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ペテロの手紙第二

この世界は永遠に続くことはないから

今日の箇所で、ペテロがはっきりと言っているのは、この世界が永遠に続くものではない、ということです。彼は次のように言いました。

しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。。。

その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。(ペテロの手紙第二3:10,12)

私たちは普段、このことについて考えることはないでしょう。むしろ、私たちは価値のないものに集中してしまいます。一時的なもの、快楽、仕事、お金などに執着し、人生を無駄にしてしまうことがあります。

しかし、最終的には、それらすべては燃えてしまうのです。その日、この地は消え去り、私たちの心は明らかにされ、神様の裁きに直面します。

だからこそ、ペテロは次のように言います。

このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。(11-12)

簡単に言えば、私たちは自分の優先順位を調整しなければなりません。この世のすべては滅びてしまうのですから、それらを追い求めるべきではありません。むしろ、神様とその御国を追い求めるべきです。

私たちは神様を喜ばせるように生きる必要があります。そして、毎日、神様の御国を広げるために働き、周りの人々に触れ、キリストの愛を分かち合わなければなりません。

では、「神の日の到来を早める」とはどういう意味でしょうか。どうやってその日を早めることができるのでしょうか。それは少し想像しづらいかもしれません。

それでも、私たちにはそれを行うことができます。なぜなら、神様が呼ばれる最後の人がイエス様を自分の主と救い主として受け入れると、教会の使命が完成されるからです。その日、神様はもう待つ必要がなくなり、イエス様を送ることができるのです。

けれども、神様と人間との和解をもたらす前に、私たちは自分自身が神様と和解されているかどうかを確認しなければなりません。そのために、ペテロは次のように言います。

ですから、愛する者たち。これらのことを待ち望んでいるのなら、しみも傷もない者として平安のうちに神に見出していただけるように努力しなさい。(14)

しかし、私たちは自分のために生きるなら、神様との平和を持つことはできません。また、神様の教えを曲げるなら、神様との平和を持つことはできません。

ある人々は、パウロの言葉やほかの聖句を曲げていたようです。けれども、それが彼らを滅びに導きました。(16)

多くの人々は、自分が気に入った聖句だけを受け入れます。けれども、神様の教えが気に入らなければ、その教えを無視したり、捨てたりしてしまいます。また、あえてその教えを完全に変えてしまう人もいます。

もし私たちがそのようなことをすれば、神様との平和を持つことはできません。私たちは、神様をありのままで受け入れなければなりません。神様を変えることはできないのです。

だから、ペテロは、神様のみ言葉を変える人々について、私たちに警告を与えています。

そして、ペテロはこの手紙の冒頭のように、その手紙を締め括ります。

私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。(18)

だから、イエス様とそのみ言葉を曲げるような教えを捨てましょう。むしろ、イエス様に近づき、イエス様から学ぶことを選びましょう。そうすれば、日々の中で、イエス様はますます大きく見えるようになるでしょう

そして、憐れみと平和が、あなたの人生に満ち溢れることでしょう。

イエス・キリストに栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。(18b)

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ペテロの手紙第二

神様の忍耐

以前の記事で、私は、神様がこの世の悪や不正義に対して何もしないという人々の文句について話しました。

しかし、私が指摘したのは、最終的に正義が行われ、その真理が確かなものであるということです。イエス様を信じる人にとって、それは希望です。けれども、イエス様を拒絶する人にとって、それは恐れです。

とはいえ、ある人々は裁きの日について考えるとき、希望も持たず、同時に恐れも感じていません。ペテロはそのような人々について次のように言います。

まず第一に、心得ておきなさい。終わりの時に、嘲る者たちが現れて嘲り、自分たちの欲望に従いながら、こう言います。「彼の来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか。」(ペテロの手紙第二3:3-4)

今なお、そのような人々がいます。実際、イエス様が2000年以上も来ていないため、不信者たちのあざ笑いはさらに増えていることでしょう。しかし、ペテロは次のように言います。

