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ヨハネの福音書 ヨハネ21章

イエス様に目を向けていますか?

自分の死について聞くことほど、恐ろしいことはないでしょう。

だからこそ、イエス様がペテロの死を預言された後、二人はしばらく沈黙のまま歩き続けたのかもしれません。

それは、気まずい沈黙だったでしょう。けれども、ふとペテロは、ヨハネが彼らの後をついてきていることに気づきました。

そこでペテロは、イエス様に問いかけました。

主よ。この人はどうなのですか。(ヨハネの福音書21:21)

つまり、「彼もあなたのために死ななくてはならないでしょうか。」ということです。

しかし、イエス様は答えられました。

わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。(22)

主に仕えるとき、私たちはしばしば自分自身を周りの人々と比べてしまいます。

時には、彼らの才能や霊的な賜物をうらやましく思うことがあります。

また、時には自分の才能や賜物を誇り、周りの人々を見下してしまうこともあります。

さらに、神様が私たちを召されるときもあります。けれども、ペテロのように私たちは問いかけてしまいます。

「どうして私なのでしょうか?あの人を遣わしたらどうですか?」

しかし、イエス様は私たちに同じ答えを与えられます。

「彼らのことを気にしないで。あなたにかかわることではない。 あなたは、私に従いなさい。

周りの人々に目を向けるのではなく、私に目を向けなさい。 自分自身を彼らと比べるな。

私から目を離さず、ただ私に従いなさい。」

正直に言うと、それは難しいことです。 私たちの目はすぐに周りの人々へと向かい、私たちの心はすぐに自分自身を周りの人々と比べてしまうからです。

そして今も、私自身そうしてしまいます。

けれども、もし神様のために実を結びたいと願うなら、私たちは周りの人々ではなく、イエス様に目を向けるべきです。

あなたはどうでしょうか?何を見つめていますか?

自分自身でしょうか。

周りの人々でしょうか。

もしかしたら、イエス様でしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ21章

私たちを信じてくれる神

これは、聖書の中で私が特に好きな話の一つです。主人公はペテロ――自信満々なペテロ。大胆なペテロ。

それでも、ペテロはイエス様を知っていることを三度否定しました。その瞬間、彼の自信も、大胆さも失われました。もしかすると、彼は自分自身すら信じられなくなったかもしれません。

復活後、ペテロとイエス様の最初の会話を読んでみたいと思います。残念ながら福音書にはその詳細な会話は記されていません。

ペテロはイエス様の墓へ行ったとき、イエス様の遺体が見つからず、激しく困惑したことでしょう。「ヨハネは、イエス様がよみがえられたと信じている。でも、本当にそれが事実なのだろうか?」

もしかすると、ペテロはこう思ったかもしれません。

「正直、ある意味では、それが本当じゃないほうがいいかもしれない。だって、もし本当なら、私はどうやってイエス様と向き合えばいいのだろうか。」

けれども、突然イエス様はペテロの前に現れました。

ペテロはどう反応したでしょうか。驚きでしょうか。喜びでしょうか。それもあるかもしれません。

もしかすると、ペテロはイエス様のもとにひれ伏し、涙を流しながら何度もこう叫んだのではないでしょうか。

「ごめんなさい……どうか赦してください。」

多分、イエス様はペテロにこう言われたことでしょう。

「大丈夫だ。赦してあげよう。私はあなたのような人々のために十字架で死んだのだから。私は今も変わらず、あなたを愛している。」

それを聞いて、ペテロは慰められたかもしれません。けれども、すぐに疑いが心に浮かんだのではないでしょうか。

「まさか、本当にイエス様は私を赦してくださったのか?たとえ赦されたとしても、イエス様は私を弟子としてもう受け入れられないのではないか?私の失敗はあまりにも大きすぎる。。。」

そして、数日が経ちましたが、ペテロはイエス様と再び会うことがありませんでした。そのため、彼の心は再び沈んだことでしょう。

「やはりダメなのか。。。イエス様は『赦してあげよう』と言ってくださった。でも私はもう、イエス様の弟子として歩み続けることはできないのではないか。元の生活に戻るしかないのだろうか…。」

そこで、ペテロは他の弟子たちにこう言いました。

「私は漁に行く。」

他の弟子たちも、おそらく少し退屈していたので、ペテロと共に漁に出ました。ところが、夜通し漁をしても、何も捕れませんでした。

もしかすると、ペテロの気持ちはさらに沈んだのではないでしょうか。

「私はもう、何をやってもダメだ。。。魚を捕ることすらできない。」

そして、彼らは岸辺から声を聞きました。

「おい!食べる魚がないみたいだね。船の右側に網を打ってみなさい。」

弟子たちがその言葉通りにすると、突然、彼らの網は魚でいっぱいになりました。それを見たヨハネは叫びました。

「あれは主だ!」

ペテロはヨハネの言葉を聞くと、すぐに湖へ飛び込み、イエス様のもとへ泳いでいきました。ペテロが岸に着くと、イエス様は微笑みながら言われたことでしょう。

「ペテロ、何をしているのだ。他の弟子たちを助けなさい。」

ペテロは船に戻り、弟子たちと共に魚を岸辺まで持ってきました。彼らが到着すると、イエス様はすでに魚を焼いて、彼らのために食事を用意されていました。

彼らが食べながら、きっと笑ったり、様々なことを語り合ったりしたでしょう。けれども、食事が終わると、イエス様はペテロに言われました。

「ペテロ、少し話がある。こちらへ。」

その言葉を聞いて、ペテロは内心ひやひやしていたかもしれません。

「やはり。。。イエス様は私を責め、私を捨てるのだろう。弟子としての私の歩みは、もう終わりなのだろうか。。。」

不安を抱えながら、おどおどとペテロはイエス様と共に歩き始めました。もしかすると、無言のまま何分も散歩したかもしれません。そしてついに、イエス様はペテロに問いかけました。

ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、私を愛していますか。(ヨハネの福音書15:15)

新改訳では、「この人たちが愛する以上に」と書かれています。しかし、実際にイエス様の言葉は、それほど明確ではありませんでした。

イエス様が語られたのは、こういうことです。

「これらよりも、私を愛していますか。」

多くの聖書学者によれば、おそらくイエス様は他の弟子たちについて話していたのだろうと考えられています。そのため、新改訳では「この人たちが愛する以上に」と訳されています。

けれども、ペテロの答えを考えると、その解釈には納得できない部分があります。

ペテロはこう答えました。

「はい。私があなたを愛していることは、あなたがご存知です。」

ペテロは、自分がイエス様を三度否定したことを痛烈に覚えていたはずです。それにもかかわらず、どうして「はい」と答えることができたのでしょうか。

だから、私は異なる視点を持っています。

もしかすると、彼らが歩いているとき、ペテロの船や網、魚が視界に入ったかもしれません。

もしそうなら、イエス様の問いかけの意味は、こうだったのではないでしょうか。

「ペテロ。このものよりも、私を愛していますか?私はほんの少しの間、あなたのもとを離れた。それなのに、その間にあなたはすぐに元の生活へ戻ってしまった。本当に、これらよりも私を愛しているのか?」

この問いかけに対して、ペテロは迷いなく答えたはずです。

「はい。あなたを愛しています。」

すると、イエス様は答えられました。

わたしの子羊を飼いなさい。(15)

彼らはしばらく歩き続けると、イエス様は再び問いかけられました。

「私を本当に愛しているのか?」

ペテロはもう一度「はい」と答えました。

すると、イエス様は言われました。

わたしの羊を牧しなさい。(16)

彼らはしばらく歩き続けると、イエス様はもう一度問いかけられました。

「ペテロ、私を愛しているのか?」

この問いを聞いて、ペテロの心は痛みました。

そこで、ペテロは答えました。

主よ。あなたはすべてをご存知です。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。(17a)

イエス様は答えられました。

わたしの羊を飼いなさい。(17b)

そしてイエス様は続けてこう言われました。

まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若い時には、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。

しかし、年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。(18)

イエス様はペテロの死を預言されました。そして何年か後、ペテロはイエス様への信仰ゆえに、十字架で死ぬことになります。

どうしてイエス様は、そのことをペテロに伝えられたのでしょうか。おそらく、イエス様はこう言いたかったのではないでしょうか。

「ペテロ。私は、あなたが犯した大きな失敗をよく知っている。それでも私は変わらず、あなたを信じているのだ。

実は、あなたは将来、同じような試練に直面することになる。そのとき、あなたは再び選択を迫られる。私を否定するのか。あるいは、私のために命を捧げるのか。

しかし、今度はあなたは、私のために死ぬことを選ぶのだ。」

そして、イエス様はペテロに言われました。

私に従いなさい。(19)

ペテロのように、私たちも皆、失敗することがあります。そのたびに、ペテロと同じように思うかもしれません。

「私は大失敗した。神様は私なんて受け入れてくださるのだろうか。」

しかし、安心してください。

神様はあなたを受け入れ、今もあなたを用いられます。なぜなら、神様はあなたの現在の姿だけを見ているのではなく、あなたが将来どのようになるかをよくご存じだからです。

神様はあなたを信じておられます。

だから、自分の力に頼らないようにしましょう。

また、自分の知恵に頼らないようにしましょう。

神様があなたを受け入れ、あなたを信じておられることを覚え、心を安らかに過ごしましょう。

そして、歩みましょう。イエス様に従いましょう。

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ヨハネの福音書 ヨハネ20章

イエス様を見たことがないのに

「百聞は一見にしかず。」

私たちはこのことわざを口にしますが、時として、何を見ても信じない人がいるものです。

パリサイ人たちと祭司長たちは、イエス様の奇跡を実際に目の当たりにしました。それでもなお、イエス様がメシアであることを信じませんでした。

たとえば、ラザロが復活したとき、彼らはラザロを殺そうとさえしました。なぜなら、人々がその奇跡を目撃し、イエス様を信じるようになったからです。

彼らの問題は何だったのでしょうか。それは、彼らが信じたくなかったということです。もし何かを信じたくないなら、人はいつでも信じられない理由を作り出すものです。

しかし、トマスは本当にイエス様の復活を信じたかったのです。それでも、なぜか自分自身を納得させることができませんでした。だから、彼はほかの弟子たちにこう言いました。

私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れて見なければ、決して信じません。(ヨハネの福音書20:25)

だから、イエス様が鍵がかけられた部屋に奇跡的に入って、トマスのぽかんと顔を見た時、多分イエス様は微笑みながら、こう言いました。

あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。(27)

トマスの反応は?

私の主。私の神よ。(28)

イエス様は答えました。

あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。(29)

つまり、「あなたは見たから信じているのです。けれども、真の祝福は、見ずに信じることで見いだされるのです」ということです。

アブラハムもその祝福を知りました。アブラハムは神様が彼をどこに導いているかよくわからなかったけど、アブラハムは自分の地元を去って、神様に従いました。なぜなら、アブラハムは神様の約束を信じたからです。

ノアもその祝福を知りました。神様が洪水が発生すると言ったから、ノアは大きい箱舟を作りました。

ダビデもその祝福を知りました。神様がダビデが王になると約束したから、サウロ王が何回もダビデを殺そうとしても、ダビデは仕返しを求めませんでした。そして、神様のタイミングで、ダビデは王になりました。

マリアもその祝福を知りました。彼女は天使のメッセージを信じて、イエス様の母になりました。

聖書の時代から現代まで、たくさんの人々は神様を信じて、祝福されました。

でも、それは盲信ではありません。

イエス様が生まれる何百年前に、いろんな預言者はたくさんのことをイエス様に関して預言しました。

また、イエス様に出会った人は自分の経験を書きました。ヨハネはこう書きました。

イエス様は弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。

これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。(30-31)

それに、私たちは教会の偉人たちの歩みを見ることができます。たとえば、アウグスティヌス、マルティン・ルター、ジャン・カルヴァンは、神の御国のために偉大な働きを成し遂げました。

今なお、教会には多くのクリスチャンがいます。神様は彼らの人生の中で働き、福音によって彼らを変えてくださいました。

また、私たち自身もイエス様に出会い、神様の御業をこの目で見ることができます。

しかし、私たちは一つの選択をしなければなりません。

「主よ。私はあなたを見たことがありません。それでも、私はあなたを信じます。」

そして、イエス様を信じて従うとき、イエス様はますますご自身を私たちに現してくださいました。そして、私たちも祝福を知るのです。

ペテロはこう言いました。

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども、愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。

あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。(第一ペテロ1:8-9)

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ヨハネの福音書 ヨハネ20章 ルカの福音書 ルカ24章

満たされて、遣わされた

イエス様が復活された日曜日、11人の弟子たちの間では混乱や不信が広がっていたようです。

彼らが集まったとき、マリアやほかの女性たち、エマオへ行ってきた弟子たち、そしてペテロが「主を見た」と強く主張しました。それでも、ほかの弟子たちはその話を信じませんでした。

すると、イエス様が突然彼らの前に現れました。当然、弟子たちは驚き、最初は幽霊を見たのだと思いました。

けれども、イエス様は「平安があなたがたにあるように」と言われました。

この言葉を聞いて、「弟子たちが怖がっていたので、イエス様は彼らを慰めようとされたのだ」と思うかもしれません。

しかし、実は当時の文化において、この言葉は「こんにちは」のようなごく普通の挨拶でした。

もしかすると、イエス様は最初、カジュアルな態度で通常の挨拶としてこの言葉をかけられたのかもしれません。けれども、弟子たちが恐れていたため、イエス様はより真剣な口調で「安心しなさい。わたしだよ」と言い、彼らを励まされました。

そして、イエス様はご自身の手と足を示し、魚を食べられました。おそらく、弟子たちはイエス様の傷跡に触れたことで確信を得たのでしょう。その後、彼らは納得し、喜びに満たされました。

さらに、イエス様は彼らに、預言者たちがイエス様の死と復活について語っていたことを教えられました。また、イエス様ご自身が以前言われたことを彼らに思い出させました。

その後、イエス様は彼らにこう言われました。

父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。(ヨハネ20:21)

また、

あなたがたは、これらのことの証人となります。見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。

あなたがたは、いと高きところから力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。ルカ24:48-49)

そして、イエス様は彼らに息を吹きかけ、こう言われました。

聖霊を受けなさい。あなたがたが誰かの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。(ヨハネ20:22-23)

それを読むと、私は別の聖書の場面を思い出します。エデンで神様がアダムに息を吹きかけ、アダムは物質的な命を受けました。

一方、この箇所では、弟子たちは霊的な命を受けたのです。

聖霊様は、救いのしるしとして彼らに入りました。そして、イエス様が以前約束されたように、聖霊様は彼らにさまざまなことを教え、彼らがどこへ行っても、聖霊様は共におられました。

さらに、聖霊様は、彼らがイエス様から受けた使命を果たすために力を与えてくださいました。だからその後、彼らはあらゆる場所へ福音を広げていきました。

同じように、私たちがイエス様を救い主、そして主として受け入れる時、イエス様は私たちに息を吹きかけ、霊的な命を与えてくださいます。

聖霊様も、私たちの内に入り、私たちを導いてくださいます。さらに、聖霊様は私たちに力を与えてくださるので、イエス様から与えられた使命を果たすことができます。

だから、私たちは決して独りぼっちではありません。私たちは自分の力や努力によって神様を喜ばせたり、神様の目的を果たしたりするわけではありません。

むしろ、神様ご自身が私たちに住んでおられる聖霊様を通して、私たちを満たし、命と敬虔をもたらすすべてのものを与えてくださいます。(第二ペテロ1:3)

私たちの主な務めは、福音を広げることです。私たちは、悔い改めてイエス様を受け入れる人に、「あなたの罪は赦された」と宣言することができます。しかし、神様の救いを受け入れない人には、私たちは将来の裁きについて警告します。

神様は御国の鍵を私たちに与えてくださいました。私たちが福音を伝えることで、御国の門が開かれ、周りの人々はそこへ入る機会を得るのです。

だから、聖霊に満たされて進みましょう。死にかけている世に、御国の門を開きましょう。

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いつも私たちと共におられる方

イエス様の復活について、二つの注意事項をお伝えしたいと思います。

一つ目は、マルコ16:9-20を省略することです。なぜなら、多くの聖書学者によれば、マルコはこの部分を書いていなかったと考えられているからです。

では、なぜマルコは具体的にイエス様の復活について語らなかったのでしょうか。私は三つの説を聞いたことがあります。

1つ目は、マルコが福音書を完成させる前に亡くなったという説です。

2つ目は、元々の結末が何らかの理由で失われたという説です。

3つ目は、使徒の時代には、教会で牧師がマルコの福音書を朗読した後に、イエス様の復活を目撃した人々が自分の証を語っていた可能性があるという説です。

いずれにせよ、マルコが亡くなった後、現在の結末が加えられたと考えられています。

二つ目の注意事項は、福音書間でイエス様の復活の記録を統合するのが非常に難しいということです。できる限り、復活の出来事の順番を整理しようと思いますが、これはあくまで私の考えです。

とはいえ、どの福音書を読んでも、基本的な事実は一致しています。

女性たちがイエス様の墓に着いたとき、その墓はすでに空っぽでした。そして、天使たちが現れ、イエス様の復活を彼女たちに知らせました。

その後、イエス様はマリアやほかの女性たちにご自身を現され、彼女たちは弟子たちにイエス様の復活を伝えました。

現代の弁護士によれば、法廷では証人の証言に多少の違いがあったとしても、これらの四つの事実は十分に認められるでしょう。

では、簡単にですが、復活の出来事の順番を説明します。

1.女性たちはイエス様の墓に行ったが、イエス様の遺体はありませんでした。

2.マリアが墓に入り、イエス様の遺体がないと分かると、すぐに弟子たちに知らせるために戻りました。

3.ほかの女性たちはその場に残り、おそらく何が起こったのか疑問に思ったでしょう。そして、二人の天使が現れ、そのうちの一人がイエス様の復活の良い知らせを伝えました。

4.そこで、女性たちは弟子たちに伝えるために急いで戻りました。彼女たちは急いでいたため、誰とも話しませんでした。(マタイ28:5-8;マルコ16:1-8;ルカ24:1-10)

5.その間に、マリアは弟子たちにイエス様の遺体がなくなったことを伝えました。(ヨハネ20:2)そこで、ペテロと(おそらく)ヨハネは墓を調べに行きました。マリアは彼らと共に墓に戻りました。

彼らが家を出た後、ほかの女性たちは家に来て、残っていた弟子たちに天使のメッセージを伝えました。(ルカ24:9-11)

6.ペテロとヨハネは墓に着き、マリアの話を確認しました。ヨハネはイエス様が復活されたと信じたようですが、ペテロはまだ疑っていたようです。おそらく、彼らは戻る途中でそのことを話し合ったでしょう。(ルカ24:12;ヨハネ20:3-9)

7.ペテロとヨハネが墓へ向かう際、走ったため、もしかするとマリアは遅れて着いたかもしれません。そのため、マリアがようやく墓に着いたとき、ペテロとヨハネがまだそこにいたかどうかは分かりません。

そして、イエス様はマリアの前に現れ、彼女を慰められました。その後、彼女はすぐに弟子たちのもとへ戻りました。(ヨハネ20:12-18)

8.マリアが戻っている間に、イエス様はほかの女性たちの前に現れました。彼女たちは道中だったのかもしれません。また、弟子たちが彼女たちの言葉を信じなかったため、多少の失望を感じていたかもしれません。

けれども、イエス様が彼女たちを励まされたので、彼女たちはもう一度弟子たちのもとへ向かいました。

その頃、マリアも戻ってきたため、弟子たちはマリアと女性たちの話を聞きました。(マタイ28:9-10)

その順番が正しいかどうかは分かりませんが、これが私の推測です。

さて、マリアのことを少し考えてみましょう。私がこの場面を想像すると、イエス様の墓の外で、マリアが深い悲しみに沈み、絶望している姿が浮かびます。

もし私の考えが正しければ、彼女はまだほかの女性たちの天使の経験を聞いていません。マリアが知っているのは、ただイエス様の遺体がなくなったという事実だけです。

そして、マリアが墓に入ると、二人の天使がいました。ところが、ほかの女性たちの話をまだ聞いていなかったため、マリアは彼らが天使であることを認識しませんでした。

すると、天使たちは「なぜあなたは泣いているのですか」と尋ねました。

マリアはただこう答えました。「誰かが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」

もしかすると、天使たちがイエス様の復活を伝えようとしたその瞬間、イエス様が現れたのかもしれません。

最初、マリアはイエス様を認識しませんでした。しかし、イエス様が彼女の名前を呼ばれました。

「マリア。」

その瞬間、マリアの悲しみの涙は、一気に大きな喜びへと変わりました。

私たちはどれほどマリアのようでしょうか。苦しみに沈み、神様が遠く感じることがあります。

祈っても、まるでその祈りが天井にぶつかり、神様に届かないかのように感じることもあります。

神様を求めても、見つけられないことがあります。まるで神様が沈黙し、いなくなったかのように思えることもあります。

けれども、実際には神様は私たちとともにおられます。マリアのように、私たちは神様を見ていないだけかもしれません。しかし、神様は確かにそこにおられます。そして、最もふさわしい時に、ご自身を現してくださいます。

だから、諦めないでください。誰もが悲しみの時を経験します。誰もが、神様が遠く感じる時を通ることがあります。けれども、神様はインマヌエルです。すなわち、「神様は私たちとともにおられる」ということです。

そして、イエス様を復活させたのと同じ力で、神様は私たちの悲しみを喜びへと変えてくださいます。

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聖書が成就するため

この箇所を読むと明らかなのは、イエス様の死が偶然ではなかったということです。また、イエス様の死は神様の間違いでもありませんでした。むしろ、神様はこの時が始まる前から、私たちの救いを計画しておられたのです。

皮肉なことに、祭司長たちがイエス様がメシアであるしるしを求めたとき、イエス様は確かにそのしるしを与えられました。けれども、彼らはそのしるしを認識することができませんでした。

彼らはイエス様に十字架から降りるように挑戦しましたが、イエス様は預言の成就を示されました。

そして、イエス様は叫ばれたのです。

わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。(マタイ27:46)

祭司長たちは、イエス様がエリヤという預言者を呼ばれているのだと思いました。しかし、実際にはイエス様は彼らに詩篇22篇を指しておられたのです。なぜでしょうか。それは十字架の上でイエス様がダビデによって書かれた言葉を成就されたからです。

十字架の上で、イエス様は侮辱され、軽蔑されました。驚くべきことに、祭司長たちは知らず知らずのうちにダビデの詩篇を引用していたのです。詩篇22篇において、ダビデの敵はこう語りました。

主に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。(詩篇22:8)

祭司長たちはイエス様について、こう言いました。

彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。「わたしは神の子だ」と言っているのだから。(マタイ27:43)

ダビデの時代には、十字架という刑罰はまだ存在していませんでした。それにもかかわらず、ダビデは十字架による死を生々しく描写しました。ダビデはこう語りました。

水のように 私は注ぎ出され、
骨はみな外れました。(詩篇22:14a)

実際には、十字架にかけられた人々の骨の関節がしばしば外れたとされています。

そして、ダビデはこう語りました。

心はろうのように
私のうちで溶けました。(詩篇22:14b)

ヨハネによれば、兵士がイエス様の脇腹を槍で突き刺したとき、血と水が流れ出ました。現代の医師によれば、その血と水が流れる現象は、心不全の兆候である可能性があるとされています。

さらに、ダビデはイエス様が喉が渇くことについても預言していました。

舌は上あごに貼り付いています。(詩篇22:15)

さらに、ダビデはイエス様の手と足が刺されることについても預言しました。(ダビデは釘ではなく、犬の歯や、場合によってはライオンの歯のような描写を使用しています。詳細については詩篇22篇の13節をご覧ください。)

犬どもが私を取り囲み
悪者どもの群れが私を取り巻いて
私の手足にかみついたからです。(詩篇22:16)

さらに、十字架にかけられた人々は、自分の胸郭を見ることができたとされています。

ダビデはそのような状況についても詩篇の中で描写しました。

私は自分の骨をみな数えることができます。(紙片22:17)

さらに、ダビデは兵士たちがイエス様の服をめぐって賭けをすることについても預言されました。

彼らは私の衣服を分け合い
私の衣をくじ引きにします。(詩篇22:18)

それらの預言はイエス様を指していました。祭司長たちは聖書をよく知っていましたが、それを認識することができませんでした。

ヨハネは他の聖書の箇所も参考にしています。詩篇34篇と69篇、またゼカリヤ書12章もイエス様のことを指しています。

さらに、イザヤ書53章は特に具体的にイエス様のことを指しています。

イエス様は私たちの背きのために刺されました。また、イエス様は私たちの罪のために砕かれました。(5節)

証人たちがイエス様に言いがかりをつけたにもかかわらず、イエス様は何も言われませんでした。(7節)

イエス様は自分の敵のためにとりなしをされました。(12節)

イエス様は悪者たちと一緒に葬られるはずでしたが、最終的にお金持ちの人のお墓に葬られました。(9節)

そして、イエス様はよみがえられました。(10-11節)

だから、私はもう一度言います。イエス様の死は偶然ではありませんでした。時間が始まる前に、天の父はイエス様の死、そして私たちの救いを計画しておられたのです。

ですから、イエス様の十字架の御業を当たり前のものだと決して思わないでください。むしろ、感謝を持って、私たちの救いのため、またイエス様が支払われた代価のために、天の父をほめたたえましょう。

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全額が支払われた

私が大嫌いなことの一つは、税金を払うことです。毎年、私は税務署に行き、確定申告を提出します。その後、一か月ほどして税務署が少しお金を返してくれます。しかし、その直後には市民税や県民税を支払わなくてはなりません。

私はいつも一括払いで税金を支払います。もちろん分割払いも選択できますが、一括払いの方が自分には合っていると思います。そうすれば、次の年まで税金のことを考えなくても済むからです。

十字架の上で、イエス様の最後の言葉は、まるでその税金を支払うイメージを描写しているようでした。

12時になると、暗闇が全地を覆いました。そして15時ごろまで、その暗闇は続きました。おそらくその間に、神様は私たちの罪をすべてイエス様に負わせたのではないでしょうか。

その暗闇は罪の象徴だったのでしょう。罪によって霊的な暗闇がこの世にもたらされましたが、天の父はその罪をイエス様に負わせられました。

そして、15時ごろ、イエス様は叫ばれました。

わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。(マタイ27:46)

その瞬間、おそらく天の父は、私たちの罪をイエス様に負わせ、イエス様に背を向けられたのではないでしょうか。それにより、天の父とイエス様との関係は初めて壊れてしまったのでしょう。

そしてイエス様は私たちが本来受けるべき罰を経験されました。つまり、イエス様は天の父から離れられたのです。

イエス様は完全な愛の源、喜びの源、そして命の源から離れられました。

そのような状態はまさに地獄そのものです。イエス様は実際に地獄に行かれたわけではありませんが、ある意味で地獄を経験されたのです。イエス様は私たちの罰を受けてくださいました。

そして、死を迎える直前、イエス様は天を仰ぎ、祈られました。

完了した。父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。(ルカ23:46;ヨハネ19:30)

「完了した。」

イエス様の時代、ユダヤ人たちが税金を支払うと、ローマ人はその言葉を請求書に捺印しました。その意味は、「全額が支払われた」ということです。

イエス様の死によって、私たちの罪のためのすべての負債が支払われました。

その結果はどうでしょうか。私たちは神様との新しい関係を持つことができるようになりました。神様は至聖所と聖所の間にかかっていた神殿の幕を、上から下まで真っ二つに裂かれました。(マルコ15:38)

その理由は何でしょうか。

その行為を通して、神様は私たちにこう語られたのです。「私たちの間にあった障害は破られた。イエス様を通して、あなたは私に近づくことができる。」

イスラエル人が経験したように(出エジプト記20:18-21)、私たちはもはや神様から遠くに立つ必要はありません。

むしろ、私たちは神様に近づくことが許されています。

だから、神様に近づきましょう。

へブル人への手紙の著者はこう述べています。

こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。

また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。(へブル10:19-22)

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ヨハネの福音書 ヨハネ19章

自分の苦しみを脇へ置くことができる?

私たちがどれほど自己中心的であるかを知りたいなら、悲しんでいるときの自分の反応を見るべきです。試練に直面し、苦しんでいるとき、私たちは何に焦点を当てるでしょうか。自分自身でしょうか。

自己憐憫に浸るのは、ごく自然な反応かもしれません。

「どうして私はこんな試練に向き合わなければならないのか。いつまで苦しみ続けるのか。」——そう考えるのは普通のことです。

けれども、私たちが十字架を見るとき、イエス様は自分自身よりも、周りの人々に焦点を当てておられたことに気づきます。イエス様は一人の犯罪人を憐れみ、敵のために祈り、そしてこの場面では、母マリアへの深い愛を示されました。

マリアは十字架のもとで涙を流していました。彼女の長男は、ひどい罰を受け、死のふちに立たされていました。しかし、マリアの他の子どもたちは十字架の近くにはいなかったようです。

もしかすると、彼らはイエス様が狂っている(マルコ3:21)と思い、彼が家族に恥をかかせたと感じたのかもしれません。

だからこそ、他の息子や娘の姿はなく、マリアは十字架のもとで一人涙を流していました。家族からの慰めはありませんでした。

そのとき、イエス様は愛する弟子(おそらくヨハネ)を見て、マリアにこう言われました。

女の方、御覧なさい。あなたの息子です。(ヨハネの福音書19:26)

(当時、「女の方」という表現は、非常に丁寧で敬意を込めた言葉でした。)

そして、イエス様はヨハネにこう言われました。

御覧なさい。あなたの母です。(27)

その後、ヨハネはマリアを自分のもとへ引き取りました。

イエス様は、ご自身の苦しみだけを考える権利があったでしょう。彼は無実でした。この苦しみを受ける理由は何もありませんでした。

それでもイエス様は、自らの苦しみを脇へ置き、周りの人々を見て、愛を示されました。

あなたはどうでしょうか。

かつて、私の牧師の奥様は本当に素晴らしい方でした。私が知り合った人の中でも、彼女は最も愛を示す人の一人でした。彼女は亡くなるその日まで、変わることなく愛を示し続けました。

彼女はがんにかかり、少しずつ健康を失っていきました。最終的には、自分のベッドにずっといる状態となり、周りの人々が彼女を介護する必要がありました。それでも、彼女は自己憐憫に浸ることはありませんでした。

最後まで、彼女は介護してくれる人々にイエス様の愛で触れようとしていました。

もちろん、彼女は完全な人ではありませんでした。きっと、気が沈むこともあったでしょう。それでも、イエス様のように、彼女は自分の苦しみを脇へ置き、周りの人々に愛を示しました。

あなたはどんな苦しみを経験しているでしょうか。どんな試練に直面しているでしょうか。

あなたは何に焦点を当てるでしょうか。自分自身でしょうか。それとも、あなたは自分の苦しみを脇へ置き、周りの人々のニーズを見ることができるでしょうか。

苦しみの中で自分自身に焦点を当てる心は、その苦しみに留まり続けます。しかし、自分の苦しみを脇へ置き、周りの人々のニーズを見る心は、苦しみを越えて、もう一度喜びを見いだすのです。

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神様をののしること。神様の前にへりくだること。

これは、十字架にまつわる有名な話の一つです。イエス様の隣には、二人の犯罪人も十字架につけられました。そして、ルカはその二人についてこう記しています。

十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え、」と言った。(ルカ23:39)

「ののしり」という言葉が私の心に強く響きました。それを思い、こう考えました。「どれほどの人々が自分の罪による苦しみの中で、神様をののしるだろうか。」

この犯罪人は悪事を働いたために罰を受けていましたが、悔い改めることなく、その罰について不満を述べていました。

もしかすると、彼は自分の行為が正しいと思い込み、イエス様にこう叫んだのかもしれません。「あなたは本当にキリストなのですか。私はこの罰に値しない。私を救いなさい。」

他の福音書によれば、最初はもう一人の犯罪人もイエス様をののしっていました。しかし、おそらくイエス様は答えることなく、情け深く彼らを見つめられたのでしょう。

だからこそ、二人目の犯罪人は次第に静まっていったのかもしれません。彼が悟ったのは、ローマ人がイエス様の尊厳を奪おうとしていたにもかかわらず、イエス様がその尊厳を保ち続けておられたということでした。

さらに、彼はイエス様が敵に対して情けと愛と赦しの心を持っておられるのを目にしました。

もしかすると、その犯罪人は以前にイエス様の奇跡を目の当たりにしたことがあり、イエス様の教えを聞いたことがあったのかもしれません。

そして、彼は自分自身を見つめ直し、初めてこう認めたのでしょう。「やはり私は悪かったのだ。いろいろと言い訳をしたが、それはただの言い訳にすぎなかった。私は確かにこの罰に値する。」

だからこそ、もう一人の犯罪人がイエス様をののしり続けると、彼はこう言いました。

おまえは神を恐れないのか。お前も同じ刑罰を受けているではないか。

おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。(40-41)

そして、彼はイエス様に向き直り、こう願いました。

イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。(42)

私のただの想像にすぎませんが、たぶんイエス様は十字架の上で初めて微笑まれたのかもしれません。そしてイエス様はこう答えられました。

まことに、あなたに言います。あなたは今日、私とともにパラダイスにいます。(43)

その瞬間、その犯罪人は救われました。彼は死にかけていながらも、命を見いだしたのです。

私は前にも述べましたが、多くの人々は一人目の犯罪人のような態度を取ります。彼らは悪事を行いますが、罰を受けて苦しむと、自分の悪さを認めることなく神様をののしるのです。

多くの人々が、なぜ神様が地獄で人々を永遠に罰するのか疑問を持ちます。

その理由の一つとして、地獄では誰も悔い改めないからかもしれません。むしろ、彼らは永遠に神様をののしり続けます。

彼らは自分の行為が正しかったと主張し続けます。彼らの心では、自分の悪さを理解していながらも、自分の罰について不平を言い続けるのです。

地獄では、人々は自分の罪深さを認識し、その罰に値することも理解していますが、それを決して認めることはありません。

しかし、自分の罪を認め、へりくだって悔い改める人は、二人目の犯罪人のように赦され、命を見いだすのです。

そのための時間は「今」しかありません。死んでからでは、すでに手遅れなのです。だからこそ、パウロはこう書きました。

見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。(第二コリント6:2)

あなたはどうでしょうか。イエス様の前にへりくだって来ることができるでしょうか。そして、イエス様からの救いを受け入れるでしょうか。

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神様が書かれたこと

ピラトと祭司長たちのやり取りは非常に興味深いものです。ピラトは十字架の上にイエス様の罪状書きを掲げました。その「犯罪」とは?

