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ヤコブの手紙

人を追い求める信仰

ほかの新約聖書の手紙と比べると、ヤコブの手紙は唐突に終わるように感じられます。けれども、この手紙の締めくくりにあたり、ヤコブは主要なテーマの一つに立ち返ります。それは、真の信仰は愛によって表現されるということです。

特に、兄弟や姉妹が神様から遠く離れてしまったとき、愛はその人を追い求めます。

15ー16節では、ヤコブは身体的な病気のある人だけでなく、霊的な病を抱える人についても語ります。そして、私たちがその人の体と心、魂の癒しのために祈るよう促します。

私の兄弟たち。あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すなら、罪人を迷いの道から連れ戻す人は、罪人のたましいを死から救い出し、また多くの罪をおおうことになるのだと、知るべきです。(19-20)

時として、兄弟や姉妹が神様に背を向け、遠ざかってしまうことがあります。悲しいことですが、多くの場合、私たちはそれを目にしながらも、その人を追いません。私たちは相手を裁いたり、哀れんだりすることはあっても、結局、その人を追うことはしないのです。

しかし、愛は簡単にあきらめるものではありません。愛はその人を追い求めます。

例えば、私たちはその人の罪を指摘します。また、私たちはその人がイエス様のもとへ戻るよう促します。そして、その人のために祈ります。では、どのようにその人のために祈るべきでしょうか。

ヤコブが兄弟や姉妹を引き戻す話の前にエリヤの話を取り上げていることは、とても興味深いです。特に、ヤコブは、エリヤがどのような祈りを捧げたかについて語ります。

エリヤの時代、多くの人々は神様に背を向け、遠ざかってしまいました。そこで、エリヤは祈りました。彼は何のために祈ったのでしょうか。それは、雨が降らないようにと願う祈りでした。そして、3年6か月の間、雨はまったく降りませんでした。

その祈りによって、イスラエルの人々はエリヤの言葉に注意を払いました。特にアハブ王は深く関心を持ちました。そして、その祈りを通して、多くの人々が主のもとへ立ち返ったのです。

時には、私たちもそのように祈るべきです。以前にも述べたように、神様は試練を通して私たちを成熟させ、完全にされます。そして、時には試練を通して、神様はさまよっている私たちを引き戻されるのです。

だからこそ、誰かが神様から遠く離れてしまっているとき、私たちは試練がその人を神様へと導くように祈るべきです。

「神様、その人の人生に霊的な干ばつが訪れますように。その人が神のない人生の虚しさを悟ることができますように。その人をあなたのもとへ引き戻してください。」

神様はその祈りに答えてくださるでしょう。

このような祈りは、少し厳しく感じられるかもしれません。けれども、私たちは神様の心を持つべきです。神様は、人が苦しむことを望んでおられるのではありません。むしろ、神様はその人がご自身のもとへ戻ることを願っておられます。

そして、その人が悔い改め、神様へ立ち返るとき、私たちは心から喜ぶのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの友達が神様に背を向け、遠ざかるとき、その人を愛し、追い求める信仰を持っていますか。

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ヤコブの手紙

祈っている信仰

以前にも言いましたが、ヤコブの手紙は、一見すると時に少し支離滅裂に見えるかもしれません。けれども、読み進めるうちに、その流れが明確になっていきます。

そして、今日の箇所では、ヤコブは第一章で取り上げたテーマの一つに戻ります。それは、試練の中での祈りです。

第一章では、ヤコブはこう語りました。試練の時に、私たちが神様の知恵を願うならば、信仰をもって祈らなければなりません。つまり、神様が良い方であることを信じることが求められます。また、神様の道こそが最善であることを信じなければなりません。

そして、今日の箇所で、ヤコブは再びこのテーマに立ち返ります。

あなたがたの中に苦しんでいる人がいれば、その人は祈りなさい。(ヤコブの手紙5:13)

何のために祈るべきでしょうか。それは、神様の知恵と助けを求めるためです。けれども、祈るときには、神様が良い方であることを信じなければなりません。そうでなければ、あなたの祈りはむなしいものとなってしまいます。(1:5-6)

とはいえ、祈りは試練の時だけに限られるものではありません。ヤコブは続けてこう言います。

喜んでいる人がいれば、その人は賛美しなさい。(13b)

苦しみの中で神様を思い出すことは、ある意味では自然なことかもしれません。けれども、順境のときはどうでしょうか。豊かさの中で、神様の慈しみに感謝しているでしょうか。それこそが信仰の姿です。

すべての良い贈り物、そして完全な贈り物は神様から来ることを忘れてはなりません。(ヤコブ 1:17)

そしてここで、ヤコブは再び試練の中での祈りについて語ります。

あなたがたのうちに病気の人がいれば、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。

信仰による祈りは、病んでいる人を救います。主はその人を立ち上がらせてくださいます。(14-15)

ヤコブは癒やしを約束していません。たとえば、パウロが祈っても、人が癒やされなかったことがあります。(第二テモテ4:20)

しかし、病気のときには、私たちは祈るべきであり、教会のリーダーたちの祈りを求めることも大切です。

オリーブ油は、おそらく聖霊様の癒やしの働きを象徴していたのでしょう。また、癒やしの塗り薬として用いられていた可能性もあります。

いずれにしても、祈りを通して私たちは神様への信仰を表します。神様の道こそが最善であることを信じ、私たちの癒やしを神様の御手に委ねるのです。

とはいえ、時として病気は罪から生じることがあります。だから、ヤコブはこう語ります。

もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。(15b-16)

この言葉を読んで、私はイエス様のある出来事を思い出します。マルコ2章では、イエス様が一人の人を癒やす前に、その人の罪に触れられました。

もちろん、すべての病気が罪から生じるわけではありません。けれども、例えば、ある人々は心の中に苦々しい思いを抱き、相手を許せないために、さまざまな健康問題を抱えてしまいます。しかし、彼らがその罪を正しく対処したとき、病が癒やされることがありました。

そのため、ヤコブは、私たちが病気になったときや困難に直面したとき、祈るべきだと語ります。祈りを通して、私たちの霊的な問題が明らかになり、癒やされるのです。

そして、ヤコブはこの教えを次のようにまとめます。

正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。

エリヤは私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、雨は地に降りませんでした。(16-17)

簡単に言えば、祈りをむなしいものと考えてはなりません。普通の人であっても、神様を信じる信仰をもって祈るならば、素晴らしいことが起こるでしょう。

それは、祈りが魔法の言葉だからではありません。むしろ、私たちの神様が偉大な方であるからです。だからこそ、私たちが神様に信頼すると、神様は私たちの内に、そして私たちを通して素晴らしいことを行われます。

