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ヨシュア記

誰に仕えるでしょうか

昔、有名な歌手ボブ・ディランが、こう歌いました。

確かに、誰かに仕えなくてはならない。
必ず誰かに仕えなくてはならない。

悪魔に仕えるかもしれない。
主に仕えるかもしれない。
けれども、誰かに仕えなくてはならない。

ディランがこの歌を作ったのは、1979年のことです。 そのとき、それは確かに真実でした。 ヨシュアの時代にも、それは変わらず真実でした。 そして、今もなお、それは変わらぬ真実です。

この箇所で、ヨシュアはイスラエルの民に対して、神様が彼らのためにどれほど多くのことをしてくださったかを思い起こさせました。 けれども同時に、もし彼らが神様に背を向けるなら、神様は彼らを罰せられると警告しました。

さらにヨシュアは、彼らにアブラハムの父テラのことを思い出させます。 テラは、他の神々に仕えていました。 そしてイスラエルの民自身もまた、エジプトで他の神々に仕えていたのです。

そのような背景を語ったあとで、ヨシュアはこう言いました。

今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。

もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」(ヨシュア記24:14-15)

私たちもまた、同じ決断を迫られています。 私たちは、いったい誰に仕えるのでしょうか。 神様に仕えるのでしょうか。 それとも、自分自身に仕えるのでしょうか。

お金に仕えるのでしょうか。 性の「神」に仕えるのでしょうか。 力の「神」に仕えるのでしょうか。

誰に仕えるのでしょうか。

ヨシュアは、こう語りました。 「たとえ、あなたがたがどのような選びをするにせよ、私と私の家は主に仕える。」

おそらく、このブログを読んでいる多くの人は、同じように言うことでしょう。 けれども、「神様に仕える」とは、いったいどういう意味でしょうか。

まず第一に、それは他の偶像を捨てることです。 この世界には、目に見える偶像だけでなく、目に見えない偶像も数多く存在します。

仏教やヒンドゥーの像だけではなく、金銭の「偶像」や性の「偶像」、力の「偶像」もあります。 何かを礼拝するなら、それはすでに偶像になっているのです。

もし私たちが神様に仕えたいと願うなら、 神様を人生の第一にしなければなりません。 そして、あらゆるものを神様の御支配のもとに置くべきなのです。

ヨシュアはこう言いました。

今、あなたがたの中にある外国の神々を除き去り、イスラエルの神、主に心を傾けなさい。(24:23)

もちろん、それは、お金をすべて捨てることでも、結婚生活の中で性を断つことでも、リーダーシップの立場を降りることでもありません。 けれども、どんなことをするにも、私たちの心が神様に向かっていなければならないのです。

つまり、 「神様、あなたこそが私の人生の主権者です。 私の性においても、お金においても、立場においても―― 私の人生のすべてをあなたの御支配のもとに置きます。」 という姿勢が必要なのです。

そして、これまでに他の神々を礼拝してきたなら、 たとえば仏陀やアラーに向かって礼拝していたなら、 それをやめなければなりません。 なぜなら、二人の主に仕えることはできないからです。

ヨシュアは、こう言いました。

主は聖なる神であり、ねたむ神である。(24:19)

神様に仕えるということには、もう一つの大切な意味があります。 それは、心から神様を愛し、その愛ゆえに従っていくということです。

ヨシュアは、こう語りました。

あなたがたは、モーセの律法の書に記されていることを、ことごとく断固として守り行い、そこから右にも左にもそれてはならない。。。

あなたがたは、十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。(23:6,11)

イエス様もこう語れました。

わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。(ヨハネ14:21)

しかし、もう一つ大切なことを心に留めておかなければなりません。 私たちは、自分の力だけでは神様に仕えることができないのです。

ヨシュアは、イスラエルの民にこう語りました。

あなたがたは主に仕えることはできないであろう。(24:19)

おそらく、ヨシュアがそう語ったとき、 彼は単にイスラエルの民にチャレンジを与えたかったのだと思います。

「あなたがたは本当に神様に仕える覚悟があるのか。 その約束は、心からのものなのか。」

けれども、その言葉は比喩ではなく、文字通りに正しかったのです。

聖霊が私たちの心の中で働かれなければ、 私たちは神様に仕えることができません。 聖霊が私たちを内側から造り変えてくださらなければ、 私たちは神様に従い続けることができないのです。

だから、私たちは日々、こう祈る必要があります。

「聖霊様、今日も、私の心を一新してください。 私の内側を清めて、あなたのかたちに似た者として造り変えてください。 私は、あなたに仕えたいのです。」

これこそが、神様に仕えるということの本当の意味です。

あなたは、誰に仕えているでしょうか。

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ヨシュア記

誤解と和解に導くコミュニケーション

多くの場合、誤解の原因は、悪いコミュニケーションにあります。 私たちが自分の考えを十分に伝えないために、お互いの意図を取り違え、相手を不当に裁いてしまうのです。

この箇所でも、まさにそのような状況が見られます。

ルベン族、ガド族、マナセ族の半部族は、ヨシュアの祝福を受けて、ヨルダン川の東側にある自分たちの所有地へと帰っていきました。 なぜなら、他のイスラエルの部族たちは、それぞれ自分の相続地を受け取ったからです。

ところが、帰る前に、その三つの部族は一つの祭壇を築きました。 これを見た他の部族は、非常に怒りを覚えました。 というのも、神様はイスラエルの民がカナンに入った時、命じられた所以外には祭壇を築いてはならないと命じておられたからです。

さらに、もしその三つの部族が神様に背くことがあれば、 アカンの時のように、全体にまでその悪影響が及ぶと考えられました。

そこで、他の部族たちは、彼らに面と向かって問いただし、場合によっては戦わなければならないと真剣に考えるに至ったのです。

けれども、その三つの部族は、自分たちが築いた祭壇の目的を他のイスラエルの部族に説明しました。 つまり、彼らはその祭壇でいけにえをささげるつもりはない、と語ったのです。 むしろ、その祭壇は、自分たちが他のイスラエルの部族と同じ神様を礼拝していることの証しだと言いました。