「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」。

祭司長たちはすぐにピラトのもとへ行き、抗議しました。彼らはこう言いました。「『ユダヤ人の王』と書かずに、『この者はユダヤ人の王と自称した』と書いてください。」

けれども、ピラトは答えました。「私が書いたものは、そのままにしておけ。」(ヨハネ19:21-22)

今もなお、多くの人々はユダヤ人たちのような態度を取っています。彼らはイエス様を王として認めようとしません。彼らはイエス様が神の子であると認めたくありません。また、イエス様だけが神様への道であると認めたくありません。

そのため、彼らはクリスチャンたちに不平を言います。

「イエス様がご自身を王や神の子や神様への道だと自称したかもしれませんが、私はそうは信じません。」

しかし、私たちはピラトとは違い、私たち自身よりも遥かに優れた権威を持つ方を指すことができます。私たちは彼らにこう言うことができます。

「神様が書かれたものは定められています。あなたはその言葉を変えることはできません。あなたは神様の御心を変えることもできません。神様の言葉は永遠に立ちます。あなたの不信が、神様の言葉を変えることはありません。」

人々はこのような言葉を聞きたくないでしょう。祭司長たちもピラトの言葉を聞いて激怒したはずです。けれども、相手がその言葉を好むかどうかは問題ではありません。なぜなら、神様の言葉は正しいのです。

だからこそ、人々は選択を迫られます。

彼らは自分の心をその真理に合わせるでしょうか。それとも、彼らが信じたいと思うものに真理を曲げようとするでしょうか。

しかし、もし彼らが真理を曲げようとするならば、最終的に彼らの人生は砕かれてしまいます。

イエス様はご自身について、こう言われました。

あなたがたは、聖書に次のようにあるのを読んだことがないのですか。

「家を建てる者たち(つまり、祭司長たちや、ほかの宗教的なリーダーたち)が捨てた石(つまり、イエス様)、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。」。。。

また、この石の上に落ちる人は粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします。(マタイ21:42,44)

祭司長たちがイエス様を拒絶した結果、彼らの世界は崩壊しました。エルサレムは滅び、神殿は破壊されました。そして、裁きの日には彼らは自分の罪によって裁きを受けることになるのです。

イエス様を拒絶するすべての人々にも同じことが起こります。なぜなら、神様が書かれたことは定められているからです。

その言葉を聞いて、あなたはどう応えるでしょうか。

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もし私たちがイエス様の十字架を背負わなければならなかったら

クレネのシモンについて、私たちはほとんど知りません。マルコによれば、彼はルフォスという人の父でした。

ローマ書16:13では、パウロがルフォスという人に挨拶していることから、ある聖書学者たちはマルコの福音書のルフォスが同一人物だと考えています。

シモンは、おそらく北アフリカ出身のユダヤ人で、過ぎ越しの祭りを祝うために初めてエルサレムを訪れた巡礼者だったのでしょう。

ところが、エルサレムに到着した彼は、自分が思い描いていた以上の出来事を目撃することになりました。シモンは、まことの過ぎ越しの子羊が自分の罪のために犠牲となる瞬間を目の当たりにしたのです。(第一コリント5:7)

しかしその前に、シモンはイエス様の十字架を背負わなくてはなりませんでした。

最初はイエス様がご自身の十字架を背負われました。けれども、肉体的な苦しみ(イエス様はむち打たれ、大量の血を流され、兵士たちの拳で殴られました)や精神的な苦しみ(イエス様が愛された者たちに裏切られ、捨てられました)のため、その十字架の重さに耐えきれず、倒れてしまわれたのです。

イエス様はその十字架を背負い続けることができなくなられました。そこでシモンが代わりにその十字架を背負うこととなりました。

その出来事を読んで私はこう考えました。

もしイエス様がゴルゴタで「もういいです。私はもうこの苦しみに耐えられません。あなたがこの十字架を背負いなさい。あなたがこの十字架で死になさい。あなたはこの十字架に値するでしょう?私は罪を犯したことがありません。罪を犯したのはあなたです。」と言われたら、私たちはどうなっていたでしょうか。

ある意味で、シモンはそれを少し経験しました。イエス様が十字架を背負うことができなくなられたため、シモンは自分の十字架を背負わなければなりませんでした。

ですが、実際にはそれは本当はイエス様の十字架ではありませんでした。それはシモン自身の十字架だったのです。なぜなら、イエス様は罪を犯しておられませんでしたが、シモンは多くの罪を犯していたからです。

後になって、シモンはその真実を理解したのでしょうか。

「私は実際にはイエス様を助けていませんでした。本当にその十字架に値していたのは私自身でした。

実は、その十字架を背負ったとき、イエス様は私を助けようとしてくださっていました。私はその十字架で死ぬことに値していたのですが、イエス様が私の代わりに十字架で死んでくださったおかげで、私は罪から救われたのです。

でも、もしイエス様が十字架をもう耐えられなくなっていたら、私はどうなっていたでしょうか。私は今どこにいただろうか。」

その答えは?地獄です。なぜなら、私たち皆が地獄に値するからです。

しかし、イエス様は十字架を背負ってくださいました。イエス様は、私たちが値する罰を十字架の上で受けてくださるほど、私たちを愛してくださいました。

だからこそ、私たちの罪は赦され、真の命を得ることができるのです。それは、私たちを深く愛しておられる神様との関係を持つ人生です。

ですから、十字架を当たり前のものだと考えてはいけません。むしろ感謝の心を持って、私たちのために十字架で死んでくださったイエス様を仰ぎ見ましょう。

Jesus Christ,
イエス・キリスト
Praise your name,
あなたの御なをほめたたえます。
Lord I sing without shame.
主よ、私は恥じることなく歌います。

You bore the cross.
あなたは十字架を背負ってくださいました。
So much love.
こんなにも大きな愛で。
All my life, all I need is you.
私の一生、私が必要とするのは、あなたただ一人です。

ーージェームズ・ガブリエル

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ヨハネの福音書 ヨハネ19章

あなたの王は誰でしょうか

ピラトと祭司長たちの会話を見てみると、聖書の物語の中でも最も皮肉な場面の一つが描かれています。

ピラトは神様をまったく知らなかったにもかかわらず、祭司長たちや他のユダヤ人に向かって叫びました。「見よ。お前たちの王だ。」

ピラトの言葉は、まさに真実でした。イエス様はユダヤ人の王だったのです。

しかし、神をよく知っているはずの祭司長たちはこう主張しました。「カエサルのほかには、私たちに王はありません。」

本来、「カエサルのほかには、私たちに王はない」と言うべき立場だったピラト。ところが、彼が「イエス様は王だ」と宣言したのです。

その反面、「イエス様は王」と言うべきだったユダヤ人たちは、むしろ「カエサルは王だ」と言い張りました。

祭司長がそう信じていなかったとしても、彼らは「神こそ王だ」と宣言すべきでした。しかし、怒りに駆られた彼らは、何も考えずに「カエサルは王だ」と叫んでしまったのです。

では、あなたはどうでしょうか。あなたの王は誰ですか。

祭司長とは違い、「イエス様は王だ」と言うかもしれません。けれども、あなたの行動はその言葉と一致しているでしょうか。

もしかすると、周りの人々はあなたの行動を見て、「あなたの王は会社だ」と言うかもしれません。なぜなら、仕事が最も大切だからです。

あるいは、「あなたの王は家族だ」と言われるでしょうか。

もしくは、「あなたの王は趣味だ」と言われるでしょうか。

日本では、最も大きな「神」として君臨しているのは、文化という存在かもしれません。

多くのクリスチャンにとっても、文化は王のように支配しています。

日本の文化に従うプレッシャーは非常に強く、だからこそ、人々は家族の平和を守るために、自分の信仰を妥協してしまうことがあります。

また、自分のキャリアを守るために、教会へ行くことをやめてしまう人もいます。

もし誰かがあなたの人生を見て、「これがあなたの神だ」と言ったら、それは何を指すでしょうか。

それはあなたの仕事でしょうか。

それとも、文化でしょうか。

あるいは、あなた自身でしょうか。

もしかすると、神を指すでしょうか。

もっと重要なのは、あなたの答えです。もしあなた自身の人生を振り返ったとき、あなたは正直に「神こそが私の神だ」と言えるでしょうか。

もしかすると、別のものを指すべきなのかもしれません。

あなたの王は誰でしょうか。

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マタイの福音書 マタイ27章 マルコの福音書 マルコ15章 ヨハネの福音書 ヨハネ18章 ヨハネ19章 ルカの福音書 ルカ23章

私たちには、基礎がないと

前にも言いましたが、この福音の箇所を統合するのは少し難しいです。 以下は私の個人的な意見ですが、どうぞ福音書を読んで、自分なりの結論を導いてください。

  • 祭司長たちや最高法院の代表たちは、イエス様をピラトの前に連れて行き、最初の告発をしました。(ルカ 23:1-2; ヨハネ 18:29-31)
  • ピラトは初めてイエス様と対話しました。(ヨハネ 18:33-38では、その話の詳しい内容が記されていますが、ほかの福音書では簡潔に要約されています。)
  • ピラトはイエス様が無実であると宣告しましたが、ユダヤ人のリーダーたちがその判断に抗議したため、ピラトはイエス様をヘロデのもとに送りました。(マルコ 15:3-5; ルカ 23:4-12)
  • ヘロデがイエス様をピラトに送り返し、ピラトはもう一度イエス様が無実であると宣告しました。(ルカ 23:13-17)
  • その後、ピラトはユダヤ人たちに「私はイエス様かバラバ(犯罪者)を釈放しようと思っているが、どちらを釈放すべきだと思うか」と尋ねました。けれども、ユダヤ人たちはバラバの釈放を望みました。(これはすべての福音書に記されています。)
  • ピラトはバラバを釈放しましたが、イエス様を殺すのではなく、むち打つように命じました。(マルコ 15:16-20; ルカ 23:21; ヨハネ 19:1-7)
  • ピラトはもう一度ユダヤ人たちを説得しようとしましたが、最終的にイエス様が十字架にかけられるよう命令しました。(ヨハネ 19:7-14)

その背景を踏まえて、今後数日にわたって、私はすべての主人公について話そうと思います。

今日はピラトについてお話したいと思います。

歴史書にはピラトに関する記述がありますが、私は聖書の物語だけを参考にしたいと思います。

この話を読むと、私はピラトに関してこう感じます。

「難しい決断をしなければならない時や、自分の人生の在り方を考える時、ピラトには強い基盤がなかった。」

ピラトが初めてイエス様を尋問した時、彼はまずイエス様が本当に反逆者かどうかを見極めたいと思いました。そのため彼は直接こう尋ねました。「お前は王なのか。」

イエス様はご自身が王であると主張されましたが、「私の国はこの世のものではありません」と語られたため、ピラトはイエス様がローマ帝国に対する脅威ではないと判断しました。ピラトにとって、それが最も重要なことでした。

しかし、イエス様は続けてピラトの世界観に異議を唱えられました。イエス様はこう言われました。

わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。(ヨハネ18:37b)

要するに、「ピラト、あなたは真理の味方でしょうか。 あなたは真理を愛しているでしょうか。 真理はあなたの基礎でしょうか。

もしそうであるならば、あなたは私の言葉を聞き、従わなくてはなりません。」

私たち皆もイエス様の質問と向き合わなければなりません。 私たちの人生の基礎は何でしょうか。その基礎は真理でしょうか。 イエス様が真理であることを信じるでしょうか。

ピラトもその疑問と向き合いました。彼の反応はどうだったでしょうか?

真理とは何なのか。(ヨハネ18:38)

私はピラトの声を本当に聞いてみたいです。

彼は怒ってこう言ったのかもしれません。 「あなたは自分が誰だと思うのか?すべての人々よりも、あなたは真理をよく知っていると思うのか。」

あるいは、皮肉っぽい声でこう言いたかったのかもしれません。 「真理?本当の真理なんてない。真理とは、力を持つ者が語るものだ。」

または、絶望を感じながらこう言ったのかもしれません。 「真理が本当に存在するのだろうか。たとえ真理が存在するとしても、私はそれを見つけられるだろうか。」

ピラトが本当に意味したものは私には分かりませんが、結局彼は真理の存在を拒絶しました。そしてイエス様を真理の源として拒絶しました。その結果はどうだったでしょうか?

彼が決断を下したとき、確固とした基盤を持っていませんでした。むしろ、彼は周囲の人々の言葉やプレッシャーに影響を受けました。

彼は暴動の脅威に直面しました。(マタイ27:24)

また、ユダヤ人の指導者たちはピラトの行為をカエサルに伝えると脅しました。(ヨハネ19:12)

そのプレッシャーを感じたピラトは、自分の恐れに負けて悪い決断をしました。彼自身がその決断が間違いであると十分に分かっていたにもかかわらず、それを選びました。

私たちにも同じようなことが起こるかもしれません。もし私たちが真理を基盤としなければ、もし私たちがイエス様を基盤としなければ、私たちは周囲の人々の意見や自分自身の恐れに左右されて決断します。そして、悪い決断をしてしまうのです。

あなたはどうでしょうか?決断を下すとき、あなたの基盤は何ですか?あなたの人生の基盤は何ですか?神様の知恵を求めていますか?神様の言葉が真理であることを信じていますか?

ヤコブはこう語っています。

あなたがたのうちに、知恵にかけている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。

ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。

その人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういう人は二心を抱くもので、歩む道全てにおいて心が定まっていないからです。(ヤコブ1:5-8)

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ヨハネの福音書 ヨハネ18章

私たちに真実を言う人を打つ?

この箇所では、私たちはイエス様の最初の裁判を目にします。アンナスという人物は裁判官でした。

カヤパが大祭司となる前、アンナスは大祭司でしたが、ローマ帝国が彼を退け、その代わりにカヤパを大祭司に任命しました。

それでも、ユダヤ人の指導者たちはなおアンナスを敬い、カヤパが大祭司であるにもかかわらず、アンナスの影響力は依然として非常に強かったと考えられます。

いずれにせよ、アンナスはイエス様に対し、弟子たちや教えについて尋問しました。けれども、イエス様は直接答えるのではなく、こう言われました。

わたしは世に対して公然と話しました。いつでも、ユダヤ人がみな集まる会堂や宮で教えました。何も隠れて話してはいません。

なぜ、わたしに尋ねるのですか。わたしが人々に何を話したかは、それを聞いた人たちに尋ねなさい。その人たちなら、わたしが話したことを知っています。(ヨハネの福音書18:20-21)

要するに、「あなた方は律法を尊重すると主張しているでしょう。では、その律法に従いなさい。律法によれば、あなたがたが私を告発したいと思うなら、証人が必要です。証人たちはどこにいるのですか。」ということです。

けれども、イエス様がそう言われたとき、下役の一人がイエス様を打ち、「大祭司にそのような答え方をするのか」と言いました。

それに対して、イエス様は答えられました。

わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。正しいのなら、なぜ、わたしを打つのですか。(23)

アンナスはそれを聞いて、返す言葉がありませんでした。なぜなら、イエス様の言葉は正しかったからです。そこで彼は、イエス様を正式な裁判のためにカヤパのもとへ送りました。

しかし、イエス様の問いは私に深く考えさせます。人々が私に真理を伝えるとき、私はどのように反応するでしょうか。特に、その真理が私の罪を指摘するとき、私はどう反応するでしょうか。

アンナスのように高慢になり、自分の過ちを認めないでしょうか。あるいは、アンナスの下役のように、その人を攻撃するでしょうか。

もしかすると、私はその真理を受け入れるでしょうか。

真理を聞くのがつらいときもあります。正直に言うと、私は頑固なので、神様が私に「ブルース、その人の言葉を聞きなさい」と語られることもあります。

それでも、時々私はその真理と戦います。自分の過ちを認めたくないからです。私はなお、自分の道を歩み続けたいと思うことがあります。

しかし、キリストの弟子として、私たちはそのように生きてはいけません。私たちは真理を愛するべきです。たとえ耳に痛くても、その真理を愛するべきです。

だから、ヤコブの言葉に従いましょう。

ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。

みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。(ヤコブ1:21-22)

人々があなたに真理を伝えたとき、あなたはどのように反応するでしょうか。

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自分の心を見極める

イエス様の裁判を見る前に、少しペテロの話を振り返りたいと思います。

この話については、福音書を統合するのが少し難しいです。 けれども、この話をよく理解すると、ペテロは実際にイエス様を知ることを4回否定したものの、証人たちの前では3回否定したようです。

ペテロの最初の否定は、大祭司の家の中庭で起こりました。

もう一人の弟子(もしかするとヨハネか、あるいは12弟子の外から来た弟子かもしれません)が大祭司をよく知っていたため、中庭に入りました。

そしてその弟子がペテロのことを保証したため、ペテロも中庭に入ることができました。(ヨハネ 18:15-16)

この話に、一人のしつこい女性が登場します。彼女は門番として働いていたので、ペテロが中庭に入った際にこう尋ねました。

あなたも、あの人の弟子ではないでしょうね。(ヨハネ18:17)

ペテロは「違う」と答えました。

そして、彼女から逃れたものの、ペテロが火に当たっていると、彼女は彼を追い、じっと見つめながら言いました。

あなたも、ナザレ人イエスと一緒にいましたね。(マルコ14:67)

そして、大声で、彼女はその場の全員に向かって叫びました。

この人も、イエスと一緒にいました。(ルカ22:56)

それを聞いて、彼らはペテロに訊きました。

あなたもあの人の弟子ではないだろうね。(ヨハネ18:25)

ペテロはこのように答えました。

弟子ではない。何を言っているのか分からない。理解できない。(ヨハネ18:25b;マルコ14:68)

そして、ペテロはすぐに前庭の方に向かいました。 けれども、間もなく、その同じ女性がほかのしもべと共にペテロと対峙しました。

もしかすると、その友人は以前にペテロとイエス様を見たことがあったのかもしれません。 その時、門番はペテロを指して言いました。

「この人はあの人たちの仲間です。」(マルコ 14:69)

さらに、その友人も皆の前でこう言いました。

この人はあの人たちの仲間です。(マタイ26:71)

その中庭にいた一人がそれを聞き、ペテロをじっと見ました。 彼もペテロを認識し、大声で叫びました。

あなたも彼らの仲間だ。(ルカ22:58)

ペテロはそれを聞いて、誓いました。 「いや、違う。そんな人は知らない。」(マタイ 26:72;ルカ 22:58b)

その言葉を聞いて、たぶん皆は一瞬静まったかもしれません。 けれども、1時間後、別の大祭司のしもべが通りかかり、ペテロを見ました。

そのうえ、彼はペテロに耳を切り落とされた人の親類でした。 それで彼はこう言いました。

あなたが園であの人と一緒にいるのを見たと思うが。(ヨハネ18:26)

ペテロがそれを否定しようとした時、別の人が大声で叫びました。

確かに、あなたはあの人たちの仲間だ。ガリラヤ人だから。ことばのなまりで分かる。(マタイ26:73;マルコ14:70)

それを聞いて、ペテロはパニックになり、もし自分が嘘をついているなら呪われてもよいと誓い始めました。そして叫びました。「そんな人は知らない。」(マタイ 26:74)

すると、鶏が鳴きました。

その瞬間、ペテロは大騒ぎの音を聞き、イエス様がピラトの元へ連れて行かれるところを見ました。そしてイエス様は振り向いてペテロをじっと見つめられました。ペテロは自分が何をしたのかを悟り、外に出て激しく泣きました。

これが私が福音書を統合して描いた話です。(もしかすると少し間違いが含まれているかもしれません。)

とにかく、私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

ペテロを批判するのは簡単です。彼の臆病さや偽善を非難することもできるでしょう。しかし、そうする前に、私たちは自分自身の心をまず振り返るべきではないでしょうか。

実は、もし私がペテロだったなら、もっと勇気を持てたかどうか自信がありません。

私自身、十代の時に似たような経験をしました。友人に「君はクリスチャンか?」と尋ねられた時、その質問を避けようとしました。「はい」と正直に答えることができなかったのです。

今でもそのことを思い返すたびに恥ずかしい気持ちになります。

さらに、私は他のクリスチャンが様々な罪に陥るのを見たことがあります。特に性的な誘惑に負けることが多いです。

私自身もそのような誘惑に頻繁に直面します。そして、気をつけなければ私もその罪に陥るかもしれません。私は弱い存在です。神様の恵みによってのみ、私は立つことができています。

私たちが他の人が罪に陥るのを目撃する時、忘れてはならないことがあります。それは、私たち全員が弱いものであるということです。そして誰もが罪に陥る可能性があるのです。

ですから、他人を裁く前にその人を憐れみ、その人の回復のために祈りましょう。

パウロの言葉を心に留めておきましょう。

兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。

また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。(ガラテヤ人への手紙6:1)

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力と権威、憐れみと恵み

この箇所では、イエス様の中に三つのことを見ることができます。

1.イエス様の力と権威。 イエス様は敵に取り囲まれていましたが、それでも状況を支配しておられました。

イエス様が立ち上がり、敵と向き合われた時、「誰を捜しているのか」と問いかけられました。 彼らが「ナザレ人イエスを」と答えると、イエス様は「わたしがそれだ」と言われました。(ヨハネ 18:4-5)

日本語では分かりづらいですが、実はイエス様はこの時、神様の御名を使われました。(出エジプト 3:13-14;ヨハネ 8:58)

すると、イエス様の敵はその言葉を聞いた瞬間、地に倒れました。どれほどの恐怖を感じたことでしょうか。

そこで、イエス様は再び問いかけられました。「誰を捜しているのか。」(ヨハネ 18:6-7)

彼らはすっかり自信を失い、おどおどしながら答えました。「ナザレ人イエスを。。。」

彼らがイエス様の返事を待つ間、再び地に倒れる覚悟をしたかもしれません。けれども、イエス様は静かに答えられました。

わたしがそれだ、と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい。(ヨハネ18:8)

イエス様を捕らえに来たとしても、彼らは誰が本当の力を持っているのかを思い知らされました。 それは彼ら自身ではなく、イエス様でした。

2.イエス様の憐れみ。 敵はまだおどおどしていたため、弟子たちはその恐れにつけ込んで攻撃しようと思ったかもしれません。 すると、弟子の一人が叫びました。

主よ、剣で切りつけましょうか。(ルカ22:49)

イエス様の答えを待たずに、ペテロは敵の一人を攻撃し、右の耳を切り落としました。 (もしかしたら、ペテロはその人の頭を斬ろうとしたものの、誤って耳だけを切り落としてしまったのかもしれません。)

けれども、イエス様は彼を叱責されました。

それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。(マタイ26:53)

昔の讃美歌には、こんな歌詞があります。

イエス様は、ご自身を解放するため、またこの世界を滅ぼすために、一万人の天使を呼ぶことができたでしょう。

実は、その作詞家は誤解していました。12軍団とは、約4万8千人から7万2千人ほどの規模を指します。

とにかく、イエス様はその敵だけでなく、世界のすべての人々を滅ぼすこともできました。 しかし、イエス様は彼らを憐れんでくださいました。イエス様は彼らを殺さず、むしろ彼らの命の代わりに、ご自身の命を捧げられました。

3.イエス様の恵み。 憐れみとは、相手が受けるべき罰を与えないことです。 恵みとは、相手が受ける資格のないものを与えることです。

この出来事では、イエス様は大祭司のしもべに恵みを示されました。 イエス様は彼の耳を癒してくださいました。(ルカ 22:51)

それはイエス様の最後の癒しの御業でした。 より正確に言うと、それはイエス様の最後の肉体的な癒しの御業でした。

十字架の御業を通して、イエス様は私たちに霊的な癒しをもたらしてくださいました。 イエス様の恵みによって、私たちの罪は赦され、私たちは永遠の命を得ることができます。

私たちがしなければならないことはただ一つだけです。それは、イエス様を信じることです。

力と権威。憐れみと恵み。私たちの主を描写するより優れた言葉があるでしょうか。

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弱い

サタンが優しい存在だと言う人は誰もいません。サタンは私たちの肉体的な弱さや精神的な弱さを見つけると、すぐに攻撃してきます。

この箇所では、それがはっきりと分かります。イエス様と弟子たちがゲツセマネに着いたとき、イエス様は彼らに警告されました。

誘惑に陥らないように祈っていなさい。(ルカ22:40)

その時、弟子たちはすでに精神的に疲れ果てていました。彼らはまだイエス様の言葉を理解しようとしていました。つまり、イエス様が裏切られること、そしてイエス様が彼らのもとを去っていくことを、受け入れられなかったのです。

そのため、彼らは肉体的に、精神的に、そして霊的に弱くなりました。(ルカ 22:45)

だからこそ、イエス様が「わたしと一緒に目を覚ましていなさい」と言われたのに、彼らは眠ってしまいました。イエス様は何度も彼らに警告し、願われましたが、彼らは1度だけではなく、3度も眠ってしまいました。

その結果どうなったのでしょうか?イスカリオテのユダとユダヤ人の指導者たちがやって来ると、彼らは逃げ去ってしまいました。

しかし、イエス様はさらに過酷な試練に直面されました。イエス様は十字架を背負い、すべての人々の罪を担われました。その時、天の父はイエス様に背を向けられました。

この箇所では、イエス様の祈りをほんのわずかしか見ることができません。けれども、イエス様の最初の祈りは約1時間続き、その後さらに2度祈られました。

イエス様が祈るとき、その苦しみはあまりにも深く、汗が血のしずくのように地に落ちました。(ルカ 22:44)

さらに、その時、弟子たちは眠っていたため、イエス様には精神的な支えがありませんでした。

けれども、イエス様が弱さの中におられた時、天の父はイエス様を力づけてくださいました。

そして、天の父はイエス様を支えるために天使を遣わされたのです。(ルカ22章43節)

だから、捕らえられた時、イエス様は冷静に、最後の試練に直面する覚悟を決められました。

では、なぜ弟子たちは目を覚まして祈ることができなかったのに、イエス様はできたのでしょうか。

おそらく、イエス様は生前、毎朝目を覚まして祈ることを習慣としていたからです。 それは朝だけでなく、夜にも行われました。(マルコ 1:35、マタイ 14:23)

そのため、イエス様は最も弱い時に、日々の訓練によって培われたように自然に反応されたのです。

けれども、弟子たちはその訓練を積んでいなかったため、弱さの中で失敗してしまいました。

あるアメリカの有名なアメリカンフットボールの監督は、自分の選手たちと試合のビデオを見る際、相手チームの選手について語りました。 そのチームのある選手は、何度も同じミスを繰り返していました。そこで、その監督はこう言いました。

「その選手は練習の時、自分の技術について、きちんと気をつけなかったのだろう。 たぶん、彼はこう思ったのかもしれない。「正しいやり方はもうよく知っている。だから、今は気をつけなくても、試合の時にはちゃんとできるだろう」”

けれども、疲れ果てた時、人はただ反応するだけだ。 そして、その反応は、自分が普段どのように訓練してきたかによって決まるのだ。」

霊的な世界においても、これは同じです。

もし、あなたが 「私は困った時、何をすべきかよく知っている。だから、その時が来たらちゃんと祈るだろう」 と思っていたとしても、 毎日その訓練をしていなければ、肉体的に、そして精神的に疲れた時に、 あなたは本当に祈ることができるでしょうか。

そして、試練が訪れた時、弟子たちのようにあなたも自分の弱さに負けてしまうかもしれません。

しかし、もしイエス様のように、毎日神様を求め、目を覚まして神様と語るならば、 試練に直面した時、あなたは迷うことなく、すべきことを行い、固く立つことができるのです。

あなたはどうでしょうか? あなたは、毎日目を覚まして神様と語っていますか?

誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。(マルコ14:38)

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ヨハネの福音書 ヨハネ17章

私たちに対するイエス様の望み

クリスチャンたちは本当に、イエス様が私たちに対して抱かれる望みを理解しているでしょうか。

以前の記事では、イエス様が私たちとの親しい関係を望まれていることを見ました。永遠の命とは、イエス様に近づき、イエス様を知り、イエス様に知られることです。

けれども、イエス様はそれだけではなく、他にも望まれることがあります。イエス様は、私たちが兄弟姉妹と共に一つとなることを望んでおられます。

イエス様はこのように祈られました。

わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。

父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。

またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。

わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。(ヨハネの福音書17:20-23)

イエス様は、私たちがイエス様と天の父のような関係を持つことを望まれます。イエス様と天の父が一つであるように、私たちも一つとなるべきです。

とはいえ、それはどういう意味なのでしょうか。

一つの意味は、目的の一致です。私たちが同じ目的を持ち、共に働くことです。その目的とは、福音を伝えることにほかなりません。

もう一つの意味は、互いに相手を自分より優れた者と考えることです。私たちは自分のことだけでなく、他の人のことも顧みます。(ピリピ2:3-4)

しかし、多くの場合、私たちはそのように生きていません。

そのため、ノンクリスチャンが私たちの教会に足を踏み入れると、そこには争いがあり、苦々しい心が見られることがあります。彼らはそのようなものを教会の外でも目にすることができるため、落胆し、すぐに教会を離れてしまいます。

それでも、当の教会の人々は自分のことで精いっぱいで、何が起こったのか気づいていないかもしれません。

イエス様は、それをご覧になると、深く悲しまれるのです。

周りの人々に対するあなたの行動や態度によって、どれほどイエス様を悲しませているでしょうか。あなたの苦々しい思いや、恨み、陰口を持つ心によって、イエス様はどれほど嘆かれるでしょうか。

その結果、イエス様だけでなく、私たち自身も苦しむことになります。

さらに、ノンクリスチャンは暗闇の中でつまずき続けます。なぜなら、彼らは教会の中に光がないと感じるからです。

あなたはどうでしょうか。あなたと他の教会のメンバーは、本当に一つとなっているでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ17章

聖別された。聖別されている途中。

「聖別」。

日本ではこの言葉がどれほど一般的に使われているかはわかりませんが、英語の “Sanctification” は「Christianese」、つまり「教会の中だけで使われる言葉」と見なされることがあります。

聖書の中で「聖別」という言葉を目にすることもあれば、教会の説教で耳にすることもあるでしょう。では、その言葉はどのような意味を持つのでしょうか。

基本的に、二つの意味があります。

一つ目は、神様の目的のために、他のものから選り別けられることです。

二つ目は、清められることです。

イエス様が弟子たちのために祈られたとき、その二つの意味を見ることができます。

わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。

真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。

あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。

わたしは彼らのため、わたし自身を聖別します。彼ら自身も真理によって聖別されるためです。(ヨハネの福音書17:16-19)

まずは、19節を見てみましょう。イエス様が言われたのは、弟子たちが(また私たちが)聖別されるために、イエス様がご自身を聖別されたということです。

要するに、天の父の目的のためにイエス様がご自身を選り別けてこの世に来られ、十字架で死なれたということです。その働きによって、イエス様は私たちを聖別されました。つまり、イエス様は私たちの罪を清め、私たちを天の父のものとされました。

だから、私たちはこの世にいるにもかかわらず、もはやこの世のものではありません。私たちの考え方や生き方は、この世の民の考え方や生き方とはまったく異なります。だからこそ、彼らは私たちのことを理解できず、憎む人もいます。

それでも、私たちが聖別される過程は、今もなお続いています。

神様の言葉と働きを通して、私たちは罪とは何かを理解し、次第にその罪を憎むようになります。

そして、罪を犯したとき、神様の言葉が私たちの心を打ち、悲しみと悔い改めへと導かれます。そのようにして、神様は私たちを絶えず清め続けてくださいます。

また、神様の言葉を通して、私たちは神様の御心を知るようになります。神様は私たちに、どのように生きるべきかを教え、またどのように神様の国の目的を果たすかを示してくださいます。

その言葉を聞き、従うと、私たちは日々、さらに神様の目的のために聖別され、主に用いられる者となります。

だから、ある意味では、私たちはすでに聖別されました。なぜなら、十字架で流されたイエス様の血によって、私たちの罪は清められたからです。

しかし、別の意味では、私たちは今もなお聖別の途上にあります。

イエス様が私たちの聖別のために祈っておられるので、私たちもまたそう祈りましょう。

イエス様、毎日私をさらに聖別してください。 私がよりあなたの姿に似るように。 私が罪を憎み、天の父の御業に参加できるように。

私が失敗したときには、どうか私を赦し、引き上げてください。 日々、私を清め、あなたのものとしてくださいますように。

あなたのみ名によって祈ります。アーメン。

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ヨハネの福音書 ヨハネ17章

私たちが敵対的な世にいるのに。。。

この箇所では、イエス様が私たちへの深い愛をもって、私たちのために祈られる姿を見ることができます。

この真理を心に留めておきましょう。イエス様は私たちのために祈ってくださいます。

私たちはしばしば周りの人々のために祈ります。しかし、私たちの大祭司であるイエス様は、私たちのために祈ってくださいます。特に、イエス様は天の父が私たちを守ってくださるように祈られます。

もちろん、この箇所でイエス様は弟子たちのために祈られました。

けれども、イエス様が私たちのためにも祈っておられると信じます。なぜなら、イエス様が弟子たちを敵対する世へ遣わされたように、私たちもまた敵対する世へ遣わされているからです。そして、弟子たちが霊的な戦いに直面したように、私たちも霊的な戦いに直面しています。

だから、イエス様はこのように祈られました。(今もなお、イエス様は私たちのためにこのように祈っておられることでしょう。)

聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。。。

わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです。

わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。(ヨハネの福音書17:11,14-15)

福音のゆえに、あなたを憎む人もいるかもしれません。

迫害の時が訪れることもあります。

それでも、イエス様が私たちのために祈ってくださるので、天の父はサタンの攻撃に限界を定めてくださいます。そして、神様の力に頼るなら、私たちは耐えられない試練を経験することはありません。

だからこそ、どんなにつらい試練に直面しても、揺るがず堅く立ちましょう。神様は常に私たちとともにおられるのです。

そして、あなたは必ずその試練を乗り越え、勝利を得ることを忘れないでください。なぜなら、イエス様はあなたのために祈っておられるのです。

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ヨハネの福音書 ヨハネ17章

永遠のいのちとは

「永遠のいのち」と聞くと、多くの人々は天国での永遠の幸せを思い浮かべます。もちろん、それは間違いではありません。けれども、不思議なことに、多くの人々は神様抜きの存在を想像してしまいます。

彼らは神様が天国におられることを理解しているかもしれません。とはいえ、天国では私たちは神様を真に知り、また神様に知られる存在であることについては、あまり考えようとしません。だから、この世にいる間も、まるで神様が存在しないかのように生きています。

これはノンクリスチャンだけの話ではありません。クリスチャンでさえ、そのように生きることがあります。

彼らは日曜日に教会へ行き、讃美歌を歌い、メッセージを聞きます。もしかしたら、平日でも時折聖書を読み、祈るかもしれません。けれども、それ以外の時間、彼らはまるで神様がおられないかのように日常を過ごしてしまいます。

仕事や家族、趣味は良いものですが、私たちはそれらに没頭しすぎて、神様との関係に十分な時間を投資しないことがあります。しかし、私たちの命、特に永遠の命は、神様との関係そのものなのです。

イエス様はこのように祈られました。

永遠のいのちとは、唯一の誠の神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。(ヨハネの福音書17:3)

もちろん、私たちは永遠に生きます。とはいえ、イエス様は「永遠のいのち」とは単に永遠に生きることではないと語られました。

確かに、天国では私たちは幸せになるでしょう。とはいえ、イエス様は「永遠のいのち」とは単に幸せな人生を送ることではないとも語られました。

むしろ、「永遠のいのち」とは、神様を知ることです。また、イエス様を知ることです。

「永遠のいのち」とは、単に天の父とイエス様について知識を得ることではありません。

「永遠のいのち」とは、天の父とイエス様を親しく知ることです。

イエス様はこのように祈られました。

彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。。。わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。。。

父よ。わたしに下さったものについてお願いします。わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるようにしてください。わたしの栄光を、彼らが見るためです。世界の基が据えられる前からわたしを愛されたゆえに、あなたがわたしに下さった栄光を。。。

わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようにするためです。(21,23,24,26)

だから、私たちの人生の目的は神様を知ることです。

私たちの人生の目的は、神様に近づき、親しく知り、また神様に親しく知られることです。

つまり、永遠の命はただの未来の話ではありません。永遠の命は、今この瞬間から始まるのです。イエス様によれば、今もなおイエス様は天の父を現し、これからも現し続けてくださいます。

だから、私たちが天国に行くと、新しいことを始めるわけではありません。むしろ、天国は私たちがこの世で始めたことの続きなのです。

もしあなたが天国に着いたとき、まだ神様とただの知り合い程度の関係しかないなら、それはとても残念なことではありませんか。もし天国に着いたとき、あなたが神様をほとんど知らないなら、それは何とも惜しいことではありませんか。

この世で神様と親しい関係を築くなら、天国に着いたとき、どれほどの喜びを感じるでしょうか。

もしこの世で、毎日神様と話し、神様の声を聞き、人生の中で神様の働きを見て、さらに神様があなたを通して周りの人々に触れられることを目の当たりにするなら、やがて神様の御顔を仰ぐとき、どれほどの幸せに満たされるでしょうか。

私はそのような喜びを心から知りたいのです。毎日そのように生きているわけではないかもしれませんが、それでもそのように生きていきたいと願っています。

あなたはどうなのですか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ16章

平和と喜びを見つけるために

この箇所を読むと、弟子たちがイエス様の言葉に困惑していることが分かります。なぜなら、イエス様は去って行くと話されたからです。彼らはその言葉に囚われ、イエス様のほかの言葉がかすんでしまいました。

聖霊様の約束や、将来の祝福についてのイエス様の言葉に耳を傾けることなく、彼らは繰り返しこう思いました。「イエス様は去って行かれる。私たちはどうすればいいのか。」

だから、イエス様は彼らを励ますと同時に、警告を与えられました。

まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜びます。あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。

女は子を産むとき、苦しみます。自分の時が来たからです。しかし、子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません。

あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。

そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。(ヨハネの福音書16:20-22)

イエス様の死と復活によって、その言葉は成就しました。

イエス様が十字架につけられたとき、敵は喜びましたが、弟子たちは絶望しました。けれども、よみがえられたイエス様を見たとき、彼らの悲しみは喜びに変わりました。

だから、彼らが迫害やさまざまな苦しみに直面しても、その喜びを奪うことができる者は誰もいませんでした。そして、その喜びを持って、彼らはこの世を変えたのです。

しかし、イエス様の言葉は私たちにも当てはまります。イエス様が再びこの世に来られるまで、私たちは多くの試練に直面します。今は、私たちの悲しみの時です。

パウロはこう書きました。

私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。

それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。(ローマ人への手紙8:22-23)

けれども、イエス様がこの世に戻られるとき、私たちは御顔を直接見て喜ぶでしょう。そして、私たちの喜びを奪うことのできる者は誰もいません。

とはいえ、イエス様が戻られるまで、十字架の御業によって、私たちは神様に近づくことができます。

だから、イエス様のみ名によって、私たちは天の父に何でも求めることができ、神様はそれを与えてくださいます。そして、私たちの喜びは満ち溢れるようになります。(ヨハネ 15:23-24; 26-27)

時々、私たちはイエス様の言葉の例外ばかりを強調しすぎてしまうことがあります。

もちろん、私たちの祈りは神様の御心に沿うものでなければなりません。

確かに、もし私たちが誤って蛇を求めてしまったなら、神様はそれを断る権利を持っておられます。

けれども、その例外に囚われすぎると、私たちは神様に何も願わなくなってしまいます。

しかし、天の父は、私たちにためらわずに願ってほしいのです。

どれほど私たちは祈らないために、神様の祝福を逃しているでしょうか。

どれほど私たちは心の願いを神様に求めないために、喜びを不完全なものにしているでしょうか。

だから、願い求めましょう。

パウロの言葉を心に留めてください。

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。(ローマ人への手紙8:26-27)

時々、私たちは弱さのゆえに、何のために祈るべきか分からないことがあります。時には、誤ったことのために祈ってしまうことさえあります。けれども、そのようなとき、聖霊様が私たちのためにとりなし、私たちの益となるように祈ってくださいます。

だから、パウロはこう書きました。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8:28)

だから、この三つのことを覚えて、安心しましょう。

1.私たちの事情がどんなに悪くても、イエス様はこの世に戻り、すべてを癒してくださいます。

2.神様が私たちを愛しているので、私たちは何でも願い求めることができます。そして、聖霊様が私たちのためにとりなし、私たちに良いものだけを与えてくださいます。

3.神様はご自身の計画に従い、すべてのことを私たちの益となるように働かせてくださいます。

この三つの約束を心に留めるなら、イエス様の言葉はあなたの心により深く響くでしょう。

これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。

しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(33)

