の美しさよりも、心の美しさに目を向けるなら、神様の御計画に従って、彼女たちは本当の美しさを持つ人となるでしょう。

ですから、本当の美しさは、神様との関係から始まります。私たちは何よりもまず、神様の愛を求め、知るべきです。

私たちのアイデンティティは、他人によってではなく、神様によって定義されるべきです。私たちの価値もまた、自分自身や周囲の評価ではなく、造り主である神様によって定められるのです。

そして、神様はあなたをご覧になると、こう言われます。「この人は非常に良かった」(創世記1:31)

女性の皆さん、あなたは自分自身をどう見ているでしょうか。 自信が持てず、周囲の人々の賞賛を追い求めてはいないでしょうか。

それとも、神様がありのままのあなたを受け入れてくださると知り、神様に従うことでこそ、本当の美しさを得られることを理解しているでしょうか。

あなたの美しさは、何に基づいていますか。

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テモテへの手紙第ー

男らしくふるまう?

今日の箇所は、「男らしくふるまうこと」について語られています。神様は、男性たちにどのように振る舞うよう勧めておられるのでしょうか。

第1〜4節では、パウロはテモテを通して、エペソの人々に祈るように勧めました。前回の記事でも述べましたが、この霊的な戦いに参加し、人々をイエス様に導きたいと願うなら、私たちの最初のステップは「祈り」です。

そして、パウロは第8節でこう言いました。

そういうわけで、私はこう願っています。男たちは怒ったり言い争ったりせずに、どこででも、きよい手を上げて祈りなさい。(テモテへの手紙第一2:8)

この箇所で、パウロが語っているのは女性たちではなく、男性たちに対してです。言い換えれば、パウロはこう語っているのです。「男らしく、神様から与えられた責任を果たしなさい。」

では、その責任とは何でしょうか。それは、教会で主導権を持つことです。特に、祈りにおいてリードすることです。

もちろん、女性たちも祈るべきです。けれども、パウロは男性たちにこう語ります。「教会の皆が祈るとき、しっかりとリードしなさい。祈りの働きを女性たちに任せきりにしてはいけません。あなたたち自身が祈りなさい。そして、祈る人の模範となりなさい。」

残念ながら、当時のエペソの男性たちは、そのようにしていなかったようです。むしろ彼らは、無駄な作り話や系図について論じ合っていました。

そのような議論は、プライドや間違った教えへとつながっていったのです。終わりのない議論によって、彼らは教会の中で多くの「熱」は生みましたが、「光」はあまり生み出しませんでした。

しかも、彼らは祈りを共にすることさえ忘れてしまっていたのです。

サタンはそれを見て、ほくそ笑んだことでしょう。

しかし、私たち男性は、どれほどそのようにしているでしょうか。もちろん、私たちは系図や作り話について議論するわけではありません。けれども、どれほど私たちはミニストリーのやり方や、あらゆるくだらない事柄について議論しているでしょうか。

それだけではありません。私たちは互いを傷つけ合い、争うことで、一致を失ってしまいます。さらには、祈りを共にし、使命を果たすことすら忘れてしまうほどに、私たちは争ってしまうのです。

では、私たちの使命とは何でしょうか。それは、迷っている世界に福音を宣べ伝えることです。だからこそ、サタンは私たちを見て、あざ笑うのです。

家庭においても、多くの夫たちは男らしくふるまっていません。私たちは霊的なリーダーシップを妻たちに任せてしまいます。家庭の中で、聖書を読み、祈ることにおいてリードせず、 その責任を妻に委ねてしまっているのです。

また、私たちは妻たちのために祈らず、妻たちと共に祈らず、 その代わりに、重要なことについても、些細なことについても争ってしまいます。

私たちは、謙遜と愛と赦しの模範とはなっていません。むしろ、プライドや苦々しい思い、怒りにしがみついてしまうのです。だからこそ、サタンは私たちを見て、嘲笑うのです。