こう主張する彼らは、次のことを見落としています。天は大昔からあり、地は神のことばによって、水から出て、水を通して成ったのであり、そのみことばのゆえに、当時の世界は水におおわれて滅びました。

しかし、今ある天と地は、同じみことばによって、火で焼かれるために取っておかれ、不敬虔な者たちのさばきと滅びの日まで保たれているのです。(5-7) 

その人々によれば、神様はこの世のことに決して介入しないので、この世には何も変わらないと言います。けれども、その考え方は間違っています。

この世を造られたとき、神様の力によって、大陸は海から現れ、生き物を支える大気が造られました。

そして、悪がこの世に横行した時、神様は再び介入され、大洪水によってノアとその家族以外のこの世の人々を滅ぼされました。

だから、ペテロは私たちに警告します。「神様はもう一度、介入されます。けれども、今度の裁きは火による裁きです。」

ペテロは次のように言います。

しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。(10)

また、

そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。(12)

私たちがペテロの言葉を文字通りに解釈した方が良いかどうかは分かりません。けえども、明らかなのは、私たちが知っているこの世は終わりを迎えるということです。

もしかすると、神様はこの世を完全に新しくされるのかもしれません。または、神様がすべてを滅ぼし、全く新しいものを造られるのかもしれません。

いずれにしても、ペテロは次のように言います。

しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。(13) 

では、どうしてクリスチャンたちはこれほど長く待たなければならないのでしょうか。なぜ神様は、今この世を滅ぼし、すべてを新しくされないのでしょうか。

ペテロはその答えを示しています。

しかし、愛する人たち、あなたがたはこの一つのことを見落としてはいけません。主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。

主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(8-9)

また、

私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。(15)

基本的に、ペテロが言っているのは、神様の忍耐によって、人々に悔い改める時間が与えられているということです。けれども、その忍耐はまるで両刃の剣のようなものです。

もちろん、その忍耐によって、人々は神様を信じるための時間を与えられています。そのため、裁きの日が来る前に、多くの人々が救われます。

けれども、その一方で、人々の責任は増していきます。そのため、不信者たちは裁かれる時、言い訳をすることはできません。

だからこそ、私たち全員が自分自身に問いかけなければなりません。「神様がこの悔い改めの時間を与えてくださっている中で、私はどうするのだろうか?」

あなたはどうするのでしょうか。

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ペテロの手紙第二

サタンを過小評価する

C.S.・ルイスはこう記しました。

「人々は悪霊について二つの相反する誤解を持っています。ある人々は悪霊の存在を信じません。一方で、悪霊の存在を信じる人々もいますが、悪霊に対して不健康な興味を抱き、過度に思いを巡らせてしまうのです。」

私はもう一つの問題を指摘したいと思います。

ある人々は悪霊たちを過小評価します。

第2章では、ペテロは偽教師について警告しました。その偽教師たちの問題の一つは、彼らが権威を持つ者を認めなかったこと、また、彼らよりも偉大な者たちを敬わなかったことです。

もちろん、彼らは神様の権威や偉大な立場を認めませんでした。また、彼らは使徒たちや教会のリーダーたちを敬いませんでした。しかし、ペテロはさらに言います。

特に、汚れた欲望のまま肉に従って歩み、権威を侮る者たちに対して、主はそうされます。この者たちは厚かましく、わがままで、栄光ある人たちをののしって恐れません。

御使いたちは勢いも力も彼らにまさっているのに、主の御前で彼らをそしって訴えたりしません。

この者たちは、本能に支配されていて、捕らえられ殺されるために生まれてきた、理性のない動物のようです。自分が知りもしないことを悪く言い、動物が滅びるように滅ぼされることになります。(ペテロの手紙第二2:10-12)

「栄光ある人たち」とは、サタンと他の悪霊たちのことです。(彼らは罪に落ちましたが、まだ残っている栄光を持っています。)

ペテロによれば、良い天使たちは人間よりも力を持っているにもかかわらず、神様の前でサタンと悪霊たちを訴えたりしません。サタンと悪霊たちがいつか裁かれることは確かですが、それでも良い天使たちは彼らを訴えることを控えます。

