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ヨハネの手紙第一

死に至る罪

16-17節で、ヨハネは不思議で興味深いことを言います

だれでも、兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば、神はその人にいのちを与えてくださいます。

これは、死に至らない罪を犯している人たちの場合です。

しかし、死に至る罪があります。これについては、願うようにとは言いません。

不義はすべて罪ですが、死に至らない罪もあります。 (ヨハネの手紙第一5:16-17)

おそらく、ヨハネはヤコブが自分の手紙で述べた内容に触れているのではないでしょうか。ヤコブはこう言いました。

あなたがたのうちに病気の人がいれば、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。

信仰による祈りは、病んでいる人を救います。主はその人を立ち上がらせてくださいます。もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。(ヤコブ5:14-15)

多くの場合、病気は罪と直接の関係がないのです。むしろ、その病気は壊れた世界に生きていることから生じるのです。

しかし、ヤコブによれば、神様の裁きによって人が病気になる可能性もあるのです。そのため、私たちがその人のために祈ると、その人は癒されるだけでなく、その罪も赦されるのです。

ところが、ヨハネはヤコブの言葉に条件を加えています。ヨハネによれば、人が死に至る罪を犯すと、その人のために祈ることは無意味だとしています。

それでは、「死に至る罪」とは何でしょうか。18-19節でヨハネはそのことについて説明しているのです。

神から生まれた者はみな罪を犯さないこと、神から生まれた方がその人を守っておられ、悪い者はその人に触れることができないことを、私たちは知っています。

私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にあることを、私たちは知っています。(ヨハネの手紙第一5:18-19)

この手紙の中で、ヨハネはあえて罪を犯すことについて何度も警告しています。彼は繰り返しこう述べます。「神様の子どもは罪を犯す習慣を持っていません。」

18-19節で、ヨハネはその理由を説明しています。それは、イエス様が神様の子どもの心の中で働いておられるからです。

この全世界はサタンに支配されているかもしれませんが、私たちに関してはそうではありません。この世の人々はサタンの誘惑を克服することができませんが、神様の力によって、私たちは克服することができます。

したがって、悔い改めずにあえて罪を犯し続ける兄弟の運命は「死」です。

ヨハネが「死」と言うとき、それは何を意味しているのでしょうか。

一つの可能性は、神様がその人の命を取ることを意味しているのかもしれません。聖書の中には、そのような例が記されています。(使徒の働き5:1-10、第一コリント5:5、11:27-30)

もう一つの可能性は、その人が偽兄弟であることです。

その人は決して救われていなかったため、地獄に行くのです。その人は真理を知り、それを信じていると主張しましたが、彼の人生がその偽りを明らかにしたのです。

その人が真理を知っていた分だけ、神様は特にその責任を問われるのです。その人には何の言い訳も許されないのです。(へブル10:26-31)

要するに、すべての罪が同じというわけではありません。私たちすべてが時には罪を犯してしまうことがあります。ヨハネが述べたように、不義はすべて罪です。けれども、ふと罪に陥ることと、あえて罪に飛び込むこととは全く異なるものです。

もしあなたが罪を犯してしまっても、悔い改めるならば、神様はあなたを赦してくださいます。

ところが、悔い改めを拒むならば、神様の赦しを受けることはできません。その結果、あなたは神様の裁きを受けるしかありません。その裁きはこの世においても、死後においても下るかもしれません。

それでも、ヨハネは私たちのためにより良い希望を示しています。

また、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことも、知っています。私たちは真実な方のうちに、その御子イエス・キリストのうちにいるのです。

この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。(20)

つまり、イエス様はこの世に来られ、私たちの心と思いを真理に向けて開いてくださったということです。今や、私たちは神様を知り、イエス様のうちにとどまっています。また、イエス様も私たちのうちにとどまっています。

このようにして、私たちはいのちを持っています。

だからこそ、ヨハネはこの言葉をもってこの手紙を締めくくります。

子どもたち、偶像から自分を守りなさい。(21)

ヨハネは私たちにこう言っています。「あなたは真理に属しています。あなたは真の神に属しています。だから、自分自身を罪やこの世のものにあえて捧げてはなりません。それらは、神様が私たちのために備えたものの偽物です。

だから、罪から離れましょう。そしてイエス様のもとへ走りましょう。命であるイエス様に自分自身を捧げましょう。」

あなたは、自分自身を誰に捧げていますか。

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ヨハネの手紙第一

私たちに対する神様の愛に関する確信を持つなら

この手紙では、ヨハネの話がしばしばあっちこっちに飛んでいるように見えるかもしれません。

特に13節と14節では、そのように感じられるでしょう。ヨハネは私たちの救いの確信について話していたかと思うと、突然、神様が私たちの祈りに答えることについて語り始めます。それはなぜでしょうか。

しかし、この場合、その二つの聖句には深い繋がりがあるように思います。パウロはこう書きました。

私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。(ローマ8:32)

言い換えると、神様が最も尊いものを私たちに与えるほど私たちを愛しておられるのなら、神様は私たちのすべてのニーズにも備えてくださる、ということです。

おそらくヨハネも同じことを言っているのでしょう。彼はこう言いました。

神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。

何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。(ヨハネの手紙第一5:13-14)

時々、私たちは神様に何かを願うことをためらうことがあります。それは、自分が自己中心だと思うかもしれないからです。

しかし、神様の子どもとして、どんな願いであっても確信を持って神様に頼むべきです。なぜでしょうか。

それは、私たちが神様を呼び求めたとき、神様が私たちを救ってくださったほどに、神様は私たちを愛しておられるからです。その愛ゆえに、神様は私たちの大きな願いも小さな願いも聞いてくださいます。

さらに、神様が私たちを救ってくださったので、私たちは神様が私たちの最善を望んでおられることを確信できます。だから、神様は私たちを傷つけるものではなく、良い賜物だけを与えてくださるのです。

これが、私たちの願いの条件です。もし私たちが神の御心に従って願うなら、神様はその願いを聞いてくださいます。そして、もしその願いが私たちの益となるなら、神様はその祈りをかなえてくださいます。

けれども、その願いが私たちの益とならないのであれば、神様はその祈りをかなえてくださらないのです。

ですから、神様に願うことをためらわず、どんな願いもお伝えしましょう。

そして、神様に信頼する心を持ちましょう。神様が「はい」と答えるときも、「いいえ」と答えるときも、私たちは神様に信頼する子どもとして、神様が私たちの最善を望んでおられることを信じましょう。

十字架において、神様は私たちに対する愛と信頼に値するお方であることを証明されたのです。

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ヨハネの手紙第一

神様の証し

神様が三位一体として救いの道を証しされるということは、非常に興味深いことだと思います。この記事を書く前には、そのことについて考えたことがありませんでした。

ヨハネはこう言いました。

この方は、水と血によって来られた方、イエス・キリストです。水によるだけではなく、水と血によって来られました。

御霊はこのことを証しする方です。御霊は真理だからです。三つのものが証しをします。御霊と水と血です。この三つは一致しています。(ヨハネの手紙第一5:6-8)

この手紙の背景を知らないと、その言葉を理解するのは少し難しいかもしれません。

ヨハネの時代、多くの人々は「イエス様はいつもキリスト(救い主)でいたわけではない」と主張していました。むしろ、彼らは非常に奇妙な教えを信じていたのです。

それは、イエス様がバプテスマを受けたときに「キリスト」という霊がイエス様の中に入ったものの、十字架にかかったときには、その霊がイエス様から立ち去った、というものです。