あなたはどうでしょうか。祈りがむなしいものだと感じることはありますか。それとも、良いときも悪いときも、祈り続ける信仰を持っていますか。

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ヤコブの手紙

どのように信仰は苦しみに反応するか

この手紙の冒頭で、ヤコブは、神様が試練を通して私たちを成熟させ、完全にされることについて語ります。

その後、ヤコブは、成熟した信仰がどのように表現されるかを示します。つまり、真の信仰によって、人々は愛や清さ、そして正しい言葉を持って成長するのです。

これは、神様が私たちに望まれる計画です。神様は、私たちがキリストに近づき、イエス様のようになることを願っています。

そして、この箇所では、ヤコブは私たちが試練をどのように扱うべきかについて再び語ります。

一見すると、ヤコブは4章の話を続けながら、クリスチャンの資産家たちを非難しているように思えます。

しかし、実際には、ヤコブは旧約聖書の預言者たちと同じように、神様の民を苦しめ、迫害する者たちを責めているのではないでしょうか。

ある金持ちたちは自分の富を握りしめ、働き手に正当な賃金を支払うことを怠りました。また、彼らは貪欲と自堕落によって、人々を裁いたり、殺したりしました。そのため、ヤコブは彼らに警告します。「裁きの日は迫っています。」

そして、ヤコブは苦しんでいるクリスチャンたちに向かって、こう語ります。

ですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は大地の貴重な実りを、初めの雨や後の雨が降るまで耐え忍んで待っています。

あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主が来られる時が近づいているからです。(ヤコブの手紙5:7-8)

簡単に言えば、忍耐には信仰が伴います。私たちが信じるべきなのは、神様が正義の神であり、いつかその正義をもたらされるということです。

農夫が神様が作物のために雨を備えてくださることを信じるように、私たちもまた、神様が私たちの望む正義を備えてくださることを信じなければなりません。そして、信仰を持って待ち望みながら、私たちは義の実を結ぶのです。

しかし、時として、それは難しいことです。私たちはフラストレーションを感じ、神様に怒りを抱き、兄弟姉妹にも怒りを向けてしまうことがあります。そのため、ヤコブは私たちに警告します。

兄弟たち。さばかれることがないように、互いに文句を言い合うのはやめなさい。見なさい。さばきを行う方が戸口のところに立っておられます。(9)

もし私たちが忍耐を失い、怒りに身を任せ、互いに責め合うならば、神様は私たちに責任を問われます。

見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いだと私たちは思います。あなたがたはヨブの忍耐のことを聞き、主によるその結末を知っています。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられます。(11)

預言者たちの人生を見ると、彼らの多くが大変な苦しみを経験していたことが分かります。それでも、周りの人々に憎まれたとしても、彼らは忠実であり続け、主の御言葉を述べ伝え続けました。

ヨブも同じでした。彼は激しい苦しみを味わい、その理由をまったく理解できませんでした。それでも、彼は信仰を捨てませんでした。そして最終的に、神様はヨブとすべての預言者たちを賞賛されたのです。

だからこそ、ヤコブは私たちに語ります。「あなたの試練から学びなさい。忍耐を保ちなさい。」

すべてが順調なとき、「神様は良い方だ」と言うのは簡単です。けれども、試練の中でそれを言うことは、はるかに困難です。

最後に、ヤコブはこう語ります。

私の兄弟たち。とりわけ、誓うことはやめなさい。天にかけても地にかけても、ほかの何にかけても誓ってはいけません。

あなたがたの「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」でありなさい。そうすれば、さばきにあうことはありません。(12)

つまり、どんなに困難な状況に直面しても、自分の高潔さを保たなければならないということです。

試練があなたの高潔を奪うことを許してはなりません。常に正直さをもって語り、生きるべきです。そうしなければ、あなたの証しは汚されてしまいます。

あなたは試練に直面したとき、どのように反応するでしょうか。神様に怒りを抱くでしょうか。それとも、周りの人々に怒りを向けるでしょうか。その試練によって、あなたの高潔は失われているかもしれません。

あるいは、あなたは堅く立ち、神様が良い方であり、あなたを救い出してくださることを信じ続けるでしょうか。

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真の信仰がどのように表現されるか(8)

今日の箇所で、ヤコブはついに真の信仰についての話を締めくくります。この手紙の中で、ヤコブは何度も、愛や言葉、そして清さのテーマを強調してきました。

そして、今日の聖句では、ヤコブは再び聖さと、私たちがこの世の汚れを避けることの重要性に焦点を当てます。

その「汚れ」とは、この世のものへの執着です。しかし、それだけでなく、この世の富や成功に伴う高慢も汚れの一部です。

ここでヤコブは、成功した人々—特に業者や商人たち—に向けて語ります。彼らは成功を収めましたが、その結果、自分が神様を必要とすることを忘れ、さらにその成功が神様から与えられたものであることも忘れてしまいました。

だから、ヤコブは彼らにこう言いました。

「今日か明日、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をしてもうけよう」と言っている者たち、よく聞きなさい。

あなたがたには、明日のことは分かりません。あなたがたのいのちとは、どのようなものでしょうか。

あなたがたは、しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です。

あなたがたはむしろ、「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」と言うべきです。

ところが実際には、あなたがたは大言壮語して誇っています。そのような誇りはすべて悪いことです。(ヤコブへの手紙4:13-16)

ある意味において、この聖句は10-12節と関連しています。

その箇所で、ヤコブは問いかけます。「あなたは、自分が何者だと思っているのか。どうして自分の隣人を裁くのか。どうして自分の隣人をそしり、軽蔑するのか。」

そして、13-16節でヤコブはもう一度問いかけます。

「あなたは、自分が何者だと思っているのか。どうして自慢するのか。あなたは無に等しいものだ。あなたはただの霧にすぎない。今日生きていても、明日はどうなるか分からない。あなたは自分がどれほど生きるかをコントロールできないのだ。」

では、私たちは何を学ぶべきでしょうか。私たちは高慢を捨て、神様に近づき、へりくだらなければなりません。

それだけではなく、隣人を軽蔑してはなりません。むしろ、イエス様の命令に従い、自分を愛するように隣人を愛さなければなりません。

ヤコブはこの話を次のようにまとめています。

こういうわけで、なすべき良いことを知っていながら行わないなら、それはその人には罪です。(17)

この言葉を通して、私たちは再びヤコブの2章の教えに立ち返ります。つまり、「行いのない信仰は死んだものである」ということです。(2:17)

もし、高慢な心を持ち、口で相手を裁き、周りの人々のニーズを無視し、この世に執着しているなら、あなたは本当に信仰を持っているのでしょうか。あなたの信仰は単なる言葉だけのものではないでしょうか。あなたの信仰は空っぽではないでしょうか。

あなたの信仰はどのようなものですか。

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真の信仰がどのように表現されるか(7)

ヤコブは、人々の心がこの世への愛によって汚される様子を語った後、「舌」の話に戻ります。特に、心がどのように舌を汚すかについて述べています。

ヤコブによれば、この手紙の読み手は、人を殺したり、争ったり、戦ったりしていました。おそらく、彼らは実際に人を殺したわけではないでしょう。けれども、心の中では相手を殺していたのです。(マタイ5:21-22)