あなたはどうでしょうか。男性であるなら、神様はあなたに「男らしくふるまいなさい」と召しておられます。あなたはその召しに応えているでしょうか。

もしそう願うのなら、最初のステップは、膝をついて祈ることです。それは日々行うべきことです。あなたは、今日もそうしているでしょうか。

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テモテへの手紙第ー

私たちが戦う前に

第1章では、パウロは無益な議論を引き起こす者たちを厳しく責めました。それらの議論は誤った教えに基づいており、エペソの人々を本来の使命から引き離してしまっていたのです。

もちろん、その使命とは、福音を宣べ伝えることです(テモテへの手紙第一1:3–6)。

そして第1章の結びで、パウロはテモテに対して、「神様の御国のために立派に戦い抜きなさい」と命じました。

この戦いの一部には、偽教師への対応も含まれます。しかしテモテは、改めて神様の働きに心を集中させる必要がありました。 というのも、テモテと彼の教会は、むなしい議論によってあまりにも多くの混乱に巻き込まれていたからです。

続く第2章の冒頭で、パウロはこの霊的な働きと戦いが、どこから始まるべきなのかを教えています。彼はこう語りました。

そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。

それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。

そのような祈りは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。(テモテへの手紙第一2:1-4)

私たちの使命は何でしょうか。それは、すべての人が救われ、真理を知るようになることです。これこそが、神様の御心なのです。

もちろん、すべての人が救われるわけではありません。けれども、それが神様の御心である以上、私たちもまた、そのことを願うべきです。

しかし、覚えておきましょう。この使命は、まず祈りから始まらなくてはなりません。私たちは、キリストを必要としている人々を見て、彼らのためにとりなさなくてはなりません。

私たちは、人々の物理的な必要のためにはよく祈ります。もちろん、それは大切なことです。けれども、私たちはどれほど、彼らの救いのために祈っているでしょうか。

私たちが愛する人々のために真剣に祈らない理由のひとつは、もしかすると、私たち自身が本当に地獄を信じていないからかもしれません。あるいは、地獄の存在は信じていても、その罰が永遠に続くものだとは信じていないのかもしれません。

しかし、もし私たちがそれを本当に信じているならば、大切な人たちの行き先について考えるときに、無関心な態度など取れるはずがありません。

神様は、決して無関心ではおられませんでした。だからこそ、神様は救いの計画を立てられたのです。そして、パウロはこう語っています。

神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。

その証しのために、私は宣教者、使徒、そして、信仰と真理を異邦人に教える教師に任命されました。私は真実を言っていて、偽ってはいません。(5-7)

私たちは皆、かつて罪の奴隷であり、永遠の死へと向かう道を歩んでいました。

けれども神様は、私たちを憐れんで、イエス様を送ってくださいました。イエス様は十字架にかかり、私たちの罪の負債を身代わりに支払い、私たちを贖い出してくださったのです。

「贖いの代価」とは、奴隷を買い取るために支払われる代価のことを意味します。イエス様はその代価を払って、私たちを罪の奴隷状態から解放してくださいました。

この救いの働きは、すでに完成しています。私たちに求められているのは、その賜物を信仰によって受け入れることだけです。 けれども、人々がこの救いの賜物を受け入れるには、まずその知らせを聞く必要があります。

そのために、神様はパウロを遣わされました。パウロは、神様の救いのメッセージを大胆に宣べ伝えました。

そして今、神様はパウロだけでなく、あなたをもまた、この使命のために遣わしておられるのです。

けれども私は、もう一度はっきりと言います。私たちの働きは、祈りから始めなければなりません。

愛する人々のために祈るとき、私たちはこう願うべきです。神様が、彼らの霊的な目と耳を開いてくださいますように。

また、私たちの政治家たちのためにも祈りましょう。神様が、彼らの霊的な目と耳をも開いてくださるように願うべきです。これは、私たちが福音をよりスムーズに宣べ伝えるために必要な祈りなのです。