それにもかかわらず、偽教師たちはサタンや悪霊たちを軽んじました。では、彼らはどのようにサタンと悪霊たちを悪く言ったのでしょうか。それは明確には記されていません。

もしかすると、彼らがサタンのしもべとして非難された際に、こう答えたのかもしれません。「サタン?サタンは私を支配しない。私は自分自身の主だ。サタンの顔に唾を吐いてやる。」

しかし、自分よりも力のあるものを軽んじるのは非常に危険なことです。ペテロや他の使徒たちは決してそのようなことをしませんでした。むしろ、ペテロはクリスチャンたちに警告しました。

身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。(第一ペテロ5:8)

もし、ライオンを軽んじると、あなたは食べられてしまうかもしれません。

そういうわけで、占い師や星座占い、またほかのオカルト的なものに参加してはいけません。

また、偶像礼拝に参加してはいけません。もちろん、偶像自体は何でもないものです。それでも、その偶像には悪霊との関係があります。

そのため、パウロはこう言いました。

むしろ、彼らが献げる物は、神にではなくて悪霊に献げられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。(第一コリント10:20)

でも、その反面、私たちにはサタンや悪霊たちに怯える必要がありません。なぜなら、ヨハネはこう言いましたから。

あなたがたのうちにおられる方(つまり、御霊)は、この世にいる者(つまり、サタン)よりも偉大だからです。(第一ヨハネ4:4)

また、ペテロは私たちに訓戒します。

堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。(第一ペテロ5:9)

それでも、サタンを過小評価してはいけません。彼は力強いものです。もちろん、彼はあなたよりも力強いのです。

だからパウロの言葉に従いましょう。

主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。(エペソ6:10-11)

簡単に言うと、サタンを重視しなくてはいけません。サタンを軽んじてはいけません。

むしろ、イエス様と共にいつもいなくてはいけません。イエス様の力によって強められなくてはいけません。そうしてこそ、あなたはサタンに勝利を得ます。

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ペテロの手紙第二

必ず来る滅び

時々私たちは、どうして神様がこの世にこれほど多くの悪を許されるのか疑問に思うことがあります。また、どうして神様が今、悪人たちを裁かれないのか疑問に思うこともあります。

ペテロは偽教師の運命について話す中で、その疑問に答えます。彼は次のように言いました。

彼らは貪欲で、うまくこしらえた話であなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは昔から怠りなく行われていて、彼らの滅びが遅くなることはありません。(ペテロの手紙第二2:3)

簡単に言うと、神様が悪に対して何もしないように見えたり、私たちが正義が決して行われないと感じたりしても、裁きは必ず来るのです。彼らの裁きが迫っており、彼らの滅びは確実です。

そして、ペテロは三つの例を挙げます。

最初の例は、ある天使たちが罪を犯したときに、神様が彼らを地獄に投げ入れられたことです。

それは案外めずらしい裁きです。多くの人々が考えることとは違い、地獄にいる悪霊はごく少数なのです。

実は、彼ら自身も地獄に行きたくはありません。そこで神様は、とりあえず彼らがこの世にとどまることを許されました。 そのため、今もなお彼らはこの世に多くの問題をもたらしているのです。

しかしどうやら、神様がある悪霊たちを地獄に投げ入れられるほどに、彼らの罪が深刻だったようです。そこで、彼らは最終的な裁きを待っています。(私はユダの手紙について話すとき、この話をもっと詳しく説明します。)

二つ目の例はノアの話です。ノアの時代には、「地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾いていました。」(創世記6:5)

箱舟を作っている間に、ノアは、人々に悔い改めるように促しました。けれども、彼らは悔い改めませんでした。

ノアがその箱舟を作っている間、神様は彼らを裁かれませんでした。 ところが、ある日、大洪水が降りかかり、彼らは滅びました。 一方で、ノアとその家族は救われました。

三つ目の例はソドムとゴモラの話です。彼らは本当に罪深い人々で、自分たちの罪に耽っていました。そのため、ロトは二人の見知らぬ人々を見て、彼らの安否を心配しました。つまり、ロトは、彼らが暴行されることを心配していたのです。