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ヨハネの福音書 ヨハネ16章

御霊の働き

聖霊様とは誰でしょうか。今なお、多くのクリスチャンたちは聖霊様について混乱しています。

一つのことを心に留めておきましょう。聖霊様は「物」ではなく、「者」です。

聖霊様は単なる力ではなく、人格を持っておられます。

だからこそ、イエス様が聖霊様について話されるとき、聖霊様を「助け主」と呼ばれました。

このギリシャ語の言葉は翻訳が難しいものですが、ある意味では、聖霊様は弁護士のような存在です。サタンが私たちを責めようとするとき、聖霊様は私たちを弁護し、助言を与え、助けてくださいます。人格のない力には、そんなことはできません。

だからこそ、このことを理解し、心に留めましょう。聖霊様は人格を持つ方なのです。

サタンが私たちを責めるとき、聖霊様はイエス様とともに、天の父のみ前で私たちのためにとりなしてくださいます。

私たちがどう祈ればよいか分からないとき、聖霊様は私たちのために祈ってくださいます。(ローマ 8:26-27,34)

私たちが神様が本当に私たちを愛しておられるのか疑問に思うとき、聖霊様は「あなたは神様の子どもだよ」と思い出させてくださいます。(ローマ 8:15-16;第一ヨハネ 3:24)

そして、今日の箇所では、イエス様はさらに聖霊様の働きについて教えてくださいした。

その方(聖霊様)が来ると、罪について、義について、裁きについて、世の誤りを明らかになさいます。(ヨハネの福音書16:8)

時々、私たちは人々の心を変える責任があると思いがちです。もちろん、私たちは福音の種を蒔き、水を注ぐ責任があります。

しかし、その種を成長させることができるのは、聖霊様だけです。人々の心を変えることができるのも、聖霊様だけです。

人々がイエス様を拒絶するとき、聖霊様は彼らの罪を明らかにされます。(ところで、この箇所における「罪」とは、一般的な悪行を指すのではなく、イエス様を拒絶することを意味します。)

イエス様が天に戻られたため、私たちはイエス様の義の模範を直接見ることができません。だからこそ、聖霊様は私たちに何が良いのかを教え、イエス様こそが救いの道であることを示してくださいます。

また、聖霊様は人々に将来の裁きについて警告されます。サタンが裁かれるのはもちろんですが、キリストを拒絶する者も裁かれます。

最後に、聖霊様は私たちをすべての真理へと導いてくださいます。私たちが聖書を読むとき、聖霊様はその言葉の意味を教えてくださいます。

初めて聖書の言葉を読むとき、その意味が分からないかもしれません。けれども、後になって私たちがその言葉を必要とするとき、聖霊様はそれを思い出させ、その意味を説明してくださいます。

もう一つのことに気づいてください。つまり、天の父とイエス様と聖霊様の交流です。

天の父が知っておられることは、イエス様も知っておられます。そして、イエス様が知っておられることを、聖霊様は正しい時に私たちに現してくださいました。

天の父、イエス様、聖霊様は唯一の神であり、調和して働かれます。

では、この真理が私たちにとってどんな意義を持つのでしょうか。

イエス様が「私たちの益のために天に戻る」と言われたとき、それは本気の言葉でした。なぜなら、聖霊様を通して神様ご自身が、イエス様を信じる者のうちに住んでおられるからです。

聖霊様は私たちを通して、周りの人々をイエス様へと導かれます。聖霊様は私たちの弁護士として働き、私たちのためにとりなし、教え、導いてくださいます。また、聖霊様は私たちを慰めてくださいます。

イエス様、聖霊様を私たちに与えてくださり、感謝します。聖霊様を通して、あなたは真にインマヌエル—「私たちとともにおられる神」です。

聖霊様、どうか毎日私たちを導き、教え、助けてください。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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ヨハネの福音書 ヨハネ15章

愛の戒め

私たちクリスチャンが「互いに愛し合いなさい」というイエス様の戒めの意味を本当に理解できているのか、私は疑問に思います。

ひとつの意味は、愛がただの感情ではないということです。

神様でさえ、私たちに自分の感情を変えるよう命じることはできません。

例えば、私があなたに「私に怒りなさい」と言っても、あなたに怒る理由がなければ、怒ることはできないでしょう。

けれども、私があなたを殴れば、当然すぐに怒るでしょう。なぜなら、怒りは感情だからです。私たちの状況によって、怒りは自然に湧き上がります。

また、落ち込んでいる人に「元気になりなさい」と言っても、その人は急に嬉しくなることはないでしょう。私たちは状況によって喜びを感じるからです。

しかし、イエス様は私たちに「互いに愛し合いなさい」と命じられます。

もし愛がただのセンチメンタルな感情であるならば、イエス様は「愛し合いなさい」と命じることはできなかったでしょう。なぜなら、愛は周りの人々との関係によるものだからです。仲が良ければ愛せますが、そうでなければ愛せません。

では、愛とは何でしょうか。それは、私たちが相手を価値ある存在としてみなし、その態度をもって接することです。

イエス様はそのような愛の最高の表現を示されました。

人が自分の友のために命を捨てること、これよりも大きいな愛は誰も持っていません。(ヨハネの福音書15:13)

つまり、最高の愛とは、自分自身よりも相手を大切にすることです。

イエス様は私たちにそのような愛を示してくださいました。イエス様は天を離れ、この世に来られ、私たちの罪のために死んでくださいました。その愛は、私たちが受けるべき罰を代わりに背負われるほどのものでした。

だから、イエス様が私たちを大切にされたように、私たちも周りの人々を大切にするべきです。彼らのために命を捨てるほどに、私たちは彼らを愛するべきです。

「でも、それは無理でしょう。あなたは私が毎日どんな人を扱わなくてはならないか知らないでしょう。私自身を彼らのために犠牲にするべきでしょうか。そんなに彼らを大切にするべきでしょうか。」

はい、そのとおりです。

けれども、それができるようになるためには、新しい心が必要です。そして、私たちがぶどうの木に繋がってこそ、その変化は可能となるのです。

あなたが神様の愛を受けると、失敗や罪があっても、神様があなたを愛してくださることが分かります。その神様の愛を理解すると、相手の失敗や罪があっても、あなたは彼らを愛せるようになります。

とはいえ、イエス様に繋がらず、神様の愛を常に受けていないなら、相手にそのような愛を示すのは難しいでしょう。

あなたの周りに、愛するのが難しい人がいるでしょうか。正直に言うと、私の周りにもそういう人がいます。

けれども、愛はただの感情ではありません。愛は選択です。

しかし、神様の私たちへの愛を理解していなければ、私たちはそのような選択をすることはできません。

だからこそ、神様に近づきましょう。私たちが神様の愛に根ざすことができるように。そうすると、神様の愛が私たちを通して流れ、私たちは愛の実を結ぶのです。

この世は、そのような愛を必死に探しています。

あなたは、どうしますか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ15章

私たちが実を結ぶように祈る

この箇所で、イエス様は非常に驚くべき約束をされます。

あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。(ヨハネの福音書15:7)

このイエス様の言葉を読むと、多くの人々は「では、私が長者になるように祈ろう」と考えます。

しかし、イエス様の言葉を注意深く読んでください。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら。。。」

前回の記事で、私はイエス様にとどまることについて話しました。それは、イエス様に信頼する人生を送ることです。つまり、私たちはイエス様が私たちの最善を知り、私たちの最善を求めておられることを信じるのです。

完全に神様に信頼する人は、お金に執着するでしょうか。それはありえないと思います。

お金や持ち物などの一時的なものを求めるのではなく、その人は何を追求するでしょうか。

その人は神様との関係を追求します。また、その人は神様の国のために、周りの人々に触れたいと思います。要するに、その人は神様のために実を結びたいと願うのです。

だから、イエス様は8節でこう言われました。

あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。(8)

私たちが何でも欲しいものを求めるという教えの文脈は、イエス様のために実を結ぶことです。

イエス様は続けて語られます。

あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため。。。(16a)

そう言った後、イエス様はもう一度語られます。

また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。(16b)

実を結ぶ方法のひとつは何でしょうか。他のどんなことよりも、イエス様はこのことを望まれます。

あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。(17)

こうすることで、私たちは周りの人々に神様の性格を示し、この世に触れることができます。そのようにして、私たちは実を結びます。それだけではなく、永遠に残る実を結ぶのです。

もし私たちが変えられた心を持つなら、つまり、一時的なものではなく永遠のものに焦点を当てる心を持つなら、神様は喜んで私たちの祈りをかなえてくださいます。なぜなら、私たちがさらに多くの実を結ぶからです。

あなたはどうですか。あなたはイエス様にとどまっているでしょうか。何よりもイエス様を喜ばせたいと思うでしょうか。イエス様に仕え、この世に触れたいと思うでしょうか。

それとも、一時的なものにまだ執着しているでしょうか。

あなたの心の状態はどうですか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ15章

イエス様にとどまる必要

前回の記事で、私は私たちの人生における天の父の働きについて話しました。

つまり、私たちの義や実は、自分の努力からではなく、天の父の働きによって生まれるのです。イエス様のみ言葉を通して、天の父は私たちを清めてくださいます(ヨハネの福音書15:3)。

また、私たちが失敗したり、罪を犯したりするとき、天の父は私たちを支え、実を結ぶように刈り込んでくださいます。

では、私たちの実が天の父の働きによって生まれるのであれば、私たちは何もしなくてよいのでしょうか。

そうではありません。私たちがすべきことが一つあります。それは、イエス様にとどまることです。

それはどういう意味でしょうか。

私たちはイエス様との親しい関係を保つべきです。

私たちはイエス様を人生の中心に据えるべきです。

また、イエス様と時間を過ごすべきです。

私たちはイエス様の言葉を聞き、その言葉に従うべきです。

イエス様はこう言われました。

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。

わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。(ヨハネの福音書15:9-10)

以前の記事で私は述べましたが、イエス様は単に「私の言葉に従いなさい」と言われただけではありません。

イエス様は、「私に信頼しなさい。私はあなたを愛しているから。私はあなたの最善を望んでいる」と語られました。

誰かを信頼できなければ、その人との関係を築くことは非常に難しいものです。もし私たちが神様に「あなたに信頼できません」と言うなら、その関係には距離が生まれてしまいます。

けれども、私たちが神様を信じ、その言葉に従えば従うほど、神様との関係はますます親しくなります。

私たちは神様を信頼するからこそ、その言葉に従います。そして、従うことによって神様の祝福を見て、神様が私たちの最善を望んでおられることを悟るのです。

だからこそ、私たちは神様をさらに愛し、信頼し、喜んで神様の言葉にますます従います。そして神様の祝福をさらに経験することで、私たちはますます神様を愛し、信頼するようになります。

このような神様との関係を持つことで、私たちは多くの実を結ぶのです。

しかし、もし私たちが決して神様を信じることを学ばなければ、どうなるでしょうか。私たちは決して実を結ぶことができません。

イエス様はこう言われました。

わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。

枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。

わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。

わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。(15:4-6)

あなたはどうですか。あなたは神様と共に歩み、神様を愛し、信頼するでしょうか。そうすることで、あなたは実を結ぶことができます。

もしその関係がなければ、あなたが何をしても、神様を喜ばせることはできません。そして、不信を捨てなければ、ユダのように、枯れて燃えてしまうのです。

しかし、神様と共に歩むなら、あなたは実を結び、喜びを知ることができます。

イエス様はこう言われました。

わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。(11)

どうすれば、神様との信頼関係を築き始めることができるでしょうか。

まず、あなたの救いのためにイエス様に信頼することが必要です。

ヨハネはこう書きました。

私たちが御子イエス・キリストの名を信じ(ること)。。。それが神の命令です。(第一ヨハネ3:23)

もしあなたがまだ神様との関係を持っていないなら、今日その関係を始めてみませんか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ15章

上げられて、刈り込まれた

キリスト教をほかの宗教と比べると、一つの大きな違いは、私たちの義が自分の努力によるものではないことです。むしろ、神様が私たちの心を変えてくださるので、私たちのふるまいが変わり始めるのです。

旧約聖書において、神様はこの概念を初めて教えられました。神様はエレミヤを通して、こう言われました。

見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。。。

これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。

わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(エレミヤ31:31,33)

また、神様はエゼキエルを通してこう言われました。

あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。

わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。(エゼキエル36:26-27)

そして、今日のヨハネの箇所では、イエス様は神様の働きをさらに詳しく説明されています。

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。

わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。(ヨハネの福音書15:1-2)

イエス様によれば、天の父は実を結ばない枝を取り除き、実を結んでいる枝をさらに多く実を結ぶように刈り込まれます。

では、神様が実を結ばない枝を取り除くとはどういう意味なのでしょうか。

私は、それがクリスチャンが救いを失うということではないと思います。他の聖書の箇所がその考えを否定しているからです。

この意味について、二つの可能性があると思います。

第一に、イエス様はイスカリオテ・ユダのような人々について話しているのかもしれません。

ユダはイエス様のもとに来て、多くのことを学びました。彼は実際に弟子となりました。けれども、最終的に彼は実を結びませんでした。彼はイエス様を心から信じることはありませんでした。だからこそ、彼は取り除かれてしまったのです。

今日でも、多くの人々が教会に通い、聖書から学んでいます。ところが、彼らは本当にその言葉を信じることはありません。そのため、彼らもまた取り除かれるのです。

しかし、もう一つの可能性があります。

「取り除く」という言葉は、「上げる」とも訳すことができます。

もしかすると、イエス様が意味されたのは、天の父が実を結ばない枝を日差しにさらすように持ち上げることだったのかもしれません。

そうすることで、その枝はより多くの栄養を受け、健康になり、やがて実を結び始めるのです。

このように、神様は私たちを罪や失敗から引き上げ、私たちが実を結ぶように、私たちの心の中で働かれます。そして、私たちが実を結び始めると、神様はその実の成長を妨げるものを刈り込まれます。

神様はペテロのためにもそのようにしてくださいました。

ペテロはイエス様を裏切ったことで深く落ち込んでいました。けれども、イエス様は彼を引き上げ、励まされました。

イエス様はペテロが自分自身を変えるのを待たれませんでした。むしろ、イエス様はペテロのもとに行き、彼の心に働きかけ、憂鬱から引き上げて、前に進めるように促されたのです。

とはいえ、ペテロが実を結び始めると、イエス様は「では、私の働きは終わりだ」と言われることはありませんでした。

むしろ、イエス様はペテロの偏見を刈り込まれたことで、ペテロはかつて見下していた異邦人にも福音を伝え始めたのです。(使徒の働き10-11)

ところが、その過程はまだ終わっていなかったのです。

ペテロは再び失敗しましたが、イエス様はもう一度ペテロを引き上げ、さらに刈り込まれました。(ガラテヤ人への手紙2:11-14)

あなた自身はどうでしょうか。クリスチャン生活を振り返ると、失望することがありますか。

神様があなたを責めることはなく、決してあきらめることもない、ということを心に留めておきましょう。

むしろ、あなたが完全になるまで、神様はあなたの心の中で働き続けておられます。

だから、神様から逃げず、むしろ神様に近づき、とどまりましょう。そうすることで、あなたは実を結ぶのです。

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ヨハネの福音書 ヨハネ15章

実を結ぶために選ばれました

この有名な箇所で、イエス様は私たちと神様との関係を素晴らしい描写で示されています。

イエス様はご自身を「ぶどうの木」と呼ばれます。

旧約聖書では、神様はイスラエルを「ぶどうの木」として表されました。

本来、イスラエル人は神様のために実を結び、その実を通して周囲の国民が神様に近づくはずでした。けれども、彼らの不従順のために悪い実ばかりを結び、神様は彼らを裁かれました。(イザヤ5:1-7、エレミヤ2:21)

だから、イエス様はご自身を単なる「ぶどうの木」ではなく、「まことのぶどうの木」と呼ばれました。なぜなら、イエス様の実を通して人々が神様に近づくだけでなく、イエス様の働きを通して救われるからです。

そして、イエス様は私たちを「枝」と呼ばれます。

16節で、イエス様はこう言われました。

あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。

それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため。。。(ヨハネの福音書15:16)

実を結ぶとはどういう意味でしょうか。ひとつの意味は、神様に変えられた人生を生きることです。

パウロは、かつての私たちの罪深い生き方について語った後、こう言いました。

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。(ガラテヤ5:22-23)

つまり、私たちが本当にクリスチャンになれば、私たちの人生はそのことを証明するはずです。かつての人生と比べると、私たちの生き方や考え方は変わるはずです。

そして、私たちの人生が変われば変わるほど、私たちは周りの人々に影響を与え始めます。彼らは私たちの中に神様を見て、神様に近づき、救われるのです。

それは、かつてイスラエルのために神様が立てられた最初の計画でしたが、今は、それが私たちのための神様の計画です。

ペテロはこう言いました。

しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。

それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。(第一ペテロ2:9)

あなたは、実を結ぶために神様に選ばれました。あなたは、その実を結んでいるでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ14章

捨てられていない

最近まで、私の娘はよく私と妻の部屋に来て、私たちのベッドに登り、私たちの間で寝ていました。

私たちが「どうしてここに来たの?」と尋ねると、彼女は「寂しかった」と答えました。

おそらく、私たちは皆、寂しさを感じたことがあるでしょう。

イエス様が「わたしは去って行く」と言われたとき、弟子たちは同じように感じたに違いありません。けれども、イエス様は彼らにこう言われました。

そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。

世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。

わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。

しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。

その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。

わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。。。

だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。(ヨハネの福音書14:16-21,23)

イエス様の言葉から、私たちは三位一体を知ることができます。また、その言葉を通して、大切な真理を学ぶことができます。三位一体の神様は、私たちと共におられます。

イエス様が約束されたのは、もう一人の助け主、つまり御霊を送ってくださることです。そして、御霊は私たちを教え、イエス様の言葉を思い起こさせてくださいます。

さらに、イエス様はご自身が私たちのもとに来られると約束されました。イエス様は私たちを捨てて孤児にはなさいません。

最後に、イエス様は、天の父が私たちのもとに来て、共に住まわれると約束されました。

しかし、私たちが心に留めておくべきことがあります。私たちは神様の言葉に従わなければなりません。だから、前回の記事の教訓は非常に大切だと思います。

つまり、私たちは神様の言葉に従うほどに、神様を信じることができるでしょうかという問いかけです。だから、ヨハネの福音書14章の冒頭で、イエス様はこう言われました。

神を信じ、またわたしを信じなさい。(1)

神様を信じなければ、神様との関係を築くことはできません。

また、私たちは本当に神様を愛しているでしょうか。神様を喜ばせたいと願うほどに、神様を愛しているでしょうか。罪を避けたいと願うほどに、神様を愛しているでしょうか。

もし私たちが神様を信じ、愛し、従うなら、神様の臨在を深く知ることができます。だから、良いときも悪いときも、神様からの平安を経験することができるのです。

イエス様は弟子たちにこう言われました。

わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。

あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。(27)

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ヨハネの福音書 ヨハネ14章

私たちが本当にイエス様を愛しているなら

この箇所を読むと、多くの人々は驚くことでしょう。

イエス様はこう言われました。

もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。(ヨハネの福音書14:15)

少し考えてみてください。もし、あなたの恋人や夫、妻が「もし私を愛しているなら、あなたは私の戒めを守るはずです」と言ったら、あなたはどう反応するでしょうか。

多くの人々は「そんなの嫌だ」と答え、その人と絶交するかもしれません。

けれども、私たちのイエス様との関係について、次のことを心に留めておきましょう。

第一に、イエス様は私たちの救い主であるだけでなく、私たちの主でもあるということです。しかし、イエス様は、自分の歪んだ喜びのために私たちの人生を惨めなものにしようとされるのではありません。むしろ、イエス様は私たちを深く愛し、私たちの最善を望んでおられます。

さらに、イエス様は私たちの創造者であり、私たちの人生のデザインを完全にご存じです。そのため、イエス様の言葉に従うなら、私たちの人生は祝福され、うまくいくのです。

だからこそ、イエス様は「私の言葉に従いなさい」と命じるのではなく、こう言われます。「私を信じなさい。あなたが私を愛しているなら、私を信じなさい。私はあなたの最善を知り、それを心から願っているからです。」

残念ながら、私たちの経験では、多くの人々が「こうしなさい」「ああしなさい」と指示するとき、彼らは私たちの最善を求めているのではなく、自分自身の最善を求めています。

そのため、神様が「私を信じなさい。私はあなたの最善を求めている」と言われても、私たちはその言葉を疑ってしまいます。

これは新しい問題ではありません。エデンの時代にも、同じ問題が起こりました。神様はアダムとエバにこう言われました。

「私を信じなさい。私はあなたの最善を求めている。だから、善悪の知識の木の実を食べてはならない。あなたが悪を知れば、深く苦しむことになるから。」

けれども、サタンがエバを欺いたため、彼女は神様の意図を疑いました。

彼女はこう思いました。「神様は私の最善を望んでいないかもしれない。神様は私にこの良いものを与えてくださらないかもしれない。」

そして今もなお、多くの人々が同じように考えています。

もう一つのことを心に留めておきましょう。

私たちが罪を犯すと、神様は傷つかれます。神様は聖なるお方なので、罪をご覧になると深く悲しまれます。

あなたは本当に神様を愛しているでしょうか。神様を悲しませたいと思いますか。それとも、神様を喜ばせたいと願いますか。

少し考えてみてください。もしあなたが妻や夫を愛しているなら、わざとその人を傷つけるでしょうか。「私はこうすれば相手を傷つけると分かっているけど、気にしない」と言うでしょうか。

もちろん、そのような態度は取らないでしょう。むしろ、あなたは相手を喜ばせたいと思うはずです。

それと同じように、私たちは神様を愛するべきです。もし私たちが本当に神様を愛するなら、神様を悲しませるのではなく、神様を喜ばせたいと願うべきです。

イエス様はこの世で生きておられた間、まさにそのような態度を取られました。イエス様は天の父を愛し、信じておられたので、いつも天の父の言葉に従われました。そして十字架に至るまで、天の父の言葉に従われました。

なぜでしょうか。それは、イエス様が天の父は私たちの最善を求められることを信じておられたからです。

あなたはどうですか。あなたはイエス様の言葉に従うほどに、イエス様を信じるでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ14章

驚くべき約束

この箇所で、イエス様は驚くべき約束をされました。もしかすると、その約束を聞いたあなたは、「本当ですか?イエス様は本気なのですか?」と思うかもしれません。

イエス様はこう言われました。

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。(ヨハネの福音書14:12)

イエス様はさまざまな驚くべきことを行われました。病に苦しむ人々を癒し、死者をよみがえらせ、何千人もの人々に教え、福音を通して希望を与えられました。

では、イエス様を信じる人々もそのようなことをするのでしょうか。さらに大きなわざを行うのでしょうか。

もしかすると、使徒の働きを読んで、イエス様が弟子たちだけについて語られたのだと思うかもしれません。なぜなら、彼らはイエス様が行ったような奇跡を行い、福音をイスラエルだけでなく全世界に広めたからです。

しかし、イエス様は「わたしを信じる者」と言われました。

弟子たちだけではなく、イエス様を信じるすべての人々のことを指していたのです。新約聖書の時代に生きていた人々だけではなく、イエス様を信じる者がさらに大きなわざを行うと約束されました。

では、なぜイエス様はそのようなことを言われたのでしょうか。それは、イエス様が天の父のもとへ帰り、私たちに聖霊を送られたからです。その聖霊が私たちの心の内に住んでおられるため、聖霊の力を通して私たちはこの世を変えることができるのです。

では、私たちはイエス様のように病に苦しむ人々を癒し、死者をよみがえらせることができるのでしょうか。

時々、私はこう考えます。「私たちは不信のゆえに、どれほど神様の働きを制限しているのだろうか。」

私は発展途上国のクリスチャンたちの素晴らしい証を聞いたことがあります。彼らは「現実」を気にせず、イエス様の言葉をそのまま受け入れ、信じました。その結果、神様は驚くべき奇跡を行われました。

正直に言うと、私はしばしば懐疑的な態度を持っています。日本で癒しの話を聞くこともありますが、「本当にその人は癒されたのだろうか。その健康状態はどれくらい続くのだろうか」と思うことがあります。

それでも、私は神様が今もなお働いておられると信じています。この瞬間も、神様は確かに働いておられます。

だからこそ、私たちはイエス様の言葉をもっと信じるべきだと思います。

またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。

あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。(13-14)

もちろん、私たちがスポーツカーを求めて祈ったとしても、イエス様が必ずその祈りに答えるわけではありません。

しかし、私たちが自分自身の栄光を求めるのではなく、神様の栄光を求め、自分の願いではなく神様のみこころを求めるなら、多くの場合、神様は私たちの祈りに応えてくださいます。

さらに、神様は、私たちが願うこと、思うことのすべてをはるかに超えて行ってくださいます。(エペソ3:20)

神様は、私たちを通してこの世に触れたいと望んでおられます。では、神様が私たちを用いてくださると、あなたは信じていますか。

あなたは、自分の不信や懐疑を捨てて、「あなたの御心が行われますように。私を用いてください。」と神様に祈るでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ14章

神様を見ること。神様を知ること。

私たちはどのようにして神様を知ることができるでしょうか。どのようにして神様がどのようなお方かを知ることができるでしょうか。

神様は目に見えない方なので、この疑問には唯一の答えしかありません。それは、神様ご自身が私たちにご自身を現わさなければならない、ということです。

初めに、神様はご自身を幻や夢、天使や預言者を通して現わされました。

そして、イエス様はこの世に来られました。しかし、イエス様は単なる人間ではありませんでした。イエス様ご自身が神であり、私たちの間に生きておられました。だからこそ、イエス様はこう言われました。

あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。(ヨハネの福音書14:7)

ピリポがそれを聞いて、「私たちに父を見せてください」と言ったとき、イエス様はこう答えられました。

ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。

わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、「私たちに父を見せてください」と言うのですか。

わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。

わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。

わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。(9-11)

イエス様の言葉を誤解しないでください。天の父とイエス様は同じお方ではありません。天の父はイエス様ではなく、イエス様は天の父ではありません。

とはいえ、パウロはこう書きました。

御子は、見えない神のかたちであり「ます」。(コロサイ人への手紙1:15)

イエス様を通して、私たちは天の父の「かたち」を見ます。(もう一度繰り返しますが、誤解しないでください。神様は霊なので、物質的なかたちを持っておられません。)

イエス様の言葉を聞けば、私たちは天の父の言葉を聞いているのです。

さまざまな状況におけるイエス様の反応を見れば、私たちは天の父の反応を知ることができます。

だからこそ、天の父を知りたいのなら、イエス様を見てください。

少し考えてみてください。私の娘を見た人々は、よく「ブルース、お嬢さんはあなたに似ていますね」と言います。

そして、彼女が成長すると、彼女の行動や考え方は、私の影響を受けます。彼女を見ることで、あなたは私について多くのことを知ることができます。それは親子の常です。

それでも、彼女は私の不完全な反映にすぎません。それに対して、イエス様は天の父の完全な反映なのです。

では、私の言いたいことは何でしょうか。

神様を知りたいのなら、イエス様を見てください。

神様の考え方を知りたいのなら、イエス様の言葉を読んでください。

さまざまな状況に対する神様の反応を知りたいのなら、イエス様の反応を見てください。

私たちは神様がどのようなお方かを想像する必要はありません。すでに知っているのです。なぜなら、神様はこの世に来られ、人間となられたからです。

だからこそ、神様との関係を求めましょう。そうすれば、必ず神様を見いだすことができます。

ヤコブはこう言いました。

神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。(ヤコブ4:8)

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ヨハネの福音書 ヨハネ14章

天の父のもとへの道

多くの人々はこの個所を読むと、心が乱され、怒りを感じることがあります。なぜなら、イエス様の言葉を受け入れることが難しいからです。そのため、彼らはその言葉を拒絶してしまいます。

では、イエス様は何を語られたのでしょうか。

背景を少し説明すると、イエス様は弟子たちに「私はあなたがたのために場所を用意しに行く」と語ったばかりでした。そして、イエス様は彼らにこう言われました。

わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。(ヨハネの福音書14:4)

けれども、トマスはイエス様の言葉を理解できなかったため、ごく自然な質問をしました。

主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。(14:5)

イエス様はこう答えられました。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。(14:6)

イエス様は「私は父のみもとへの道を教えます」とは言われませんでした。

イエス様は「父のみもとへ行くために、あなたがたが何をすべきかを教える」とも言われませんでした。

イエス様は「私が父のみもとへの道である」と語られました。 「もし天国に行き、天の父に会いたいと思うなら、私を通して行かなければなりません。」

これは驚くべき主張です。

けれども、少し考えてみてください。

もしアメリカ大統領に会いたいと思っても、自分の意思でホワイトハウスのオーバルオフィスに入ることはできません。

招待状が必要であり、さらに、誰かが扉であなたを迎え入れ、大統領のもとへ案内してくれます。

その人がいなければ、あなたは決して大統領に会うことはできません。その人こそが、大統領のもとへ至る道なのです。

このように、イエス様は天の父のみもとへ至る道です。しかし、イエス様は単なる天国の案内人ではありません。イエス様は神の子です。

イエス様が十字架で死に、私たちの罪の代価を払われたことによって、私たちは神様との関係を持つことができます。

イエス様は私たちを天の父のみもとへ導き、大祭司として私たちのためにとりなしをしてくださいます。(ローマ8:34、へブル10:19-22)

けれども、イエス様の十字架の働きがなければ、また、イエス様が私たちとともにおられなければ、私たちは天国に入ることも、天の父に会うこともできません。

イエス様はトマスにもう一つのことを語られました。「私は真理です。」

多くの人々は真理を求めています。

けれども、最近では多くの人々が、真理は存在しないと考えています。特に霊的な真理はないと感じる人が増えています。

しかし、イエス様は「わたしは真理である」と主張されました。

「私の言葉は真理です。真理は相対的なものではありません。私の言葉は完全な真理です。私から離れてしまえば、あなたは真理を見つけることができません。」

さらに、イエス様は「私は命である」と主張されました。

多くの人々は人生の意義を求めています。彼らは意味のある人生を探し、生きがいのある人生を求めています。そして最終的に、死後の命を求めています。

だから、イエス様は言われました。

「私は命です。あなたは人生の意義を求めていますか。私のもとに来なさい。

意味のある人生を探していますか。生きがいのある人生を求めていますか。あなたは、お金や家族、持ち物、力、結婚、子供などによって充実した人生を得ようとするかもしれません。

しかし、それらはあなたに命を与えることはできません。最終的に、あなたの心は空っぽになってしまいます。私を通してのみ、あなたは生きがいのある人生を見つけることができます。

また、もし死後の命を求めているなら、仏やムハンマド、その他の宗教的な指導者を通してその命を得ることはできません。私を通してのみ、あなたの罪は赦され、永遠の命を受けることができます。」

けれども、多くの人々はこの言葉を信じたくありません。なぜなら、彼らは自分の宝物を手放さなければならないかもしれないからです。また、もはや自分の思いのままに生きることができなくなるからです。

だから、人々はイエス様を嘘つきだと言います。あるいは、イエス様が間違っていたと言います。または、イエス様の言葉が正しく引用されなかったのだと主張します。

しかし、本当の命を見つけたいのなら、イエス様を通してのみ、それを得ることができます。

真理は相対的なものではなく、確かなものです。イエス様のうちにこそ、真理を見つけることができます。

また、もし天国に行き、天の父に会いたいのなら、イエス様があなたの隣におられなければなりません。

だから、イザヤの言葉に耳を傾け、それに従いましょう。

主を求めよ、お会いできる間に。呼び求めよ、近くにおられるうちに。

悪しきものは自分の道を、不法者は自分のはかりごとを捨て去れ。

主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。(イザヤ55:6-7)

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ヨハネの福音書 ヨハネ14章

私たちのために用意されたもの

前回の記事でも触れたように、最後の晩餐で、弟子たちはイエス様の言葉に衝撃を受け、深く悩んでいました。

なぜなら、イエス様は「私が行くところに、あなたは今ついて来ることができない」と言われたからです。

さらに、イエス様は弟子たち全員がつまずき、イエス様を見捨てることになると語られました。そして、最も勇敢な弟子のように見えたペテロでさえ、「イエスを知らない」と三度言うことになる、と言われたのです。

それでも、イエス様は彼らの心をよくご存じでした。そのため、彼らを励まして、こう語られました。

あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(ヨハネの福音書14:1)

要するに、「心を騒がせてはなりません。これは厳しいことかもしれず、あなたたちには到底想像できないかもしれません。しかし、天の父は今もすべてを支配しておられます。天の父を信じなさい。そして、私をも信じなさい。」ということです。

そして、イエス様は彼らに未来のことを少し示し、なぜご自身が行かなくてはならないのかを説明されました。

わたしの父の家には住むところがたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。

わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。(14:2-3)

イエス様は私たちに三つの約束をされました。

1. 私たちのための場所を用意される。 もし私たちがイエス様を救い主として受け入れれば、イエス様は天の父の家に私たちのための場所を用意してくださいます。

その場所がどのようなものかは分かりませんが、きっと素晴らしいものでしょう。イエス様が卑しい場所を作るはずはありません。

クリスチャンの歌手キース・グリーンは、興味深い歌詞を書きました。

あなたは六日間で天地を造られましたが、父の家を二千年以上構築中です。

2. 再びこの世に戻られる。 イエス様が去ると聞いたとき、弟子たちは混乱し、不安になりました。けれども、イエス様は「私は必ず戻る」と約束されました。

まず、イエス様は彼らに聖霊を送ると約束されました。そして、イエス様ご自身もいつか戻られると約束されました。

3. イエス様がいるところに、私たちもいることができる 。イエス様が戻られるとき、私たちもイエス様がいる場所に迎え入れられます。

パウロはこう語りました。

すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。

そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

ですから、これらの言葉をもって、互いに励まし合いなさい。(第一テサロニケ4:16-18)

でも、ちょっと考えてみてください。その会話の数時間後、弟子たちはつまずき、イエス様を見捨てました。それにもかかわらず、イエス様はそんな彼らに、あの素晴らしい約束をされたのです。

なぜ、イエス様は彼らにそんな約束をされたのでしょうか。

それは、イエス様が彼らを決してあきらめることなく、彼らの心と人生に働き続けようと計画されていたからです。

同じように、イエス様は決してあなたのこともあきらめません。どんなに苦しんでも、どんなに失敗しても、イエス様はあなたのために場所を用意しておられます。

だから、絶望しないでください。むしろ、立ち上がって、歩み続けましょう。

Why should I worry?
どうして私は悩む必要があるのでしょうか。
Why should I fret?
どうして私は不安にならなければならないのでしょうか。
‘Cause I’ve got a Mansion Builder.
私には、豪邸を築いてくださる方がおられます。
Who ain’t through with me yet.
その方は、私を決して見放さず、今も働き続けておられます。

–Second Chapter of Acts

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私たちの弱さを知り、それでも受け入れてくださる神

イエス様が弟子たちに、「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません」と言われたとき、彼らは当然戸惑いました。イエス様は彼らの師であり、彼らはイエス様がそばにおられない人生を想像することができませんでした。

そこで、いつものようにペテロは、皆が考えていたことを口にしました。

主よ。なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちを捨てます。(ヨハネ13:36-37)

イエス様の答えを聞いて、ペテロとほかの弟子たちは衝撃を受けました。

わたしのためにいのちを捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。(ヨハネ13:38)

そして、イエス様はペテロにこう言われました。

シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。

しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。

ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカ22:31-32)

それでも、ペテロは再び言いました。

主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。(ルカ22:33)

ところが、イエス様は再び繰り返されました。

ペテロ、あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたし知らないと言います。」(ルカ22:34)

もしかすると、ほかの弟子たちはそれを聞いて、「まさかペテロが裏切り者なのだろうか。さっきイエス様は、私たちの中に裏切り者がいると言われたが、それはペテロのことなのだろうか」と思ったかもしれません。

ペテロ自身も、そう疑問に思ったかもしれません。

そこで、イエス様は続けて言われました。

あなたがたはみな、つまずきます。「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる」と書いてあるからです。

しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」(マルコ14:27-28)

それでも、ペテロはなおも主張し続けました

たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。(マタイ26:33)

そこで、イエス様はさらに具体的に、そしてより力強く宣言されました。

まことに、あなたに言います。まさに今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。(マルコ14:30)

それでも、ペテロはイエス様の言葉を信じませんでした。そして、ペテロとほかの弟子たちは、「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」と言い張りました。(マルコ 14:31)

しかし、最終的には、イエス様が預言された通りに、彼らは皆つまずきました。イエス様が捕らえられたとき、彼らは逃げ去り、ペテロは三度イエス様を知らないと言いました。

この話のポイントは何でしょうか。私たちが自分自身を理解しているよりも、イエス様は私たちのことを深く知っておられます。私たちが気づかなくても、イエス様は私たちの弱さをよく知っておられます。それでも、イエス様は私たちを受け入れられます。

