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ピリピ人への手紙

私たちが捧げると

前回の記事では、多くのクリスチャンが抱えている問題について取り上げました。それは、彼らがなお自己中心であるということです。多くの場合、彼らは自分の必要や欲望にばかり焦点を当てています。

けれども、それは神様の御心ではありません。ピリピの人々は、そのような生き方をしていなかったのです。パウロは彼らについて、このように語りました。

あなたがたも知っているとおり、福音を伝え始めたころ、私がマケドニアを出たときに、物をやり取りして私の働きに関わってくれた教会はあなたがただけで、ほかにはありませんでした。

テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは私の必要のために、一度ならず二度までも物を送ってくれました。(ピリピ人への手紙4:15-16)

どうやら、多くの教会はパウロから多くの祝福を受けていながらも、まだ主に捧げることも、周囲の人々に対して捧げることもしていなかったようです。

たしかに、信仰を始めたばかりのクリスチャンにとっては、それも自然なことかもしれません。霊的な赤ちゃんとして、まずはしっかりと養われる必要があります。

しかし、成長するにつれて、受けるだけでなく、与えることも学んでいかなければならないのです。ピリピの人々は、信仰の初めからすでにそのことを学んでいたようです。

パウロ自身は、ピリピの人々や他の教会からお金を受け取ることに執着していたわけではありません。多くの場合、彼は自らの必要に自分の手で備えていました。それでも、ピリピの人々の気前の良い心を見たとき、彼は神様の前で、彼らの霊的成熟を感謝したのです。

そして、パウロは彼らにこう語りました。

私が求めているのは、あなたがたの霊的な口座に加えられていく実なのです。(17)

パウロは、気前の良い態度という「実」について考えていたのでしょうか。つまり、その気前の良さが、霊的な報いへと導くものだと考えていたのでしょう。

あるいは、彼の心はさらに先を見ていたのかもしれません。実を言えば、パウロは将来救われる人々のことを思い描いていたのではないでしょうか。

つまり、ピリピの人々が惜しみなく彼の宣教活動を経済的に支えたことによって、より多くの人が福音を聞いて救われる――その「実」を見据えていたのかもしれません。

彼の関心は、報いというよりも、救われる魂だったでしょう。しかしもちろん、神様は、ピリピの人々の気前の良さに対して、必ず報いを与えてくださったでしょう。

さらに、パウロは彼らからの贈り物についてこう語りました。

それは芳ばしい香りであって、神が喜んで受けてくださるささげ物です。(18)

そしてパウロはこう言いました。

また、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。(19)

私たちは、捧げることに迷いを感じることがあります。これで本当に意味があるのだろうか。与えすぎてしまってはいないだろうか──そんな疑問が心をよぎることもあるでしょう。

しかし、パウロは私たちを励ましてくれます。惜しみなく与えるとき、神様はご自身の豊かさの中から、私たちの必要を満たしてくださるのです。

正直に言えば、私自身も今、気前の良い態度を学び続けている途中です。ときには、お金を手放すのが難しく感じることもあります。

けれども、私たちが捧げるとき、それは単に神様を祝福する行為にとどまりません。私たちを通して他の人々も祝福され、その過程で神様の栄光が表されるのです。

だからこそ、パウロはこう語りました。

私たちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。(20)

あなたはどうでしょうか。あなたは与える人でしょうか。それとも、ただ受けるだけの人でしょうか。

神様が私たちに惜しみなく与えてくださったものを、私たちもまた、周りの人々と分かち合っていくように。

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ピリピ人への手紙

満足さの秘訣

私たちは電子レンジのような社会に生きています。今すぐに欲しいものを受け取りたいと願い、それがかなわないと、不平を言い始めてしまいます。

けれども、私たちはそのような態度を取るべきでしょうか。

パウロは決してそのような態度を取りませんでした。ピリピ人たちの気前のよさに感謝を表すとき、彼はこう語りました。

乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。

満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。(ピリピ人への手紙4:11-13)

「ありとあらゆる境遇に秘訣を心得ています。」

では、パウロはどのような秘訣を学んだのでしょうか。実のところ、彼はその中身を具体的には述べていません。2017年版の新改訳では、「ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」と記されています。

一方、第3版では、こう訳されています。「どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。」

実際、多くの英語訳聖書でも、パウロの言葉はそのように訳されています。

「どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。」

私たちも、そう言えるでしょうか。

パウロは乏しいときにも、満ち足りていました。富んでいるときにも、満ち足りていました。

乏しいときに満ち足りることを学ぶべきだということは、比較的理解しやすいかもしれません。でも、なぜ富んでいるときにも、満ち足りることを学ばなければならないのでしょうか。

もしかすると、あなたは必要なもの以上にすでに持っているかもしれません。それでも、まだ欲しいものがあって、不平を口にすることはないでしょうか。

なぜ私たちはそのようにしてしまうのでしょうか。たとえ多くのものを持っていても、なぜ満ち足りることはそんなにも難しいのでしょうか。

おそらく、それは私たちが非常に自己中心だからです。多くのクリスチャンもまた、なお自己中心にとらわれています。

彼らは自分の必要や欲望についてよく考えます。しかし、そうしたものにばかり心を向けるあまり、本当に満ち足りることができるお方のことを忘れてしまうのです──それは、イエス様です。

イエス様との関係こそが、真の満ち足りる秘訣です。すなわち、私たちはイエス様を知り、また、イエス様の復活の力を知ることなのです。

たとえさまざまな試練や苦しみを経験していても、私たちは日ごとに鏡をのぞく中で、自分のうちにイエス様の姿がだんだん映されているのを見ることができます。そしてまた日々、神様がなぜ私たちを選んでくださったのか、その理由が少しずつ分かるようになるのです。

パウロはそのすべてを完全に経験したわけではありませんが、おそらく多くの人々よりも深くそれをつかんでいたのでしょう。

だからこそ、試練の中にあっても、彼の喜びは奪われませんでした。物が乏しいときにも、イエス様にあって喜び、豊かなときにも、イエス様にあって喜んでいたのです。

日本では、「我慢」という言葉がよく語られます。苦しいときに耐え忍ぶことを、美徳として誇る傾向があります。しかし、私たちはしばしば自分の力に頼ってしまうために、結局のところ、もう耐えられないという限界に達してしまうのです。

けれども、パウロはただ「我慢」していたのではありません。彼はイエス様との関係を喜んでいました。だからこそ、どのような試練にあっても、パウロはそれを乗り越える力を持っていたのです。

あなたは、どうでしょうか。あなたの心には、満ち足りる思いがあるでしょうか。イエス様は、あなたの人生の中心におられるでしょうか。あるいは、満足を求めて、世のものばかりを追いかけてはいないでしょうか。