そのため、彼らの主張によれば、イエス様は十字架で死んだときにはキリストではなくなっており、私たちの罪の代価を支払うことができなかった、というわけです。

しかし、イエス様はバプテスマのときだけでなく、十字架で死なれたときにも、御自分がキリストであることを証明されました。

バプテスマのとき(つまり、水の証し)、天の父がイエス様を称賛され、聖霊様が鳩のようにイエス様の上に降られました(つまり、御霊の証し)。

そして、聖書の預言通りに、イエス様は十字架で私たちの罪の代価を支払ってくださいました(つまり、血の証し)。

このように、天の父と御子と御霊、すべてが一致して救いの道を証ししています。その証しとは、救いがメシアを通してもたらされる、ということです。(「キリスト」とは「メシア」、すなわち「王と救い主」を意味します。)

では、なぜこの証しが重要なのでしょうか。それは、神様が証しされるなら、それに反論できる者は誰もいないからです。9-10節でヨハネはそのように主張しています。

私たちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しはそれにまさるものです。御子について証しされたことが、神の証しなのですから。

神の御子を信じる者は、その証しを自分のうちに持っています。神を信じない者は、神を偽り者としています。神が御子について証しされた証言を信じていないからです。(9-10)

私たちはしばしば人々の証しを信じます。それなら、どうして神様の証しを疑うのでしょうか。

神様がその証しをされた以上、神様に従っていると主張しながら、その証しを拒絶することはできません。

では、具体的にその証しとは何でしょうか。11-12節でヨハネは私たちに教えています。

その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。(11-12)

けれども、多くの人々はその証しを好みません。彼らは、イエス様以外にも多くの救いの道があると信じたいのです。

しかし、ヨハネによれば、私たちがそのように主張するなら、それは実際に神様を嘘つきと呼ぶことになります。

神様の証しを信じることで初めて、私たちは自分の救いについて平安と確信を持つことができます。

どうしてでしょうか。それは、私たちの救いが自分の行いに基づいていないからです。むしろ、その救いは神様の恵みとイエス様の十字架の働きに基づいています。私たちがしなければならないのは、その賜物をただ受け取ることだけです。

だからこそ、ヨハネはこう言います。

神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。(13)

ヨハネは、「あなたがたに永遠のいのちの微かな希望を与えるため」とは言わずに、「永遠のいのちの確信を与えるため」と語っています。

あなたはどうでしょうか。神様の証しを受け入れていますか。永遠のいのちの確信を持っていますか。

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ヨハネの手紙第一

私たちに対する神様の愛

前回の記事で私は、4章に戻るとお伝えしました。その聖句は非常に重要で、前回の記事の内容とも深く関係しています。

以前にも述べたように、私たちが神様の愛を受け入れ、それを深く味わえば味わうほど、自分自身に対する視点や周りの人々に対する視点が変わります。

だからこそ、その愛をさらに深く受け入れましょう。

ヨハネは次のように言います。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(ヨハネの手紙第一4:9-10)

その言葉を噛み締めましょう。

神様は私たちが地獄に行くことを許すことができたでしょう。それは神様の権利でした。神様には人を救う義務はありませんでした。

少し考えてみてください。神様は罪を犯した天使たちのためにイエス様を十字架に送ったでしょうか。神様はそうされませんでした。イエス様は人間たちだけのために死なれたのです。

また、神様はこの世を裁くためにイエス様を送ることもできたでしょう。イエス様は私たち全員を反逆者として裁くことができたでしょう。ところが、神様は私たちを裁くためではなく、私たちに命を与えるためにイエス様を送ってくださいました。

驚くべきことは、私たちが救いを求めていなかったという事実です。私たちは「神様、私は罪を犯しました。でも、あなたを愛しています。だから私を救ってください」と願ったわけではありません。

むしろ、私たちは自分の罪に耽り、それに満足していました。私たちには神様に従う意思がまったくありませんでした。

それでも、神様は私たちに目を向けてくださいました。それは私たちを裁くためではなく、私たちを救うためでした。

だから、神様はイエス様を宥めの供え物として送られたのです。

以前にも書きましたが、人々は神様を宥めるために供え物を捧げてきました。

しかし、神様は私たちがそのような供え物を捧げるのを待たれませんでした。私たちはその気がなかったし、たとえその気があったとしても、どんな供え物を捧げても神様を宥めることなどできなかったでしょう。

それでも、神様は私たちの代わりに供え物を捧げてくださったのです。

ヨハネの言葉はパウロの言葉に通じるものがあります。

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。(ローマ5:8)

神様が私たちのためにしてくださったことを、当たり前のものだと考えるのは簡単です。

しかし、そうしてはいけません。今日の第一ヨハネの聖句とローマ5:8を暗記しましょう。その言葉について思いを巡らせ、その真理を心に刻み込まれるようにしましょう。

そうすることで、あなたの人生は完全に変わるでしょう。

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ヨハネの手紙第一

私たちが本当に神様を知り、愛するなら(2)

今日は4章の聖句を一旦飛ばし、次の記事でその聖句に戻りたいと思います。今日は前回の話を完成させたいと思います。

以前の記事で述べたように、もし私たちが本当に神様を知り、愛しているなら、周りの人々への愛が私たちから自然に流れ出るはずです。だからこそ、ヨハネはこう語りました。

生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。(ヨハネの手紙第一5:1)

また、4章の終わりでヨハネは、「目に見える兄弟を愛していない人が、目に見えない神を愛することを主張することはできない」と言います。(4:20)

それでも、クリスチャンになったからといって、すぐにすべての人々を愛せるわけではありません。愛の実は、他の御霊の実と同じように、成長するのに時間がかかります。けれども、その実は必ず成長していきます。

2節には非常に興味深い言葉があります。ヨハネはこう言います。

このことから分かるように、神を愛し、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちを愛するのです。(2)

4章で読んだ内容から、ヨハネが反対のことを言うだろうと予想したかもしれません。つまり、「どうして私たちは自分が神様を愛していると知ることができるのでしょうか。それは、私たちが神様の子どもたちを愛するからです」ということです。

しかし、ヨハネが実際に語ったのは、「神を愛し、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちを愛する」ということです。

この二つの言葉の間には微妙な違いがあります。その違いは、私たちの焦点にあります。

最初の言葉では、自分が神様を愛していることを証明するために、私たちは一生懸命に周りの人々を愛することに焦点を当てています。けれども、人を愛するのが難しいときもあるので、その言葉は重荷になりがちです。

一方で、二つ目の言葉によれば、私たちは人々を愛することに集中せずに、神様を愛することに集中します。人々ではなく、神様が私たちの焦点です。

そして、神様ご自身や、私たちに対する神様の愛、さらには神様に対する私たちの愛に焦点を当てることで、私たちは自然に神様を喜ばせたいと思うようになります。その結果、私たちは神様の命令を守るのです。

最も重要な命令は二つあります。一つ目は、私たちは何よりもまず神様を愛するべきだということです。二つ目は、私たちは周りの人々を愛するべきだということです。これが愛の順序です。

したがって、神様を愛することに集中するならば、私たちは自然に人々を愛し始めます。

さらに、私たちが主に神様を愛することに集中すると、周りの人々を愛するという重荷が軽くなります。それはなぜでしょうか。

神様に焦点を当てると、私たちは神様の愛をもっと深く知るようになります。そして、その愛を受け入れれば受け入れるほど、私たちの視点が変わります。自分自身に対する視点も変わり、周りの人々に対する視点も変わるのです。

もはや、私たちは自分自身や周りの人々を性格や外見の美しさによって判断しません。むしろ、私たちは神様の目を通して自分自身と周りの人々を見るようになります。

神様は、私たちをゆがめる罪を見るのではなく、初めから私たちに与えてくださった神の似姿をご覧になります。その姿を見るとき、私たちが自分自身や周りの人々を愛することが、より簡単になります。

だからこそ、ヨハネは、神様の命令、特に人を愛するという命令に関して次のように語ることができるのです。

神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。(3-4)

神から生まれた者は皆、神様の愛をますます深く知るようになります。そして、その自然な反応として、彼らは神様を愛し、周りの人々を愛するようになります。だからこそ、私たちは罪や憎しみ、そしてこの世界からの攻撃を乗り越えることができるのです。