その説明を聞いて、ヨシュアと他の部族たちは納得し、それぞれの地へと帰っていきました。

この出来事から、私たちは二つのことを学べると思います。

第一に、誤解を避けるためには、良いコミュニケーションが必要だということです。

もし最初から、その三つの部族がイスラエルの族長たちと共に行動し、彼らの目の前で祭壇を築き、その目的を説明していたなら、このような誤解は起きなかったかもしれません。

ところが、何も告げずに祭壇を築いたため、他の部族たちはその意図を誤って受け取ってしまいました。

なぜ彼らがそうしなかったのかは、はっきりとは分かりません。

衝動的な決断だったのかもしれません。ヨルダン川に着いたとき、突然この考えが浮かんだのかもしれません。あるいは、他の部族も当然自分たちの意図を理解してくれていると思い込んでいたのかもしれません。

いずれにせよ、自分たちの意図をきちんと伝えなかったことによって、重大な誤解が生まれたのです。

私は妻に、いつもこう伝えています。 「あなたの心は読めないよ。もし僕があなたのことやあなたの必要を理解することを望むなら、それをちゃんと伝えてほしいんだ。」

そして、伝えてくれたなら、私はしっかりと聞いて、それを覚えなければなりません。(それは簡単ではありませんが、努力しています。)

そうすれば、私はもっと妻のことを理解でき、妻が何も言わなくても、そのニーズに気づけるようになります。

それでも私たちは、相手が自分の思いや意図を理解してくれるだろうと、勝手に思い込むべきではありません。 もし理解してほしいと願うなら、自分の思いをきちんと伝えなければならないのです。 あの三つの部族も、そのことを痛みの中で学びました。

第二に、私たちはすぐに相手と向き合って話すべきです。

彼らが祭壇を築いたとき、他の部族たちはその意図を誤解し、深く怒りました。 しかし良かったのは、彼らがその部族のもとに赴き、きちんと話し合いをしたということです。 そのため、誤解はすぐに解けました。

けれども、多くの場合、私たちはそうしません。 むしろ、自分の怒りにとどまり続けてしまうのです。 そのような態度では、問題は決して解決しません。 もし私たちが誰かに傷つけられたと感じたなら、その人ときちんと向き合って話すべきなのです。

そうすれば、正しい裁きを行い、その人と和解することができます。 しかし、問題を見て見ぬふりをしていると、その関係は少しずつ壊れていきます。 それは、決して神様が望んでおられることではありません。

あなたの人間関係は、今どうでしょうか。 あなたは、正しく物事を見極めて裁いているでしょうか。 それとも、不完全な情報に基づいて、誰かをさばいてしまってはいないでしょうか。

良いコミュニケーションをとれているでしょうか。 それとも、自分の怒りの中にとどまったままでしょうか。

神様は、あなたにどのような一歩を願っておられるのでしょうか。

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ヨシュア記

約束を守ってくださる神

私は、この箇所の最後の部分が特に大好きです。

こうして主は、イスラエルの先祖たちに与えると誓った地をすべて、イスラエルに与えられたので、彼らはそれを占領して、そこに住んだ。

主は、彼らの先祖たちに誓ったように、周囲の者から守って、彼らに安住を許された。すべての敵の中で、ひとりも彼らの前に立ちはだかる者はいなかった。主はすべての敵を彼らの手に渡された。

主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つもたがわず、みな実現した。(ヨシュア記21:43-45)

およそ700年から800年前、神様はアブラハム、イサク、ヤコブに、カナンの地を与えると約束されました。

それからの時を経て、アブラハムの子孫は大いなる国民となり、神様は多くの奇跡をもって、イスラエルの民をエジプトから解放してくださいました。

そして、彼らを40年の間、荒野で守り導き、数々の敵との戦いでも勝利を与えてくださいました。

そしてついに、イスラエルの民は、神様が約束された地に住み始めることになったのです。

彼らがすべきことは、ただ一つ――それは、神様の約束を信じて行動することでした。 それが、神様の祝福に与るための条件だったのです。

私たちも、神様の約束が実現するのを見たいと願うなら、その約束を信じて、行動に移さなければなりません。

ヨシュアとカレブを除いて、エジプトから救い出された世代は、この信仰の行動をとりませんでした。 そのため、彼らは皆、荒野で命を終えることになりました。

そしてヨシュア記19章では、ダン族もまた、神様が備えておられた土地を占領しようとしませんでした。

では、あなたはどうでしょうか。

神様は、私たちに永遠のいのちの約束を与えてくださいました。 あなたは、その約束を信じ、そして行動しているでしょうか。

ヨハネの福音書3章16節には、このように書かれています。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

永遠のいのちを受け取ることは、決して難しいことではありません。 ただ神様の約束を信じ、その賜物を願い求めるなら、それを受け取ることができるのです。

イエス様は、こう語られました。

そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。(ヨハネ6:37)

それだけではありません。神様は、永遠のいのちだけでなく、他にも数えきれないほど多くのことを約束しておられます。 神様は、私たちの必要を満たすと約束されました。 私たちを祝福すると約束されました。

あなたは、それを信じていますか? その約束に信頼し、それに応じた行動をとっていますか?

それとも、かつてのイスラエルの民のように、信じずに立ち止まってはいませんか?