世のものは、あなたを本当には満たすことができません。イエス様との関係だけが、あなたの心に真の満足を与えるのです。

あなたの人生の中心は、いったい何でしょうか。

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ピリピ人への手紙

神の平安に生き、人との関係に平和をもたらす

前回の記事でも触れましたが、この箇所においては、パウロの議論の流れを読み取るのが少し難しく感じられます。

特に、第5〜6節は、理解が難しい部分です。

「主は近いのです。」という言葉は、「あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。」という勧めに繋がっているのでしょうか。

それとも、「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」という命令に繋がっているのでしょうか。

あるいは、この三つの言葉はすべて互いに繋がっているのかもしれません。「主が近い」という真理は、私たちの心のうちにも、私たちの関係にも、平和をもたらします。

いずれにしても、パウロはこう語りました

主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ人への手紙4:5b-7)

多くの場合、私たちは心配に負けてしまいます。たとえば、ユウオディアとシンティケのように、人間関係に問題があるとき、心配に陥りやすくなります。でも、それだけではなく、仕事や子ども、将来のことなど、私たちの心配はさまざまです。

そのような不安に圧倒されてしまうのは、決して珍しいことではありません。

では、どうすればよいのでしょうか。

「主が近い」という真理を覚えていましょう。私たちが問題や心配のただ中にあるときにも、主がともにおられることを、心に留めていましょう。イエス様があなたを深く愛しておられることを、忘れないでください。

さらにもう一つの意味で、主は「近い」のです。つまり、主はまもなく再び来られます。

その日、イエス様はあなたの涙をすべてぬぐい取ってくださいます。悲しみも、苦しみも、悩みも、すべて消え去り、私たちは永遠の平安のうちに歩むようになるのです。言い換えれば、私たちのすべての苦しみは一時的なものに過ぎません。

だから、パウロが語ったように、「何も思い煩わないでください」。むしろ、問題や心配に直面するときこそ、あなたを愛しておられる神様に祈りましょう。そうすれば、神様の平和があなたの心と思いを守ってくださいます。」

原語で「守る」と訳されている言葉は、軍事的な用語です。私たちの思いの中は、まさに戦場です。しかし、神様はどんな敵よりも強い方です。

私はエリシャの出来事を思い出します。彼が敵の軍隊に包囲されたとき、エリシャのしもべは恐れていました。それを見て、エリシャは、「神様、彼の目を開いてください」と祈ります。すると、しもべが再び目を上げたとき、彼は天の万軍に満ちた山を見るのです(列王記第二6章)。

エリシャは、その現実を見ていたからこそ、心に平安を保っていました。

けれども、私たちが心配に心をとらわれ続けるなら、その平安を味わうことはできません。

また、苦々しさや恨みを抱くなら、心は平和に満たされません。

だから、パウロはこう勧めています

最後に、兄弟たち。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。(8)

そうすれば、私たちの心は平安に満たされ、神様は私たちの関係の中に平和をもたらしてくださいます。 人間関係に問題があるとき、私たちはしばしば相手の欠点に目を向け、彼らの過ちを思い巡らします。

しかし、パウロは「そのようなことに心を奪われてはならない」と語ります。

むしろ、パウロはこう勧めます── 「すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いこと、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。」

何よりも、イエス様に心を向けてください。なぜなら、これらのすべての徳はイエス様にこそ当てはまるからです。

苦しみの時こそ、イエス様とパウロの模範に従いましょう。

そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。(9)

あなたの心には、神様の平安がありますか。もしかすると、あなたの心は、心配にとらわれ続けていませんか。あるいは、苦々しさや恨みを手放すことができずにいませんか。

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教会の一致を保つ(2)

パウロの議論の流れを読み取るのは、時に簡単ではありません。たとえば、第3節と第4節は、まったく異なる話題なのでしょうか?

あるいは、第3〜5節はひとつの流れの中にあるのでしょうか?

もしかすると、第3〜9節全体が繋がっているのかもしれません。

私にははっきりとはわかりませんが、おそらくパウロは、第4〜5節を書いたときも、まだユウオディアとシンティケのことを心に留めていたのではないかと思います。

そしてパウロは、こう語りました

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。主は近いのです。(ピリピ人への手紙4:4-5)

要するに、こういうことです──

「神様に焦点を当てなさい。これまであなたがたは自分自身に焦点を当ててきたために、プライドを捨てられず、この争いを解決することができなかったのです。だから、今こそ改めて神様に焦点を当てなさい。

イエス様があなたのために何をしてくださったかを思い起こしなさい。イエス様の十字架の御業を、もう一度、喜びなさい。

そして、イエス様の御業のゆえに、相手に対するあなたの態度を変えなさい。あなたがたの関係の中で、あなたがたの寛容が教会のすべての人に知られるようにしなさい。」

そしてパウロは、こう語ります。「主は近いのです。」

私たちは兄弟姉妹と争っているときこそ、この真理を思い起こすべきです──「主は近いのです。」

では、それはどういう意味なのでしょうか。

1.イエス様は、教会のただ中におられます。だから、私たちが争っている姿をご覧になると、イエス様は悲しまれます。神様との平和をもたらすために、そして兄弟姉妹との平和をもたらすために、イエス様はご自身のいのちを十字架に捧げられたのです。

であれば、どうして私たちは、イエス様の御前で争い続けるのでしょうか。

2.イエス様は、やがて再び来られます。イエス様はこの世に戻られ、私たちを新しい天と新しい地へと導かれます。けれども、もしイエス様が今日来られたとしたら、あなたに何を語られるでしょうか。「よくやった。良い忠実なしもべだ」とおっしゃるでしょうか。

あるいは、こう語られるかもしれません。

「なぜ、兄弟と争い、時間を無駄にしていたのですか。なぜ、姉妹と争い、心を苦くしていたのですか。私はあなたに多くの働きを任せましたが、あなたの怒りと苦々しさは、あなたの人間関係をふさぎ、この世に仕える妨げとなってしまいました。」

私たちが主の御前に立つとき、プライドと争いによって、どれほど恥じることがあるでしょうか。

主は近いのです。だから、私たちの関係において、平和を保ち、一致のために励みましょう。

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ピリピ人への手紙

教会の一致を保つ

パウロはこの手紙を書いていたとき、ユウオディアとシンティケの対立について、どれほど心を痛めていたことでしょうか。

彼女たちはかつて、パウロと共に福音のために働いた者たちであり、彼にとって愛する、かけがえのない姉妹でした。

しかし、この手紙を書いたとき、その二人の女性たちは争っていました。なぜ彼女たちが争っていたのか、私たちは知りません。

けれども、パウロは「ユウオディア、あなたが悪い。謝りなさい」とは言わず、「シンティケ、あなたが悪い。謝りなさい」とも言いませんでした。

むしろ、パウロはこう語りました。

ユウオディアに勧め、シンティケに勧めます。あなたがたは、主にあって同じ思いになってください。(ピリピ人への手紙4:2)