しかし、そのカギを決して忘れないでください。

世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。(5)

あなたはどうでしょうか。イエス様が神の子であると信じますか。イエス様があなたの罪のために命を捧げたほどに、神様があなたを愛しておられることを信じますか。その真理に深く浸りましょう。そうすれば、あなたの人生は完全に変わるでしょう。

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ヨハネの手紙第一

私たちが本当に神様を知り、愛するなら

イエス様は偽預言者たちについて、次のように語られました。

あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。(マタイ7:16)

イエス様は特に偽預言者たちについて語られましたが、私たちは自称クリスチャンたちについても同じことを言うことができます。多くの人々はキリストに従っていると主張し、神様を知り、愛していると述べます。しかし、彼らの実は何でしょうか。

もちろん、最も大切な実は愛です。

だからこそ、ヨハネはこう言います。

愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。

愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。(ヨハネの手紙第一4:7-8)

また、

愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。

いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。(11-12)

ヨハネによれば、神が私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされる証拠とは何でしょうか。それは、私たちが互いに愛し合うことです。

さらにヨハネは、この教えを深めていきます。神様がイエス様を世の救い主として送られたことを宣言した後、ヨハネは、その真理を私たちの心の中で受け入れたときの当然の反応を説明します。彼はこう言います。

だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。

神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。(15-16)

ヨハネは、私たちの神様との関係が、私たちが人を愛するかどうかによるものだと言っているのではありません。むしろ、私たちが神様のうちにとどまり、神様も私たちのうちにとどまっておられるからこそ、私たちは人を愛し始めるのです。

では、なぜヨハネはそう語るのでしょうか。

それは、私たちが神様が私たちのために何をしてくださったかを本当に理解するとき、私たちの考え方が完全に変わるからです。

その結果、私たちは自分の自己価値を疑うことがなくなります。私たちは自分の価値が周りの人々の意見に基づいていないことを知るようになります。むしろ、神様が私たちを愛してくださるという確信を持つのです。

その確信こそが、私たちの人生を完全に変えるのです。

そして、裁きの日においても、私たちはその確信を持ち続けます。

ヨハネはこう言います。

こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。(4:17-18)

ヨハネはこの話を次のようにまとめています。

私たちは愛しています。神が私たちを愛してくださったからです。(4:19)

そういうわけで、ヨハネはこう言います。

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することは出来ません。

神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。

イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。(4:20-21,5:1)

要するに、私たちが本当に神様を知り、愛しているなら、神様のほかの子どもたちをも愛するはずです。

もし、私たちにとって周りの人々を愛することが難しいとしても、それは私たちがクリスチャンではないということを意味するわけではありません。

愛は神様との関係から生まれる実です。すべての実と同じように、その実は最初は小さいものです。しかし、その実は次第に成長していきます。

私たちの神様との関係が深まれば深まるほど、また、神様の愛をよりよく理解すれば理解するほど、周りの人々に対する私たちの愛も成長していくはずです。

次の記事では、この話をさらに続けたいと思います。

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ヨハネの手紙第一

霊を吟味する

多くの人々は、自分がキリストに従い、聖霊様を持ち、福音を宣べ伝えていると主張します。けれども、私たちが問わなければならないのは、その人たちが本当のキリストに従い、本当の聖霊様を持ち、本当の福音を宣べ伝えているかどうかということです。

パウロはコリントのクリスチャンたちのことを心配していたので、次のように言いました。

蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔から離れてしまうのではないかと、私は心配しています。

実際、だれかが来て、私たちが宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいは、あなたがたが受けたことのない異なる霊や、受け入れたことのない異なる福音を受けたりしても、あなたがたはよく我慢しています。(第二コリント11:3-4)

ヨハネにもそのような心配があったため、この手紙を書きました。4章32節でヨハネは、私たちが神様が与えてくださった御霊によって、神様が私たちのうちにとどまっておられることが分かると言っています。その後、ヨハネは私たちに警告を与えます。

愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。(ヨハネの手紙第一4:1)

私は、ヨハネが急に話題を変えたわけではないと思います。むしろ、この二つの聖句は繋がっていると感じます。

ヨハネによれば、聖霊様は私たちのうちにとどまっておられるのです。それと同時に、ヨハネが警告しているのは、悪霊たちも存在するということです。さらに、多くの場合、彼らは光の御使いに変装するので、私たちは注意を払わなくてはならないのです。

旧約聖書の時代に偽預言者たちがいたように、ヨハネの時代にも偽預言者がいました。そして、現代にも偽預言者が存在しています。その偽預言者たちは皆、悪霊から力を受けています。

したがって、ある人が神様の言葉を伝えると主張するのであれば、私たちはその人とその言葉を吟味しなくてはなりません。彼らの滑らかな話し方や霊的な経験に惑わされてはいけません。

では、どのようにして私たちは御霊と悪霊を区別できるのでしょうか。

一つの方法は、彼らのイエス様に関する教えを吟味することです。

ヨハネの時代には、多くの人々が、イエス様が本当にこの世に人間として来られたかどうかを疑っていました。彼らによれば、イエス様は人間に見えたけれど、本当の人間ではなかったとされています。

現代では、イエス様が人間であったかどうかを疑う人はそれほど多くないのです。けれども、彼らはイエス様が神であるかどうかを疑うのです。

ヨハネによれば、イエス様の本性を認めない人、つまり、イエス様が100%人間であり、同時に100%神であることを認めない人は、神様から来たものではありません(4:2-3)。

もう一つの方法は、その人の教えが、イエス様や福音に関する使徒たちの教えに反しているかどうかを吟味することです。ヨハネはこう言います。

私たちは神から出た者です。神を知っている者は私たちの言うことを聞き、神から出ていない者は私たちの言うことを聞きません。

それによって私たちは、真理の霊と偽りの霊を見分けます。(4:6)

その言葉は厳しいものです。けれども、その言葉によって、私たちは神様から与えられた使徒たちの権威を理解することができます。

したがって、「私は神様に従う」と主張しながら、使徒の教えに反対することはできません。そのような人の言葉を聞くと、その人が神様から来た者ではないことが分かります。

残念なことに、多くの人々は自分が聞くことを吟味しません。むしろ、ある牧師や教師が「自分はイエス様に従っている」と主張すると、簡単にその人を信じてしまいます。

その結果、彼らは暗闇に落ちてしまいます。彼らはイエス様に従わずに、反キリストたちに従っています。

しかし、私たちが霊たちを吟味すれば、そのような恐れは必要ありません。なぜなら、ヨハネはこう言いますからです。

子どもたち。あなたがたは神から出た者であり、彼らに勝ちました。あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。(4:4)

あなたはどうでしょうか。霊たちを吟味していますか。

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でも、私は本当に救われているだろうか。

「でも、私は本当に救われているだろうか。」

以前の記事で書きましたが、子どもの頃、私はその疑問をよく抱いていました。

正直に言うと、その疑問に答えるのは難しいことなのです。なぜなら、神様だけが人間の心をご存じだからです。

また、私たちが神の子どものしるしを自分に当てはめようとするとき、自分の失敗をよく見るのです。私たちは罪を犯すこともあれば、人を愛さないこともあるのです。

それでも、私たちは少なくとも確信をもって「イエス様を本当に信じています。私の救いのためにイエス様に信頼しています」と言えるはずです。

けれども、もし自分の救いに関して確信を持てないなら、私はこの心強い言葉をお伝えしたいと思います。自分の欠点を見て心配するのであれば、私はあなたが救われていると思います。

私が疑うのは、自分の罪を気にせずに「私はクリスチャンだ」と主張する人です。

以前も言いましたが、本当のクリスチャンはイエス様のようになりたいと願います。なぜなら、彼らはイエス様を愛しているからです。だから、罪に陥るとき、彼らは自責の念に苦しみます。