しかし、私たちがしなければならないことは、もう一つあります。パウロはこう命じています。「すべての人のために感謝しなさい。」

私たちの愛する人々のために感謝するのは、比較的やさしいことです。けれども、好意を抱いていない人々のために感謝するのは、非常に難しいものです。

それでも、なぜ私たちは彼らのために感謝すべきなのでしょうか。

その理由は、感謝することによって、私たちが彼らを神様の目に尊い存在として見ることを思い出させられるからです。

私たちの目には彼らの嫌な態度や外見が映るかもしれません。けれども、イエス様がそのような人々のためにも死んでくださったことを、決して忘れてはなりません。

彼らのために感謝することによって、私たちは彼らをイエス様の目で見始めるようになるのです。

神様は、私たちをこの霊的な戦いへと召しておられます。ですから、祈りをもって、戦場へと進んでいきましょう。

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テモテへの手紙第ー

良心に逆らうとき

私たちの良心は、神様からの賜物です。

神様はクリスチャンにも、ノンクリスチャンにもこの賜物を与えてくださいました。

良心を通して、私たちは道徳的な判断を持つことができます。もし良心が与えられていなかったなら、この世界は今よりもはるかに混乱した場所になっていたことでしょう。

けれども、問題なのは、私たちの良心が完全ではないという点です。むしろ、私たちの良心は罪によって汚されてしまっています。

けれども、私たちがクリスチャンになると、聖霊が心に語りかけ、私たちの内面を形づくり始めてくださいます。

そして、その御声に従えば従うほど、私たちはますますイエス様に似た者とされていくのです。私たちは、そのようであるべきです。

残念ながら、テモテの時代には、聖霊が偽教師たちの良心を刺されたとき、彼らはその御声と自らの良心を無視しました。むしろ、彼らは自分の良心に逆らい、自らの信仰を破ってしまいました。

彼らは福音の真理を守らず、お金や威信に執着し、その結果、信仰も教えもねじ曲げてしまったのです。

そのような状況の中で、パウロはテモテにこう語りました。

私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言にしたがって、私はあなたにこの命令を委ねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と健全な良心を保ち、立派に戦い抜くためです。

ある人たちは健全な良心を捨てて、信仰の破船にあいました。その中には、ヒメナイとアレクサンドロがいます。

私は、神を冒瀆してはならないことを学ばせるため、彼らをサタンに引き渡しました。(テモテへの手紙第一1:18-20)

パウロはテモテにこう語りました。

「偽教師たちの模範に倣ってはならない。福音のために戦い抜きなさい。この偽教師たちに対して、福音のために立ち向かいなさい。そして、あなたが教えられてきた福音の真理を保ちなさい。健全な良心もまた守り続けなさい。」

実はその前にも、パウロはこれと似たことを語っていました。

この命令が目指す目標は、きよい心と健全な良心と偽りのない信仰から生まれる愛です。(5)

つまり、「きよい心」「健全な良心」「偽りのない信仰」から生まれる愛こそが、私たちの目指すべきゴールです。ですから、これらを保ち続ける必要があります。

しかし、パウロによれば、ある人々は健全な良心を捨ててしまいました。ヒメナイとアレクサンドロという人物は、良心に逆らったために信仰の破船にあってしまいました。

そして今でも、多くの人々が同じような過ちを犯しています。

中にはこう言う人もいます。「私は恵みによって救われたから、好きなように生きても大丈夫。あとで赦しを祈ればいいんだ」と。こうした人々は、自分の良心に背いて生きているのです。

けれども、彼らは非常に重要な真理を見落としています。それは、神様は私たちを単に救っただけでなく、清い人生を歩むように呼んでおられるということです(第一テサロニケ4:1ー8)。

ある人々は、聖書が悪と呼ぶ行為を善だとみなします。

そのため、自らをクリスチャンと称しながら、同性愛的な生活を選ぶ人もいます。彼らは聖書が同性愛について何を教えているかを知っていながら、その罪とこれ以上戦いたくないと思っているのです。

