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ヨハネの黙示録

イエス様がもうすぐ来られるから。。。

黙示録の最後に繰り返し登場する重要なテーマは、「イエス様がまもなく来られる」という約束です。実はこの約束、黙示録だけではなく、聖書全体を通して繰り返し語られているテーマでもあります。

特に黙示録22章では、イエス様がご自身の再臨を三度宣言されています(7、12、20)。

では、私たちはこの約束にどう応答すればよいのでしょうか。 そのヒントが、17節に記されています。

御霊と花嫁が言う。「来てください。」

これを聞く者も「来てください」と言いなさい。(黙示録22:17a)

興味深いことは、御霊さえもイエス様に「来てください」と叫ばれることです。もしかしたら、それは私たちのための御霊のとりなしの祈りの一つかもしれません。(ローマ8:18-27)

でも、キリストの花嫁として、私たちもイエス様の到来を待ち望むべきです。その日のために、私たちは自分の心を整えなくてはなりません。

私たちはどのようにそうするべきでしょうか。

1.神様が私たちに与えた役割を忠実に果たしましょう。

見よ、わたしはすぐに来る。それぞれの行いに応じて報いるために、わたしは報いを携えて来る。(黙示録22:12)

私たちは20章で読みましたが、二種類の書物があります。一冊目には、私たちの行為のすべてが記されています。二冊目は、子羊のいのちの書です。

でも、あなたの名前が子羊のいのちの書に記されていても、一冊目の書がなくなるわけではありません。ある日、私たちは神様のみ前に立ち、自分の行為のために裁かれます。福音書や使徒たちの書簡には、そのテーマが何度も出てきます。

私たちが神様から与えられたものを忠実に用いたかどうか、判断されます。

忠実に用いれば、報いを得ます。でも忠実でなければ、私たちは救われるものの、火の中をくぐるようにして助かるのです。(第一コリント3:10-15)

だから、イエス様は私たちに警告されます。「目を覚まし、わたしの到来を期待して、忠実に仕えなさい。」(マタイ24:36-25:30)

2.聖さを追い求めましょう。

第一ヨハネでは、ヨハネはこう語りました。

しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。

キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。(第一ヨハネ3:2-3)

言い換えると、私たちがキリストの到来を期待し、いつかキリストに似た者になるという希望を抱いているので、今、私たちは清い人生を送るように努めます。

正しい者には、ますます正しいことを行わせ、聖なる者は、ますます聖なる者とならせなさい。(黙示録22:11b)

3.神様を礼拝しましょう。

この世には、さまざまなものが私たちの注目を集め、心を虜にしようとします。その中には良いものもあります。でも、私たちはそれらを礼拝してはなりません。

ヨハネも二度、その罠に陥りそうになりました。彼は御使いを見て、礼拝しようとしたのです。けれども、天使は二度こう言いました。

いけません。。。神を礼拝しなさい。(22:9)

私たちは被造物を礼拝してはなりません。私たちは創造者だけを礼拝するべきです。

4.神様のみ言葉に忠実になりましょう。

この書では、私たちはさまざまな訓戒を読んできました。特に、2〜3章では多くの訓戒を読みましたが、黙示録の他の箇所にも訓戒がいくつもあります。 だから、イエス様は、私たちがそれらの訓戒に留意し、忠実に従うように命じられます。

イエス様はこう言われました。

見よ、わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを守る者は幸いである。(22:7)

また、イエス様は、私たちがその言葉から何かを取り除かないように注意し、その言葉に付け加えないように注意されます(22:18〜19)。

イエス様がこの世に来られるまで、私たちはそのような人生を送るべきです。

しかし、もしあなたがまだイエス様を知らないなら、イエス様の次の言葉はあなたのためのものです。

渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。(22:17b)

神様は、あなたがご自身のもとに来るように強制されません。 もしあなたが自分の罪にとどまりたいなら、神様はあなたをそのままにされます(22:11a)。

けれども、神様の望みは、あなたがご自身のもとに来て、救われることです。

神様はこう言われます。

自分の衣を洗う者たちは幸いである。彼らはいのちの木の実を食べる特権が与えられ、門を通って都に入れるようになる。(22:14)

私たちはどのように自分の衣を洗うことができるでしょうか。 私たちは自分の努力によってそうするのでしょうか。

違います。十字架で流されたイエス様の血によって、私たちは清められます。 イエス様を信じると、イエス様はあなたの罪のすべてを清めてくださいます(第一ヨハネ1:7)。

今日、あなたは祈って、イエス様を自分の救い主と主として受け入れませんか。

イエス様、今まで、私は自分の道を行き、あなたや周りの人々、そして自分自身さえも傷つけました。 私を赦してください。あなたが十字架で私の罪のために死んでくださり、感謝します。 私の罪と失敗を清めてください。

あなたは王の王、主の主です。 私は自分の人生をあなたに捧げます。 イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

この記事を、イエス様とヨハネの言葉で終わります。

イエス様はこう言われました。

わたしイエスは御使いを遣わし、諸教会について、これらのことをあなたがたに証しした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。。。

これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」(黙示録22:16,20)

ヨハネはこのように答えました。

アーメン。主イエスよ、来てください。(20b)

「主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。」(22)

アーメン、アーメン。

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ヨハネの黙示録

天国に入れないもの

前回の記事で、私は天国の栄光や神様の民の栄光について話しました。また、天国にある素晴らしいものを見ました。

でも、天国に入ることができないものもあります。それは、罪です。

罪をあえて犯す人や神様に反抗する人は、神様の民に属さず、その遺産を受けることもできません。旧約聖書の時代にもその通りだったし(レビ記18章)、新約聖書の時代にもそうでした。

でも、どうしてでしょうか。神様は寛容な方ではないでしょうか?

神様は確かに寛容なお方です。

けれども、天国とは死も悲しみも叫び声も苦しみもない場所です。(黙示録21:4)

もし神様が罪のある者の天国入りを許すなら、死も悲しみも叫び声も苦しみも天国に入ってしまいます。この世を見れば、それがよく分かるでしょう。

だから、神様はこう言われます。

しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。(黙示録21:8)

また、

しかし、すべての汚れたもの、また忌まわしいことや偽りを行う者は、決して都に入れない。入ることができるのは、子羊のいのちの書に記されている者たちだけである。(21:27)

また、

犬ども、魔術を行う者、淫らなことを行う者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は、外にとどめられる。(22:15)

あなたは、それらを天国に望みますか。私は望みません。

しかし、ちょっと考えてみてください。あなたはそのような罪を犯したことがありますか。

偶像礼拝をしたことがありますか。

性的な罪を犯したことがありますか。不倫をしたり、ポルノを見たりしたことはありますか。

嘘をつくことがありますか。

占い師に相談したことがあるでしょうか。

しかし、最も大切な疑問は、神様へのあなたの態度はどうでしょうか。あなたは不信仰な者でしょうか。

上のリストに記された人たちには共通点があります。それは、神様を信頼しないことです。特に、神様が良い方であり、彼らを愛しておられることを疑うのです。

その結果、彼らは神様を王として拒絶し、頑なに自分の道を進みます。

そのような人は、天国に入ることができません。

もし、あなたが神様を王として拒絶し、その良い支配に従わないなら、どうしてその御国に入ることができると思うでしょうか。

けれども、なぜか多くの人々は神様を王として拒絶しているのに、その御国に入れるはずだと思っています。そのような考え方は不思議ではないでしょうか。

それはあり得ません。

神様を王として受け入れないなら、あなたの「良い」行動は無意味です。

覚えておいてください。私たちは、良い行動のせいで天国に入れないわけではありません。むしろ、悪い行動のゆえに天国に入ることができないのです。

そして最もひどい行動は、正当な王を拒絶することです。

だから、神様を王として拒絶するなら、神様の御国には入れません。神様には、あなたの「実績」は無意味なのです。

あなたの名前が子羊のいのちの書に記されていてこそ、天国に入ることができるのです。

そのためには、自分の心をキリストにささげ、イエス様を自分の王、そして救い主として受け入れなくてはなりません。

実際、「キリスト」とは「神様の選ばれた王」を意味します。

イエス様を王として受け入れているでしょうか。

使徒パウロはこう言いました。

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6:23)

あなたはどうされますか。今日、キリストを受け入れませんか。

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天国:花嫁が現れた!

いいえ、この記事でこのブログを終えることはありません。私たちは永遠に新しい天と新しい地にいるのですから、数日にわたって、それらがどんなところであるのかについて話していきましょう。🙂

皮肉なことに、最後の七つの災害に満ちた七つの鉢を持っていた七人の御使いのうちの一人がヨハネのもとに来て、「ここに来なさい。あなたに、子羊の妻である花嫁を見せましょう」と言います。

この御使いは、古い天と古い地の破壊に関わっていましたが、 彼は新しい天と新しい地をヨハネに紹介するのです。

前回の記事でも触れましたが、「新しいエルサレム」とは、文字通りの都市なのか、神様の民なのか、それともその両方なのかは分かりません。

でも、この場面を読んでいると、高価な真珠のたとえ話を思い出しました。そこでは、ある人がその真珠を得るために、持っていたものすべてを売り払いました(マタイ13:45〜46)。

イエス様は、十字架でご自分の血によって、教会という高価な真珠を、ご自分の花嫁として買い取られたのです。

パウロによれば、

キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。(エペソ5:26-27)

今日の聖句では、キリストの花嫁が登場し、私たちはその美しさを目にすることができます。ヨハネはこう語ります。

都には神の栄光があった。その輝きは最高の宝石に似ていて、透き通った碧玉のようであった。(黙示録21:11)

ヨハネが花嫁を描写するとき、「12」という数字や「12の倍数」という数字が頻繁に登場し、それらの数字は時に「1000」(完全さを表す数字)と組み合わされています。

なぜ「12」なのでしょうか。その答えは、21章12節と14節にあるかもしれません。

「12」とは、神様の民を象徴する数字です。イスラエルの十二部族は旧約聖書時代の神様の民を象徴し、12使徒は新約聖書時代の神様の民を象徴します。(私たちも新約聖書の時代に生きています。)

旧約の信仰者たちは、新約の信仰者たちと共に神様の民なのです。

そして、花嫁は旧約時代の祭司たちのように宝石で飾られます(出エジプト記28:15〜21)。

エデンの園もまた、宝石で飾られていました(エゼキエル書28:13)。

この花嫁には、神様と出会うために神殿に行く必要はありません。なぜなら、神様ご自身と子羊ご自身が「神殿」だからです(21:22)。

つまり、昔は神殿が神様の臨在を表しましたが、新しい天と地において、神様はご自身が私たちの間におられるため、そのような建物は不要です。その上、神の栄光、そして子羊の栄光が都市を照らしています(21:23)。

しかも、花嫁自身も輝いています。この世の国々は彼女の栄光によって照らされ、国民たちはそれぞれの栄光を彼女にささげます(21:24)。

花嫁は完全に安心しています。侵入者が入る恐れがないため、その都市の門は常に開かれています。アダムとエバが裸でも恥を感じず安心していたように、キリストの民も人間関係において完全に安心しています。

御霊の喜びに満たされるにつれて、私たちの心の奥底から、生ける水の川が流れ出ます(ヨハネ7:37-39)。そのため、私たちはいのちの実を結び、味わいます(22:1-2)。

でも、天国で花嫁にとって最も素晴らしい事は何でしょうか。それは、私たちが神様のみ顔を見ることです(22:4)。

この都市は立方体として描写されています(21:16)。

聖書の中で、他に立方体として描かれているのはただ一つ。それは神殿の至聖所であり、神様がそこに住んでおられました(列王記第一6:20)。

その立方体の意味は?前回の記事で、私たちはその意味を見ました。

見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。(21:3)

また、

もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え。。。彼らは世々限りなく王として治める。(22:3,5)

どうして、私たちはそんな素晴らしい祝福を得ることができるのでしょうか。

なぜなら、2000年前、イエス様は十字架で私たちの罪のために死んでくださいました。イエス様の働きのおかげで、私たちはイエス様の尊い宝石のように輝き、イエス様の花嫁として栄光を持って、イエス様と共におり、共に治めます。

私はその日が来るのを待ちきれません。

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天国:聖書の約束がついに成就する時

この10年間、このブログでは、私たちは聖書の初めから終わりまでを読み通してきました。そして、今日の聖句では、歴史の集大成が描かれています。聖書のすべてがその時に成就するのです。

創世記では、私たちはエデンを見ました。アダムとエバが罪に落ちる前、彼らはエデンで神様と共に歩みました。

けれども、彼らが罪を犯し、被造物のすべてが呪われた後でも、神様は人間を見限ることはありませんでした。むしろ、神様はノア、アブラハム、イサク、ヤコブを選び、ご自分の民とされました。

その後、イスラエル人たちは神様の民となり、神様は彼らの神となりました。

そして、イエス様の死と復活の後、神様はその権利をイエス様を信じるすべての人々に拡げ、彼らも神様の民と呼ばれるようになったのです。

21章では、私たちはその物語の集大成を目にします。ヨハネは新しい天と新しい地を見ます。そして、もはや海は存在しないのです。

「海はない」とは、文字通りのことなのか、判断がつきません。

黙示録では、海は悪の象徴とされてきました。たとえば、13章では、獣が海から上がってきました。ですから、ヨハネが意味しているのは、悪とそのカオスが完全に消え去るということかもしれません。

そして、ヨハネはこう語ります。

私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。(黙示録21:2)

もう一度、私はこの描写が文字通りのことなのかどうか、疑問に思います。ヨハネは文字通りの都市を見ていたのでしょうか。 それとも、キリストの花嫁である神様の民だけを見ていたのでしょうか(エペソ5:25〜32)。あるいは、都市とその民の両方を見ていたのでしょうか。

いずれにしても、次の聖句では、私たちは最も大切なことを目にします。

私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。

「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。(3)

神様は、かつてアダムとエバと共にエデンを歩まれました。彼らは神様の民であり、神様は彼らの神でした。けれども、彼らは最終的に罪に落ちてしまいました。

神様がイスラエル人をエジプトから救い出すと約束されたとき、 神様は彼らにこう告げられました。「あなたたちは私の民となり、私はあなたたちの神となります」(出エジプト記6:7)。

そのとき、幕屋は、神様が彼らの間に住まわれることの象徴となりました(出エジプト記40:34〜35)。

彼らが約束の地に入ったとき、神殿は幕屋に代わって神様の住まいとなりました。神殿もまた、神様が彼らの間に住まわれることの象徴でした(列王記第一8:10〜12)。

ところが、イスラエル人が再び罪を犯したため、神様の御霊は神殿から離れられました(エゼキエル書10:18)。

その神殿は破壊されたり、再建されたりしましたが、西暦70年には再び破壊され、今に至るまで再建されていません。

今では、神様の民自身が神様の神殿です。神様は私たちのうちに住んでおられます(第一コリント6:19)。

そして、すべてが成就する日には、私たちは永遠に神様の御前にいて、神様のみ顔を仰ぎ見ることになります。

そのとき、神様は私に希望を与える言葉を語ってくださいます。

見よ、わたしはすべてを新しくする。(5)

そして、天の父は、十字架上でイエス様が語られた言葉に少し似たことを語ってくださいます。

事は成就した。(6a)

イエス様が「完了した」と語られたとき、イエス様が意味されたのは、私たちの罪の罰が支払われたということです。

けれども、天の父が「事は成就した」と語られたとき、神様が意味されたのは、神様の救いの計画のすべてが成就し、私たちがついに神様の家にいるということです。

そして、アルファであり、オメガであり、初めであり、終わりである方がこう語られます。

わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。(6b-7)

私たちは皆、苦しみの時を経験します。時に、その苦しみは絶え間なく、また耐えがたいもののように感じられます。

それでも、その苦しみは永遠に続くものではありません。神様はすべてのことを支配しておられます。神様は初めからすべてを支配しておられ、決してその支配を失われません。

神様はすでにこの物語の結末を書いておられます。その結末とは、私たちが永遠に神様と共にいることです。

ですから、神様から目を離さないでください。あなたの試練は永遠ではないことを覚えておきましょう。神様はあなたを、ご自分の家に導いてくださいます。

その日に関して、ヨハネはこう語ります。

神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。(4)

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ヨハネの黙示録

2種類の書物

私は読書が大好きです。Kindle Fireタブレットのおかげで、読書がずっと便利になりました。このタブレットには、たくさんの本を簡単に持ち運ぶことができます。

さて、今日の聖書箇所では、私たちは二種類の書物を見ます。

ヨハネによれば、裁きの日に、死んだすべての人々が、大きい者も小さい者も、御座の前に立ちます。そして、数々の書物が開かれます。その書物には何が書かれているのでしょうか。

どうやら、私たちのすべての行いが記されているようです。

その書物のほかに、もう一つの書物があります。それは「いのちの書」です。

その本には、神様に属する人たちの名前が記されています。彼らは、自分の救いのために、イエス様とその十字架の働きを信じた人々です。

ヨハネはこう言います。

また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。

書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。

海はその中にいる死者を出した。死とよみも、その中にいる死者を出した。彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた。

それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。

いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。(黙示録20:12-15)