一方で、偽クリスチャンはイエス様のようになりたいとは思いません。だから、罪に陥っても気にしないのです。

さらに、偽クリスチャンは自分の罪や愛の欠如について常に言い訳をします。本当のクリスチャンはそれらを悲しみ、悔い改めるのです。

とはいえ、あなたが自分のクリスチャン生活を振り返ると、変化が見られるはずです。周りの人々に対するあなたの態度が変わっているはずです。つまり、ますます彼らをあわれみ、愛するようになっているはずです。

また、自分の罪を見たとき、以前よりも違和感を覚えるはずです。以前は気にならなかった罪が、今では気になるものになっているでしょう。

ヨハネは、クリスチャンがそのような変化を経験しないという考えを一切想像しませんでした。

しかし、もう一つ注目すべきことがあります。それは、最近の英語訳聖書で見られることです。

日本語の聖書では、こう書かれています。

そうすることによって(つまり、人を愛することによって)、私たちは自分が真理に属していることを知り、神の御前に心安らかでいられます。

たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます。神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存じだからです。(ヨハネの手紙第一3:19-20)

新改訳では、19節は18節を指しています。

けれども、最近の英訳では、別の訳を見ることができます。それによると、19節は20節を指しています。つまり、

以下のことによって、私たちは自分が真理に属していることを知り、神の御前に心安らかでいられます。

たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます。神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存じだからです。

要するに、自分があまり変わっていないと感じて罪悪感を抱いたり、変化を見ていながらもなお罪悪感を持つなら、次の大切な真理を理解してください。それは、自分の感情があなたの裁判官ではないということです。裁判官は神様です。

そして、神様はすべてをご存じです。神様は、あなたが本当に神様を愛しているかどうかを見分けることができます。また、神様はご自身がどのようにあなたの人生を変えたかを完全に理解されています。

だから、罪悪感に苦しんでいるのなら、神様を追い求め続けましょう。イエス様のようにもっと近づけるよう努めましょう。周りの人々にイエス様の愛を示しましょう。

もし罪に陥ったなら、立ち上がって悔い改め、もう一度歩み始めましょう。神様がいつもあなたの味方であることを心に留めておきましょう。

神様はあなたをいつも責めているわけではありません。もしあなたが神様を愛しているなら、神様はその愛を認め、決してあなたをあきらめません。

さらに、神様の恵みを深く知れば知るほど、その罪悪感は次第に消えていくでしょう。だからこそ、ヨハネはこう言います。

愛する者たち。自分の心が責めないなら、私たちは神の御前に確信を持つことができます。そして、求めるものを何でも神からいただくことができます。私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。(21-22)

言い換えると、あなたの恐れは消え、神様の愛に対する確信を持ち、人生が変わり、神様との関係はさらに親密になります。

あなたの思いが天の父の思いと一致し、神様の御心に従って祈り始めます。そうするとき、神様がその祈りに応えてくださるので、あなたの喜びは溢れ出し、神様に属しているという確信がさらに強まります。

しかし、その日が来るまで、神様を追い求め続け、ヤコブの言葉を心に留めておきましょう。

神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪人たち、手をきよめなさい。二心の者たち、心を清めなさい。(ヤコブ4:8)

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神の子どものしるし(3)

「行動は言葉よりも雄弁です。」

神の子どもにとって、それは真理です。ヤコブの手紙ではその真理を見ることができますし、この手紙でもその真理を見ることができます。

イエス様の行動は非常に雄弁でした。

ヨハネはこう言います。

キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。(ヨハネの手紙第一3:16)

言い換えると、愛は本当に実践的なものです。十字架で死なれることによって、イエス様はご自身の愛を示されました。そのように、私たちも兄弟たちと姉妹たちのために命を捨てるなら、自分の愛を示すことになるのです。

私たちがその真理を見逃さないように、ヨハネは続けてこう言います。

この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。

子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。(17-18)

要するに、愛は何もしないものではありません。むしろ、相手の必要を見たとき、愛は哀れみをもって手を伸ばします。

それは神の子どものしるしであるはずです。ただ愛の言葉ではなく、むしろ愛の行動です。

もし私たちが傷ついている人たちを見ても、彼らに対する哀れみを持たず、自分自身に集中しているだけなら、どうして自分が神の子どもと自称できるでしょうか。私たちが神様の愛を受けているのに、どうして彼らに手を伸ばさないのでしょうか。

あなたはどうでしょうか。あなたの人生は愛で特徴づけられているでしょうか。周りの人々を哀れんでいるでしょうか。それとも、もしかしたら気にしていないでしょうか。

イエス様の言葉を心に留めておきましょう。

まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。。。

おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。(マタイ25:40,45)

周りの人々に対する自分の愛は、あなたについて何を語っているでしょうか。

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ヨハネの手紙第一

神の子どものしるし(2)

前回の記事では、私たちが見たのは、神の子どものしるしが義であるということです。れっきとした神の子どもたちは、清くなりたいと願います。なぜなら、彼らが愛するイエス様が清い方だからです。

そして、罪に陥ったとき、彼らはその罪を後悔し、すぐに悔い改めます。

私が初めて汚い言葉を口にした時のことを、今でもよく覚えています。そのとき私は中学生で、意図的にそうしたことを覚えています。しかし、その後、私は罪悪感に駆られ、それ以来、二度とそのような言葉を使ったことはありません。

おそらく、その罪悪感を感じた理由は、私が神の子どもだからでしょう。本当のクリスチャンがあえて罪を犯す習慣を持つことはあり得ません。また、罪を犯すときには、本当のクリスチャンはすぐに悔い改めるはずです。

それでも、クリスチャンが罪を犯すこともあります。だからこそ、ヨハネは私たちにこう促します。

さあ、子どもたち、キリストのうちにとどまりなさい。そうすれば、キリストが現れるとき、私たちは確信を持つことができ、来臨のときに御前で恥じることはありません。(ヨハネの手紙第一2:28)

どうやって、私たちはイエス様のうちにとどまることができるでしょうか。ヨハネは3章の最後で教えています。

私たちが御子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うこと、それが神の命令です。

神の命令を守る者は神のうちにとどまり、神もまた、その人のうちにとどまります。

神が私たちのうちにとどまっておられることは、神が私たちに与えてくださった御霊によって分かります。(3:23-24)

ようするに、イエス様が現れるとき、確信を持って恥じることのないようにしたいのであれば、神様に従わなくてはなりません。また、神様の言葉に従わなくてはなりません。

神様は私たちに何を命じたのでしょうか。一番大切な命令は、イエス様を信じることです。私たちは自分の救いのためにイエス様を信じる必要があります。

実は、その信仰こそクリスチャンの最初のしるしです。人間の根本的な問題は、私たちが神様に背を向け、「私は自分の道を行く。私は自分のために生きる」と言うことです。

しかし、人がクリスチャンになると、その人の最初の決断は、その考え方を捨てることです。むしろ、その人はこう言います。「主よ。私の道ではなく、これからはあなたの道を行きます。」

その最初の段階は、神様がイエス様を通して与えてくださる救いの賜物を受け取ることです。その人は、自分の努力やほかの宗教によって救いを得ようという態度を捨てます。むしろ、その人は自分の救いのためにイエス様とその十字架の働きを信じます。

このことによって、神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりします。義を行わない者はだれであれ、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。(3:10)

どうしてヨハネは、兄弟を愛するという命令を強調するのでしょうか。

一つの理由は、その命令がキリスト教のメッセージの中心であるからです。ヨハネはこう言います。

互いに愛し合うべきであること、それが、あなたがたが初めから聞いている使信です。(11)

それは上級者向けのキリスト教の教えではありません。それは初心者のための教えです。

さらに、私たちが本当にイエス様の愛を知っているなら、その愛は自然と私たちから流れ出るはずです。

ヨハネはこう言っています。

私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。 神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。(3:16)

だからこそ、れっきとしたクリスチャンの確かなしるしは、周りの人々に対する愛です。

ヨハネはこう言います。

私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています。

だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。(3:14-15)