その結果、彼らはこの点において、聖書の教えを曲げてしまいます。

福音と同性愛に関する聖書の教えは、昔から一度も変わったことがありません。それでも、良心に反して生きる人々が増えており、結果として信仰の破船に至るのです。

ヒメナイとアレクサンドロも、「私たちはキリストを否定する」と言ったわけではありません。むしろ、「私たちはキリストの教えを受け入れている」と言いながら、実際には福音そのものを曲げてしまいました。

そのように、今日でも、多くの人が自分をクリスチャンと名乗りながら、良心に逆らって福音を変えてしまっているのです。

自らの良心に背くことは、非常に危険なことです。そうするならば、やがて福音と聖書の教えを曲げてしまうことになるからです。

私たちはそのような歩みを避けましょう。むしろ、パウロが命じたように、信仰と健全な良心を保ち、何よりも、主を喜ばせることを第一に心がけて歩んでいきましょう。

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テモテへの手紙第ー

神の恵みに感嘆している?

私たちは、どれほど神の恵みに心から感嘆しているでしょうか。 そして、もしそれを毎日行っているなら、私たちの人生はどれほど変えられていくでしょうか。

この点において、パウロと偽教師たちはまったく異なっていました。

偽教師たちは神の恵みを少しも理解していませんでした。 彼らにとって、福音を宣べ伝えることは金銭を得る手段であり、また、威信や名誉を手に入れるための道でした。

しかし、パウロにとって福音とは、自分の人生を根底から変えた不思議な知らせでした。だからこそ、彼はできる限り多くの人々にこの福音を伝えたいと心から願ったのです。

その思いを、パウロはこう語っています。

私は、私を強くしてくださる、私たちの主キリスト・イエスに感謝しています。キリストは私を忠実な者と認めて、この務めに任命してくださったからです。

私は以前には、神を冒瀆する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました。

私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれました。(テモテへの手紙第一1:12-14)

パウロは、本当に神の恵みに心から感嘆していました。彼はかつてイエス様の御名を冒涜し、教会を迫害し、数多くの信者たちの命を奪った者でした。

それにもかかわらず、神は彼を憐れみ、その罪深さにも勝るほどの恵みを注いでくださいました。パウロのひどい罪は完全にきよめられたのです。

その結果、パウロはイエス様を信じ、それまで知らなかった愛に満たされました。

だからこそ、彼は確信をもって、こう宣言することができたのです。

「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。」(テモテへの手紙第一1:15-16)

パウロが気づいたのは、「イエス様は私のために死んでくださった」ということでした。

クリスチャンになる前、パウロは自分の罪に気づいていませんでした。むしろ、自分はかなり正しい者だと思い込んでいたのです。

けれども、イエス様がまばゆい光のうちにご自身をパウロに現されたとき、彼は自分がどれほど神の恵みと憐れみを必要としているかを悟り始めました。

残念なことに、多くの人々は、その真理がわかっていません。

クリスチャンであっても、自分がどれほど神の恵みと憐れみによって生かされているかを認識していないことがあります。彼らはこう思うのです。「私はもう大丈夫。神の恵みも憐れみも、もう必要ない」と。

あるいは、「イエス様が私のために死んでくださったことは確かだけれど、私の罪はそこまでひどくなかった」と考えている人もいます。

けれども、私たちがキリストの光の中に歩み、イエス様に近づいていくにつれて、自分の本当の姿が見えてくるのです。つまり、自分が罪によって汚れており、救いを必要としている者なのだと気づかされます。

この真理を悟らない限り、私たちは決して神の恵みに深く感嘆することはできないでしょう。

パウロはこの真理を把握したとき、思わず賛美の声をあげました。

どうか、世々の王、すなわち、朽ちることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように。アーメン。(17)