この手紙を通して一貫して語られている主題の一つは、教会の一致です。だからこそ、パウロはピリピの人々にこう語りました。

「あなたがたは霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにして、ともに戦っていなさい。」(1:27)

そしてパウロは、さらにこう語ります。

あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。。。キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。(2:2、5)

また、

すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。(2:14-16)

そして、第3章では、パウロは彼らにこう語りました。「自分の立場や実績に対するプライドを捨てて、イエス様に心を向けなさい。イエス様を知ることを、あなたの目当てとしなさい。あなたがたは御国の市民なのだから、そのように生きなさい。」

このように多くのことを語った上で、パウロはユウオディアとシンティケにこう勧めました。

「あなたがたのプライドを捨てなさい。争いを手放しなさい。互いに受け入れ合いなさい。そして、もう一度、福音のために力を合わせて仕えなさい。」

もしパウロが今日のクリスチャンたちを見たとしたら、私たちにもきっと同じ言葉を語ったのではないでしょうか。

今もなお、多くのクリスチャンたちは主を愛し、イエス様に仕えたいと願っていながら、自分のプライドのゆえに、他のクリスチャンたちと争っています。

私もパウロの痛みに共感します。なぜなら、私自身も教会の中で、そうした分裂を目の当たりにしてきたからです。

このような問題を見たとき、私たちはただ黙って見過ごし、状況が悪化するのを許すことはできません。パウロはこう語りました

そうです、真の協力者よ、あなたにもお願いします。彼女たちを助けてあげてください。この人たちは、いのちの書に名が記されているクレメンスやそのほかの私の同労者たちとともに、福音のために私と一緒に戦ったのです。(4:3)

その「真の協力者」がだれだったか分かりませんけど、パウロはその人に言いました。「この二人の姉妹たちが和解するように助けてください。どうか、何とかしてください。」

でも、和解をもたらさずに、多くのクリスチャンたちは、二つに分かれてしまいます。または、あるクリスチャンたちはそのことについて噂を広めます。でも、教会の一致を保ちたいと思うなら、そんなことをしてはいけません。

むしろ、パウロは私たちにこう言います。

平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。(エペソ4:3)

あなたは、そのように歩んでいるでしょうか。

それとも、自分のプライドのせいで、相手と和解することを拒んでいるでしょうか。たとえ相手があなたを傷つけたとしても、あるいはあなたが相手を傷つけたとしても、できる限り和解を目指すべきです。

兄弟姉妹が争っているとき、あなたは平和をもたらそうとしているでしょうか。それとも、片方の味方についてしまっているでしょうか。

あいにく、多くの人は争いを解決しようとしません。むしろ、争いを放置した結果、やがてそれが爆発し、当事者の一人、あるいは両者ともが教会を離れてしまうのです。しかし、そのような結果が、イエス様に栄誉を帰すものでしょうか。

教会はイエス様に栄光を現し、この世にイエス様がどのようなお方であるかを示すべき存在です。けれども、教会の中に亀裂があれば、私たちはその使命を果たすことができません。

あなたは、教会に生じたその亀裂の一つとなっているでしょうか。それとも、もしかしたら、その亀裂を修復する者なのでしょうか。

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ピリピ人への手紙

御国の市民として歩む

私が以前述べたように、ピリピ人たちはローマ市民であることを、大きな誇りとしていました。

現代においても、多くの人々は自分の国籍に誇りを持っています。

しかし、今日の箇所において、パウロは私たちに私たちの本当の国籍を思い出させてくれます。

しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。(ピリピ人への手紙3:20)

そしてパウロは、私たちに、キリストにあって与えられている私たちの運命を思い出させてくれます。

キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。(3:21)

簡単に言えば、この世は私たちの本当の家ではありません。そして、私たちの運命は、死んで朽ち果てることでもありません。むしろ、私たちには、はるかに素晴らしい運命が与えられています。

だから、パウロはこう言いました。

兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。(3:17)

パウロは、自分の模範だけでなく、テモテやエパフロデトの模範についても語っていました。そして彼は、ピリピ人たちにこう言いました。「私たちの模範に従いなさい。私たちは自己中心ではなく、キリスト中心です。あなたがたも、そのような態度を取るべきです。」

そのような態度は、ピリピのクリスチャンたちの周囲の人々とは、まったく異なるものでした。

そして今日、私たちの周囲の人々も、決してそのような態度を取ってはいません。むしろ、

多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいる。。。その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。(3:18-19)

そのような人々は自己中心であり、この世のものを求めています。けれども、彼らの結末は滅びです。

イエス様が私たちを救ってくださったのは、そのような生き方をするためではありません。むしろ、イエス様を知り、イエス様のように変えられていくためなのです。そして、イエス様が私たちのうちに住み、導いてくださるにつれて、私たちは本当の命を知るようになります。

また、私たち皆、すなわちキリストの教会は、御国の市民として歩むにつれて、この世にイエス様の光を放つようになります。

だから、パウロはこの教えをこのように締めくくります。

ですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。このように主にあって堅く立ってください。愛する者たち。(4:1)

あなたは、そのような生き方をしているでしょうか。自分自身やこの世のものに心を奪われず、キリストを中心とした生き方をしているでしょうか。

あなたの最も深い願いは、イエス様を知ることですか。周囲の人々があなたの人生を見るとき、イエス様をあがめるようになることを、あなたは願っていますか。

そのような生き方こそが、真の喜びと真の命へと導きます。けれども、もし自己中心の態度を持ち続けるならば、真の喜びと命を見出すことはできません。

あなたがクリスチャンであるならば、あなたは御国の市民です。あなたは御国の市民として、ふさわしく歩んでいますか。

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ピリピ人への手紙

目標を目指して走ろう

私の人生を振り返ると、キリストに似る者となるために、私はどれほど変わらなければならないかを痛感します。

結婚すると、特にクリスチャンの男性たちは、その現実に気づかされるのではないでしょうか。教会に対するキリストの愛に比べると、妻に対する自分の愛の未熟さに気づかされるのです。

ですから、パウロが「私はまだ神の目的を成し遂げていない」と言うとき、私は深く共感します。

実際、自分の歩みを見つめると、落胆するのは簡単です。

けれども、私はパウロの言葉にしがみついています。

私は、(つまり、キリストの義や、キリストの復活の力などを)すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。(ピリピ人への手紙3:12)