あなたはどうでしょうか。あなたは神様の子どものしるしを持っているでしょうか。

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神の子どものしるし

どうすれば、自分が本当に神の子どもであると分かるでしょうか。どうすれば、自分が確かに救われていると確信できるでしょうか。

私は7歳のときに救われましたが、長い間、自分が救われているのかどうかを疑っていました。

けれども、今日の箇所で、ヨハネはその疑問に答えています。

あなたがたは、神が正しい方であると知っているなら、義を行う者もみな神から生まれたことが分かるはずです。(ヨハネの手紙第一2:29)

原語では、そのニュアンスは、神の子どもがいつも義を行うという意味ではなく、むしろ義を行うことがその人の習慣であるということです。

言い換えると、もしあなたが本当に救われているなら、あなたの人生は義によって特徴付けられているはずです。周りの人々があなたを見ると、信仰を実践して義を行う人として映るでしょう。

これに対して、この世の人々の生活は全く異なります。だからこそ、ヨハネはこう言っています。

私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。(ヨハネの手紙第一3:1)

私たちが神の子どもとして、自分の信仰を実践し、義を行うと、この世の人々は私たちを見て戸惑うでしょう。彼らはなぜ私たちがそのように生きているのかを理解できません。なぜなら、彼らは神様を知らないからです。

もし彼らが神様を知らないのなら、私たちのことも理解できないはずです。

ヨハネは続けてこう言います。

愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。(3:2)

神の子どもとして、私たちが義を行う動機は何でしょうか。私たちは天国を得るためにそうしているのでしょうか。私たちは周りの人々に感動を与えようとしているのでしょうか。

そうではありません。むしろ、ヨハネによれば、私たちの動機は神様に対する愛です。神様はご自身の愛を私たちに豊かに注ぎ、私たちをご自身の子どもと呼んでくださいます。

さらに、私たちはいつか愛するイエス様のようになる希望を持っています。イエス様が再びこの世に来るとき、私たちは新しい体を受けます。その体はイエス様の栄光を反映し、私たちは完全に義人となります。

ある人々はこう考えます。「どうして罪と戦わなくてはならないのだろう。私はその罪を決して克服できないだろう。」

ところが、あなたがクリスチャンなら、その考え方は間違っています。ある日、あなたは完全になるのです。私たちには希望があります。

ヨハネによれば、真の信者たちはその希望を持っているので、キリストが清い方であるように、自分も清くなりたいと思います。(3:3)

れっきとしたクリスチャンであるなら、皆そのように考えます。イエス様のように清くなりたいと思わないのであれば、自分がクリスチャンであると主張できるでしょうか。

ヨハネによれば、イエス様は罪を取り除くためにこの世に来られました。また、イエス様のうちには罪がありません。(5)

さらに、イエス様は悪魔のわざを打ち破るためにこの世に来られました。(3:8)

だから、人々が自分がクリスチャンであると自称しながら、あえて罪を犯し、イエス様が打ち破ろうとしているわざを推進するのはどうしてでしょうか。それはあり得ないことです。私はその人の救いを本当に疑います。

あなたはこう言うかもしれません。「ブルース、それは言い過ぎだ。人を裁いてはいけない。」

けれども、ヨハネの言葉を読んでみてください。

キリストにとどまる者はだれも、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見たこともなく、知ってもいません。

幼子たち、だれにも惑わされてはいけません。義を行う者は、キリストが正しい方であるように、正しい人です。罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。(ヨハネの手紙第一3:6-8)

また、

神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。(9節)

もう一度私は言います。ヨハネが意味しているのは、れっきとしたクリスチャンが決して罪を犯さないということではないのです。

それでも、れっきとしたクリスチャンは罪を犯したとき、すぐに後悔するはずです。彼らは悔い改め、その罪を避けたいと願うのです。

だから、ヨハネはこの話をこのようにまとめます。

このことによって、神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりします。義を行わない者はだれであれ、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。(10節)

あなたは誰の子どもですか。

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ヨハネの手紙第一

私たちが受けた注ぎの油

どうやら、偽教師たちがクリスチャンたちに教えたことはこうでした。「あなたがたが使徒たちから学んだことだけでは不十分です。私たちは特別な神様からの注ぎの油を受けました。あなたがたも使徒たちも、それをまだ受けていません。」

しかし、ヨハネはその読み手たちにこう言いました。

あなたがたには聖なる方からの注ぎの油があるので、みな真理を知っています。(ヨハネの手紙第一2:20)

また、

しかし、あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれかに教えてもらう必要はありません。

その注ぎの油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます。それは真理であって偽りではありませんから、あなたがたは教えられたとおり、御子のうちにとどまりなさい。」(27)

その注ぎの油とは何でしょうか。それは、神様がすべての信者たちに与えてくださる聖霊様のことです。

ヨハネの言葉は、イエス様の言葉によく似ています。

しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。。。

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。

御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。((ヨハネ14:26、16:13-14)

ここには、二つの重要なポイントがあります。

第一に、イエス様によれば、聖霊様が私たちの先生であるということです。

聖霊様は私たちに何を教えるのでしょうか。聖霊様がイエス様の教えに反することを教えるでしょうか。とんでもありません。むしろ、聖霊様は私たちにイエス様の言葉を思い出させてくださいます。

もし聖霊様がご自身から語るのではなく、聞いたことをすべて語るなら、聖霊様がイエス様の言葉に反することを教えるはずがありません。

だから、誰かが「聖霊様が私にこう教えた」と主張しても、その言葉がイエス様の言葉に反するなら、その人を無視しなければなりません。

第二に、イエス様の言葉を教え、示されるとき、聖霊様はいつもイエス様の栄光を現わされます。ヨハネの時代の偽教師や現代の偽教師とは異なり、聖霊様は決してイエス様を否定することなく、イエス様を軽蔑することもありません。

もちろん、ヨハネは「あなたがたには教師は要らない」と言っているわけではありません。(実際、ヨハネ自身がこの手紙を通してクリスチャンたちに教えていました。)

ヨハネが言おうとしているのは、イエス様の教えに反することを教える特別な油注ぎのある教師たちは必要ないということです。

むしろ、聖霊様が最初から教えてくださったように、イエス様のうちにとどまりましょう。イエス様をあなたの主と神として認め、毎日、自分の人生をイエス様に捧げましょう。

あなたは御霊のみ言葉に従っていますか。

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サタンが私たちに売ろうとするもの

サタンを吠えるライオンとして考えるのは簡単なことです。また、私たちはしばしばサタンを、私たちを滅ぼそうとする者として想像します。

もちろん、サタンがそのように見える時もありますが、羊のように見える時もあります。特に、この世に現れるとき、反キリストは羊のように見えるでしょう。

「反キリスト」という言葉を聞くと、私たちはこの世を荒らす恐ろしい者を思い浮かべるかもしれません。もちろん、彼はそのような存在です。けれども、この世を荒らす前に、彼はキリストのように見えるでしょう。彼はこの世に平和と救いを約束します。

彼はまだこの世に現れていませんが、長い歴史の中で、ヨハネの時代にもさまざまな反キリストたちが現れました。

最初は彼らが親切で、教会を祝福する者に見えましたが、最終的には教会に毒を広げたため、彼らは追い出される必要がありました。

ヨハネは彼らについてこう言いました。

彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。

もし仲間であったなら、私たちのもとに、とどまっていたでしょう。しかし、出て行ったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためだったのです。(ヨハネの手紙第一2:19)

彼らはどんな「毒」を広げたのでしょうか。今なお、その毒はこの世に広まり続けています。それは、イエス様を否定することです。

日本は事情が異なるかもしれませんが、アメリカでは、多くの人々が「神様を信じる」と言います。そして、もしあなたが「私は神様を信じています」と言っても、彼らは全く気にしません。