あなた自身はどうでしょうか。神の恵みに心から感嘆しているでしょうか。

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テモテへの手紙第ー

教師としての失敗

ヤコブはこう記しています。

私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。(ヤコブ3:1)

あるクリスチャンは、教師としての地位を求めることがあります。けれども問題なのは、聖書を教えたいと願っていながら、自分では聖書をよく知っていると思っているものの、実際には十分に理解していないということです。

さらに、その動機が不純であれば、その問題はさらに深刻になります。

こうした背景の中で、パウロはテモテに対し、偽教師をどのように扱うべきかを語っています。

この命令が目指す目標は、きよい心と健全な良心と偽りのない信仰から生まれる愛です。ある人たちはこれらのものを見失い、むなしい議論に迷い込み、(テモテへの手紙第一1:5-6)

パウロの意図は、少し解釈が分かれるところです。彼が求めていたのは、偽教師たちが「清い心、健全な良心、偽りのない信仰から出る愛」を生み出すことだったのでしょうか。

あるいは、パウロが本当に望んでいたのは、エペソのクリスチャンたちがそのような愛に満ちた歩みをすることだったのかもしれません。

いずれにせよ、はっきりしているのは、偽教師たちはもはや愛に満ちた心から教えてはいなかったということです。さらに、彼らは清い心と健全な良心、偽りのない信仰を見失ってしまっていました。

むしろ、この世を愛し、富を得ることを望んでいたようです(6:3-10)。

皮肉なことに、その一方で彼らは禁欲的な生活を人々に教えていました(4:2-3)。

また、愛と教会の一致を教えるのではなく、むしろ争いや論争を引き起こしていました。

しかし、以前にも述べたように、彼らの最大の問題は、聖書を教えようとしていながら、実際には聖書を正しく理解していなかったという点です。そのような者たちについて、パウロはこう語っています。

律法の教師でありたいと望みながら、自分の言っていることも、確信をもって主張している事柄についても理解していません。(7)

これらの偽教師たちは、モーセの律法を教えようとしていましたが、律法の目的を正しく理解していませんでした。

パウロによれば、律法は正しい人のために与えられたものではありません。つまり、律法は神によって義と認められているクリスチャンのためのものではないのです。

むしろ、律法はクリスチャンではない人々のためにあり、彼らが律法を通して自らの罪を知り、神に立ち返り、救いへと導かれるためのものです(8-11)。

しかし、偽教師たちはこの真理を理解していなかったために、クリスチャンたちを誤った道へと導いてしまったのです。

残念ながら、今日でも多くの人がこうした偽教師のように、確信をもって聖書を教えてはいるものの、自分の語っている内容や主張している事柄について、正しく理解していません。その結果、多くの人々が惑わされてしまうのです。

では、あなた自身はどうでしょうか。あなたは牧師ですか。それとも教会の教師でしょうか。バイブルスタディーを導いているでしょうか。日曜学校で教えているでしょうか。あなたはどのような教師だと言えるでしょうか。

あなたの動機は何でしょうか。プライドでしょうか。それとも、人々からの尊敬を求めているのでしょうか。あるいは、あなたの動機は愛でしょうか。

あなたは、バイブルのメッセージを語るためにきちんと準備しているでしょうか。また、日々聖書を読み、神のことばに親しんでいるでしょうか。あなたは本当に聖書をよく知っているでしょうか。

もしかすると、確信をもって聖書を教えていながら、自分が語っていることや主張している事柄を実は理解していないということはないでしょうか。

多くの人は教師になるべきではありません。なぜなら、その教えに対して、より厳しいさばきを受けるからです。

さばきの日に、イエス様はあなたに何と語られるでしょうか。

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テモテへの手紙第ー

無駄な議論に惑わされないために

聖書に関して、さまざまな奇妙な理論が存在します。

たとえば、ある聖書学者たちは、パウロがテモテへの手紙やテトスへの手紙を書いていないと主張します。むしろ、誰かがパウロの名を無断で使い、それらの手紙を書いたと考えるのです。けれども、彼らの「証拠」は疑わしいものです。