それこそが、この話の最も驚くべき点です。イエス様は決してペテロを責められませんでした。むしろ、イエス様はペテロを励まされました。

「わたしはあなたのために祈っているよ。あなたはつまずくけれど、あなたはきっと立ち上がる。だから、立ち上がったら、ほかの弟子たちを励ましなさい。」

このように、イエス様は私たちの弱さをよく知っておられます。しかし、イエス様は私たちを責めるのではなく、大祭司として、毎日私たちのために祈ってくださいます。

私たちが転んだとき、イエス様は私たちを引き上げてくださいます。そして、私たちを引き上げると、「他のつまずいた人を憐れんで、励ましなさい」と言われます。

だから、私たちが失敗しても、弱くても、この言葉を心に留めておきましょう。

こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)

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ヨハネの福音書 ヨハネ13章

全ての人が認めるように

ユダが部屋から出た後、イエス様は残りの弟子たちに向いて、十字架の前の最後のメッセージを始めました。この傲慢なよく喧嘩するグループに、イエス様はこう言いました。

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が見とめるようになります。(ヨハネの福音書13:34ー35)

覚えていてください。この前、この弟子たちは彼らの間に誰が一番偉いか議論していました。彼らのプライドのゆえ、誰もほかの弟子たちの足を洗う気は全然ありませんでした。

だから、イエス様はこの大切の教訓が彼らの心にぐっと来るように望みました。つまり、彼らがお互いに愛し合うことです。

ちょっと気づいてください。イエス様は、「すべての人々を愛しなさい」と言いませんでした。もちろん、イエス様はそのことも望んだけど、そう言いませんでした。

むしろ、イエス様は「お互いに愛し合いなさい」と言いました。

どうしてでしょうか。

その互いの間に愛によって、全ての人はその十一人がイエス様の弟子たちであることを認めるから。

今なお、多くの教会は、そのお互いの愛が欠乏しています。私たちは弟子たちのようにプライドを持って、よく喧嘩します。

だから、ノン・クリスチャンたちが教会に入ると、彼らは「イエス様に従う者はこういうものだろうか。イエス様はこんな人を育てるだろうか。それなら、私はイエス様とその教会に興味ない」と思います。

何年か前、私はある教会に行ったけど、賛美の時間、なぜかワーシップ・リーダーは部屋の後ろに座ったままで、渋い顔をしていました。

だから、ほかの人がビギナーなのに、頑張ってギターを弾き、歌わなくてはなりませんでした。だからその日、礼拝の雰囲気はとても悪いものでした。

後で私が分かったのは、礼拝の前にそのワーシップ・リーダーがほかのリーダーと喧嘩していたということです。

でも、一番悪いのは、その日に新しい人が来ていたということです。彼女はその悪い雰囲気に気づいたので、その教会に決して戻りませんでした。

もし、私たちが互いに愛し合えないなら、どうやって私たちは教会の外の人を愛することができるでしょうか。

もし、私たちがこの世の人々のようにふるまえば、どうやって、彼らは私たちの中にイエス様を見ることができるでしょうか。

あなたはどうですか。あなたは周りのクリスチャンたちの態度を変えることができないけど、神様の助けによって自分自身の態度を変えることができます。

周囲のクリスチャンに対するあなたの態度はどうですか。

あなたは彼らを見下すでしょか。彼らを批判するでしょうか。彼らの欠点についていつも文句を言うでしょうか。もしくは、あなたがイエス様に愛されたように、彼らを愛しているでしょうか。

今度の日曜日、あなたは教会に行くとき、イエス様の言葉を覚えていてください。その言葉に思いを巡らしてください。そして、あなたが周りのクリスチャンを愛せるように、神様の助けのために祈ってください。

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が見とめるようになります。(34ー35)

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裏切り

福音書を統合すると、一つの疑問が浮かびます。それは、ユダが最初の聖餐式に参加していたかどうか、ということです。

ルカは、ユダが参加したことを暗示しているようですが、他の著者の記述を見ると、ユダは参加しなかったように思われます。

私の考えでは、ユダは恐らく聖餐式に参加していたのではないでしょうか。おそらく、他の著者は最後の晩餐の出来事を年代順には記録していなかったのだと思います。

いずれにせよ、この箇所では、イエス様が裏切り者であるユダをどのように扱われたのかが描かれています。この話には、興味深い点がいくつかあります。

ヨハネは(「イエス様が愛しておられた弟子」はヨハネのことだと考えられます)、イエス様の隣に座っていたようです。けれども、ユダもイエス様の隣に座っていた可能性があります。

私がそう考えるのは、弟子たちがユダに対するイエス様の言葉をすべて聞いていたわけではないからです。もし彼らが、イエス様がユダを裏切り者としてはっきり指摘されるのを聞いていたなら、きっとユダを責めていたことでしょう。

多くの最後の晩餐の絵画とは異なり、この場面では誰も椅子に座っていなかったと考えられます。彼らは低いカウチに座り、横になって左肘で体を支えていました。そのため、彼らの頭は隣の人の胸の近くにあるような状態でした。

したがって、おそらくイエス様の右側にはヨハネが座り、左側にはユダが座っていたのでしょう。

以前述べたように、イエス様の隣に座ることは大変光栄なことと考えられていました。そのため、イエス様はユダを左側に座らせることで、ユダに特別な光栄を与えられたのです。

それでも、イエス様はユダの心をよくご存じでした。

そして、イエス様はこう言われました。

まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。(ヨハネ13:21)

弟子たちはそれを聞いて、衝撃を受けました。そして、一人一人がイエス様に尋ねました。「まさか私ではないでしょうか。」

ユダ自身もイエス様に同じように尋ねました。

もしかすると、ユダはイエス様を完全に欺いたと思っていたのかもしれません。しかし、イエス様は答えられました。「はい。あなたですよ。」

ユダのショックを想像してください。彼の秘密は明るみに出ました。もしかすると、彼はイエス様が皆の前で彼を暴露し、その結果、自分が殺されるのではないかと恐れたかもしれません。

おそらくその頃、ペテロはヨハネに尋ねたでしょう。「イエス様が誰について話しているのか、聞いてみてくれ。」(ヨハネ13:24)

イエス様はヨハネに答えられました。

わたしがパン切れを浸して与える者が、そのひとです。(ヨハネ13:26)

実は、その時代において、パン切れを浸して与えることは、もう一つの光栄を示す方法でした。

そのため、イエス様がパンを浸してユダに与えたとき、おそらくヨハネ以外の弟子たちは「すごいな。私たちが思っていたより、ユダは偉いのかもしれない。」と思ったでしょう。

ユダ自身も驚いたことでしょう。一瞬、彼はイエス様の言葉の意味を誤解したかもしれません。

けれども、イエス様は彼に言われました。

あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。(ヨハネ13:27)

ユダはそれを聞いて、イエス様が彼の心をよく知っておられたことを悟りました。そして、彼はその家を出て、イエス様を裏切るためにイエス様の敵のもとへ向かいました。

この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

第一に、私たちを裏切る人もいるということです。彼らは意図的に私たちを傷つけることがあります。そのようなとき、私たちが苦々しい思いを抱き、彼らを軽蔑するのは簡単です。

しかし、イエス様がユダを神によって造られた人間として尊重されたように、私たちも裏切り者を神によって造られた人間として尊重すべきです。

それでも、私たちは彼らの性格をよく理解している必要があります。彼らの本質について、私たちは自分自身を欺いてはいけません。そして、可能な限り、私たちは自分を守るべきです。

イエス様の生涯を見ると、イエス様もそのような姿勢を取られました。人々がイエス様を殺そうとしたとき、イエス様はすぐに身を避けられました。

ユダの場合だけは、イエス様は逃げませんでした。なぜなら、ついにイエス様の時が来たからです。イエス様がこの世に来られた目的は、私たちの罪のために死ぬことでした。

とはいえ、神様は一般的に、私たちが虐待を甘んじて受けることを求めているわけではありません。そのため、できる限り、その人から距離を取りましょう。

もし、どうしてもその人を避けられないのであれば、あなたの盾を常に持っていてください。つまり、彼らがいるときには、警戒しなければなりません。

もし相手の性格をよく理解し、彼らの言動によって自分の心の備えができていれば、自己防衛することができます。

それでも、私たちは相手を許すべきです。そしてさらに、彼らを神によって造られた人間として尊重すべきです。

ペテロはこう記しました。

悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。(第一ペテロ3:9)

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ヨハネの福音書 ヨハネ13章

私たちの足が洗われること

この話から、私はもう一つの重要なポイントをお伝えしたいと思います。

イエス様がペテロの足を洗おうとされたとき、ペテロはこう言いました。

決して私の足を洗わないでください。(ヨハネの福音書13:8a)

イエス様がこのように答えられました。

わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。(8b)

そして、いつものように、ペテロは言い過ぎてしまいました。

主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。(9)

けれども、イエス様はこう答えられました。

水浴した者は、足以外は、洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたががたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。(10)

イエス様の言葉の意味は何だったのでしょうか。

「ペテロ、あなたは私を信じたので、すでにきよめられています。しかし、日々の歩みの中で、あなたの『足』は罪によって汚れます。だから、私はそれを清める必要があるのです。」

イエス様は、私たちにも同じことを語られます。

私たちがイエス様の前に来て、イエス様とその十字架の働きを信じると、イエス様は私たちの過去のすべての罪をきよめてくださいます。

それでも、日々の生活の中で私たちの心は罪によって汚れます。私たちの罪が神様や周りの人々を傷つけ、私たち自身も苦しみます。けれども、それによって救いが失われるわけではありません。私たちは今も神の子供です。

とは言え、毎日イエス様の前に来て、「私を赦してください。私の心を清めてください。」と祈らなければなりません。それは過去の罪のためではなく、今日の罪のためなのです。

ヨハネはこう書きました。

もし私たちが、自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

正直に言うと、私の足を洗っていただくために、私はもっとイエス様の前に行かなければなりません。

毎日罪を犯しても、私は深く反省せず、告白もしません。そのため、その罪が私と神様の間に壁を作ってしまいます。

だからこそ、私たちは日々イエス様の前に来て、罪を告白しましょう。イエス様の赦しを願いましょう。そうすれば、イエス様は真実な方なので、私たちをきよめてくださいます。

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ヨハネの福音書 ヨハネ13章

私たちの模範

聖書では、神様はイエス様とその十字架の働きについて、さまざまな生々しい描写を与えてくださいました。

まず、神様はアダムとエバに、「やがて、ある者が蛇の頭を踏み砕く。しかし、その時、その者のかかとも傷つけられる」と約束されました。(創世記3章)

また、神様がアブラハムに、イサクを全焼のいけにえとしてささげるよう命じられた場面があります。(もちろん、アブラハムがイサクを殺す前に、神様は彼を止められました)(創世記22章)

さらに、神様の律法において、多くのいけにえや捧げものがイエス様を指し示していました。

それだけでなく、預言者イザヤはイエス様について詳しく預言しています(特にイザヤ53章)。ダビデの詩篇もまた、イエス様を指し示しています(例えば詩篇22篇)。

けれども、イエス様が十字架で死ぬ前に、もう二つの重要な描写を与えてくださいました。一つ目は、もちろん聖餐式です。(別の記事でそのことについて触れます。)

そして二つ目は、この箇所にあります。それは、とても美しい描写だと思います。

イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を抜き、手ぬぐいを取っ手にまとわれた。(ヨハネの福音書13:4)

それは何の描写なのでしょうか。パウロはこう語りました。

キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。(ピリピ2:5-7)

イエス様は神でありながら、ご自身を空しくされました。もちろん、イエス様は依然として神でしたが、栄光の衣を脱ぎ、人間となられました。

それだけでなく、王として来られたのではなく、しもべのかたちを取られました。

パウロは続けてこう言いました。

人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。【ピリピ2:8)

イエス様がご自身を低くされ、弟子たちの足を洗われたように、イエス様はさらにご自身を低くされ、十字架で死なれました。その結果、今、私たちの罪はイエス様の血によって洗われています。

だから、ペテロがイエス様の奉仕を遠慮しようとしたとき、イエス様はこう語られました。

わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。(ヨハネ13:8)

要するに、「ペテロ、あなたは私のたとえを妨げています。私があなたの足を洗うように、私はあなたの心を洗わなくてはなりません。もし私があなたの罪を清めなければ、あなたは私と関係がなくなってしまいます。」ということです。

イエス様は彼らの足を洗われた後、上着をまとい、再び席に戻って、彼らの主として振る舞われました。

そのようにして、パウロはこう語りました。

それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエス様の名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。(ピリピ2:9-11)

イエス様が弟子たちに問いかけられたように、今も私たちに同じ質問を投げかけられます。

わたしがあなたがたに何をしたのかわかりすか。(ヨハネ13:12)

あなたは理解しているでしょうか。

あなたの罪が許されるために、イエス様が何を捨て、何をささげられたのかを分かっていますか。

もしそれを理解しているなら、イエス様はあなたにこう語られます。

あなたがたは私を「先生」とか「主」とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。その通りなのですから。

主である、師でああるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。

わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたにも範を示したのです。。。

これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです。(ヨハネ13:13-15、17)

イエス様は私たちの模範です。イエス様はしもべとして歩まれました。そして、イエス様は私たちをご自身のように生きるように招いておられます。

あなたは、しもべとして歩んでいるでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ13章 ルカ22章

本当のリーダーシップ

私は以前にも述べましたが、四つの福音書を統合するのは時として難しいものです。

多くの場合、著者たちは出来事を年代順に伝えておらず、時には話の途中で脱線することもあります。最後の晩餐について読むと、私はそのように感じます。

弟子たちが食事をしているとき、彼らは誰が一番偉いかについて議論を始めました。なぜその話題になったのかは分かりませんが、もしかすると、過ぎ越しの祭りを祝うために二階の大広間に入った際、一人一人の席を巡って言い争いが起こったのかもしれません。

なぜなら、その文化では、イエス様の右に座る者が最も偉い弟子とされ、左に座る者が次に偉い弟子とされたからです。そして、イエス様から離れた席に座るほど、その弟子の地位は低く見なされました。

そのため、彼らは誰がイエス様の隣に座るべきかを巡って争っていたのかもしれません。

例えば、ペテロはこう言ったかもしれません。「俺はお前たちのリーダーだ。イエス様の右に座るのは当然だろう。」

するとヨハネは、「でも、イエス様は俺のことを一番好きだよ。」と言ったかもしれません。

また、ユダは「でも、俺は財務を担当している。だから、一番偉いはずだ。」と言ったかもしれません。

イエス様がこの言い争いをどれほどの時間見ていたのかは分かりませんが、ようやく弟子たちは不満げに席につきました。そして、そのときイエス様は驚くべき行動をとられました。

このような状況では、食事の前に誰かが他の人々の足を洗うことが習慣でした。当時、人々はサンダルを履き、未舗装の道を歩いていたため、すぐに足が汚れてしまいました。

通常、しもべが足を洗いましたが、しもべがいない場合は最も若い者がその役目を担うことになっていました。したがって、本来であればヨハネが行うべきだったかもしれません。

けれども、彼は何とかイエス様の隣の席を確保した(ヨハネ13:23)ため、しもべの役を引き受けるのを避けたかったのかもしれません。そして、その大喧嘩の末、他の弟子たちも足を洗う気にはなれませんでした。

イエス様は弟子たちを叱責する権利がありました。しかし、イエス様は責めるのではなく、愛を示されました。

イエス様は席から立ち上がり、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰に巻かれました。そして、弟子たちの足を洗い、拭かれました。

それを見て、弟子たちは恥ずかしい思いに駆られたでしょう。特に、イエス様がその仕事をしているのは、彼らがそれを避けたせいでした。彼らの中で、誰もその仕事を引き受けたくなかったのです。

イエス様はその務めを終えると席に戻り、彼らに問いかけられました。

わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。あなたがたはわたしを「先生」とか「主」とか呼んでいます。

そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。

主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。(ヨハネ13:12-14)

イエス様は続けてこう言われました。

異邦人の王たちは人々を支配し、また人々に対し権威を持つ者は守護者と呼ばれています。しかし、あなたがたは、そうであってはいけません。

あなたがたの間で一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい。上に立つ人は、給仕する者のようになりなさい。

食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょうか。食卓に着く人ではありませんか。しかし、わたしはあなたがたの間で、給仕する者のようにしています。(ルカ22:25-27)

そして、イエス様は結論を述べられました。

わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。

まことに、まことに、あなたがたに言います。しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません。

これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです。(ヨハネ13:15-17)

イエス様は、彼らに何を教えようとされたのでしょうか。

イエス様は、彼らを大きな責任を担う者として選ばれました。やがて、イエス様は彼らに王権を委ねられます。彼らはイスラエルの十二部族を治め、イエス様の国でその食卓に着き、共に食べたり飲んだりするのです。

とはいえ、イエス様が以前言われたように、リーダーシップとはただ人々に命令を下すことではありません。本当のリーダーは人々に仕える者です。そのため、イエス様は弟子たちの足を洗われました。そして、イエス様は私たちの罪のために死なれました。

だからこそ、私たちリーダーも同じことを実践すべきです。

リーダーシップの祝福は、私たちの権利にあるのではありません。それは、人々に命令することではなく、むしろイエス様のように人々に仕えることにあります。それこそが、本当のリーダーシップなのです。

あなたは、リーダーシップをどのように定義するでしょうか。それは、人々があなたに仕えることでしょうか。それとも、あなたが人々に仕えることでしょうか。

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真の愛。偽りの愛。

この話では、私たちはイエス様に対する二人の人物の愛を見ることができます。けれども、彼らの愛は全く異なるものでした。

マリアの愛は心から生まれたものでした。一方で、ユダの「愛」は自分勝手で利己的なものでした。

イエス様はベタニアという町に行かれました。その時、イエス様はシモンという人の家を訪れました。弟子たち、ラザロ、そしてその姉妹マリアとマルタも来て、一緒に食事をしました。

食事の後、マリアは非常に高価な香油を持ってきて、イエス様の頭に注ぎ、さらにその足にも塗りました。そして、自分の髪でその足を拭いました。

ユダはそれを見て、こう言いました。

どうして、子の香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。(ヨハネ12:5)

他の弟子たちも同意し、同じようなことを言ったようです。

けれども、ヨハネはユダの動機を説明しています。

彼がこの言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。(12:6)

だから、イエス様はこのように答えられました。

彼女を、するままにさせておきなさい。なぜ困らせるのですか。私のために、良いことをしてくれたのです。

貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいます。あなたがたは望むとき、いつでも彼らに良いことをしてあげられます。しかし、わたしは、いつもあなたがたと一緒にいるわけではありません。

彼女は、自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました。

まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。(マルコ14:6-9)

この言葉に対するユダの反応は何だったのでしょうか。彼はイエス様を引き渡すために、祭司長たちのところへ行き、彼らから銀貨30枚を受け取りました。

私たちはユダの動機を完全には知りません。けれども、それが単にイエス様の叱責に対する反発ではないと思います。おそらく、もっと深い理由があったのでしょう。

もしかしたら、彼の愛は、相手から何を得られるかに基づく利己的なものだったのかもしれません。だから、自分の利益のためにお金を盗める限り、彼は貧しい者にお金を渡すことに満足していたのでしょう。

また、イエス様が王になりそうだと期待する限り、ユダはイエス様に従うことを選んでいたのかもしれません。

しかし、何度もイエス様は、王になることではなく、自分の死について語られました。もしかしたら、ユダはその話にうんざりし、「もし死にたいと思うなら、死ねばいい」と考えた可能性もあります。

だからこそ、彼はイエス様を裏切ったのではないでしょうか。

一方で、マリアは心からイエス様を愛しました。ユダとは異なり、マリアはイエス様から何かを得ようとはせず、純粋な心でイエス様に貴いものをささげたいと願いました。

私はヨハネの生々しい描写がとても好きです。

家は香油の香りでいっぱいになった。(ヨハネ12:3)

イエス様に対する私たちの愛は、そのようであるべきです。この世は、イエス様に対する私たちの愛の香りで満たされるべきです。私たちの愛が明らかになれば、周りの人々はその愛を見過ごすことはないでしょう。

ユダがマリアを責めたように、私たちを責める人もいるかもしれません。けれども、イエス様にとって、私たちの愛は香油のようなものです。

あなたはどうでしょうか。あなたの愛は自分勝手なものでしょうか。イエス様から何を得られるかだけを考えているでしょうか。

あるいはあなたの愛は、イエス様にとっても、この世界にとっても、素晴らしい香りを放つものでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ12章

イエス様を見るとき、イエス様の声を聞くとき

多くの人々は「神様を信じる」と言いますが、イエス様を信じていません。

しかし、もしあなたが本当に神様を信じるなら、イエス様を拒絶することはできません。この箇所で、イエス様はこう語られました。

わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を信じるのです。また、わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのです。

わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。(ヨハネの福音書12:44-46)

つまり、イエス様を信じることは、神様を信じることです。イエス様を見ることは、神様を見ることです。

そして、イエス様はこう語られました。

わたしは自分から話したのではなく、わたしを遣わされた父ご自身が、言うべきこと、話すべきことを、わたしにお命じになったのだからです。

わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。ですから、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです。(49-50)

だから、イエス様の言葉を聞くことは、神様の言葉を聞くことです。なぜなら、イエス様は神様の言葉を正しく伝えられるからです。

したがって、もしあなたがイエス様の言葉を拒絶するなら、それは実際には神様の言葉を拒絶することになります。さらに、もしイエス様を拒絶するなら、それは神様ご自身を拒絶することなのです。

そこで、イエス様はこう語られました。

わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。(48)

私たちがイエス様の言葉を聞くと、その言葉によって私たちは裁かれます。

もしイエス様を信じるなら、あなたは光と命を見つけるでしょう。 しかし、イエス様を拒絶するなら、あなたが見つけるのは暗闇と裁きです。

あなたはどう選ぶでしょうか。

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誰からの栄誉を求めるか

聖書の中で、これは最も切ない言葉の一つです。

しかし、それにもかかわらず、議員たちの中にもイエスを信じたものが多くいた。

ただ、会堂から追放されないように、パリサイ人たちを気にして、告白しなかった。彼らは、神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛したのである。(ヨハネの福音書12:42-43)

この箇所では、私たちは隠れた信者たちの存在を見ます。彼らはイエス様の奇跡を目の当たりにし、その教えを聞いて信じるようになりました。

それでも、彼らは誰にもそのことを打ち明けませんでした。なぜなら、会堂から追放されることを恐れていたからです。その文化において、会堂からの追放はユダヤ社会全体からの孤立を意味していました。

彼らの決断が示したのは、神様を喜ばせることよりも、周囲の人々の歓心を買うことを優先したということです。

もしサタンがあなたがクリスチャンになることを阻止できないなら、あなたが自分の信仰を周囲の人々に伝えることを妨げようとします。

どのようにしてそれを行うのでしょうか。サタンはあなたに問いかけます。 「もし周囲の人々に伝えたら、彼らはどう反応するだろうか。」

時には、その反応は明確です。あなたの友人や家族があなたを拒絶するかもしれません。議員たちもこの板挟みに直面していました。もしイエス様を信じると公言すれば、彼らは会堂から追放されることになるでしょう。

けれども、多くの場合、私たちは相手がどのように反応するか分かりません。それでも、悪い反応を恐れてしまいます。

私が中学生や高校生だった頃、私も同じように感じていました。高校2年生になるまで、私は自分がクリスチャンであることを友人に伝えませんでした。なぜなら、彼らの反応を恐れていたからです。

しかし、神様は私たちがそのように生きることを望んではおられません。神様は、私たちが周囲の人々に触れ、影響を与えることを望んでおられます。けれども、もし私たちが恐れに支配されるなら、それを実践することはできません。

私たちの信仰のゆえに、私たちを拒絶する人がいます。すべての人が私たちを愛するわけではありません。イエス様は完全な方であったのに、彼を憎む人がいました。

どうして私たちは違う反応を期待するべきでしょうか。

だからこそ、相手が私たちを拒絶することを心配しないでください。私たちの信仰を大胆に伝え、その結果を神様に委ねましょう。

イエス様の言葉を忘れずに心に留めましょう。

ですから、誰でも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。

しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を知らないと言います。(マタイ10:32-33)

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ヨハネの福音書 ヨハネ12章

遅すぎる前に

時には、人々はイエス様に従うことを先延ばしにします。なぜなら、「あとでできる」と思ってしまうからです。しかし、それには危険が伴います。

この箇所では、イエス様が十字架を前にして、覚悟を決め、叫ばれました。

父よ。御名の栄光を現してください。(ヨハネの福音書12:28a)

そして、天の父は、すべての人の前で答えられました。

わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。(28b)

イエス様の周りにいた人々は、その声を聞きましたが、正しく聞き取ることができなかったようです。

ある人々は、「雷が鳴ったのだ」と言いました。

また、別の人々は、「天使があの方に話しかけた」と言いました。

なぜ彼らは天の父の言葉を理解できなかったのでしょうか。

ヨハネはこのことを解説します。

それは、預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼はこう言っている。

「主よ。私たちが聞いたころを、誰が信じたか。主の御腕はだれに現れたか。」

イザヤはまた次のように言っているので、彼らは信じることができなかったのである。

「主よ。彼らの目を見えないようにされた。また、彼らの心を頑なにされた。彼らがその目で見ることも、心で理解することも、立ち返ることもないように。そして、わたしが彼らを癒すこともないように。」

イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであり、イエスについて語ったのである。(38-41)

私は以前の記事でこの箇所について説明しましたが、基本的に彼らが天の父の声を理解できなかった理由は、すでにイエス様に対して頑なな心を持っていたからです。

ある人々にとって、イエス様が以前大工の仕事をしていたという事実は、彼らの持つメシア像と一致しませんでした。

また、別の人々がイエス様を拒絶した理由は、イエス様が彼らを宗教的な偽善者として明らかにされたことでした。

さらに、イエス様の教えが彼らの伝統や宗教的な規則と対立していたため、それを理由にイエス様を拒む人々もいました。

そのため、イエス様が奇跡によってご自身のメシアとしての資格と、その言葉の真実性を証明されても、彼らは「悪魔の力によってその奇跡を行った」と言い張りました。

この箇所では、彼らはこう言いました。 「まさか、それが神様の声だとは思えない。ただの私の想像だろう。きっと雷の音に違いない。」

けれども、彼らが自分の目と耳を閉ざせば閉ざすほど、心はますます頑なになり、霊的にも盲目になっていきました。

そこで、イエス様はもう一度彼らに警告されました。

もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。

闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。(35-36)

要するに、「あなたの時間は限られています。すぐに心を開かなければ、永遠に盲目になってしまいます。まだ可能なうちに、私と私がもたらす光を信じなさい。」ということです。

イエス様は、あなたにも同じことを語っておられます。人々がイエス様のもとへ引き寄せられ、救われるために、イエス様は地上から上げられ、十字架にかけられました。

けれども、もしあなたが目と耳を閉ざし続けるなら、たとえ真理が目の前にあっても、それを認識することはできません。そして、そのときには、救いの機会は失われてしまいます。

だからこそ、パウロはこう語りました。

見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。(第二コリント6:2)

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ヨハネの福音書 ヨハネ12章

イエス様に仕えるために

イエス様がエルサレムに目立つ形で入城されたこと、また神殿から業者や両替人を追い出されたことによって、エルサレム中でイエス様は話題となりました。そのため、初めてエルサレムを訪れた人々がイエス様に会いたいと願うのは、自然なことでした。

この話では、ユダヤ教に改宗しようとしていたギリシャ人たちが、イエス様に会いたいと願いました。おそらく、ピリポがギリシャ語の名前だったため、彼らは最初にピリポのもとを訪ねたのでしょう。

そこで、ピリポはアンデレとともに、彼らをイエス様のもとへ連れて行きました。(アンデレは、人々をイエス様に紹介することが多かった人物です。)

イエス様は彼らに会ったとき、次のように語られました。

人の子が栄光を受けるときが来ました。

まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。(ヨハネの福音書12:23-24)

イエス様はご自身の死と復活について語られていました。イエス様がこの世におられる限り、その働きはイスラエルに限定されていました。けれども、イエス様が死んで復活された後、聖霊を通してその働きは世界中に広がり、すべての国と民族に及びました。

そして、イエス様はさらに続けて語られました。

自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む人は、それを保って永遠のいのちに至ります。

わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについてきなさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。

わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。(25-26)

イエス様は、ごく当たり前のことを語ると同時に、非常に逆説的なことも言われました。

では、その当たり前のこととは何でしょうか。イエス様に仕えたいと思うなら、イエス様についていかなければなりません。また、イエス様に仕えたいと思うなら、イエス様がおられる場所にいなければなりません。

もしあなたが常にイエス様から離れているなら、イエス様に仕えることは困難です。だから、イエス様に仕えたいと思うなら、イエス様の近くにいて、イエス様が望まれることを見極めなければなりません。

けれども、イエス様と共に歩みたいと願うなら、ときには愛する者や、執着しているものを手放さなければならないこともあります。だからこそ、イエス様は逆説的なことを言われました。

「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至る。」

もちろん、私たちはすべてを憎むべきだというわけではありません。しかし、ときにはイエス様に従うために、私たちは愛する者や、この世のものを手放さなければならないことがあります。

たとえば、イエス様が「あなたの国を離れ、別の場所へ行きなさい」と言われるなら、私たちはその御声に従わなければなりません。

また、イエス様が「あなたの現在の収入は高いかもしれないが、その仕事を捨て、私に仕えなさい」と言われるなら、イエス様の国のために、私たちはその道を選ばなければなりません。

ときには、イエス様についていくことで、私たちの人生は大きく変わります。ときには犠牲を払うこともあるでしょう。けれども、もし私たちがイエス様のもとにいなければ、真に仕えることはできません。

忘れないでください。その犠牲と変化は痛みを伴うかもしれません。しかし、最終的には、その犠牲には大きな価値があります。

私は日本に引っ越したとき、そのことを学びました。もともとハワイを離れる予定はまったくありませんでした。けれども、実際に日本へ来ると、私は以前よりも幸せになりました。イエス様についていき、日本に来たことで、私は新たな命を見出しました。

イエス様についていくなら、あなたも命を見つけることでしょう。

あなたはどうでしょうか。イエス様がおられる場所に、あなたもいるでしょうか。

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私たちに平和を与えるもの

この箇所で、イエス様はついにエルサレムに到着されました。そして、四つの福音書を読むと、ユダヤ人たちの興奮がよく伝わってきます。彼らは叫び声をあげていました。

「ホサナ、ダビデの子に。」

「祝福あれ、主のみ名によって来られる方に。」

「ホサナ、いと高き所に。」(マタイ21:9)

また、

「祝福あれ、われらの父ダビデの、来るべき国に」(マルコ11:9)

そして、

「天には平和があるように。栄光がいと高き所にあるように。」(ルカ19:38)

そして最後に、

「ホサナ。祝福あれ、主のみ名によって来られる方に。イスラエルの王に。」(ヨハネ12:13)

大騒ぎのため、多くの人々が「一体これは何の騒ぎだ?この人は誰だ」と尋ねました。そして、ほかの人々が「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と答えました。(マタイ21:10-11)

ヨハネによれば、その大騒ぎの理由の一つは、多くの人々がまだラザロの復活について語り続けていたことでした。(ヨハネ12:17-18)

最初に、パリサイ人たちはイエス様にこう言いました。

先生、あなたの弟子たちを叱ってください。(ルカ19:39)

イエス様がその願いを拒まれると、彼らは不満を漏らしました。

見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった。(ヨハネ12:19)

それでも、イエス様がエルサレムに近づき、その都市をご覧になった時、喧噪の中で、イエス様は涙を流しながらこう言われました。

もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたらーー。しかし今、それはおまえの目から隠されている。

やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。

彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。

それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。(ルカ19:42-44)

西暦70年、聖書に書かれている出来事が実際に起こりました。ローマの将軍タイタスは、エルサレムとその神殿を破壊しました。

なぜ神様はそれを許されたのでしょうか。それは、ユダヤ人たちが神の訪れの時を認識しなかったからです。彼らは神様の平和を逃しました。心の平安を失い、さらに神様との平和をも失いました。

同じように、神様は私たち一人ひとりに訪れます。ローマ人への手紙1章によれば、神様のことを聞いたことがない人であっても、すべての人が神様の存在を知っています。

彼らが星空を見たり自然の美しさを見たりするとき、聖霊様が彼らの心にこう語るかもしれません。「これは偶然ではありません。これはデザインされたものです。あなたが作った偶像はこれを作ることができません。真の創造者を求めなさい。」

また、教会でイエス様について聞くことがあるかもしれません。あるいは、友達がイエス様について教えてくれることがあるでしょう。

その時、彼らは分岐点に立たされます。彼らはどう選択するでしょうか。神様の言葉を聞いて従うでしょうか。それとも、その言葉を拒絶するでしょうか。

神様に従うなら、彼らは神様との平和と永遠の命を知ることができます。しかし、その言葉を拒絶すれば、裁かれます。

あなたはどうでしょうか。神様は今、あなたを呼んでおられます。今日は救いの日です。今、イエス様を受け入れませんか。

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主がお入り用なのです。

私たちはついに、イエス様の人生の最後の週にたどり着きました。

この箇所では、一つのフレーズが私の心を深く打ちました。イエス様は弟子たちに次のように言われました。

向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、連れて来なさい。

もし「どうして、ぼくのか」とだれかが尋ねたら、「主がお入り用なのです。」と言いなさい。(ルカ19:30-31)

弟子たちがイエス様の言葉に従うと、その持ち主たちは彼らに問いかけました。

どうして、子ろばをほどくのか。(33)

弟子たちはイエス様の指示に従い答えました。その結果、持ち主たちはその子ろばを貸してくれました。

それを読んで、私は心の中で問いかけました。「主が私に、『私はこれが必要だ』と言う時、私はどう反応するだろうか。」

例えば、イエス様が「その人を助けるために、私はあなたのお金が必要です。その人は経済的に苦しんでいるから」と言ったら、私はすぐに「はい、どうぞ」と答えるでしょうか。

または、私がどこかに向かっている途中で誰かにばったり会った際に、イエス様が「私はあなたの時間が必要です。その人と話しなさい」と言ったら、私はどうするでしょうか。

または、イエス様が「あなたが西宮を去る時が来ました。私に仕えるために別の場所へ行きなさい」と言ったら、私は「はい、行きます」と答えるでしょうか。

それとも、私が自分の持っているものにしがみついてしまうのでしょうか。

実際には、自分自身で確信を持てません。過去を振り返ると、何度もイエス様が「こうしなさい。私はあなたからこれが必要だ」と言われたにもかかわらず、私は拒んでしまったことがあります。

「忙しい。」

または、

「私はそのお金が必要だ。別の物を買いたいから。」

弟子たちはそのろばをイエス様の元に連れて行き、イエス様をそのろばに座らせて、王としてあがめました。

私たちも同じようにするべきです。イエス様が私たちに「これが必要だ」と言われた時、私たちはその物をイエス様にささげ、イエス様を私たちの王としてあがめるべきです。

私はそうできるでしょうか。

あなたはどうでしょうか。

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本当の聖さ

前回の記事では、王を拒絶する人々についてのたとえ話を読みました。今日の記事では、イエス様が指された人々について見ていきます。

イエス様がエルサレムに近づいておられ、多くの人々が過ぎ越しの祭りを祝うためにすでに集まっていました。そして、彼らは互いに訊き合いました。

どう思うか。あの方(つまり、イエス様)は祭りに来られないのだろうか。」(ヨハネ11:56)

なぜ彼らはそのように訊いたのでしょうか。

祭司長たち、パリサイ人たちはイエスを捕えるために、イエスがどこにいるかを知っている者は報告するように、という命令を出していた。(ヨハネ11:57)

実は、それは本当に皮肉なことでした。なぜでしょうか。

過ぎ越しの祭りを祝う前に、ユダヤ人たちは自分自身を清める必要がありました。つまり、儀式的に清められる必要があったのです。(ヨハネ11:55)

しかし、祭司たちやパリサイ人たちは儀式的には清められていたものの、心の中ではイエス様を殺そうと考えていました。

私たちはこの話から何を学ぶべきでしょうか。それは、聖さが単なる儀式的なものではないということです。聖さとは、教会に行くことや聖書を読むこと、献金をささげることだけではありません。

本当の聖さは、イエス様を王として受け入れることから始まります。

「イエス様、私は自分自身を清めることができません。儀式や自分の努力では清められません。イエス様、助けてください。私を清めてください。私の罪を赦してください。」

ヨハネは次のように書いています。

御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:7)

私たちが神様に受け入れられることを願うのであれば、それ以外の方法はありません。私たちはキリストの十字架のもとへ行き、イエス様の救いの御業を信じる必要があります。

そうすることで、私たちは神様の目に清められるのです。

あなたはどうでしょうか。本当に清められているでしょうか。

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真理を認識できる?