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ヨシュア記 士師記

容易な道を行くこと

神様の道はいつも容易な道ではありません。神様は容易な人生を約束されませんでした。しかし、問題に直面するとき、神様の民はより容易な道を探すことがあります。ダン族もその通りでした。

ヨシュア19章47節にはこう書かれています。

ダン族の地域は、さらに広げられた。ダン族は上って行き、レシェムと戦って、これを取り、剣の刃で打ち、これを占領して、そこに住み、彼らの先祖ダンの名にちなんで、レシェムをダンと呼んだ。

イスラエル人がカナン人と戦うとき、神様は助けることを約束されました。けれども、ダン族にとって、神様が征服するように命令した土地を占領するのは難しかったのです。

そのような難しい状況の中で神様に信頼したカレブとは対照的に、ダン族は諦めました。むしろ、彼らは、より征服しやすい場所に行き、その土地を占領しました。

士師記18章にはこの話がもっと詳しく書かれています。(ただし、士師記ではレシェムという場所がライシュと呼ばれています。)

ダン族の問題は何だったのでしょうか。彼らは神様に信頼せずに、自分自身に信頼し始めたのです。その結果、士師記18章の最後で、ダン族は神様から離れて偶像礼拝を始めました。

もし私たちが神様の道から離れて、容易な道を選ぶと、同じことが起こるでしょう。神様に信頼しないために、罪と妥協し始めてしまいます。もしすぐに悔い改めなければ、いつの間にか神様から遠く離れてしまうのです。

あなたはどうでしょうか。容易な道を歩んでいるでしょうか。経済的な問題について心配して、疑わしい方法で儲けようとしているでしょうか。

クリスチャンの伴侶が見つからないから、イエス様を信じていない人を考えているでしょうか。ノン・クリスチャンの家族や友人からのプレッシャーを感じているために、もう神様の道を諦めようとしているでしょうか。

そうしないでください。神様はあなたと共におられること、あなたのニーズを満たすことを約束されています。困難な状況にあっても、容易な道を選ばないでください。むしろ、ダビデの言葉を心に留めましょう。

主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。(詩篇37:4)

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ヨシュア記

神様の備えを受け取るために

「神様は本当に私を祝福したいと思っておられるのだろうか。私のために本当に良い計画を持っておられるのだろうか。神様は約束を本当に守ってくださるのだろうか。」

時々、私たちはそのような疑問と闘い、神様が与えようとしておられるものを受け取ることをためらってしまいます。

イスラエル人も、そのような疑いと闘っていました。多くの勝利を得ていたにもかかわらず、彼らは神様が約束された土地をまだ占領していませんでした。なぜそうだったのか、私にはわかりません。

すでに占領した土地に満足していたのかもしれません。あるいは、未知のことを恐れていたのかもしれません。あるいは、自分たちよりも強い民と戦うことを恐れていたのかもしれません。

本当の理由はわかりませんが、彼らはためらっていました。だから、ヨシュアは彼らを叱責しました。

あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えられた地を占領しに行くのを、あなたがたはいつまで延ばしているのか。(ヨシュア記18:3)

そして、ヨシュアは彼らに命令しました。

部族ごとに三人の者を選び出しなさい。彼らが立ってその地を行き巡るように、私は彼らを送り出そう。彼らはその地についてその相続地のことを書きしるし、私のところに来なければならない。

どれぐらい、私たちはイスラエル人のように、先を進むのを怖がって、神様が与えたいものを捕まえないでしょうか。だから、私たちは何もせずに、ただ座ってしまいます。でも、そうすれば、何も起こらない。

信仰によって歩かなくてはならない。神様が私たちのために良い計画が持っておられることを信じて、神様の導きを信頼しなくてはなりません。

私はずっと、日本で妻を捜していて、フラストレーションを感じていました。だから、結局、私は計画を作りました。どんな妻が欲しいか考えて、リストを書きました。その後で、リストを見て、「何が必要か」のポイントと「何が欲しいか」のポイントを区別しました。

その後で、私の周りの女性たちを見て、誰がそのリストに合ったか考え始めました。そして、デートするためにある女性に電話しようと思いました。

でも、その時、本当に不思議なことが起こりました。神様はそのプロセスに介入してくださいました。

本当に良い女性がいると思いましたが、ちょっと遠くに住んでいました。だから、その人を諦めて、違う人に電話しようと思いました。

でも、その人に電話する前に、神様はその最初の人を私の目の前に置いてくださいました。私たちはメールを書き始めて、そして、電話し始めました。

その後で、彼女は神戸に引っ越しました。一年後に、私たちは結婚しました。今年で、もう8年になりました。

(聡子、愛しているよ。( ゚∀゚)ノ)

とにかく、私は神様の良い計画を捕まえるために踏み出したから、そのプロセスは始まりました。もし、何もしなかったら、何も起こらなかったかもしれません。でも、私が動き始めたら、神様は働き始めてくださいました。

あなたは、自分の人生でフラストレーションを感じていますか。何も起こらなくて、フラストレーションを感じていますか。計画し始めてください。動き始めてください。そうすれば、神様の働きを見るでしょう。

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ヨシュア記

追い出せない罪

私たちは皆、罪と戦っています。私たちの人生から追い出すのが難しい罪もあります。特に男性にとっては情欲との戦いが困難なことが多いですが、女性がどのような罪と戦っているのか、私は確信を持って言うことができません。

しかし、その戦いが非常に困難だからといって、「もう仕方がない。その罪を征服できない。」と言って、ただ諦めてしまってはいけません。

残念ながら、カナンでイスラエル人はそのような態度を取りました。ヨシュアがマナセ族に自分たちの土地がどこであるかを教えたにもかかわらず、ヨシュア記17章12-13節には次のように書かれています。

しかしマナセ族は、これらの町々を占領することができなかった。カナン人はこの土地に住みとおした。

イスラエル人は、強くなってから、カナン人に苦役を課したが、彼らを追い払ってしまうことはなかった。

イスラエル人はカナン人と契約を結び、カナン人をイスラエル人の支配下に置きました。けれども、神様の命令に従うことなく、カナン人を追い出さずに留めてしまいました。

私たちも時には頑固な罪に直面することがあります。その罪を追い出したいと思いながらも、その罪が私たちの中に居座り続けます。その結果、私たちはその罪とある種の「契約」を結ぶような状態になります。

「あなたが私を完全に支配することは許さないけれど、私の人生の中に留まることは認めます。」

しかし、そうしているうちに、時には私たちはその罪に負けてしまうことがあります。

ヨシュア記14-18節で、マナセ族とエフライム族は「私たちの土地は狭すぎる」と不平を言いました。ヨシュアが彼らに別の場所を提案した際、彼らは次のように答えました。

谷間に住んでいるカナン人も、ベテ・シェアンとそれに属する村落にいる者も、イズレエルの谷にいる者もみな、鉄の戦車を持っています。(16)

私たちも罪と戦うときに、同じような言い訳をすることがあります。神様は私たちにこう言われます。「あなたはその罪を征服することができます。勝利することができますよ。」

