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ヨハネの福音書 ヨハネ16章

平和と喜びを見つけるために

この箇所を読むと、弟子たちがイエス様の言葉に困惑していることが分かります。なぜなら、イエス様は去って行くと話されたからです。彼らはその言葉に囚われ、イエス様のほかの言葉がかすんでしまいました。

聖霊様の約束や、将来の祝福についてのイエス様の言葉に耳を傾けることなく、彼らは繰り返しこう思いました。「イエス様は去って行かれる。私たちはどうすればいいのか。」

だから、イエス様は彼らを励ますと同時に、警告を与えられました。

まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜びます。あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。

女は子を産むとき、苦しみます。自分の時が来たからです。しかし、子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません。

あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。

そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。(ヨハネの福音書16:20-22)

イエス様の死と復活によって、その言葉は成就しました。

イエス様が十字架につけられたとき、敵は喜びましたが、弟子たちは絶望しました。けれども、よみがえられたイエス様を見たとき、彼らの悲しみは喜びに変わりました。

だから、彼らが迫害やさまざまな苦しみに直面しても、その喜びを奪うことができる者は誰もいませんでした。そして、その喜びを持って、彼らはこの世を変えたのです。

しかし、イエス様の言葉は私たちにも当てはまります。イエス様が再びこの世に来られるまで、私たちは多くの試練に直面します。今は、私たちの悲しみの時です。

パウロはこう書きました。

私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。

それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。(ローマ人への手紙8:22-23)

けれども、イエス様がこの世に戻られるとき、私たちは御顔を直接見て喜ぶでしょう。そして、私たちの喜びを奪うことのできる者は誰もいません。

とはいえ、イエス様が戻られるまで、十字架の御業によって、私たちは神様に近づくことができます。

だから、イエス様のみ名によって、私たちは天の父に何でも求めることができ、神様はそれを与えてくださいます。そして、私たちの喜びは満ち溢れるようになります。(ヨハネ 15:23-24; 26-27)

時々、私たちはイエス様の言葉の例外ばかりを強調しすぎてしまうことがあります。

もちろん、私たちの祈りは神様の御心に沿うものでなければなりません。

確かに、もし私たちが誤って蛇を求めてしまったなら、神様はそれを断る権利を持っておられます。

けれども、その例外に囚われすぎると、私たちは神様に何も願わなくなってしまいます。

しかし、天の父は、私たちにためらわずに願ってほしいのです。

どれほど私たちは祈らないために、神様の祝福を逃しているでしょうか。

どれほど私たちは心の願いを神様に求めないために、喜びを不完全なものにしているでしょうか。

だから、願い求めましょう。

パウロの言葉を心に留めてください。

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。(ローマ人への手紙8:26-27)

時々、私たちは弱さのゆえに、何のために祈るべきか分からないことがあります。時には、誤ったことのために祈ってしまうことさえあります。けれども、そのようなとき、聖霊様が私たちのためにとりなし、私たちの益となるように祈ってくださいます。

だから、パウロはこう書きました。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8:28)

だから、この三つのことを覚えて、安心しましょう。

1.私たちの事情がどんなに悪くても、イエス様はこの世に戻り、すべてを癒してくださいます。

2.神様が私たちを愛しているので、私たちは何でも願い求めることができます。そして、聖霊様が私たちのためにとりなし、私たちに良いものだけを与えてくださいます。

3.神様はご自身の計画に従い、すべてのことを私たちの益となるように働かせてくださいます。

この三つの約束を心に留めるなら、イエス様の言葉はあなたの心により深く響くでしょう。

これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。

しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(33)

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ヨハネの福音書 ヨハネ16章

御霊の働き

聖霊様とは誰でしょうか。今なお、多くのクリスチャンたちは聖霊様について混乱しています。

一つのことを心に留めておきましょう。聖霊様は「物」ではなく、「者」です。

聖霊様は単なる力ではなく、人格を持っておられます。

だからこそ、イエス様が聖霊様について話されるとき、聖霊様を「助け主」と呼ばれました。

このギリシャ語の言葉は翻訳が難しいものですが、ある意味では、聖霊様は弁護士のような存在です。サタンが私たちを責めようとするとき、聖霊様は私たちを弁護し、助言を与え、助けてくださいます。人格のない力には、そんなことはできません。

だからこそ、このことを理解し、心に留めましょう。聖霊様は人格を持つ方なのです。

サタンが私たちを責めるとき、聖霊様はイエス様とともに、天の父のみ前で私たちのためにとりなしてくださいます。

私たちがどう祈ればよいか分からないとき、聖霊様は私たちのために祈ってくださいます。(ローマ 8:26-27,34)

私たちが神様が本当に私たちを愛しておられるのか疑問に思うとき、聖霊様は「あなたは神様の子どもだよ」と思い出させてくださいます。(ローマ 8:15-16;第一ヨハネ 3:24)

