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恵みと信仰

この二つの箇所をまとめると、私たちはこの話全体を見渡すことができます。

ルカの福音書によると、百人隊長がイエス様の助けを求めた際、実際には百人隊長の代わりにユダヤの長老たちがイエス様に願い出てくれました。彼らはこう言いました

この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。(ルカ7:4-5)

長老たちは、百人隊長について「この人はイエス様の助けをいただく資格があります」と言いました。

けれども、百人隊長自身はこう言いました。

あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。(ルカ7:6-7)

時々、私たちは救いをいただくために、あるいは神様から何かをいただくために、自分には「資格」が必要だと思い込むことがあります。

しかし、恵みはそうした条件とは無縁のものです。恵みとは、「あなたに資格がないにもかかわらず、私はあなたに永遠の命や、その他の必要なものを与えます。あなたがしなくてはならないのは、ただ私に頼むことだけです。」ということです。

だからこそ、私たちは自分自身にこう問いかけるべきです。「私は神様に祈り、信頼する信仰を持っているだろうか。」

時に、私たちは信仰を失い、皮肉っぽくなることがあります。私自身もそう感じることがあります。なぜなら、祈りが必ずしも神様の期待通りに答えられるとは限らないからです。

そんな時、私たちは疑問を抱きます。「祈りには本当に意味があるのだろうか。神様は本当に私の祈りに答えてくださるだろうか。神様には私を助ける力があるのだろうか。神様は私を本当に愛してくださるだろうか。」

けれども、信仰はこう答えます。「神様の良さを信じ続けます。神様は私の最善をよくご存じです。それに、神様には私を助ける力があります。だから、私は祈り続けます。」

百人隊長はそのような信仰を持っていました。彼はこう考えました。

「私はローマ人であり、ユダヤ人は普通ローマ人を嫌っています。だから、私はイエス様の助けをいただく資格がないと思う。

とはいえ、きっとイエス様には私を助ける力があり、さらにイエス様が喜んで私を助けてくださると思う。だからこそ、頼んでみよう。」

その結果、彼のしもべは癒やされました。

イエス様が驚かれることは非常に珍しい出来事です。聖書の中でその記述は二回だけあります。一つは、イエス様の地元の人々がイエス様を信じなかった時(マルコ6:6)です。

そしてこの話では、イエス様はこのローマ人の信仰を見て驚かれました。イエス様は、彼についてこう言われました。

まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。

あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。

しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。(マタイ8:10-12)

この箇所から、もう一つの重要なポイントを学ぶことができると思います。

この百人隊長のように、恵みが必要であると認め、イエス様を信じる人は神の国に入ることができます。私たちは家系の資格によって神の国に入ることはできません。また、私たちの良い行いによって入ることもできません。

むしろ、私たちはこう認めなくてはならないのです。

「私には、あなたから何かをいただく資格はありません。でも、私はあなたを信じます。私はあなたの十字架の働きを信じます。そして、私はあなたが三日目によみがえられたことを信じます。だから、どうか私を救ってください。」

パウロはこう言いました。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2:8-9)

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私たちを清めてくださる方

この箇所を読むと、イエス様の慈悲深さに私は感動します。ツァラアトに冒された人がイエス様のもとに来て、こう願い求めました。

主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。(マタイ8:2)

その時代、ツァラアトに冒された人々は社会から完全に疎外されていました。彼らは自分の家を出て、他の人々から距離を置かなければなりませんでした。

もし誰かが近づいてきた場合、その人は「私は不潔です。近づいてはならない」と叫ばなければならなかったのです。

彼らの人生は、本当に孤独で惨めでした。交わることができる相手は、他のツァラアトに冒された人々だけでした。

しかし、この男性はイエス様のことを聞いたとき、再び希望を感じました。彼はイエス様に近づいて、癒しを願い求めました。

おそらくイエス様は、彼が期待した以上のことを行われました。イエス様は遠くから癒すのではなく、直接彼に触れて癒されたのです。

ユダヤ人の律法によれば、ツァラアトに冒された人に触れると、触れた者も一時的に「不潔」とされました。それに加えて、その病気に感染する可能性もありました。

この男性にとって、数年ぶりに誰かが自分に触れた瞬間だったかもしれません。それは彼にとって、驚きと深い感動をもたらしたことでしょう。

私はその感覚を少し理解することができます。日本人は、アメリカ人ほどハグをしません。私は日本に住んで20年以上経つので、友達にハグされると、今でも少し驚いてしまいます。

そのように、人々はツァラアトに冒された人に触れるのを恐れました。不潔になることを避けたかったからです。

けれども、イエス様がその人に触れたとき、イエス様ご自身は不潔とはならず、むしろ相手を清められました。

同じように、イエス様が私たちを見るとき、私たちの罪によって不潔な状態を見ておられることでしょう。私たちは罪の泥から抜け出すことができず、自己救済も不可能でした。

だからこそ、ツァラアトに冒された人のように、「主よ、お心一つで私をきよくしてください」と願うしかありません。

その願いに応えて、イエス様は手を差し伸べてくださり、私たちに触れ、癒してくださいます。

イエス様がその人の病を癒されたのであれば、私たちの魂を癒してくださらないということがあるでしょうか。

あなたは自分の罪に縛られているでしょうか。あなたは不潔な状態で、自己救済できないでしょうか。

イエス様のみ前に進んでください。イエス様の助けと赦しを心から願い求めてください。そうすれば、あなたは癒されるでしょう。