けれども、私たちはこう答えることがあります。「無理です。その罪は強すぎます。」

それでは、ヨシュアは彼らに何と語ったのでしょうか。

あなたは数の多い民で、大きな力を持っている。。。カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いのだから、あなたは彼らを追い払わなければならないのだ。(17-18)

ヨシュアは非常に重要なことを伝えました。それは、彼らが一緒に戦えば、その敵を征服する力があるということです。

私たちも同じです。罪と戦うとき、周囲のクリスチャンに助けを求めることが有益です。たとえば、祈ってほしいと頼んだり、「私がその罪を犯していないか時々確認してください」とお願いすることが役立ちます。

そうすることで、私たちは共に強くなり、罪を追い出す力を持つことができるようになります。

あなたの場合はどうでしょうか。その頑固な罪と戦っていますか。それとも、言い訳をして、その罪が居座ることを許してしまっていますか。

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ヨシュア記

神様は忠実です。私たちは?

カレブの物語を読むと、私は本当に心を動かされます。彼が40歳のとき、神様が約束された地を偵察するために遣わされました。しかし、彼とヨシュアだけが、神様がその地をイスラエルの民に与えてくださると信じていました。

そのため、同世代のイスラエル人たちは皆死に絶えましたが、カレブとヨシュアは神様の恵みによって生き続けました。そして、彼らはなお健やかでした。

カレブは85歳になっていましたが、こう言いました。

今や私は、きょうでもう八十五歳になります。

しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。(ヨシュア記14:10-11)

神様は、これまでずっとカレブに忠実でいてくださいました。そして、カレブもまた、神様に生涯忠実であり続けました。彼は健やかな体を保っており、信仰もいささかも衰えていませんでした。

だから、カレブはこう語ったのです。

どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。

あの日、あなたが聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。(ヨシュア記14:12)

カレブは、45年前にも神様を信じていました。そして、イスラエルの民がようやく約束の地に入ったその時も、やはり変わらず神様を信じていました。

アナク人を征服するのは不可能に思えたかもしれません。しかしカレブは、少しも疑いませんでした。なぜなら、神様がそう約束しておられたからです。カレブは、神様の約束を信じ続けたのです。

あなたはどうでしょうか。 神様が忠実なお方であることを信じていますか。 神様がその約束を必ず守ってくださると信じていますか。

そして、あなたは神様に忠実でしょうか。 神様があなたを助けてくださると信じて、今日も神様に従おうとしていますか。

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ヨシュア記

先を見て、走り続ける

多くの人々は、引退の日を心待ちにしています。長年働いた後、やっとリラックスでき、自分のやりたいことに時間を使えるからです。

しかし、神の国においては「引退」は存在しません。

クリスチャンとして、私たちは前を見つめて走り続けるように召されています。絶えず成長し続けるように召されています。そして、神様のためにこの世に影響を与えるように召されています。

ある一節の中で、神様はヨシュアにまさにそのことを語られました。

あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。(ヨシュア記13:1)

神様は、こう言われたのではありません。 「さあ、ヨシュア。もう年を取ったね。では、リラックスする権利を得たから、どうぞ、ゆっくり休みなさい。」

むしろ、神様はこう言われました。 「あなたは多くのことを成し遂げてきた。よくやった。けれど、あなたの使命はまだ終わっていない。しなければならないことが、まだたくさん残っている。」

神様は、私たちにもそのように語っておられます。

私はもう30年以上クリスチャンとして歩んでいますが、まだ完全な者にはなっていません。今でも、罪との戦いの中にあります。成長が必要なところが、まだまだ残っています。だから、クリスチャンとして寛いでいる場合ではないのです。

それに、私はこれまでずっと神様に仕えてきましたが、まだまだしなければならないことが数多く残っています。

たとえ引退しても、おそらく何らかの形で神様に仕えることになると思います。神のことばを語る機会があるかもしれません。スモールグループを導くことがあるかもしれません。あるいは、人々を祝福するために訪ねていくこともあるかもしれません。

日本では、今もなお大多数の人々がイエス様を知りません。だからこそ、まだやるべきことがたくさんあります。私たちは、40年後にこの国に大きなインパクトを与えることを願っています。

けれども、イエス様が私を天に呼ばれるその日まで、私は安らいでいる場合ではありません。あなたもそうです。

だから、私たちは前を見つめて走り続けましょう。さらにイエス様に似た者へと成長していきましょう。この世で、イエス様の手となり、足となり、口となりましょう。

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ひと言も取り除かなかった

私は、ヨシュア記11章15節が大好きです

がそのしもべモーセに命じられたとおりに、モーセはヨシュアに命じたが、ヨシュアはそのとおりに行い、がモーセに命じたすべてのことばを、一言も取り除かなかった。

いつか私が天に召されたとき、もし墓石が与えられるなら、そこにこう記してほしいと願っています。

「ブルースは、主が命じられたすべてのことばを、一言も取り除くことがなかった。」

時間を無駄にするのは、本当に簡単なことです。また、目の前の緊急なことに気を取られて、本当に大切なことを忘れてしまうのも、あまりにも簡単です。私は、その両方をよくしてしまいます。

さらに、言い訳をつくるのも簡単です。

「自分の自由な時間が必要なんです。」

あるいは、

「生活のためには、お金が必要でしょう?」

でも、神様に従うなら、神様は必要なものを与えてくださらないでしょうか。

神様は、お金をも、自由な時間をも与えることのできる方ではないでしょうか。

もちろん、神様は私たちが燃え尽きてしまうことを望んでおられません。むしろ、私たちがその愛と恵みに照らされて、輝く者となることを望んでおられます。

イエス様は、私たちにこう言われました

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)

だからこそ、私は自分に、次の二つの問いを投げかけなければなりません。

1.神様を信じているだろうか。

2.神様に従っているだろうか。

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私たちを聞いてくださる神、私たちのために戦ってくださる神

この箇所では、本当に驚くべき、信じがたい奇跡について記されています。ヨシュア10:13によれば、太陽はとどまり、月も静止したとあります。その結果、イスラエルの民は十分な光を得て、敵を討ち破ることができました。