では、人々はなぜ殺人を犯すのでしょうか。それは、彼らが自分の心の中で相手を侮っているからです。彼らは相手を神様の似姿として造られた存在として見ていません。

このため、イエス様はこう言われました。

昔の人々に対して、「殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない」と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。

兄弟に「ばか者」と言う者は最高法院でさばかれます。「愚か者」と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。(マタイ5:21-22)

イエス様によれば、心の中で怒りを抱き、人を侮ることは、殺人と似たものです。

ヤコブも同じ考えを持っていたようです。ある人々は、自分より多くのものを持つ者をねたみ、侮るほどまでにこの世を愛していました。その結果、彼らは相手をそしり、裁くようになってしまったのです。

だから、ヤコブはこう言います。

兄弟たち、互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟について悪口を言ったり、さばいたりする者は、律法について悪口を言い、律法をさばいているのです。

もしあなたが律法をさばくなら、律法を行う者ではなく、さばく者です。(11)

「人を裁いてはいけない」と聞くと、私たちはよく「人をその罪のゆえに裁いてはいけない」と考えます。

しかし、ヤコブは単にそのような裁きのことを語っているのではないかもしれません。むしろ、「あなたはばか者だ」「あなたはろくでなしだ」といった判断について話している可能性があります。

例えば、2章でヤコブは、ある人々が金持ちを敬う一方で、貧しい人々を侮っていたことを指摘しました。

だから、ヤコブは彼らにこう言いました。「そのような態度で人を裁いてはいけません。相手が神様の似姿として造られた存在であることを認めなさい。

神様の律法によれば、あなたは自分自身を愛するように、隣人を愛さなくてはなりません。神様の律法は、相手をそしったり、侮ったりすることを禁じています。

そのようなことをすれば、あなたは実際に神様の律法を裁いていることになります。つまり、律法に従うのではなく、それを軽視し、その価値を否定しているのです。」

そして、ヤコブは私たちに警告します。

律法を定め、さばきを行う方はただひとりで、救うことも滅ぼすこともできる方です。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。(12)

つまり、「裁きを行うのはあなたではなく、イエス様です。だからこそ、高ぶる態度を捨て、主の前でへりくだらなければなりません。偉そうな態度を取ってはいけません。なぜなら、あなたは本当に偉いわけではないからです。」ということです。

あなたはどうでしょうか。人を扱うとき、あなたの信仰はどのように表現されているでしょうか。あなたは相手を裁き、「ろくでなし」や「ばか者」と呼ぶでしょうか。それとも、彼らを呪うでしょうか。

あるいは、あなたの信仰は、神様があなたに与えてくださった愛や憐れみ、そして恵みを通して表現されているでしょうか。

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真の信仰がどのように表現されるか(6)

今日の箇所では、ヤコブは「舌」についての話から一旦離れ、真の信仰がどのように表現されるかについての三つ目の方法を語ります。それは、清さです。

ヤコブは先に、本当の宗教に欠かせないものの一つとして、この世の汚れに染まらないよう注意することを挙げました。

そして今日の箇所では、その意味を具体的に説明しています。

この手紙の読み手の中には、教師になりたいと願う人が多かったようです。けれども、ヤコブは彼らに警告しました。

私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。(ヤコブの手紙3:1)

そして、ヤコブは彼らに言いました。「あなたたちは教師になるのに十分な知恵と分別を持っていると思うでしょうか。

自分の心を探りなさい。あなたたちの多くは、苦々しい妬みや利己的な思いを抱いています。その『知恵』は神様からのものではなく、サタンからのものです。そして、その『知恵』はあらゆる邪悪な行いへと至ります。」(13-16)

その後、ヤコブは彼らの問題の根本を指摘します。それは、彼らがこの世の汚れに染まってしまっているということです。

ヤコブは彼らにこう言います。

あなたがたの間の戦いや争いは、どこから出て来るのでしょうか。ここから、すなわち、あなたがたのからだの中で戦う欲望から出て来るのではありませんか。

あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。

自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。(1-3)

言い換えると、「自分自身を振り返りなさい。あなたたちはこの世に執着し、自分より多くのものを持っている人を憎み、ねたんでいます。そのため、いつも彼らと争っています。

この世に対する愛は、彼らとの関係に影響を与えるだけでなく、あなたの神様との関係にも影響を及ぼしています。あなたが祈る理由は、ただ神様から多くのものを求めることだけです。けれども、神様はそのような自己中心的な祈りには答えません。」

そして、ヤコブは彼らを厳しく戒めます。

節操のない者たち。世を愛することは神に敵対することだと分からないのですか。

世の友となりたいと思う者はだれでも、自分を神の敵としているのです。(4)

翻訳者たちはヤコブの言葉を控えめに訳しました。けれども、ヤコブは旧約聖書の預言者たちのように、読者を売春婦になぞらえています。(エゼキエル書16章やホセア書がその例です。)

私たちがこの世を愛すると、神様の妬みをかき立ててしまいます。(5)

一般的に、私たちは妬みを悪いことだと考えます。けれども、正しい妬みもあります。夫や妻が伴侶の不倫を知ったときに感じる妬みは、その関係に対する深い愛と絆から生じるものです。

同じように、私たちは神様に属しています。そのため、もし私たちが神様に背を向け、この世のものを追い求めるならば、神様は妬みを抱かれるのです。

しかし、私たちが神様のもとへ戻るならば、神様はいつも恵みを与えてくださいます。(6)

だから、ヤコブはこう言います。

ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。

罪人たち、手をきよめなさい。二心の者たち、心を清めなさい。嘆きなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。(7-9)

あなたはどのような信仰を持っているでしょうか。あなたの信仰は二心のものではないでしょうか。あなたは神様を信じると主張しながらも、売春婦のようにこの世のものを追い求めてはいないでしょうか。

私たちは神様の聖なる祭司として召されました。祭司たちは神様に近づく前に自らの手を清めました。それと同じように、私たちも霊的な手の汚れを洗い、心を清めなければなりません。私たちはこの世に対する愛を捨て、悔い改めなければならないのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの心はこの世の汚れに染まってしまっているでしょうか。それとも、あなたの心は神様だけに属しているでしょうか。

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真の信仰がどのように表現されるか(5)

私はこの記事に「舌」と名付けることもできました。けれども、それは少し奇妙なタイトルに思えました。

さらに、この箇所がヤコブのより大きな議論の一部であることを、自分自身に思い出させたかったのです。つまり、真の信仰とは、愛と清さ、そして言葉を通して表現されるものなのです。

今日の箇所では、ヤコブは1章26節で述べた話を続けます。その聖句で、ヤコブはこう言いました。

自分は宗教心にあついと思っても、自分の舌を制御せず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。(ヤコブの手紙1:26)

私は以前にも言いましたが、私たちの言葉は、私たちの心の状態を表します。

時々、人々は誤ったことを口にした後、「失礼しました。つい言ってしまいました」と言います。

しかし、なぜその言葉が出てしまったのでしょうか。それは、その言葉がすでに心の中にあったからです。何の根拠もなく突然出てきたのではありません。その言葉は心に深く根付いており、時が来ると現れるのです。