パウロの次の言葉も、私は好きです。

そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。(12b)

ある英語の翻訳が、私は好きです。「キリストは、私を捕らえ、自分のものにしました。」

そのことを聞いて、私は慰められます。なぜなら、私はキリストに受け入れられるために努力する必要がないからです。イエス様はすでに私を御自分のものとされました。私はイエス様に属しています。だから、たとえ私が失敗しても、イエス様が私を拒絶する恐れはありません。

だからこそ、私は前に進もうと励みます。神様に受け入れられるためではなく、すでに私がキリストにあって持っているものを、実際に経験するためです。すなわち、イエス様の義、イエス様の苦しみ、イエス様の死、そしてイエス様の復活です。

その中でも、とりわけ私はイエス様との関係を経験したいのです。イエス様が私を知っておられるほどに、私もイエス様を知りたいのです。

だから私は、たとえ失敗しても、つまずいても、パウロのように言うことができます。

兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。

ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。(13-14)

私は、自分の失敗をくよくよしたくありません。そうすると、絶望してしまうからです。

かといって、自分の勝利を祝いすぎたくもありません。そうすると、自己満足に陥ってしまうからです。

むしろ私は、毎日「賞」に照準を合わせて、走りたいのです。毎日、神様が備えてくださったことを正しく理解し、私のための神様の計画に従って生きたいのです。

パウロによれば、私たち皆がそのように考えるべきなのです。

ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。

もしも、あなたがたが何か違う考え方をしているなら、そのことも神があなたがたに明らかにしてくださいます。ただし、私たちは到達したところを基準にして進むべきです。(15-16)

あなたは、自分が大人だと思っているかもしれません。しかし、あなたはまだ成長の途中にあります。だから、走り続けましょう。

あなたは、自分が失敗者だと思っているかもしれません。しかし、神様はすでにあなたをご自分のものとして受け入れてくださいました。だから、走り続けましょう。

今、あなたがどこにいたとしても、決して後戻りしてはいけません。

むしろ、すでに到達したところを基準として、さらに前へ進むべきです。そして、自分の力ではなく、あなたのうちに住んでおられる聖霊様の力によって、走り続けましょう。

あなたは、そのように歩んでいますか。

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ピリピ人への手紙

キリストの模範に従う(2)

数日前、私は「イエス様の模範に従うこと」についてお話ししました。

ピリピ人への手紙3章では、パウロは自分自身について語っていますが、2章の内容を踏まえて読むとき、彼の言葉をまったく別の視点から見ることができるように思います。

そこで、パウロの言葉に耳を傾けてみましょう。

「しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。」(ピリピ人への手紙3:7)

クリスチャンになる前、パウロは自分がユダヤ人であること、 そしてパリサイ人であることを誇っていました。

また、彼は律法を忠実に守ろうとする努力そのものを誇りとしていたのです。

しかし、クリスチャンとなったとき、パウロはキリストのゆえに、そのような誇りをすべて捨てました。

それだけではなく、イエス様との関係と比べて、パウロはこの世のすべてのものを、価値のないものと見なしたのです。

イエス様を得、イエス様の義に包まれたいという願いのために、 彼はそれらを「ちりあくた」と見なしました(3:8〜9)。

そして、パウロの主な願いは、イエス様とその復活の力を知り、 イエス様の苦しみにあずかり、キリストの死と同じ状態にまで達することでした。

最終的には、イエス様と共に復活させられることを熱く望んでいたのです(3:10)。

それと同じように、イエス様もまた、私たちのために、ご自身にとって益であったすべてのものを、損と見なされました。

私たちとの関係と比べると、イエス様は、天にあるご自身の栄光さえも、価値のないものとされたのです。

私たちを得て、ご自身の義によって私たちを包むために、イエス様は、天のすべてのものを“ちりあくた”と見なされたのです。

イエス様の望みは、私たちがイエス様とその復活の力を知り、 イエス様の苦しみにあずかり、イエス様の死と同じ姿にあずかって、ついには栄光のうちに復活することです。

そのゆえに、イエス様は十字架へと進み、苦しみを受けられました。

それならば、私たちもイエス様のために、同じ道を歩むべきではないでしょうか。イエス様が私たちのためにすべてを捨てられたのだから、私たちもまた、イエス様のためにすべてをささげるべきではないでしょうか。

さあ、日々、イエス様の模範に従って歩みましょう。

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ピリピ人への手紙

私たちの目当て

クリスチャンとして、私たちは間違ったものに心を奪われやすいものです。

たとえば、多くのクリスチャンが、仕事やお金、持ち物や結婚のことに心を向けています。これらはそれ自体として悪いものではありませんが、それらばかりに気を取られてしまうのは、実に簡単なことです。

また、ある人たちは「クリスチャンとしてのルール」や、「どうすれば「良い」クリスチャンになれるか」といったことにばかり集中してしまいます。そのようになれば、私たちはクリスチャン生活の本質を見失ってしまうかもしれません。

今日の箇所で、パウロはこの問題について、はっきりと私たちに警告しています。彼はピリピの人々にこう語ったのです。

犬どもに気をつけなさい。悪い働き人たちに気をつけなさい。肉体だけの割礼の者に気をつけなさい。(ピリピ人への手紙3:2)

では、パウロは何について語っているのでしょうか。おそらく、彼はモーセの律法に従うことをピリピの信者たちに求めた、ユダヤ人のクリスチャンたちについて語っているのです。

彼らの主張によれば、クリスチャンとなるためには、ピリピの人々も割礼を受け、その他の律法の命令に従う必要があるというのです。

しかしパウロは、そうした人々を「犬ども」と呼びました。ユダヤ人社会において「犬」とは、異邦人をさげすむ言葉でした。 実際、当時ユダヤ人たちは異邦人を「犬」と呼んでいたのです。

けれどもパウロは、こう言い切ります。「異邦人たちではなく、あなたがたこそ犬どもです。」

そして彼は、さらに続けてこう語ります。

神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです。(3)

旧約聖書では、神様は何回もイスラエルの民に語られました。 「肉体的な割礼よりも、あなたの心が割礼されるように望みます。」(申命記10:16、30:6;エレミヤ4:4)

実は、私たちがクリスチャンになるとき、私たちの心が割礼されます。聖霊の働きによって、私たちの心は神様のものになります。

エゼキエルはその真理をこのように説明しました。

あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。(エゼキエル書36:26)

ところが、あるユダヤ人のクリスチャンたちは、すべてのクリスチャンが割礼を受け、モーセの律法を完全に守らなければならないと主張していました。そのため彼らは、自らのユダヤ人としての身分に強くこだわり、律法によっていかに義とされるかに焦点を当てていたのです。

