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ヤコブの手紙のデボーション

一つの心

ですから、神に従い。。。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。(ヤコブの手紙4:7ー8)

天のお父さん、

「あなたに従う」とは、どういう意味でしょうか。

「あなたに従う」ことの一面は、私のすべての欲望をあなたに委ねることのようです。

私の欲望の主となってください。私の願いが、あなたの御心と一致するように。あなたが求めるものを、私も求めるように。あなたの優先順位が、私の優先順位になるように。

また、私があなたを、他のどんなものよりも求めるように。私の最高の願いが、あなたに近づくことであるように。

私は、二心の人になりたくありません。私の心を一つにしてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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完全な人

私たちはみな、多くの点で過ちを犯すからです。もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です。(ヤコブの手紙3:2)

今朝、このことばは私の心を打ちました。「完全な人」の「人」と訳されたことばは、もちろん、男性も女性も指すことができますが、多くの場合、そのことばは特に男性たちを指します。

誤解しないでください。翻訳者たちは、おそらく2節を正しく訳したと思います。でも、男性として、ヤコブのことばは私の心に響きました。

自分があるべき完璧な男であることを妨げているものについて考えるとき、舌を指摘する男性は、あまりいないと思います。

私は、普通そのように考えません。

でも、ヤコブは、私たちの舌を指摘します。

私たちの舌は、私たちがあるべき夫であることを妨げます。

私たちの舌は、私たちがあるべき父であることを妨げます。

シングルの男性の舌は、自分があるべき彼氏であることを妨げます。

自分のことばによって、私たちの妻たち、子どもたち、彼女たちに、どれだけのダメージを与えるでしょうか。

男性たち、どのような男性になりたいですか。私は、イエス様のようになりたいです。私のことばが人々を燃やすのではなく、むしろ、彼らを癒すことを望みます。私のことばが、知恵にふさわしい柔和さで特徴づけられることを望みます。

イエス様、私が舌を制して、完全な男性になることができるようにしてください。イエス様、私があなたのようになることができるようにしてください。

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成熟した、完全な者

私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。

あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。(ヤコブの手紙1:2ー4)

「成熟した、完全な者。」

今朝、このことばは私の心に響きました。

天の父は、私が何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者になることを望んでおられます。たぶん、すべてのお父さんたちは、自分の子どもたちのために、それを望んでいるでしょう。

私は、自分自身を成熟した、完全な人だと思いたいです。でも、つい先週、私は「このところでは、私はまだ成熟しなければならないなぁ」と考えました。

私は、何一つ欠けたところのないクリスチャンだとは、全然言えません。

性格に関しても、知恵に関しても、私にはたくさん欠けたところがあります。

だから、ヤコブの次のことばも、私の心に響きました。

あなたがたのうちに、知恵に欠けている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。(5節)

正直に言うと、父として、私はもっと忍耐が必要です。娘の未熟さと不完全さを見ると、私はよくフラストレーションを感じます。でも、神様は私に対してそう感じておられません。

むしろ、弱く不完全なままで私が天の父のもとに来ると、天の父は惜しみなく、とがめることなく、私に必要なものを与えてくださいます。それは、本当に不思議なことだと思います。

天のお父さん、私は成熟した、完全な人になりたいです。あなたも、私のためにそれを望んでおられます。

私の欠けたところを、よくご存じです。私がそのところで成長することができるように、助けてください。

すべてにおいて、私はあなたのようになりたいのです。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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心を強くしなさい

ですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。

見なさい。農夫は大地の貴重な実りを、初めの雨や後の雨が降るまで耐え忍んで待っています。あなたがたも耐え忍びなさい。

心を強くしなさい。主が来られる時が近づいているからです。(ヤコブ5:7ー8)

一章では、私たちが見たのは、この手紙を読んだ人々がさまざまな試練に直面していたということです。だからこそ、ヤコブは彼らに耐えるよう励ましました。そして、この手紙の終わりで、ヤコブはそのテーマに戻ってきます。

私の心に残った言葉は、8節にあります。「心を強くしなさい。」

では、自分の心を強くするには、どうすればよいのでしょうか。

ただ自分の心に「強くあれ!強くあれ!」と命じるだけでしょうか。

それは違います。

むしろ、意識的に自分に思い出させましょう。「主が来られる時が近づいている。私の苦しみは永遠に続くわけではない。この試練は長く感じられるかもしれないが、永遠と比べれば、ほんのわずかなものだ。」