私は以前にも言いましたが、パリサイ人たちと祭司たちの大きな問題は、彼らがイエス様の言葉を聞き、イエス様の御業を目の当たりにしていながら、それでもなおイエス様を信じなかったことです。

だからこそ、この箇所で彼らは危機に直面しました。

イエス様はラザロをよみがえらせました。そして、彼らはその奇跡を否定できませんでした。皆が、ラザロが4日間死んでいたのに、イエス様が彼をよみがえらせたことを知っていました。そのため、多くの人々がイエス様を信じるようになりました。

けれども、パリサイ人たちと祭司たちの反応はどうだったでしょうか。

「私たちはイエス様の御業をよく知っています。私たちはその奇跡を否定できません。それでも私たちはまだ信じません。」

イエス様がメシアである証拠は十分にありました。それにもかかわらず、彼らはどうしてもイエス様を信じようとはしませんでした。

一方で、彼らはユダヤ人たちの反応に思い悩みました。つまり、ユダヤ人たちがイエス様を王にしようとすれば、ローマ帝国がイスラエルの土地と国民を奪い取ることになる、という懸念です。

ヨハネは、大祭司カヤパの言葉の皮肉さを認識しました。カヤパは次のように言いました。

あなたがたは全然何もわかっていない。

ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。(ヨハネの福音書11:49-50)

カヤパが意味したのは、ローマが彼らの国を奪い取るよりも、イエス様が死ぬ方が方便だということです。

しかし、ヨハネは次のように解説しました。

ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。(51-52)

自分の口から発せられる真理さえ認識できないほど、彼らのプライドと野心は彼らの目を曇らせていました。

あなたはどうでしょうか。真理を聞いたとき、その真理を認識できるでしょうか。

イエス様は、「私は真理だ」と言われました。

真理を理解するためには、あなたはたった一つのことを認めなければなりません。つまり、イエス様が生ける神の御子キリストであることです。

それを認めない限り、あなたは決して真理を理解することはできません。

あなたはどうでしょうか。真理を認識できるでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ11章

死んだ者に命を与えてくださる方

いつか、この11章を終えることになるでしょう。とはいえ、今日はまだ終えません。😊

この箇所は、真理に満ちた大切な部分だからです。

イエス様がマルタに、「あなたの兄弟はよみがえります。」と言われたとき、マルタはこう答えました。

私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。(ヨハネの福音書11:24)

けれども、イエス様はこう答えられました。

わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。

このことを信じますか。(25-26)

つまり、「よみがえりは単なる未来の出来事ではありません。私はよみがえりであり、死んだ者に命を与える者です。もし私を信じるなら、あなたは決して死ぬことがありません」ということです。

そして、イエス様はラザロをよみがえらせることで、ご自身の言葉を証明されました。

イエス様はラザロをよみがえらせたように、イエス様を信じるすべての人をよみがえらせます。

パウロは次のように語りました。

主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。

それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり[ます]。(第一テサロニケ4:16)

そして、パウロはこう言いました。

聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。

終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。(第一コリント15:51-53)

ラザロの場合、彼はよみがえらされましたが、再び死を迎えました。しかし、イエス様が私たちを復活させるとき、朽ちることのない体を与えてくださいます。

あなたはどうでしょうか。死後、自分がどうなるか知っていますか。永遠の命を持っているという確信がありますか。

イエス様はよみがえりであり、命です。イエス様を信じるなら、あなたは決して死ぬことはありません。この世を去ると、新しい命が始まります。

だからこそ、イエス様はマルタに問いかけたように、あなたにも問いかけます。 「このことを信じますか。」

あなたがマルタのように答えますように。

はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。(27)

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ヨハネの福音書 ヨハネ11章

私たちの苦しみをイエス様に打ち明ける?

私たちの多くは、苦しみの中にあるとき、その苦しみに向き合わず、ただ埋めてしまいます。苦しみを無視しようとします。

もしかしたら、仕事や食べ物、楽しみで気を紛らわせようとするかもしれません。けれども、その苦しみは私たちの魂を蝕み、やがて広がり、私たちを飲み込んでしまいます。

では、どうすればよいのでしょうか。

マリアとマルタもこの苦しみを経験しました。彼女たちの兄は亡くなりました。そして、もしイエス様がもっと早く来ていれば、ラザロは死ななかったことを知っていました。ところが、イエス様はすぐには来られませんでした。

そのため、彼女たちはラザロの死に苦しみ、もしかすると、イエス様に裏切られたと感じたかもしれません。

だから、イエス様がようやく来られたとき、彼女たちはほぼ同じ言葉を口にしました。

主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。(ヨハネの福音書11:32)

私は前にも言いましたが、もしかしたら、マルタはその言葉を口にしたとき、イエス様を責めるのではなく、「私はあなたをまだ信じています」という意味を込めていたのかもしれません。

けれでも、マリヤの場合はどうでしょうか。おそらく、彼女は苦しみに満ちた声でその言葉を発したのでしょう。だから、ヨハネはイエス様の反応を描写するとき、次のように書きました。

そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ[ました]。(33)

どうしてイエス様はそのように反応されたのでしょうか。おそらく、イエス様はマリヤに深く同情されたのでしょう。しかし、もしかすると、マリヤの不信仰を見て、心を痛められたのかもしれません。

38節では、ほかの人々が「なぜイエス様はもっと早く来られなかったのか」と問いかけたとき、イエス様は同じ反応を示されました。

だから、イエス様はラザロの墓に向かったとき、マルタにこう言われました。

その石を取りのけなさい。(39a)

私はマルタの答えをよく理解できます。

主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。(39b)

けれでも、イエス様はこのように答えられました。

もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。(40)

最初、マルタはイエス様の言葉に従うことに気が進みませんでした。すでに手遅れだったからです。ラザロはすでに亡くなっていました。

しかし、最終的に彼女がイエス様の言葉に従ったことで、イエス様はラザロを復活させられました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

あなたは、どんな苦しみを心の中に埋めてしまったでしょうか。

その苦しみのせいで、どんな苦々しい思いを抱いているでしょうか。たとえば、ほかの人々に対する苦々しい思い、あるいは神様に対する苦々しい思いです。

イエス様はあなたにこう語られます。

「その石を取り除きなさい。あなたの苦しみと苦々しい思いを私に打ち明けなさい。それらはあなたの心の中で腐っているからだ。だからこそ、その苦しみを打ち明けなさい。もし私を信じるなら、あなたは神様の栄光を見ることになる。」

あなたはどう応じるでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ11章

光の中を歩んでいる?

イエス様がラザロとその家族に会うためにユダヤへ行こうとされたとき、弟子たちはその決断に反対しました。

先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。(ヨハネの福音書11:8)

けれども、イエス様の答えは本当に印象的でした。

昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。

しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。(9-10)

イエス様が意味されたものは何だったのでしょうか。

天の父の御心に従う限り、必ず守られるでしょう。天の父の導きを信頼する限り、つまずくことはありません。イエス様はそう教えられました。

その反面、神様の御心に従わない人や、天の父の導きを信頼しない人は、迷いの中で苦しむことになります。

だからこそ、私たちはイエス様のように生きるべきなのです。

前回の記事で私は、イエス様が何よりも私たちの信頼を望んでおられると書きました。そして、私たちがイエス様を信じて従う決断をするとき、物事をありのままに見るようになります。

たとえ私たちの状況が厳しいときでも、イエス様の愛を感じることができます。また、私たちの試練が一時的なものであることを理解するようになります。

しかし、世の光から離れると、試練と受けた傷のために、私たちは絶望の暗闇の中でつまずいてしまいます。

あなたはどうでしょうか。あなたには、はっきりと見えていますか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ11章

私たちが信じるために

これはイエス様の最も有名な奇跡の一つです。私は何度もこの話を読んだことがありますが、今回は特にこの言葉が私の心に深く響きました。

あなたがたが信じるために。。。(ヨハネの福音書11:15)

この箇所では、私たちは何度もこのテーマを目にします。そして、その言葉を通して、私たちはイエス様の動機を知ることができます。時には、人々はイエス様の行動を理解できませんでしたが、イエス様の動機は、彼らの信仰を成長させることでした。

だから、イエス様はマルタの信仰に挑戦されたのです。

もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。(40)

そして、イエス様がラザロの墓で祈られたとき、次のように祈られました。

わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。

しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。(42)

そして、ラザロの復活の後、ヨハネは私たちに次のように語りました。

そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。(45)

イエス様が私たちに学んでほしいことの一つは、私たちがイエス様を信頼することです。私たちのあらゆる経験、苦しみや試練の中にあってもイエス様を信頼すること。それこそがイエス様の意図されていることです。

時には、私たちは神様にこう問いかけます。「神様、あなたを愛しています。でも、なぜ私はこの試練に直面しているのでしょうか。あなたは本当に私を愛してくださっているのでしょうか。」

この話では、マリヤがそのように問いかけました。彼女はイエス様のことを心から愛していました。

また、別の話では、彼女はとても高価な香油をイエス様の足に塗り、彼女の髪の毛でその足をぬぐいました。

マリヤはイエス様を愛していました。そして、イエス様がマリヤたちを愛しておられることを知っていたので、ラザロが病気になったとき、彼女はイエス様を呼びました。イエス様は必ず来てくださると確信していました。

実際、イエス様はその家族を心から愛しておられました。(5)

だから、イエス様は彼らの家に行かず、二日間待っておられたのです。(6)

ちょっと待ってください。イエス様は彼らを愛しておられたから、行かなかったのでしょうか。

それはどういう意味でしょうか。

どうしてイエス様は二日間も待っておられたのでしょうか。それは、イエス様が彼らに、イエス様を信頼することを学ぶよう望んでおられたからです。

イエス様が二日間も来られなかったことで、ラザロは死にました。けれども、イエス様がラザロを復活させたとき、彼らの信仰のレベルは大きく成長しました。

時には、私たちは「どうして神様は何も言わないのだろうか。どうして私の祈りに応えてくださらないのだろうか」と疑問に思います。

マリヤとマルタも、きっとそう考えたでしょう。「どうしてイエス様は来てくださらないのだろうか。」

もちろん、彼女たちはイエス様を信頼していました。しかし、イエス様は彼女たちがさらに深く信頼するよう望んでおられました。

マルタの言葉を少し見てみましょう。

主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。 (21)

それは苦々しい気持ちを込めた言葉だったのでしょうか。私はそう思いましたが、今はわかりません。もしかしたら、それは信仰の言葉だったのかもしれません。

「イエス様、あなたがもっと早く来ていたら、私の兄を癒すことができたことをよく知っています。でも、私はあなたをまだ信じています。今でも、神様はイエス様と共におられ、イエス様の願いを聞いてくださることを知っています。」(21-22)

マルタは、イエス様がラザロを復活させることを信じたでしょうか。おそらく、そうは信じなかったでしょう。(39節を読んでください。)

もしかしたら、彼女はこう言いたかったのかもしれません。

「あなたは私の願いを叶えてくださらなかったけれど、私はあなたをまだ信じています。だからこれからも、困ったときにはあなたのもとへ行きます。」

それでもなお、イエス様はもう一度マルタの信仰に挑戦されました。

「今の問題をもうあきらめたでしょうか。そうしてはなりません。あなたのお兄さんは復活します。私は命の主です。

私は誰にでも命を与えることができます。私を信じる者は、たとえ死んでも生きるのです。そして、私を信じる者は決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(23-26)

マルタは「はい」と答えましたが、おそらく、イエス様の本当の意味を理解していなかったでしょう。それでも、彼女は言いました。「あなたを信じます。あなたが神の子だと信じます。」(27)

この信仰とは何でしょうか。それは子供のような純粋な信仰です。

私たちも、イエス様の言葉が理解できないことがあります。神様の決断や行動が分からないこともあります。

しかし、混乱していても、失望していても、「私はまだあなたを信じます」と言えるでしょうか。

マルタは、ラザロの墓の前で、その疑問に向き合わなければなりませんでした。「この厳しい状況の中でも、私はイエス様の言葉に従うほどに、イエス様を信じることができるでしょうか。」

けれども、彼女がイエス様の言葉に従ったとき、神様の栄光を目の当たりにしました。

私たちも同じです。マルタに問いかけたように、イエス様は私たちにもこう問いかけます。

もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。(40)

あなたはどのように反応しますか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ10章

見ても信じない?

ある人々はこう言います。「神様自身が私の前に現れて、私と話すなら、私は神様のことを信じるだろう。」

けれども、その考え方には大きな問題があります。

神様自身はこの世に現れました。神様は私たちと話され、私たちの間を歩いておられました。神様はいろいろな奇跡を行われました。神様が敵対者たちと議論されたとき、相手は答えられなくなりました。それでも、彼らは神様を信じませんでした。

私の要点は何でしょうか。

もし、あなたが信じないと決めてしまっているなら、たとえ神様があなたの前に現れても、あなたは信じないでしょう。むしろ、それを夢や幻覚だと自分を説得しようとするでしょう。

人々が神様を拒絶する理由は、彼らが神様のことを信じられないからではなく、信じたくないからなのです。

この箇所では、私たちはそのような例を見ます。ユダヤ人たちはイエス様のところに来て、こう言いました。

あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。(ヨハネの福音書10:24)

イエス様はこう答えられました。

わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。(25)

その前に、イエス様は病気の人々を癒され、足が不自由な人々を癒され、目が見えない人々を癒され、皮膚病にかかった人々を癒され、死んだ人々を復活させられました。それにもかかわらず、周りの人々はそれを見ても、イエス様を信じませんでした。

さらに、彼らが学んだ預言者たちは、その奇跡について語っていました(イザヤ書53:4、61:1-2など)。それでもユダヤ人たちは、なぜかイエス様を信じることを拒みました。

その後、イエス様はさらに明確に語られました。

わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。

わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。

わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。(27-30)

誰が永遠の命を与えることができるでしょうか。それは神様だけです。しかし、イエス様はご自身の民に永遠の命を約束されました。

さらに、イエス様は「わたしと父とは一つです。」と言われました。

イエス様が意味されたものは何だったのでしょうか。ユダヤ人たちは理解しました。イエス様はご自身が神であることを主張されたのです。彼らはすぐに反応し、イエス様を殺そうとしました。

彼らはこう言いました。

良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。(33)

彼らはイエス様の言葉を誤解しませんでした。

そのためイエス様は続けて、旧約聖書を引用されました。その詩篇では、神様は不正な裁判官たちを「神」と呼ばれました。なぜなら、彼らが人々を裁くとき、神様の立場に立っていたからです。

だから、イエス様はこう言われました。「もし、裁判官の立場のために神様が彼らを『神』と呼ばれたのなら、神の独り子として、私は『神』と呼ばれるのにふさわしいでしょう。」

動物でも人間でも、親子はいつも同じ本質を持っています。だから、もしイエス様が神の子であるなら、イエス様は誰でしょうか。

そして、イエス様はご自身の人生について語られました。イエス様は常に神様の働きに参加し、いろいろな奇跡を行われました。ユダヤ人たちはそれを知っていました。それを見ました。それでもなお、彼らはイエス様を拒絶しました。なぜでしょうか。

私にはわかりません。

もしかしたら、イエス様の教えと行動が彼らの期待と違っていたからかもしれません。それでも、彼らは自分たちの考え方を変えることなく、イエス様に背を向けました。

現代でも、多くの人々は同じことをします。彼らはイエス様に出会うのに、イエス様は彼らの期待するものと違います。

もしかしたら、イエス様が彼らの罪を示したため、彼らは気分を害するのかもしれません。そして、彼らは自分の罪にしがみつきたいという理由でイエス様を拒絶するのです。

あなたはどうでしょうか。「神様を見るなら、私は信じる」と言いますか。おそらく、見ても信じないでしょう。もし信じる意志がないのなら、何を見ても信じることはないでしょう。

そのことを認め、自分自身を欺くのをやめましょう。

しかし、それよりも大切なことは、心をイエス様の前に柔らかくすることです。そうすれば、あなたは本当の命を見つけることができるのです。

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ヨハネの福音書 ヨハネ10章

良い羊飼い

この箇所では、私たちとイエス様との関係の素晴らしい描写を見ることができます。イエス様は羊飼いと羊の描写を用いられています。

門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。

すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。(3-4)

イエス様の言葉から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

簡単に言えば、イエス様は私たちと本当に個人的な関係を持っておられます。

私は高校で働いており、授業には40人の生徒がいて、多くの場合、一週間に一度しか教えません。そのため、すべての生徒の名前を覚えるのはとても難しく、多くの先生たちが座席表を使います。

けれども、羊を見分けることを想像してください。多くの人々にとって、それは不可能に近いでしょう。すべての羊は大体同じように見えるからです。でも、羊飼いは一匹一匹の名前を知っています。

この世には何億人もの人々がいます。それにもかかわらず、イエス様が私の名前をご存知であることを想像するのは難しいかもしれません。

しかし、それだけではありません。イエス様は毎日私を導き、世話してくださいます。イエス様は私の先に行き、私を守ってくださいます。さらに、イエス様は私のためにご自身の命を捨ててくださいました。

イエス様はこう言われました。

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。(ヨハネの福音書10:11)

羊飼いと羊の価値を比べてみてください。羊飼いの価値は断然高いです。

そして、宇宙を造られた神とあなた自身の価値を比べてみてください。どう思いますか。

それでも、イエス様はあなたを愛されたので、天国を離れて人間となり、あなたの罪のために十字架の上で苦しみ、死なれました。

それが信じられないと思うかもしれませんが、それは本当の話です。それは私たちへのイエス様の愛です。

イエス様、あなたが私の羊飼いであることを感謝します。この世には何億人もの人々がいるのに、あなたは私の名前をご存知です。

たとえ私だけが罪を犯していたとしても、あなたは私のために十字架で死んでくださったでしょう。あなたの愛は本当に驚くべきものです。

私がその愛を心から実感できるように助けてください。そして、私を通して、あなたの愛が流れ、周りの人々に触れるようにしてください。彼らもあなたを知り、あなたの羊となるように。アーメン。

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ヨハネの福音書 ヨハネ10章

多くの人々はクリスチャンたちにこう尋ねます。「どうしてあなたは、神様への道が一つしかないと信じるのですか。」

簡単に言えば、それはイエス様がそう主張されたからです。

イエス様はこう教えられました。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。(ヨハネの福音書10:1)

多くの人々は、どうすれば天国に行けるか教えようとします。

パリサイ人たちは、神様の律法を正確に守らなくてはならないこと、そしてユダヤ人の先祖のルールと伝統を堅く守らなくてはならないと教えました。

現代でも、多くの人々は自分の努力によって天国に入ろうとします。

しかし、イエス様によれば、天国の門を通らずに、ほかの方法で入ろうとする者は強盗です。

自分の努力によって、彼ら自身が天国に入ることはなく、彼らの教えに従うなら、あなたの魂を盗むことになります。つまり、あなたは裁かれ、地獄に行くのです。

イエス様はこう言われました。

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。(10a)

この箇所では、イエス様はサタンについて語られています。けれども、多くの場合、サタンは人々を用いて私たちを永遠の破壊に導きます。

その人たちは、必ずしも意図的にあなたの魂を滅ぼそうとしているわけではないかもしれません。実際、多くの場合、彼らの意図は善良であるように見えることさえあります。

けれども、彼らはサタンに騙されているので、もし私たちが彼らに従うなら、私たちも同じ落とし穴に落ちてしまいます。

では、天国に至る門とは何なのでしょうか。イエス様はこう言われました。

わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。(9)

この描写は本当に興味深いです。

羊飼いが羊を少し遠い場所へ連れて行くとき、羊たちが休むために、一時的な羊小屋に入れました。その羊小屋には一つの入り口しかなかったため、羊飼いは寝るときにその入り口で横になりました。彼自身が門となったのです。

イエス様が言われたのは、もしあなたが天国に入りたいなら、また祝福された人生を望むなら、イエス様に従わなければならないということです。イエス様以外のことを教える者たちは、あなたを破壊へと導きます。

イエス様はこう言われました。

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。(10:10)

あなたは豊かな人生を望んでいますか。一つの道しかありません。一つの門しかありません。あなたはその門を通る決心をしますか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ9章

もう学ぶ必要がないを思うと

この箇所では、強烈な皮肉があります。

生まれつき盲目の人はイエス様をキリストとして認識したため、イエス様を拝みました。

一方で、ずっと見える目を持つ人たちは、イエス様を見ても、イエス様がキリストであることを認めませんでした。

さらに、彼らはイエス様の奇跡を目にしましたし、イエス様と論じようとするたびにいつも負けました。それでも彼らはイエス様を信じませんでした。

どうして彼らは真理を見ることができなかったのでしょうか。それは、彼らが自分はすでに真理を知っていると思っていたからです。

彼らは律法と預言者の書をよく知っており、若い頃からその知識を誇っていました。そのため、イエス様が来て彼らの誤った考え方を暴露したとき、彼らはその考えを手放すことができませんでした。自分が間違っていると認めることができなかったのです。

イエス様はこう言われました。

わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。(ヨハネの福音書9:39)

イエス様が意味されたことは何だったのでしょうか。イエス様に会うと、人々は分かれ目に立つことになります。もし彼らがへりくだり、イエス様を受け入れるなら、彼らの霊的な目が開かれ、救いを得るでしょう。

しかし、もし彼らが自分のプライドを手放さず、すでに真理を知っていると思うなら、イエス様に関する真理を見ることはできません。それは、彼らがその真理に目をつぶってしまうからです。

パリサイ人たちがしたのはまさにそれでした。彼らはイエス様にこう尋ねました。

私たちも盲目なのですか。(40)

現代でも、多くの人々はこう尋ねます。「私が盲目だって?私にはいい学歴がある。私には、いろんな経験がある。私はもうこの世のことを知っている。」

けれども、イエス様はこう答えられます。

もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。(41)

要するに、イエス様は彼らにこう言われていたのです。

「はい、あなたは盲目です。もし、あなたが謙遜で、助けを求め、自分の目が見えないと認めるなら、神様はあなたの罪を赦してくださるでしょう。

けれども、もしあなたがすでに真理を知っていると思い、あなたのプライドのために私の真理を拒絶するなら、あなたの罪は残るのです。」

あなたはどうですか。もう学ぶ必要がないと思いますか。それとも、あなたはへりくだり、イエス様の真理を受け入れますか。イエス様自身が真理であることを信じますか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ9章

救い

イエス様が生まれつき盲目の人を癒されたとき、ユダヤ人たちは驚きました。

しかし、この話を通して、私たちはもう一つのことを見ることができます。それは、美しい救いの描写です。

この話では、その人は生まれてからずっと目が不自由でした。同じように、私たちも生まれてから霊的に盲目であり、霊的に死んでいました。

そして、イエス様は私たちを見つけてくださいました。この話では、盲目の人はイエス様を求めていませんでした。むしろ、イエス様はその人を見つけ、触れてくださいました。

同じように、私たちが神様を求めていなかったのに、神様は私たちを見つけて、触れてくださいました。

さらに、イエス様はその人にこう言われました。「行って、シロアムの池で洗いなさい。」

そのように、神様は霊的なバプテスマを通して私たちの罪を清めてくださいました。そして、私たちの洗礼式を通じて、私たちは周りの人々に神様が私たちのために何をしてくださったかを宣言します。

その人の目が癒されたのは、本当に劇的な変化でした。そのため、周りの人々は彼のことをほとんど認識できませんでした。彼らはこう言いました。

これはすわって物ごいをしていた人ではないか。(ヨハネの福音書9:8)

ある人は、「これはその人だ」と言いました。けれども、ほかの人は、「そうじゃない。ただその人に似ているだけだ」と言いました。(9)

しかし、その人は言い張りました。「私がその人です。」

時々、私たちがクリスチャンになると、周りの人々がユダヤ人たちのように反応します。私たちが劇的な変化を経験するので、周りの人々は私たちを見て驚きます。「あなたは全然違う人みたいです。どうして。」

その時、私たちには、彼らに神様が私たちのために何をしてくださったかを伝える機会があります。

また、時間が経つにつれて、私たちはイエス様のことをもっと深く理解するようになります。この話では、癒された人にとっていろんな段階がありました。

「彼はイエスという方です。」

さらに、「あの方は預言者です。」

そして、最後に、「あなたは人の子(つまり、メシア、王、救い主)です。」

私たちは自分のあかしを言うかもしれませんし、相手が私たちの変化を否定できないかもしれません。それでも、彼らはキリストだけではなく、私たちをも拒絶する可能性があります。

この話では、癒された人も同じ経験をしました。パリサイ人たちは、その人にイエス様が罪人であることを説得しようとしました。けれども、その人が彼らの主張を否定すると、彼らはその人を拒絶しました。

それでも、その人の信仰は揺らぎませんでした。イエス様がもう一度彼を見つけたとき、その人はひれ伏してイエス様を拝みました。なぜなら、彼は新しい命を受けていたからです。

私たちもその人のように反応しましょう。

神様が私たちのためにしてくださったことに感謝し、大胆に周りの人々に私たちのあかしを伝えましょう。反対されても、勇気を持って恐れに屈することのないように。そして、毎日私たちの救い主を求め、礼拝しましょう。

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ヨハネの福音書 ヨハネ9章

どうして私にそんなことが起こったのだろうか

時々、私たちに悪いことが起こると、私たちは「どうして?神様は私を罰しているのだろうか」と尋ねます。

実際、時々私たちの罪のために、神様は私たちが苦しむことを許されます。とはいえ、多くの場合、神様は積極的に私たちを罰しておられるのではありません。むしろ、私たちは自分の罪の自然の結果を受けるのです。

あなたがクリスチャンであり、神様があなたを赦してくださったかもしれませんが、この世において、罪の結果を避けられるとは限りません。多くの場合、私たちの罪のゆえに悪いことが起こります。

そして、神様がその罪の結果から私たちを守られないなら、私たちは神様を責めることができません。なぜなら、その苦しみによって、私たちは罪の悪さを理解できるようになるからです。

それは、私たちが聖くなる過程の一部です。その火を通して、神様は私たちを清めてくださいます。

とはいえ、私たちが罪を犯さなくても、私たちに悪いことが起こる場合もあります。

今日の箇所では、イエス様とその弟子たちは、生まれつき盲目の人を見ました。そして、弟子たちはイエス様にこう尋ねました。

先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。(ヨハネの福音書9:2)

その時代、多くの人々はこう考えていました。「あなたの体が不自由なら、それはあなたのせいです。神様があなたの罪のために罰しているのです。」

けれども、その人は生まれつき盲目でした。だから、弟子たちは混乱しました。「この人はご両親の罪のために盲目になったのでしょうか。それとも、もしかしたら子宮の中で、この人自身がなにか罪を犯したのでしょうか。」

すると、イエス様はこう答えられました。

この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。(3)

イエス様が意味されたものは何だったのでしょうか。時々、私たちの苦しみは私たちの罪のためではありません。むしろ、神様は私たちを通して素晴らしいことをしようと思われるのです。

アメリカでは、ジョニー・エリクソン・タダという人がいます。彼女は十代の時にダイビング事故で四肢麻痺になりました。たくさんの人々が彼女のために祈りましたが、神様は彼女を癒されませんでした。

けれども、彼女を通して神様は多くの人々に触れられました。その事故が起こらなかったなら、ジョニーはそんな影響力を持つことはなかったでしょう。

神様は彼女を罰しておられませんでした。むしろ、彼女を通して神様のわざが現れたのです。

イエス様はこう言われました。

わたしが世にいる間、わたしは世の光です。(5)

イエス様は天国に戻られましたが、神様の栄光を現すために私たちの人生を照らしてくださいます。そして、私たちを通してイエス様は輝き、周りの人々に触れてくださいます。

だから、あなたが苦しんでいるなら、自己憐憫に浸らないでください。むしろ、このように祈りましょう。「神様、私を照らしてください。また私を通して、輝いてください。」

そうすれば、あなたの人生に神様の栄光が輝くでしょう。

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ヨハネの福音書 ヨハネ8章

あなたは誰の子でしょうか。

この箇所では、ユダヤ人たちとイエス様は痛烈な会話をしました。その会話では、一番大切な質問は、「あなたが誰の子でしょうか」ということでした。

イエス様がこの世に生きている間、ユダヤ人たちはイエス様の父親を疑ったでしょう。

多分、彼らは「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。」と言ったとき、「でも、イエスは不品行によって生まれた人だ」と内心、思っていたでしょう。

なぜなら、マリヤとヨセフが結婚する前に、マリヤが妊娠したからです。もちろん、周りの人々は聖霊の力によってマリヤが妊娠したことを信じませんでした。だから、イエス様の実のお父さんに関して、いろんな噂がありました。

しかし、元の質問に戻りましょう。あなたは誰の子でしょうか。

イエス様は、本当の神の子の特質について教えました。つまり、彼らはアブラハムのようにふるまうことです。(ヨハネの福音書8:39)

アブラハムはどのようにふるまったでしょうか。

1.アブラハムは、神様を完全に信じました。(創世記15:6)

2.アブラハムは信仰のゆえに行動しました。だから、彼は自分の地元を去り、神様が約束した土地に行きました。

それに加え、神様が「イサクをいけにえとしてささげなさい」と命じられたとき、アブラハムはその命令に従おうと思いました。(もちろん、アブラハムがイサクを殺す前に、神様はアブラハムを止められました。)

3.アブラハムは神様の言葉を受け入れました。神様が話されたとき、アブラハムは聞きました。神様の子は真理の子です。

つまり、彼らは真理を愛して持ち続ける者です。たとえ真理が自分にとって痛くても、彼らは自分の耳を閉じません。むしろ、彼らはその真理を聞き従うことで成長します。(8:44-47)

4.神様の子の最後の特質は、イエス様を愛しているので、イエス様に従うことです。(42)

イエス様は私たちの罪のために十字架で死んでくださいました。だから、私たちがイエス様を愛することは当然のことです。

しかし、この話では、ユダヤ人たちはその特質を持っていませんでした。だから、彼らの本当の父親が誰であるかがわかります。

あなたはどうですか。あなたは誰の子でしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ8章

人々を開放する真理

時々、人々は「キリスト教のルール」を見て、束縛されるように感じます。だから、彼らはこう思います。「私がそのルールに従うなら、私は人生を楽しめない。」

しかし、イエス様の言葉は私たちを束縛するためのものではなく、私たちを解放するためです。だから、イエス様はユダヤ人たちにこう言われました。

もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネの福音書8:31-32)

それを聞いて、多くの現代の人たちはそのユダヤ人たちのように反応します。

私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、「あなたがたは自由になる」と言われるのですか。(33)

現代では、多くの人々はこう言います。「私は日本人です。(または、アメリカ人などです)。私は奴隷じゃない。私は好きなように生きられます。「あなたが自由になる」って、どういう意味でしょうか。」

けれども、イエス様は私たちにこう言われます。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。奴隷はいつまでも家にいるのではありません。

しかし、息子はいつまでもいます。ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。(34-36)

多くの人々は、自分の良心から解放されて、罪を好きなだけ犯せば、それは本当の自由だと思います。

ところが、事実は、最初は彼らが罪を犯すことを選んでも、最終的に彼らは罪の奴隷になることです。彼らはもうその罪を犯したくなくても、自分自身を止められません。ポルノの中毒とか、ギャンブル中毒とか、アルコール中毒とか、いろんな例があります。

それだけではなく、多くの人々は苦々しい思いの奴隷です。

または、彼らは自分の悪い習慣の奴隷のゆえに、自分の結婚や人間関係を壊しますが、その習慣を捨てられません。

しかし、私たちがイエス様に従うと、イエス様は私たちを解放してくださいます。

私たちは自分の人生を滅ぼすものに鎖で縛られていましたが、イエス様はその鎖を壊して、より優れた道を示してくださいます。それだけではなく、その道を歩む力を与えてくださいます。

イエス様は「しなさい」だけを言われません。むしろ、イエス様はこう言われます。「私の手を取ってください。一歩一歩、一緒に進みましょう。」

そして、私たちは少しずつ変わりつつあり、気がつけば、私たちは完全に解放されていました。

あなたはどうですか。もうあきらめてこう言っているでしょうか。「もう無理です。私はこの罪をやめられない。その罪が私の人間関係や私の人生を壊しているのに、やめられない。」

イエス様はあなたを解放できます。ただし、あなたはイエス様の助けを求めなくてはいけません。

「イエス様、あなたが私を愛して、私の最善を望んでおられることを信じます。だから、私はあなたの道を行きたいです。助けてください。」

そうすれば、あなたの人間関係やあなたの人生は癒されます。そして、あなたは本当の自由を知ります。

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ヨハネの福音書 ヨハネ8章

光と命を与える方

この世では、多くの人々が道に迷っています。つまり、彼らは良い人生や良い結婚、良い仕事、そして何にも増して喜びと平和を求めていますが、なぜかそれらを見つけられません。

アダムとエバがエデンから追い出されて以来、人々はそのように生きてきました。

そして、イエス様は来て、こう宣言されました。

わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。(ヨハネ8:12)

要するに、「良い人生を求めているでしょうか。喜びと平和に満ちている人生を求めているでしょうか。どうやってそんな人生を得ることか分からないので、あなたは暗中模索しているでしょうか。

私のところに来なさい。私はあなたに光を与えます。あなたはもう暗闇に躓きません。むしろあなたは、本当の命を見つけます。」

けれども、パリサイ人たちや律法学者のように、多くの人々はイエス様の資格を疑います。イエス様はどなたでしょうか。どうしてイエス様がそんなことを言う権利を持っているのでしょうか。

もしイエス様がただの人間なら、そんな権利を持っていないでしょう。なぜなら、人間の知識には限界があるからです。

しかし、イエス様は人間であるばかりではありません。イエス様は神です。

だから、イエス様はユダヤ人たちにこう言われました。

あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。(ヨハネ8:56)

ユダヤ人たちは、それを聞いて驚きました。そして、彼らはこう答えました。

あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。(57)

そして、イエス様はこう言われました。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。(58)

イエス様が意味したものは何ですか。イエス様はユダヤ人に出エジプト記3章を示されました。神様がご自身をモーセに現した時、モーセは神様の名前を尋ねました。神様はこう答えられました。

わたしは、「わたしはある」という者である。。。あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。「わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた」と。(出エジプト記3:14)

つまり、神様は永遠の方であることです。過去でも、今でも、未来でも、神様は変わりません。そして、神様以外に、ほかの神がおられません。

新改訳では、イエス様が何をしたか見えませんけど、原文では(また英語の翻訳では)私たちがはっきり見えるのは、イエス様が神様の名前を自分自身に当てはめたことです。イエス様は「私は永遠の神です」と言われました。

ユダヤ人たちはそれを聞いて、イエス様の言葉がよくわかりました。だから、彼らは石を取ってイエス様に投げつけようとしました。なぜなら、彼らはイエス様の主張を信じなかったから。そして、ただの人間が「私は神だ」と言うなら、それは死に値する罪でした。

あなたはどうですか。イエス様が誰だと思うでしょうか。イエス様はただの人間だったでしょうか。預言者だったでしょうか。もしかすると、素晴らしい先生だったでしょうか。

もしそうなら、あなたはイエス様の言葉をあっさりと拒絶することができます。

けれども、イエス様が本当に神様なら、あなたはイエス様の言葉を重視しなくてはなりません。なぜなら、もしあなたの人生に光を見つけたいなら、イエス様だけを通して、あなたはその光を見つけることができるからです。

さらに、イエス様を拒絶するなら、あなたは死だけを知ります。あなたの体も死ぬし、あなたは永遠に神様から離れます。その暗闇で、あなたには苦しみと悲しみだけが残ります。

イエス様はこう言われました。

もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。(ヨハネ8:24)

あなたはイエス様が神であることを信じているでしょうか。それだけではなく、あなたはイエス様に従っているでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ8章

わたしはあなたを罪に定めない。行きなさい。

私はこの話が大好きです。

イエス様は宮で教えておられます。多くの人々がイエス様を取り囲み、その教えに耳を傾けています。けれども、突然、パリサイ人たちと律法学者たちがイエス様のもとにやって来ました。

彼らは一人の女性を連れてきて、イエス様の足元に彼女を押し付けます。おそらく彼女は泣きながら、その目には恐怖が溢れていたことでしょう。

すると、一人のパリサイ人がこう言いました。

先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。(ヨハネの福音書8:4-5)

しかし、イエス様が彼らの目を見たとき、その心を見抜かれました。彼らは、その女性の罪に驚き、どうすればよいかわからなくて困っていたわけではありませんでした。

むしろ、彼らはイエス様に何か言わせて、罠に陥れようと考えていたのです。

例えば、イエス様が「彼女に石を投げなさい」と言えば、彼らはその言葉をローマ人たちに伝えていたでしょう。なぜなら、ローマ帝国の律法では、死刑を執行できるのはローマ政府だけだったからです。

また、イエス様が「罪人の友達」として知られていたにもかかわらず、そのような言葉を発したなら、罪人たちはイエス様を遠ざけたかもしれません。

一方で、イエス様が「その女性を逃せ」と言えば、パリサイ人たちは「イエス様はモーセの律法に反対している」と非難できたでしょう。その結果、人々はイエス様の言葉を信じなくなった可能性があります。

いずれにせよ、イエス様は彼らに直接答えず、指で地面に何かを書き始められました。つまり、イエス様は彼らを無視されたのです。

当然、彼らは腹を立て、イエス様に向かって叫びました。「おい、私たちを無視するな。答えろ。この女性は重大な罪を犯したのだ。どうすればいいか答えろ。」

ついに、イエス様は立ち上がり、彼らにこうおっしゃいました。「それなら、彼女に石を投げなさい。」

おそらく、これを聞いて彼らは微笑み始めたかもしれません。しかし、イエス様は続けてこう言われました。

あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。(7)

そして、イエス様はもう一度地面に書き始めました。何を書いたのでしょうか。

私はわかりませんが、時々「書く」という言葉には、「人の罪を書き留める」というニュアンスがあります。だから、もしかしたらイエス様は彼らの名前と罪を書き留められたかもしれません。

もし、誰かが皆の前であなたの名前と隠した罪を書き留めたら、あなたはどうしますか。おそらく、パリサイ人たちや律法学者たちのように、あなたは逃げるでしょう。

結局、その女性だけがイエス様の前に残りました。そしてイエス様は彼女にこう訊ねられました。

婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。(10)

彼女が目を上げると、誰もいませんでした。彼女は驚いて、こう答えました。

{主よ。}だれもいません。(11)

おそらく、イエス様は微笑まれました。そして、イエス様はこう言われました。

わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。(11b)

時々、私たちは鏡をのぞくと、こう思います。「どうして神様は私のことを愛しているだろうか。どうして私を受け入れるだろうか。」

なぜなら、私たちは自分の罪を目にし、私たちの人生はめちゃくちゃだからです。

けれども、イエス様は私たちにこう言われます。「わたしはあなたを罪に定めない。」

それだけではなく、イエス様はこう言われます。

「あなたの後悔に浸るな。いつも振り返るのをやめなさい。あなたはもう赦されたから。

そして、あなたの人生を壊した罪を捨てなさい。行きなさい。私はあなたの人生のすべてを新しくします。私の死によって、あなたには新しい人生があります。その新しい人生を送りなさい。」

あなたの後悔で思い詰めているでしょうか。あなたに対する神様の愛と赦しを疑うでしょうか。この言葉を覚えていてください。

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。」

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第二コリント5:17)

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ヨハネの福音書 ヨハネ7章

救いの水

仮庵の祭りの最後の日に、多分、イエス様は祭司たちがシロアムの池からの水を祭壇に注いだ事を見たでしょう。周りの人々もそれを見て、こう歌いました。

あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。(イザヤ12:3)

でも多分、そのすぐ後、彼らはほかの声を聞いたでしょう。イエス様はこう叫びました。

だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。(ヨハネ7:37-38)

それはさすがイエス様でした。ユダヤ人たちはずっとその祭りをお祝いして、祭司たちはずっと水を祭壇に注いだけど、イエス様は彼らにその儀式の本当の意味を説明しました。

その前、人々がその儀式を見た時、彼らはエジプトからの救いを思い出しました。また、彼らは、その先祖が砂漠を渡ったとき、神様が岩から水を二回備えてくださったことを思い出しました。

だから、その儀式を通して、彼らは救いの喜びを思い出しました。その救いは、自分の努力によるものではなく、神様の備えによるものでした。

でも、彼らは一つのことを見逃していました。その岩を通して、神様は彼らにイエス様のことを描写しました。

パウロはこう書いた。

(イスラエル人の)みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。(第一コリント10-3-4)

だから、イエス様はユダヤ人たちにこう語られました。

「あなたたちは砂漠を歩いていたイスラエル人のように渇いているでしょうか。霊的な砂漠の中にいるのでしょうか。神様を慕いながらも、どうしても神様を見つけることができないのでしょうか。

それなら、私のもとに来なさい。私を信じなさい。(ヨハネ6:35を覚えているでしょう)。そうすれば、あなたの心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになるのです。」

では、イエス様が意味されたものは何だったのでしょうか。ヨハネがその意味を説明してくれます。

これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。

イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。(39)

つまり、私たちがイエス様のもとに来て信じるなら、御霊である神は私たちとともに住み、私たちのうちにおられるのです。(ヨハネ14:17)

そのため、私たちの霊的な渇きは満たされます。また、私たちの人生から御霊が流れ出し、周りの人々に触れるのです。だからこそ、毎日私たちが救いの泉から水を汲むことで、私たち自身が祝福されると同時に、周りの人々も祝福されます。

クリスチャンたちは、そのように生きるべきです。毎日、私たちは御霊から力を受けて、次第にキリストと同じかたちに姿を変えられていきます。(第二コリント3:18)

また、私たちは周りの人々に神様の救いを延べ伝えます。そして、その中で喜びを知るのです。

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ヨハネの福音書 ヨハネ7章

聖書を正しく解約する?