私たちはその言葉から何を学ぶことができるでしょうか。

私たちには選択があります。自分と自分の行いに頼って救いを得ようとすることもできれば、イエス様とその十字架の働きに頼ることもできます。

もしイエス様とその働きに頼るなら、私たちの名前はいのちの書に記され、私たちは救われます。

しかし、自分と自分の行いに頼ろうとするなら、神様の目にはそれらの行いは不十分とみなされます。

なぜでしょうか。

神様は私たちの良い行いだけでなく、悪い行いも見ておられます。また、たとえ良い行いをしたとしても、その動機や態度が悪いことも多いのです。

けれども、もっとも重要な理由は、私たちがイエス様を自分の王と救い主として拒んだからです。

簡単に言えば、天国に行くために自分の良い行いに頼ろうとするなら、私たちは失敗してしまいます。

だから私は自分の行いに頼りたくありません。イエス様とその十字架の働きに頼りたいのです。

あなたはどうでしょうか。何を選びますか。

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人はなぜ悪を行うのか

どうして人々は悪を行うのでしょうか。それは悪魔のせいなのでしょうか。

あるいは、彼らは環境の影響を受けてしまったのでしょうか。周囲の不正や悪によって、悪に染まってしまったのでしょうか。困難な状況の中で、罪に巻き込まれてしまったのでしょうか。

それとも、別の原因があるのでしょうか。

今日の箇所を通して、私たちはその答えを見出せるかもしれません。

イエス様がこの世に来られる時、反キリストとその偽預言者、そして彼らの軍勢を打ち倒されます。その後、イエス様は約千年の間この世を治められます。

実際に文字通り千年かどうかは分かりませんが、ともかく、イエス様は長い間治められるのです。

そしてその時、復活したクリスチャンたちはイエス様と共にこの世を治めることになります。(黙示録20:4)

彼らは誰を治めるのでしょうか。おそらく、神の憤りを生き延びたこの世の人々を治めることになるでしょう。

復活した聖徒たちはもはや死ぬことはありません(6節)。しかし、神の憤りを生き延びた者たちは、依然として死すべき存在です。

その千年の間、この世の環境は天国に近づきますが、まだ完全なものではありません。その時代には、正義が全うされ、大いなる平和が地上にもたらされます。

ノアの洪水以前の時代のように、人々の寿命は長くなります。それでも人は死にます。なぜでしょうか。それは、この世に依然として罪が残っているからです(イザヤ11:1-9;65:17-25)。

このような背景のもと、イザヤはイエス様による裁きを描写します。

今の時代とは異なり、イエス様は完全なる正義を実行されます。人々は事実を歪めることができず、律法の抜け道も存在しません。有罪者は必ず裁かれます(イザヤ11:1-5)。

では、少し考えてみてください。もしこの世の状況がほとんど完全で、正義も完全に行われ、さらにサタンがその1000年間縛られていて、人々を誘惑することができないとしたら、なぜ人々はそれでも罪を犯し、死ぬのでしょうか。

その理由は、人々の罪が心に深く染みついているからです。人は罪を犯すことで罪人になるのではありません。むしろ、もともと罪人であるがゆえに罪を犯すのです。

現在の世界では、サタンは人を誘惑でき、また背景や環境からの影響もありますが、結局のところ人は本質的に罪人であるため、罪に走ります。

ダビデはこの真理を認めました(詩編51:5)。

パウロも同じくそれを認めています(エペソ2:1-3)。

この1000年間の時代には、その真理が明らかにされ、私たちの救い主の必要性も証明されます。

たとえ完全な世界に住んでいても、神の救いに値するほど良い人生を送る者は一人もいません。その時代、多くの人々がそれを悟り、イエス様を自らの救い主として信じるようになるでしょう。

けれども、他の人々はイエス様を拒みます。そして、サタンが再びこの世に現れることを許されると、多くの人々が彼に味方し、神に対して戦いを挑みます。

しかし、反キリストとその偽預言者のように、彼らは容易く滅ぼされるのです。また、反キリストとその偽預言者と同様に、サタンも火と硫黄の池に投げ込まれます(黙示録20:7〜10)。

だから、私たちは正直であるべきです。神様がサタンを縛らないことが原因で、私たちが罪を犯すわけではありません。背景や環境のせいでもありません。私たちは、もともと罪人であるがゆえに、罪を犯すのです。

だからこそ、私たちには救い主が必要です。

もしあなたがまだクリスチャンでないなら、今日、イエス様をあなたの救い主、そして主として受け入れてみませんか。

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預言の中心におられる方、私たちの言動の中心となられる方

私が何年もこのブログを書いてきて、もうすぐ聖書全体を読み終えるところなので、できるだけ早くこのブログを終えたいという誘惑を感じています。

けれども、ヨハネが自分の語りの途中で少し脱線したように、私もそうしたいと思います。というのも、その言葉が、私がなぜこのブログを書き始めたのかを思い出させてくれるからです。

御使いが子羊の婚宴について語った後、ヨハネはその足もとにひれ伏して、礼拝しようとしました。

ヨハネの考えは理解しやすいでしょう。この御使いは、ヨハネよりも栄光に満ち、聖なる存在でした。だからこそ、束の間、ヨハネはその御使いこそ礼拝にふさわしい者だと思ったのです。

しかし、御使いはヨハネに言いました。

いけません。私はあなたや、イエスの証しを堅く保っている、あなたの兄弟たちと同じしもべです。

神を礼拝しなさい。イエスの証しは預言の霊なのです。(黙示録19:10)

要するに、「私があなたにこの幻を現す目的は、あなたが私を礼拝することではありません。私はこの幻の中心ではありません。

また、預言者たちは自分の預言の中心ではなく、あなたもこの預言の中心ではありません。

むしろ、イエス様がその預言の中心です。すべての預言は、イエス様に関して証しするためのものです」ということです。

これはとても大切で、心に留めておくべき真理です。イエス様はすべての中心におられる方です。特に、イエス様は私たちの言動の中心であるべきです。

私がこのブログを書くときも、教会でメッセージを語るときも、それは私の栄光のためではありません。それは、イエス様に栄光をお返しするためです。

あなたが教会や社会の場で仕えるときも、それはあなた自身の栄光のためではありません。それは、イエス様を証しするための奉仕です。

それを忘れると、私たちは非常に深刻な状態に落ちてしまいます。

名声を礼拝し始め、お金を礼拝し始め、周囲の人々からの称賛や尊敬を礼拝し始めます。イエス様は本来、私たちの人生の中心であるはずですが、私たちはそのお方を忘れてしまうのです。

だからこそ、私たちが自分自身に問いかけなければならないのは、教会で仕えるとき、私たちの心がイエス様に向けられた礼拝の姿勢になっているかどうかということです。

この社会に触れる時、私たちは神様に栄光をお返しする心を持っているでしょうか。

あなたは、誰の前に、また何の前に、ひれ伏して礼拝しているでしょうか。

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正義が来るとき

数年前、Facebookで、私のハワイの友人が小学校からの手紙を掲載しました。その手紙によれば、ある児童が下校途中、怪しい人物に誘拐されそうになりました。

幸い、通りかかった高校生がいたため、その子供は高校生の方へ逃げ、犯人はそれを見て逃走しました。

私たちの社会では、そのような出来事が増えており、恐ろしい現実です。時として、正義は本当に訪れるのかと疑問に思うことがあります。

黙示録6章では、聖徒たちも同じ問いを抱いていました。

今日の箇所では、正義がついに訪れます。悪者は裁かれ、そうした者たちを生み出した社会も滅ぼされます。反キリスト、その預言者、バビロン、そして反キリストに従う者たちは皆、倒れます。

反キリストとその軍勢は神様に対する最後の戦いのために立ち上がり、イエス様はご自身に属する者たちを取り戻すためにこの世に戻られます。

その時、イエス様が真に「忠実また真実」である方であることが証明されます。十字架において流されたご自身の血によって、それをすでに証明されましたが、この世界に正義と救いをもたらすことによって、もう一度それが明らかにされます。

もしかすると、この最後の戦いを思い浮かべるとき、映画の戦闘シーンを連想するかもしれません。けれども、実際には、神様が圧倒的に有利なのです。

神様の一言でその軍勢は滅ぼされ(黙示録19:21)、反キリストとその預言者は硫黄の燃える火の池に投げ込まれ(20節)、バビロンは倒れ、その焼かれる煙は世々限りなく立ち上り(3節)、猛禽たちは裁かれた人々を宴席として食い散らかします(17-18、21節)。

その結果は何でしょうか。礼拝です。なぜなら、正義がついに訪れたからです。

だからこそ、天にいる者たちは大声で叫びます。

ハレルヤ。救いと栄光と力は私たちの神のもの。神のさばきは真実で正しいからである。

神は、淫行で地を腐敗させた大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされた。。。

ハレルヤ。彼女が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る。。。アーメン。ハレルヤ。」(黙示録19:1-4)

そして、裁かれた人々による恐ろしい「宴席」の後に、栄光に満ちた宴席が整えられます。

神様の御座から声が響き、こう告げられます。

神のすべてのしもべたちよ、神を恐れる者たちよ、小さい者も大きい者も私たちの神を賛美せよ。(5)

そして、天にいるすべての者たちが応えます。

ハレルヤ。私たちの神である主、全能者が王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。

子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができたのだから。花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。(6-8)

そして、御使いはヨハネに向かって、こう告げます。

子羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ、と書き記しなさい。。。これらは神の真実なことばである。(9)

では、私が言いたいのは何でしょうか。

正義が来ます。そして、その日、イエス様の花嫁である私たちは喜びます。

少し考えてみてください。私たちはキリストの花嫁となる資格はありませんでした。むしろ、私たちは裁きの宴席で滅びるにふさわしい者でした。

しかし、イエス様はご自身の義によって私たちを着せてくださいました。神様の目には、私たちは義とされ、キリストに愛される民となりました。そして、私たちは永遠にキリストと共に喜びます。

だから、この世の不正や堕落を見る時、その希望にしがみつきましょう。

正義は来ます。

イエス様は来られます。

そして、その日、天と地は、「忠実また真実」であられるイエス様への礼拝に響き渡ります。

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ヨハネの黙示録

この世に望みを託してしまうと

今日の箇所では、私たちは大淫婦バビロンの没落を目にします。ヨハネは、「大淫婦バビロン」を地の王たちを支配する偉大な都と定義しています。(黙示録17:18)

14章に関する記事では、私たちが目にしたのは、ヨハネ自身とこの書の読み手たちが、バビロンはローマを象徴すると理解したという点でした。ローマ帝国自体は、神なき社会、すなわち神に反する世の制度を象徴しています。

その女は、13章に登場した獣に乗っています。その獣は七つの頭を持っています。御使いによれば、その七つの頭とは、この女が座している七つの山のことであり、それはローマ帝国の七人の王のことです。

ヨハネがこの言葉を書いた時点では、七人のうち五人はすでに亡くなり、一人はまだ生きていてローマを治めており、残りの一人はまだ現れていない状態でした。(17:7)

その後、反キリストである獣が八番目の王として現れ、この世を支配することになります。(17:11)

反キリストは十人の王たちと同盟を結びます。(それが文字通り十人の王なのか、それとも世界の支配者たちを象徴しているのかは定かではありません。)

とにかく、世の人々は皆、獣に従います。なぜでしょうか。

第一の理由は、獣の力です。

第二の理由は、その獣が人々を欺く能力を持っているからです。私たちはすでに13章で、それを読んでいます。

そして、第三の理由は、大淫婦の存在です。彼女は「大水の上に座しています。」

御使いによれば、その大水は諸々の国民を象徴しています(15)。人々は、大淫婦が提供するもの、すなわち彼女の裕福さと栄光を飲み込んでいます。(4)

ところが、彼らが実際に飲み込んでいるのは、忌まわしいものと、大淫婦の淫行の汚れなのです。つまり、神の目から見るなら、彼らは神が忌み嫌われることを行っているということです。彼らは自らの創造主に対して霊的な姦淫を犯しているのです。

簡単に言えば、人々がこの世とそのものに執着しているため、彼らは獣に従います。

この世の制度は獣と結びついています。この世の友でありながら神の友であることは両立しません。だからこそ、大淫婦は聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔いしれています(17:6、18:24)。

今日の箇所で私たちが学ぶのは、この世の制度は結局滅ぼされるということです。

おそらく、神様に対する戦いのゆえに、獣とその十人の王たちは大淫婦のすべてを奪い取ります。

言い換えれば、神様との戦いにおいてこの世を滅ぼすことさえいとわないほどに、彼らは神様に敵対しているのです。だからこそ、その戦争のために彼らは自国の経済を崩壊させ、核兵器の使用さえもためらわないのです(17:6)。

そして、御使いはヨハネにこう告げます。

それは、神のことばが成る時まで、神はみこころが実現するように王たちの心を動かし、彼らが一つ思いとなって、自分たちの支配権を獣に委ねるようにされたからです。(黙示録17:17)

つまり、神様の計画は、この世が荒らされることです。その被害の一部は神様の手によって行われますが、大部分は人間の手によって行われます。結局、人間たちは自らを滅ぼすのです。

しかし、最終的に獣とその王たちが神様と戦い、この世を荒らしても、

子羊は彼らに打ち勝ちます。子羊は主の主、王の王だからです。(17:14)

では、私たちはこの箇所から何を学ぶことができるでしょうか。

この世の制度に属する人々は、自分の財産や実績を誇ります。彼らは、それらが永遠に続くと信じています。

けれども、それらは一日のうちに崩れ去り、この世の約束の空しさが露わになります。(黙示録18:8)

神様は、それらすべてを大きなひき臼のように海へ投げ込み、滅ぼされます。人々が喜び、頼っていたすべてのものは滅ぼされます。(18:21-23)

そのため、この世の人々は恐れ、嘆きます。(18:9-19)

自分が頼っていたものが、瞬く間に失われるため、彼らは嘆くのです。

バビロンに降りかかった裁きが自分にも降りかかることを知っているので、彼らは恐れます。

では、私は何を言いたいのでしょうか。

この世に望みを託してはなりません。この世の制度は倒れ、この世の制度に頼る人々も倒れます。

だからこそ、神様のみ言葉に心を留めましょう。

わたしの民は、この女の罪に関わらないように、その災害に巻き込まれないように、彼女のところから出て行きなさい。(18:4)

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裁きが振りかかっても悔い改めない心

14章では、神様を拒絶し、獣の刻印を受けた人々が永遠の裁きを受けることを読みました。以前にも述べたように、永遠の裁きという概念に抵抗を感じる人々は少なくありません。

9章では、その永遠の裁きの理由を見ました。ある人々は長らく神様に逆らい、悔い改める心を持とうとしません。どれほど厳しい裁きが下されても、彼らはどうしても悔い改めたくないのです。むしろ、神様をますます呪うのです。

今日の箇所では、再びそのような人々が登場します。

16章で、神様は抑えることなく裁きを地上に注がれます。封印の裁きやラッパの裁きがなされたときには、神様は裁きに制限を設けられました。(封印の裁きでは被造物の4分の1が、ラッパの裁きでは3分の1が打たれました。)

今回は、全世界が打たれます。

獣の刻印を受けたすべての人々には、ひどく悪性な腫れものが生じます。(黙示録16:2)

海は死者の血のようになり、海の中のすべての生き物が死に絶えます。(3節)

神の民を殺していた彼らに対し、川と水の源の水は血へと変わります。(4-7節)

そして、

第四の御使いが鉢の中身を太陽に注いだ。すると、太陽は人々を火で焼くことを許された。(黙示録16:8)

私の意見ですが、おそらくこの描写が意味するのは、私たちを太陽の紫外線から守るオゾン層が著しく薄くなり、その結果、人々が焼かれるということではないでしょうか。

さて、人々はそのような状況にどのように反応するのでしょうか。

こうして人々は激しい炎熱で焼かれ、これらの災害を支配する権威を持つ神の御名を冒瀆した。彼らが悔い改めて神に栄光を帰することはなかった。(9)

あなたはこう言うかもしれません。「でも、その裁きがもう少し続けば、最終的に人々は悔い改めるのでは?」

けれども、次に、モーセの時代のエジプトのように、全世界が闇に包まれます。また、人々は自分の腫れもののために激しい苦しみにさいなまれます。(10-11a)

それでも、彼らは、

天の神を冒瀆し、自分の行いを悔い改めようとしなかった。(11b)

「でも、彼らはきっと自分の頑固さを捨てて、悔い改めるだろう?決して悔い改めないほどの頑固な人はいないのでは?」

しかし、大河ユーフラテスの水が涸れ、東から来る王たちが集まり、神様に戦いを挑もうとします。(12)

悪霊たちが現れ、奇跡的なしるしを行って、王たちに神様に勝てるという希望を抱かせようとします。彼らはハルマゲドンに集結し、神の激しい怒りが込められた最後の鉢が空中に注がれます。

その時、稲妻がひらめき、雷鳴がとどろき、世界の歴史の中で最も大きな地震が起こります。

すべての国々の都市が崩れ去り、神様の激しい憤りは、御前に逆らう帝国に注がれます。島々は沈み、山々は崩れ、巨大な雹が天から人々の上に降り注ぎます。(20-21)

その結果は何でしょうか。人々は悔い改めたのでしょうか。

いいえ、悔い改めませんでした。

この雹の災害のために、人々は神を冒瀆した。その災害が非常に激しかったからである。(21)

私のポイントは何でしょうか。悔い改めなければ、人々は地獄から出られません。

しかし、私たちが今日の箇所から学んだのは、自分の心を固くし続けると、どれほど苦しみを味わっても、決して悔い改めることはないという現実です。

地獄にいる人々は、まさにそのような者たちです。

ですから、もしあなたが今なお神様に背を向けているなら、どうか今のうちに悔い改めてください。神様は、あなたが地獄に入ることを望んではおられません。

あなたがその罰を受けることがないように、神様はご自身のひとり子であるイエス様をこの世に送られました。そして十字架の上で、イエス様はあなたの罰を身代わりとして受けてくださいました。