残念ながら、ロトの隣人たちはそうしようとしました。それゆえ、神様はソドムとゴモラを裁き、滅ぼされました。けれども、神様はロトを救われました。

ペテロはこれら三つの話をまとめて、次のように言いました。

主はこのようにされたのですから、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、正しくない者たちを処罰し、さばきの日まで閉じ込めておくことを、心得ておられるのです。(9)

以前の記事で私は言いましたが、ギリシャ語では「誘惑」と「試練」は同じ言葉です。そのため、ある英訳では、「敬虔な者たちを試練から救い出し」と書かれています。

とにかく、神様は私たちを試練から救い出されると書かれていますが、私たちが決して試練に直面しないというわけではありません。私たちも苦しい時に直面します。

それでも、神様は私たちと共におられ、私たちを救い出されます。そして最終的に、私たちは神様と共に天国にいるのです。

一方で、神様は悪人たちを裁かれます。その悪い天使たちのように、その者たちは暗闇の縄目につながれ、裁きの日まで閉じ込められています。今なお、彼らは罰を受けています。

地獄と永遠の罰という概念を好む人は誰もいないと思います。私も好きではありません。それでも、それは現実です。

最終的な裁きは、キリストがこの世を千年間統治した後まで起こりません。けれども、その裁きまで、神様から離れて死んだ人たちは罰を受けています。

そして、裁きの日に彼らは火の池に投げ込まれます。(黙示録20:15)

悲しいことですが、サタンのように、彼らは昼も夜も、永遠に苦しみを受けます。(黙示録20:10)

それは切ない話ですが、それは真実です。また、それは正義です。

正義は必ず行われます。それは裁きの希望であり、同時に裁きの恐れでもあります。

イエス様を拒絶する者に対して、裁きは恐ろしいことです。

しかし、イエス様はご自身を信じる者たちに、こう言われます。

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。(ヨハネ5:24)

あなたは裁きの日について考えると、恐れるのでしょうか。それとも、希望を持っているのでしょうか。

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ペテロの手紙第二

どうして私たちは神様の御言葉を知らなくてはならないのか

前回の記事で私たちが学んだのは、私たちの信仰が自分の経験だけに基づくだけでなく、神様の御言葉にも基づいているということです。

今日の箇所では、ペテロが、なぜ私たちが神様の御言葉をよく知っていなければならないのかを説明します。

その理由は、教会に入り込む偽教師たちの存在です。ペテロは次のように言いました。

しかし、御民の中には偽預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れます。

彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込むようになります。自分たちを買い取ってくださった主さえも否定し、自分たちの身に速やかな滅びを招くのです。(ペテロの手紙第二2:1)

その教師たちは何を教えていたのでしょうか。彼らは基本的に、クリスチャンたちが好き勝手に生きても良いと教えました。彼らは、私たちが自分の情欲に従っても、神様は気にされないと教えました。

その教師たち自身がそのように暮らしていました。彼らは人前で罪を犯しました。教会で皆が一緒に食事をした時、彼らは酔っぱらったそうです。また、彼らは多くの教会の女性たちと寝ました。(13-14)

さらに、彼らはお金に執着していました。彼らが教会で教えた時、彼らの目的は教会の人たちからお金を奪うことでした。(14)

おまけに、彼らは自分の行為を正当化しようとしました。彼らによれば、その生き方によって、私たちは本当の自由を知るのだと主張しました。(18-19)

ペテロは彼らに関してこう言いました。

その人たちに自由を約束しながら、自分自身は滅びの奴隷となっています。人は自分を打ち負かした人の奴隷となるのです。(19)

ペテロによれば、彼らがイエス様を決して聞かないままであった方が良かったのです。なぜでしょうか。

彼らは真理を初めて聞いたとき、自分を奴隷にしていたものから逃れました。しかし、今や彼らはそこに戻ってしまいました。

彼らが真理を知らない間は、まだ真理を聞き、罪から救われる可能性がありました。

ところが、彼らは真理を知るようになり、その真理の甘さを味わいました。それにもかかわらず、彼らは結局、真理を拒絶しました。

では、彼らには救われる可能性があるでしょうか。ほとんどありません。彼らが悔い改めない限り、救われる可能性はゼロです。

さらに、神様は彼らをもっと厳しく裁かれます。なぜなら、彼らは無知によって罪を犯したのではなく、神様の真理を知りながら、あえて罪を犯したからです。(20-21)