しかし、パウロはピリピの人々にこう語ります。「彼らの目指しているものは、根本的に間違っています。」

実を言えば、パウロ自身は彼ら以上に、ユダヤ人としての身分や、自分の行いによる義について誇ることができたのです(3:4〜6)。

けれども彼は、それを誇ることなく、次のように語ります。

しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。

それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。

私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、キリストにある者と認められるようになるためです。

私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。

私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。(9-11)

簡単に言えば、パウロはこう語っています。

「私は、もはや自分自身に集中していません。律法によってどうすれば義とされるかにも目を向けていません。宗教的なルールにこだわっているのでもありません。

それらすべてを、私は「ちりあくた」と考えています。(原語の表現では、「それらはフンにすぎない」という意味です。)

むしろ、私はただ一つのことに心を向けています——それは、イエス・キリストご自身です。」

イエス様をもっと深く知りたいのです。イエス様と一つに結ばれたいのです。

自分の義ではなく、イエス様から与えられる義を求めています。 なぜなら、私自身の義は、神様の目には到底ふさわしくないからです。

自分の力ではなく、イエス様の力を知りたいのです。イエス様の苦しみにあずかるほどに、主との交わりを深めたいのです。

私は、イエス様と共に死にたいのです。つまり、聖霊様の力によって、自分の罪深い心を十字架にかけたいのです。

私は、聖霊様の力によって、イエス様と共に復活し、新しいいのちを知りたいのです。

イエス様…イエス様…イエス様…イエス様。私のただひとつの目当ては、イエス様を知ることなのです。

多くのクリスチャンの問題は、イエス様にではなく、自分自身に集中してしまうところにあります。

その結果、彼らは疲れてしまいます。信仰が重荷になり、神様を喜ばせようとする努力がむなしく終わってしまう中で、イエス様への愛はだんだんと冷めていきます。

イエス様ではなく、ほかのものに心を奪われていたとしたら—— どうしてイエス様との愛の関係を築くことができるでしょうか。

あなたはどうでしょうか。今、あなたの心は何に向かっているでしょうか。

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キリストの模範に従う

パウロは、ピリピの人々にイエス様の模範に従うべきことを語ったあと、その模範を具体的に生きている二人の人物を、例として挙げました。

まず、テモテについてパウロはこう語ります。

テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、だれもいません。みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません。

しかし、テモテが適任であることは、あなたがたが知っています。子が父に仕える仕えるように、テモテは私とともに福音のために奉仕してきました。(ピリピ人への手紙2:20-22)

その前に、パウロはピリピの人々にこう勧めていました。

それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。(4)

そして、パウロはピリピの人々にこう語ります。「テモテこそ、そのような人物です。多くの人々は自分自身のことに関心を向けて生きていますが、テモテは違います。

彼はイエス様の模範に従い、あなたがたのことを心から案じているのです。さらに、彼は福音のために、私と共に忠実に仕えてきました。」

その後、パウロはエパフロディトという人物を称えます。どうやらピリピの教会は、パウロの働きを助けるために、彼を遣わしたようです。

けれども、彼がパウロと共に仕えている間、重い病にかかり、死にかけるほどでした。

そこでパウロは、エパフロディトをピリピに帰らせる決断をします。

しかし、ピリピの人々が彼を「失敗者」として見ないようにと願い、パウロは彼を「私の兄弟、共に働く者、そして戦友」と呼びました。

さらに、パウロはこう語るのです。

ですから大きな喜びをもって、主にあって彼を迎えてください。また、彼のような人たちを尊敬しなさい。

彼はキリストの働きのために、死ぬばかりになりました。あなたがたが私に仕えることができなかった分を果たすため、いのちの危険を冒したのです。(29-30)

イエス様が、天の父のみこころに従ってご自身の命を喜んでささげられたように、エパフロディトもまた、そのように歩みました。

だからこそ、パウロはこう語ります。「エパフロディトのような人々を尊びなさい。あなたがたは、彼の模範に従うべきなのです。」

私たちもまた、彼のように歩むべきです。

では、あなたはどうでしょうか。あなたは、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みているでしょうか。それとも、気づかないうちに、自分の最善だけを求めて生きてしまってはいないでしょうか。

あなたは、自分自身のために生きているでしょうか。それとも、神のみこころに喜んで従い、自分のいのちさえ差し出す覚悟をもって歩んでいるでしょうか。

もちろん、神はあなたに、福音のために命をささげるように召しておられないかもしれません。けれども、もしかしたら、あなたに会社を辞めるように導かれることがあるかもしれません。あるいは、あなたを他国へ宣教師として遣わされることがあるかもしれません。

そのとき、あなたはどう応えるでしょうか。

テモテとエパフロディトの模範に従おうとするでしょうか。けれども、それ以上に、イエス様ご自身の模範に従おうとするでしょうか。

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ピリピ人への手紙

光として輝く

聖書に章と節があることは、ある意味では大きな助けです。そのおかげで、特定の聖書箇所をすばやく見つけることができます。

しかし一方で、章と節の番号が、著者の議論の流れを妨げてしまうこともあります。その番号のせいで、私たちは著者が新しい話題に移ったと勘違いしてしまうことがあるのです。

今日の箇所でも、そのような誤解が起こりうるかもしれません。

この記事を書き始めたとき、私は当初、2:12〜18の内容だけを取り上げようと考えていました。けれども、途中で気づいたのです。それだけを取り出して扱ってはいけない、と。

なぜなら、パウロはここでも前のテーマを続けて語っているからです。 つまり、私たちが「福音にふさわしく生活する」ということです。

そのときパウロが強調しているのは、私たちが「一致を保つこと」を通して、福音にふさわしく生きるということです。そして、その一致を保つために、私たちはイエス様の模範に従うべきなのです。

イエス様は、私たちを救うために、この世においてご自身の願いや必要を脇に置き、十字架の上でご自身の命をささげてくださいました。

そしてその真理を語ったあと、パウロはこう語ります。

こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。

神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。(ピリピ人への手紙2:12-13)

多くの場合、私たちはこの言葉を読むとき、自分自身に当てはめて考えます。「私はそうするべきだ」と受け取るわけです。

けれども、パウロが語っているのは、教会という家族に対してです。

「あなたがたは、恐れおののきつつ、自分の救いを達成するよう努めなさい。神は、みこころのままに、あなたがたのうちに志を立たせ、事を行わせてくださる方です。」

要するに、イエス様のいけにえによって、天の父は「あなたがた」に救いを与えてくださいました。だから、その救いを生かしましょう。神様は、今もあなたがたのうちに働いておられます。 神様は、御心にかなう志をあなたがたに与えてくださったのです。