あなたがすべきことはただ一つ。イエス様を、自分の主、そして救い主として受け入れることです。

神様は、あなたにこう語りかけておられます。

わたしは悪しき者の死を喜ぶだろうか。。。

彼らがその生き方から立ち返って生きることを喜ばないだろうか。。。

だから立ち返って、生きよ。(エゼキエル書18:23、32)

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裁きと救いに現れる神様の栄光

私は何度も言いましたが、私たちは反キリストと向き合うと信じています。

私がわからないのは、七つの鉢から神の憤りが地に注がれるとき、私たちがまだこの地にいるかどうかということです。イエス様がもう一度この世に来られるとき、その七つの鉢は、この世の人々に対する神様の最後の裁きです(黙示録16:1)。

私の意見ですが、その時には、たぶん私たちはもうこの地にいないと思います。

以前は、イエス様が再臨されると、私たちが空中でイエス様に会って、すぐにこの地に戻ると考えていました。でも黙示録14〜15章を読んでから、私の意見は変わりました。

もしかすると、神の憤りが地に注がれるまで、私たちは待ち、その後にイエス様がとうとうオリーブ山に着かれるのかもしれません(ゼカリヤ書14:4)。

14章では、御使いが雲の上に座っておられる人の子のような方に呼びかけます。その方の頭には金の冠、手には鋭い鎌があります。

その方は誰でしょうか。おそらく、それはイエス様です。

そして、御使いが大声で叫びます。

あなたの鎌を送って、刈り取ってください。刈り入れの時が来ましたから。(黙示録14:15)

イエス様はそうされますが、イエス様は何を刈り取られるのでしょうか。

おそらく、イエス様はご自身に属する人々を刈り取られるのだと思います。最後の警告はすでに宣言され、ある人々はその警告に耳を傾けましたが、他の人々はそれを無視しました。

しかし今、時が満ちたので、イエス様はご自身の民を、ご自身とともにおられるために集められるのです。だから、この地に残されたのは、イエス様を拒絶した人々だけです。

その後、もう一人の御使いが天の神殿から出てきて、彼も鋭い鎌を持っています。そして、火をつかさどる権威を持つ別の御使いが祭壇から出てきて、鋭い鎌を持つ御使いに、その鎌を地に送るよう命じます。

その「祭壇」とはどの祭壇でしょうか。おそらく、それは8章に登場する祭壇のことです。そこでは、聖徒たちによる正義のための祈りが、神様の御前に立ち上りました(8:3–4)。

どうして私はそう思うのでしょうか。なぜなら、御使いが鎌を投げて地のぶどうを刈り集め、神の憤りの大きな踏み場に投げ入れたからです。

その時代、ぶどうは踏まれ、その汁が踏み場から流れ出ました。同じように、神様を拒絶した人々は踏みつけられ、その血が約三百キロメートルにわたって流れ、その深さは一〜二メートルに達するほどでした。それは非常に恐ろしい描写です。

15章では、私たちは14章の出来事をさらに詳しく知ることができます。

ヨハネは、火が混じったガラスの海のようなものを見ます。そのそばに、イエス様に刈り入れられたクリスチャンたちが立っています。その人々は獣に打ち勝った者たちです。

聖書の時代、海は悪や混沌の象徴と見なされていました。けれども、聖徒たちはすでに試練の火を通過しています。だから、彼らはモーセと子羊の歌を歌うのです。

主よ、全能者なる神よ。あなたのみわざは偉大で、驚くべきものです。諸国の民の王よ。あなたの道は正しく真実です。

主よ、あなたを恐れず、御名をあがめない者がいるでしょうか。

あなただけが聖なる方です。すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。あなたの正しいさばきが明らかにされたからです。(黙示録15:3-4)

その後、神殿が開かれ、七人の御使いが七つの災害を携えて神殿から出てきます。そして、七人の御使いたちは神の憤りが満ちている七つの金の鉢を手渡されます。そして、

神殿は、神の栄光とその御力から立ち上る煙で満たされ、七人の御使いたちの七つの災害が終わるまでは、だれもその神殿に入ることができなかった。(8)

その聖句は、私の心に深く響きました。

神様の栄光が救いによって現れることは、言うまでもありません。救われた人々の賛美を通して、その栄光を仰ぐことができます。

しかし、救いだけでなく、神様の裁きを通しても、神様の栄光は現れます。なぜでしょうか。その裁きには、神様が愛だけではなく、正義の神であることが示されています。

もし神様が愛の神であるだけで、正義の神でないとしたら、果たして神様を「善い方」と言えるでしょうか。悪を決して罰しないなら、神様の善性を問われることになるでしょう。

神様は忍耐強いお方です。けれども、やがて必ず正義を実行されます。そのとき、神様の栄光と善良さがあらわになります。

ですから、神様のご性質を考えるとき、愛だけでなく正義もまた、神様のご性質であることを心に留めておきましょう。

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最後の警告

このブログで私は何回も言いましたが、神様は忍耐強い方です。でも、その忍耐は永遠に続くわけではありません。

今日の箇所では、その忍耐が尽きるところです。

6節で、一人の御使いが中天を飛びながら、あらゆる国民、部族、言語、民族に最後の福音の宣言をします。彼は大声でこう言います。

神を恐れよ。神に栄光を帰せよ。神のさばきの時が来たからだ。天と地と海と水の源を創造した方を礼拝せよ。(黙示録14:7)

それが文字通りの御使いかどうかは、ちょっとわかりません。もしかしたら、その御使いは、福音を全世界に宣べ伝えて、すべての民族に証しするクリスチャンたちを象徴しているのかもしれません(マタイ24:14)。

でも、文字通りの御使いから伝えられるにしろ、普通のクリスチャンたちから伝えられるにしろ、とにかく、人々は福音を聞く最後の機会を得ます。

でも、その福音の宣言には、警告が付いています。

「今、悔い改めて、神様に向かわなくてはなりません。神様の忍耐が尽きてしまって、裁きが迫っています。だから今のうちに神様を恐れなさい。神様に栄光を帰せよ。神様を礼拝しなさい。」

その後、さらに二人の御使いたちが、もっと至急な警告を宣言します。

倒れた、倒れた、大バビロンが。御怒りを招く淫行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた都が。(黙示録14:8)

その警告は後の出来事への伏線となります。バビロンはかつて偉大な帝国でした。でも、その帝国はいろいろな偽の神々を礼拝し、真の神に背を向け、この悪の世界と霊的な姦淫を犯しました。

ヨハネは、たしかバビロンをローマの象徴と見なしたと思われます。私たちにとっても、バビロンとローマは神なき社会の象徴です。その社会から反キリストが現れます。

でも、御使いが叫んだのは、バビロンがすぐに倒れるということではなく、むしろ、バビロンがすでに倒れたということです。つまり、バビロンはまだ生きているように見えても、実際にはもう死んでいるのです。そしていずれ、すべての人々がそれを悟るようになります。

そして、第三の御使いが最後の警告を宣言します。

もしだれかが獣とその像を拝み、自分の額か手に刻印を受けるなら、その者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた、神の憤りのぶどう酒を飲み、聖なる御使いたちと子羊の前で火と硫黄によって苦しめられる。

彼らの苦しみの煙は、世々限りなく立ち上る。獣とその像を拝む者たち、また、だれでも獣の名の刻印を受ける者には、昼も夜も安らぎがない。(9-11)

言い換えると、あなたは中立的な立場をとることができません。あなたは神様の味方かサタンの味方を選ばなくてはいけません。あなたは神様を礼拝しなくてはならないか、獣を礼拝しなくてはなりません。

でも、もし獣を礼拝すると、神様のすべての怒りがあなたに注がれます。

多くの人々は地獄という概念を嫌います。彼らは、愛の神が人々を永遠の苦しみの場所に送ることを信じられません。でも、その御使いの言葉は、はっきりしています。そういった人々には昼も夜も安らぎがありません。むしろ、彼らは永遠に苦しみます。

なぜ彼らは地獄で苦しまなくてはならないのでしょうか。

第一の理由は、私たちは永遠の存在として造られたということです。疑問は、私たちが永遠に生きるかどうかではなく、私たちがどこに存在するかです。

第二の理由は、人々が神様を自分の王として受け入れない場合、神様から遠く離れなくてはならないということです。なぜなら、彼らは神様の近くにいたくないからです。でも、神様から離れること自体が地獄なのです。

あなたはどう考えるでしょうか。この世の情勢を見てみましょう。私たちは、神様を自分の王として認めない世界に生きようとしてきました。その結果は何でしょうか。殺人、レイプ、テロ、さまざまな悪。

私たちの実験は大失敗です。

さらに、神様が今もここにおられ、人々の人生の中で働いておられるため、この世にはまだ良いものが残っています。愛、親切さ、赦し。

でも、もし神様がまったくここにおられないとしたら、この世界はどれほど恐ろしい場所になるでしょうか。そんな世界こそが地獄です。

でも、私たちは地獄に行く必要はありません。十字架において、イエス様は私たちのために神様の怒りを受けました。イエス様は神の怒りの杯を飲まれたので、私たちはその怒りを受ける必要がありません。

しかし、イエス様を拒絶すれば、あなた自身がその杯から飲まなくてはなりません。

あなたはどうされますか。

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神様に属する私たち

第7章では、不信者が裁かれる前に、十四万四千人のクリスチャンが神様の印を受け、守られました。

第13章では、獣に属する者たちが獣の印を受けました。そして、その印を受けなかった者たちは迫害されました。

つまり、神様の印を受けた者たちは神様の怒りから守られましたが、獣の怒りを受けたのです。

だから私たちは、自分自身に問いかけなくてはなりません――「迫害を受ける甲斐があるのだろうか」と。

多くの人にとって、「はい」と答えるのは容易ではありません。迫害を好む人など、誰もいないからです。

しかし、神様に忠実に従い、忍耐を保つなら、どうなるでしょうか。第14章に、その答えが記されています。

今日の箇所では、14万4千人がもう一度登場します。私は以前言いましたが、たぶん、その14万4千人は、特別なクリスチャンたちではなく、すべてのクリスチャンを象徴します。そして、7章と14章によれば、天の父の名前と子羊の名前が彼らの額に封印されます。

7章では、彼らは来たる試練に心構えをしていました。でも、14章では、彼らはすでに試練の火を通りました。その時、彼らは何をするでしょうか。

彼らは、自分が受けた迫害について文句を言っているのでしょうか。彼らは、どうして神様がその試練を許したのか、神様に問いただしているのでしょうか。違います。

むしろ、彼らは新しい歌を歌っています。その歌を学ぶことができたのは、彼らのほかには誰もいませんでした。

どうしてでしょうか。御使いたちや4つの生き物、長老たちは、その言葉やメロディーを学ぶことができたかもしれませんが、彼らは14万4千人の試練を経験していませんでした。だから、彼らは救いの喜びを本当に理解することができないのです。でも、神様の民はその喜びをよく理解することができます。

4節によれば、彼らは女に触れて汚れたことがない者たちで、童貞です。でも、彼らが文字通りの童貞ではないと思います。むしろ、その言葉は、彼らがイエス様に忠実であることを意味します。

私たちクリスチャンはキリストの花嫁であり、獣に従ってはなりません。むしろ、私たちが迫害されても、イエス様に忠実に従い、清い心を保つべきです。

そして、忠実な花嫁として、私たちは子羊が行く所にはどこへでもついて行きます。

だから、私たちはもう一度訓戒を受けます。

ここに、聖徒たち、すなわち神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける者たちの忍耐が必要である。。。

「書き記せ、『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである』と。」

御霊も言われる。「しかり。その人たちは、その労苦から解き放たれて安らぐことができる。彼らの行いが、彼らとともについて行くからである。」(黙示録14:12-13)

あなたはどうですか。あなたは現在の苦しみだけではなく、来たる栄光をも見ることができるでしょうか。そうできないなら、あなたが試練に直面するとき、また反キリストに直面するとき、しっかり立つのは難しいことです。

だから、以前の記事で私が言ったように、イエスから目を離してはいけません。なぜなら、イエス様は苦しみに直面しても、ご自分の前に置かれた喜びに照準を合わせたからです。そういうわけで、イエス様は私たちが同じことをするのを助けることができます。

だから、パウロの言葉を覚えていましょう。

今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ8:18,26-28)

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知恵と思慮の必要性

今日の記事では、第二の獣について取り上げます。

この獣は地から現れ、子羊の角に似た二本の角を持っていますが、竜のように語ります。つまり、彼は神の子羊のように清く見えるものの、実際にはサタンの言葉を語るのです。

第一の獣は暴力を用いて、人々を従わせようとしました。けれども、第二の獣は欺瞞を使います。言葉だけでなく、奇跡も行います。しかし、結果は同じ——聖徒たちが迫害されるのです。

そして、中立的な立場は存在しません。あなたは獣の印を受けるか、神様の印を受けるか、いずれかを選ばなければなりません。

獣の印を受ければ、この世において通常通りに暮らし、必要なものを売り買いすることができます。ところが、神様の印を持っているなら、あなたは迫害を受けることになるのです。

そういうわけで、獣の印が文字通りの印なのかどうかは分かりません。クリスチャンの皆は神様の印を持っていますが、その印は誰の目にも見えません(7:3-4)。

ですから、もしかすると獣の印も目に見えるものではないのかもしれません。時が来れば、私たちはその印が何であるかを知ることになるでしょう。

では、今日の箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。あなたは迫害に備えて心構えをしているかもしれません。でも、欺瞞に対しても用心しているでしょうか。

イエス様はこう言われました。

偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうと、大きなしるしや不思議を行います。(マタイ24:24)

第二の獣は、最後の偽預言者です。

では、どのようにして私たちは彼と反キリストを識別することができるでしょうか。

ヨハネは、私たちには知恵と思慮が必要だと言っています(黙示録13:18)。

ヨハネによれば、第一の獣の番号は六百六十六です。聖書学者たちはその意味について議論を重ねていますが、依然として分かりにくいものです。だからこそ、私たちには知恵と思慮が必要なのです。🙂

私の意見ですが、こう考えています。聖書において「7」は「完全さ」を象徴します。したがって「777」は三位一体なる神様を表す数字です。

それに対して、「6」は「不完全さ」を象徴します。竜と二頭の獣は神様を真似ようとしますが、実際には不完全な偽物なのです。

私たちが知恵と思慮を得るためには、真の神様を知る必要があります。そうすることで、偽物を見分けることができるようになるのです。

あるクリスチャンは、自分にはそのような知恵や思慮は必要ないと思っています。なぜなら、反キリストが現れる前に、神様が彼らを天に引き上げてくださると信じているからです。

しかし、忘れてはならないのは、最後の反キリストや偽預言者が現れる前にも、別の反キリストたちや偽預言者たちはすでに登場するということです。

そして、第二の獣のように、彼らは子羊のように見えます。私たちと同じ言葉で語り、似たようなふるまいをします。ところが、実際には獰猛な狼なのです。私たちが彼らに惑わされないためにも、神様からの知恵と思慮が必要です。

あなたはどうでしょうか。

あなたは、ご自身の主とその言葉をどれほどよく知っているでしょうか。あなたは、偽物を見分けることができるでしょうか。

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忍耐と信仰の必要性

今日の箇所では、さまざまな出来事があり、聖書学者たちは例によってその意味を議論しています。

竜(つまりサタン)と共に、二頭の獣が現れます。今回の記事では、最初の獣について取り上げ、次回のブログで二頭目の獣について扱います。

第一の獣は海から現れます。それは不思議な存在で、ダニエル書第7章に出てくる四頭の獣の特徴を併せ持っています。

竜の力を授けられたこの獣の七つの頭のうち一つは致命的な傷を負って死にましたが、その傷が癒え、世界の人々は驚きました。その結果として、世界の人々はこの獣と、それに力を与える竜を拝むようになります。

では、この幻の意味は何でしょうか。

ダニエル書では、四頭の獣がバビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマの各帝国を象徴しています。

ある程度、黙示録に登場する第一の獣は、それら四つの帝国に似た性質を持っています。これらの帝国は次々に現れては滅び、別の帝国に取って代わられました。

けれども、その結果はいつも同じでした。すなわち、竜を礼拝する新たな帝国が登場し、神の民を迫害するのです。

このように、黙示録において獣に従う者たちは竜を礼拝し、神の民に敵対します。

興味深いことに、黙示録第17章では、その獣が「昔はいて今はいないが、やがて底知れぬ所から上って来るもの」と描写されています(17:8,11)。

もしかすると、ヨハネはかつて獣を見たが、この書を書いた時点ではその獣がすでに滅びていたことを示しているのかもしれません。つまり、ヨハネは過去の皇帝、ネロについて言及している可能性があります。

いずれにせよ、ヨハネによれば、その皇帝は致命的な傷を受けたものの、いつか別の皇帝が現れ、ネロのように神を冒涜し、神の民を迫害するのです。

ヨハネがそのような意図を持っていたとすれば、獣は単一の人物ではなく、歴史の中に登場した多くの人々を象徴していることになります。ヨハネ自身、「キリスト教が始まってから、多くの反キリストがすでに現れている」と述べています(第一ヨハネ2:18)。

これらの反キリストたちは現れ、死に、そして新たな反キリストが再び登場します。そのパターンは何度も繰り返されてきました。

しかし、ヨハネによれば、最終的な反キリストが現れます。そして、かつての反キリストたちと同様に、人々を竜を礼拝するように導きます。

おそらく、その反キリストは「サタンを礼拝せよ」と直接は言わないでしょう。けれども、かつてのローマ皇帝のように、彼は救い主として人々に礼拝されるのです。なぜなら、一時的な平和と繁栄をこの世にもたらすからです。