そして、今日の箇所では、イエス様はさらに聖霊様の働きについて教えてくださいした。

その方(聖霊様)が来ると、罪について、義について、裁きについて、世の誤りを明らかになさいます。(ヨハネの福音書16:8)

時々、私たちは人々の心を変える責任があると思いがちです。もちろん、私たちは福音の種を蒔き、水を注ぐ責任があります。

しかし、その種を成長させることができるのは、聖霊様だけです。人々の心を変えることができるのも、聖霊様だけです。

人々がイエス様を拒絶するとき、聖霊様は彼らの罪を明らかにされます。(ところで、この箇所における「罪」とは、一般的な悪行を指すのではなく、イエス様を拒絶することを意味します。)

イエス様が天に戻られたため、私たちはイエス様の義の模範を直接見ることができません。だからこそ、聖霊様は私たちに何が良いのかを教え、イエス様こそが救いの道であることを示してくださいます。

また、聖霊様は人々に将来の裁きについて警告されます。サタンが裁かれるのはもちろんですが、キリストを拒絶する者も裁かれます。

最後に、聖霊様は私たちをすべての真理へと導いてくださいます。私たちが聖書を読むとき、聖霊様はその言葉の意味を教えてくださいます。

初めて聖書の言葉を読むとき、その意味が分からないかもしれません。けれども、後になって私たちがその言葉を必要とするとき、聖霊様はそれを思い出させ、その意味を説明してくださいます。

もう一つのことに気づいてください。つまり、天の父とイエス様と聖霊様の交流です。

天の父が知っておられることは、イエス様も知っておられます。そして、イエス様が知っておられることを、聖霊様は正しい時に私たちに現してくださいました。

天の父、イエス様、聖霊様は唯一の神であり、調和して働かれます。

では、この真理が私たちにとってどんな意義を持つのでしょうか。

イエス様が「私たちの益のために天に戻る」と言われたとき、それは本気の言葉でした。なぜなら、聖霊様を通して神様ご自身が、イエス様を信じる者のうちに住んでおられるからです。

聖霊様は私たちを通して、周りの人々をイエス様へと導かれます。聖霊様は私たちの弁護士として働き、私たちのためにとりなし、教え、導いてくださいます。また、聖霊様は私たちを慰めてくださいます。

イエス様、聖霊様を私たちに与えてくださり、感謝します。聖霊様を通して、あなたは真にインマヌエル—「私たちとともにおられる神」です。

聖霊様、どうか毎日私たちを導き、教え、助けてください。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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職業上の危険

私が初めて日本に来たとき、教会で英会話の授業を教えていました。

その頃、牧師のお嬢さんはキリスト教の幼稚園で働いていました。

ある日、一人の子供が彼女の手をハサミで刺しました。幸いにも、そのハサミの刃の先端が丸かったため、彼女は無事でした。

後日、彼女は私にこう言いました。「私の幼稚園では英語の先生が必要です。そこで働きませんか。」

私はそのハサミの話を覚えていたので、断りました。そんな職業上の危険には全く興味がなかったからです。😄

しかし、クリスチャンとして、私たちは避けられない「職業上の危険」があります。もし私たちがイエス様のことを伝えるなら、怒る人がいるでしょう。私たちを憎む人もいるでしょう。

イエス様はこう言われました。

世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。

しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。

しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。

人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。彼らがわたしのことばを守ったのであれば、あなたがたのことばも守ります。

しかし彼らは、これらのことをすべて、わたしの名のゆえにあなたがたに対して行います。わたしを遣わされた方を知らないからです。(ヨハネの福音書15:18-21)

イエス様は完全な愛そのものでした。そして、完全な人生を歩まれました。それでも、人々は彼を憎みました。

私たちはイエス様の運命を避けられると思うでしょうか。

もちろん、すべての人々が私たちを憎むわけではありません。私たちがイエス様の真理を伝えると、私たちを愛する人もいます。けれども、イエス様のメッセージを曲げることを拒むなら、ときに相手の反応は敵対的になってしまいます。

残念なことですが、そのために多くのクリスチャンがメッセージを曲げてしまいます。なぜでしょうか。憎まれたくないから。争いを避けたいから。

私の言葉を誤解しないでください。私たちは、あえて争いを求めるべきではありません。

しかし、私たちがイエス様のメッセージを正しく伝えるなら、私たちを憎む人が現れるのは当然のことです。自然に対立が生じるでしょう。でも、それが私たちの目的ではありません。

それでも、イエス様のメッセージを伝えるとき、私たちは争いを恐れてはいけません。むしろ、「神様の計画のすべてを、余すところなく」知らせなくてはなりません。(使徒の働き20:27)

イエス様は決して争いを恐れませんでした。まして、私たちはなおさらです。