私たち全員の心の中には罪があるため、ときに思わず悪いことを口にしてしまいます。

だから、ヤコブはこう言いました。

私たちはみな、多くの点で過ちを犯すからです。もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です。(2)

私たちは行動するよりも先に、言葉を発してしまうことがよくあります。そのため、もし私たちが成熟し、自制心を持って決して悪いことを言わないようになるならば、おそらく悪い行動をも慎むことができるでしょう。

しかし、この世に生きている限り、私たちの心には罪があるのです。

だから、ヤコブはこう言います。

どのような種類の獣も鳥も、這うものも海の生き物も、人類によって制することができ、すでに制せられています。(7)

私たちの言葉は、自分の人生を形成するだけでなく、周囲の人々の人生にも影響を与えます。くつわによって馬を操るように、また舵によって船の方向を変えるように、私たちの言葉は人の人生を良い方向にも悪い方向にも導くことができるのです。

しかし、残念ながら、私たちはしばしば言葉によって人々を悪い方向へと向かわせてしまいます。ヤコブは、舌を「大きな森を燃やす小さな火」にたとえています。

私たちの言葉は、自分自身の人生を破滅へと向かわせる恐れがありますし、他者の人生をも破壊する可能性があります。だからこそ、ヤコブは「舌はゲヘナ(つまり地獄)の火によって焼かれる」と警告しています。

言葉によって、人は職を失います。言葉によって、夫婦の関係が壊れます。言葉によって、子供は傷つきます。言葉によって、友人関係も壊れてしまいます。それでも、私たちは往々にして不注意のために言葉を発してしまいます。

そのため、ヤコブは舌を「死の毒で満ちているもの」と呼ぶのです。

ヤコブはこう言います。

私たちは、舌で、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌で、神の似姿に造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。

私の兄弟たち、そのようなことが、あってはなりません。(9-10)

言い換えると、私たちは「神様を愛している」と言いながら、どうして神様の似姿に造られた人を侮辱することができるのでしょうか。

ヤコブはこの話を次のようにまとめています。

泉が、甘い水と苦い水を同じ穴から湧き出させるでしょうか。私の兄弟たち。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりすることができるでしょうか。塩水も甘い水を出すことはできません。(11-12)

もちろん、泉は甘い水と苦い水を同時に湧き出させることはありません。しかし、私たちの心に罪があるため、良い言葉も悪い言葉も私たちの口から出てしまいます。

だから、自分の言葉を制御できないと感じるなら、その言葉の源について考えてみてください。あなたの心には何が入っているでしょうか。

苦々しい思いや怒り、見苦しいものが心に宿ってはいないでしょうか。それらをイエス様の手に委ねるまで、自分の言葉を完全に制御することはできません。

だから、ダビデのように祈りましょう。

私の口のことばと私の心の思いとが御前に受け入れられますように。主よ。わが岩、わが贖い主よ。(詩篇19:14)

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教師になりたいと

振り返ると、私はどのようにしてミニストリーに関わるようになったのか、不思議に思います。自分の歩みを見て、こう問いかけます。「どうやって、私はここまで来たのだろうか。」

ミニストリーに参加する理由は、最初はそれほど深いものではありませんでした。「いつか日本に行って宣教師になりたい」とは、まったく考えていませんでした。

私の兄は高校生と大学生の頃、子供の伝道の組織に参加していました。夏休みになると、彼はバイブルクラブやキャンプで子供たちに聖書を教えていました。

そして私が高校生の時、友人もその組織に参加しようとしていました。ある日、彼は私の人生を変える質問をしました。「この夏、ブルースさんも子供の伝道の働きをするのでしょうか。」

私が「いいえ」と答えると、彼は驚き、がっかりしていました。なぜか彼は、私も兄と同じように子供の伝道に参加するのが当然だと思っていたようです。けれども、私はそのことについてまったく考えたことがありませんでした。

それでも、友人の言葉が私の心にその考えを植えました。そして翌年の夏、私はその組織に入り、子供たちに聖書を教え始めました。それが私の最初のミニストリーでした。

その後、私は子供だけでなく、教会の仲間たちにも教えるようになりました。

大学を卒業した後、私は日本に移り、英語の生徒たちに聖書を教え始めました。その後、あっという間に、私の牧師はある家庭教会で教える機会を与えてくれ、さらに大きな教会での教えるチャンスも与えてくれました。現在、私は教会で年間6〜9回ほど説教をしています。

高校生の頃、私はこうしたミニストリーに携わることをまったく想像していませんでした。

しかし、今こうしてミニストリーに仕えているからこそ、今日の聖書の箇所を読むと、大きな責任を感じます。おそらく、すべての牧師や聖書教師もこの責任を感じることでしょう。

ヤコブはこう言いました。

私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。(ヤコブの手紙3:1)

なぜ教師たちはより厳しい裁きを受けるのでしょうか。二つの理由があります。

第一の理由は、私たちは注意しなければ、人々をキリストの真理から遠ざけ、誤った方向へ導いてしまう恐れがあるからです。

第二の理由は、私たちが人々の前で神様の御言葉を教えることによって、彼らが私たちの人生に注目することです。彼らは、私たちがその教えに従って生きているかどうかを見極めます。

私たちは神様の群れの模範となるべき存在です。そのため、私たちが失敗すると、その影響は群れに害を及ぼします。

おそらく、ヤコブは特に二つ目の理由を強調しているのでしょう。次の記事では、舌の問題に関する教えをすべてのクリスチャンに適用しますが、今日はこの教えを教師たちに焦点を当てて考えたいと思います。

ヤコブは、私たちがどのように舌で人を傷つけることができるかについて語ります。彼は私たちの舌を、「食い尽くし、滅ぼす火」(6)にたとえます。また、彼は舌を「休むことのない悪」と「死の毒で満ちているもの」(8)に見立てています。

教師にとって、これは非常に皮肉なことです。私たちは言葉によって人々を戒め、励まし、築き上げることができます。けれども、同じ言葉によって、人々を傷つけ、滅ぼしてしまうこともあるのです。

ヤコブは私たちに問いかけます。

泉が、甘い水と苦い水を同じ穴から湧き出させるでしょうか。(11)

そんなはずはありません。私たちの舌は神様の道具であるべきです。けれども、もし私たちの言葉によって人々を傷つけ、壊してしまうならば、私たちの舌はサタンの道具になってしまいます。本来、私たちの舌はそのようなものではないはずです。

そして、ヤコブは言葉の問題の根本を指摘します。それは、私たちの心です。

あなたがたのうちで、知恵があり、分別のある人はだれでしょうか。その人はその知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。(13)

要するに、知恵があり、分別のある教師は、自分の説教だけでなく、日常生活の中でもその知恵と分別を示します。本当に知恵のある教師は、謙遜を持ち、神様を愛し、神様が与えてくださった群れを愛することに集中します。

しかし、すべての教師がそうするわけではありません。ある教師たちは常に自分を周りの人々と比較します。特に、彼らはより成功している教師と自分を比べてしまいます。また、ある教師は、神様から与えられた群れを軽んじます。