ところが、人々は、自分が実際にはサタンの代理者に従っていることに気づいていません。

おまけに、反キリストは神様を冒涜し、多くのクリスチャンが迫害されます(7)。

第7〜8節によれば、クリスチャンでない者たちは喜んで獣に従います。言い換えれば、クリスチャンを迫害し殺害することが、政治的に正しいとみなされる時代になるのです。

それでは、今日の箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。私たちが第一の獣に直面する時、彼は私たちを激しく虐げるでしょう。だからこそ、ヨハネは私たちに警告を与えているのです。

捕らわれの身になるべき者は捕らわれ、剣で殺されるべき者は剣で殺される。ここに、聖徒たちの忍耐と信仰が必要である。(黙示録13:10)

その言葉は、スミルナにある教会の人々に対するイエス様の言葉に似ています。だからこそ、おそらく彼らがこれらの言葉を読んだ時、それは心に深く響いたことでしょう。

しかし、10では、ヨハネは私たちすべてに語りかけておられます。

「心構えをしなさい。迫害は来ます。でも、忍耐と信仰を保ちなさい。そうすれば、あなたたちはいのちの冠を与えられます。また、あなたたちは決して第二の死によって害を受けることはありません。」

このメッセージを私は何度も繰り返してきたので、あなたの耳にはタコができているかもしれません。でも、私たちが反キリストに直接直面しなくても、他者による迫害を受ける可能性はあります。家族や友人、隣人、同僚、そして政府ですら、私たちを迫害するかもしれません。

アメリカでは、クリスチャンたちはこうしたことを経験し始めています。日本の歴史においても、クリスチャンたちは迫害を受けました。今は想像できないかもしれませんが、その時は再び訪れる可能性があるのです。

だから、気持ちを引き締めましょう。信仰を保ちましょう。そして、忍耐を保ちましょう。もしかすると、神様は私たちが迫害を経験するように召しておられるのかもしれません。

それでも、もし迫害を受けるなら、忘れないでください——イエス様はすでに私たちのために迫害を受けておられます。

だからこそ、『へブル人への手紙』の著者は次のように語っています。

信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。

この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。(へブル12:2-3)

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打ち倒された敵、怒りに燃える敵

なぜ私たちは苦しまなくてはならないのでしょうか。なぜ迫害されなくてはならないのでしょうか。なぜ神様はそのような苦難を許されるのでしょうか。

もしあなたが私と一緒に黙示録を読んでいて、特にこのブログを読む前に反キリストと向き合うことはないと思っていたなら、なぜ私がそれを信じているのか不思議に思うかもしれません。

正直に言えば、反キリストが来る前に神様がクリスチャンを天に引き上げてくださったらいいのにと思います。でも、黙示録、特に今日の箇所を読むと、私たちが反キリストを避けられると信じることはできません。

今日の箇所では、私たちはマリアがイエス様を生んでからのキリスト教の歴史を大観します。ヨハネはこう語りました。

また、大きなしるしが天に現れた。一人の女が太陽をまとい、月を足の下にし、頭に十二の星の冠をかぶっていた。女は身ごもっていて、子を産む痛みと苦しみのために、叫び声をあげていた。(黙示録12:1-2)

私はさっきマリアの名前に触れたので、あなたは上記の女がマリアだと思うかもしれません。でも、たぶんマリアはその女ではありません。

ヨハネが太陽や月や十二の星について語るとき、彼は旧約聖書に出てくるヨセフの夢に言及している可能性があります。その夢では、太陽と月と星はヨセフの父ヤコブ(別名イスラエル)、母、そして十一人の兄弟を象徴していました。そして、その夢で彼らはヨセフを拝みました(創世記37:9ー10)。

そういうわけで、その妊婦はイスラエルという国を象徴していると思います。そこから、私たちのメシアであり王であるイエス様がお生まれになりました。

しかし、イエス様が人間としてこの世におられる間、サタンを象徴する竜はイエス様を滅ぼそうとしました。例えば、サタンの影響を受けたヘロデ王がベツレヘムの赤ちゃんたちを殺したという出来事があります(マタイ2:16ー18)。

そして、十字架でイエス様は殺されました。けれども、その後、イエス様は復活し、天に戻られました。

それを見た後、ヨハネは天にある戦いを目にします。その戦いで、サタンとその使いたちは天から追放されました。そこでサタンは地に降り、女(つまりイスラエル)を追い詰め、滅ぼそうとしました。

私ははっきりとは分かりませんが、これは西暦70年のエルサレム崩壊を指している可能性があります。そのときサタンはイスラエルを滅ぼそうとしましたが、すべてのユダヤ人が殺されたわけではありません。

特に、ユダヤ人のクリスチャンたちはイエス様の警告(マタイ24:15-21)を覚えていて、ローマ軍の攻撃前にエルサレムから避難しました。

サタンはイスラエルを完全に滅ぼし、ユダヤ人たちを皆殺しにすることができなかったため、女の子孫の残りの者たちを殺そうとしました。その「女の子孫の残りの者」とは誰を指すのでしょうか。

それは、アブラハムの肉体的な子孫ではありません。むしろ、彼らは「神の戒めを守り、イエスの証しを堅く保っている者たち」です。(17)

言い換えると、その子孫とは教会のことです。ユダヤ人でも異邦人でも、イエス様を信じる私たちクリスチャンは、真のイスラエルの子孫とされました(ガラテヤ3:29)。

では、なぜサタンは私たちに激しい怒りを燃やしているのでしょうか。なぜそれほど私たちを滅ぼそうとしているのでしょうか。

ヨハネはその理由を説明します。

悪魔が自分の時が短いことを知って激しく憤り(ます)。(12)

悪霊たちは天から追放され、天にいる者たちは歓喜します。けれども、ヨハネは地上の人々に警告を与えます。

しかし、地と海はわざわいだ。悪魔が自分の時が短いことを知って激しく憤り、おまえたちのところへ下ったからだ。(12)

では、この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

第一に、私たちはすでに打ち倒された敵に直面しているということです。サタンはそれを知っていて、自分の時が短く、やがて裁かれることも理解しています。

第二に、その時が来るまでは、サタンは怒りを持って私たちを襲ってくるということです。だから、これまで見てきたように、そして後の箇所でも見るように、あるクリスチャンたちはイエス様のために殺されます。

それでも、私たちは最終的な勝利を手にします。サタンは私たちのからだを殺すことがあっても、私たちの魂を滅ぼすことはできません。だからこそ、サタンが天から追放されたとき、大きな声がこう天で叫びました。

今や、私たちの神の救いと力と王国と、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、昼も夜も私たちの神の御前で訴える者が、投げ落とされたからである。(10)

つまり、イエス様の十字架の御業によって、サタンはもはや私たちを責める権利を失ったのです。だからサタンが私たちを責めようとしても、神様は彼を黙らせてくださいます。

さらにヨハネによれば、私たちは一時サタンに敗れることがあっても、結局、

兄弟たちは、子羊の血と、自分たちの証しのことばのゆえに竜に打ち勝った。彼らは死に至るまでも自分のいのちを惜しまなかった。(11)

サタンは私たちを襲い、命を奪うかもしれません。それでも、私たちは最終的な勝利を手にします。

なぜなら、イエス様は十字架で私たちのためにすでに勝利を収められたからです。そして、私たちのいのちと死を通して、私たちは神様が私たちの心を新しくしてくださったことを証し、サタンが私たちを責める権利をもはや持っていないことを証明するのです。

それゆえ、天とそこに住む者たちよ、喜べ。(12a)

私たちはすでに勝利を手にしているのです。

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ヨハネの黙示録

悪化の末に、救い

私は以前も言いましたが、私たちは聖書の深海に入っていて、これからその海はさらに深くなっていくでしょう。😊

クリスチャンたちはこの章の解釈をめぐってよく議論します。

だから、私は以前にも言ったように、とりあえず私の意見を述べますが、後にその意見が変わるかもしれません。

今日の箇所では、ヨハネは測り竿を与えられ、神殿と祭壇を測り、礼拝している人々を数えるよう命じられます。

しかし、御使いはヨハネにこう言います。

神殿の外の庭はそのままにしておきなさい。それを測ってはいけない。それは異邦人に与えられているからだ。彼らは聖なる都を四十二か月の間、踏みにじることになる。(黙示録11:2)

それはどういうことでしょうか。

たぶん、御使いはルカ21:24にあるイエス様の言葉に触れているのかもしれません。その箇所で、イエス様はエルサレムが倒れることを預言されました。

西暦70年に、その預言は成就しました。

多くのクリスチャンたちが考えるのは、その預言が西暦70年の出来事だけではなく、将来の出来事にも触れているということです。そうであれば、将来エルサレムに新しい神殿が建てられるはずです。

でも、もう一つの可能性があります。それは、西暦70年の出来事が将来の出来事の象徴であるということです。

つまり、神殿や聖なる都(つまり、エルサレム)は神様の民を象徴しています。(第一コリント3:16-17;黙示録21:2)

そして、多くのクリスチャンたちは神様に守られますが、他のクリスチャンたちは迫害されます。

私たちはすでに読みましたが、それは黙示録に繰り返し現れるテーマです。

そして、12-13章でそのテーマは再び現れます。(また、ダニエル書7:21および12:7でもそのテーマを見ることができます。)

黙示録では、1260日間や、一時と二時と半時の間という言葉が繰り返し登場します。それらは同じ意味を持っています。つまり、神様の民は三年半ほど苦しむということです。

それは、文字通りの三年半かもしれません。でも、比喩的な数字かもしれません。聖書では、「7」が「完全さ」を表します。

だから、私たちの苦しみは完全なものではなく、短くされるのです。イエス様によれば、神様に選ばれた者たちのために、大きな苦難の日数は少なくされます。(マタイ24:22)

いずれにせよ、ヨハネによれば、将来二人の証人たちが現れ、この世の人々に神様の裁きと救いを宣言します。

クリスチャンたちはその意味についてもよく議論します。

ある人々は、その二人が文字通りの二人の証人だと考えます。ですが、他のクリスチャンたちは、その証人たちが教会全体を象徴すると考えています。

私の意見ですが、その二人は教会全体を象徴していると思います。なぜなら、その二人は、二本のオリーブの木、また二つの燭台に例えられているからです。(黙示録11:4)

そして、2-3章で、教会は燭台に例えられました。

さらに、預言者ゼカリヤによれば、二本のオリーブの木は支配者と祭司を象徴しています。(ゼカリヤ3-4章)

そして、黙示録では、教会はその二つの役割を果たしています。(1:6;5:10)

いずれにせよ、三年半の激しい迫害の間、その証人たちは預言します。しばらくの間、神様は彼らを守り、彼らを通して人々を裁きます。

けれども、その三年半が過ぎると、獣、つまり反キリストが彼らを殺します。そのとき、この世の人々は喜びます。

なぜなら、その証人たちは彼らの説教によってこの世の人々を苦しめ、彼らの祈りによって人々は裁かれていたからです。(黙示録11:5-10)

ヨハネがキリスト教の長い歴史におけるすべての殉教者について語っているのか、それとも将来の殉教者たちについてだけ語っているのかは分かりません。

6節を読むと、私たちはモーセとエリヤを連想するので、もしかすると象徴的な描写であり、二人の証人がすべての殉教者を象徴しているのかもしれません。

とはいえ、それが文字通りの記述だとすれば、おそらく将来の出来事を指しているのでしょう。

ただ、5節によると彼らの口から火が出るため、やはり象徴的な表現なのかもしれません。

いずれにせよ、三日半が過ぎると、神様は彼らの敵の目の前で証人たちを復活させ、天に引き上げられます。

もしその証人たちが教会全体を象徴しているのであれば、ヨハネはキリストの再臨に触れているのかもしれません。その日、神様は死んだクリスチャンのからだを復活させ、私たちは空中で主に会うのです。(第一テサロニケ4:17)

それが私の見解です。なぜなら、その後に七つのラッパが吹かれ、多くの人々が叫びをあげるからです。それは、

この世の王国は、私たちの主と、そのキリストのものとなった。主は世々限りなく支配される。(黙示録11:15)

そして、長老たちは歌い始めます。

私たちはあなたに感謝します。今おられ、昔おられた全能者、神である主よ。あなたは偉大な力を働かせて、王となられました。諸国の民は怒りました。

しかし、あなたの御怒りが来ました。死者がさばかれる時、あなたのしもべである預言者たちと聖徒たち、御名を恐れる者たち、小さい者にも大きい者にも報いが与えられる時、地を滅ぼす者たちが滅ぼされる時です。(17-18)

その後、天にある神の神殿が開かれ、ヨハネは神の契約の箱を神殿の中に見ました。

そして、裁きが始まり、稲妻がひらめき、雷鳴がとどろき、地震が起こり、大粒の雹が降りました。

では、今日の箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

それは、神様の民にとって、物事は段々と悪化するということです。

福音書で、イエス様は私たちにこのことを警告されました。さらに、イエス様は黙示録に登場する7つの教会にも警告されました。そして、今日の箇所でもイエス様は同じ警告を私たちに与えておられます。

迫害は必ず訪れます。けれども、その迫害は永遠に続くものではありません。迫害は短くされます。

そして、イエス様がもう一度この世に来られるとき、私たちは救われます。

やがて、神の正義が訪れます。 もし私たちが迫害に耐えるなら、救われ、大きな報いを受けます。 そして、その日に、私たちのすべての涙はぬぐい取られます。

なぜ私はこのテーマを何度も繰り返すのでしょうか。 それは、このテーマが黙示録全体を貫いているからです。 私たちはすでに以前の箇所で読みましたし、今日の箇所にも登場しました。 そして、この書の後半にも現れます。

では、なぜ神様はこのテーマを何度も繰り返されるのでしょうか。 きっと、私たちの苦しみが激しくなっていくからです。 そして、その苦しみに耐えることは、とても難しいからです。

しかし、神様が私たちに伝えたいのは、「その苦しみは一時的なものだ」ということです。

ですから、黙示録の後半でも、このテーマを探してみましょう。

黙示録の目的は、私たちに未来の出来事を知らせることだけではありません。 神様が望まれるのは、私たちが心構えすることだけではありません。 むしろ、神様は私たちに希望を与えたいと願っておられます。

どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。(ローマ15:13)

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ヨハネの黙示録

甘い言葉、苦い言葉

前回の記事では、天にいる者たちが神様の裁きにどう反応したかについて取り上げました。それは喜びではなく、厳かな沈黙でした。

普段、天にいる者たちは喜びと賛美に満ちていますが、第七の封印が解かれると、彼らは静かになりました。

では、私たちは神様の裁きをどう受け止めるべきでしょうか。

十章の冒頭では、ひとりの強い御使いが天から下り、小さな巻物を持っていました(黙示録10:1〜2)。

その巻物には何が書かれていたのでしょうか。おそらく、十一章から二十二章に記されている内容、すなわち教会の迫害、キリストの再臨、神様の最終的な裁きが含まれていたと考えられます。

その御使いは右足を海に、左足を地に置いて立っていました。興味深いのは、十三章に登場する二匹の獣(反キリストと偽預言者)が、海と地から現れ、サタンとともに悪の「三位一体」を形成する点です。

しかし、その御使いは海と地の上に立ち、神様の栄光に輝いていました。おそらく、この描写は、サタンが何をしようとも、神様こそがすべてを支配しておられることを示しています。そして、それは裁きが近づいていることも示しています。

そこでヨハネによれば、七つの雷がそれぞれ声を発しました。おそらく、それは裁きのことばでしょう。けれども、そのとき、ヨハネはその裁きのことばを私たちに伝えることを禁じられました(3〜4節)。

その後、御使いはこう宣言します。「もはや時は残されていない」(6節)。

言い換えると、第七の御使いが最後のラッパを吹くとき、神様の最終的な裁きが下り、神様の計画すべてが実現されます。そして、イエス様はヨハネに語られます。

行って、海の上と地の上に立っている御使いの手にある、開かれた巻物を受け取りなさい。(黙示録10:8)

ヨハネがそうしてから、御使いは彼に言います。

私にその小さな巻物を下さい。。。それを取って食べてしまいなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。(黙示録10:9)

ヨハネがその巻物を食べると、御使いが言った通りに、その巻物はヨハネの口には甘かったが、腹には苦いものでした。そして、御使いはヨハネに言いました。

あなたはもう一度、多くの民族、国民、言語、王たちについて預言しなければならない。(11)

これはどんな話でしょうか。

エゼキエル書2〜3章では、私たちは似た話を読みます。エゼキエルが巻物を与えられ、それを食べると、その巻物はエゼキエルの口に蜜のように甘いものでした。そして、神様はエゼキエルに、その巻物の言葉をイスラエル人たちに伝えるように命じられました。

けれども、その書かれていた言葉は、嘆きと、うめきと、悲痛の言葉でした。さらに、神様はエゼキエルに警告されました。「イスラエル人たちはあなたの言うことを聞こうとはしません。」

それで、エゼキエルは自分の霊の憤りを覚えつつ、苦々しい思いで出て行きました。(エゼキエル3:14)

どうしてエゼキエルは怒り、苦々しい思いを持っていたのでしょうか。もしかしたら、彼はイスラエル人の反応に怒っていたのかもしれません。あるいは、自分が愛しているイスラエル人がすぐに裁かれると知っていたため、苦々しい思いを持っていたのかもしれません。