では、「日が動かなかった」とは、どういう意味なのでしょうか。もちろん、これは文字どおりには解釈できません。なぜなら、実際に太陽は動かないからです。

では、神様が地球とその他の惑星の動きを止められたのでしょうか。それとも、地球の自転を一時的に遅くされたのでしょうか。そうだとすれば、神様は自然法則そのものを変えられたことになります。

正直に言えば、私にはそれがどう行われたのか分かりません。

一部の学者たちは、神様が何らかの方法で光を屈折させ、地球が動いていたとしても、イスラエルが戦うのに十分な光を与えられたのではないかと考えています。

何が実際に起こったのかは分かりません。しかし、一番大切なポイントは、14節に記されているのです。

主が人の声を聞き入れたこのような日は、先にもあとにもなかった。主がイスラエルのために戦ったからである。(ヨシュア記10:14)

私たちは皆、人生において困難な時を経験します。厳しい上司、苦しい結婚生活、その他のつらい人間関係の中にあるかもしれません。

あるいは、自分自身の罪と格闘しているかもしれません。

落胆や、うつのような状態と戦っている人もいるでしょう。

そんなとき、私たちはこう問いかけたくなります。

「神様は、本当に私を愛しておられるのだろうか。神様は、本当に私の人生の中で働いておられるのだろうか。」

けれども、神様はヨシュアの祈りを聞いてイスラエルのために戦ってくださったように、私たちの祈りも聞いてくださり、私たちのためにも戦ってくださいます。

ですから、たとえどんなに苦しい状況にあっても、落胆しないでください。神様は、あなたの祈りを確かに聞いておられ、あなたのために戦ってくださるのです。

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ヨシュア記

でも、その時は正しいと思ったのに

ヨシュアは、基本的には優れたリーダーでした。

とはいえ、彼はふたつの重大な判断ミスをしました。なぜ、彼は失敗してしまったのでしょうか。その両方に共通していたのは、自分の知恵に頼ってしまったということです。

ひとつ目は、アイの件です。イスラエルがエリコに対して大勝利を収めた直後、ヨシュアと民たちは大きな自信を持っていました。そして、アイとの戦いの作戦について、まったく神様に相談しなかったのです。

むしろ彼らはこう言いました。「エリコを簡単に征服したのだから、アイは小さな町だし、軍全体を送る必要はない。」

こうして神様に尋ねることなく出陣し、敗北を喫しました。もし最初から神様に相談していたなら、アカンの罪について知らされていたことでしょう。

ふたつ目は、この箇所に記されている出来事です。

神様はイスラエルに、カナンの民をすべて滅ぼすよう命じておられました。なぜなら、その民は徹底的に悪に染まっていたからです。けれども、その中にいたギブオン人は、欺いて言いました。「私たちは、遠い国から来た旅人です。」

この偽りによって、イスラエルは彼らと盟約を結んでしまいました。

なぜ、そのような盟約を結んでしまったのでしょうか。ヨシュア記9:14節には、こう書かれています。

主の指示をあおがなかった。

神様に相談していれば、彼らは騙されることはなかったでしょう。

いずれの決断も、表面的には正しく思えたかもしれません。しかし、ふたつとも誤った選択でした。

私たちも、どれほど同じような過ちを繰り返しているでしょうか。自分の知恵に頼り、「これが最善だ」と思って決断しても、神様に相談しないことがあります。また、神様の御言葉を知っていても、それを意図的に無視してしまうことさえあるのです。

聖書には、こう記されています。

人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。(箴言14:12)

私たちは、ヨシュアの失敗から学びましょう。決断のときには、神様に祈り、その導きを求めましょう。

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戦いに走りましょう

「神様は、まだ私を用いてくださるだろうか。それとも、私はもうだめなのだろうか。」

クリスチャンは失敗したとき、特に罪を犯してしまったときに、よくそう考えてしまいます。イスラエルの民も、きっと同じように思ったかもしれません。

アカンの罪のゆえに、彼らはアイの町で敗北しました。罪は正しく処理されましたが、それでも心に不安が残っていたことでしょう。

「神様は、まだ私たちと共におられるのだろうか。あるいは、神の約束はもう無効になってしまったのだろうか。」

だから、神様はヨシュアにこう語られました。

恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民全部を連れてアイに攻め上れ。見よ。わたしはアイの王と、その民、その町、その地を、あなたの手に与えた。(ヨシュア記8:1)

つまり、神様はこう言われたのです。

「ヨシュア、あなたたちは確かに失敗した。そして、その罪のゆえに苦しんだ。だが、すでにその罪は処理された。

だから、今こそ立ち上がりなさい。恐れることはない。私があなたたちに敵対することを恐れなくてよい。私はあなたたちを捨ててはいない。

だから、落胆してはならない。むしろ、私の命令に従って、アイの町との戦いへと向かいなさい。私は必ず、あなたたちに勝利を与える。」

私たちが失敗する時、特に罪を犯してしまったとき、神様は同じように語られます。私たちが悔い改めたあとでも、「本当に赦されたのだろうか」「神様は今も私と共におられるだろうか」と、不安になることがあります。

けれども神様は、私たちにこう言われます。

「あなたは失敗した。だが、その罪を告白したのだから、立ち上がりなさい。私は今もあなたと共にいる。がっかりしてはならない。さあ、私のことばに従い、戦いの現場に戻りなさい。」

私たちはいま、どのような戦いの中にいるのでしょうか。

聖書は、私たちが霊的な戦いの只中にあることをはっきりと示しています。私たちは、サタンとその悪しき力に立ち向かっています。

そして同時に、私たちは人々の魂のために戦っています。つまり、イエス・キリストをまだ知らない人々が、神と個人的な関係をもつことができるように――そのために私たちは働いているのです。

サタンもこのことを知っています。彼があなたの救いを奪うことができないなら、今度はあなたを非効果的な戦士にしようと働きかけてきます。

だからこそ、私たちが罪を犯したとき、サタンは私たちを落胆させようとします。彼はこうささやくのです。

「あなたはもうだめだ。あなたの罪が見えるだろう?神様がそんなあなたをどうやって用いることができるというのか。もう黙っていたほうがいい。誰も、あなたのことばなんて信じないのだから。」