だからこそ、ヤコブは警告します。

しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや利己的な思いがあるなら、自慢したり、真理に逆らって偽ったりするのはやめなさい。

そのような知恵は上から来たものではなく、地上のもの、肉的で悪魔的なものです。ねたみや利己的な思いのあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。(14-16)

教師たちはどのような知恵を持つべきでしょうか。ヤコブは私たちに教えています。

しかし、上からの知恵は、まず第一に清いものです。それから、平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません。

義の実を結ばせる種は、平和をつくる人々によって平和のうちに蒔かれるのです。(17-18)

教師の皆さん、あなたはどのような収穫を刈り取っているでしょうか。それは乱れや、あらゆる邪悪な行いでしょうか。それとも、義と平和を刈り取っているでしょうか。

もし乱れや邪悪な行いを刈り取っているならば、他者を裁く前に、まず自分自身を見つめる必要があります。

14-16節は、あなたの人生を描写しているでしょうか。

それとも、17-18節があなたの人生を描写しているでしょうか。

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真の信仰がどのように表現されるか(4)

前回の記事でさらに言いたいことがありましたが、すでに記事が長くなっていたため、その代わりに今日の記事で触れることにしました。

以前の記事で、私が強調したかったことの一つは、クリスチャンとして成熟し、完全な者になるには時間がかかるということです。私たちは、一瞬にして完全なクリスチャンになるわけではありません。

アブラハムの信仰も、一瞬で完全なものになったわけではありませんでした。彼がイサクを生贄として捧げようとした時、その信仰はようやく成熟しました。

けれども、それまでの彼の信仰は何度も揺らいでいました。そのため、彼は相続人を得るために妻の奴隷ハガルと関係を持ちました。

また、20章では、アビメレク王に嘘をつき、自分の妻サラを妹だと言いました。(それは半分は真実でした。サラはアブラハムの異母妹だったのです)。

なぜ彼は嘘をついたのでしょうか。それは、アビメレクがアブラハムを殺し、サラを奪うことを恐れたからです。

では、私のポイントは何でしょうか。

一つ目は、私はあなたに自分の信仰について考えることを促したということです。けれども、その際、自分の失敗ばかりに目を向けて落ち込むのは簡単です。

「もしかしたら、私は本当に救われていないのではないか。私の人生には愛の実が見られないし、さまざまな面で失敗ばかりしている。」

しかし、そうした反応は私の意図ではなく、また、ヤコブの意図でもありません。

ある人々は自分がクリスチャンだと自称しながらも、自分勝手な人生を送っても問題ないと考えます。

彼らは、「私は信仰をもって、あなたは行いを持っている」と言い、信仰と行いの関係をまったく認めようとしません。ヤコブと私は、そのような人の信仰を疑います。

なぜなら、信仰と行いは深く結びついているからです。真の信仰は必ず変えられた人生へと導きます。十字架を見て神様の愛を悟り、神様を愛するならば、自然と神様を喜ばせたいと願うようになります。

もしあなたが自分の信仰に疑問を感じているならば、私はこう問いかけます。「あなたは本当に神様を愛しているでしょうか。神様を本当に喜ばせたいと思うでしょうか。」

もしあなたが「はい」と答えることができるならば、私はあなたを心配しません。なぜなら、あなたは聖霊の力と導きによって自然に変化し始めるからです。その過程には時間がかかり、困難を伴うかもしれません。それでも、それは確実に起こります。

次に、人の成長が遅すぎると感じても、その人を急いで裁かないように注意しなくてはならないということです。

人々はそれぞれ異なるペースで成長します。彼らの行いは心の状態をよく表しますが、それが信仰の完全な尺度であるとは限りません。

ある人は外見上、立派なクリスチャンに見えるかもしれません。しかし、神様の目には、その心が正しくないこともあります。

その一方、ある人が偽善者に見えたとしても、その人は自分の部屋で泣き叫びながら祈っているかもしれません。「神様、どうして私はこんな人間なのでしょうか。赦してください。私を変えてください。」

けれども、聖い人生を送ることに関心を持たない人を見るならば、その人の信仰を疑うべきです。そのような人はいつも言い訳をし、訓戒されると、「でも、私は信仰によって救われた。私の行動は関係ない」と答えます。

私はそのような人の信仰を疑います。ヤコブも同じようにするでしょう。

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ヤコブの手紙

真の信仰がどのように表現されるか(3)

前回の記事では、「私は神様を信じる」と主張するだけでは十分ではないことを学びました。また、「イエス様が私の罪のために死んだと信じる」と言うだけでも不十分です。

真の信仰は、必ず変えられた人生へと導きます。特に、真の信仰は愛によって表現されます。それは、神様への愛と、人々への愛です。

成長せず、決して愛を示さない信仰は、実際には信仰とは言えません。それはただの空しい言葉です。それは、貧しい人に「かわいそうに。神様があなたを祝福するように。」と言いながら、何も助けないことに似ています。

そして、ヤコブはこう言います。

しかし、「ある人には信仰があるが、ほかの人には行いがあります」と言う人がいるでしょう。行いのないあなたの信仰を私に見せてください。私は行いによって、自分の信仰をあなたに見せてあげます。(ヤコブの手紙2:18)

ギリシャ語では引用符がないため、この箇所を解釈するのは少し難しいです。

この翻訳によれば、おそらく自称クリスチャンがヤコブにこう話しているのかもしれません。「あるクリスチャンは信仰があるが、ほかのクリスチャンは行いがある。でも、二人とも結局クリスチャンだよ。」

しかし、ヤコブはその人に答えます。「あなたは本当に信仰を持っているでしょうか。それを証明しなさい。

自分がクリスチャンだと主張するのは簡単なことです。あなたは自分が神様を愛していると主張するかもしれませんが、どのようにして私があなたの心を知ることができるでしょうか。私はあなたの心を見抜くことはできません。

ただ、あなたの行為を見ることしかできません。けれども、その行為のゆえに、私はあなたの信仰を疑います。なぜなら、あなたの人生に神様への愛と人々への愛が見られないからです。

もしあなたが本当に神様の愛を知っていたら、その愛は自然にあなたの人生から溢れ出るはずです。」

ある人々は、パウロの言葉とヤコブの言葉が矛盾していると考えます。なぜなら、パウロは「人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められる」と教えました(ローマ3:28)。

しかし、ヤコブによれば、「人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではない」(ヤコブ2:24)からです。

では、私たちはどのようにしてこの二つの言葉を調和させることができるのでしょうか。

神様の目には、私たちは信仰によって義と認められます。なぜなら、神様は人の心を見抜くことができ、その人が本当に信仰を持っているかどうかを理解されるからです。

けれども、人の目には、私たちは行いによって義と認められます。なぜなら、人は他人の心を見抜くことができず、その行いだけを見ることしかできないからです。

興味深いことに、パウロとヤコブはそれぞれの主張を証明するために、同じ聖句と登場人物を用いています。

ヤコブはこう言いました。

私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇に献げたとき、行いによって義と認められたではありませんか。あなたが見ているとおり、信仰がその行いとともに働き、信仰は行いによって完成されました。(21-22)