それゆえに、教会として、あなたがたは神様の目的を果たすように歩むべきなのです。

けれども、もし私たちが絶えず争っているとすれば、その目的を全うすることはできません。

だからこそ、パウロは私たちにこう語るのです。

すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。

そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。

こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよすべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。

それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。

そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。(2:14-16)

教会の人々が互いに争っている姿を見れば、世の人々はこう思うかもしれません。「結局、クリスチャンも私たちと何も変わらない。」

けれども、もし彼らが、互いに愛し合い、仕え合う教会の姿を目にしたとき、また、不平を言わず、疑わずに喜んで歩んでいる人々を見たとき——そこに、輝く光があるのです。

すると、その人は心の中でこう思い始めます。「なぜ、クリスチャンは私とあんなにも違っているのだろう。私もあのような人になりたい。」

だからこそ、パウロはピリピの人々にこう語りました。「私の願いは、あなたがたが光として輝くことです。あなたがたがそのように歩むなら、私はキリストの御前に立つとき、喜びと誇りをもって、あなたがたが何者となったかを指し示すことができるのです。」

そしてパウロは、この箇所の締めくくりとして、彼らへの深い愛を語ります。

たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。(17)

要するに、パウロはこう語っているのです。

「あなたがたに仕えることは、私にとって重荷ではありません。 むしろ、あなたがたと同じように、私も自分の救いを達成するように努めているのです。そして、神があなたがたのうちに働いておられる姿を見るとき、私は心から喜びます。

ですから、福音のために私が牢に入っていることを悲しまないでください。むしろ、私と共に喜んでください。私たちが共に働き、喜び合うとき、この世界は私たちのうちにある光を見ることになるのです。」

あなたはどうでしょうか。これが、あなたの態度になっているでしょうか。神様があなたの中だけでなく、周りの兄弟姉妹の中でも確かに働いておられることを、あなたは見ているでしょうか。

あなたがたが協力し、一致をもって歩んでいる中で、神様がご自身の目的を果たしておられるのを見ているでしょうか。

あなたがたが共に光を輝かせているゆえに、人々はその良い行ないを目にし、天の父をあがめているでしょうか。

それとも、彼らがあなたがたを見るとき、常に争っている人々の姿を見ているのでしょうか。

私たち皆が、教会として、恐れおののきながら自分の救いを達成するよう努める者となりますように。そして、私たちを通して、周囲の人々が――彼らを愛し、彼らのためにご自身の命をささげられた主を知ることができますように。

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ピリピ人への手紙

福音のメッセージ

前回の記事では、私たちが「福音にふさわしく生活するべき」だということを学びました。でも、そもそも「福音」とは何でしょうか。

パウロは2章で、その福音をはっきりと語ります。福音は、イエス様ご自身についてのメッセージです。つまり、

キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。(6-8)

少し想像してみてください。イエス様は、神のあり方そのものを持っておられました。けれども、こうは言いませんでした。 「私は天の父と御霊と等しくあられる存在なのに、なぜ私が地上へ行き、この反抗的でみじめな民のために死ななければならないのか。」

むしろ、イエス様はご自身を空しくされました。神として栄光にふさわしいお方であり、その栄光を実際に持っておられたにもかかわらず、その栄光を手放し、人となられたのです。

さらに、イエス様はこの世に来るとき、人間の王としてではなく、貧しい家庭にお生まれになり、大工として歩まれました。

それだけでなく、神としてイエス様にはご自身の思い通りに生きる権威がありましたが、そうはされませんでした。むしろ、畏れをもってしもべの姿を取り、天の父の御心に従われました。

そして、天の父が「この世のためにあなたが死ぬ時が来た」とおっしゃったとき、イエス様はこう応えられました。「わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」

なぜ、イエス様は天の父の御心に従われたのでしょうか。それは、イエス様が天の父を深く愛しておられたからです。

その愛ゆえに、イエス様はご自身がふさわしいとされるものを捨て、十字架の上で辱めを受け、命を捧げられました。

けれども——福音の物語は、そこでは終わらないのです。

パウロは、さらに続けてこう語ります。

それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。(ピリピ人への手紙2:9-11)

天の父は、イエス様をただ復活させられただけではなく、かしらとして、また支配者として、すべてのものの上に置かれました。

そしてある日、救われたすべての人々が、ひざまずいて礼拝し、 「イエス・キリストは主です」と喜びをもって告白する時が来ます。

その日、私たちは、しみやしわ、またそのようなものが何一つない、聖く、傷のない存在として完成された、栄光に満ちたひとつの教会となり、父なる神に栄光を帰すのです。

パウロは語ります——私たちはこの福音にふさわしく生活すべきなのです。イエス様が私たちのためにこれほどまでにしてくださったのなら、私たちがその模範に従って生きることは、まことにふさわしい応答ではないでしょうか。

だからこそ、パウロはこう語ったのです。

キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。(5)

私たちはイエス様と一つにされました。ですから、イエス様の模範に従って生きるべきではないでしょうか。たとえ周囲の人々が私たちを拒んだとしても、私たちはその人たちに対して、キリストの愛とあわれみをもって応えるべきです。

もし私たちが、やがて共にイエス様を主として礼拝する日が来るのだとすれば、今この時にも、互いに愛し合い、御国のために共に働くべきではないでしょうか。

さらに、私たちは自己中心的な思いを捨て、兄弟姉妹を自分よりもすぐれた者として敬い、イエス様が私たちのためにご自身の命を捨てられたように、兄弟姉妹のために自分の命をも差し出す者とされるべきです。

あなたはどうですか。あなたは、この福音を信じておられるでしょうか。そして、その福音によって、生かされているでしょうか。

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福音にふさわしく生活する

今日のタイトル「福音にふさわしく生活する」と聞くと、どんなことを思い浮かべるでしょうか。自分の信仰を周囲の人に伝えることでしょうか。あるいは、清く正しい生活を送ることでしょうか。もちろん、私たちはそのように生きるべきです。

しかし、おそらくパウロがこの言葉を書いたとき、彼の心にあったのは別の視点だったのではないでしょうか。

彼はこう記しています。

ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい。(ピリピ人への手紙1:27a)

おそらく、パウロが最も強調していたのは、他のどのことよりも「教会の一致」だったのではないでしょうか。

原語を見ると、「ふさわしく生活する」という表現には、「市民としてふさわしく生きる」という意味合いが含まれています。

ローマ帝国の中で、ピリピ人たちは高い市民権を持っている者たちでした。彼らには土地を所有する特権があり、特定の税金を免除される立場にもありました。そのため、ローマ市民としての地位に誇りを持っていたのです。

