この世の人々は、さまざまなものを追い求めています。
名声、力、安心――その中でも、最も熱心に追い求められているのは、お金でしょう。名声はしばしば金銭的な利益につながり、お金は快楽や力、さらには安全さえも手に入れる手段と見なされているからです。
さらに、福音を通して裕福になろうとする牧師や伝道者たちさえいます。実際、パウロの時代にもそのような人物が存在していました。
けれども、パウロはそのようなものを追い求めてはならないと教えています。
むしろ、彼はこう語ったのです。
しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。(テモテへの手紙第一6:6)
さまざまな意味で、「満ち足りた心」と「敬虔」は深く結びついています。
敬虔な人々は、この世のものによって満たされているのではありません。むしろ、神様との平和を持っているからこそ、彼らの心は満ち足りているのです。だから彼らは、何よりもまず神様ご自身を求め続けます。彼らにとって本当に必要なのは、神様だけなのです。
その一方、不敬虔な人々にとって、満足することは極めて難しいのです。彼らは常に、より多くの物を欲しがります。そして、持てば持つほど、その心はますます空しさを感じるようになります。
ある人は、一時的に神様から離れても満足できると思うかもしれませんが、最終的にはすべてを失ってしまうのです。
パウロはこのことをよく知っていて、次のように語りました。
私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。(7)
やがて来る裁きの日、人々が神様の御前に立つとき、その地位や財産は何の意味も持たなくなります。神様はそのとき、こう尋ねられることはありません。
「あなたはどれほどの財産を持っていたか。私に何を捧げることができるか。」
むしろ、神様が尋ねられるのは、ただ一つの問いです。
「あなたは、私のひとり子との関係を持っていたか。」
だから、パウロはテモテに命じました。「お金を追い求めてはなりません。お金を愛することがあらゆる悪の根であり、ついには永遠の滅びに至ります」(9〜10節)。
今の世においても、お金への愛によって、多くの人々が自らの人生を壊しています。
たとえば、ギャンブルによって家庭や生活を崩壊させたり、金銭を追い求めるあまり過労し、家族関係や心身を壊してしまったりします。お金への愛が原因で、多くの人が多くの苦しみによって自らを刺し貫いてきたのです。
だから、パウロはこう語ったのです。
衣食があれば、それで満足すべきです。(8)
では、私たちは何を追い求めるべきなのでしょうか。
私たちは、義、敬虔、信仰、愛、忍耐、そして柔和を追い求めるべきです(11節)。それこそが、神の人にふさわしい歩みなのです。
もし私たちがこれらのものを心から追い求めるなら、どれほど人生が祝福されることでしょう。私たちの結婚生活や人間関係はどれほど豊かになるでしょう。私たちの神様との関係は、どれほど親密になるでしょうか。
そのような生き方には、はかり知れない益があります。
このあと、パウロは金持ちに対して、非常に実用的な助言を与えました。というのも、裕福な人にとって、自分の財産に頼るのは容易なことだからです(実際には、金持ちでなくても多くの人がそうしてしまいます)。
しかし、パウロはテモテにこのように命じました。
今の世で富んでいる人たちに命じなさい。
高慢にならず、頼りにならない富にではなく、むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置き、善を行い、立派な行いに富み、惜しみなく施し、喜んで分け与え、来たるべき世において立派な土台となるものを自分自身のために蓄え、まことのいのちを得るように命じなさい。(17-19)
お金は、それ自体が悪いものではありません。正しく用いるなら、実に多くの善を行うことができます。私たちは、たくさんの人々に触れることができます。
お金をそのように用いるなら、私たちは決して朽ちることのない資産を天に蓄えることになるのです。そしてその中で、私たちの人生の真の意味を見いだすことができるでしょう。
では、あなたはどうでしょうか。あなたは今、何を追い求めていますか。あなたの希望は、どこに置かれているでしょうか。