たぶん、ヨハネはエゼキエルのように感じたのかもしれません。

ヨハネが神様の言葉を摂取すると、いつも通りその言葉は彼に甘いものでした。

生きておられる神様が私たちに語られ、神様のご計画を伝えられます。つまり、救いのご計画を伝えられ、その計画に私たちが参加するのは特権です。

けれども、私たちの愛している人々がその甘い言葉を拒絶し、私たちが彼らが必ず裁きを受けると知っているなら、それはさぞ苦いことでしょう。

クリスチャンとして、私たちは裁きをそのように見なすべきです。裁きは甘いものではなく、苦々しいものです。

特に、私たちの愛している人々が裁きを受けることは、苦々しいことです。

それでも、心に留めておきましょう。神様にとっても、裁きは苦々しいことなのです。なぜなら、神様はすべての人々を愛しておられるからです。

時々、私たちはルカの福音書第19章のような聖句を読んで(ミナのたとえ話)、神様がご自分の敵が滅びることを喜ばれると考えてしまいます。(ルカ19:27)

しかし、私たちが忘れがちなのは、そのたとえ話を語られた後、イエス様がエルサレムの外に立ち、迫っている破壊について嘆かれたということです。

イエス様はこう言われました。

もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたらーー。(ルカ19:42)

だから、神様が人を裁かれるとき、私たちは彼らの破壊を喜んではいけません。

むしろ、私たちは悲しむべきです。

そして、彼らが神様の裁きを受けないように、ヨハネとエゼキエルのように、彼らのために祈り、愛をもって、彼らに手を伸ばしましょう。

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ヨハネの黙示録

神の裁きの重大さ

神様や天にいる者たちは、不義を見るとどう感じるのでしょうか。そして裁きが実行されるとき、彼らはどう感じるのでしょうか。

今日の箇所では、私たちはその答えを知ります。

天国では、普段、御使いたちや長老たちや聖徒たちの賛美が響いています。けれども、子羊(つまり、イエス様)が第7の封印を解くと、天国は完全に静かになりました。どうしてでしょうか。彼らは、裁きが迫っていることを知っていたからです。

もちろん、その前の封印が解かれたときも、裁きはこの世界の人々に降りかかりました。とはいえ、第7の封印が解かれてからは、裁きがだんだん激しくなっていきます。

そして、最初に、ある御使いが金の香炉を祭壇まで持ってきました。そして、御使いは、すべての聖徒たちの祈りに添えて、その香を捧げました。

聖徒たちは何のために祈っていたのでしょうか。たぶん、それは6章に記された祈りです。つまり、殉教者たちの正義のための祈りだったのでしょう。

そのとき、神様は彼らに、「もうしばらくの間、休んでいなさい」と言われました。

けれども、第7の封印が解かれると、正義の時が来ました。

7人の御使いたちが7つのラッパを与えられ、次々にそのラッパを吹き鳴らします。

ヨハネが用いた言葉はとても不思議で、比喩的なものなので、その意味を理解するのはなかなか難しいところです。

しかし、第1のラッパの後に現れた雹と火は、エジプトに降りかかった災いに似ています(出エジプト記9:23-25)。だから、たぶん、それらは文字通りの雹と火なのでしょう。ヨハネによれば、三分の一が焼かれ、木々の三分の一も焼かれ、すべての青草も焼き尽くされました。

三分の一という割合が、文字通りかどうかはわかりません。けれども、黙示録にはこの割合が何度も出てくるので、ヨハネが伝えたかったのは、そのダメージが非常に大きかったということかもしれません。

第2のラッパが吹かれた後、火で燃える大きな山のようなものが、海に投げ込まれました。もしかすると、それは火山だったのかもしれません。(西暦79年、イタリアのベスビオ山が噴火し、多くの船が壊れ、多くの魚が死にました。)

第3のラッパが吹かれた後、天から、たいまつのように燃えている大きな星が落ちて来て、川の三分の一とその水源の上に落ちました。その結果、水の三分の一が苦よもぎのようになり、多くの人が死にました。

それが文字通りの隕石なのか、別の原因で水が汚れたのかは、分かりません。でも、この災いも、エジプトに下った災いに似ています。あの時、ナイルの水は血に変わりました(出エジプト記7:20-24)。

御使いが第4のラッパを吹いた後、太陽の三分の一と、月の三分の一、また星の三分の一が打たれ、それらの三分の一は暗くなりました。昼の三分の一は光を失い、夜も同じようになりました。

以前も言ったように、たぶんこの割合は比喩的なものですが、その結果として、この世はさらに暗くなるのです。エジプトのように、昼間でも不思議に日が暮れてしまいます。

その後、物事はさらに悪くなっていきます。

鷲の言葉を借りるなら、三つの災いが来ようとしています(黙示録8:13)。

第5のラッパが吹かれると、地獄からいなごの群れが現れて、この世を荒らし始めます。この災いも、エジプトに下った災いに似ています(出エジプト記10:12-15)。

けれども、おそらくそのいなごは文字通りのいなごではなく、実際には悪霊のようです。

なぜ、私はそう考えるのでしょうか。

一つ目の理由は、そのいなごの王の名前がアバドン、またはアポリュオンであることです。どちらも、「破壊者」という意味を持っています。

二つ目の理由は、そのいなごが植物を荒らすことなく、人を襲って苦しめるという点です。

三つ目の理由は、そのいなごが神様に封印されていない人だけを襲うということです(黙示録7章)。

その後、第6のラッパが吹かれると、7章に登場した四人の御使いたちが、この世を荒らす許しを受けます。7章では、神様が彼らに、「待ちなさい。まず、私の民の額に印を押さなくてはなりません」と言われました。

しかし、8章では、聖徒たちの額にはすでに印が押されているので、天使たちはこの世を荒らし始めます。

おそらく、この第6のラッパは戦争を描写しているのでしょう。6章では、世界の人口の4分の一が殺されましたが、8章では、その数は人口の三分の一に増えます。

それでも不思議なのは、この深刻な六つの災いが起きても、人々が悔い改めることを拒み、むしろ罪を続けることです。

時々、ある人は疑問に思います。「どうして地獄は永遠なのか。地獄でも、悔い改めたいと思う人がいるのではないか」と。

けれども、今日の箇所と16章の証言は、はっきりと「それは誤った考え方です」と教えています。

地獄にいる人々がどれほど苦しんでも、悔い改めず、神様を呪い、自分の罪深い態度を持ち続けます。

だからこそ、七つの封印が解かれたとき、天にいる者たちは沈黙しました。

神様は人を裁くことを喜ばれるわけではありません。それでも、神様は正義の神です。ですから、神様は聖徒たちの叫びに応えられることを永遠に延ばすことはなさいません。神様は彼らの祈りを聞いて、裁きをもたらされます。

ですから、心に留めておきましょう。あなたがクリスチャンとして「正義はいつ来るのか」と疑問に思うなら、神様はあなたの叫びを聞いておられます。そして、正義は必ず来ます。

しかし、もう一つ覚えておくべきことがあります。神様の裁きを軽んじてはいけません。天にいる者たちは決して軽んじません。ですから、私たちも神様の裁きを軽んじてはいけません。

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ヨハネの黙示録

御怒りの日、誰が耐えられるか

6章の最後で、イエス様が第6の封印を解かれると、大変な出来事が起こります。この世の偉い人たちも庶民たちも、山々や岩に向かって叫びます。

私たちの上に崩れ落ちて、御座に着いておられる方の御顔と、子羊の御怒りから私たちを隠してくれ。神と子羊の御怒りの、大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。(黙示録6:16-17)

「だれがそれに耐えられよう。」

その答えは、7章に記されています。

ヨハネは4人の御使いたちを見ます。彼らは神様の裁きをこの世に実行しようとしています。しかし、もう一人の御使いが現れてこう言います。

私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を加えてはいけない。(黙示録7:3)

その言葉は、エゼキエル書にある言葉に似ています。その時にも、神様はご自身の民を裁こうとしていましたが、その前に、忠実な民をその裁きから守るため、彼らの額に印を押されました。(エゼキエル書9:3-7)

今日の箇所では、神様は、イスラエルの子らのあらゆる部族の十四万四千人の額に印を押されます。

聖書学者たちは、その十四万四千人が誰を指すのかについて、活発に議論しています。

私の意見ですが、おそらく、彼らは救われた人々全体を象徴しているのでしょう。

すなわち、12(イスラエルの部族——旧約の聖徒たち)×12(使徒たち——新約の聖徒たち)×1000(「完全」を意味する数字)=十四万四千。彼ら全体が、イエス様にある新しいイスラエルなのです。

では、なぜ私は、その十四万四千人が文字通りのユダヤ人だとは考えないのでしょうか。

最初の理由は、黙示録のイスラエルの部族のリストが、ヤコブの息子たちのリストと少し違うことです。(ダンは含まれておらず、代わりにヨセフの息子であるマナセが含まれています。)

また、黙示録のイスラエルの部族のリストは、カナンの地を受け継いだ部族のリストとも異なります。(ダンが省かれ、レビが含まれ、エフライムの代わりにヨセフが含まれています。)

さらに、現代のユダヤ人の部族的系統は完全に混ざっています。

こうした理由から、私はヨハネが文字通りのユダヤ人について語っているのではないと考えます。

また、私の意見ですが、その十四万四千人は7:9に登場する大群衆と同じ存在だと思います。その群衆は、すべての国民、部族、民族、言語から構成されており、御座の前と子羊の前に立って叫びます。

救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。(黙示録7:10)

一人の長老はヨハネに、その人々についてこう言います。

この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。

それゆえ、彼らは神の御座の前にあって、昼も夜もその神殿で神に仕えている。御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られる。彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も、彼らを襲うことはない。

御座の中央におられる子羊が彼らを牧し、いのちの水の泉に導かれる。また、神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。(黙示録7:14-17)

その長老は、何を言わんとしていたのでしょうか。

苦難の時は、必ずやって来ます。反キリストが現れると、キリストのために多くのクリスチャンが迫害され、殺されます。けれども、イエス様がスミルナにある教会に言われたように、その苦難は一時的なものです。(黙示録2:8-10)

私たちは、サタンとその反キリストの怒りに直面するかもしれませんが、神様からの印を受け、神様の御怒りとキリストの御怒りから守られます。

そして結局、私たちは神様の御前に立ち、永遠に神様に仕え、礼拝します。私たちはもはや苦しむことはなく、その日には、イエス様の御顔を仰ぎ見るのです。イエス様は、私たちに永遠の命を与え、すべての涙を拭い取ってくださいます。

それは、イエス様を信じる人たちの希望です。

だから、私たちには選択があります。私たちは神様の印を受け、サタンの怒りに直面するのでしょうか。それとも、私たちはサタンの印を受け、神様の御怒りに直面するのでしょうか。他の選択肢はありません。

あなたは何を選ぶでしょうか。

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ヨハネの黙示録

正義はいつ来るのか

前回の記事では、私たちは第五の封印をあえて飛ばしました。なぜなら、その封印は他のものとは性質が異なるからです。地上の裁きに関する他の封印と違って、第五の封印は天における出来事に焦点を当てています。

イエス様がこの封印を解かれると、ヨハネは祭壇の下に、イエス様のゆえに殺された人々の姿を見ます。そして彼らは、大声で叫びます。

聖なるまことの主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者たちに私たちの血の復讐をなさらないのですか。(黙示録6:10)

その人々とは誰でしょうか。おそらく、使徒の働き第7章に記されたステパノや、キリスト教の長い歴史の中で命を捧げた殉教者たち全体を指しているのでしょう。

彼らのことを考えると、「なぜ正義はまだもたらされないのか」「キリストのゆえに迫害される私たちは、なぜ神の正義を目にすることができないのか」と問いかけたくなるのは自然なことです。

そのような殉教者たちに対するイエス様の答えは、実に興味深いものです。

「あなたたちと同じように殺されることになる兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい」(黙示録6:11)

言い換えるなら、イエス様がこの世に再び来られるまで、迫害は続きます。その間、神様は忍耐をもって、迫害者たちを裁かれません。

なぜでしょうか。それは、できるだけ多くの人々が御国に入ることを、神様が待っておられるからです。(使徒の働き9:1〜19をご覧ください。サウロの物語がその例です。)

しかし、イエス様がもう一度来られるとき、神の正義はついに実行されます。

けれども、その日が来るまで、イエス様はご自身のために殺された人々に、平安と安らぎを与え続けてくださいます。

この世は、不公平なことだらけです。私たちは苦しみの中で、「なぜ私が苦しまなくてはならないのか」と問いかけたくなります。

ところが、イエス様は「苦難がない」と約束されません。むしろ、「あなたがたは苦難に遭う」と約束されるのです。(ヨハネ16:33)

そういうわけで、私は、反キリストが来る前にイエス様が私たちを天に迎えてくださるとは思いません。(とにかく、それが私の一つの理由です。)

けれども、私たちが苦しむときでも、心に留めておきましょう。最終的には、神の正義がもたらされます。

だからこそ、希望を持ち、イエス様の言葉を覚えて歩みましょう。

これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(ヨハネ16:33)

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ヨハネの黙示録

終わりの始まり

今日の記事から、私たちは聖書の深みに入っていきます。

この箇所に関する解説は数多く存在し、聖書学者たちは様々な見解を持って、しばしば議論を重ねています。ですので、まずは私の考えを述べますが、将来的にはその見解が変わる可能性もあります。

黙示録には、三種類の裁きが登場します。それらは、七つの封印、七つのラッパ、そして七つの金の鉢です。

ある学者によれば、これら三つの裁きは同時に起こるとされています。一方で、他の学者によれば、裁きは順番に展開するというのです。

どの説を信じるかに関わらず、明らかなのは、イエス様が来られるまで、この世の状態が徐々に悪化していくということです。

私の見解としては、これらの裁きは基本的には順番に進行しますが、ある部分では重なって起こることもあるかもしれません。

だから、七つの封印という裁きは、多分最後の裁きではないと思います。イエス様の言葉を借りれば、その七つの封印は、「産みの苦しみの始まり」だけです。(マタイ24:8)

実は、私たちはすでに、これらの裁きの始まりを目撃しているのではないかと思います。

イエス様は第一の封印を解かれ、白い馬が出てきます。その乗り手は、自らの敵に打ち勝とうとします(黙示録6:2)。

この白い馬とその乗り手は、おそらく十二弟子に語られたイエス様の言葉に関係があると思われます。すなわち──

「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり。。。」(マタイ24章7節)

こういった報道を、私たちは日々のニュースで頻繁に耳にします。

続いて、イエス様は第二の封印を解かれます。すると、火のように赤い馬が現れます。ヨハネによれば、その乗り手には地上から平和を奪うことが許され、人々が互いに殺し合うようになるのです(黙示録6:4)。

要するに、戦争の影響だけでなく、殺人も増えていきます。もちろん、歴史の中には多くの殺人事件が存在してきましたが、赤い馬が現れると、殺人は横行するようになるのです。

最近のニュースでも、そうした事例を頻繁に耳にすることでしょう。テロもあれば、集団殺人の報道も後を絶ちません。

さて、イエス様が第三の封印を解かれると、黒い馬が出てきます。その乗り手は量りを手に持っていました。そして、こう語りました。

小麦一コイニクスが一デナリ。大麦三コイニクスが一デナリ。オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない。(黙示録6:6)

それは飢饉の状態であり、わずかな食料にも多額の金が必要となります。とはいえ、飢饉があっても、オリーブ油やぶどう酒はなお豊かに残されています。つまり、状況は厳しいものの、まだ最悪の事態には至っていないということです。

イエス様の言葉によれば、飢饉は確かに起こりますが、それは「産みの苦しみの始まり」にすぎません(マタイ24章7~8節)。

そして、イエス様が第四の封印を解かれると、青ざめた馬が出てきます。その乗り手の名は「死」です。それには戦争、殺人、飢饉が含まれますが、さらに二つの要素も加わります。それは疫病と、野の獣による人への暴力です。

次回の記事では第五の封印について触れますが、ここでは第六の封印に先に進みましょう。ヨハネはこのように記しています。

子羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。

太陽は毛織りの粗布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。そして天の星が地上に落ちた。

それは、いちじくが大風に揺さぶられて、青い実を落とすようであった。

天は、巻物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山と島は、かつてあった場所から移された。(黙示録6:12-14)

それは文字通りに起こるのでしょうか。私には分かりません。

大きな地震はおそらく文字通りに起こるでしょう。一方、その他の描写は比喩的である可能性があります。それらの言葉は、地震の後に人々が抱く恐れを象徴しているのかもしれません。地震によって、この世全体が混乱に陥るからです。

日本では、1995年と2011年に、私たちは大震災を経験しました。それゆえ、これらの地震を経験した人が13~14節を読むと、「はい、まさにそのように感じました」と言うかもしれません。

では、この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

神学者のD・A・カーソンは次のように述べています。

私たちには、この世にある様々な問題が見えます。戦争、殺人、飢饉、地震、疫病。それらの原因を尋ねられると、私たちは科学的な説明や社会学的な分析を挙げることができます。

あるいは、「神様がそのような事態が起こることを許されたのです」と答えることも可能です。

どちらの答えもある種の真理を含んでいますが、より根本的なのはどちらでしょうか。

私たちが心に留めるべき真理は、この世の罪のゆえに、神の裁きが近づいているということです。私たちの目に映る世の問題――戦争、飢饉、疫病、地震、殺人――は、最終的な裁きの前触れに過ぎません。神様はそれらすべてを許しておられます。

なぜでしょうか。神様は、ただ人々を裁くことを喜んでおられるのでしょうか。

そうではありません。神様は、こうした問題を通して、人々がご自身のもとに逃げ込むことを望んでおられるのです。

もしこの世に何の問題もなければ、イエス様に向かう人はきっと少ないでしょう。なぜなら、自分にはイエス様が必要だと気づかないからです。けれども、神様の裁きによって、ある人々は自らの罪を見つめ、自分に救いが必要だと悟り、悔い改めるのです。