けれども、パウロは彼らにこう語りました。

「あなたがたはローマ帝国の市民であることに誇りを持っているかもしれない。しかしそれ以上に、神の御国の市民として誇りを持ちなさい。そして、御国の市民にふさわしく歩みなさい。その中で、他の市民たちと心を一つにして歩みを続けなさい。」

なぜ、そう生きるべきなのでしょうか。

そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。

あなたがたは霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦っていて、どんなことがあっても、反対者たちに脅かされることはない、と。(27b-28a)

パウロはピリピの信徒たちにこう警告しました。「あなたがたに反対してくる者たちが、確かに現れます。」

だから、パウロは彼らにこう語ったのです。

あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。

かつて私について見て、今また私について聞いているのと同じ苦闘を、あなたがたは経験しているのです。(29-30)

その言葉は、どこか不思議に聞こえるかもしれません。「あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。」

けれども、使徒たちはまさにそのように苦しみを受け止めていました。彼らは苦しみを、主のために喜ぶ機会と見なしていたのです。

たとえば、使徒の働き5章では、彼らは福音を語ったことのゆえに鞭で打たれましたが、それにもかかわらず喜びにあふれました。パウロもまた、苦しみの中にありながら、この手紙の中で喜びを語っています。

なぜ、パウロはそんな状況でも喜ぶことができたのでしょうか。

使徒たちは、御名のために辱められるに値する者とされたことを喜び(ました)。(使徒5:41)

ですから、「福音にふさわしく生活する」ということの一つの意味は、イエス様のために苦しむことだと言えるでしょう。

ただ注目すべきなのは、私たちが個人として苦しむということ以上に、パウロはクリスチャンたちが共にその苦しみを経験するという点を語っていることです。

パウロによれば、信徒たちが霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにして共に戦い、そしてどんなことがあっても反対者たちに脅かされないとすれば、それは反対者にとっての「裁きのしるし」であり、ピリピの信徒たちにとっての「救いのしるし」なのです。

言い換えると、反対者たちはピリピの人々のイエス様に対する愛、そして彼らが互いに示している愛を目にし、そこに彼らが受けた命の実在を見いだします。そしてその命の現実に触れたとき、自分たちの心が死によって支配されていることに気づかされるのです。

では、反対者たちは具体的に何を見たのでしょうか。

キリストにあって励ましを受けている人たち。試練の中で愛の慰めを受けている人たち。御霊の導きと力によって歩んでいる人たち。敵に対しても愛とあわれみを示し、また、他のクリスチャンたちに対しても愛とあわれみに満ちている人たち。

同じ思いを持ち、同じ愛の心を抱いている人たち。心を合わせ、思いを一つにしている人たち。

利己的な思いや虚栄からではなく、謙遜をもって歩んでいる人たち。互いを自分より優れた者と思い、自分のことだけでなく、他の人のことも顧みている人たち。(ピリピ人への手紙2:1ー4)

これこそ、「福音にふさわしく生活する」ということなのです。

私たちは、そのように生きているでしょうか。個々のクリスチャンとしてだけでなく、教会として、共にその姿を現しているでしょうか。

もし、教会の人たちが単なる個々のクリスチャンとして、それぞれ自分のために仕えるなら、教会はこの世に大きな影響を与えることはできないでしょう。

だからこそ、自分を「単なる個人の信者」としてではなく、 「御国の市民」として生き始めましょう。互いに愛し合い、仕え合っていきましょう。

十字架で死なれる前、イエス様はこう祈られました。

わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。

父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。。。

わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。(ヨハネ17:20-21、23)

その祈りを、いつも心に刻んで歩んでいきましょう。

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イエス様があがめられるように

私にとって、死はまだ遠い将来のことのように思えます。

一方で、パウロがこの手紙を書いたとき、彼は自分がすぐに殺されるかもしれないと感じていました。裁判でネロが彼を釈放するだろうという確信は持っていたものの、それは決して確実ではありませんでした。

だから、パウロはこう言ったのです。

私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。(ピリピ人への手紙1:20)

生き続けようと、処刑されようと、パウロは平然としていました。パウロにとって何よりも大切だったのは、自分が生きていても、死んでも、キリストがあがめられることでした。

そのために、彼は生きている間、自らの人生を通してキリストに栄光を帰すよう努めていました。また、たとえ自分が死ぬとしても、その死によって神様に栄光をおささげしたいと願っていたのです。

私たちもまた、そのような姿勢を持つべきです。日々、私たちはキリストの栄光のために生きるよう招かれています。

それでも、その考えがまったく思い浮かばない日も少なくありません。むしろ、私たちは仕事や日常のこと、悩みばかりに心を奪われがちです。この世のことにばかり焦点を当てると、イエス様に関する思いは自然と遠のいてしまいます。

けれども、私たちはそのように生きるべきではありません。むしろ、私たちはパウロのような姿勢を取るべきなのです。

私にとって生きることはキリスト(です)。(21a)

あなたは、それを自分の口で言えるでしょうか。あるいは、あなたは他の何かのために生きているのではないでしょうか。

もしかすると、あなたは自らの死に直面しているかもしれません。その時、あなたはどんな姿勢を持つでしょうか。パウロのように、あなたはこう言えるでしょうか。

死ぬことは益です。(21b)

この世に生かされていることは神様の賜物であり、日々は私たちが神様に栄光を帰すための機会です。

それでも、パウロのように、あなたは天がはるかに良いところであると確信しているでしょうか。

そして、あなたもまた板挟みの思いを抱いているでしょうか。つまり、この世でイエス様に仕え、人々に触れたいと願う一方で、天においてイエス様と共にいたいという思いも持っているでしょうか。

もしかすると、あなたはこの人生にしがみつき、自分のために生きているのかもしれません。それゆえに、死を恐れているということはないでしょうか。

ところが、死を恐れる必要はありません。

自分のために生きることをやめ、イエス様を信じてください。

あなたの罪の赦しのために、イエス様は十字架で死んでくださいました。しかし、それだけではなく、イエス様は死に打ち勝ち、力強く復活されました。

そしてイエス様は、こう約束しておられます——「わたしが生き、あなたがたも生きることになる。」(ヨハネ14:19)

あなたの人生をイエス様にささげるなら、あなたは本当のいのちを知ることができます。

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喜ぶことを選ぶ

パウロは福音のためにさまざまな困難を経験したので、もし彼が愚痴をこぼしていたとしても、驚くには値しないでしょう。

もしかすると、弱さの中で、彼はぼやいたこともあったかもしれません。しかし、パウロに関する記録や彼自身の手紙の中で、彼が不平を言ったという描写は見当たりません。むしろ、彼は喜んでいました。