また、ある学者たちは、私たちは新約聖書の原本の内容を知ることができないと主張します。なぜなら、現存するのは原本ではなく、その写本だけだからです。

確かに、私たちは原本そのものを持っていません。けれども、何千にも及ぶ写本を比較することで、私たちは原本の内容を99%以上把握しています。さらに、不明確な箇所があったとしても、それが聖書の根本的な教えに影響を及ぼすことはありません。

他の人々は、聖書には特別な「コード」が隠されていると信じています。そして、彼らによれば、そのコードを解読しなければならないというのです。

私たちは、人と延々と議論することができます。けれども多くの場合、聖書を信じたくない人は聖書を信じませんし、キリスト教を受け入れたくない人はキリスト教を受け入れません。ですから、そういった人々と話すことで、無駄に多くの時間を費やしてしまうことがあります。

もし時間を賢く使いたいのなら、福音に関心のある人と話す方がよいでしょう。

テモテがエペソの教会を導いていたとき、彼も同じような問題に直面しました。もちろん、エペソの人々が私たちとまったく同じ事柄について議論していたわけではありません。けれども、ある者たちは作り話を広め、系図について議論し、さまざまな奇妙なことを教えていました。

彼らが正確に何を教えていたのか、私たちには分かりませんが、現代の教会と同様に、福音を語ることをせず、無益な論争に時間を費やしていたのです。

そのような状況に対して、パウロはテモテにこう命じました。

私がマケドニアに行くときに言ったように、あなたはエペソにとどまり、ある人たちが違った教えを説いたり、果てしない作り話と系図に心を寄せたりしないように命じなさい。

そのようなものは、論議を引き起こすだけで、神に委ねられた信仰の務めを実現させることにはなりません。

この命令が目指す目標は、きよい心と健全な良心と偽りのない信仰から生まれる愛です。ある人たちはこれらのものを見失い、むなしい議論に迷い込み。。。(テモテ人への手紙第一1:3-6)

簡単に言えば、テモテは異なる教えや無益な議論を広める者たちを警告しなければなりませんでした。そして彼らが悔い改めなければ、教会から除く責任が彼にありました。

パウロはすでにヒメナイとアレクサンドロという人物を除名していましたが(1:20)、他の偽教師たちはまだ残っていたのです。

テモテがそのような者たちを教会から排除すべき理由は、そうした議論が妨げとなり、彼が神様の務めを全うできなくなるからです。つまり、そのような議論に意識を奪われると、福音を広めることも、信仰による救いを宣べ伝える時間も失われてしまいます。

では、この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

第一に、私たちもまた、無益な議論に熱中する者たちや、奇妙な教えを広める者たちに対処しなければならないということです。

私たちは、そういった人々をただ無視すればよいというわけではありません。彼らに対しては、適切に応答すべきです。しかし、もし彼らがそのような議論を手放そうとしないのであれば、私たちは彼らを教会から除く必要があります。

もし自分の牧師が奇妙な教えを語っているならば、あなたは別の教会に行くべきです。

第二に、そのような事柄について議論する人と、深入りして議論しない方がよいということです。なぜなら、自分の時間を無駄にしてしまうからです。

最終的には、それは信仰の問題です。もちろん、私たちの信仰は根拠のないものではありません。むしろ、私たちの信仰は十分な証拠に基づいています。

しかし、ある人々はその証拠に満足せず、どれほど証拠を示されても、決して信じようとはしません。どれだけ議論しても、彼らは信じることを拒み続けるのです。だからこそ、自分の時間を無駄にしない方がよいのです。

むしろ、福音を宣べ伝えることに心を注ぐべきです。福音を聞こうとする人々に焦点を当てるべきです。

私たちの時間は非常に貴いものです。その時間を無駄にしてはなりません。