だからこそ、私たち自身に問うべき問いはこうです。「裁きを目にしたとき、私はどのように反応するのか。」

私たちは、その裁きに対する恐怖によって、ただ震えるだけでしょうか(黙示録6:15~16)。

もしかすると、私たちは神様を呪うことになるのでしょうか(黙示録16:9)。

それとも、悔い改めへと導かれるのでしょうか。

裁きはすでに迫っています。あなたは、準備ができているでしょうか。

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ヨハネの黙示録

神のご計画を成し遂げる方

数年前まで、私は黙示録の中心に福音があることに気づいていませんでした。

けれども、第1章で私たちが見たのは、黙示録が福音のメッセージから始まっているという事実です。今日の箇所でも、私たちは黙示録の核心が福音であることを見出します。さらに、黙示録の最後の章では、福音の完成が描かれています。

第4章では、天の父が御座に着いておられ、神がふさわしい礼拝と賛美を受けておられます。

けれども、第5章で、ヨハネは新たなことに気づきます。天の父の右手には巻物があり、その巻物の内側にも外側にも文字が記され、七つの封印で厳かに閉じられていました。

ローマ帝国の時代、遺言はそのように記されました。巻物の外側の文字には遺言の要点が記され、実際にその遺言を実行するためには、誰かが封印を解いて巻物を読み解かなくてはなりませんでした。

神の巻物には、神の御心と救済の計画すべてが記されていました。とはいえ、その封印がまだ解かれていなかったため、神の計画は実行に移すことができませんでした。その時、強い御使いが叫びを上げました。

巻物を開き、封印を解くのにふさわしい者はだれか。(黙示録5:2)

その反応は何だったでしょうか。 それは沈黙でした。

ちょっと考えてみてください。

神様の御座の回りには、24人の長老たちが座っていました。四つの生き物もいました。何万人もの御使いたちもいました。

地上にも、たくさんの素晴らしいクリスチャンがいました。たとえば、イエス様が特別に愛された弟子ヨハネは、まだこの世に生きていました。

他のクリスチャンたちは亡くなって、天にいました。ペテロやパウロも、すでに天にいました。

けれども、巻物の封印を解き、それを読むにふさわしい者は、誰ひとりいませんでした。

だから、ヨハネは泣き始めました。神のご計画が無駄になってしまうと思ったからです。その計画は読まれることもなく、実行されることもなく、永久に眠ってしまうと思いました。

ところが、長老の一人がヨハネに語りかけました。

泣いてはいけません。ご覧なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利したので、彼がその巻物を開き、七つの封印を解くことができます。(5)

ヨハネが目を上げたとき、彼はイエス様のお姿を見ることを予想していたかもしれません。あるいは、イエス様を象徴するライオンの姿を目にすることを予想していた可能性もあります。ところが、彼が目にしたのは子羊でした。それも、普通の子羊ではなく、屠られた姿の子羊でした。

もしかすると、ヨハネは多くのユダヤ人と同じように、メシアについて誤ったイメージを抱いていたのかもしれません。勝利を収めるメシアと聞いて、人々は国々を打ち破るライオンの姿を思い描いたことでしょう。

もちろん、イエス様はライオンです。けれども、イエス様が勝利を得る方法は、子羊として死なれることでした。イエス様はライオンであり、子羊なのです。

その子羊は七つの角を持っていました。これらの角は、イエス様の力を表しています。また、七つの目は、イエス様がすべてをご存知であることと、聖霊の臨在を表しています。まさにその力と御霊によって、イエス様は復活され、勝利を得られました(エペソ1:19〜20;ローマ8:11)。

とにかく、イエス様がその巻物を取られると、四つの生き物と24人の長老たちは、いつも歌っている賛美(4:8、11)を中断し、新しい歌を歌い始めました。

あなたは、巻物を受け取り、封印を解くのにふさわしい方です。(9a)

なぜ、イエス様はその巻物を受け取るにふさわしいお方なのでしょうか。

あなたは屠られて、すべての部族、言語、民族、国民の中から、あなたの血によって人々を神のために贖い、私たちの神のために、彼らを王国とし、祭司とされました。彼らは地を治めるのです。(9b-10)

この言葉によって、私たちは福音の全体像と、神様の永遠のご計画を見渡すことができます。イエス様の血によって、私たちは自分の罪から贖われ、神の民、国、そして祭司として立てられました。

そして、神様がすべてのものを新しくされるとき、私たちは永遠に神に仕え、新しい天と地を治めるのです。

こうして、天と地のすべての被造物が共に叫びます。

屠られた子羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です。。。

御座に着いておられる方と子羊に、賛美と誉れと栄光と力が世々限りなくあるように。。。アーメン。」(12-14)

それこそが、黙示録の中心的なテーマです。それは、福音と、その福音を実現した方—ライオンであり子羊である—を描いています。

この福音によって、私たちは希望を持っています。なぜなら、神様のご計画がすべて成し遂げられるという確信があるからです。

ですから、神様の御使いたち、そして天と地のすべての被造物と共に歌いましょう。「子羊は、ふさわしい方です。」

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ヨハネの黙示録

御座におられる王を讃える

ある英語の賛美歌には、「私は神様の友達です」と歌われています。また、ヨハネは、「私たちは神様の子供たちです」と宣言しています。(第一ヨハネ3:1)

もちろん、私たちは神様の友達であり、神様の子供たちです。 けれども、私たちが覚えておかなくてはならないのは、神様が私たちの王であるということです。だからこそ、神様は私たちの敬いや賛美にふさわしい方なのです。

今日の個所では、私たちは神様の御座の前に進み出て、王なる神様の栄光のすべてに目を向けます。

ヨハネは、他の預言者たちと同じように、神様の栄光を描写しようとします。けれども、それは極めて困難な試みです。ヨハネができるのは、神様の栄光を私たちに少しだけ垣間見せることです。彼は神様を、碧玉や赤めのう、そしてエメラルドにたとえています。(黙示録4:3)

もちろん、神様は宝石そのものではありません。けれども、神様の栄光は、比類なき逸品のように輝いています。

そして、ヨハネによれば

御座からは稲妻がひらめき、声と雷鳴がとどろいていた。(黙示録4:5)

イスラエルの民は、シナイ山でそのような経験をし、神様の力を目の当たりにしました。(出エジプト記19:16)

そして、御座の前には、「火のついた七つのともしびが燃えていた」と記されています。(黙示録4:5)

ヨハネの時代、王たちの権威を象徴するために、王座の前でともしびが燃えていました。しかし、ヨハネによれば、そのともしびは神の七つの御霊を象徴しています。私は以前の記事でも述べましたが、「七つの御霊」とは聖霊様のことです。

また、御座の前には、水晶のように輝くガラスの海が広がっていました。それは文字通りの海なのか、水晶に似たガラスのような道なのか、はっきりとは分かりません。いずれにしても、それを渡って神様に近づいていく姿を想像できるでしょうか。

ただし、神様に近づく前に、私たちは栄光に輝く他の存在の前を通らなくてはなりません。

例えば、二十四の座に座っている二十四人の長老たちがいます。

彼らが誰であるかについては、聖書の学者たちの間で議論が続いています。もしかすると、彼らは上位の天使たちかもしれません。

あるいは、イスラエルの12の部族と12人の使徒を象徴しているとも考えられます。その二つのグループが一つに結ばれ、神様の民全体を象徴しているのかもしれません。

彼らの白い衣は彼ら自身の聖さを象徴し、金の冠は彼らに与えられた権威を表しています。

二つ目のグループは、四つの生き物です。彼らはケルビム(エゼキエル書5:5–14、10章)のある特徴を持っており、また、セラフィム(イザヤ書6:2–3)のある特徴も持っています。(ケルビムとセラフィムは天使の種類です。)

この四つの生き物は上位の天使であり、後に神様の裁きを地上に実行します。ヨハネによれば、第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は飛んでいる鷲のようであった。(7)

もしかすると、これらの生き物は、神様を礼拝するすべての被造物を象徴しているのかもしれません。第一の生き物は野生の動物を、第二の生き物は家畜を、第三の生き物は人間を、そして第四の生き物は鳥類をそれぞれ象徴しているようです。

あるいは、獅子は神様の威光を、雄牛は神様の力を、人間は神様の知性を、鷲は神様の愛(出エジプト記19:4)を表しているのかもしれません。

しかし、何より印象的なのは、これらの偉大な存在が神様を拝んでいるということです。彼らは、昼も夜も休むことなく、言い続けていました。

聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者。昔おられ、今もおられ、やがて来られる方。(8)

彼らが賛美をささげる中で、二十四人の長老たちは、自らに与えられた権威の冠を神の御前に投げ出し、神を讃えて歌います。

主よ、私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。(11)

私たちは、今日の箇所から何を学ぶことができるでしょうか。

最も大切なのは、神様が私たちの友であり父であるだけでなく、私たちの王であるということです。神様は全能の方であり、私たちの礼拝にふさわしいお方です。

この真理を認めなければ、私たちは罪に陥ってしまいます。

第二に、神様が王として、すべてを支配しておられることです。この世界が混乱し、状況がますます悪化しているように見えても、神様は御座に着いておられ、神のみこころから離れたことは何ひとつ起こりません。

そして、最終的に神様は勝利を得て、栄光と賛美を受けられます。

アーメン。主イエスよ、どうかすぐに来てください。

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ヨハネの黙示録

自給自足、冷淡、役に立たない

私の娘が4~5歳ぐらいの時、私がうちに帰ると、彼女は「ダディー」と叫びながら、私を出迎えてくれました。

でも、今は、私がうちに帰ると、彼女はリビングで座ったまま、ただ「お帰り」と言うだけです。

また、彼女は私がうちに帰ってきたことに、まったく気づかない時もあります。

愛の反応が冷淡な反応になることは、寂しいことです。

いろいろな意味で、ラオディキアにある教会は私の娘のようです。イエス様は、ほかの教会を責める時でも、良い点をも褒められました。けれども、ラオディキアにある教会については、良いことが一つもありませんでした。

サルデスの教会の中でも、イエス様が褒められたクリスチャンたちがいました。ところが、ラオディキアの教会の中では、イエス様が褒められたクリスチャンは誰もいませんでした。

彼らの問題は何だったのでしょうか。イエス様は彼らにこう言われました。

わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。

むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。(黙示録3:15-16)

イエス様は、何を意味されたのでしょうか。ラオディキアの近くには、二つの有名な都市がありました。

一つ目はヒエラポリスという都市です。その都市は温泉で知られていました。その温泉は体を癒すために役立ちました。

その反面、コロサイという都市は、冷たい飲み水で知られていました。

けれども、ラオディキアの人たちは都市の南にある温泉からお湯を得ていました。そのために、彼らは10キロメートルの水路を使わなくてはなりませんでした。

けれども、そのお湯が着いた時には、すでにぬるくなっていました。つまり、その水は入浴にも適しておらず、飲み水としても美味しくありませんでした。

要するに、その水はあまり役に立たないものでした。

教会が自分の役割をきちんと果たすならば、主にとって有益な存在となります。ヒエラポリスの温泉が人の体を癒したように、教会は人の魂を癒します。また、イエス様の愛はクリスチャンたちを通して流れ、冷たい水のように、疲れた人々を生かすことができます。

しかし、ラオディキアの教会は傷ついた人々を癒さず、疲れた人々を生かしませんでした。その教会は、主にとってまったく役に立たない存在となりました。

そこで、イエス様は彼らに言われました。「あなたたちは、自分の都市の水のようです。だから、わたしは口からあなたを吐き出します。」

彼らがなぜ役に立たない教会になったのでしょうか。一つ目の理由は、彼らが自給自足の姿勢を取り、主に対して冷淡な態度を示し始めたということです。イエス様は彼らにこう言われました。

あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。(17)

この教会では、クリスチャンたちは自給自足でした。ラオディキアのクリスチャンたちだけでなく、その都市の人々も同じような性質を持っていました。

ラオディキアが地震によって壊れた時、彼らはローマ帝国の援助を断り、「私たちは十分です。自分たちで再建できます」と主張しました。

このように、ラオディキアの教会の人々は裕福で、自給自足の生活を送り、イエス様が必要だとは考えませんでした。彼らにとって教会は社交クラブとなっていたのです。

その結果、彼らはイエス様にとって、役に立たない教会となってしまいました。彼らはイエス様のために周囲の人々に触れようとせず、さらに、イエス様に対して冷淡な態度を示しました。彼らは基本的にこう言っていたのです――「私たちはもう十分です。あなたの助けは要りません。」

しかし、実際には彼らは非常に困難な状態にありました。

だからこそ、イエス様は彼らにこう言われました。

わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい。(18)

この言葉によって、イエス様は彼らの自給自足の態度を厳しく批判されました。彼らは黒い羊毛や目薬を売っており、裕福な人々でした。

けれども、イエス様は彼らに言われました。「それらのものは不十分です。私から離れて、あなたたちは死にかけています。」

残念なことに、多くの人々はラオディキア人のようです。

日本では、大きな問題の一つは、非常に多くの人々が自給自足の状態にあることです。彼らは自分の人生に満足し、霊的な必要を認識することができません。そのため、「私にはイエス様が必要ではありません」と考えてしまいます。

ところが、あるクリスチャンたちも同じように考えることがあります。彼らは、イエス様を必要としていることを忘れてしまいます。

「以前はイエス様を必要としていましたが、今はもう十分です」と彼らは主張します。そして、自分の人生からイエス様を追い出してしまいます。

教会に通い続けるかもしれませんが、時間、経済、仕事、人間関係などに関しては、彼らはイエス様に対して「あなたは必要ありません」と言っているのです。

このようなクリスチャンたちは、主にとって役に立たない者となってしまいます。そして、教会がそのような人々に満ちているなら、その教会は深刻な状態に置かれています。

だからこそ、イエス様はラオディキアのクリスチャンたちにこう言われました。

わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。(19)

私は、ある英語訳の聖書が非常に心に響きました。「悔い改めなさい」という言葉の代わりに、「自分の冷淡な態度を捨てなさい」と意訳されているのです。

そして、イエス様は彼らにこう言われました。

見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(20)

ラオディキアの人々は、自分たちの教会からイエス様を締め出してしまっていました。だからこそ、イエス様はその教会の戸の外に立ち、たたいておられました。

「わたしは、あなたがたを今もなお愛しています。和解の機会を与えています。どうか、心を開いてくれませんか。」

あなたはどうでしょうか。

イエス様に対して冷淡な態度を取っているでしょうか。イエス様をあなたの人生から締め出し、「あなたは要りません」と言ってしまっているでしょうか。

それでもなお、イエス様はあなたを愛しておられます。イエス様は、ご自身の御国のためにあなたを今も用いたいと願っておられます。もしあなたが冷淡な態度を悔い改めるなら、いつかイエス様と共に支配することになるでしょう。(21)

しかし、悔い改めなければ、あなたは懲らしめを受けることになります。

あなたの教会はどうでしょうか。自己満足している人々で満ちた、単なる社交クラブのようになってしまってはいないでしょうか。

教会が悔い改めなければ、イエス様はあなたたちの燭台をその置かれた所から取りはずされます。あなたたちは、もはや世の光として輝くことができなくなってしまいます。

イエス様は、あなたとあなたの教会に何を語っておられるでしょうか。

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ヨハネの黙示録

決してのけ者にされない私たち

多くの人が、のけ者にされた経験を持っているのではないでしょうか。

高校生の時、私は級友たちに近づいたところ、一人にこう言われました。「どうしてここに来ているの?出て行け!」

フィラデルフィアの教会のクリスチャンたちも、似たような問題に直面していました。スミルナの教会と同様に、彼らはユダヤ人たちにのけ者とされ、会衆に入ることが許されませんでした。

しかし、イエス様は彼らにこう言われました。「私は、ダビデの鍵を持っている者です。」(黙示録3:7)

言い換えれば、「神様がダビデとその子孫に永遠の国を約束されましたが、その国の鍵を持っているのは私です。私において、その約束は実現されます」という意味です。

そして、イエス様は続けて語られました。「私はあなたのために門を開きました。ですから、ユダヤ人たちはあなたの入るのを阻むことができません。実のところ、彼らは本当のユダヤ人ではありません。むしろ、サタンの会衆に属する者たちです。

あなたがたは、私を信じることによって、真のユダヤ人となりました。そして、いつか彼らはその真理を認めることになるでしょう。」(黙示録3:7〜9)

その後、イエス様は彼らにこう言われました。

あなたは忍耐についてのわたしのことばを守ったので、地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、わたしもあなたを守る。(黙示録3:10)

私は以前言いましたが、たぶん、私たちは最後の反キリストと向き合わなくてはならないでしょう。

けれども、教会の中には、この一節を読んで違う結論に至る人もいます。彼らは、試練の前にイエス様が私たちを天国に連れていかれると考えます。

しかし、二つの理由で、私はその意見に同意できません。

最初の理由は、たくさんの聖書の箇所によれば、私たちが反キリストと向き合い、大きな患難を経験しなくてはならないということです。

二つ目は、イエス様がフィラデルフィアのクリスチャンたちに語られたということです。そして、イエス様がそのクリスチャンたちが試練に直面する前に、彼らを天国に連れていかれたと信じる人は、誰もいないと思います。

むしろ、イエス様が約束されたのは、試練の時に、イエス様が彼らを守られるということです。

空いている門や閉じている門を考えると、私はノアの箱舟を連想します。箱舟の戸はノアとその家族のために開いていました。でも、彼らが入ると、神様ご自身がその戸を閉じられました。(創世記7:16)