前回の記事で、私たちはイエス様がユダヤ人たちに、外見によって裁くことをしないように警告されたことを見ました。

一つ目の理由は、多くのユダヤ人たちが、イエス様があまり教育を受けていないと思い、イエス様の教えを拒絶したことです。

けれども、ユダヤ人たちにはもう一つの問題がありました。それは彼らの聖書の解釈が間違っていたことです。彼らは、安息日に人々を癒すことが罪であると思っていました。なぜなら、彼らは癒すことを仕事だと考えたからです。

しかし、彼らが注意深く聖書を読んでいたなら、安息日に善を行うことが常に正しいと気づいたでしょう。(マタイ12:12)

時には、クリスチャンたちも同じような過ちを犯します。彼らは聖書を読んでいますが、その解釈が間違っていることがあります。なぜそうなるのでしょうか。

時には、その箇所の前後を見逃してしまうことがあります。また、聖書全体のメッセージを理解していない場合もあるかもしれません。

例えば、ヨハネ6章で、イエス様はこう言われました。

人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。(ヨハネ6:53)

その前後を読まないと、それはかなりグロテスクな言葉に聞こえます。けれども、その前後を読むと、私たちはイエス様の意味が分かります。イエス様はたとえを使っておられました。

つまり、もし私たちがイエス様のもとに来て、イエス様を信じるなら、私たちは永遠の命を得るということです。(その箇所についてもっと知りたいなら、ここをクリックしてください。)

私が大学生の時、友達が別の箇所を誤って解釈したことがありました。マタイ26章では、(マルタの妹)マリヤがイエス様の頭にとても高価な香油を注ぎ、イエス様の足に塗りました。すると、弟子たちはマリヤを批判し、こう言いました。

何のために、こんなむだなことをするのか。この香油なら、高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。(マタイ26:8-9)

でも、イエス様はこう言われました。

貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。(マタイ26:11)

私の友達がその言葉を読んだとき、こう言いました。「イエス様は本当に偉そうな態度を取っていたね。彼は自分が貧しい者よりも偉いと思っていたから。」

しかし、友達は二つのことを見逃していました。

一つ目は、ヨハネの福音書によれば、最初にマリヤを批判したのはユダであるということです。実際には、ユダは貧しい者を愛していませんでした。むしろ、彼は貧しい者のための寄付されたお金をしばしば盗んでいました。(ヨハネ12:6)

二つ目は、イエス様が申命記から引用されていたということです。

貧しい者が国のうちから絶えることはないであろうから、私はあなたに命じて言う。

「国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。」(申命記15:11)

だから、イエス様の要点は、貧しい者が重要ではないというわけではありませんでした。イエス様が言われたのはこういうことです。

「貧しい者はいつもあなたたちと一緒にいるのだから、これまで通り助け続けるべきです。とはいえ、私に対する愛を示す機会はすぐになくなります。マリヤはその機会を活用しました。だから、彼女を批判してはいけません。」

そのため、イエス様は偉そうな態度を取られたのではありません。イエス様はマリヤを偽善者による批判から守られたのです。

しかし、聖書の前後を読まなければ、私たちはイエス様の言葉を誤解してしまうかもしれません。

そのため、聖書を読むときは注意を払いましょう。聖書の箇所を読むときは、その前後をしっかりと読みましょう。また、自分が好きな箇所だけを読むのではなく、聖書全体を読むことが大切です。

そうすれば、正確に聖書を解釈することができるようになります。

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ヨハネの福音書 ヨハネ7章

人々を正しく裁く?

この箇所では、イエス様は人々を裁くことについて話されています。イエス様はユダヤ人たちにこう言われました。

うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。(ヨハネの福音書7:24)

どうしてイエス様は彼らにそう言われたのでしょうか。二つの理由がありました。

今日、まず一つ目の理由を見ていきたいと思います。

一つ目の理由は、ユダヤ人たちがイエス様についてこう言ったことです。

この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。(7:15)

要するに、「彼はただの大工です。彼はれっきとした学者ではありません。どうして私たちは彼の言葉に耳を傾けるべきでしょうか。」ということです。

そのため、彼らはイエス様の権威を拒絶し、イエス様の言葉を受け入れることをしませんでした。

私たちも、相手の外見や教育や背景によって、牧師や聖書を教える人を裁いてしまうことは簡単にできます。

その人が特別に賢く見えず、ごく普通の人であり、正式な聖書の教育を受けたことがないかもしれません。それでも、私たちが心を開いてよく聞けば、神様はそのような人々を通しても私たちに語ってくださることができます。

それだけではありません。私はただ牧師について話しているのではありません。もし御霊がその人の中に宿っているのであれば、神様は小さい子供を通してさえ語ってくださることができます。

けれども、私たちはしばしば相手の見かけで裁いてしまい、その結果、神様の言葉を聞き逃してしまうことがあります。

反対に、カリスマ性があり、話すのが上手な人もいます。しかし、もし私たちがその人の教えに従うなら、間違った道へ導かれてしまうこともあります。

ですから、外見だけで(良い場合も悪い場合も)人々を裁かないようにしましょう。むしろ、彼らが語る内容に注意深く耳を傾け、その人生に御霊の働きがあるかどうかを見極めましょう。

時には、神様が用いられる人々を見て、私たちは驚かされることがあります。

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ヨハネの福音書 ヨハネ7章

私たちは誰に仕えているでしょうか

この箇所を読んだとき、この言葉は私の心を打ちました。なぜなら、私は神様のみ言葉を教えているからです。

わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。

自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。(ヨハネの福音書7:16-18)

この箇所を読むと、私は自分自身にこう問いかけます。「私の教えはどこから来るのだろうか。私自身から来るのだろうか。それとも、神様から来るのだろうか。

私が日曜日にメッセージを伝えるとき、それは私の栄光のためだろうか。私は教会の人々を感動させたいと思っているのだろうか。それとも、人々が神様に栄光を帰すよう願っているのだろうか。」

私たちクリスチャンは真理を伝える者であるべきです。そして、私たちには偽りがあってはなりません。牧師や聖書を教える者だけでなく、すべてのクリスチャンが真理を伝える者であるべきです。

しかし、真理を語る者になりたいなら、私たちは誰に仕えるのか決める必要があります。また、誰の栄光を求めるのか決める必要があります。

私たちは自分自身の栄光を求めているのでしょうか。それとも、神様の栄光を求めているのでしょうか。私たちは本当に神様に仕えているのでしょうか。それとも、口先で神様の名前を讃えているだけで、実際には自分自身に仕えているのでしょうか。

もし私たちが自分自身の栄光を求めているなら、または周囲の人々からの誉れを求めているなら、神様の福音を薄めてしまう誘惑に直面することになります。そして、もしかすると福音をまったく伝えない選択をしてしまうかもしれません。

あるいは、私たちはパリサイ人のようになってしまうかもしれません。表面上は神様に仕えているふりをしながら、実際には人々からの栄光を求めているのです。

あなたは誰に仕えていますか。あなたは誰の栄光を求めていますか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ7章

イエス様は誰でしょうか

以前、イエス様は弟子たちに「私が誰だと思うか」と問いかけられました。(マタイ16:13)

この箇所では、ほかのユダヤ人たちがエルサレムで同じ質問に直面しました。

いろいろな意見がありました。

「イエス様は良い人だ。」

「イエス様は預言者だ。」

「違う。イエス様は群衆を惑わしている。彼は悪霊につかれている。」

「いや、メシアじゃないでしょうか。」

どうしてユダヤ人たちはそんなに混乱していたのでしょうか。

一つの理由は、彼らが「メシア」、つまり「キリスト」がどんな方であるかを誤解していたからです。

彼らはキリストが奇跡的に現れると思っていました。けれども、彼らはイエス様の家族を知っていると思い込んでいました。(ただし、その話の全てを理解していたわけではありません)。

それに、イエス様は律法学者のように特別な教育を受けていませんでした。

もう一つの理由は、イエス様が律法学者の伝統を何度も破ったことです。例えば、安息日にイエス様は人々を癒しました。

イエス様は安息日に良いことをするのは合法であると教えましたが、彼らは自分たちの伝統を手放すことができませんでした。彼らは自分たちが律法をよく知っていると思い込んでいたため、その大工の意見を受け入れることができなかったのです。

三つ目の理由は、ユダヤ人のリーダーたちが律法をよく知っていると思っていたものの、実際には多くのことを見逃していたからです。そのため、ニコデモがイエス様を擁護しようとした際、彼らはこう答えました。

あなたもガリラヤの出身なのか。調べてみなさい。ガリラヤから預言者は起こらない。(ヨハネの福音書7:52)

けれども、イザヤ書9章には、キリストがガリラヤで現れることが書かれています。

とはいえ、イエス様は最も大切な理由を伝えられます。

だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。(17)

つまり、あなたが心から神様を求めるなら、神様を見つけることができます。そして、イエス様を見るなら、イエス様がキリストであることを理解します。けれども、心から神様を求めなければ、その真理を理解することはできません。

パリサイ人たちは宗教的な熱心を持っていましたが、同時にプライドを持ち、偽善者でした。彼らは神様を求めているように見えましたが、実際には人間の喝采を求めていました。そのため、彼らはイエス様を見ても、イエス様を認めませんでした。

その一方、神様を求める人々は真理を見ることができました。なぜなら、彼らは神様の前にへりくだったからです。

あなたはどうでしょうか。あなたはまだイエス様が誰なのか疑問に思っていますか。自分のプライドを捨ててください。神様に関するあなた自身の意見を捨ててください。

お金よりも、自分の幸せよりも、すべてよりも、神様を求めてください。そうすれば、あなたの混乱がなくなり、神様はご自身をあなたに現わしてくださいます。

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ヨハネの福音書 ヨハネ7章 ルカの福音書 ルカ9章

裁きの時間。憐れみの時間。

前回の記事でも書きましたが、私たちが真理を伝えると、私たちを憎む人もいます。

とはいえ、真理を伝えると同時に、私たちの態度と言葉遣いに注意しなくてはなりません。

この箇所では、その理由をはっきり見ることができます。

仮庵祭りのため、イエス様の兄弟たちは先にエルサレムへ向かいましたが、イエス様はしばらくとどまられました。どのくらい待たれたのかは分かりませんが、結局イエス様もエルサレムへ向かわれました。

この時から、イエス様のミニストリーのほとんどはユダヤとエルサレムで行われました。そして、十字架で死なれるまで、あと6っか月ほどの時間しか残されていませんでした。

けれでも、エルサレムへ向かう前に、イエス様は再びサマリヤを通ることを選ばれました。イエス様は以前に一度サマリヤを訪れ、そのとき多くのサマリヤ人がイエス様を受け入れ、信じました。(ヨハネ4章)

ところが、今回は、サマリヤ人たちはイエス様を拒絶しました。その理由は、イエス様がエルサレムへ向かっていたからです。

サマリヤ人とユダヤ人の間にはまだ深い敵意が残っていました。サマリヤ人たちはユダヤ人の祭りで歓迎されることがなかったため、イエス様がその祭りへ向かうと知ると、彼らはイエス様を拒絶したのです。

イエス様の弟子たちは、このサマリヤ人たちの反応を見て激怒しました。サマリヤ人たちはイエス様から何も受けるに値しないのにもかかわらず、イエス様は彼らを訪ねようとされました。それにもかかわらず、サマリヤ人たちはイエス様を拒絶したのです。

他の町に住むサマリヤ人たちがイエス様を受け入れたことで、弟子たちは彼らに対して寛容な態度を取るようになりました。

けれども、この町の人々がイエス様を拒絶したとき、ヤコブとヨハネはイエス様にこう申し出ました。

主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。(ルカの福音書9:54)

おそらく、彼らはエリヤの話を思い浮かべていたのでしょう。エリヤが軽蔑されたとき、天から火を呼び下し、その人々を滅ぼしたという出来事です。(列王記第二1章)

しかし、イエス様は彼らを叱責されました。

なぜでしょうか。おそらく、裁きの時はまだ来ていなかったからです。イエス様は人々を救うために来られました。(ヨハネ3:17)

私たちは、イエス様の心を持つべきです。もちろん、イエス様を拒絶する人々に対して、いつか裁きの日が来ます。

とはいえ、その日はまだ来ていません。その日が来るまで、私たちは彼らの救いのために祈り、働く必要があります。そして、愛をもってイエス様が与えてくださった真理を伝えなければなりません。そのとき、神様の恵みによって人々は救われるのです。

周囲の人々の罪がどれほど酷くても、彼らが滅びることを私たちは喜ぶべきではありません。

イエス様もそのようなことを喜ばれません。彼らが永遠の命を得るために、イエス様は十字架で命を捧げられたのです。

罪人に対して、私たちはイエス様の心を持っているでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ7章

真理を言うとき

昨日もこの個所について書きましたが、また別のことが私の心を打ちました。

時に、私たちが人々に神様の真理を伝えると、相手にむっとされることがあります。その人が真理を信じず、私たちを憎むことさえあるかもしれません。

イエス様も、そうした不信と憎しみを経験されました。イエス様の兄弟たちでさえ、イエス様を信じず、からかったのです。

そのため、イエス様は彼らにこう言われました。

世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行ないが悪いことをあかしするからです。(ヨハネの福音書7:7)

現代のアメリカでは、クリスチャンたちが同性愛は罪であると言うと、多くの人々は「あなたの心は狭い。あなたは偏屈だ」と言います。

イエス様はこの箇所で、そのことについて警告されました。私たちは世の中で、その行いが悪いことを証しするなら、憎まれ、迫害されることがあります。

以前私が言ったように、真理を伝えるには正しい方法と悪い方法があります。私たちは相手を憎まず、愛をもって真理を伝えるべきです。

私の娘が4歳の時、私はよくこう言いました。「危ないよ。駐車場や道に飛び出してはいけない。車に轢かれるよ。」

どうして私はそう言ったのでしょうか。それは娘を愛しているからです。

人々を彼らの罪のゆえに警告するとき、私たちもそんな態度を取るべきです。その罪が本当に酷いものでも、私たちは彼らを軽蔑せず、憎むべきではありません。

むしろ、彼らが悔い改めて救われることを願うべきです。そして、彼らが神様の恵みと憐れみを知ることを願うべきです。

しかし、愛をもって真理を伝えても、私たちが憎まれる場合もあります。イエス様は完全な神の子でした。それでも、人々はイエス様を信じず、憎み、イエス様を十字架で殺しました。

私たちは違う反応を期待するべきでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ7章

天の父のスケジュールに従う?

イエス様が5000人にパンを与えられた奇跡の後、さらに多くの弟子たちがイエス様を拒絶した後、イエス様はユダヤとエルサレムをしばらく避けられました。

けれども、仮庵の祭りというユダヤ人の祝いが近づいていました。そのため、多くのユダヤ人たちがエルサレムに向かって行きました。その時、イエス様の兄弟たちはイエス様にこう言いました。

「あなたは、ずっとエルサレムを避けていたでしょう?本当に有名になりたいなら、エルサレムに行くべきです。そこで奇跡を行う方がいいでしょう。家に隠れていては、有名になることはありませんよ。」

しかし、その言葉には大変皮肉な意図が込められていました。ヨハネはこう記しています。

兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。(ヨハネの福音書7:5)

イエス様は兄弟たちにこう言われました。

わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。。。

あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りには行きません。わたしの時がまだ満ちていないからです。(6-8)

要するに、「私はあなたのスケジュールに従いません。実は、私は自分のスケジュールに従いません。私の天の父のスケジュールに従います。」ということです。

だから、自分の兄弟たちは祭りに行きましたが、イエス様は天の父のタイミングを待っておられました。

多くの人々は、自分のスケジュールに従います。時々、彼らは無理やり相手の日程に従わせられてしまいます。

けれども、私たちクリスチャンはイエス様の模範に従うべきです。私たちは天の父の声を聞き、天の父が決めたスケジュールに従うべきです。

正直に言えば、私はしばしば自分のスケジュールに従うことで、神様の働きを見逃してしまうでしょう。

私には、しなくてはならないことがいろいろありますが、神様は私のところにいろいろな人々を導きます。それでも、私はしばしば立ち止まらず、話しもせずに、軽く挨拶だけして通り過ぎてしまいます。

もしかしたら、相手が私に気づかなければ、私は挨拶すらしないかもしれません。けれども、歩きながら、「しまった。あの人と話した方がよかったのに。機会を見逃したのではないか」と思うのです。

あなたはどうでしょうか。誰のスケジュールに従っていますか。あなたのスケジュールを脇に置いて、天の父のスケジュールに従いますか。それとも、自分のスケジュールに集中しすぎて、神様の働きを見逃しますか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ6章

躓かせる者

イエス様の話を聞いたとき、なぜユダヤ人は気分を害したのでしょうか。もしかすると、彼らはイエス様の言葉を誤解していた可能性があります。つまり、

まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。(ヨハネの福音書6:53-56)

もし、その言葉を文字通りに解釈するなら、誰でも面食らうでしょう。

とはいえ、子供のころから、ユダヤ人たちは獣や鳥を食べる前に、その血を注ぎ出さなくてはならないと教えられていました。つまり、血を食べては絶対にいけないと教えられていたのです。(レビ記17:10-14)

しかし、その時、イエス様は文字通りに話しておられたわけではありません。イエス様はたとえ話をされていたのです。

以前の記事で私はお伝えしましたが、イエス様の肉を食べるということは、イエス様のもとに来るという意味です。イエス様の血を飲むということは、イエス様を信じるという意味です。

そして、あなたがイエス様のもとに来て信じるなら、あなたは決して霊的に飢えることも渇くこともありません。(ヨハネ6:35)

とにかく、ユダヤ人たちはイエス様の言葉を文字通りに解釈したために機嫌を悪くしたのかもしれません。

とはいえ、もしかすると、彼らはイエス様の言葉を正しく理解していたものの、その言葉を受け入れることができなかったのかもしれません。つまり、永遠の命に至る唯一の道はイエス様しかないということです。

今でも、人々はその言葉を聞いて、「これはひどい言葉だ。そんなことを誰が聞いていられるだろうか」と言います。(60)

クリスチャンたちが、神様への道はキリストだけだと言うと、多くの人々がむっとします。だから時には、クリスチャンのリーダーたちでさえ、その真理を教えることをためらいます。

「まあ、多分イエス様は、自分がただ一つの道だと意味されたわけではないだろう。他にも方法があるのかもしれない。」

しかし、イエス様が「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」と言われたとき、それは本気でそうおっしゃったのです。

もしイエス様のもとに行かず、信じないなら、誰も永遠の命を受けることはできません。イエス様を拒絶する人には、裁きしかありません。

イエス様はユダヤ人たちにこう言われました。

いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。(63)

つまり、「律法を守るあなた自身の努力を通して、あなたは天国に行こうとしています。ところが、その努力はむなしいものです。なぜなら、あなたの努力は足りないからです。

実は、あなたの良い行動は、神様の目には汚れた着物のように見えます。御霊だけがあなたたちに永遠の命を与えることができるのです。

けれども、あなたたちが私のもとに来て信じて初めて、御霊はその命を与えてくださいます。」

そして、イエス様はこう言われました。「わたしの言葉は霊的なものです。もし、あなたたちがその言葉を信じて初めて、命を与えられるのです。」(63)

しかし、多くの現代の人々のように、多くのユダヤ人たちはイエス様の言葉を拒絶し、立ち去ったのです。

ですから、イエス様が弟子たちに問いかけられたように、私たちにも問いかけておられます。

まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。(67)

ペテロのように答えましょう。

主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。

私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。(68-69)

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ヨハネの福音書 ヨハネ6章

本当のパンのために働く?

聖書の中では、これは本当に印象的な箇所の一つですが、少し難しい箇所でもあります。

イエス様が5000人にパンと魚を与えられた後、その群衆はイエス様を王にしようと思いました。そのため、イエス様はすぐにその場を立ち去られました。

彼らがイエス様を見つけると、イエス様は彼らを訓戒されました。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。

なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。

この人の子を父すなわち神が認証されたからです。(ヨハネの福音書6:26-27)

要するに、「あなたたちは私を捜していましたが、あなたたちの動機は間違っています。あなたの霊的な必要を求めず、ただ物理的な必要を求めています。

私はあなたたちにパンを与えましたが、一時的なものを優先してはいけません。永遠の命に至るもののために働きなさい。」

そして、ユダヤ人たちはこう答えました。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」(28)

おそらく、彼らはこんな答えを予想していたでしょう。「聖書を覚えていなさい。十戒やほかの律法に従いなさい。」

なぜなら、彼らは律法学者たちやパリサイ人たちからそんなことをよく聞いていたからです。

しかし、イエス様は意外な答えを与えられました。

あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。(29)

つまり、「永遠の命を得るために私を信じなくてはなりません。ほかの方法はありません。律法によってあなたは永遠の命を得ることはできません。私を信じないなら、永遠の命を得られません」ということです。

ユダヤ人たちは、それを聞いて、少し違和感を覚えたかもしれません。だから、彼らは天からのしるしを求めました。

例えば、モーセはイスラエル人に天からのパンを与えてくれました。そのしるしによって、イスラエル人はモーセが神様のしもべだと分かりました。

けれども、イエス様は彼らの間違った考え方を訂正されました。モーセではなく、神様がイスラエル人にパンを与えてくださいました。

さらに、そのパンはただの象徴でした。つまり、神様は彼らに「まことのパン」を与えたいと思っておられました。その「まことのパン」は世の民に一時的な命を与えるのではなく、永遠の命を与えます。

そして、イエス様の次の言葉は彼らを驚かせました。

わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。(ヨハネ6:35)

ところで、35節は6章の鍵です。イエス様は物理的なパンについて話しておられませんでした。(つまり、イエス様は聖餐式のパンについて話していたのではありません。)

だから、あなたがイエス様のもとに来てイエス様を信じたとしても、あなたはまだ毎日ご飯を食べなければなりません。イエス様は霊的なことについて話しておられるのです。

イエス様の肉を食べるということは、イエス様のもとに来るという意味です。イエス様の血を飲むということは、イエス様を信じるという意味です。35節を読めば、そのことが明らかになると思います。

もし、イエス様のもとに来てイエス様を信じるなら、神様との関係を持ち、あなたの霊的な飢えと渇きはなくなります。

6章を読むと、そのテーマを何度も見ることができます。

イエス様はユダヤ人の問題を指摘されました。

「私がまことのパンなのに、あなたたちは私をまだ信じていません。私の奇跡を見、私の教えを聞いたにもかかわらず、あなたたちは私をまだ信じていません。」(36)

けれども、イエス様は続けてこう言われました。

父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。(37)

また、

事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。(40)

また、

父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。(45)

また、

信じる者は永遠のいのちを持ちます。(47)

また、

わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら(つまり、私に来るなら)、永遠に生きます。

またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。(十字架で、イエス様は自分の体をささげたので、私たちは永遠の命を得ることができます。)(51)

また、

これは天から下って来たパンです。。。このパンを食べる者(つまり、私に来る者)は永遠に生きます。(58)

そして、イエス様はこう言われました。

人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ(私に来て、私を信じなければ)、あなたがたのうちに、いのちはありません。

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者(私に来て、私を信じる者)は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。(53-54)

また、

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者(私に来て、私を信じる者)は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。(56)

最後に、イエス様はこう言われました。「物理的な食べ物は、結局虚しいものです。なぜなら、そんな食べ物は永遠の命を与えることができません。しかし、私の言葉を信じるなら、永遠の命を受けます。」(63)

私たちはこの箇所から何を学ぶことができるでしょうか。本当の満足を求めるなら、神様との関係が必要です。

けれども、そうするために、イエス様のもとに来て、イエス様とその十字架の働きを信じなければなりません。

あなたも、今日そうしませんか。

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イエス様を疑う?

この箇所を読むとき、いくつかのことが私の心を打ちます。

1つ目は、イエス様がご自身の人生のバランスを保たれたということです。周りの人々のニーズに応えるためにご自身のニーズを犠牲にされたこともありましたが、イエス様は天の父と共に過ごす時間を最優先されました。

もしイエス様がその時間を優先されたなら、私たちもそうすべきではないでしょうか。

いずれにせよ、イエス様が山におられる間、弟子たちが海で苦しんでいるのをご覧になりました。それでもイエス様は3時から6時ごろまで待ってから彼らのところに向かわれました。

同じように、私たちが苦しんでいても、イエス様は時に待っておられることがあります。それは、イエス様が私たちを見放したということではありません。イエス様は私たちを見守っておられるのです。

ただし、イエス様はその試練を許されます。なぜなら、イエス様はご自身が見えなくても、私たちがどれほど信頼しているかを知りたいからです。

弟子たちがイエス様のところから去ったとき、イエス様は「後で私は向こうで会います」と言われました。しかし、弟子たちが海で苦しんだとき、イエス様の言葉を覚え、信じていたのでしょうか。

そしてイエス様は湖の上を歩いて、彼らを通り過ぎようとされました。弟子たちがイエス様を見たとき、彼らは恐れて、イエス様を幽霊だと思いました。けれども、イエス様は彼らに言われました。「心配しないで。私だよ。」

ペテロはイエス様のところに行こうと思い、湖の上を歩き始めました。ところが、風と波を見たとき、ペテロはパニックになり沈み始めて、「主よ!助けて!」と叫びました。

イエス様は愛と恵みを持ってペテロを救われましたが、「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」と言われました。

とはいえ、この話の最後を読むとき、薄い信仰を持っていたのはペテロだけではなかったことが分かります。イエス様が舟に乗り込まれると、風がすぐにやみました。弟子たちはそれを見て非常に驚きました。なぜでしょうか。

というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである。(マルコ6:52)

その言葉は、私の心を何よりも強く打ちました。彼らはパンの奇跡の本当の意味を理解していませんでした。何がわからなかったのでしょうか。

1.イエス様が彼らを本当に愛しておられ、彼らのニーズに応えてくださること。

2.イエス様が彼らのニーズに応える力を持っておられること。

ペテロが海の上を歩いたとき、最初は全く問題ありませんでした。しかし、彼がイエス様から目を離し、周りの波や風を見たとき、困惑してしまいました。

どれほど私たちも同じことをしているでしょうか。私たちは自分の境遇に集中しすぎて、イエス様から目を離してしまい、イエス様の愛と力を忘れてしまうことがあります。その結果、私たちは疑って沈み始めるのです。

実際、私もそうしてしまうことがあります。だから、一緒に祈りませんか。

主よ。あなたは私のために多くのことをしてくださいました。私はあなたの善さを見ました。あなたの愛を感じました。あなたの力を経験しました。それなのになぜか、私はまだ疑っています。

どうか、私の信仰を強めてください。私の固い心を柔らかくしてください。私がパンの奇跡の意味を理解できるように助けてください。あなたの愛と力を深く理解できるようにしてください。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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私たちがあまり持っていなくても

私はこの話を一億回読んだかのように感じています。(もちろん、少し大げさですが。)

それでも、今回は新しいことに気づきました。

イエス様の弟子たちは、宣教の旅から戻ったばかりで、きっと疲れ果てていたことでしょう。そんな中、マルコの福音書には、こう記されています。

そこでイエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。(マルコ6:31)

とはいえ、おそらくもう一つの理由として、イエス様が弟子たちと一緒に寂しい所へ行きたがったのではないでしょうか。

イエスはこのこと(つまり、バプテスマのヨハネが殺されること)を聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。(マタイ14:13)

おそらく、イエス様はその出来事を聞かれた後、自分の安全を考えて寂しい場所に行かれたのだと思います。なぜなら、ヘロデ王がイエス様のことを耳にすると、イエス様を探し始めたからです。(ルカ9:9)

しかし、なぜイエス様は弟子たちだけと一緒に行きたがられたのでしょうか。

多くの場合、この点について深く考えることはありませんが、イエス様は100%神であると同時に、100%人間でもありました。

イエス様とヨハネがどれほど親しかったのかは分かりません。ただ、彼らが従兄弟であったことは確かです。もしかすると、子供の頃、一緒に遊んでいたこともあったかもしれません。

さらに、イエス様のミニストリーが始まった際、ヨハネがイエス様にバプテスマを授けられました。また、ヨハネが牢に入れられ、ひどく気落ちしていた時には、イエス様は彼を励まされました。

だからこそ、イエス様が「まあね。大丈夫。ヨハネは天国にいるからね。」とあっさり言われることはなかったのではないでしょうか。

むしろ、イエス様はヨハネの死を嘆きたかったのだと思います。さらにもう一つ覚えておいてください。イエス様の弟子たちの中には、もともとヨハネの弟子であった者が二人いたのです。(ヨハネ1:37)

おそらく、彼らもヨハネの死を嘆きたかったのではないでしょうか。

残念なことに、彼らにはそんな時間がありませんでした。大勢の人々がイエス様と弟子たちについて行き、イエス様とその弟子たちの疲れや悲しみを知らず、イエス様に自分たちの必要を満たすよう求めました。

もし私がイエス様だったなら、それを見て怒ったかもしれません。「出て行きなさい。私の友人の死を悼んでいることが分からないのか?」

せめて私はこう言ったかもしれません。「ごめんなさい。あなたと時間を過ごしたいけれど、今日は難しいです。明日来ていただけますか?」

しかし、イエス様は彼らを歓迎されました。(ルカ9:11)

それだけではなく、イエス様は一日中彼らと共におられました。

やがて日が暮れ始めた頃、弟子たちはイエス様のもとに来てこう言いました。「先生、もう遅いので、食事をするために、皆を帰らせた方が良いのではないでしょうか。」

これは、その群衆を帰らせる絶好の言い訳でした。けれども、イエス様はそうされませんでした。むしろ、イエス様は弟子たちにこう言われました。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物をあげなさい。」(マタイ14:16)

弟子たちは答えました。「でも、この人たちは多すぎます。私たちには到底無理です。」

そこでイエス様は尋ねられました。「あなたがたは何を持っていますか。」

弟子たちは言いました。「少ししかありません。」

イエス様は仰いました。「それを私に持ってきなさい。」

そして、イエス様はそのパンと魚を取り、祝福して、驚くべき奇跡を行われました。弟子たちだけでなく、その群衆も満腹するほど食べることができました。

それだけではなく、食べ物は多く余りました。

私は「新しいことに気づいた」と言いましたが、それは何でしょうか。

時々、私たちは疲れ果てたり傷ついているため、「自分には人々に与えるものが何もない」と考えることがあります。

けれども、神様が私たちにそのように行動するよう求められるなら、神様は相手の必要を満たすために私たちに必要なものを与えるだけではなく、私たち自身の必要も満たしてくださいます。そしてその満たしは限界ぎりぎりではなく、豊かに溢れるほどに与えられるのです。

ここでのキーフレーズは、「神様があなたに求められるとき」です。

神様は私たちにすべての人々の必要を満たすことを要求されるわけではありません。もし私たちがそれをしようとすれば、燃え尽きてしまうでしょう。

そのため、私たちはこう問いかけるべきです。「自分にはほとんど与えるものがないように思えるけれど、神様は私にその人たちに対して情け深い心を与えてくださっているだろうか?神様は私にその人たちに仕えるよう求めておられるだろうか?