けれども、もしあなたが「イエス様だけが神です」と主張すると、彼らは非常に怒るでしょう。

しかし、ヨハネはこう言います。

偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否定する者、それが反キリストです。

だれでも御子を否定する者は御父を持たず、御子を告白する者は御父も持っているのです。(22-23)

言い換えると、イエス様を否定するなら、神様を信じると主張することはできません。なぜなら、イエス様を否定することは、神様を否定することだからです。どうしてでしょうか。それは、イエス様ご自身が神だからです。

イエス様の時代、ユダヤ人たちはそれを理解できませんでした。つまり、神様が約束されたメシアが神であるということです。

ところで、ギリシャ語では、「キリスト」とは「メシア」を意味します。キリストは名前ではなく、肩書です。その広い意味は「王と救い主」です。

とにかく、ユダヤ人たちがキリストが神であることを理解していなかったために、イエス様が「もしキリストがダビデの子であるなら、なぜダビデはキリストを主と呼ぶのか」と尋ねると、彼らは答えることができませんでした。(マタイ22:42、45)

その答えは、人間として、キリストはダビデの子であり、同時にキリストご自身が神であるということです。(ヨハネ8:58、10:30-33)

しかし、多くの人々は故意にその真理を否定します。彼らはイエス様を善良な人、預言者、または神の子と呼びます。

もちろん、イエス様についてそう言うことは正しいです。けれども、それだけではありません。イエス様は永遠から永遠まで神なのです。それを否定する者は、まさにサタンが売る毒を飲み込んでいます。

だからこそ、ヨハネはこう言います。

あなたがたは、初めから聞いていることを自分のうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いていることがとどまっているなら、あなたがたも御子と御父のうちにとどまります。

これこそ、御子が私たちに約束してくださったもの、永遠のいのちです。(24-25)

最終的な質問は、「あなたがたはキリストについてどう思いますか。彼は誰の子ですか。」

あなたの永遠の運命は、その答えに基づいています。(マタイ22:42)

あなたはどう思いますか。

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ヨハネの手紙第一

天の父を愛するか。この世を愛するか?

もしかすると、この箇所を書いたとき、ヨハネはイエス様の言葉を思い浮かべていたかもしれません。つまり、

どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。。。

人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。(ルカ6:13,15)

その言葉は、ヨハネの言葉に非常に似ています。

あなたがたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。

すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。(ヨハネの手紙第一2:15-16)

ちょっと想像してみてください。ある男性が自分の妻にこう言います。「もちろんあなたを愛している。でも、もう一人の女性も愛している。だから、私は自分をあなたにも、彼女にもささげる。」

その妻はどのように反応するでしょうか。その結果は悲惨なものとなるでしょう。

けれども、多くのクリスチャンはそのように生きています。

月曜日から土曜日まで、彼らはこの世のものを追い求め、それらにしがみつきます。彼らはお金や持ち物、快楽、権力を求め、この世が提供するものをできる限り手に入れようとします。彼らは一時的で儚いものを追い求めているのです。

そして、日曜日になると彼らは教会に行き、涙を浮かべながら「愛する、わが主よ」と歌います。

しかし、ヨハネによれば、それは愛ではありません。この世のものを愛しながら神様を愛することは不可能です。あなたの配偶者がそのような愛を受け入れないのと同じように、神様もそのような愛を受け入れることはありません。

神様は私たちの心の一部を望まれるわけではありません。神様は私たちの心の全てを望まれます。

神様は私たちの心の半分、80%、あるいは99%でも満足されません。私たちにとって神様は常に第一でなければなりません。他のものは二番目であるべきであり、一番と二番の間には大きな隔たりがあるべきです。

ヨハネはこう言います。

世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。(17)

簡単に言えば、私たちは儚いものか永遠のものを追い求めることができますが、同時に両方を追い求めることはできません。

では、なぜ私たちは儚いものを追い求めようとするのでしょうか。それを追い求めると、私たちの人生は空虚なものとなります。それは、売春婦との関係を求めるようなものです。最終的に、その売春婦はあなたのすべてを奪い、あなたを捨ててしまうでしょう。

しかし、神様を追い求めるなら、私たちは真の愛、真の喜び、そして真のいのちを知ることができます。それに、それらは永遠のものです。

あなたはどちらを選びますか。

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ヨハネの手紙第一

私たちが成熟するにつれて

私はヨハネがさまざまな読み手に向けて書いた言葉を読むにつれて、クリスチャンとして私たちがさまざまな段階を進んでいくことを思い出します。

まず最初に、私たちは子どもたちです。

ヨハネはこう書きます。

子どもたち。私があなたがたに書いているのは、イエスの名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。(ヨハネの手紙第一2:12)

また、

幼子たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが御父を知るようになったからです。(14a)

私たちが初めてクリスチャンになるとき、おそらく二つの真理が私たちの心を打ちます。

一つ目は、神様が私たちを赦してくださったことです。

神様に出会ったとき、私たちは罪の重荷を負っていました。自分の選択によって私たちの人生がめちゃくちゃになり、絶望の中で私たちは神様に向かいました。だから、ヨハネは私たちに「あなたの罪が赦されました」と言います。

私はある聖書の話を思い出します。ある女性が自分の罪の重荷を感じ、イエス様のもとに行き、自分の涙でイエス様の足を濡らしました。そして、イエス様は彼女に優しく言われました。「あなたの罪は赦されました。」(ルカ7:36-50)

すべてのクリスチャンたちは、その喜びを知る必要があります。

二つ目は、私たちが神様を父として知ることです。このテーマについて、ヨハネはあとで再び触れます。(3:1-3)

最初の段階では、私たちは神様を恐ろしい方として知るわけではありません。また、神様を宇宙よりも偉大な方として知るわけでもありません。そして、神様を王の王として知るわけでもありません。私たちは神様を近づくことができない方として考えません。

むしろ、私たちは神様を父として知ります。神様が私たちを愛しておられると信じるので、私たちは神様に近づくことができます。神様が私たちを自分の子どもとして喜ばれるので、私たちは神様がいつも私たちのために時間を取ってくださると確信しています。

しかし、成長するにつれて、私たちは子どものままではありません。むしろ、私たちは成熟し、丈夫になります。

だからこそ、ヨハネはこう書きます。

若者たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが強い者であり、あなたがたのうちに神のことばがとどまり、悪い者に打ち勝ったからです。(14b)

言い換えると、神様の言葉が私たちのうちにとどまり、福音という乳だけでなく、み言葉の堅い食物も摂取するとき、経験を通して訓練され、義と悪を見分ける力を持つ大人へと成長します。

そうすることで、私たちはサタンに打ち勝つことができるようになります。(ヘブル5:12-14)

例えば、私たちは自分を神様から遠ざける偽りの教えを見分けることができます。また、私たちは誘惑を克服し、私たちを滅ぼす罪を避けます。この手紙の後半で、そのテーマについてさらに詳しく見ることになります。

最後に、私たちが成熟するにつれて、私たちは神様の本性をさらによく理解するようになります。だから、ヨハネはこう書きました。

父たち。私があなたがたに書いているのは、初めからおられる方を、あなたがたが知るようになったからです。(13-14)

C.S.ルイスが言ったように、私たちが成長すればするほど、神様がさらに大きく見えるようになります。それは神様が本当に大きくなるというわけではありません。むしろ、私たちが神様をもっとはっきりと見ることができるようになるからです。

神様は私たちの父であるだけでなく、創造者であり、宇宙の支配者です。さらに、神様は永遠の方です。だから、私たちは神様を拝み、畏敬の念を抱きます。

しかし、私たちは神様の偉大さだけのゆえに拝むわけではありません。むしろ、その偉大な神様が私たちを愛し、自分の子どもと呼んでくださることに驚き、感謝をもって拝みます。