では、アブラハムは誰によって義と認められたのでしょうか。神様でしょうか。ある意味ではそうです。

しかし、アブラハムの行為によって、周りの人々も彼が神様を信じていたことを知るようになりました。それ以前、彼らはアブラハムが本当に神様を信じていたかどうか分かりませんでした。彼らはアブラハムの心を見ることができなかったからです。

過去のアブラハムの行為を見ると、彼を偽善者と呼ぶこともできたでしょう。

例えば、彼は信仰が弱く、相続人を得るために、自分の妻の奴隷と関係を持ちました。アブラハムの妻がそれを勧めたとはいえ、その行為は信仰の表れではなく、むしろ神様の約束を疑ったことを示していました。

けれども、アブラハムがイサクを生贄として捧げたとき、彼は自らの信仰を証明しました。

神様は、イサクを通してアブラハムが多くの子孫を得ると約束されました。けれども、神様がその生贄を命じたとき、イサクにはまだ子供がいませんでした。それでも、アブラハムは神様の約束を信じ、イサクを捧げようとしました。

彼の信仰は成長しました。以前は偽善的な行動をとり、信仰が揺らいでいましたが、今や彼は神様を完全に信頼していました。

だからこそ、ヤコブはこう言いました。

アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。(23)

では、アブラハムはいつ神様を信じたのでしょうか。そして、彼はいつ神様によって義と認められたのでしょうか。生贄の前でしょうか、それとも後でしょうか。

それは、生贄の前でした。実際には、イサクが生まれる前から、すでにアブラハムは神様によって義と認められていました。(創世記15:6)

その時、神様はアブラハムの心をご存知でした。神様は彼が本当に信じていたことを知っていたので、彼を義と認められました。

それでも、アブラハムがイサクを祭壇に捧げた時、その信仰は成熟し、完全なものとなりました。

以前の記事で私は言いましたが、信仰の成熟や完成には時間がかかることがあります。時に、私たちの信仰は揺らぎ、成長の過程で苦しみを伴うこともあります。

しかし、真の信仰を持っているならば、進展があるはずです。そして、最終的に周囲の人々もその進展を目にすることになります。

あなたはどのような信仰を持っているでしょうか。

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ヤコブの手紙

真の信仰がどのように表現されるか(2)

毎日聖書を読むとき、私たちはよく聖書の書を小さい部分に分けます。もちろん、それでも構いませんが、注意すべき点があります。時々、そのように聖書を読むことで、その書の全体的な流れや意味を見落としてしまうことがあるのです。

例えば、著者が1章から2章まで長い議論を展開しているかもしれません。しかし、私たちはある日に1章を読み、次の日に2章を読むため、1章の内容を忘れ、その議論の重要な部分を切り離してしまうことがあります。

この場合、ヤコブの議論は1:26-27から始まります。その箇所でヤコブが述べているのは、真の宗教、真の信仰は、愛、清い言葉、そして聖い人生へと導くということです。

今日の話では、ヤコブは真の信仰が愛によって表現されることについて語り続けます。パウロもこのことについて述べました。彼はこう言いました。

キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。(ガラテヤ5:6)

特に、ヤコブは私たちが貧しい人や卑しい人をどのように扱うべきかについて語ります。彼らに愛を示さず、逆に見下すならば、私たちは罪人のように振る舞っているのです。

私たちは殺人や姦淫を犯さないかもしれません。しかし、神様の目から見れば、私たちは律法の違反者です。だからこそ、ヤコブは私たちに警告します。「貧しい人や卑しい人を見下してはいけません。むしろ、彼らを憐れみなさい。」

そして、ヤコブはその例を用いて、自らの要点に立ち返ります。それは、真の宗教や真の信仰が、変えられた人生へと導くはずだということです。

ヤコブはこう言いました。

私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。(ヤコブの手紙2:14)

その文脈を覚えていれば、ヤコブが「行為」と言うとき、それが愛の行為を指していることが分かるでしょう。言い換えれば、「もし愛を持っていないなら、どうして自分が信仰を持っていると主張できるでしょうか。」

そして、ヤコブは自らのポイントを具体的に描写します。

兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。

同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。(15-17)

この描写の中で、ヤコブは行為を伴わない言葉の空しさを示しています。

もしある人が貧しい者に「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言えば、その人は優しそうに見えます。しかし、その人が実際に貧しい者を助けなければ、その言葉は心からのものではなかったことを証明してしまいます。それはただの空しい言葉にすぎません。

ヤコブはこのポイントを強調して、こう言います。

あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。(19)

簡単に言えば、真理に同意するだけでは十分ではありません。「私は神様を信じる」と言うことだけでは足りないのです。真の信仰は、いつも変えられた人生へと導きます。その変化の一つは、あなたが周りの人々を愛し始めることです。

その変化には時間がかかるかもしれません。自分が変わるのは難しいかもしれません。しかし、真の信仰を持っているならば、あなたは確実に進歩していきます。

もし振り返ったとき、あなたの人生に神様がもたらした変化を見ることができないなら、もしあなたがより成熟していないならば、自分自身に問いかけるべきです。「私はどんな信仰を持っているのだろうか。」

次の記事では、この話を続けます。

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ヤコブの手紙

真の信仰がどのように表現されるか

ヤコブが強く主張することの一つは、真の信仰は単に「私は神様を信じる」と言うことではないという点です。

多くの人は、「私は神様を信じる」と主張します。しかし、その言葉だけでは、救いに導く信仰を持っていることの証明にはなりません。

救いに導く信仰の結果は、変えられた人生です。以前読んだように、神様が試練を許される理由の一つは、私たちが変えられるためです。つまり、試練を通して、私たちは神様に信頼することを学び、完全な者へと成長していくのです。

この手紙の中で、ヤコブは救われた人々がどのように変わるかについて語ります。ヤコブは三つのことを挙げています。一つ目は言葉、二つ目は愛、そして三つ目は清さです。パウロも、これら三つのことについてテモテに語りました。(第一テモテ4:12)

ヤコブは最初にこう言います。

自分は宗教心にあついと思っても、自分の舌を制御せず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。(ヤコブ1:26)

多くの人々は自分の言葉に注意を払わず、嘘をついたり、人をそしり、言葉で人を傷つけます。しかし、彼らが決して悟らないのは、自分の言葉が心の中にあるものを映し出しているということです。もし、心にゴミがあれば、そのゴミが言葉となって表に出ます。

だから、もし自分がクリスチャンだと主張しているのに、あなたの口からゴミが流れ出るならば、ヤコブによれば、あなたは自分自身を欺いていることになります。その「信仰」はあなたの心を変えていないのです。ゴミがあなたの口から出ているのに、あなたはまったく気づいていません。