ペテロは彼らに関して、こう言いました。

「犬は自分が吐いた物に戻る」、「豚は身を洗って、また泥の中を転がる」という、ことわざどおりのことが、彼らに起こっているのです。(22)

でも覚えておきましょう。彼らの教えに従うと、私たちも同じ落とし穴に落ちてしまうのです。

だから、私たちが自分に問わなければならないのは、どれだけ聖書を知っているかということです。

もし、誰かが嘘を教えると、その嘘を見破ることができるでしょうか。

私たちはどのように嘘を見破ることができるのでしょうか。

銀行員たちは偽札を勉強しません。逆に、彼らは本物の札によく馴染み、偽札に触れる瞬間、何か違うと分かります。

あなたは神様のみ言葉をそれだけ知っているでしょうか。あなたはそれだけ知っているはずです。そうであれば、あなたが騙される恐れはありません。

あなたはどれだけみ言葉を知っているでしょうか。

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ペテロの手紙第二

私たちの信仰の基礎

私たちの信仰の基礎は何でしょうか。なぜ私たちは、クリスチャンたちが信じていることを信じるのでしょうか。

基本的に、私たちの信仰は神様とその性質に基づいています。また、私たちの信仰はある程度、私たちの経験にも基づいています。すなわち、私たちは神様が慈しみ深い方であることを味わい、悟るようになったからです。

しかし難しいのは、神様は目に見えないということです。私たちは神様に触れることも、御声を耳で聞くこともできません。

では、どうして私たちが神様との関係を実際に持っていると確信できるのでしょうか。それがただの錯覚ではないと、どうして確信できるのでしょうか。

世界中には多くの人々が霊的な経験を主張しながらも、クリスチャンの教えを否定しています。

では、どうして私たちは自分たちの経験が彼らの経験よりも優れていると確信できるのでしょうか。また、彼らの経験とは異なり、私たちの経験が単なる感情や神話に基づくものではなく、真理に基づいていると確信できるのでしょうか。

ペテロはこれらの質問に答えています。彼はこう言いました。

私たちはあなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨を知らせましたが、それは、巧みな作り話によったのではありません。私たちは、キリストの威光の目撃者として伝えたのです。(ペテロの手紙第二1:16)

多くの人々は、イエス様が実在していたことを否定します。別の人々は、イエス様の存在を認めても、私たちがイエス様が実際に何を行い、何を語ったのかを知ることはできないと主張します。むしろ、彼らはイエス様に関する話が周囲の国々の神話に基づいていると主張し、それを証明しようと懸命に努めます。

けれども、ペテロはそのような主張を否定します。

「私たちは自分の想像によってイエス様の話を作りませんでした。私たちは実際にイエス様と共にいました。私たちはイエス様を見ました。山で、イエス様の姿が変えられたとき、私たちは自分の目でその栄光を見、自分の耳で神様の御声を聞きました。」(16ー18)

さらに、ペテロは次のように語ります。

また私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。(19)

もしかすると、ペテロは単に預言者たちの言葉について話しているのかもしれませんが、神様の言葉全体について話している可能性もあります。

いずれにせよ、ペテロのポイントはこうです――私たちは自分の経験だけでなく、神様のみ言葉によって、私たちの経験の背後に真実があると知ることができます。そのため、私たちの信仰は、単なる経験ではなく、神様のみ言葉にしっかりと基づいているのです。

神様のみ言葉を通して、私たちは神様が他の人々の人生にどのように働かれたのかを知ることができます。そのため、私たちは彼らの経験を自分自身の経験と比べ、その類似点を見つけることができます。