また、主が慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方であることを思い出しましょう。もちろん、聖書にあるヨブのような話を見ることもできますが、自分自身の経験を思い返しましょう。過去の試練の中で、神様がどのようにご自分の慈愛とあわれみを私たちに与えてくださったかを思い出しましょう。

最後に、イエス様が今も私たちと共におられることを思い出しましょう。そして、喜ぶことを選びましょう。

自分の力で頑張ろうとする態度を捨て、へりくだって、自分の思い煩いを神様に委ねましょう(ピリピ4:4〜7;第一ペテロ5:6〜7)。

ダビデの模範に従って、祈りましょう。

主は私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。 主は私のいのちの砦。だれを私は怖がろう。。。

聞いてください、主よ。私が呼ぶこの声を。 私をあわれみ 私に答えてください。 あなたに代わって 私の心は言います。「わたしの顔を慕い求めよ」と。 主よ、あなたの御顔を私は慕い求めます。。。

私の父、私の母が私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださいます。。。

もしも、私が、生ける者の地で主のいつくしみを見ると、信じていなかったなら──(希望はないでしょう。でも、それを信じることを選びます)。

待ち望め 、主を。 雄々しくあれ。心を強くせよ。 待ち望め 主を。(詩篇27:1,7ー8,10,13ー14)

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私たちを汚す言葉

舌は私たちの諸器官の中にあってからだ全体を汚し(ます)。(ヤコブ3:6)

この言葉を読んだとき、私はイエス様の言葉を思い出しました。

人から出て来るもの、それが人を汚すのです。

内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、 姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」(マルコ7:20ー23)

今まで、私は自分の言葉を、自分を汚すものとしてあまり考えてきませんでした。自分の言葉によって、主の目に汚れてしまうということを、深く考えてこなかったのです。

しかし、言葉は私の心にあるものを表します。そして、イエス様によれば、裁きの日には、口にするあらゆる無益なことばについて申し開きをしなければなりません(マタイ12:33〜37)。

主よ、預言者イザヤのように、私は唇の汚れた者です。どれほど多くの無益なことばによって、私は自分を汚してしまったことでしょうか。どうか赦してください。

「だれが 自分の過ちを悟ることができるでしょう。

どうか 隠れた罪から私を解き放ってください。

あなたのしもべを 傲慢から守ってください。 それらが私を支配しないようにしてください。 そのとき私は 大きな背きから解き放たれて 全き者となるでしょう。

私の口のことばと 私の心の思いとが 御前に受け入れられますように。 主よ わが岩 わが贖い主よ。」(詩篇19:12ー14)

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 忍耐を学ぶ

私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。 あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。

その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。(ヤコブの手紙1:2ー4)

「その忍耐を完全に働かせなさい。」

この言葉は私の心を打ちました。

正直に言うと、私はその過程を回避したいのです。成熟した完全な者となる段階に、スキップできたらと思ってしまいます。

しかし、ヤコブによれば、それは不可能です。試練に直面し、忍耐することによってこそ、私たちはそのような人になるのです。

けれども、忍耐は、ただ我慢して自分の力を鍛えることで生まれるものではありません。

むしろ、私たちが神とその力に頼ることを学ぶとき、忍耐が生まれるのです。

成熟した完全な人は、神様から独立した人生を送るわけではありません。

その人は、自分の力と知恵では生きられないことを学びました。そして、神様を切実に必要とすることを学びました。パウロのように、その人はこの真理を学んだのです。

しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。

ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。

というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(第二コリント12:9ー10)

天のお父さん、私は試練が嫌いです。試練に直面するとき、できるだけ早く通過したいと思ってしまいます。

しかし、その試練を通して、私があなたとその力に頼ることを学び、私の弱さのうちにあなたの力が完全に現れることを知り、そして試練の中であなたが私と共に歩んでくださるなら、私は喜んでその試練を通過します。

どうか、私を成熟した完全な人にしてください。私をイエス様のようにしてください。

イエス様のお御名によって祈ります。アーメン。

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イエス様はこの世に帰って来られるから

いろいろな意味で、5章ではヤコブは1章のポイントに戻っています。1章では、ヤコブは試練に直面していた人々を励ましていました。

そして、5章では、ヤコブの要点はイエス様がこの世に帰って来られることです。

そのとき、イエス様は不義を行う人々、また、私たちに傷をつけた人々を裁かれます。(ヤコブの手紙5:1-6)

だからヤコブは、私たちを励ましています。「正義はこの世に来ます。だから、忍耐をもってその正義を待ち望みましょう。ヨブや預言者たちが待ち望んだように、主を待ち望みましょう。そうすれば、やがて神様が良い方だとわかるようになります。」(7-11節)