それとも、ただ『これは私の義務だ。私はその人に触れなければならない』と感じているだけなのだろうか?」

もし、神様が情け深い心を与えておられず、あなたの心に語りかけておられないなら、あなたはその人を別の誰かに任せた方が良いかもしれません。

しかし、神様が「行きなさい」と語られるなら、神様はあなたの持っているものを取り、祝福し、相手の必要を満たすだけでなく、あなたの必要も豊かに満たしてくださるでしょう。

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ヨハネの福音書 ヨハネ5章

私たちは人間からの栄誉を求めると

もし、あなたが初めてイエス様の話を聞く時に、驚くことの一つは、宗教的なリーダーたちがイエス様を受け入れなかったことです。むしろ、彼らはイエス様を拒絶し、殺したいと思っていました。どうして彼らはイエス様に反対したのでしょうか。

イエス様によれば、彼らはいつも聖書を調べていました。もちろん、それは良いことです。しかし、彼らの問題は、神様からの栄誉を求めずに、仲間からの栄誉を求めたということです。

そのため、彼らの聖書勉強の動機は神様を求めることではなく、仲間を感動させることでした。

イエス様は、彼らにこう言われました。

わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。

互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。(ヨハネの福音書5:43-44)

私たちは仲間からの栄誉を求め、その栄誉によって誇るようになると、神様が何をなさっているか、また、神様が何を言っているかを認識できなくなります。

私たちの目で見えるし、耳で聞こえるかもしれませんが、神様の言葉と御業を受け入れなくなります。

その宗教的なリーダーたちは、そのような人々でした。

最初、彼らはバプテスマのヨハネの言葉を聞きました。そして彼らはイエス様の教えを聞き、イエス様の奇跡も見ました。

それでも彼らはイエス様を拒絶しました。むしろ、彼らはイエス様が悪霊につかれている人だと言いました。(マルコ3:22;ヨハネ8:48)

だから、彼らは本当の命を逃してしまいました。

本当の命とは神様の目的に同意し、それに参加することです。

私たちは神様が私たちの人生やこの世界で何をなさっているかを見て、その仕事に参加するべきです。私たちが本当に神様を愛しているなら、そのことに集中するはずです。

けれども、そのリーダーたちは自分自身に集中しすぎたため、神様に対する愛を持っていませんでした。だから、イエス様は彼らにこう言われました。

ただ、わたしはあなたがたを知っています。あなたがたのうちには、神の愛がありません。(42)

あなたは、どうでしょうか。イエス様は、あなたに関して何と言われるでしょうか。「あなたのうちには、神の愛があります。だから、あなたの心から神様を喜ばせたがります」と言えるでしょうか。

神様からの栄誉を求めているでしょうか。それとも、人間からの栄誉を求めているでしょうか。

あなたはミニストリーをするとき、誰からの栄誉を求めているでしょうか。牧師からの栄誉を求めているでしょうか。それとも、教会の人たちからでしょうか。

人間からの栄誉を求めると、その宗教的なリーダーたちの聖書研究のように、あなたのミニストリーは自己中心的なものになります。そして、あなたには、イエス様がなさっていることが見えなくなります。

正直に言うと、説教者として、私はいつもその悪い態度と戦っています。気を付けないと、プライドは私たちのミニストリーを壊してしまうかもしれません。

だから、私たちは毎日、自分自身にこの質問を問うべきです。「私は誰を喜ばせようと思っているのだろうか。」

誰からの栄誉を求めているのでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ5章

私たちを裁く方。私たちに命を与える方。

この箇所では、私たちは、天の父と神の子の関係を垣間見ます。天の父とイエス様が同じ方だと言うカルトもありますが、クリスチャンはそう言いません。

天の父とイエス様(と聖霊様)は一つの神であるけれども、天の父はイエス様ではなく、イエス様は聖霊様ではなく、聖霊様は天の父ではありません。彼らは互いに愛し、話し合い、一緒に協力しています。

そして、イエス様がこの世に住んでおられた時、イエス様は天の父に頼られました。イエス様は天の父が何をなさっているかをご覧になり、その働きに参加されました。(ヨハネの福音書5:19)

それに、イエス様は、いつもご自身を喜ばせようとは思われず、天の父を喜ばせようと思われました。そして、イエス様の言葉と御業は天の父の力と知恵に基づいていました。(30節)

その反面、天の父はイエス様に驚くべき力と権威を授けられました。どうしてでしょうか。すべての人々が天の父を敬うように、イエス様を敬うためです。だから、彼らがイエス様を敬わなければ、天の父も敬われませんでした。(23節)

そういう意味で、イエス様は天の父と対等である。(18)

イエス様はどのような権威と力を持っておられるのでしょうか。

1.イエス様は命を与える力を持っておられます。イエス様は死人に命を与えられます。

イエス様はこう言われました。

父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。(ヨハネの福音書5:21)

イエス様は、何度もその力を使われました。特に、イエス様はラザロを復活させられました。さらに、イエス様はこう言われました。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。

それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。。。

このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。(25-26、28-29)

私たちは、もう一つのことを心に留めておかなくてはなりません。イエス様は、クリスチャンたちだけを復活させられるのではありません。イエス様は、すべての人々を復活させられます。

どうしてでしょうか。それは裁きのためです。それが、二つ目のポイントです。

2.イエス様は、すべての人々を裁く権威を持っておられます。

イエス様は、こう言われました。

また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。(22)

イエス様は、人々を裁かれるとき、どのような宣告を宣言されるのでしょうか。

善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。(29)

つまり、イエス様の裁きには、永遠の結果があります。その日、誰が天国に行くか、誰が地獄に行くかが決まります。

どうしてイエス様はその裁く権威を持っておられるのでしょうか。それは、イエス様が人間となられたのに、決して罪を犯されなかったからです。

どのような目安でイエス様は、誰が天国に行くか、誰が地獄に行くかを決められるのでしょうか。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。(24)

要するに、私たちは、イエス様の言葉を聞き、信じ、イエス様を送られた天の父を信頼しなくてはなりません。

そうすれば、あなたは永遠の命を受けることができます。そうしなければ、あなたは地獄で永遠に裁かれることになります。

あなたはどうでしょうか。命を与える力やあなたを裁く権威を持っておられるイエス様を信頼しているでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ5章

イエス様はだれでしょうか

イエス様はだれでしょうか。イエス様に出会った人々のすべてが、その質問に答えなくてはなりませんでした。

今でも、人々はイエス様に出会うと、その質問に答えなくてはなりません。

ユダヤ人たちも、イエス様と話したとき、その疑問に直面しました。イエス様はこう言われました。

わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。(ヨハネの福音書5:17)

私たちにとっては、その言葉は別にショッキングではないかもしれませんが、ユダヤ人たちは本当に面くらいました。

なぜなら、その時代、誰も神様を「私の父」と呼ばなかったからです。

「私たちの天の父」と言ったかもしれませんが、「私の父」とは言いませんでした。なぜなら、「神は私の父」というのは、「私は神性を持っている」という意味だったからです。

どうして、ユダヤ人たちはそのように思ったのでしょうか。

少し考えてみてください。子供たちはその父と同じ姿を持ちます。父が人間なら、その子供も人間です。父がサルなら、その子供もサルです。父が猫なら、その子供も猫です。

だから、もしイエス様の父が神なら、イエス様はだれでしょうか。

もちろん、私は神様がイエス様を産んだのだと言うわけではありません。また、私は神様が結婚してその妻がイエス様を生んだと言っているわけでもありません。

イエス様は永遠から天の父と聖霊様と一緒におられました。イエス様と天の父と聖霊様は神性を持っている。それでも、神は一つしかおられません。

神様の御姿をどのように説明すればよいか、誰も知りません。しかし神様は、そのようにご自身を現してくださいました。

それでは、私たちにとっては、その真理はどういう意味があるのでしょうか。

もしイエス様が神なら、私たちはイエス様の言葉を無視することはできません。

イエス様はただの人間ではありません。私たちはイエス様の言葉に反対する権利がありません。むしろ私たちは、その言葉を真理として受け入れ、その言葉に従わなければなりません。

あなたはどうでしょうか。イエス様がだれだと思いますか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ5章

ルールに目がくらむこと

ルールは良いものです。カオスの状態では、ルールによって秩序が確立されます。そういうわけで、学校の教室でも、家庭でも、社会でも、ルールは大切なものです。

とはいえ、人々がルールの目的を忘れると、ルールは害となることがあります。私たちがルールの精神を思い出さない限り、非常に困難な状況に陥る可能性があります。

さらに、ある人々はルールを守るために、余計なルールを作り出します。例えば、パウロはこう言いました。

また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。(エペソ5:18)

そこだけではなく、聖書のさまざまな箇所で、酔ってはいけないという警告がたくさんあります。どうしてでしょうか。

酔うと、自分自身をコントロールできなくなるからです。それに、神様ではなく、お酒があなたの行動をコントロールするようになります。

けれども、ある人々は余計なルールを作ります。「全くお酒を飲んではいけません。あなたが飲むと酔う可能性があるから。」

そのルール自体は悪いわけではありません。そのため、私はお酒を飲みません。(その上、その味が嫌いなのです。)

ですが、他の人々がその余計なルールを守らないからといって、彼らを批判してはいけません。

パリサイ人たちはそのようなことをしていました。神様はこう命じられました。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。(出エジプト記20:28)

つまり、その日に働いてはいけません。

その律法の精神は何でしたか。

一つ目は、人々が神様に焦点を当てる時間を取ることです。

二つ目は、神様を信頼することです。つまり、毎日働かずに、一週間に一日休んでも、神様があなたの必要を満たしてくださるのを信じるのです。

三つ目は、彼らがリラックスすることです。神様は彼らを愛しておられるので、時々休んでほしいと思われました。

それらがその律法の精神でした。しかし、パリサイ人と律法学者たちは、その律法のためにさまざまな余計なルールを作りました。例えば、どれくらい旅ができるかとか、何キロのものなら運んでもいいというルールを作りました。

医者に対しても、安息日に関するルールがありました。安息日に、誰かが死にかけている場合だけ、医者がその人を助けることができました。その場合でも、その人が次の日まで生き延びられるようにするだけでした。

ところが、そのルールのせいで、彼らはその律法の精神を忘れてしまいました。彼らは人々に神様が望んでいなかった重荷を負わせました。

さらに、誰かが神様が立てていないルールを破った場合、その人を批判しました。

その上、そのルールのせいで、彼らは神様がなさっていることに目を向けられなくなりました。

この箇所では、そのことを見ることができます。

彼らは、安息日に床を取り上げている人を見ました。(彼は安息日に荷物を運ぶルールを破りました。なぜなら、それは「仕事」でした。)

パリサイ人たちは言いました。「お前は働いているよ。なぜ安息日に働いているのか。」

「私をいやしてくれた人は『床を取り上げて歩け』と言ったからです。」

つまり、「もしその人に私をいやす力があれば、私に『床を取り上げなさい』と言う権利もあるでしょう。」

この箇所では、注意事項が二つあります。

一つ目は、その人が病気にかかっていた間に、パリサイ人たちは彼のことに全然気づいていなかったということです。けれども、彼が彼らのルールを破った時に、初めて彼に気づきました。

私たちは、どれくらいそのようにふるまうでしょうか。私たちの周りに霊的な必要がある人がいるのに、彼らが私たちのルールを破る時以外には彼らを無視します。

二つ目は、その奇跡にやっと気づいた時、彼らはルールに集中しすぎたせいで、神様がその人のために何をしてくださったかに感謝することができませんでした。

そのため、彼らはそのルールを破った人が誰かという疑問に集中し、イエス様だと分かった時、イエス様を迫害しました。

これがルールに集中しすぎることの危険性です。私たちの周りの人々のニーズが見えなくなり、神様が何をなさっているかを認識できなくなります。

あなたはどうでしょうか。あなたはルールに目がくらんでいますか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ5章

完全さを望む?

時々、私は人々が本当に完全な人生を望んでいるのか疑問に思います。

彼らは結婚関係や他の人間関係について文句を言ったり、仕事や健康について文句を言ったりしますが、結局何も変わりません。まるで文句を言うことが好きで、相手の同情を得るのが好きなように見えます。

けれども、イエス様は私たちがそのように生きることを望んでおられません。イエス様は私たちがみじめさに浸ることを望んでいるのではなく、むしろ癒すことを望んでおられるのです。

この箇所では、その大切な真理を学ぶことができます。

この話には、38年間病気に苦しんでいた人が出てきます。おそらく彼は毎日、乞食をしなければならなかったでしょう。

イエス様は彼の状態を聞いたとき、非常に単純な質問をされました。「よくなりたいか。」

多くの人々は、彼が「はい」と答えるのは当然だと思うかもしれません。しかし、もしかしたら彼は働かずに乞食をする生活を快適に感じていたのかもしれません。

また、周囲の人々に世話される生活を好んでいた可能性もあります。その意味では、彼の人生はある意味で楽だったとも言えるでしょう。

それでも彼は癒しを望みました。その時代にはある迷信がありました。それは、天使がベテスダと呼ばれる池の水を動かした後、最初に池に入った人が癒されるというものです。

彼はできるだけ早く池に入ろうとしましたが、いつも他の人に先を越されてしまいました。

それでも、イエス様は彼の答えを聞かれると、こう言われました。

起きて、床を取り上げて歩きなさい。(ヨハネの福音書5:8)

その乞食は、どのように思ったでしょうか。どうやら、彼はイエス様のことを全く知らなかったようです。

もしイエス様について聞いたことがあったとしても、彼はイエス様を認識していなかったようです。(ヨハネ5:12-13)

彼にとって見知らぬ人物が「起きて、歩きなさい」と言ったのです。

それでも、彼はイエス様の言葉に従い、その場で起き上がり、歩くことができるようになりました。

その後、神殿でイエス様は彼にこう言われました。

見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。(14)

この話から、私たちは何を学べるでしょうか。

私たちの多くは、人生の中で傷つくことを経験します。私たちの人生が壊れ、どうやって完全になるかが分からない時があります。

しかし、イエス様は私たちにこう問いかけておられます。「よくなりたいか。完全になりたいか。」

もし完全になりたいなら、その乞食のように、イエス様の言葉に従わなければなりません。イエス様の言葉を疑ってはいけません。「それは無理だ」と言ってはいけません。ただ、イエス様の言葉に従いなさい。

この乞食の場合、癒しは即座に訪れました。あなたの場合、癒しには時間がかかるかもしれません。

特に、壊れた人間関係や失恋、苦い思いの癒しは時間を要することがあります。そのため、聖霊の助けが必要です。聖霊に頼れば、聖霊はあなたの心の中で確実に働いてくださいます。

また、教会の人々からの助けが必要かもしれません。教会はキリストの体です。そのため、問題があるときには私たちは互いに助け合います。(これが、私たちが教会を必要とする理由の一つです。)

しかし、完全になりたいのであれば、あなた自身が完全さを求め、イエス様を信頼し、イエス様が言われることに従うべきです。

その時、イエス様はその言葉に従う力を与え、あなたを癒してくださいます。

一方で、イエス様を信頼せず、自分の道を行き続けるなら、つまり罪の道を選び続けるなら、イエス様が乞食に警告されたように、あなたの人生はさらに困難になるでしょう。(ヨハネ5:14)

あなたはどのような選択をしますか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ4章

イエスが言われたことばを信じる?

この箇所では、私たちは初めてイエス様が人を癒やす奇跡を見ることになります。(ただし、その前にイエス様が他の人を癒やされた可能性もあります。ヨハネ2:23)

けれども、この話で私の心を打ったのは、王室の役人のイエス様への反応です。彼の息子は死にかけていました。

おそらく、彼は息子をあらゆる医者に連れて行ったものの、誰も息子を助けることができませんでした。そのため、イエス様が彼の最後の希望でした。

その役人がイエス様に助けを求めたとき、イエス様はこう言われました。

あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。(ヨハネの福音書4:48)

それは、少し不思議な答えでした。しかし、その意味はおそらくこうだったのではないでしょうか。

「あなたは私のことを本当に信じているからここに来たのですか。それとも、まだ信じていないけれど、私があなたの息子を癒やしたら信じるのですか。」

これは今も、私たちにとって本当に重要な問いです。私たちが自分の必要について祈るとき、イエス様を信じているから祈るのでしょうか。それとも、イエス様が私たちの祈りに応えてくださったとき初めて信じるのでしょうか。

その王室の役人がイエス様の言葉を聞いたとき、何を思ったのでしょうか。彼はどの程度本当に信じていたのでしょうか。

いずれにせよ、彼は必死に叫びました。

主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。(49)

それを聞いて、イエス様は彼の信仰を試されました。

帰って行きなさい。あなたの息子は治っています。(50a)

少し想像してみてください。おそらく、その役人はイエス様が自分と一緒に帰ることを望んでいたでしょう。ところが、イエス様はこう言われました。

「帰って行きなさい。私は行かなくていい。あなたの息子は確かに回復します。私の言葉を信じなさい。」

その役人がどれほどイエス様の言葉を深く考えていたのか、私には分かりません。その言葉を聞いた瞬間にすぐ帰ったのかもしれません。

または、彼はしばらくイエス様の目を見つめて、「本当にイエス様を信じられるだろうか」と考えたのかもしれません。けれども、最終的に、

その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。(50b)

そして、彼が下って行く途中、そのしもべが彼に出会い、「あなたの息子は治りましたよ」と伝えました。

私たちはどうでしょうか。イエス様が言われた言葉を信じることができるでしょうか。

多くの場合、私たちが祈るとき、イエス様が私たちに何か伝えようとされていますが、その言葉を信じないことがあります。むしろ、疑いの心が生じ、「イエス様は本当に助けてくださるだろうか」と問いかけてしまいます。

例えば、私たちが新しい仕事のために祈り、求職活動をしているとします。その仕事を選べば日曜日に働かなければならない状況になる場合、イエス様は「別の仕事のために待ちなさい」と言われるかもしれません。

私たちはこのように考えるかもしれません。「イエス様を信頼できるだろうか。この機会を逃してしまったら、イエス様は別の機会を備えてくださるのだろうか。」

または、私たちが精神的な癒しを求めて祈ることがあります。そのとき、イエス様は「この人を許しなさい。苦々しい心を手放しなさい。そうすれば、あなたは癒されるでしょう」と語られるかもしれません。

けれども、私たちはイエス様に問いかけます。「どうして許さなければならないのでしょうか。私は本当に傷ついたのに。」

私たちはイエス様の言葉にどのように応答するでしょうか。その言葉を信じ、従うのでしょうか。

この問いに答えることができるまで、人生に癒し、平和、喜びを見つけることは難しいでしょう。

「私はイエス様を本当に信じることができるでしょうか。イエス様が言われたことを信じることができるでしょうか。」

あなたはどうでしょうか。イエス様が言われた言葉を信じることができるでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ4章

隔ての壁を取り壊す

イエス様とサマリヤ人の会話に対する弟子たちの反応は、とても興味深いものです。ヨハネはこのことについて、次のように記録しています。

このとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話しておられるのを不思議に思った。

しかし、だれも、「何を求めておられるのですか」とも、「なぜ彼女と話しておられるのですか」とも言わなかった。(ヨハネの福音書4:27)

どうして、彼らはその質問をしなかったのでしょうか。

他のユダヤの教師たちが、人前でサマリヤの女性と話すなどあり得ないのに、弟子たちはイエス様の考え方に慣れ、当然のことと思ったのでしょうか。

それとも、本当はその質問をしたかったけれど、イエス様の反応を少し恐れていたのでしょうか。

おそらく、彼らは恐れていたのだと思います。

その状況を思い出してください。ユダヤ人はサマリヤ人を、ユダヤ教を汚した混血の人と見なしていました。そのため、彼らとは一切交流したくありませんでした。

それでも、サマリヤ人たちがイエス様に会いに来たとき、イエス様は弟子たちにこう言われました。

目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。(4:35)

つまり、「このサマリヤ人たちは、汚れたのけ者ではありません。彼らは救いの希望がない罪人ではありません。彼らは神様に愛されている人々です。

あなたには見えなかったかもしれませんが、神様はずっと彼らの心の中で働いておられました。ほかの人々が彼らの心に種を蒔きましたが、あなたには刈り入れる特権があります。」

そして、その日、たくさんのサマリヤ人がイエス様を信じるようになりました。

イエス様は人々が築いた文化的な壁や宗教的な壁を取り壊し、彼らを罪による死の危機から救われました。イエス様は私たちにも同じことをするよう招いておられます。

あなたはどうでしょうか。あなたは周りの人々をどのように考えていますか。

たとえば、アメリカでは、ユダヤ人がサマリヤ人を扱ったように、多くのクリスチャンがゲイの人々を扱っています。彼らはゲイの人々を敵と見なします。

しかし、ゲイの人々は私たちの敵ではありません。彼らも、私たちと同じように救い主を必要としているのです。

または、あなたが周りの人々にイエス様のことを伝えない理由が別にあるかもしれません。たとえば、彼らが創価学会に従っているから、あるいは、彼らの性格が嫌いだからかもしれません。

イエス様は私たちにこう言われます。「彼らを救いの希望がない人と見なしてはなりません。彼らを侮りに値する人と見なしてはなりません。

「彼らを、種を蒔くべき畑と見なしなさい。彼らを、刈り入れるべき畑と見なしなさい。そして、彼らを、私を必要としている人々と見なしなさい。」

あなたは種を蒔く人かもしれません。

あなたは刈り入れる人かもしれません。

いずれにせよ、文化的な壁や宗教的な壁を取り壊し、さらに私たちの心の中にある壁をも取り壊して、イエス様のためにこの死にかけている世界に触れましょう。

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ヨハネの福音書 ヨハネ4章

真の礼拝

イエス様とサマリヤ人の会話から、私たちは礼拝の本質について多くを学ぶことができます。

その女性は、自分の罪に直面した瞬間、話題を変えようとしました。それで、彼女はこう言いました。

先生。あなたは預言者だと思います。私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。(ヨハネの福音書4:19-20)

ユダヤ人とサマリヤ人の間では、これは大きな議論でした。おそらく、このサマリヤ人の女性は、その議論によってイエス様を怒らせようとしたのかもしれません。それでも、イエス様は優しく応じられました。

わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。

救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。

しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。(21-24)

簡単に言うと、イエス様が来られたことで、どこで礼拝するべきかという疑問には意味がなくなりました。大切なのは、どのように礼拝すべきかということです。

私たちは、どのように礼拝すべきなのでしょうか。

まず、私たちの礼拝は神様の真理によらなければなりません。

サマリヤ人には、本当に重大な問題がありました。彼らは、神様のことを正しく知らないまま礼拝を続けていました。

その会話の何百年も前、北イスラエル王国は崩壊しました。そして、他国の人々がイスラエルに定住し、残っていたユダヤ人と結婚しました。

それだけではなく、彼らの宗教をユダヤ教と混ぜ合わせた結果、神様についての教えは混乱しました。そんな状態では、誰も神様を正しく礼拝することはできません。私たちは真理によって礼拝しなければなりません。

けれども、それだけではありません。私たちは霊によっても礼拝しなければなりません。神様は礼拝の形式そのものには興味を持っておられません。神様は私たちが心から礼拝することを望まれます。そして、私たちの人生全体が神様に対する礼拝となることを望まれます。

毎日、私たちは神様のために生きるべきです。毎日、神様の愛によって周囲の人々に触れるべきです。毎日、私たちの人生は神様に捧げる賛美の歌であるべきです。それが、霊によって礼拝することなのです。

あなたはどうですか。真理によって礼拝していますか。サマリヤ人のように、間違った神様に関する考え方があるなら、神様を正しく礼拝することはできません。

神様は聖書を通してご自身を表されました。そのため、自分の神様に関する間違った考えを捨てて、神様の言葉を受け入れなくてはなりません。

しかし、神様は書かれたみ言葉だけではなく、生きている言葉を通してもご自身を表されました。つまり、イエス様を通して、神様はご自身を完全に示されたのです。(ヨハネ1:1;14)

使徒パウロはこう言いました。

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。(コロサイ2:9)

あなたは神様がどんな方であるか知りたいなら、イエス様を見てください。

神様を霊によって礼拝していますか。歌を歌うだけではなく、あなたの人生を通して神様を礼拝していますか。

私の友人は素敵な歌を書きました。今でも私は、その歌のことをよく思い出します。そして、その歌の中の言葉を祈りとして用います。

私の人生があなたへの賛美となるように。

毎日、あなたが霊と誠によって神様を礼拝することができますように。」

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ヨハネの福音書 ヨハネ4章

率直に言う?もしくは、愛をもって真理を語る?

英語では「brutal honesty」という表現があります。直訳すると「残酷な正直さ」という意味です。

その意味は、相手がその真理を聞けばきっと傷つくかもしれないけれど、それでも率直に真理を伝えることです。なぜなら、真理は真理だからです。

もちろん、真理は真理です。そして、私たち全員が真理に直面しなければなりません。とはいえ、「残酷な正直さ」の問題はこうです。多くの場合、その真理を伝える人は、相手を助けたいという気持ちではなく、むしろ故意に傷つけたいという思いを持っているのです。

さらに、それを喜びをもって行う人もいます。彼らは相手に対する愛から真理を伝えるのではなく、相手を苦しませたいという意図を持っていることがあります。

イエス様が率直に話されたことがあるのは確かです。そして、バプテスマのヨハネも率直に話した時がありました。彼らのパリサイ人やサドカイ人との交流を見れば、彼らが非常に単刀直入であったことがわかります。

では、なぜ彼らはパリサイ人やサドカイ人に対してそこまで率直だったのでしょうか。それは、おそらく彼らがあまりに頑なで、他の言葉では届かなかったからかもしれません。

時にはイエス様が語られた真理は厳しいものでした。それでも、多くの場合、イエス様は情けとあわれみをもって真理を伝えられました。

残念ながら、教会にはそのような態度を持つ人はあまり多くありません。けれども、この箇所では、イエス様のあわれみがはっきりと示されています。

興味深いことに、使徒ヨハネによれば、イエス様はサマリヤを通って行かなければならなかったと記されています(ヨハネ4:4)。

実は、サマリヤを通るほうが早い道でしたが、多くのユダヤ人はサマリヤを通ることを拒みました。なぜなら、サマリヤ人は本当のユダヤ人とみなされていなかったからです。

つまり、何百年も前に、サマリヤにいたユダヤ人たちは偶像を礼拝する外国人と結婚し、本来のユダヤ教を汚したと考えられていました。

けれども、文化的なルールが天の父の御心に反するならば、イエス様はそのルールを無視されました。ですから、弟子たちはしばしば困惑したことでしょう。

さて、サマリヤにおられたとき、イエス様は弟子たちを食物を買うために町へ送られました。イエス様ご自身は疲れて、井戸のそばに座っておられました。その時、ひとりの女性が井戸に近づいて来られるのをイエス様はご覧になりました。

イエス様はすでにサマリヤに入ることで文化的なルールを破られていましたが、この女性が井戸にやって来たとき、イエス様はさらに大きな文化的なルールを破られました。

ラビ(ユダヤ教の先生)は、通常、人前で女性と話すことは決してありませんでした。さらに、この女性は嫌われたサマリヤ人でもありました。

それでも、イエス様は彼女に話しかけられました。

わたしに水を飲ませてください。(ヨハネの福音書4:7)

それは本当にシンプルな願いでしたが、彼女はとても驚きました。

彼女は何を思っていたのでしょうか。おそらく、彼女は自分の民の間で評判の悪い人だとみなされていたのではないでしょうか。

新改訳によれば、彼女は第六時ごろに井戸に来たと記されています。この文化では、第六時とは正午を意味します。普通、最も暑い時間帯に女性たちは井戸に来ることはありません。

ところが、彼女は他の女性たちを避けたいと思い、その時間に井戸に来たのかもしれません。

さらに、彼女は何度も離婚しており、現在一緒に住んでいた男性は彼女の夫ではありませんでした。

ですから、イエス様が彼女に話しかけたとき、彼女は「この人は私を売春婦だと思うだろうか」と感じたかもしれません。

いずれにせよ、彼女はイエス様に興味を持っていなかったため、こう答えました。

あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。(9)

けれども、イエス様は優しく応じられました。

もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。(10)

「生ける水」というのは何でしょうか。ヨハネ7:37-39によれば、イエス様は聖霊様について話しておられました。

しかし、この女性は物理的な水のことだと思っていたので、彼女は次のように答えました。

先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。(11)

イエス様はこのように答えられました。

この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。

わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。(13-14)

つまり、「物理的な水について話しているのではありません。その水は一時的にあなたを満たしますが、私が与える水は永遠の命を与えるものです。そして、あなたがそれを飲むと、決して霊的に渇くことがありません。」

おそらく、彼女はイエス様の言葉の意味を理解できなかったのかもしれません。または、自分の心が痛んでおり、自分の必要性を認めたくなかったのかもしれません。

いずれにせよ、彼女は少しイエス様の言葉をからかうような態度を見せました。

先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。(15)

そして、イエス様は突然、とても痛烈な言葉を話されました。

行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。(16)

たぶん、彼女は傷ついた心の痛みから返答したのでしょう。

私には夫はありません。(17a)

イエス様はこう答えられました。

私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。(17b-18)

その言葉は本当に痛烈なものでした。

その瞬間、彼女の痛みは明らかになりました。彼女はずっと自分を本当に愛してくれる人を探していました。その愛を得るために、何度も自分の体を男性たちに捧げました。もしかしたら、他の女性たちの夫を奪ったこともあったかもしれません。

けれども最終的には、拒絶され、現在一緒に住んでいる男性は彼女と結婚することを拒んでいました。

では、どうしてイエス様は彼女の秘密を明らかにされたのでしょうか。痛みを見て喜ばれたからでしょうか。いいえ、そうではありません。イエス様は彼女を愛されたからです。

彼女が宗教的な議論を挑もうとしたとき、イエス様はその疑問に優しく応じられました。

そして彼女が「私はよくわかりませんが、メシアを待っています」と言ったとき、イエス様はこう答えられました。「私をご覧なさい。あなたが待っているその人は私です。私がメシアです。」

その瞬間、イエス様の目を見たとき、完全に理解している方を見ました。イエス様は心の奥深くまで知っておられました。しかし彼女は、イエス様が自分を本当に愛しておられることに気づいたのです。

どれほど多くの人々が、私たちについて同じことを言えるでしょうか。神様の真理を伝えるとき、イエス様の愛を見るでしょうか。そしてさらに、心から「あなたを愛しています」と言えるでしょうか。

イエス様はサマリヤの女性の心を変えられました。真理は彼女に正しい道を示しました。 けれども、彼女の心を本当に変えたのは愛でした。

あなたは相手を愛さずにただ真理を伝えますか。それとも、キリストの愛が溢れ出し、人々の心を変えるでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ3章

誰に従うべきか

弟子造り。弟子造りについて考えれば考えるほど、その重要性が深く理解できます。しかし、弟子造りの目的とは一体何でしょうか。

多くの人々が弟子造りについて考えるとき、間違った目的を持つことがあります。彼らは弟子の一生の先生でありたいと思い、弟子からの尊敬を求めます。そして、自分の弟子を持つことを自慢し、「私に従う人たちを見てご覧。」と言います。

けれども、私たちの目的は、自分の弟子を造ることではありません。私たちの目的は、キリストの弟子を造ることです。

バプテスマのヨハネは、その点をよく理解していました。以前にも述べたように、ヨハネは自分の弟子たちをイエス様に向かわせ、「イエス様こそ従うべき方だ。彼のもとに行きなさい。」と伝えました(ヨハネ1:35-36)。

この箇所では、私たちはヨハネの態度を再び目にします。イエス様はご自身のミニストリーを始められ、弟子たちはイエス様の権威によって人々にバプテスマを授けました。

その結果、ヨハネのもとに来る人は減り、イエス様のもとに行く人が増えていきました。それを目の当たりにしたヨハネの弟子たちは少し不安になり、ヨハネにこう言いました。

先生。見てください。ヨルダンの向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます。(ヨハネの福音書3:26)

ヨハネの弟子たちは、ヨハネがどのように反応するか予想していたでしょうか。彼らはヨハネが怒ると思ったのでしょうか。それとも、ヨハネが感情を害すると考えたのでしょうか。

けれども、ヨハネはこう答えました。

人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。あなたがたこそ、『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である』と私が言ったことの証人です。

花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。

あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。(27-30)

つまり、「私の人生の目的はキリストの道を整えることです。だから、私は人々をイエス様に向かわせなければなりません。そのために、私はこれまでずっと努力してきました。

結婚式では、一番重要な人物は花婿の友人ではなく、花婿です。結婚式の準備が整い、式が始まり、花婿が入場すると、その友人は心から喜びます。

これこそが私の感情です。私の役割を果たし、使命を達成しました。だからこそ、イエス様が私よりも偉い立場を取られるのはふさわしいことです。そして、私が彼の背後に退くべき時が来ました。」

これが弟子造りです。弟子造りとは、相手の一生の先生になることではありません。私たちは常に彼らを導き続けるべきではありません。

弟子造りとは、人々をイエス様へ導くことです。彼らがイエス様を知り、信じるように、私たちは彼らの心を整えます。私たちの経験、知識、そして知恵を伝えます。けれども、その後、私たちは彼らにこう告げるべきです。

「あなたが私のもとを去る時が来ました。私はできる限りのことをあなたに教えました。これからは、あなた自身でイエス様に従いなさい。」

そして、私たちは彼らの人生の背景に戻るべきです。

どんな弟子造りの関係でも、キリストが盛んになり、私たちは衰えるべき時が必ず訪れます。

使徒ヨハネはこう述べています。

地から出る者は地に属し、地のことばを話す。(3:31)

つまり、私たちは人間だからこそ、私たちの経験と知識には限界があるのです。

しかし、イエス様は天から来られ、御霊に満たされていたため、そのような限界は存在しませんでした。それにイエス様は「すべてのものの上におられます」(ヨハネ3:31)と記されています。

さらに、命を与えるのは私たちではなく、イエス様です。

だから、人々をイエス様へ導きましょう。彼らにイエス様の弟子としての歩み方を教えましょう。そして、イエス様が彼らを導いてくださる姿を見て、喜びましょう。

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ヨハネの福音書 ヨハネ3章

光に入る?

昨日の記事で、私は「人々が神様を拒絶した場合、将来裁かれるのではなく、すでに裁かれている」とお伝えしました。この箇所では、私たちは神様の宣告を見ることになります。

そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。(ヨハネの福音書3:19)

キリストによって、光がこの世に来ました。イエス様は神様がどのようなお方であるかを教え、神様の私たちへの計画を明らかにされました。

けれども、世の人々は悪を愛していました。彼らは自分たちの行動が悪く、恥ずかしいものであると知っていたにもかかわらず、その悪を愛し続けたのです。

また、彼らは光を受け入れず、暗闇に留まりました。要するに、彼らはイエス様を拒絶したために裁かれることとなりました。

では、あなたはどうでしょうか。キリストの光の中に入りますか。自分の悪く、恥ずかしい行動を捨て、イエス様と共に光の中を歩みますか。イエス様が教えられた真理に従いますか。

そうすれば、あなたはもう神様を恐れる必要はありません。むしろ、神様の前に大胆に立つことができるのです。

ヨハネはこう言っています。

しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。(21節)

私は神様とそのような関係を持ちたいと願っています。恥じることのない関係。罪悪感に囚われない関係。そして、神様の愛と恵みを受けて、大胆に神様と共に歩む関係です。

神様の光の中に入ることを恐れる人もいます。その理由は、彼らが自分の罪が明らかにされることを恐れているからです。また、彼らが愛しているものを失うことへの恐れがあるからです。

そのため、彼らは教会を避け、聖書を遠ざけます。一部の人は聖書を読むものの、自分の罪を指摘する箇所を避けます。

それでも、神様はあなたを愛しておられます。そして、神様はあなたの最善を望んでおられます。たとえ、神様に従うことで、あなたが愛しているものを失うと感じることがあったとしても、神様はあなたにそれ以上の素晴らしいものを与えてくださいます。

ですから、最も重要な質問はこれです。神様を信頼しますか。神様があなたの最善を望んでおられることを信じますか。もしそれを信じないなら、あなたは決して光の中に入ることはできません。

しかし、神様はイエス様を通してあなたに対する愛を示してくださっています。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(3:16)

神様はあなたのためにそのようにしてくださいました。ですから、あなたの人生のすべてにおいて、神様を信頼することができませんか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ3章

福音のもう一つの側面

多分あなたはもうご存じかもしれませんが、「福音」という言葉は「良い知らせ」という意味です。

しかし、私たちが「悪い知らせ」を知らなければ、その「良い知らせ」を本当に理解することはできません。その悪い知らせとは何でしょうか。

[イエス様を]信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。(ヨハネ3:18b)

最初の人間アダムの時代から、すべての人々は神様のみ前で裁きを受けることとなりました。なぜでしょうか。それは、私たちが皆、神様を信頼せずに神様に背を向け、自分の道を選んだからです。

では、なぜそれがそれほど重大な問題なのでしょうか。

使徒パウロがその答えを教えています。

罪から来る報酬は死です。(ローマ6:23)

私たちは「死刑囚となるかもしれない」という状態ではありません。実際には、私たちはすでに死刑囚なのです。なぜなら、私たちは皆罪を犯し、すでに裁きを受けたからです。

そのため、17節にはこう書かれています。

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではな[い]。

なぜヨハネは、「イエス様はこの世に私たちを裁くために来られたのではない」と言うことができたのでしょうか。それは、イエス様がこの世に来られる以前に、私たちはすでに裁かれていたからです。

これが福音のもう一つの側面です。とはいえ、多くのクリスチャンはこの側面についてあまり語りたがりません。

もしあなたがイエス様を信じないのなら、将来神様に裁かれるというわけではありません。あなたはすでに裁かれているのです。

私たちはこのことをどのくらい深く考えているでしょうか。今、あなたの家族や友人、そして同僚がイエス様を知らないのであれば、彼らはすでに裁かれています。もし、あなたがイエス様を信じないのであれば、あなたもまた神様に裁かれているのです。

これは本当に恐ろしい事実です。けれども、幸いにも、素晴らしい良い知らせがあります。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(3:16-17)

私たちが神様に背を向けたにもかかわらず、神様は私たちを変わらず愛しておられました。だからこそ、神様はイエス様をこの世に送り、イエス様は十字架の上で私たちの罪の罰を引き受けてくださいました。

そのため、今、神様はあなたに問いかけておられます。「私を信じ始めますか。私の子イエスと、その十字架での働きを信じますか。」

あなた自身と、あなたが愛している人々は死刑囚であるかもしれません。そして、解放される方法はただ一つしかありません。赦される道もただ一つです。それはイエス様を信じることです。

ヨハネはこう記しています。

御子を信じる者はさばかれない。(18a)

イエス様とその十字架での働きを信じるなら、神様はあなたを赦してくださいます。その赦しは私たちの良い行動によるものではありません。むしろ、それはイエス様の十字架での働きによるのです。

神様はそれを見て、私たちにこう語られます。「私の子イエスがあなたの罪の罰を支払いました。だから、私はあなたを裁きません。」

実際のところ、神様がこれを語られる時、それは将来のことだけを指しているのではありません。今この瞬間においても、神様の前であなたは裁かれていないのです。

使徒パウロはこう述べています。

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)

しかし、もしあなたがイエス様を拒絶するなら、あなたはすでに死刑囚なのです。そして、裁きの日が次第に迫っているため、ヨハネはあなたにこう語っています。

[イエス様を]信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。(ヨハネ3:18b)

あなたはどうしますか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ3章

どのように新しく生まれることができるのか

ヨハネ3章の前半では、イエス様はニコデモに、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言われました(3節)。

つまり、私たちがこの世に生まれるように、私たちは神様の国に生まれなくてはなりません。どんなに良い行動をしても、それによって天国に入ることはできません。

人がこの世に生まれるのは、主に母の働きによるものです。人が神様の国に生まれるのは、御霊の働きによるものです。

ニコデモは旧約聖書をよく知っていたにもかかわらず、この概念を理解することができませんでした。彼は天国に入るために、懸命に神様の律法に従おうとしていました。けれども、イエス様は「その考え方は間違っている」と言われました。

そのため、ニコデモは質問しました。

どうして、そのようなことがありうるのでしょう。(9)

つまり、「私はよく分かりません。ずっと律法に従おうと努力してきました。しかし、あなたは天国に入るために私自身の働きによるのではなく、御霊の働きによると言われているのですか。」

今でも、多くの人々は同じ質問を抱えています。彼らは、神様を喜ばせるために良い行動をしなければならないとずっと教えられてきました。そのため、救いがただであるという話を聞いても、彼らは信じられません。それが簡単すぎると感じてしまうのです。

いずれにせよ、イエス様はニコデモを少し叱責されました。

あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。(ヨハネの福音書3:10)

もしニコデモが預言者たちの言葉を正しく理解していたならば、イエス様の言葉も理解できたはずです。(特に、ニコデモは預言者エレミヤやエゼキエルの言葉を知っていたに違いありません。昨日の記事をご覧ください。)

けれども、ニコデモがそれを理解できなかったため、イエス様はさらに古い聖書の話を取り上げて語り始められました。ユダヤ人にとって非常によく知られた話です。

イスラエル人がエジプトから救い出された後、砂漠を旅していました。ところが、その途中で彼らはモーセと神様に対して不平を言い始めました。その反抗的な態度の結果として、神様は多くの蛇を送り、人々の多くが噛まれて死んでしまいました。

イスラエル人が悔い改めた時、神様はモーセにこう命じられました。

あなたは燃える蛇(つまり、青銅の蛇)を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。(申命記21:9)

彼らは救われるために、多くの良い行動をする必要はありませんでした。ただ、神様の約束を信じるべきだったのです。神様の約束を信じた人々は救われましたが、神様に対する不信を持ち続けた人々は亡くなりました。

イエス様はニコデモにこう言われました。

「同じように、永遠の命を得るためには、働かなくてもよいのです。モーセが荒野で蛇を掲げたように、私も十字架で掲げられなければなりません。私はあなたの罪のために死ぬのです。そして、あなたが私を仰ぎ見て信じるなら、あなたは救われます。」

ギリシャ語では引用符が存在しないため、イエス様の言葉がどこで終わり、ヨハネの言葉がどこから始まるのかが明確ではありません。おそらく、15節でイエス様の言葉が終わり、16節からヨハネがその話の意味を解釈しているのでしょう。

いずれにせよ、この箇所は聖書の中で最も有名な箇所の一つです。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(3:16)

どうすれば、私たちは新しく生まれることができるのでしょうか。それは、イエス様を信じることによって実現します。つまり、イエス様が十字架であなたの罪の罰を引き受けてくださったことを信じる必要があるのです。

罪とは、「神様、私はあなたを信頼しません。」という態度そのものです。ですから、罪の解決方法は良い行動を積むことではありません。罪の解決方法は、神様に対する不信の態度を捨てることです。

そして、その最初の一歩は、「神様、私はあなたの救いの計画を信じます。あなたの国に入るために、私の働きに頼るのではなく、イエス様の十字架での働きに頼ります。」と告白することです。

このような祈りをしたことがありますか。

天のお父様、私は自分が罪を犯したことを認めます。つまり、私はずっとあなたを信頼せず、あなたの道を歩まず、自分勝手な道を選んできました。どうか私を赦してください。

イエス様、あなたが私の罪のために死んでくださったことを感謝します。私の主となってください。これから私は、私の人生のすべてにおいてあなたを信頼し、あなたの道を歩みたいと願います。

御霊様、どうか毎日私を導いてください。特に、私が毎日イエス様のようになることができるように導いてください。私の心を変えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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ヨハネの福音書 ヨハネ3章

新しく生まれる?