さらに、私たちは預言者たちの言葉がどのように成就されたのかを見ることができます。特に、イエス様に関する預言がどのように実現したのかを理解することができます。

しかし、私たちはどのように聖書の言葉が真実であることを確信できるのでしょうか。

考古学の発見により、聖書に記されている歴史的事実が証明されることもあります。

とはいえ、神様に関する聖書の言葉が正しいことを、どのように知ることができるのでしょうか。また、神様の言葉が正しく伝えられていることを、どのようにして確信できるのでしょうか。

ペテロは、この質問にも答えています。

ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい。

預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。(20-21)

つまり、人々が聖書を書いたとき、自分の思いや意見だけを書いたのではありません。むしろ、聖霊様が彼らの思いと言葉を導いてくださったのです。

ただ、誤解しないでください。多くの場合、神様は自分の言葉を直接口頭で伝えたわけではありません。

確かにそのような場合もありましたが、多くの場合、神様はそれぞれの人々の人格や教育、話し方を用いて、彼らが自分の言葉でメッセージを私たちに伝えることを許されたのです。

そのため、神様は羊飼い、漁師、王、祭司、取税人、そして医者など、さまざまな背景を持つ人々を用いました。聖書には約40人の著者が関わりました。彼らは三つの大陸から来ており、三つの異なる言語を使用しました。

さらに、聖書が完成するまでに約1500年もの年月がかかりました。それにもかかわらず、彼らの証しは一貫しており、神様とその御業に関するメッセージは統一されています。

だからこそ、私たちは確信を持っています。

そういうわけで、ペテロはこう言いました。

夜が明けて、明けの明星があなたがたの心に昇るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。(19b)

「夜が明ける」とは、イエス様がこの世に戻られることを指しています。「明けの明星」とは、イエス様ご自身を指します。

したがって、ペテロが伝えたかったのは、この世の本当の光であるイエス様が戻られるその日まで、イエス様が残してくださった光に注意を払うべきだということです。

この暗い世において、神様の言葉は私たちの足元を照らす灯火です。その言葉を通して、私たちは神様がどのような方であるのか、そしてどのようにして神様を喜ばせることができるのかを知ることができます。この言葉こそが私たちの信仰の基盤なのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの信仰はただ自分の経験に基づいているのでしょうか。それとも、あなたの信仰は神様のみ言葉に基づいているのでしょうか。

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ペテロの手紙第二

イエス様を本当に知り、愛するなら

この話を読んだとき、私はイエス様のミナのたとえ話を思い起こしました。(ルカ19:11ー27)

このたとえ話では、ある主人が三人のしもべたちにお金(ミナ:お金の単位)を投資させるために与えました。二人のしもべたちはそのお金をうまく投資し、利益を得たため、主人は彼らに気前よく報酬を与えました。

ところが、三人目のしもべは、そのミナを安全な場所にただ隠してしまいました。そのしもべの言い訳を聞くと、彼が主人の性格を正しく理解していなかったことが分かります。

そのしもべは主人を厳しい方だと考えました。また、彼は主人が何もせずにしもべたちに苦労させ、彼らの労働でお金を得ていると文句を言いました。そのため、このしもべは主人のお金を投資することを拒否したのです。

多くの人々は、このしもべのようです。彼らは自分がクリスチャンだと自称し、教会に通っているにもかかわらず、神様の性格に疑いを抱いています。彼らは神様が厳しく、不公平な方だと考え、神様が私たちの最善を知り、私たちの最善を望んでおられることを疑っています。

要するに、彼らは神様が良い方であることを疑っているのです。その結果、彼らは神様とその目的のために生きることを拒否します。

けれども、神様を知り、神様を愛する人がそのように生きることができるでしょうか。もちろんできません。

とはいえ、若いクリスチャンは神様をまだ十分に知らず、神様に対する愛もまだ未成熟であるかもしれません。しかし、私たちが成長するにつれて、神様に対する考え方は変わり、神様への愛が深まっていくはずです。

ペテロが言ったように、私たちが神様を知れば知るほど、神様の恵みと平安は私たちに豊かに溢れます。それはどうしてでしょうか。それは、神様が良い方であると悟るからです。