だから、イエス様が帰って来られるまで、良い時でも悪い時でも、イエス様から目を離さず、イエス様に信頼を寄せましょう。(13節)

また、あなたもイエス様に裁かれるので、自分の行いに注意しなくてはなりません。特に、人間関係における行いに注意しなくてはなりません。(9、12節)

最後に、私たちが苦しんでいる時、私たちは一人で戦う必要がないことを覚えておくべきです。だから、クリスチャンの兄弟姉妹の助けを頼みましょう。また、彼らが苦しんでいる時、特に信仰を失いかけているような時には、彼らを支えましょう。(14-20節)

あなたは今、苦しんでいるでしょうか。ダビデ王とともに歌いましょう。

わたしは信じます、生ける者の地でわたしは主の恵みを見ることを。

主を待ち望め、強く、かつ雄々しくあれ。主を待ち望め。(詩篇27:13-14,口語訳)

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自由をもたらす律法に従う歩み

自由をもたらす律法によってさばかれることになる者として、ふさわしく語り、ふさわしく行いなさい。

あわれみを示したことがない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。

あわれみがさばきに対して勝ち誇るのです。(ヤコブの手紙2:12-13)

主よ、あなたは、自由をもたらす律法、つまり、愛とあわれみの律法に従って生活するように私を召されました。

だから、私が周りの人々に愛とあわれみを与える人になるように。そして、私がその愛とあわれみを与えるにつれて、彼らが解放されるように。

彼らが劣等感から解放されるように。彼らが自分がほかの人々よりも価値がないという考えから解放されるように。(1-4、6節)

でも、それよりも、彼らが罪の鎖から解放されるように。彼らが罪の恥から解放されるように。また、彼らがあなたの裁きの恐れから解放されるように。(ローマ6:5-7、第一ヨハネ4:17-18)

私が周りの人々にあなたの愛とあわれみを与えるにつれて、彼らが神の子供たちの栄光の自由を知るように。(ローマ8:21)

私は完全な信仰を持っていると主張するかもしれないけど、愛がなければ、特に、私の言葉や行いによって表れる愛がなければ、その「信仰」は無益です。私は無に等しいのです。(14-26節、第一コリント13:2)

だから今日、また、毎日、私の人生が、あなたが私に与えてくださった愛とあわれみで特徴づけられますように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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試練の中での私たちの態度

私たちの生活はいつも楽なものではありません。私たち皆は苦しみと試練を経験します。でも、この箇所では、ヤコブは、私たちがどのような態度を持つべきか教えています。

どんな態度を取るべきでしょうか。

1. 神様が良い方であることを覚えていましょう。

神様が私たちを倒そうとしているわけではありません。(ヤコブの手紙1:13)

神様は気まぐれな方ではありません。神様が一瞬間に私たちに優しくして、次の瞬間に理由なく私たちに怒っている、というわけではありません。私たちが忠実でなくても、神様はいつも忠実です。(17節)

神様が私たちの人生に試練を許しても、神様の目的は、私たちが何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となることです。(4節)

そして、私たちの人生が終わり、私たちの最後の試練を通過した後、神様は、神を愛している私たちに、いのちの冠を与えてくださいます。(12節)

そういうわけで、

2. 神様を信頼しましょう。

神様の目的は、私たちが何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となることですが、試練の時、私たちが知恵に欠けているときもあります。

だから、ヤコブは、「神様に求めなさい」と言います。そして、神様は惜しみなく、とがめることなく与えてくださいます。でも、神様に求めるとき、信仰の心を持つべきです。(8節)

信仰の心とは何でしょうか。以前にも言いましたが、神様が良い方であることを信じるべきです。神様が私たちの最善を知り、望むことを信じるべきです。

だから、試練の時、神様に語るのに遅くあるべきです。つまり、不平を言うのに遅くあるべきということです。

神様が試練を許すときに、神様に怒るのに遅くあるべきです。むしろ、神様に聞くのに早くあるべきです。また、神の言葉に従うのに早くあるべきです。そうすれば、私たちは最終的に神の祝福を得ます。(17ー25節)

最後に、

3. 外側を向きましょう。この世には、他の苦しんでいる人々もいます。パウロは、孤児ややもめについて話すけど(27節)、あなたの回りに、誰が苦しんでいるでしょうか。

彼らに触れましょう。内側を向いて、自分の問題を見つめるのは簡単なことですけど、外側を向く人になりましょう。

試練で、あなたは苦しんでいるのでしょうか。どんな態度を持っているでしょうか。