ほかの新約聖書の手紙と比べると、ヤコブの手紙は唐突に終わるように感じられます。けれども、この手紙の締めくくりにあたり、ヤコブは主要なテーマの一つに立ち返ります。それは、真の信仰は愛によって表現されるということです。
特に、兄弟や姉妹が神様から遠く離れてしまったとき、愛はその人を追い求めます。
15ー16節では、ヤコブは身体的な病気のある人だけでなく、霊的な病を抱える人についても語ります。そして、私たちがその人の体と心、魂の癒しのために祈るよう促します。
私の兄弟たち。あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すなら、罪人を迷いの道から連れ戻す人は、罪人のたましいを死から救い出し、また多くの罪をおおうことになるのだと、知るべきです。(19-20)
時として、兄弟や姉妹が神様に背を向け、遠ざかってしまうことがあります。悲しいことですが、多くの場合、私たちはそれを目にしながらも、その人を追いません。私たちは相手を裁いたり、哀れんだりすることはあっても、結局、その人を追うことはしないのです。
しかし、愛は簡単にあきらめるものではありません。愛はその人を追い求めます。
例えば、私たちはその人の罪を指摘します。また、私たちはその人がイエス様のもとへ戻るよう促します。そして、その人のために祈ります。では、どのようにその人のために祈るべきでしょうか。
ヤコブが兄弟や姉妹を引き戻す話の前にエリヤの話を取り上げていることは、とても興味深いです。特に、ヤコブは、エリヤがどのような祈りを捧げたかについて語ります。
エリヤの時代、多くの人々は神様に背を向け、遠ざかってしまいました。そこで、エリヤは祈りました。彼は何のために祈ったのでしょうか。それは、雨が降らないようにと願う祈りでした。そして、3年6か月の間、雨はまったく降りませんでした。
その祈りによって、イスラエルの人々はエリヤの言葉に注意を払いました。特にアハブ王は深く関心を持ちました。そして、その祈りを通して、多くの人々が主のもとへ立ち返ったのです。
時には、私たちもそのように祈るべきです。以前にも述べたように、神様は試練を通して私たちを成熟させ、完全にされます。そして、時には試練を通して、神様はさまよっている私たちを引き戻されるのです。
だからこそ、誰かが神様から遠く離れてしまっているとき、私たちは試練がその人を神様へと導くように祈るべきです。
「神様、その人の人生に霊的な干ばつが訪れますように。その人が神のない人生の虚しさを悟ることができますように。その人をあなたのもとへ引き戻してください。」
神様はその祈りに答えてくださるでしょう。
このような祈りは、少し厳しく感じられるかもしれません。けれども、私たちは神様の心を持つべきです。神様は、人が苦しむことを望んでおられるのではありません。むしろ、神様はその人がご自身のもとへ戻ることを願っておられます。
そして、その人が悔い改め、神様へ立ち返るとき、私たちは心から喜ぶのです。
あなたはどうでしょうか。あなたの友達が神様に背を向け、遠ざかるとき、その人を愛し、追い求める信仰を持っていますか。