ヤコブは続けてこう言います。

父である神の御前できよく汚れのない宗教とは、孤児ややもめたちが困っているときに世話をし、この世の汚れに染まらないよう自分を守ることです。(27)

後にヤコブは、私たちがこの世の汚れに染まらないように、どのように自分自身を守るべきかを説明します。しかし、27節では、ヤコブは真の信仰の証拠の一つについて語ります。それは、周りの人々に対する愛です。

もし私たちが真の信仰を持っているなら、周りの人々を憐れむはずです。例えば、孤児ややもめたちを憐れむべきです。貧しい人を軽蔑し、金持ちだけを尊敬するべきではありません。私たちは人々の見た目で判断せず、神様の目で人々を見るべきです。

私たちが忘れてはならないのは、神様が、この世の人々から退けられた者たちを神様の子供として受け入れたことです。その人々は神様の御国を受け継ぎます。(1:27-2:7)

そしてヤコブはこう言います。

もし本当に、あなたがたが聖書にしたがって、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いは立派です。

しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。(ヤコブの手紙2:8-9)

多くの人々は言います。「もちろん、私はクリスチャンです。私は人を殺さないし、物を盗まないし、姦淫を犯さない。」

けれども、彼らはキリストの愛をもって人々を愛していません。むしろ、周りの人々を見下しています。

だから、ヤコブは彼らに警告します。「あなたが思うほど、あなたは良い人ではありません。神様の目には、あなたは違反者です。なぜなら、あなたは人々を愛していないからです。」

イエス様の時代、パリサイ人たちはまさにそのような人々でした。彼らは人々を愛していませんでした。彼らはさまざまな宗教的なルールを守り、さらには神様が命じていないルールさえ守りました。

しかし、彼らは人々を差別し、裁き、見下しました。だから、イエス様は彼らの偽善を厳しく責められました。

もしイエス様が現代の教会を見るなら、同じ理由でどれほど責めるでしょうか。

だからヤコブはこの話を次のようにまとめます。

自由をもたらす律法によってさばかれることになる者として、ふさわしく語り、ふさわしく行いなさい。あわれみを示したことがない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。

あわれみがさばきに対して勝ち誇るのです。(2:12-13)

私たちが愛と憐れみの律法に従って生きるならば、人々を自由にし、自分が神様の子供であることを証明するのです。

しかし、人々を裁き、侮るならば、私たちの信仰がそれほど強くないことを証明してしまいます。

あなたの言動は、あなたの信仰について何を表しているでしょうか。

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ヤコブの手紙

開いている心

時々、ヤコブの手紙は少しまとまりがないように感じられます。なぜなら、彼の話は頻繁に飛ぶように思えるからです。けれども、この手紙を読めば読むほど、彼の話の統一性が見えてきます。

一見すると、ヤコブはいきなり格言のようなことを言います。

私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。人の怒りは神の義を実現しないのです。(ヤコブの手紙1:19-20)

もちろん、私たちの人間関係には、その言葉にはさまざまな応用があります。もしその言葉に従えば、私たちの人間関係はもっとスムーズに進むでしょう。

けれども、ヤコブは主に人間関係について話しているのではないと思います。むしろ、彼は私たちの神様との関係について語っているのだと思います。

その言葉を述べる前に、ヤコブは、神様が私たちの試練を通して、私たちを成熟した完全な者へと導くと語りました。つまり、その時、私たちは神様に信頼し、神様の道を歩むことを学ぶのです。

しかし、多くの場合、問題があります。それは、試練の時に、私たちが神様の声を聞くことを拒むことです。むしろ、私たちは神様に怒り、「どうしてその試練を許しているの?」と叫びます。

けれども、ヤコブによれば、神様は真理の言葉をもって私たちを生んでくださいました。私たちが聞いて受け入れた福音によって、神様は私たちを罪から救い、神様の子供としてくださいました。その言葉によって、私たちは次第にイエス様のようになり、最終的に完全な者となります。

だから、ヤコブは私たちにこう言っています。「神様の言葉を聞くことに早くなりなさい。神様に文句を言うことに遅くなりなさい。そして、試練の時、神様に怒ることを遅くしなさい。

神様はご自身の義をあなたの人生に実現したいと望んでおられるが、そのような怒りは神の義を実現しません。」

そして、ヤコブは続けてこう言います。

 ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。(21)

簡単に言えば、神様は試練とみ言葉を通して、あなたを清めようとされています。だから、神様があなたに語るとき、その教えに心を開かなければなりません。その言葉は、あなたの試練からだけではなく、問題をもたらすあなたの罪からも救うことができます。

だから、神様の言葉を聞くとき、「分かりました」と言うだけでなく、その言葉に従わなければなりません。

ヤコブはこう言いました。

みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。

みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです。眺めても、そこを離れると、自分がどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。

しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて、それから離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。(22-25)

多くの人々は、神様の律法が私たちの自由を奪うと考えます。彼らは、神様の律法が私たちの人生の楽しみを奪うと考えます。ところが、実際には、神様の言葉は私たちに自由を与えてくださいます。

その律法は、私たちを苦々しい思いや恨みから解放します。

その律法は、結婚や人間関係、そして人生を壊す鎖を断ち切ります。

その律法によって、私たちは神様が計画された充実した人生を歩むことができます。

簡単に言えば、私たちは祝福を知るのです。

あなたはどうですか。試練のゆえに、神様に怒り、苦々しい思いを抱いているでしょうか。それとも、自分の心を神様の言葉に開いているでしょうか。

神様はその試練を通して、あなたを完全な者にしたいと望んでおられます。

神様がささやくとき、あなたは聞いているでしょうか。

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私たちの益のため

「どうして神様はこの試練を許しているの?神様は僕が躓くことを望んでいるの?」

試練に直面するとき、私たちは時々そう感じるものです。私たちは、神様が自分が躓くことを望んでおられると考えてしまいます。また、神様がいつも私たちに怒り、罰したいと望んでおられると考えることもあります。

しかし、そのような考え方は誤りです。確かに神様は試練を許されます。けれども、それは私たちを罰するためではありません。むしろ、神様の望みは、私たちが何一つ欠けたところのない、成熟した完全な者となることです。(1:4)

だからこそ、ヤコブは私たちにこう言います。

だれでも誘惑されているとき、神に誘惑されていると言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれかを誘惑することもありません。

人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。(ヤコブの手紙1:13-15)

原語では、「誘惑」と「試練」は同じ言葉です。もしかしたら、ヤコブの読み手たちはその言葉を読んだとき、少し混乱したかもしれません。彼らは、「神様は私たちを誘惑するの?」と考えたかもしれません。

現代でも、多くのクリスチャンがそれを疑問に思います。

以前に言ったように、神様は試練を許されます。神様はその試練を通して私たちの心を探りたいと望んでおられます。また、その試練を通して、神様は私たちの信仰を強めたいと望んでおられます。

しかし、神様は私たちに罪を犯させるために決して誘惑されません。神様は決して、「情欲に負けなさい」とか、「妻を虐待しなさい」とか、「私を呪いなさい」とは言いません。