そして大洪水の時、神様はノアとその家族を天国に連れて来られませんでした。むしろ、その大洪水の中で、神様は彼らを守ってくださいました。

黙示録を読むと、私たちはそのパターンを見ます。私たちが反キリストや大きな患難を経験しても、神様は私たちを守ってくださいます。

だから、患難の時、イエス様の言葉を覚えているべきです。

わたしはすぐに来る。あなたは、自分の冠をだれにも奪われないように、持っているものをしっかり保ちなさい。(11)

大きな患難を考えると、たくさんのクリスチャンたちが恐れるのは、自分が耐えることが出来ないということです。彼らは、自分の冠をなくすと心配します。

でも、イエス様がその教会の人たちに何を言われたか見ましょう。

あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。(8)

この教会の人たちは、自分が弱いと考えました。イエス様ご自身は、「あなたたちが少しばかりの力があります」と言われました。それでも、試練があっても、彼らはしっかり立っていました。

だから、私たちがその試練を耐えるかどうかに関して考えると、大切なのは、私たちの力や意地ではありません。むしろ、大切なのは、神様の恵みです。神様の恵みによって、私たちはしっかり立ちます。

イエス様は、私たちに言われます。

わたしは、勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱とする。彼はもはや決して外に出て行くことはない。

わたしは彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書き記す。(12)

イエス様があなたをのけ者とされることはありません。イエス様はあなたを神様の神殿の柱とされます。イエス様は神様の名前をあなたの上に書き記されます。要するに、あなたは永遠にイエス様の者とされます。

それを考えると、昔から親しまれている賛美歌が思い浮かびます。(日本語では、「主われを愛す。」)

Jesus loves me! This I know.
イエス様は私を愛してくださいます。私はそれを知っています。

For the Bible tells me so.
聖書がそう教えてくれています。

Little ones to Him belong;
小さな者たちはイエス様に属しています。

They are weak, but He is strong.
彼らは弱いですが、イエス様は強い方です。

Yes, Jesus loves me!
イエス様は私を愛してくださいます。

Yes, Jesus loves me!
イエス様は私を愛してくださいます。

Yes, Jesus loves me!
イエス様は私を愛してくださいます。

The Bible tells me so.
聖書がそれを教えてくれています。

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ヨハネの黙示録

主の訪れに備えず、不意を突かれるとき

サルディスには、突き通せない都市という評判がありました。しかし、この都市は二度も陥落したのです。なぜでしょうか。それは、見張りの者が眠っていたからです。

そのような歴史を踏まえて、イエス様はサルディスの教会の目を覚まさせようとされました。イエス様は、こう語られました。

また、サルディスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊と七つの星を持つ方が、こう言われる──。

わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。目を覚まし、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いがわたしの神の御前に完了したとは見ていない。

だから、どのように受け、聞いたのか思い起こし、それを守り、悔い改めなさい。目を覚まさないなら、わたしは盗人のように来る。わたしがいつあなたのところに来るか、あなたには決して分からない。(黙示録3:1-3)

イエス様は何を言いたかったのでしょうか。

かつての都市と同じように、サルディスの教会も丈夫で、元気で、生きているように見えました。けれども、実のところその教会は、死んだものでした。なぜなら、イエス様が彼らを裁くために来られたのに、彼らはその備えをしていなかったからです。

では、どのように備えができていなかったのでしょうか。イエス様は彼らに、こう語られました。「あなたの行いが、わたしの神の御前に完了したとは見ていない。」

それは何を意味するのでしょうか。私にもすぐにはわかりませんが、おそらく彼らには二つの問題があったのではないかと思います。一つ目は、彼らが聖なる人生を送っていなかったことです。操を守ることをやめ、自ら進んで罪に手を染めていたのです。

そこでイエス様は、「寝ているサルディスのクリスチャンたち」と「衣を汚さなかった者たち」を比較しておられます。(4)

しかし、イエス様はもう一つのことを意味しておられたのでしょう。

かつて、この教会は多くの良い働きを行い、周囲の人々に愛を届けていました。けれども、彼らはそれをやめ、自己中心になってしまったのです。周囲の人々への配慮を失い、ただ自分の実績だけを見て、誇りに満ちていました。

そのため、彼らは霊的に死にかけていたのです。自分の聖さや使命に関して、彼らの行いはまだ神の前に完成していませんでした。

それゆえに、イエス様は彼らに訓戒を与えられました。「原点に帰りなさい。最も大切なことを思い起こしなさい。自己中心的な態度を悔い改めなさい。自分の罪から離れなさい。そうしないなら、私は来て、あなたたちを裁くことになる。」

この言葉は、マタイの福音書第24〜25章のたとえ話に通じています。

多くの場合、私たちはそのたとえ話や、サルディスの教会に対する言葉を読んで、自分自身の人生を省みます。私たちは、個々のクリスチャンとして、主の帰還の日に向けて備えているかどうかを考えるのです。

もちろん、イエス様は一人ひとりのクリスチャンにも語っておられます。特に第4〜5節では、忠実なクリスチャンたちに向けて語っておられます。

けれども、覚えておきましょう。この手紙は、教会全体に向けて書かれているのです。

サルディスの教会と同じように、多くの教会は「生きている」という評判があります。ところが、実際には霊的に死んでいるのです。カリスマ性のある牧師がいて、賛美や礼拝の雰囲気は明るく盛り上がっています。

けれども、悔い改めていない罪のために、教会の内部は腐敗しています。信仰を公に宣言してはいても、その行動はその宣言と一致していないのです。

他の教会は、自分たちの実績を誇るだけです。かつては周囲の人々に、イエス様の愛を届けていました。けれども今では、その実績を祝って互いに褒め合い、自己満足に浸っているのです。まるで社交クラブのようになり、ただ交わりの時間を楽しむばかりです。

けれども彼らが忘れているのは、彼らの働きがまだ終わっていないということです。イエス様がこの世に戻られるその日まで、その働きは完成しないのです。

私たちはこの真理を心に刻まなければなりません。イエス様は必ず戻ってこられます。その日、イエス様が教会をご覧になるとき、何を語られるでしょうか。

周囲の世界に触れている教会をご覧になるでしょうか。命にあふれた教会をご覧になるでしょうか。それとも、自己中心的な教会をご覧になるでしょうか。罪に汚れた教会をご覧になるでしょうか。

イエス様が、あなたの教会をご覧になるとき、何を語られるでしょうか。

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ヨハネの黙示録

教会で悪に目をつぶるとき

寛容。

かつてアメリカでは、その言葉には良い意味がありました。

本来の意味はこうです。たとえ誰かの意見に同意できなくても、その人をなお愛し、丁寧に語り合うことができる。それが「寛容」でした。

日本ではどうか分かりませんが、アメリカではこの言葉の意味が大きく変わってしまいました。

今では、「寛容」とは、絶対的な真理が存在しないという前提のもと、誰かの考えが間違っているとしても、それを指摘してはならないという意味になっているのです。

特に、「罪」という言葉は、時代遅れのものと見なされ、他者の罪を指摘することは「不寛容」だと受け止められがちです。

その結果、多くの教会が深刻な課題を抱えるようになりました。罪が教会に入り込んだとき、信者たちはそれを見て見ぬふりをするようになり、罪を容認する空気さえ生まれるのです。

誤解しないでください。もちろん、クリスチャンはノン・クリスチャンを歓迎すべきであり、彼らが救われるように努める必要があります。

けれども、多くの教会では、人の罪を見ても「それは罪ではない」と言い張ることがあります。

このような問題を、ペルガモンやティアティラの教会も抱えていました。

もちろん、これらの教会には良い点もありました。迫害を受けても、彼らはイエス様に忠実であり続けたのです。ティアティラのアンティパスが殺された時でさえ、教会の人々は主に従いました。(黙示録2:13)

また、ティアティラの教会はエペソの教会とは違って、イエス様への熱心を保っていました。実際、その熱心さは増し加わっていたのです。

しかし、両教会は、罪を見過ごしてしまうという罠に陥っていました。

ペルガモンの教会は、偽りの教えを信じる者たちを「寛容」と称して受け入れてしまいました。その結果、教会の人々は偶像礼拝や性的な罪に陥ってしまったのです。

イスラエルの民がエジプトを脱出して荒野を旅していたとき、預言者バラムも彼らを同じ罪へと導きました。

バラムはイスラエルを呪おうとしましたが、神はそれを許しませんでした。そこでバラムは、イスラエルの男性たちがモアブの女性たちと結びつくように仕向けたのです。彼らはその助言に従い、最終的には偶像礼拝に落ち、神の呪いを受けてしまいました。

ペルガモンの教会の人々も、同じ罪に陥っていました。それにもかかわらず、教会のリーダーたちは何も対処しなかったのです。

ティアティラの教会も、ペルガモンと同じような問題を抱えていました。彼らは「預言者」と自称する女性を容認していました。イエス様はその女性を「イゼベル」と呼ばれました。

イスラエルの歴史において、王妃イゼベルは夫アハブ王を偶像礼拝へと導き、多くのイスラエル人を罪に陥らせました。

ティアティラの教会においても、イゼベルのような存在がサタンの深みを教え、教会の人々を偶像礼拝や性的な罪に誘っていたのです。(24)

そのため、イエス様は彼らに警告されました。「裁きは迫っている。」

ペルガモンの教会に向けて挨拶されたとき、イエス様はご自身を「鋭い両刃の剣を持つ方」と呼ばれました。それは、裁きを表す剣です。(12、16)

ティアティラの教会に向けて挨拶されたとき、イエス様はご自身を「燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝く真鍮のような神の子」と呼ばれました。イエス様は、暗闇にある悪を見通し、ご自身の足でそれを踏み砕かれるのです。(18)

イエス様はこう言われました。

見よ、わたしはこの女を病の床に投げ込む。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めないなら、大きな患難の中に投げ込む。また、この女の子どもたちを死病で殺す。(黙示録2:22-23)

イエス様は、文字通り彼らを死に至らせる可能性について、警告されていたのでしょうか。おそらく、そうです。

使徒の働き(5:1〜10)、第一コリント(5:5)、そして第一コリント(11:27〜30)に、そのような例を見ることができます。

私たちは、悪に対して寛容になってしまうことがあるかもしれません。けれども、イエス様は、悪が教会の中に広がることを決して容認されません。

しかし、私たちが悪と戦い、それを乗り越えるなら、イエス様は約束されます。「隠されたマナ」と「白い石」を与えてくださるのです。(2:17)

ユダヤ人たちはこう信じていました。メシアが来られると、契約の箱が奇跡的に現れ、メシアの宴席で皆がマナを食べるようになる。

では、イエス様が「白い石」について語られたのは、なぜでしょうか。当時の競技において勝利した者は、特別な宴席への入場を許される「白い石」を与えられていました。

イエス様は、その2つの象徴を重ねて、約束の栄光を描かれたのです。

さらに、イエス様はティアティラの信徒たちにこう約束されました。イエス様が王としてこの世を支配するとき、彼らは国々を治める権威を受けるのです。さらに、イエス様は彼らに明けの明星を与えると約束されました。

イエス様ご自身が「明けの明星」と呼ばれているのです(黙示録22:16)。

それゆえ、イエス様はご自身との深い交わりを約束しておられるのでしょう。

しかし、悔い改めない者には、裁き以外に何も残されていません。

教会において、悪に目をつぶることは重大な問題です。やがて反キリストと偽預言者が現れると、その問題はさらに深刻になります。その時、この世が耐えられないものはただ一つです。それは、私たちが宣べ伝える福音です。

もし今、私たちが悪に目をつぶるなら、反キリストが現れた時、私たちはどうするのでしょうか。あなたと、あなたの教会はどうでしょうか。悪に目をつぶってはいませんか。

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ヨハネの黙示録

試練や苦難を経験するのに

以前にも述べましたが、黙示録に記された手紙の目的は、教会を、反キリストたちや、迫り来る試練に備えさせることです。

あなたは、クリスチャンが最後の反キリストや大患難時代を経験しないと信じているかもしれません。実際、多くのクリスチャンがそう信じています。

けれども、黙示録やその他の新約聖書を読むかぎり、私はその見解に同意できません。何度も、イエス様や使徒たちは、私たちがさまざまな苦難に直面すると警告しています。とりわけ、彼らは私たちが反キリストと向き合うことになると告げています。

私は、クリスチャンが大患難時代を完全に回避できるという約束を聖書の中で見たことがありません。

私が信じるのは、私たちが反キリストや大患難時代に直面するとしても、神様は決して私たちを見捨てないということです。また、その患難の時は一時的なものであると信じています。

だから、私たちがどんな試練に直面しても、神様は私たちが神様にしがみつくように促してくださいます。

今日の箇所では、その真理を余すところなく見ることができます。イエス様は、スミルナという都市の教会に語りかけます。ご自身を紹介されるとき、イエス様は、「初めであり終わりである方、死んでよみがえられた方」と呼ばれます(8節)。

興味深いのは、スミルナという都市もまた「死んでよみがえった」経験を持っていることです。紀元前600年に一度滅びましたが、紀元前290年に再建されました。

スミルナのクリスチャンたちは、イエス様のために迫害や処刑に直面しました。だからこそ、イエス様は彼らを励まされたのです。「何が起ころうとも、私はすべてのことを支配しています。私は初めであり終わりである者なのですから。」

つまり、神様の言葉によって、すべてのものは造られ、神様の言葉によって、人間の歴史は閉じられます。

さらに、イエス様は死に打ち勝たれました。死に直面するクリスチャンたちも、イエス様のように復活し、永遠のいのちを受けるという確信を抱いていました。

だからこそ、イエス様は彼らにこう語られました。

わたしは、あなたの苦難と貧しさを知っている。だが、あなたは富んでいるのだ。ユダヤ人だと自称しているが実はそうでない者たち、サタンの会衆である者たちから、ののしられていることも、わたしは知っている。(黙示録2:9)

彼らはユダヤ人たちから迫害を受けていたようです。そのユダヤ人たちは、ローマ帝国の支配者たちにこう訴えました。

「キリスト教はユダヤ教の一部ではありません。実際、クリスチャンの中には多くの異邦人がいます。あなたの律法によれば、私たちユダヤ人は皇帝を礼拝する必要はありません。けれども、彼らは異邦人なのだから、皇帝を礼拝しないなら、処刑しても構いません。」

こうして、ローマ帝国はクリスチャンたちへの迫害を始めました。

しかし、イエス様は彼らにこう語られました。「ユダヤ人たちは、あなたが真のユダヤ人ではないと主張します。けれども本当は、あなたこそが真のユダヤ人です。あなたこそがアブラハムの真の子孫です。なぜなら、アブラハムのように、あなたは信仰によってわたしのもとに来たからです。

それどころか、彼らは偽りのユダヤ人であり、彼らの会衆は神の会衆ではなく、むしろサタンの会衆なのです。」

そしてイエス様は彼らに語れました。「心配するな。あなたたちは決して迫害を経験しません。私は迫害からあなたたちを救い出します。」

イエス様はそう語れたでしょうか。違います。逆に、イエス様はこう言われました。

あなたが受けようとしている苦しみを、何も恐れることはない。見よ。悪魔は試すために、あなたがたのうちのだれかを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあう。(10)

言い換えると、こうです。「あなたは苦しむことになる。だが恐れるな。サタンはあなたに大きな試練を与えるだろう。けれども、その試練は永遠には続かない。しばらくの間は続くが、やがて終わるのだ。」

この言葉は、当時の人々だけのためではありません。これは、私たち自身のためであり、反キリストに直面するクリスチャンたちのためでもあるのです。私たちは苦しみに向かっていきます。それでも、イエス様によれば、その苦しみはほんの一瞬なのです。

だからこそ、イエス様は私たちにこう言われます。

死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える。

耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によって害を受けることはない。(10b-11)

イエス様がこの世におられたとき、同じようなことをご自分の弟子たちに語っておられました。イエス様はこう言われました。

からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。(マタイ10:28)

私たちが神様を畏れるなら、ほかのものを恐れる必要はありません。死さえも、恐れる必要はないのです。なぜなら、人々は私たちのからだを殺すかもしれませんが、魂を滅ぼすことはできないからです。

イエス様によれば、私たちは第二の死、すなわち地獄を経験しません。むしろ、私たちは永遠に、天においてイエス様と共にいるのです。

あなたはどうですか。あなたは、自分の信仰ゆえに迫害を受けていますか。それが、ひと時の苦しみにすぎないことを覚えていましょう。人々があなたに何を言っても、あなたを傷つけても、魂に触れることはできません。

だからこそ、忠実でいましょう。たとえあなたが死んでも、あなたは生きるのです。(ヨハネ11:25)

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ヨハネの黙示録

教会に愛がなければ

今日の箇所では、私たちはエペソにある教会に宛てて語られたイエス様の最初の訓戒を読みます。

実際、イエス様はその教会について、多くの良いことを語っておられます。彼らは神の国のために忠実に励み、さまざまな苦難にも耐え忍び、疲れ果てることはありませんでした(黙示録2:2-3)。

さらに、彼らは偽教師を見抜き、自らを使徒と名乗る者たちも試して、見分けることができました。この教会は、そうした者たちを退け、偽りの教えを拒絶していました(2,6)。

しかし、彼らには重大な問題がありました。イエス様はこう言われました。

けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。(黙示録2:4-5)

残念ながら、多くの教会も同様の問題を抱えています。彼らは、自分の奉仕において熱心に励みます。迫害が訪れると、彼らは忍耐強く耐え忍びます。彼らは聖書の教えを守り抜き、偽教師たちを見抜き、罪に対しても寛容ではありません。