なぜなら、どんなに成長し、成熟しても、私たちはいつも天の父を必要とし、神様を自分の父として考える必要があるからです。

ですから、私たちを愛し、自分の子どもと呼んでくださる神様の恵みと知識において、毎日成長していきましょう。

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私たちが罪に落ちると

前回の記事で、私たちが学んだのは、私たちが光の子どもとして生きるように呼ばれているけれども、まだ罪に落ちる時もあるということです。その時、私たちが悔い改めるなら、神様は私たちを赦してくださいます。

今日の箇所では、私たちはその赦しの基礎を見ることができます。ヨハネはこう言いました。

私の子供たち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとなりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。

この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげものです。(ヨハネの手紙第一2:1-2)

ヨハネは改めて強調します。私たちは光の子どもだから、暗闇の中で歩んではいけません。

しかし、そのあと、ヨハネは心強い言葉を伝えます。それは、私たちが罪に落ちるとき、私たちを擁護する方がおられるということです。イエス様は御父の前で、私たちのためにとりなしてくださいます。

では、その擁護のよりどころは何でしょうか。それは、十字架でのイエス様の宥めのささげものです。

それはどういうことでしょうか。

その時代、いろんな国では、人々は神々の怒りを宥めるため、また神々のご恩を得るために、さまざまな生贄を捧げました。

ヨハネは同じ描写を使いますが、大きな違いがあります。私たちはその生贄を捧げるのではありません。むしろ、神様ご自身が自分の怒りを宥めるために、その生贄を捧げられました。そして、その生贄によって、神様はもう一度私たちに恵みを与えてくださいます。

天の父による救いの働きを伏線する話として、アブラハムはこう言いました。

神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。(創世記22:8)

十字架で、天の父はその羊を備えてくださいました。義なるイエス・キリストがその羊でした。イエス様は罪を犯したことがなかったのに、私たちの罪の罰を受けてくださいました。イエス様が十字架につけられた時、神様はご自身の怒りのすべてをイエス様に注がれました。

その結果は何でしょうか。イエス様は天の父の前に私たちと共に立ち、こう言われます。「私はその人の罪の代価を払いました。」

天の父は答えられます。「あなたの支払いを受け入れます」

そして、天の父は私たちの罪を赦すだけではなく、私たちに愛を注いでくださいます。

それは憐れみです。それは恵みです。その恵みと憐れみは神様の子どもたちに属します。イエス様を通して、私たちはその恵みと憐れみを受けるのです。

だから感謝をもって、私たちを救った神様に仕えましょう。イエス様のようになるように努めましょう。

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ヨハネの手紙第一

私たちの罪との戦い

最近の記事を読めば、あなたは、私がれっきとしたクリスチャンが完全な人であると主張していると思うかもしれません。つまり、れっきとしたクリスチャンは決して罪を犯さないということです。

その理由は、この手紙では、ヨハネに白黒をつけるような話し方があるからです。しかし、ヨハネの手紙を注意深く読むと、ヨハネが何を言っているかはっきりとわかると思います。

それは、私たちは光の子どもであり、光の子どもは光の中で歩みます。それでも、光の子どもは罪を犯すこともあります。私たち皆、失敗するときもあります。

ヨハネはこう言いました。

もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。(ヨハネの手紙第一1:8)

また、

もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。(10)

では、どのように私たちはヨハネの白黒の教えを解釈した方がいでは、どのように私たちはヨハネの白黒の教えを解釈した方がよいでしょうか。

1.れっきとした神様の子どもは、自分の罪のために言い訳しません。彼らは自分たちの罪を正当化するために聖書をごまかしません。彼らは自分の場合が例外だと主張しません。

2.れっきとした神様の子どもはあえて聖書を無視しません。むしろ、聖書を読むとき、その言葉に従おうとします。

3.れっきとした神様の子どもは自分の罪と戦います。彼らは「私はこのままです。私は決して変わらないだろう」と言いません。むしろ、彼らは自分の罪を悲しみ、イエス様のようになりたいと願います。

もちろん、れっきとしたクリスチャンでも、その三つのことをしたことがあるでしょう。彼らは言い訳する時もあるし、聖書を無視する時もあるし、「私はこのままです。私は決して変わらない」と言う時もあります。

もしかすると、彼らは自分の罪を罪としてまだ分からないのかもしれません。彼らはまだ未成熟で、悪と善を見分けることができないのかもしれません。(へブル5:13-14)

けれども、れっきとしたクリスチャンは、ずっとそのように生き続けることはありません。聖霊様はそれを許しません。もしクリスチャンがその御声に従わないなら、聖霊様はその人を懲らしめます。

しかし、良い知らせは、私たちが悔い改めるなら、神様は私たちを赦してくださるということです。ヨハネはこう言います。

もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。(9)

あなたは神様の子どもでしょうか。あなたは光の子どもでしょうか。

そうであれば、自分の罪のために言い訳するのをやめましょう。神様の御言葉を無視するのをやめましょう。神様があなたを懲らしめるとき、すぐに悔い改めましょう。

そうすれば、神様は恵み深い方です。神様は必ずあなたを赦してくださいます。

この世にいる間、私たちは決して完全な人にはならないでしょう。それでも、それは私たちの目的です。私たちは本当にイエス様を愛しているなら、自分がイエス様のようになる希望を持っているはずです。

あなたはその希望を持っているでしょうか。

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神様との交わりを持つため(2)

前回の記事で、私たちが学んだのは、神様が光であり、神様には闇の部分が全くないということです。だから、私たちが神様との交わりがあると主張するなら、私たちも光の中で神様と共に歩まなくてはなりません。

ヨハネによれば、私たちが神様の命令をごまかし、その言葉をあえて無視しながら、神様との交わりがあると主張するなら、私たちは嘘つきです。

そして、ヨハネは具体的な例を挙げます。実は、この手紙では、ヨハネはその例を何回も繰り返しています。

愛する者たち。私があなたがたに書いているのは、新しい命令ではなく、あなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いているみことばです。

私は、それを新しい命令として、もう一度あなたがたに書いているのです。それはイエスにおいて真理であり、あなたがたにおいても真理です。闇が消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。(ヨハネの手紙第一2:7-8)

この古くて新しい命令は何でしょうか。たぶん、それは「隣人を愛しなさい」という命令でしょう。

ヨハネは後で言いますが、隣人を愛することは、神様に対するあなたの愛を証明します。

モーセの律法では、神様はこう言われました。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」

それは古い命令でした。

しかし、イエス様において新しい命令は、自分自身のように隣人を愛することだけではなく、むしろ、イエス様があなたを愛するように隣人を愛することです。(ヨハネ13:34-35)

つまり、私たちは神様の愛を十分に知っているゆえに、その愛が私たちから周りの人々に自然に溢れ出し始めるということです。

だから、ヨハネが言ったのは、その命令がイエス様において真理であり、イエス様を信じる私たちにおいても真理であるということなのです。

なぜなら、イエス様の愛のまことの光は私たちの中ですでに輝いているからです。そして、暗闇は私たちの心からすでに消えているのです。

そういうわけで、ヨハネはこう言います。

光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎んでいる人は、今でもまだ闇の中にいるのです。自分の兄弟を愛している人は光の中にとどまり、その人のうちにはつまずきがありません。

しかし、自分の兄弟を憎んでいる人は闇の中にいて、闇の中を歩み、自分がどこへ行くのかが分かりません。闇が目を見えなくしたからです。(2:9-11)

その言葉には、1:5-7節の関係があります。もし、私たちが兄弟や姉妹を憎むなら、私たちが神様との関係があると主張することはできません。人を憎む人は光ではなく、暗闇の中で歩んでいるのです。

もちろん、その憎しみは人種差別などで現れることもあります。また、憎しみは妬みとして現れるかもしれません。

けれども、憎しみがしばしば現れるところは、人を許さない心です。多くの人々は人を許さないため、暗闇につまずき、苦々しい思いや憎しみに縛られています。

そして、私が以前言ったように、相手を許さないことを正当化するために、多くの人々は聖句をごまかし、あえて無視します。彼らは相手を許さず、傷つけられたことに対する憎しみを抱き続けます。