ヤコブによれば、その誘惑は神様からではなく、私たちの罪深い心から来るのです。私たちは、自分の欲に引かれます。そして、その欲に負けると、その欲は罪を生み、罪が熟して死を生みます。

しかし、それは神様の私たちのための望みではありません。

むしろ、ヤコブはこう言います。

私の愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。

父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。

この父が私たちを、いわば被造物の初穂にするために、みこころのままに真理のことばをもって生んでくださいました。(16-18)

要するに、神様は私たちに良い物だけを与えてくださいます。そして、そのすべての賜物は完全なものです。その賜物は不良品ではありません。また、神様には隠れた腹黒い意図はありません。

私たちの救いはその一つの例です。神様は、私たちを自分のために死なせることもできました。しかし、逆に、神様はイエス様を通して私たちに永遠の命を与えてくださいました。

また、神様には移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。神様はある日私たちを祝福し、次の日に滅ぼそうとすることは決してありません。

むしろ、神様の目的は、私たちが完全な者になることです。神様は私たちが神様の聖さにあずかることを望んでおられます。(へブル12:10)

だから、どんな試練に直面しても、神様があなたを滅ぼそうとしているのではないことを心に留めておきましょう。神様はあなたの人生を壊そうと思っているのではありません。

むしろ、私たちは自分の選択と行為によって、自分の人生をめちゃくちゃにすることがよくあります。

しかし、その試練を通して、神様は私たちに神様に信頼することを教えたいと望んでおられます。そして、その時、私たちは神様の良さと忠実さを悟ります。

また、私たちはその火を通過し、精錬された金のように出てくるでしょう。その時、私たちは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となるのです。

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私たちが何に信頼を寄せるか

私たちは何に、また誰に信頼を寄せるでしょうか。試練が訪れると、その答えは明らかになります。

多くの人々は自分の財産に信頼を寄せます。彼らは、お金こそがすべての問題の解決策だと思っています。だから、お金を持つ者は問題を解決するために多くの財産を費やし、持たない者は苦しみ、お金を切望します。

しかし、そのような人々は二心を抱く者です(8)。彼らは神様の知恵を求めるかもしれませんが、実際には神様ではなく財産に頼っています。

だからヤコブはこう言いました。

身分の低い兄弟は、自分が高められることを誇りとしなさい。富んでいる人は、自分が低くされることを誇りとしなさい。

富んでいる人は草の花のように過ぎ去って行くのです。太陽が昇って炎熱をもたらすと、草を枯らします。すると花は落ち、美しい姿は失われます。

そのように、富んでいる人も旅路の途中で消えて行くのです。(ヤコブの手紙1:9-11)

試練の時、お金のない人々がお金を切望するのは当然のことです。なぜなら、彼らはお金こそが問題の解決策だと考えているからです。

しかし、ヤコブは言います。「この世の富や高い地位ではなく、キリストにあるあなたの地位と天に蓄えられた富こそ、真に価値のあるものです。

だから、試練に直面するとき、この世のものではなく、永遠のものに目を留めましょう。

そして、あなたが持っている物に満足しなければなりません。なぜなら、あなたにお金があってもなくても、神様はあなたと共におられ、あなたを助けてくださるからです。」

へブル人への手紙の著者も同じようなことを言いました。

金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。

ですから、私たちは確信をもって言います。「主は私の助け手。私は恐れない。人が私に何ができるだろうか。」(へブル書13:5-6)

その反面、ある金持ちが試練のゆえに絶望し、なぜそんな問題があるのかと疑問に思うのは自然なことです。彼らは神様に見捨てられたのではないかと考えます。

けれども、ヤコブは金持ちに言います。「あなたの低くされることから学びなさい。自分の富は試練からあなたを救うことはできません。あなたの富はいつか消え去るものです。だから、その試練を通して、本当に大切なものに目を向けなさい。

この世のものに頼らず、神様に頼りなさい。神様だけがあなたを救うことができるのです。」

そして、ヤコブは金持ちと貧しい人々に言います。

試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。(12)

簡単に言えば、試練によって揺らいではなりません。

あなたの信仰が揺らぎ、この世のものを求めてはなりません。そのようなものに頼ってはなりません。この世の富はいつか消え去るのです。

しかし、あなたは永遠のものを待ち望んでいるのです。つまり、あなたは天国と永遠の報いを得るのです

あなたはどんな試練に直面しているでしょうか。あなたは何に焦点を当てているでしょうか。あなたは何に信頼を寄せているでしょうか。お金でしょうか。それとも神様でしょうか。

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私たちが成熟になり、完全になるため

私たちのための神様の計画と意図は何でしょうか。

一言で言えば、「完全さ」です。

つまり、私たちの神様との関係は完全なものとなり、人間関係も完全となることです。そして、人生のあらゆる側面において、私たちが完全へと導かれることです。

これは心強い言葉でしょう。誰もが完全な人生を望むものです。

しかし、次のことを考えると、心強さが薄れるかもしれません。それは、私たちが完全な者へと変えられるために、多くの試練に直面しなければならないということです。

だから、多くの人々はヤコブの言葉を受け入れることが難しいと感じるのです。ヤコブはこう言いました。

私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。(ヤコブの手紙1:2-3)

この上もない喜びなのですか?試練に会う時に?

そうです。この上もない喜びです。なぜでしょうか。なぜなら、その試練は忍耐を生み出すからです。では、なぜ忍耐はそれほど重要なのでしょうか。

その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。(4)

簡単に言えば、完全へと至る道は、試練を耐え抜き、乗り越える道です。その試練を通して、私たちは自分の知恵と力に頼る習慣を手放すことを学びます。

なぜ私たちの人生はこれほどまでに壊れているのでしょうか。それは、私たちが常に自分の力と知恵に頼ってきたからです。しかし、試練によって、その生き方の空しさを学ぶことになります。

神様に向かい、神様に信頼し、その道を歩み、試練を耐え忍ぶと、私たちは完全な者へと変えられます。私たちの神様との関係、人間関係、そして人生のあらゆる側面が完全へと導かれるのです。

だから、ヤコブは私たちにこう語ります。

あなたがたのうちに、知恵に欠けている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。

ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。

その人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういう人は二心を抱く者で、歩む道すべてにおいて心が定まっていないからです。(5-8)

それを読むと、へブル人への手紙第1章6節が思い浮かびます。。

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。

完全になりたいと思うなら、一つのことをしなければなりません。それは、神様に信頼することです。

もし神様が私たちの最善を望んでおられることを疑うなら、私たちは決して神様に従うことができません。そして、神様に従わなければ、私たちの人生は壊れたまま続いてしまいます。

あなたはどうでしょうか。完全な人生を求めているのに、自分の知恵と道にしがみついてはいませんか。もしそうなら、あなたの人生は決して癒されることはありません。むしろ、その道は壊れた人生と絶望へと向かうことになります。

けれども、神様に信頼すると、神様が試練の中であなたを導き、最後には成熟した完全な者へと変えられるのです。

あなたはどう選ぶでしょうか。