例えば、私たちは神様から次のような賜物を与えられます。赦しの賜物、永遠のいのちの賜物、御霊の賜物などです。神様が良い方であることを知るにつれて、私たちはさらに神様を愛し、神様のようになりたいと願うのです。つまり、

  • 私たちは神様の良い性質を見て、神様の性質を自分のものとしたいと願います。
  • 私たちは神様の知恵を目にし、それを学び取りたいと思います。
  • 誘惑の中で示されたイエス様の自制を見ると、私たちもその自制を身につけたいと願います。
  • イエス様が十字架の苦しみにさえ耐え抜かれたので、私たちも試練の時には忍耐と勇気を持つことができます。
  • イエス様が天の父の御声を聞き、それに従う姿を見ると、私たちもその模範に従いたいと願います。
  • 私たちは神様の愛と親切を知り、その愛と親切を周りの人々に示したいと思います。

だからペテロはこう言います。

これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、私たちの主イエス・キリストを知る点で、あなたがたが役に立たない者とか実を結ばない者になることはありません。(ペテロの手紙第二1:8)

そして、イエス様のたとえ話に出てくるしもべたちのように、

私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを、豊かに与えられるのです。(11節)

しかし、ペテロは私たちに警告します。

これらを備えていない人は盲目です。自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまって、近視眼的になっているのです。(9節)

三人目のしもべは、そのような人でした。彼は主人の良い性質を忘れてしまい、その結果、彼は盲目的になり、自らの来たる破滅を予測することができませんでした。

あなたはどうでしょうか。あなたは神様をどのように見ていますか。神様の本当の性質を見ていますか。それとも、もしかすると、神様に対するあなたの考え方は歪んでいるかもしれませんか。

神様に対するあなたの考え方は、あなたの人生全体を形作ります。そして、裁きの日には、あなたの態度が明らかになります。

その日、神様はあなたについて何を言われているでしょうか。

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ペテロの手紙第二

恵みと平安が溢れるように

私は『ナルニア国物語』の『カスピアン王子の角笛』に登場するあるシーンがとても好きです。そのシーンで、ルーシーは久しぶりにアスランに会い、こう言います。「アスラン!あなたは前よりも大きくなった!」

すると、アスランは答えます。「あなたが年を取ったから、そう思うのだろう。」

「では、あなたは本当に大きくなっていないの?」

「私は大きくなっていない。でも、あなたが年を重ねるほど、私にはもっと大きく見えるようになるのだ。」

私たちの神様との関係もこれと同じです。神様はすでに偉大なお方です。将来的に神様がより大きくなるわけではありません。

けれども、私たちが神様を知れば知るほど、私たちにとって神様はますます大きく見えるようになります。なぜなら、私たちはより正確に神様を理解するようになるからです。

だからこそ、ペテロはこう言います。

神と、私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。(ペテロの手紙第二1:2)

3節から4節で、ペテロはその考えをさらに深め、広げています。

私たちをご自身の栄光と栄誉によって召してくださった神を、私たちが知ったことにより、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔をもたらすすべてのものを、私たちに与えました。

その栄光と栄誉を通して、尊く大いなる約束が私たちに与えられています。それは、その約束によってあなたがたが、欲望がもたらすこの世の腐敗を免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。

私たちはどのようにして神様の恵みと平安を豊かに知ることができるのでしょうか。そのためには、私たちは神様をさらに深く知るべきです。特に、神様の栄光と栄誉を知れば知るほど、私たちは神様の恵みと平安をますます理解するようになります。

その栄光と栄誉を通して、私たちは神様の子供となるように召されました。また、その栄光と栄誉によって、私たちは尊く、素晴らしい約束を与えられました。

私たちは永遠の命を約束されています。また、聖霊様の臨在も約束されています。聖霊様は私たちの内に住み、私たちに助言を与え、私たちを導き、私たちのためにとりなし、私たちをイエス様のかたちへと変えてくださいます。