けれども、神様はそのようなことは決して言われません。神様は、私たちが自己憐憫に陥ることを望んでおられません。むしろ、神様が私たちに伝えようとしておられるのは、こういうことです。

「私は今もあなたを愛している。私は今もあなたを用いることができる。」

だから、落胆しないでください。

あきらめないでください。

立ち上がりましょう。

そして、再び戦いに向かいましょう。

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ヨシュア記

隠すことができない

私は関西にずっと住んでいて、関西弁を少し話します。関西では多くの人が「あかん」という言葉をよく使います。

少し可笑しいですが、今日の箇所には「アカン」という名前の人が出てきます。そして、アカンは本当にあかんかったのです。

(ごめんなさい。私の前の牧師がその駄洒落を使っていて、私は忘れられません。)

とにかく、アカンはイスラエルの人々に大きな問題をもたらしました。

イスラエルがエリコを征服した後、神様は「すべてを破壊しなさい」と命じられました。

けれども、アカンは自分のために衣服や金、銀を取ってしまいました。その後、イスラエルが「アイ」という町と戦った時、神様が共におられなかったため、彼らは恐れて逃げ出しました。

ヨシュアと民は失望し、「どうしてこんなことが起こったのか」と問いかけました。

すると神様はこう答えられました。「立ちなさい。イスラエルは罪を犯した。それを取り除かない限り、何をしてもうまくいかない。」

そこで、イスラエル人は神様の前に立ち、 神様がアカンの罪を明らかにされました。

その罪を処理して初めて、イスラエル人は神様の計画を再び成し遂げることができたのです。

私たちも同じです。 時々、私たちは心の中に罪を隠し、 「誰にも知られていないから大丈夫だ」と思ってしまうことがあります。 しかし、どれほど巧みに隠しても、神様から隠すことはできません。

実は、この事件の前に、神様はこう言われていました。

あなたがたの罪の罰があることを思い知りなさい。(民数記32:23)

つまり、どれほど巧みに罪を隠しても、 必ず罰を受けることになります。

アカンがまさにその例です。

では、なぜ罪はそれほどまでに悪いのでしょうか。 二つの理由があります。

一つ目は、罪が他の人に影響を与えるということです。 自覚がなくても、必ず誰かに影響します。

おそらくアカンは、「自分の行動は悪いかもしれないが、他の人に迷惑はかけないだろう」と思ったのかもしれません。 けれども、実際にはその罪によって、イスラエルはアイの戦いで敗走しました。

二つ目は、罪が神様の計画の実現を妨げるということです。

私たちが罪を犯しても、神様は私たちを見捨てることはありません。 神様はそのように約束しておられます。 とはいえ、神様は罪を抱えたままの私たちを祝福することはされません。

ですから、神様の祝福を受けたいと願うなら、罪を隠すのではなく、 正直に向き合い、処理しなければならないのです。

しかし、ここに良い知らせがあります。 神様はいつでも、喜んで私たちを赦してくださいます。 第一ヨハネ1:9には、こう書かれています。

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

だから、決して罪を隠してはいけません。 むしろ、神様の御前に進み出て、告白しましょう。 そうすれば、神様は私たちを赦してくださり、 祝福もしてくださいます。

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ヨシュア記

悪を再び建て直す?

この話を何度も読んできましたが、今回は特に印象に残ったのは最後の部分です。 エリコを滅ぼした後で、ヨシュアはこの呪いのことばを語りました。

この町エリコの再建を企てる者は、主の前にのろわれよ。

その礎を据える者は長子を失い。その門を建てる者は末の子を失う。(ヨシュア記6:26)

何年か後に、ある人がエリコを建て直そうとした時、 ヨシュアが語ったとおり、その人は呪われました(列王記第一16:34)。

なぜヨシュアはこの呪いを語ったのでしょうか。 おそらく、エリコが悪の象徴であったからです。

エリコの中では、売春や子どものいけにえ、偶像礼拝が行われていました。 神様がイスラエルの民にその地の住民を攻め取り、 その地を得るよう命じられた理由の一つは、 その悪を取り除くことにありました。

だからこそ、ヨシュアはこう言ったのです。 「この悪は決して戻ってはならない。 もし誰かがこれを建て直すならば、 神様はその人を呪われるだろう。」

では、私たちはどうでしょうか。 私たちの人生の中で、 一度壊されたはずの悪を再び建て直してはいないでしょうか。

聖書はこう教えています。 私たちがキリストを信じる者となるとき、 「古い人」――つまり、かつての考え方や生き方――は キリストとともに十字架につけられたのです。

ですから、私たちはもはや罪の奴隷ではありません(ローマ6:6)。

しかし、私たちがわざと罪を犯すことを選ぶなら、それは古い人をよみがえらせることになります。

その結果として、罪は私たちを滅ぼします。もちろん、それは私たちの魂を滅ぼすのではありません。 神様はすでに私たちを救ってくださったからです。

とはいえ、罪はこの世において、 私たちの人生を滅ぼしうるのです。 結婚を滅ぼし、人間関係を壊し、評判を台無しにし、私たちが大切にしているすべてのものを 打ち砕いてしまう可能性があるのです。

その意味で、罪深い生活を再び建て直そうとする者は、「呪われた」と言えるかもしれません。

だから、パウロはこう書きました。

このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。

また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。(ローマ6:11-14)

あなたはどうでしょうか。あなたの人生の中で、罪を建て直しているでしょうか。 それとも、罪をそのままにし、キリストのために生きているでしょうか。

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ヨシュア記

誰が誰の味方なのか

去年、アメリカではティム・ティーボウという人物が注目を集めました。 彼はアメリカン・フットボールのクォーターバックです。

通常、クォーターバックには優れたリーダーシップと正確なパス能力が求められますが、 ティーボウはリーダーシップには定評があるものの、パスはあまり得意ではありません。