けれども、私たちが神様の愛や、私たちが与えられた赦しを知るなら、どうして私たちはその憎しみを抱き続けることができるでしょうか。

れっきとした神の子どもは、そのようなことができません。

かといって、私の言葉を誤解しないでください。クリスチャンたちが許したくないという態度と戦わなくてはならないことがないわけではありません。

多くのクリスチャンはその戦いに直面します。さらに、その痛みが深いものであれば、相手を許すのはとても難しいことです。

しかし、あなたが本当に神様の子どもなら、暗闇にとどまってはいけません。自分の憎しみのために言い訳してはいけません。「相手を許すのはありえない。私は許せない」と言ってはいけません。

そう言うとき、あなたは光を出て、暗闇に入ります。そのままで、自分が神様との交わりがあると主張すれば、あなたは嘘つきになります。

れっきとした光の子どもは、光に入り、イエス様の癒しを受けます。そして、イエス様の力と恵みによって、そのクリスチャンは相手を許します。

あなたはどうですか。自分が憎む人がいるでしょうか。自分が許せない人がいるでしょうか。その態度を持ち続けるなら、あなたは神様との交わりがあると主張することはできません。

もちろん、癒しには時間がかかります。あなたは祈らなくてはならないし、兄弟たちと姉妹たちの祈りが必要です。また、兄弟たちと姉妹たちの感情的な支えも必要です。

もしかすると、あなたにはカウンセリングが必要かもしれません。

あなたは必ず聖霊の力と愛が必要です。

けれども、言い訳するのをやめましょう。光に入りましょう。

そうするまで、あなたの神様との関係はうまくいかず、壁にぶつかることでしょう。

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ヨハネの手紙第一

神様との交わりを持つため

いろんな意味で、「クリスチャン」という言葉は無意味なものになって来ました。というのは、多くの人々は自分がクリスチャンであると自称しますが、自分の行為によって、実際には自分がクリスチャンではないと証明しているようなものだからです。

その言葉を読んで、私が厳しすぎると言われる人がいるかもしれません。けれども、イエス様ご自身はこう言われました。

「わたしに向かって「主よ、主よ」と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

その日には多くの者がわたしに言うでしょう。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。」(マタイ7:21-22)

現代では、ある人々はこう言うかもしれません。

「主よ、主よ。私たちは教会に行ったでしょう。献金を捧げたでしょう。いろんな良いことをしたでしょう。」

しかし、イエス様は彼らに言われます。

わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。(マタイ7:23)

簡単に言うと、あなたの行為を自分の信仰と分けることはできません。あなたの行為によって、あなたの信仰がれっきとしたものかどうかが現れます。

ヨハネは、今日の箇所でも、それを言っています。

私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。

もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。(ヨハネの手紙第一1:5-6)

多くの自称クリスチャンたちは自分の罪にふけります。ある人は嫌いな聖句をごまかします。他の人はただその聖句を無視します。

けれども、ヨハネは、神様が光であると言っています。つまり、神様には罪が全くないということです。だから、反逆の態度をもって、神様のみ言葉を無視したり、その言葉をごまかしながら、「私には神様と交わりがある」と主張するなら、私たちは嘘つきです。

ヨハネは率直に言います。「あなたは嘘つきです。あなたは真理を行っていません。」

さらに、ヨハネは続けてこう言います。

もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。(1:7)

神様が光であるので、神様との交わりを望むなら、私たちも光の中を歩まなくてはなりません。神様は私たちが歩いている暗闇の中を歩まれないからです。

けれども、私たちの反逆的な態度を捨て、私たちの主としてイエス様に従うなら、イエス様の血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。

だから、私たちの反逆をやめなくてはなりません。神様に反逆しながら、神様との交わりがあると主張するのは無理なことです。

私の解釈を疑うなら、ヨハネの言葉を読んでください。

もし私たちが神の命令を守っているなら、それによって、自分が神を知っていることが分かります。神を知っていると言いながら、その命令を守っていない人は、偽り者であり、その人のうちに真理はありません。

しかし、だれでも神のことばを守っているなら、その人のうちには神の愛が確かに全うされているのです。それによって、自分が神のうちにいることが分かります。

神のうちにとどまっていると言う人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません。(2:3-6)

言い換えると、ある人の神様に対する態度によって、私たちはその人が神様との関係があるかどうかを見分けることができます。

その人のうちで神の愛がそこまで全うされて、愛をもって従うようになるのでしょうか。

その人はイエス様のようになりたいと願い、イエス様のように歩もうとするでしょうか。

その人は罪に落ちるとき、その罪を悲しみ、すぐに悔い改めるのでしょうか。

そうでない場合、その人が本当に救われているかどうかを疑うべきです。

あなたはどうでしょうか。神様に対するあなたの態度は、自分の神様との関係に関して何を現しているでしょうか。

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ヨハネの手紙第一

命である方を宣言する

これは聖書に記されている最後の長い手紙です。

そして、この手紙の初めから、私たちは使徒ヨハネの情緒を感じ取ることができます。イエス様に愛された弟子と呼ばれた使徒はこう言われます。

初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。

このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。(ヨハネの手紙第一1-2)

「いのちのことば」とはイエス様です。イエス様ご自身は、いのちの表現です。イエス様にあって、私たちはいのちがどのようなものであるべきかを分かります。イエス様にあって、私たちは完全で不備のないいのちを見ることができます。

いのちの創造者である神様は、いのちの言葉であるイエス様を通してご自身を表されます。

また、イエス様ご自身がいのちです。

だから、ヨハネは、「このいのちが現れました」と言うと、イエス様の受肉について話しています。つまり、イエス様が人間としてこの世に来られたことです。

だからヨハネやほかの使徒たちは自分の耳でイエス様の声を聞き、自分の目でイエス様を見、復活の後、自分の手でイエス様の手の傷跡に触れることができました。

そして、ヨハネは、イエス様を「永遠のいのち」と呼びます。イエス様は永遠の方で、時間が始まる前から天の父と共におられました。

また、イエス様は死んだ者にいのちを与えてくださいます。もちろん、神様はご自身から遠く離れている霊的に死んでいる人たちにいのちを与えてくださいます。

しかし、ある日、イエス様は肉体的に死んだ者たちにいのちを与えてくださいます。つまり、イエス様がご自身のような体を彼らに与えてくださるのです。

それを考慮に入れると、ヨハネはこう言います。

私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。

私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。(3-4)

ヨハネと他の使徒たちは神様との関係をただ楽しみたいとは思いませんでした。むしろ、ほかの人々も神様との交わりを得るまで、使徒たちは自分の喜びが完成されたものではないと考えました。

そういうわけで、彼らは大胆に自分が見たことと聞いたことを宣言しました。

私たちは彼らの模範に従うべきです。

多くのクリスチャンたちは救われて、とても嬉しいです。彼らが神様の愛と赦しを受け、とても幸せです。また、神様が彼らの傷を癒してくださり、彼らは喜びます。

しかし、それだけで私たちは満足してはいけません。それは自己中心的な態度です。

たくさんの人々が神様から遠く離れて、毎日死んでいます。彼らは神様の愛を知らず、神様の赦しを知りません。また、彼らは神様からの癒しを知りません。私たちは彼らを哀れむべきです。

だから、ヨハネと他の使徒たちのように、私たちは与えられたいのちを宣言するべきです。そうすれば、周りの人々も神様との関係を得るでしょう。

あなたはどうでしょうか。救いが必要な周りの人々に気づかないほどに、あなたは自分の救いを喜びますか。

この世の人々の所に行きましょう。私たちの愛している人々にイエス様のことを宣言しましょう。私たちの近所や職場や学校にも行って、イエス様を宣言しましょう。そうすれば、人々が神様の御国に入って、私たちの喜びは満ち溢れるでしょう。