主から与えられる喜びは、本当に不思議なものです。その喜びは状況に左右されるものではなく、神様との関係から生まれる実なのです。だからこそ、どのような状況にあっても、その喜びは私たちの心の奥から湧きあがってきます。

使徒の働き16章には、その一例が描かれています。パウロとシラスは逮捕され、牢に投げ込まれました。彼らが鞭で打たれ、足かせにつながれたとき、彼らはどのように反応したでしょうか。 彼らは賛美歌を歌い、祈りをささげていたのです。

そして、ローマの牢でも、パウロは同じことをしていました。

親衛隊たちは、パウロを見るときっと驚いたことでしょう。多くの囚人たちは、うめいたり、文句を言ったり、絶望して静かに泣いたりしていました。

しかし、親衛隊の交代の時間になって、彼らがパウロを見ると、彼は彼らに明るく挨拶し、賛美歌を歌い、福音を語っていたのです。そのため、親衛隊の誰もが、パウロがただの囚人ではないことをすぐに悟りました(13)。

もしかすると、ある親衛隊たちはクリスチャンになったかもしれません。

さらに、牢の中でパウロが大胆に福音を語ったその模範によって、他のクリスチャンたちもまた、大胆に福音を語り始めました。

中には、「パウロが牢にいるのだから、私が頑張って、代わりに福音を伝えなくては」と思った人たちもいたことでしょう。

残念なことに、他の人々の動機はあまり純粋ではありませんでした。もしかすると、彼らはパウロの群れを奪おうとしていたのかもしれません。

しかし、人々の動機がどうであれ、パウロは喜んでいました。 なぜなら、サタンは福音の広がりを止めようとしましたが、それにもかかわらず福音は進み続けたからです。

少し考えてみてください。もしパウロが常に愚痴をこぼしていたとしたら、どうなっていたでしょうか。もし彼が「自分はかわいそうだ」と思っていたなら、どうなっていたでしょうか。

おそらく、彼は徐々に絶望に陥り、他のクリスチャンたちも落胆していたことでしょう。

けれども、パウロは喜びを選んだので、彼は試練を乗り越え、神様は栄光を受けられました。

あなたはどうでしょうか。どのような苦しみを通過しているでしょうか。どんな状況であっても、あなたはパウロのように「喜ぶこと」を選ぶでしょうか。それとも、「私かわいそうパーティー」を開いてしまうでしょうか。

もし私たちが喜ぶことを選ぶなら、その苦しみを乗り越え、神様は栄光をお受けになります。

しかし、文句ばかり言っていると、あなたは重たい足どりで絶望のぬかるみをさまようことになるでしょう。

あなたは、どちらを選びますか。

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神様が私たちのうちで行っておられること

パウロはいろんな試練を経験していましたが、この手紙の中には、彼の喜びがあふれています。おそらく、パウロはこの手紙をローマの牢獄から書いたのでしょう。それにもかかわらず、私たちは何度も「喜び」や「喜ぶ」という言葉を目にします。

パウロが喜んでいたことの一つは、ピリピのクリスチャンたちの中に見られる神様の働きでした。ピリピの教会は、ヨーロッパで最初に生まれた教会です。

パウロがピリピを訪れたとき、リディアという裕福な女性に出会いました。彼女は神様を敬っていましたが、イエス様のことはまだ知りませんでした。しかし、パウロがリディアとその家族に福音を語ったとき、彼らは信じて救われました(使徒の働き16:11-15)。

けれども、ピリピでの宣教は平穏ではありませんでした。パウロはさまざまな困難に直面し、逮捕され、牢に入れられます。それでも、神様はその中で確かに働いておられました。看守とその家族までもが、パウロを通して救われたのです(使徒の働き16:16-40)。

それは、ピリピの教会にとっての原点でした。そして彼らは、パウロの宣教活動を経済的に支える教会のひとつとなったのです。

彼らが福音の働きに共に携わる中で、パウロは彼らの間にある神様の良い働きを見ることができました。だからこそ、パウロはこう書いたのです。

あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。

あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。(ピリピ人の手紙1:4-6)

キリストの福音の驚くべきことのひとつは、救いが最初から最後まで恵みによるものであるということです。

私たちがまだ神様のことを考えてもいなかったときに、神様は私たちを救うために手を伸ばしてくださいました。そして恵みによって、神様は私たちを罪という不潔な穴から引き上げ、十字架で流されたイエス様の血によって清めてくださったのです。

しかし、救いはそれだけでは終わりません。神様は「あなたを清めましたよ。あとは自分の力で頑張ってね」と告げて私たちを放っておかれることはありません。

むしろ、今もなお、神様は私たちのうちで働いておられます。 そして、イエス様がこの世に戻られるその日まで、神様は私たちのうちで働き続けてくださるのです。その日、イエス様は私たちを完成へと導いてくださいます。

では、神様はどのように私たちのうちで働かれるのでしょうか。 パウロが私たちにそのことを教えてくれています。

私はこう祈っています。あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。

こうしてあなたがたが、キリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。(9-11)

パウロが祈っているのは、愛の実、つまり、神様に対する愛と人々に対する愛が、私たちの人生に豊かに実ることです。

では、その実はどのように成長するのでしょうか。それは、私たちが神様とその愛の素晴らしさを深く知れば知るほど、愛もまた大きく咲き広がるからです。神様への愛も、隣人への愛も、共に成長していきます。

このようにして愛の実を結び始めるとき、私たちは神様のご計画を少しずつ知るようになります。そのとき、私たちは「良い」だけでなく、「最も良いもの」を選び取るようになります。そして私たちの人生には、神様の義の実が次々と結ばれていくのです。

けれども、ここでパウロの言葉に目を向けましょう。その義の実は、私たち自身の努力によって結ばれるわけではありません。 私たちはイエス様に繋がっていなければならないのです。だからこそ、イエス様はこう言われました。

わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。(ヨハネ15:5)

では、この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

第一に、自分の罪を見ても、落胆しないでください。神様はあなたのうちに良い働きを始めてくださいました。その働きは十字架において始まりました。そして神様があなたを呼ばれたとき、あなたはその御声に応えて神様のもとに来ました。

それだけではありません。あなたが完成へと導かれるその日まで、神様は絶えず働き続けてくださいます。

第二に、私たちはイエス様に繋がるべきだということです。それこそが、あなたの人生が変わる鍵です。その鍵とは、あなたの努力や自制だけではありません。その鍵とは、イエス様があなたのうちに住んでおられるという事実なのです。

そして、イエス様の働きによって、神様の栄光はあなたの人生に現れ、あなたは真の喜びを知るのです。