それにもかかわらず、彼のチームは6連勝を記録し、 多くの人々を驚かせました。

彼が有名になったもう一つの理由は、 彼がクリスチャンであり、自分の信仰を公然と語ることにあります。 インタビューのたびに、彼は神様を賛美し、感謝を表します。 そのため、時には批判も受けるのです。

つまり、「彼は神様が自分に試合の勝利を与えてくださると本気で思っているのか」と、人々は問いかけるのです。

けれども、彼はそのようなことは口にしません。 実際、私自身は、神様がどのチームを勝たせるかには、あまり関心がないと感じています。 (とはいえ、時々、自分の好きなチームのために祈ることもありますけれどね。)😊

おそらく、ティーボウが伝えたいのはこういうことではないでしょうか。 「神様が私の味方であるというよりも、私は神様の味方でありたい。」

まさにこのことを、ヨシュアも学ばなければなりませんでした。

ある日、ヨシュアは見知らぬ人物を見かけました。 そこで、彼はこう尋ねました。

あなたは私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。(ヨシュア記5:13)

しかし、その人はこのように答えられました。

いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。(14)

多くの学者は、その見知らぬ人物がイエス様ご自身であると信じています。 そこで、その方はこう言われました。

あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。(15)

ヨシュアは、その方の語った言葉に従い、 神様の戒めを民に伝えました。

私たちはよくこう問いかけます。 「神様は私の味方でしょうか。」

確かに、それは良い問いかもしれません。 聖書には、「私はあなたの味方だ」という神様の言葉がたびたび記されています。 けれども、もしかすると、 こう問いかけるほうが、もっと大切かもしれません。

「私は神様の味方なのだろうか。」

つまり、私たちは神様の御言葉に従って歩んでいるでしょうか。

これこそが、主の軍の将がヨシュアに示した本質でした。 重要なのは、神様がヨシュアの味方かどうかではなく、 ヨシュアが神様の側に立っているかどうかです。

ヨシュアは、神様の前に柔らかな心を持ち、 神様に従う者として整えられました。 だからこそ、神様は彼を力強く用いることができたのです。

それは、私たちにも言えることです。

あなたは、どうでしょうか。 あなたは、誰の味方についているのでしょうか。

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過去を取り除く神

日本では、年末になると、多くの人々が「忘年会」を開きます。 つまり、「今年のことは忘れて、新しい年を迎えましょう!」というわけです。

けれども、私はこの概念がいまいちよく分かりません。 私は英語の生徒たちにこう尋ねました。 「今年は、そんなにつらい年だったんですか?」

「いや、そうでもありません。」

「じゃあ、何を忘れたいんですか?」

「うーん……さあ。」

いずれにせよ、それが今日の箇所との関係はいったい何でしょうか。それは、クリスチャンにとっては、私たちの過去はキリストにあって取り除かれているのです。

神様がイスラエルの民を約束の地へ導かれたとき、こう語られました

きょう、わたしはエジプトのそしりを、あなたがたから取り除いた。(ヨシュア記5:9)

つまり、「あなたの過去には、 多くの恥とそしりがありました。 あなたがたは長い間、エジプトで奴隷として過ごしてきました。 けれども、それはもう終わったのです。」

神様は、あなたの過去を取り除かれました。だからこそ、未来に希望を抱きなさい。私には、あなたのために素晴らしい計画があるのだから。

神様は、今日の私たちにも同じように語っておられます。

「あなたがたは、長い間、罪の奴隷であり、 サタンの支配のもとにありました。罪のゆえに、恥と誹りに満ちていました。

けれども、私はそれらをすべて取り除いた。私は、あなたのために良い計画を持っている。だから、未来を喜んで待ちなさい。」

イザヤ書43:25で、神様はこう語られました。

わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。

第一コリント2:9で、パウロはこう書いた。

目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。

あなたの過去の重荷は、あまりにも重すぎると感じているでしょうか。

罪による罪悪感と恥の重荷に、押しつぶされそうになってはいないでしょうか。

けれども、神様はそれらをすでに取り除いてくださいました。 神様は、あなたの罪をもう思い出されず、あなたのために、想像を超える将来を準備しておられます。

ですから、私たちは過去に背を向けて、神様が備えておられる将来に向かって歩みましょう。

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見えない未来に直面する時

私たちは未来に直面するとき、 何が起こるのか、よく分かりません。 だから、未来を楽しみに感じることもあれば、 時には不安や恐れを抱くこともあります。

イスラエルの民がヨルダン川を渡り、 神様が約束された地に入ろうとしていたときも、 同じような思いを抱いていたかもしれません。

長い旅路を経て、ようやくその地にたどり着いた―― その喜びは計り知れなかったことでしょう。

けれども同時に、未知の地に足を踏み入れる不安や、 これから直面するであろう戦いや課題への 心配もあったはずです。

だから、ヨシュアはイスラエルの民に語りました。

あなたがたは、あなたがたの神、主の契約の箱を見、レビ人の祭司たちが、それをかついでいるのを見たなら、あなたがたのいる所を発って、そのうしろを進まなければならない。。。

それは、あなたがたの行くべき道を知るためである。あなたがたは、今までこの道を通ったことがないからだ。(ヨシュア記3:3ー4)

そして、ヨシュアはこう言いました。

あなたがたの身をきよめなさい。あす、主が、あなたがたのうちで不思議を行われるから。(5)

神様は、今日の私たちにも同じことを語っておられます。 契約の箱は、神の臨在を象徴するものでした。 そして、神様がイスラエルの民に「私について来なさい」と命じられたように、 今も私たちに、「私に従いなさい」と招いておられるのです。

当時、イスラエルの民は 何をすべきか、どこへ行くべきか、よく分かっていませんでした。 しかし、神様はすべてをご存知でした。

同じように、私たちが未来に直面するとき、 何が最善の選択なのか、自分に何が求められているのか―― はっきりと見えないことがあります。 けれども、神様はすべてをご存知です。 だからこそ、私たちにこう言われるのです。 「私について来なさい。」