それでも、彼らは最も大切なことを忘れてしまいました。それは、神様への愛、そして人への愛です。その愛がなければ、教会は空っぽな殻のようになってしまいます。

だから、神様は彼らに訓戒されます。「悔い改めなさい。私は、ただ熱心な奉仕者たちだけを求めているのではありません。ただ忍耐を示す殉教者たちだけを求めているのではありません。ただ用心深い兵士たちだけを求めているのではありません。

むしろ私は、私を愛する者たちを求めています。また、世の人々に私の愛を分かち与える者たちを求めています。」

私たちがそのように生きないなら、いったいどうなるでしょうか。

そうせず、悔い改めないなら、わたしはあなたのところに行って、あなたの燭台をその場所から取り除く。(5b)

覚えていてください。燭台とは、人の救いではなく、教会を意味します。だから神様がこう語っておられます。

「もし私の教会であるあなたたちは初めの愛に戻らないと、私はあなたを自分の場所を取り除きます。あなたは礼拝は続けるかもしれないけど、私はあなたをこの世の光として用いません。」

私は第一コリント13章を連想します。その言葉をちょっとパラフレーズにします。

教会が聖書を正しく教え、偽教師や偽りの教えを見抜き、そうした者たちを退け、また聖さを語り、罪を拒んだとしても、愛がなければ、その教会は、騒がしいどらやうるさいシンバルと同じです。

教会の人々が熱心に励み、貧しい者たちを助け、教会の内外でさまざまな良い働きをしたとしても、愛がなければ、その教会は無に等しいのです。

教会の人々が迫害を耐え忍んだとしても、愛がなければ、それは何の益にもなりません。

多くの反キリストたちは、すでにこの世に現れています。そして、最後の反キリストが近づいています。その者が現れるとき、私たちはさまざまな苦難に直面することでしょう。しかし、もし私たちに愛がなければ、私たちはまだ備えができているとは言えません。

あなたの教会はどうでしょうか。その教会は備えができているでしょうか。あるいは、教会はその場所から取り除かれる瀬戸際にあるのではないでしょうか。

あなた自身はどうでしょうか。あなたは、初めの愛から離れていないでしょうか。

イエス様はこう語られました。

耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。(7)

この言葉は、あなた自身と、あなたの教会のために語られています。

イエス様と人々への愛を失わずに、反キリストや苦難、迫害を乗り越えるなら、イエス様はあなたにこう語られるでしょう。

わたしはいのちの木から食べることを許す。それは神のパラダイスにある。(7b)

裁きの日に、イエス様は私たちに何を語られるでしょうか。

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ヨハネの黙示録

直面する試練に心を備えるために

黙示録の中で、最も頻繁に説教される箇所は、2ー3章かもしれません。なぜなら、それらの章は一番わかりやすく、パウロや他の使徒たちの手紙に似ているからです。

けれども、私たちが覚えておかなければならないことがあります。イエス様が七つの教会にメッセージを与えられたのは、最後の日が迫っているからです。

以前にも申し上げましたが、私たちは終わりの時にすでに入っています。実際、使徒たちの時代から、私たちは終わりの時代に生きてきたのです。(使徒の働き2:16-17;へブル書1:2;第一ヨハネ2:18)

使徒ヨハネは自分の手紙の中でこう述べています。やがて、最後の反キリストが現れます。ところが、それ以前にも、多くの反キリストがすでに現れているのです。ヨハネの時代にも、彼らはすでに活動していました。(第一ヨハネ2:18)

そして、反キリストだけではなく、偽預言者や偽教師も現れます。人を欺く者もおり、欺かれる者もいます。さらに、神様の民は迫害を受けるのです。

だからこそ、神様はこの世を裁かれます。ある裁きは人を通して行われます。つまり、戦争や暴力として現れる裁きです。一方で、自然災害や疫病を通して行われる裁きもあります。黙示録には、こうした裁きについて何度も描かれています。

この世を見つめるとき、私たちはそれらの裁きを識別できるでしょうか。教会の長い歴史の中にも、そして今もなお、私たちはその裁きに気づくことができます。

だから、ヨハネの時代の教会に向けられた神様のメッセージは、現代の教会にも当てはまります。神様は、今の教会にも同じことを語っておられるのです。

昔の教会が自らの反キリストに直面したとき、さまざまな問題を抱えました。そして、私たちも自らの反キリストに直面する時、同じような問題に直面します。

ですから、この手紙のことばは平和な時代のための訓戒ではありません。むしろ、私たちが反キリストに立ち向かうために、イエス様はこのことばを与えられました。また、最後の反キリストに直面するその時のためにも、私たちはこのことばを覚えていなくてはなりません。なぜなら、その時、私たちは多くの苦しみを経験するからです。

だから、これから数日間、この七つの手紙に耳を傾けるとき、そのことを心に刻んでおきましょう。

もしかしたら、あなたは、私たちが最後の反キリストと、その苦しみの時代に直面しないと信じているかもしれません。私もそう信じたいと思いますが、その確信はありません。

たとえそう信じていても、忘れないでください。教会はいつの時代も、反キリストや苦しみの時と向き合ってきました。だから、たとえ最後の反キリストが来る前に神様が私たちを天に引き上げられたとしても、その前に、私たちは別の反キリストや苦しみと直面することになるでしょう。その準備のために、ヨハネはこの手紙を書いたのです。

あなたは備えができているでしょうか。備えるためには、私たちはイエス様のことばに耳を傾けなければなりません。

だからこそ、イエス様のことばを心に刻んでおきましょう。

耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。(黙示録2:7)

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ヨハネの黙示録

私たちの責任を問われる方

裁きの日。

その日は、私たちすべてに迫っています。けれども、信者たちが最初に裁きを受けるのです。3章の終わりで、私たちはこの真理を学びます。

この幻の中で、ヨハネは自分を呼ぶ声を聞きました。その声の主に向いたとき、ヨハネはイエス様を見ました。イエス様は七つの金の燭台の間を歩き、七つの星を持っておられました。

ところが、イエス様のお姿は以前とはまったく違って見えました。なぜなら、ヨハネはイエス様のすべての栄光を目にしたからです。

この幻において、イエス様の容姿がどこまで文字通りに描かれているのか、それとも比喩的な表現なのか、私には断言できません。

それでも、ヨハネが伝えようとしている要点は明確です。私たちは裁かれ、イエス様は私たちの責任を問われるのです。なぜなら、私たちは神様の教会、神の民だからです。

黙示録には、数多くの象徴が登場します。ヨハネはある象徴については明確に説明しますが、他のものについては一切解釈を加えていません。けれども、この箇所では、七つの金の燭台と七つの星の意味がはっきりと解き明かされています。

七つの金の燭台は、ヨハネがメッセージを伝えるべき七つの教会を表しています。そして、七つの星は、それぞれの教会に関係する「み使いたち」を指しています。

聖書学者たちは「み使い」の意味を巡って議論を続けています。というのも、この語にはさまざまなニュアンスがあるからです。一つは、「使者」という意味。そしてもう一つは、霊的な存在としての「天使」という意味です。

私自身の考えですが、おそらくこの「み使いたち」は天使たちだと思います。天使たちは、教会に対して何らかの役割を担っているように見えますし、もしかするとそれぞれの教会に対して、特定の天使が責任を持っているのかもしれません(第一コリント11章10節)。

ともあれ、この幻の中で、イエス様は七つの教会の間を歩まれています。そして2章・3章によると、イエス様はその教会をよく見て、調べておられます。それぞれの教会には担当する天使がいますが、その天使たちもまた、イエス様の御手の中にあるのです。

イエス様の様子に関するヨハネの描写から、私たちは自分の裁き主について多くのことを学ぶことができます。

第一の象徴は、イエス様が賢明な方であるということです。イエス様の白い髪は、その賢明さを象徴しています。イエス様は弱々しいお祖父さんではなく、むしろ、真に賢明な方なのです。そして、その賢明さによって、人々を裁かれます。

第二の象徴は、イエス様の燃える炎のような目です。それは、イエス様がすべてを見抜かれることを意味します(2章23節)。

その御目によって、真理を隠すものは焼かれ、隠されたものは現れてきます。

第三の象徴は、イエス様の真鍮のような御足です。その御足はすべてを踏みしめます。つまり、イエス様は人を裁かれるのです。そして、悔い改めを拒む者にとって、その裁きは非常に厳しいものとなります(2:21〜23)。

そして、イエス様の御声は、大水の轟きのようです。つまり、イエス様は全能の主の力と権威によって語られるのです(エゼキエル記1:24)。

また、イエス様の御口からは、鋭い両刃の剣が出ています。なぜその剣には両刃があるのでしょうか。なぜなら、イエス様の裁きの言葉は、ただ人々を裁くだけではなく、私たちを癒してくださるからです。その言葉は罪人を断ち切りますが、傷ついた者を癒します。

2~3章で、私たちはその両刃の剣を目にします。

最後に、イエス様の御顔において、私たちは神様の栄光と聖さを見るのです。

ヨハネはイエス様を見たとき、恐れて、御足もとに倒れ込みました。すべての知恵と知識を持つ全能の神を目にしたなら、私たちも同じように倒れ込むことでしょう。

しかし、イエス様はヨハネを励まされました。そして、私たちのことも励ましてくださるのです。

恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。また、死とよみの鍵を持っている。(ヨハネの黙示録1:17-18)

どうしてヨハネには恐れる必要がなかったのでしょうか。 なぜなら、十字架において、イエス様は私たちの罪の代価を支払われたからです。 そして、イエス様の復活によって、天の父はイエス様の贖いを受け入れられたことを証明されたのです。 それゆえ、私たちは死から解放され、イエス様にあって永遠の命を持つのです。

ゆえに、裁きの日に、何が私たちを神様の愛から引き離すことができるでしょうか。 何もありません。

それでも、私たちは裁かれるのです。 イエス様は七つの金の燭台の間を歩かれておられます。 そして、イエス様はその教会の中にある一人一人を調べておられます。

これから数日にわたって、七つの教会への手紙を噛み締めましょう。 イエス様の言葉があなたを切り、癒すことを許しましょう。 悔い改めなくてはならないなら、すぐにそうするのが良いでしょう。 しかし、今あなたが傷ついているなら、その言葉の癒しを受けましょう。 そして、ヨハネの言葉を心に留めましょう。

私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。

神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。こうして、愛が私たちにあって全うされました。

ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。

私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。(第一ヨハネ4:16-19)

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ヨハネの黙示録

黙示録の土台である福音

ヨハネの黙示録について考えるとき、福音のことを連想する人はあまりいないでしょう。

しかし、黙示録の土台には福音があるのです。今日の箇所で、ヨハネはその福音を美しく描き出しています。

ヨハネから、アジアにある七つの教会へ。今おられ、昔おられ、やがて来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、また、確かな証人、死者の中から最初に生まれた方、地の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにあるように。

私たちを愛し、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、ご自分の父である神のために、私たちを王国とし、祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくあるように。アーメン。

見よ、その方は雲とともに来られる。すべての目が彼を見る。彼を突き刺した者たちさえも。地のすべての部族は彼のゆえに胸をたたいて悲しむ。しかり、アーメン。(黙示録1:4-7)

福音の関するいくつか大切なポイントがあります。

最初のポイントは、福音は三位一体である神から来るものだということです。

福音は天の父から来ます。天の父は今おられ、昔おられ、やがて来られる方です。

その肩書は出エジプト記3:14から来ています。その箇所でモーセに語られたとき、神様はご自身を「私はある」と呼ばれました。つまり、「私は永遠の者」ということです。

また、福音は御座の前におられる七つの御霊からも来ます。それはおそらく、聖霊様に触れていると考えられます。

多くの聖書学者たちは、この肩書がイザヤ書11:2に基づいていると見ています。その箇所では聖霊様は「主の霊」、「知恵と悟りの霊」、「はかりごとと能力の霊」、「主を知る知識」と「主を恐れる霊」として描かれています。

さらに、聖書において「7」は「完全さ」を象徴する数字です。したがって、この数字は聖霊様が完全に神であることを示しているのです。

英語の「Martyr」、つまり「殉教者」という言葉は、ギリシャ語に由来しています。しかし元々は、「信仰のために殺された人」という意味ではなく、単に「証人」という意味でした。この箇所で、ヨハネはその言葉をイエス様に関して用いています。

とはいえ、ヨハネの時代には、すでにその言葉の意味が変化し始めていました。それは「自分の証のために死ぬ覚悟をもつ人」という意味になりつつあったのです。(例えば、黙示録2:13)

ですから、ある意味でイエス様は、証人であるだけでなく、殉教者でもありました。

さらに、イエス様は「死者の中から最初に生まれた方」です。当時の文化では「最初に生まれた方」とは「卓越した者」を意味します。言い換えるなら、イエス様は復活者の中で卓越したお方です。

では、なぜイエス様はそう呼ばれているのでしょうか。

その答えは、18節に記されています。

(わたしは」生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。また、死とよみの鍵を持っている。(18)

ラザロや他の人たちは復活したあと、二度目の肉体の死を味わわなくてはなりませんでしたが、イエス様は二度と死ぬことはありません。

さらに、イエス様は、以前復活した人たちだけでなく、将来に復活する人たちよりも優れているお方です。なぜなら、イエス様こそ、死とよみの鍵を持っておられるからです。そしてイエス様はご自身の御心に応じて、人々に永遠の命を与えてくださいます。

さらに、イエス様は永遠の王です。イエス様はこの世のすべての支配者たちの王なのです。

だからこそ、三位一体である神から私たちは恵みと平和の福音を受けるのです。

その福音とは、いったいどのようなものでしょうか。

神様は私たちを愛しておられます。イエス様は私たちの罪のために死なれ、私たちをその罪から解き放ってくださいました。私たちはもはや罪の奴隷ではなく、その罪のゆえに裁かれることもありません。

さらに、私たちは神様の国の民となり、祭司として神様に仕える者とされました。私たちは神様に直接アクセスできる存在となり、この世の人々に神様のために奉仕するのです。

そしてある日、イエス様はこの世にもう一度来られ、この世の人々を裁かれます。

なぜ私たちは、これらすべてのことを確信できるのでしょうか。 それは、神様がこう言われたからです。

神である主、今おられ、昔おられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」(8)

簡単に言えば、神様はすべてのことを支配しておられます。神様はすべてを始められ、すべてを終えられる方です。すべてのことは神様の御手の中にあります。

だからこそ、私たちは希望を持つことができるのです。

それが福音のメッセージです。それが黙示録のメッセージです。

神様に栄光と力が世々限りなくあるように。アーメン。(6)

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ヨハネの黙示録

神様の祝福を知るために

ヨハネの黙示録にようこそ!

これは聖書の最後の書です。

たぶん、この書を読もうとする人々の多くは、「どうして、黙示録を読まなくてはならないだろうか。この書はとても分かりにくいし、私たちが読む必要が本当にあるだろうか。この書はそんなに大切なんだろうか。」

簡単に答えると、「はい。そうです。」

多くの教会は黙示録を読むことを避けるでしょう。それでも、1章によれば、ヨハネも、神様も、この書がすべての教会で読まれるように望みました。それだけではなく、教会の人たちはその言葉を読むとき、そのメッセージが分かるはずでした。

ヨハネはこの言葉で、この書を始めます。

イエス・キリストの黙示。神はすぐに起こるべきことをしもべたちに示すため、これをキリストに与えられた。

そしてキリストは、御使いを遣わして、これをしもべヨハネに告げられた。ヨハネは、神のことばとイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてのことを証しした。(黙示録1:1-2)

私たちはメッセージの鎖を見ることができます。つまり、天の父がイエス様にメッセージを伝え、イエス様がそのメッセージを天使に伝え、天使がヨハネに伝え、最後にヨハネが教会に伝えるのです。

なぜでしょうか。それは、私たちがすぐに起こるべきことを知るためです。

多くのクリスチャンが黙示録を読まない理由は、たぶんそれが自分の人生と関係がないと思っているからでしょう。彼らは、それが遠い将来に関するメッセージだと考えているのです。

けれども、実際には、その言葉はヨハネの読み手たちと関係がありましたし、その後に続くクリスチャンたちとも強い関係がありました。だからこそ、ヨハネは「すぐに起こるべきことを示す」と言ったのです。彼は近い未来の出来事について語りました。

もちろん、ヨハネは遠い将来のことについても語りました。今なお成就していない預言もあります。ところが、彼の言葉にある出来事は、読み手たちの時代にすでに成就し始めていたのです。今の歴史を振り返れば、すでに成就した預言も見ることができます。

そして先ほど述べたように、ヨハネは、読み手たちがこの言葉を読んだとき、理解することを期待していたのです。だから、彼はこう言いました。

この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを守る者たちは、幸いである。時が近づいているからである。(3)

黙示録が分かりにくい書だと思われていたなら、ヨハネは上記の言葉を語らなかったはずです。ヨハネが期待していたのは、私たちがその言葉を読んで祝福されることでした。

なぜヨハネはそう願ったのでしょうか。それは、その言葉が成就する時が近づいていると彼が信じていたからです。

ヨハネの時代にも、いくつかの言葉はすでに成就しました。そして私たちの時代にも、ほかの言葉が成就しつつあります。もしかしたら、私たちが生きているうちに、その言葉のすべてが成就するかもしれません。

簡単に言えば、黙示録は私たちにとって非常に実用的な書なのです。日常生活の中で、私たちはこの言葉により、訓戒を受け、励まされるはずです。

だからこそ、イエス様はこう言われました。「耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。」

そうすれば、私たちは祝福を得るのです。