これらの約束により、私たちは神様の性質にあずかることができます。それゆえ、人々が私たちを見るとき、私たちの天の父を見ることになるのです。

神様の恵みによって、私たちはこの世の腐敗から逃れました。この腐敗は人々を滅ぼすものです。

さらに、神様の力によって、私たちは精一杯人生を生きることができ、神様のご計画に従って敬虔な子供になることができます。

私たちがそのように毎日を歩むとき、神様の恵みと平安が私たちに満ち溢れます。

あなたはいかがですか。その恵みと平安を知っていますか。その恵みと平安をまだ知らないなら、神様に近づきましょう。「敬虔」という言葉は、神様との親しい関係を持つ人を意味しているのです。

そのため、ペテロは私たちに神様に近づき、親しくなるよう勧めています。毎日、毎瞬、神様の臨在を意識しましょう。そして、その意識が私たちの思い、行動、そして人生のすべてを変えるように。

そうすれば、あなたは神様の恵みと平安を知り、その恵みと平安があなたの人生に溢れるでしょう。

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ペテロの手紙第二

同じ価値の信仰

今日の聖句はただの挨拶にすぎませんが、それを読んだとき、私は心に深く響きました。

ペテロはこう書いています。

イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって、私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ。(ペテロの手紙第二1:1)

ある英訳では、次のように書かれています。

私たちの信仰と同じ価値の信仰を受けた方々へ

その言葉について少し考えてみてください。ペテロはイエス様の最初の十二人の弟子の一人でした。さらに、その弟子たちの中でも、ペテロはイエス様の三人の親しい友人の一人でした。

それにもかかわらず、ペテロはイエス様を直接見たことのないクリスチャンたちに向けて、「あなたの信仰は私たちの信仰と同じ価値があります」と伝えました。

もしかすると、ペテロがその言葉を書いたとき、彼はトマスに対するイエス様の言葉を思い出していたのかもしれません。

あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。(ヨハネ20:29)

ペテロはこう言っています。「私はイエス様を見ました。山の上で、私の目の前でイエス様の姿が変わり、私はイエス様の栄光を見、神様の御声を聞きました。さらに、私はイエス様の復活も目撃しました。

けれども、神様の目には、あなたの信仰は私の信仰と同じように尊く、等しいものです。なぜなら、あなたはイエス様を見たことがないのに信じるからです。」

私たちは自分の信仰について考えるとき、しばしば自分を二流市民だと見なしてしまいます。牧師や宣教師、あるいは友人を一流市民と見なす一方で、自分を二流市民として考えることがあるかもしれません。

けれども、神様の目には私たちの信仰はペテロの信仰と等しいのです。ですから、私たちは実際には一流の市民なのです。

成熟したクリスチャンにとって、この真理は謙遜を促すものです。彼らは、他のクリスチャンの未成熟さや聖書の知識の不足を見て、その人たちを見下す誘惑に駆られることがあるでしょう。

もちろん、神様は私たちに成長を求められます。それはこの手紙のテーマの一つでもあります。私たちはイエス様の恵みと知識において成長すべきです。毎日、少しずつイエス様のようになることが求められます。

しかし、覚えておいてください。あなたは他のクリスチャンよりも優れているわけではありません。また、他のクリスチャンに劣っているわけでもありません。

私たち皆、神様の恵みだけによって救われました。私たちが他の人よりも良い人間だから救われたのではありません。むしろ、私たちはイエス様の完全な義によって救われたのです。

イエス様はこの世におられたとき、一切罪を犯されませんでした。そして、十字架で私たちの罪のために命を捧げてくださいました。だからこそ、イエス様を信じるなら、私たちはイエス様のおかげで神様に義と認められるのです。

あなたはどのように自分を見なしているでしょうか。他のクリスチャンよりも優れた者だと考えていますか。それとも、他のクリスチャンに劣る者だと考えていますか。

神様があなたをどのように見ておられるかを思い起こしてください。神様はあなたに他のクリスチャンと等しい信仰を与えられました。そしてその信仰は、神様の目には尊いものです。

ですから、周囲の人々と自分を比較することをやめましょう。むしろ、毎日、神様の恵みと愛の中で安らぎましょう。