さらに神様は、イスラエルの民に「身を清めなさい」と命じられました。 これは単に体を整えることではなく、 神のために自らを聖別するということです。

彼らが心を整え、自らを神にささげたとき、 神様は驚くべきみわざを行うと約束されました。

神様は、私たちにも同じことを語っておられます。 私たちは、神のために自らを聖別するべきなのです。 自分自身のものではないことを、思い出しましょう。

イエス様は、ご自身の血によって私たちを贖われました。 ですから、私たちはイエス様に属しているのです。 そして、私たちが自分の人生を神様にささげるとき、 神様は驚くべきみわざを行われます。

さらに、神様はもう一つのことを命じられました。 イスラエルの民がヨルダン川を渡るとき、 神様は川の流れをせき止められました。

その後、神様はこう命じられました。

「ヨルダン川の中から十二の石を取り、 今夜宿泊する場所に置きなさい。 そして、あなたの子どもたちが 『この石は何ですか』と尋ねたとき、 私があなたたちのために何をしたかを語りなさい。」

このことは、私たちにも教えています。 神様が私たちを試練から救い出してくださったとき、 その証しを記録に残しておくのは良いことです。

日記に記すことや、ブログに書くことも役に立つかもしれません。 大切なのは、「記録を作ること」です。

そうすれば、 見えない未来に直面しても恐れることなく、 神様が再び救い出してくださるという確信を 持ち続けることができるのです。

あなたは、未来を前にしたとき、 恐れの目で見つめるでしょうか。 それとも、信仰の目で見つめるでしょうか。

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家族が救われるには

私はクリスチャンホームで育ったことを、心から感謝しています。 父が亡くなった時、彼が天に召されたという確信が、私たち家族に慰めと平安を与えてくれました。

けれども、多くの人々には、家族に対してそのような平安がありません。 だからこそ、彼らは家族の救いのために祈るのです。

それは、まさにラハブの願いでもありました。 ラハブは、イスラエルがエリコを攻撃することを知っていたので、 イスラエルの斥候たちにこう願いました――「どうか、私と私の家族を生かしてください。」

すると、その斥候たちは答えました。

その人たちは彼女に言った。「あなたが私たちに誓わせたこのあなたの誓いから、私たちは解かれる。

私たちが、この地に入って来たなら、あなたは、私たちをつり降ろした窓に、この赤いひもを結びつけておかなければならない。また、あなたの父と母、兄弟、また、あなたの父の家族を全部、あなたの家に集めておかなければならない。

あなたの家の戸口から外へ出る者があれば、その血はその者自身のこうべに帰する。私たちは誓いから解かれる。

しかし、あなたといっしょに家の中にいる者に手をかけるなら、その血は私たちのこうべに帰する。(ヨシュア記2:17-19)

斥候たちは、ラハブとその家族のために救いの方法を備えました。 赤い紐をラハブの家の窓に結びつけておく必要がありました。 イスラエルが攻撃してくる時には、ラハブとその家族は家の中にとどまっていなければなりませんでした。

神様もまた、私たちの救いのための方法を備えてくださいました。 私たちがクリスチャンとなる時、神様は聖霊によって証印を押してくださいます(エペソ1章13節)。

しかし、私たちが家族も救われてほしいと願うなら、彼らにもその証印が必要です。 他に方法はありません。

ラハブの家族が救われるためには、ラハブが備えられた方法について彼らに語る必要がありました。 私たちもまた、同じようにしなければなりません。 家族に何も語らずに、ただ祈るだけでは十分ではないのです。

私たちが自分自身の救いの中にとどまり、ただ家族の救いを願うだけではいけません。 私たちは口を開き、福音を語る必要があるのです。

ラハブがそうしたからこそ、その家族は救われたのです。

あなたはどうでしょうか。 あなたの家族にとって、イエス様を知っている唯一の存在は、もしかするとあなたかもしれません。 あなたは、彼らにイエス様のことを伝えますか。 彼らを神様の家へと導きますか。

それとも、沈黙したまま、彼らを神様から離れたまま死なせてしまいますか。

「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。

しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。

聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。

宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。(ローマ10:13ー14)

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ヨシュア記

成功の鍵

成功。 私たちは皆、成功を望んでいます。 「私の目的は失敗することです」と言う人はいないでしょう。

成功を得るのは簡単ではありません。 書店には、「成功の秘訣」を語る本が山のように並んでいます。

けれども、ここで神様は、 私たちに「真の成功」への道を教えてくださいます。

多くの人はこう考えます―― 「成功するには、とにかく自分の力で努力しなければならない。」

しかし、神様はまったく異なる視点を持っておられます。 神様は、ヨシュアにこう語られました。

あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。

わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。

強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。

ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行え。これを離れて右にも左にもそれてはならない。

それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。

この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。

そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。

わたしはあなたに命じたではないか。

強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。(ヨシュア記1:5-9)

神様によると、成功の鍵とは何でしょうか。

それは、自分自身に頼るのではなく、 神様に頼ることです。

神様の力に頼るべきです。 神様の知恵に頼るべきです。 自分の力と知恵に頼ってはならないのです。

そのようにして、神様はヨシュアに語られました。

強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。(9)

多くの場合、私たちは成功を得ようとして、 自分自身の力や知恵にばかり頼ってしまいます。 だからこそ、自分の手には負えないような仕事や問題に直面すると、 私たちはパニックに陥ってしまうのです。

しかし、神様はこう言われます。

「私はここにいる。あなたの味方だ。 だから、私を信頼しなさい。 恐れる必要はない。 問題に直面しても、落胆しなくてよい。 私はあなたと共にいる。 だから、私と共に歩み続けなさい。」

神様はヨシュアにも語られました。

「あなた自身の知恵に頼ってはならない。 むしろ、私の言葉と道を口ずさみ、 昼も夜もそれを思い巡らしなさい。 それだけでなく、 その言葉に忠実に従いなさい。 そうすれば、あなたは繁栄し、成功を得ることができる。」

私たちがどれほど自分の力と知恵に頼って失敗してしまうか。 ヨシュアは後に、アイという町でそのことを痛感しました。

一方で、ソロモンは成功の鍵をよく知っていました。 彼はこう書きました。

心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。

あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。(箴言3:5-7)

あなたは、どのように成功を追い求めていますか。