ヨハネの福音書3章は、聖書の中でも特に有名な箇所の一つです。この章でイエス様は「新しく生まれること」について語られます。しかし、それはどういう意味なのでしょうか。

この話では、ニコデモというパリサイ人がイエス様を訪ねます。

イエス様がいくつもの奇跡を行い始めていたため、ニコデモはほかのパリサイ人とは異なり、イエス様を尊敬していました。彼はイエス様が行った奇跡を通して、イエス様が神様のもとから来られた方であることを認めました。

では、なぜニコデモはイエス様を訪ねたのでしょうか。それについて明確な答えはありません。

確かに彼は、まだ大胆にイエス様の弟子になる決意ができていなかったでしょう。実際、彼は夜にこっそりイエス様を訪ねました。それでも彼は、イエス様と直接話し、相談することを選びました。

ニコデモは丁寧にイエス様に挨拶しましたが、イエス様は挨拶を返すことなく、率直に核心をつく言葉を話されました。

まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。(ヨハネの福音書3:3)

ニコデモはそれを聞いて、驚きました。彼はパリサイ人であり、神様の律法を尊重し、それに従おうと懸命に努力していました。おそらく彼は、天国に行くためにはその律法を完全に守らなくてはならないと考えていたのでしょう。

けれども、イエス様はこう言われました。「その考え方は間違っています。神様の国に入るためには、あなたは新しく生まれなければなりません。」

ニコデモにはイエス様の言葉の意味が全く理解できませんでした。そのため、彼は質問しました。

人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。(4)

福音書、特にヨハネの福音書では、このような問題をしばしば目にします。つまり、イエス様が霊的な真理を教えようとしているのに対して、人々が物理的な考え方にとらわれてしまうということです。

私たちも、どれほど物理的な考え方を持っているために、神様の真理を理解できないことがあるでしょうか。

いずれにせよ、イエス様の次の言葉によって、ニコデモはさらに混乱してしまいました。

まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。(5)

「水によって生まれる」という言葉にはさまざまな解釈がありますが、おそらくイエス様はエゼキエル書37:25-27を参照されていたのではないかと考えられます。

その箇所では、神様が「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかける」と語られています。

この言葉の意味は「あなたがたを罪から清める」ということです。おそらく、これが「水によって生まれる」という言葉の真意でしょう。

さらにその箇所では、神様が続けて「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける」と語っておられます。これこそ「新しく生まれる」という意味です。

神様は私たちに新しい心と霊を与えてくださいます。そしてその新しい心と霊を持つことによって、私たちは自然に神様を喜ばせたいと願うようになるのです。

ニコデモはパリサイ人であり、きっとエゼキエル書のこの箇所をよく知っていたことでしょう。そのため、イエス様はこの言葉をおっしゃったのかもしれません。

あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。(7)

この世に入るためには、私たちはまず生まれなくてはなりません。私たちの働きによって、この世に入ることはできません。ただ、生まれることがその条件です。

同じように、神様の国に入るためには、その国に生まれなくてはなりません。あなた自身の働きによって、神様の国に入ることはできません。ただ、その国に生まれる必要があります。言い換えると、御霊によって生まれることが必要なのです。

そのため、エゼキエル書で神様はユダヤ人にこう語られました。

わたしの霊をあなたがたのうちに授け[ます]。(エゼキエル書36:27)

物理的な出産は母の働きによるものです。霊的な出産は御霊の働きによるものです。

そして、イエス様は御霊を風にたとえられます。風の影響は私たちに見えますが、風そのものを見ることはできません。

同じように、私たちには御霊を見ることはできませんが、御霊は人間の心の中で働き、その人を内側から変えてくださいます。

そして、最終的には私たちは御霊の働きの結果を見ることができます。御霊によって私たちは全く違う人へと変えられます。つまり、私たちは新しく生まれ変わるのです。

ニコデモはこの真理を知っているはずでした。預言者エレミヤはこの真理について教えています(エレミヤ書31:31-34)。そしてもちろん、エゼキエルも同じ真理を教えていました。

しかし、ニコデモは自分の働きによって神様の国に入ることができると考えていたようです。

あなたはどうでしょうか。自分の働きによって天国に入ろうとしていませんか。それとも、あなたはすでに新しく生まれ変わっているのでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ2章

神殿に対するイエス様の熱心

この箇所では、イエス様が神殿に行かれた時、そこで牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちが営業していた様子が記されています。

神殿には「異邦人の庭」という場所がありました。ユダヤ人ではない人々がそこに来て、神様を礼拝することができました。

ところが、イエス様が異邦人の庭に入られた時、その場所は非常に騒がしい状況でした。羊や牛、鳩が鳴き声をあげている上、これらの動物を売る者たちや両替人、さらにそのお客たちが話していたためです。

そのため、異邦人にとっては神様を礼拝することがほぼ不可能な状況でした。

さらに、神様を礼拝するために来た人々は不当に扱われていました。

宮の納入金を払うため、多くの人々は両替を必要としていましたが、その為替レートは非常に高く設定されていました。

それだけでなく、いけにえとして自分の動物を連れてきた人々が、ふさわしい動物であるにもかかわらず、検査を担当する者たちに「その動物は不適切だ」と言われてしまいました。

その結果、彼らは神殿で売られている動物を非常に高い価格で購入せざるを得ませんでした。

このような不正が行われていたため、イエス様は大いに怒られました。この状況を見て、イエス様はどう行動されたのでしょうか。

[イエスは]細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、また、鳩を売る者に言われた。

「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(ヨハネの福音書2:15-16)

ユダヤ人のリーダーたちは、この出来事を目にして、イエス様に問いかけました。

あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。(18)

イエス様はこう答えられました。

この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。(19)

ユダヤ人たちは、イエス様がヘロデによって建てられた神殿について話していると思いました。その時点で、すでに46年が経過していましたが、この神殿が完成したのは西暦63年でした。

しかし、イエス様が話していたのは、その神殿ではありませんでした。ヨハネによれば、イエス様はご自身の体について語っていたのです。

つまり、ユダヤ人のリーダーたちがイエス様を十字架につけて殺しても、三日目にイエス様はよみがえられるということです。

ところで、イエス様が幽霊としてよみがえったと考える人もいます。(例えば、エホバの証人はそのように信じています。)けれども、この箇所によれば、イエス様は明確にこう言われました。「私の体はよみがえります。」

イエス様がご自身の体を神殿と呼ばれたように、パウロは私たちの体を「聖霊の神殿」と呼びます。(第一コリント6:19)

さらに、イエス様はエルサレムの神殿に対して情熱を持っておられたように、私たち一人ひとりに対しても情熱を持っておられます。

イエス様はエルサレムの神殿を神様を礼拝するための場所として清めたいと望まれました。同じように、イエス様は私たちの体を神様のために聖別したいと望んでおられます。

けれども、私たちはしばしばその神殿を、罪やその他のものによって汚してしまいます。

数年前、私はコンピュータのトラブルに直面しました。ファイル自体は無事でしたが、Windowsに問題が発生していました。再インストールを試み続けましたが、最終的には成功しませんでした。

そこで、ファイルをバックアップした後、ハードディスクをフォーマットしました。(つまり、そのハードディスクに保存されていたソフトウェアやファイルをすべて消去しました。)

その後、再び再インストールを行うことができましたが、それは非常に大変な作業でした。

このハードディスクには、多くの役立つファイルが保存されていました。また、悪くないソフトウェアもたくさんありました。しかし、破損したファイルのせいで、コンピュータが正常に動作しなくなっていたのです。

あなた自身はどうでしょうか。私のコンピュータのように、あなたの心に悪いものが存在していませんか。どのような罪が潜んでいるでしょうか。羊や牛の騒がしさが異邦人の礼拝を妨げたように、あなたの罪が周りの人々に神様を見えにくくしているでしょうか。

また、悪いものではなくても、神様を礼拝する妨げとなるものが存在していませんか。例えば、趣味自体は悪くないものですが、その趣味のせいで聖書を読む時間や祈る時間が減ってしまってはいませんか。

イエス様は清い神殿を望まれます。ですから、イエス様はあなたの心を清めたいと願っておられます。

あなたの心には何があるのでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ2章

聖書を理解する方法

私が英語のブログでこの記事を書いた時、そのタイトルは「ぶどう酒?ぶどうジュース?」でした。

けれども、振り返ると、たぶん「聖書を理解する方法」の方が適切だったと思います。

私は十代の時、「ぶどう酒?ぶどうジュース?」という本をざっと読んだことがあります。

その著者の意見をほとんど覚えていませんが、彼の主張は、このヨハネの箇所で、イエス様がぶどう酒を作った時、実はぶどうジュースを作ったのだというものでした。彼はギリシャ語の意味やユダヤ人の文化について説明した可能性があります。

当時、私はその意見を信じていましたが、ある日、別の牧師がその箇所の文脈を詳しく教えてくれました。その文脈とは何でしょうか。

10節では、宴会の世話役がイエス様が作ったぶどう酒を味わった後、こう言いました。

だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。(ヨハネの福音書2:10)

その言葉を少し考えてみてください。もし「ぶどう酒」の代わりに「ぶどうジュース」を入れ替えたら、彼の言葉は理にかなうでしょうか。

「だれでも初めに良いぶどうジュースを出し、人々が十分だころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどうジュースをよくも今まで取っておきました。」

これでは全く意味をなしません。もしそれがただのぶどうジュースなら、アルコール分は全く含まれていません。けれども、アルコール分がないのに、どうして皆がたくさん飲んだ後に待って、悪いジュースを出すのでしょうか。それは全く理にかなっていません。

ですから、私はその著者の議論が間違っていると思います。

では、酔っ払うことが良いのでしょうか。もちろん、そうではありません。聖書によれば、それは絶対に許されません。

とはいえ、聖書は飲酒自体を禁止してはいません。聖書が禁止しているのは、アルコールによって支配されることです。(エペソ5:18)

ちなみに、私は全く飲みません。アルコールの味が好きではないですし、自分の限界も分からないので、それを知りたいとも思いません。

しかし、私の要点は、聖書をどのように解釈するかに慎重でなければならないということです。

おそらく、その著者がイエス様がぶどうジュースを作られたと主張する理由は、著者が飲酒に強く反対しているからです。そのため、彼はギリシャ語をよく研究していたとしても、その箇所の文脈を無視してしまったのです。

ですから、私たちが聖書を読む時や教会でメッセージを聞く時、この四つのポイントを心に留めておきましょう。

1.聖書の箇所の文脈をよく考えるべきです。

多くの人々はそれを無視するため、彼らの解釈が混乱してしまいます。モルモン教やエホバの証人にはこのような問題が見られます。

2.聖書を読み、その教えを信じるべきです。

もし、聖書の教えがあなたの考え方と矛盾するなら、聖書を変えようとするのではなく、あなた自身の考え方を変えるべきです。

3.聖書の著者が生きた文化を学ぶべきです。

例えば、イエス様が母であるマリヤに話しかけた時、「女の方」と呼びました。現代の私たちの文化では冷たく感じられる表現ですが、彼らの文化では非常に丁寧な呼び方でした。

4.しもべたちに対するマリヤの言葉に従うべきです。すなわち、「イエス様が言われることを、何でも行いなさい。」(ヨハネ2:5)

聖書を読むだけでは不十分です。聖書の教えを聞くだけでも不十分です。その教えに従うことが必要です。なぜなら、それこそが神様の御言葉だからです。

これらのポイントを守ることで、聖書の理解が深まり、あなたの人生はさらに充実したものになるでしょう。

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ヨハネの福音書 ヨハネ1章

あなたのおられるところにいたいのです

バプテスマのヨハネが自分の弟子たちをイエス様に向かわせた時、彼らはすぐにイエス様について行きました。

彼らにとって、ヨハネのもとを離れるのは簡単なことではなかったでしょう。もちろん、彼らはヨハネを愛し、強い関係を築いていましたが、ヨハネが彼らに教えることのできることには限界がありました。そのため、彼らが次のステップに進む時が来たのです。

なぜヨハネの教えには限界があったのでしょうか。ヨハネより優れた預言者はいなかった(マタイ11:11)ものの、彼はただの人間でした。一番偉大な人であっても限界があります。

だからこそ、彼らは次の段階に進み、神様の弟子となる必要がありました。イエス様こそ肉において現れた神様です。

彼らがイエス様に近寄った時、どんな気持ちだったのでしょうか。エデンで神様が約束されたメシアに、どう話しかけたらよいか分からず、たぶん不安で、少し怖がっていたかもしれません。こんな会話があったかもしれません。

ヨハネ:「あなたがイエス様に話しかけたらどうですか。」

アンデレ:「いや、どうぞお先に。」

結局、イエス様は彼らに気づいて声をかけられました。彼らはおそらく足を止め、心の中でこう考えたかもしれません。

「イエス様は私たちを拒絶されるのではないだろうか。私たちには何の資格もない。それでも、イエス様は私たちを受け入れてくださるだろうか。」

おそらくそんなことを考えている間に、イエス様は彼らに尋ねられました。

あなたがたは何を求めているのですか。(ヨハネの福音書1:38a)

彼らはこのように答えました。

ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。(38b)

私たちの文化では、初めて人に会う時、このような質問をするのは少し奇妙に感じるかもしれません。私たちの文化では、「はじめまして。アンデレとヨハネです。よろしくお願いします。」と言うのが一般的です。

しかし、彼らの文化では、この言葉の背後に込められた意味は次のようなものでした。

「私たちはイエス様の弟子になりたいです。イエス様がおられるところに、私たちもいたいです。イエス様から学びたいです。イエス様の教えだけでなく、イエス様の毎日の生活からも学びたいです。」

2千年が経った今でも、この本質は変わっていません。もしイエス様の弟子になりたいなら、イエス様の弟子としての態度を持たなくてはなりません。それは、イエス様と共にいたいという心です。

あなたはどうですか。この態度を持っていますか。毎朝、イエス様の足元で聖書を読み、祈り、イエス様の声を聞く時間を取っていますか。また、一日中、イエス様と共に歩む心の姿勢を持っていますか。

多くのクリスチャンは朝にイエス様と時間を過ごしますが、その後にこう言います。「じゃあ、またね。今行かなくちゃ。」

そして、次の日までイエス様について一切考えないことがあります。

しかし、私たちはどこに行ってもイエス様を連れて行くべきです。一日中イエス様の声を聞き、イエス様の導きに従うことを学ぶことが必要です。それこそが本当の弟子の姿です。

私が毎日そうしていると言えればいいのですが、正直に言うと、まだできていません。私は今も、毎日毎日、一瞬一瞬イエス様と共に歩むことを学んでいる途中です。

あなたも私と一緒に、この道を歩み始めませんか。

私はある賛美の歌がとても好きです。

I just want to be where you are.
あなたのおられるところにいたいです。
Dwelling daily in your presence.
毎日あなたと共に過ごしたいです。
I don’t want to worship from afar.
遠くから礼拝したくないです。
Draw me near to where you are.
どうかあなたのそばに私を近づけてください。

I just want to be where you are.
あなたのおられるところにいたいです。
In your dwelling place forever.
永遠にあなたの住まいにとどまりたいです。
Take me to the place where you are.
あなたのおられる場所まで私を導いてください。
I just want to be with you.
ただあなたと共にいたいのです。

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ヨハネの福音書 ヨハネ1章

イエス様への道を指し示す

多くのクリスチャンは、家族や友達にイエス様について話すことを恐れることがあります。

一つ目の理由は、彼らが自分にはその資格がないと思っていることです。また、相手の質問に答えるために、聖書についてすべてを知っていなければならないと感じることもあります。

もちろん、その知識があれば役に立ちます。そして、私たちがクリスチャンとして成長するにつれて、イエス様に関する知識が増えるべきです。

とはいえ、私たちの責任は相手を説得することではなく、イエス様への道を指し示すことです。この箇所から、その真理を学ぶことができます。

その最初の例として、バプテスマのヨハネが挙げられます。

祭司たちやレビ人たちがヨハネのところに来た時、彼らはヨハネに資格を問いただしました。「あなたはキリストですか。あなたはエリヤですか。あなたは神様が約束された預言者ですか。」(申命記18:15)

ヨハネが「違います」と答えると、彼らはさらに尋ねました。「では、あなたは誰ですか。」

その時、ヨハネはどのように感じたでしょうか。宗教的なリーダーたちが彼を尋問している時、ヨハネは少し緊張したのでしょうか。

その以前に、ヨハネはパリサイ人やサドカイ人を厳しく責めたので、緊張しなかった可能性もあります。それでも、こうした「資格のある人々」に尋問されるのは大変なことだと思ったかもしれません。

これは私の想像にすぎませんが、その瞬間ヨハネは、砂漠から戻ってきたばかりのイエス様を見たのではないでしょうか。なぜなら、ヨハネがこう答えたからです。

私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。

その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。(ヨハネの福音書1:26-27)

要するに、「私の資格は別に重要ではありません。私の後から来られる方は、私よりもはるかに偉大な方です。実は、彼は今ここにおられます。私はその方のしもべになる資格すらありません。」

時々、人々は私たちの資格を疑うかもしれませんが、私たちが自分自身に注意を向けさせる必要はありません。私たちが述べ伝えているのはイエス様であり、私たち自身の偉大さではありません。

だから、人々があなたの資格を疑ったとしても、彼らの心を自分に向けさせるのではなく、イエス様に向けるようにしましょう。

その翌日、ヨハネはもう一度人々にイエス様を指し示しました。そのため、ヨハネの弟子たちのうち二人がイエス様について行きました。

私たちは自分の弟子を作るのではなく、イエス様の弟子を作ることを心に留めておきましょう。そのため、私たちは彼らが私たちに頼ることを教えるのではなく、イエス様に頼ることを教えています。

ヨハネもそのようにしました。だから、彼の弟子たちがイエス様についていった時、おそらくヨハネは喜んだことでしょう。

その弟子たちはすぐにヨハネを見習いました。つまり、彼らはペテロをイエス様に紹介しました。(ペテロは、イエス様について行く弟子アンデレの兄であり、アンデレはもともとヨハネの弟子でした。)

さらに、イエス様は彼らの友人であるピリポを招かれました。そして、ピリポは彼の友人ナタナエルをイエス様に紹介しました。

けれども、ナタナエルはイエス様のことを聞いた時、ピリポの話を疑いました。

ナザレから何の良いものが出るだろう。(46)

イエス様の出身地であるナザレは、良い評判がない町でした。特に、預言者や偉大な霊的リーダーがナザレから出ることはほとんどありませんでした。

しかし、ピリポはナタナエルと議論することはしませんでした。むしろ、彼はこう答えました。

来て、そして、見なさい。(46b)

ピリポはナタナエルをイエス様のところに連れて行きましたが、ナタナエルを説得したのはイエス様でした。

もちろん、私たちはできる限り人々の質問に答える努力をすべきです。けれども、質問に答えたからといって、彼らが必ずしもクリスチャンになるわけではありません。

議論によって人々を天国に導くことはできません。人々の心を変えることができるのはイエス様だけです。

だからこそ、彼らの質問に答えた後は、ピリポのように「来て、そして、見なさい。」と言うべきです。

どうでしょうか。あなたは周りの人々をイエス様に指し示していますか。

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天の父に愛され、御霊に満たされた人

バプテスマのヨハネが人々にバプテスマを授けていた時、イエス様もヨハネのもとを訪れ、バプテスマを受けることを求められました。彼らはいとこでしたが、ヨハネはイエス様について何を知っていたのでしょうか。

ヨハネの両親はイエス様について何を教えたのでしょうか。そして、神様はヨハネにイエス様についてどのようなことを示されたのでしょうか。

ヨハネは一人暮らしができる年齢になると、砂漠で生活を始めた可能性があります。そのため、イエス様を見た時に、イエス様を認識することができたのでしょうか。

もしかすると、ヨハネがイエス様を見た瞬間、イエス様が特別な存在であることを理解したのかもしれません。ヨハネはイエス様が悔い改めを必要としていないことに気づきました。それゆえ、彼はこう言ったのです。

私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。(マタイ3:14)

けれども、イエス様はこのように答えられました。

今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。(マタイ3:15)

どうしてイエス様はバプテスマを受ける必要があったのでしょうか。おそらく二つの理由が考えられます。

一つ目は、ヨハネがユダヤ人たちの心を誰のために整えるのかを明確に知るためです。その後、ヨハネはこのことについて証をしました。

見よ、世の罪を取り除く神の小羊。私が「私のあとから来る人がある。

その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ」と言ったのは、この方のことです。

私もこの方を{メシヤとしては}知りませんでした。しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです。」

またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。私もこの方を知りませんでした。

しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。「御霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。」

私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」(ヨハネ1:29-34)

ヨハネの言葉によれば、ヨハネはイエス様が特別な存在であることを理解しましたが、イエス様がメシアであることはまだ知りませんでした。

二つ目の理由は、バプテスマを通してイエス様が次のように示されたことです。「私は、この罪人たちの兄弟です。」

イエス様がこの世に来られた時、こうは言われませんでした。「私は偉大な神です。あなたは惨めな罪人です。」

むしろ、イエス様はこう言われました。「あなたは罪人だけど、私はあなたの兄弟です。」(ヘブル人への手紙2:11-12)

もちろん、イエス様は決して罪を犯されませんでした。それでも、十字架の上でイエス様は私たちの罪を背負い、その罪のために死なれました。

イエス様は生まれた時、私たちと人間として共感されました。そして、バプテスマを受けられた時、私たちと罪人として共感してくださいました。

さらに、イエス様がバプテスマを受けられた時、もう一つの出来事が起こりました。

イエス様がバプテスマを受けられた時、聖霊がイエス様の上に下り、イエス様を力で満たされました。それだけではなく、天の父がイエス様に対する愛を宣言されたのです。

もし、私たちが影響力のあるクリスチャンになりたいなら、その二つのことが必要です。神の一人子であるイエス様にそれらが必要だったなら、私たちにもそれらが必要です。

つまり、私たちは、天の父が私たちを愛しておられることを知らなくてはなりません。その愛を知らなければ、私たちは神様を恐れてしまい、決して神様に近づこうとはしません。いつも神様からの叱責を恐れ、神様と親しい関係を築くことができません。

また、天の父の愛を知らないと、私たちの人間関係も難しくなります。周りの人々が私たちの愛に、私たちが期待するように反応しなければ、彼らを愛し続けることも、許すことも難しくなります。

もしあなたが神様のように周りの人々を愛することができないなら、それは神様の愛を十分に理解していないからかもしれません。実は、私自身も神様の愛を十分に理解していないので、神様のように人々を愛することができない時があります。

しかし、イエス様は神様の愛で満たされていたので、周りの人々の失敗や欠点を見る中でも、彼らを愛し続けられました。

天の父はイエス様に対する愛を宣言されました。そして、聖霊はイエス様を力で満たしてくださいました。イエス様はその力を受けられるまで、ミニストリーを始められませんでした。

それゆえ、私たちが神様のために効果的なしもべになりたいなら、聖霊で満たされる必要があります。バプテスマのヨハネによれば、それはイエス様の働きの一つです。イエス様は私たちを聖霊によってバプテスマを授けてくださいます。

あなたはどうでしょうか。神様の愛を知っているでしょうか。聖霊に満たされていますでしょうか。

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真理を語っている?

この話では、私たちは18年間ほど時を飛ばします。イエス様は30歳になり、自分のミニストリーを始められました。けれども、彼が始める前に、イエス様のいとこバプテスマのヨハネは、すでに自分のミニストリーを始めていました。

使徒ヨハネは、バプテスマのヨハネが誰であるかを説明します。

神から遣わされたヨハネという人が現われた。この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。

彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。(ヨハネ1:6-8)

祭司たちや、パリサイ人、サドカイ人(パリサイ人とサドカイ人はユダヤ人の宗派です)がヨハネに「あなたはどなたですか」と尋ねたとき、彼はこう答えました。

私はキリスト(つまり、メシア、または、救い主)ではありません。。。私は、預言者イザヤが言ったように「主の道をまっすぐにせよ」と荒野で叫んでいる者の声です。(ヨハネ1:20,23)

彼の人生の目的は、人々の心をイエス様をメシアとして受け入れるために整えることでした。

私たちはイエス様の弟子として、神様から同じ使命を与えられています。私たちは周りの人々の心をイエス様のために整えるべきです。私たち自身には彼らを救う力はありません。ただ、神様の言葉という種を彼らの心にまくことができるだけです。

私たちのメッセージもヨハネのメッセージとほぼ同じです。

主な違いは、ヨハネの時代には神様からの救いがイエス様を通してまだ到来していなかったという点です。しかし、イエス様がすぐに来られるので、彼らは自分の心を準備しなくてはなりませんでした。(ルカ3:6)

一方で、私たちのメッセージは、イエス様を通して神様の救いがすでに到来したということです。

また、ヨハネの言葉を見ると、一つのことが私の心に深く響きます。ヨハネは率直に話しました。

パリサイ人とサドカイ人が来たとき、彼はこう言いました。

まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。

「われわれの父はアブラハムだ」と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。

斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。

私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。

その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。(マタイ3:7-12)

どうしてヨハネはそんなに厳しく話したのでしょうか。それは、彼らが偽善者だったからです。彼らは神の律法を守ろうと努力しました。つまり、外面的には正しいことを行いましたが、心は堕落していました。

彼らはこう思っていました。「私はユダヤ人だから、神様に受け入れられているだろう。それに、神の律法を知らない多くのユダヤ人と違って、私はよく知っている。」

しかし、彼らの心がプライドに満ちていたため、神様のあわれみを知ることができませんでした。

一方で、ヨハネは他の人々に対してもっと優しく話しました。イスラエル人に嫌われていた人々(取税人やローマの兵士)にも優しく接しながら、「悔い改めなさい」と語りました。裁きの日が来るので、罪深い人生を続けてはいけなかったのです。

私たちも真理を伝えなければなりません。そのメッセージは厳しく感じられるかもしれませんが、伝えることが重要です。

もちろん、イエス様の愛についても語るべきです。そして、イエス様が彼らの罪のために死なれたこと、またその死によって赦され、その心が癒されることを伝えるべきです。

けれども、彼らがプライドや罪、頑固さを持ち続けるなら、私たちは裁きの日について警告すべきです。そうしないと、神様は私たちに責任を負わせるでしょう。(エゼキエル書3:16-21;使徒の働き20:26-27)

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ヨハネの福音書 ヨハネ1章

暗い世にある光

数年前、私は非常に賢いアメリカ人の女の子についての記事を読みました。

彼女の高校の成績は完璧だった上に、SAT(一般のアメリカの大学入学試験)の点数も満点であり、さらにカリフォルニア大学の受験点数も満点でした。そして、ある記者が彼女にこう尋ねました。「人生の意味をご存じですか。」

彼女の答えはどうだったのでしょうか。

「私は全く知りません。私も知りたいと思っています。」

私たちはそのような世界に住んでいます。この世の人々は、神様から離れているため、暗闇に迷っています。

彼らは人生の意味を探しているものの、暗闇の中でずっと躓いているのです。そして、自分の罪に目がくらみ、その罪がどこへ導くのかを理解していません。

そのような世界にイエス様は2000年前、赤ちゃんとして来られました。ヨハネはイエス様についてこう言いました。

この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。(ヨハネの福音書1:1:4)

イエス様がこの世に来られた時、イエス様はこの暗い世のための光となられました。では、どのようにして光となられたのでしょうか。

1.イエス様は神様がどのような方であるかを教えられました。

昨日の記事でも述べたように、イエス様は私たちに神様を説明されました。神様は目に見えない方ですが、イエス様が現れたことで、神様は見える存在となったのです。

私たちはもはや神様を想像する必要はありません。私たちがイエス様を見る時、神様を見るのです。

2.イエス様は人生の意味を教えてくださいました。その意味とは何でしょうか。それは、神様との関係を持つことです。

3節で、ヨハネはイエス様がすべてのものを造られたと述べています。イエス様は私たちも造られました。

ところが、イエス様が来られた時、その被造物はイエス様を自分の創造主として認めませんでした。さらに、彼らはイエス様を拒絶しました。(10-11)

けれども、ヨハネはこう記しました。

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。(12-13)

つまり、私たちがイエス様を私たちの主と救い主として受け入れるなら、私たちは神様の家族に養子として迎えられます。

私たちは自然に神様の家族として生まれるわけではありません。たとえあなたの両親がクリスチャンであっても、あなたがクリスチャンであるとは限りません。

あなたは神によって新たに生まれる必要があります。言い換えれば、あなたは神様の召しに応えて「はい」と言わなければなりません。

つまり、「はい、イエス様。私の王になってください。私の主になってください。」と言うことです。

そうするなら、あなたは神様の家族に迎え入れられます。そして、あなたの人生の目的を見つけるでしょう。それは、天の父との関係を持つことです。

3.イエス様は命の道を教えてくださいました。イエス様がすべての生き物に命と息を与えられるように、イエス様はご自身を信じる人々に永遠の命を与えてくださいます。

ヨハネはこう言っています。

光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。(5)

「打ち勝たなかった」と翻訳されていますが、もう一つの意味として「分からなかった」という解釈もあります。

イエス様がこの世に来られた時、罪深い人々はイエス様を理解しませんでした。宗教的な人々ですら、イエス様を理解しなかったのです。だからこそ、彼らはイエス様を殺しました。

けれども、彼らがイエス様を殺したとしても、イエス様に打ち勝つことはできませんでした。むしろ、イエス様が死なれた時、イエス様は私たちの罰を引き受けてくださいました。そして、イエス様は死に打ち勝ち、三日目によみがえられました。

そのため、今ではイエス様は、ご自身のもとに来る人々に命を与えてくださいます。

だからこそ、ヨハネはこう言っています。

私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。(16-17)

律法を通して、モーセは私たちに神様の要求を示しました。けれども、その律法は私たちを救うことはできませんでした。律法は、私たちの罪を明らかにしただけでなく、私たちが死に値することも示したのです。

しかし、イエス様を通して、私たちは恵みと誠を見出します。 イエス様によって、私たちは二つの真理を見ることができます。 一つは、私たちの罪です。 けれども、十字架を通して、私たちは神様の愛を見ることもできるのです。

さらに、私たちがイエス様を受け入れる時、恵みの上にさらに恵みを受け取ります。その恵みは決して尽きることはなく、私たちの罪を覆います。そして、その恵みは私たちに命を与えてくださいます。

キリストの光があなたの心に輝きますように。

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ヨハネの福音書 ヨハネ1章

神は人間となられた時

それでは、新約聖書を始めましょう。

福音書について書くとき、旧約聖書について書いた時と同じように、年代順に書きます。ですから、マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書の順番ではなく、それぞれの福音書に記載されている話を年代順に書いていきます。

したがって、最初にマタイの福音書から始めるわけではありません。むしろ、ヨハネの福音書から始めます。なぜなら、ヨハネ1章に記されている話は、イエス様がこの世に来られる前の話だからです。

ヨハネはこう記しました。

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。(ヨハネの福音書1:1)

ヨハネが「言葉」と言う時、それはイエス様のことを指しています。つまり、時間と空間が創造される前から、イエス様はすでに存在しておられたのです。なぜなら、イエス様は永遠の存在であられるからです。

では、なぜヨハネはイエス様を「言葉」と呼んだのでしょうか。

ユダヤ人の考えでは、「言葉」とは「神の知恵」を意味します。

一方、ギリシャ人の考えでは、「言葉」は「神の思い」または「神の理」を意味します。

彼らに「どうしてこの世界がこれほど整然と造られているのでしょうか」と訊けば、その答えは「神様の理によるから」となるでしょう。

したがって、ヨハネがイエス様を「言葉」と呼ぶ時、それはイエス様が神の知恵であり、また神の理であるということを意味しています。

さらに、「言葉」という名前について考えてみましょう。

私たちは、どのようにして人を知ることができるのでしょうか。言葉を通して、その人を知ることができます。その人が全く話さず、何も書かなければ、ある程度まで知ることはできますが、限界があります。

けれども、その人が話し始めると、私たちはその人の考え方を知ることができます。そして、その人の知恵から学ぶこともできます。しかし、最も重要なのは、言葉を通じてその人の性格や心を知ることができるという点です。

同じように、イエス様は私たちに対する神様の「言葉」です。イエス様を通して、私たちは真に神様を知ることができます。どうしてでしょうか。

二つの理由があります。

一つ目は、始めからイエス様が「初めに神とともにおられた」ということです(1:2)。その意味は、イエス様と神には親しい関係があったということを示しています。

それだけではなく、イエス様ご自身が神であるということです。それが二つ目の理由です。14節によれば、イエス様は人となり、私たちの間に住まわれました。つまり、神が人間となられたのです。

キリスト教には難しい教えがあります。それは「三位一体」という概念です。それはどういう意味でしょうか。

父なる神がおられます。そして御子(イエス様)なる神がおられます。さらに聖霊なる神がおられます。

父は御子ではありません。御子は聖霊ではありません。聖霊は父ではありません。けれども、神が3つおられるわけではありません。神は唯一の存在です。

それは人間の理解を超えた偉大な真理です。人間の観点では、三人は三人です。しかし神様の場合、父と御子と聖霊は一つの神として存在されています。それが聖書の教えです。

実のところ、もし私たちが神様を完全に理解できたなら、それは少し奇妙なことだと思います。もし偉大なる神をすべて説明できたなら、おそらく私たちは自分の想像から神様を作り出したのではないかという疑いが出てくるでしょう。

けれども、私たちはこの三位一体の神を完全に理解することも、説明することもできません。ある程度までは理解できますが、そのすべてを把握することはできません。

しかし、イエス様のおかげで、私たちは神様についてさらに理解することができるのです。2000年前にイエス様が生まれた時、私たちは初めて、自分の目で神を見ることができました。

ヨハネはこう記しました。

私たちはこの方(つまり、イエス様)の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(14)

地上を歩かれ、また語られた時、イエス様は神様を表されました。なぜなら、イエス様は人となられた神だからです。イエス様を通して、私たちは神様がどのような方であるかを知ることができます。

だから、ヨハネはこう記しました。

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(1:18)

ギリシャ語の文字通りに、イエス様は神様を説明し、また神様を解釈されました。イエス様は父である神の通訳のような存在です。

この記事を書いている現在、もうクリスマスが近づいています。まだ11月ですが、街にはいろいろなクリスマスの飾りが見られます。

けれども、クリスマスの本当の意味を心に留めておきましょう。私たちは神様が人となられたことを祝うのです。それがなぜ重要なのでしょうか。それは、その奇跡によって、神様がご自身を明らかにされたからです。

目に見えない神様を知りたいと思いますか。その飼葉おけをご覧ください。イエス様において、神様の知恵、力、栄光のすべてを見ることができるのです。