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ヨブ記

癒し

神様と話した後、ヨブにとって癒しの時間が訪れました。けれども、神様が求められたのは、ただ肉体の癒しだけではありませんでした。また、精神的な傷の癒しだけでもありませんでした。

ヨブの人間関係にも癒しが必要でした。神様はヨブの友人たちにこう言われました。「あなたたちはヨブについて間違っていただけでなく、私について、そして私の目的についても間違っていました。」

ヨブがその言葉を耳にしたとき、つまり神様が彼の汚名をそそいでくださると知ったとき、本当に喜んだことでしょう。しかし、神様は彼らに命じられました。

今、あなたがたは雄牛七頭、雄羊七頭を取って、わたしのしもべヨブのところに行き、あなたがたのために全焼のいけにえをささげよ。

わたしのしもべヨブはあなたがたのために祈ろう。わたしは彼を受け入れるので、わたしはあなたがたの恥辱となることはしない。(ヨブ記42:8節)

ヨブはその言葉を聞いて、どのように感じたでしょうか。喜んで友人たちのために祈ったでしょうか。それとも、まだ傷ついていて、友人たちのために祈ることが難しかったのでしょうか。私の意見では、多分彼はまだ深く傷ついていたと思います。

この弁論がどれくらい続いたのかは分かりません。一日だけだったのでしょうか。それとも数週間にわたったのでしょうか。いずれにしても、彼らはずっとヨブを批判し、ヨブの整合性を疑い続けていました。

それでも、神様はこう命じられました。「ヨブ、あなたの友人たちのために祈りなさい。」

ヨブが友人たちを許し、彼らのために祈ったとき、ヨブの癒しが始まりました。人間関係も修復され、彼の人生のすべても回復しました。

この話から、私たちは本当に大事な原則を学べると思います。周りの人々に傷つけられると、私たちの心は苦さに陥りやすく、その苦さを持ち続けるのは簡単なことです。

しかし、神様は「許しなさい」と命じられます。それだけではなく、私たちは神様が彼らを赦してくださるよう祈るべきなのです。

「でもね、ブルース。あなたは彼らが何をしたのか知らないでしょう。本当に私を傷つけたのです。」

もちろん、私は何があったか知りません。けれども、神様はすべてをご存じです。たとえ彼らが悪かったとしても、神様は「許しなさい」と命じられます。どうしてでしょうか。

なぜなら、そうしなければ、あなたは決して癒しを経験できないからです。苦さは、ただあなたを傷つけた人との関係に影響を与えるだけでなく、あなたの人生全体に悪影響を与えます。

苦く、相手を許せない人々は、精神面だけでなく、身体面にも深刻な影響を受けるのです。研究によると、苦さは高血圧、胃潰瘍、心臓病などとも関係があると言われています。

私の大好きな引用はこうです。

許しは囚人を解放します。しかし、許すときに、すぐに気付くのは、その囚人が自分自身だったということです。

あなたは癒しを求めているでしょうか。許し方を学ぶ必要があります。

それは簡単なことでしょうか。いいえ、簡単だとは言えません。

もしかすると、あなたには牧師の助けが必要かもしれませんし、カウンセラーに相談することが必要かもしれません。けれども、何よりも必要なのは、神様の助けです。

そして、あなたが許すとき、そこから癒しが始まります。

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ヨブ記

結局一番大切なこと

ようやく、神様がやって来られました。

エリフは最後のスピーチで嵐について話しました。それは、嵐が近づいていたからでしょうか。そして、その嵐の中から神様がヨブに語られたのでしょうか。

いずれにせよ、ある人はこう訊くかもしれません。「どうして、あなたはエリフが正しかったと思うのですか。」

その答えは、40章で神様がヨブにこう尋ねられたからです。

あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするために、わたしに罪を定めるのか。(ヨブ記40:8)

エリフもほぼ同じことを言っていました。(32:2)

さらに、神様はエリフのスピーチの最後の部分を繰り返されます。

つまり、「私に疑問を抱くあなたは誰ですか。」

こうして、神様は言われました。

知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。

さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。(38:2ー3)

また、

だれが心のうちに知恵を置いたか。だれが心の奥に悟りを与えたか。(38:36)

そして、

非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それを言いたててみよ。 (40:2)

つまり、「ヨブよ。あなたはたくさん喋るが、何を言っているのか自分でもよく分かっていない。それに、少し考えてみなさい。あなたの思考力はどこから来たのか。それは私からではないのか。それでも、あなたは私と弁論できると思うのか。」

この箇所で、神様はヨブにヨブ自身の弱さと限界を思い出させます。

神様がこの世界を造られた時、ヨブはそこにいませんでした。だから、ヨブは神様がどのようにこの世界を造られたのかも知らず、自然の法則についてもよく理解していませんでした。(38:4~11)

さらに、ヨブの経験には限界がありました。海の深さを経験したことがなく、この世界の果てまで行ったこともなく、宇宙へ行ったこともありませんでした。雲にすら到達したことはありませんでした。(38:16~24)

また、ヨブには自然をコントロールする力もなく、草を育てる力もなく、雨を降らせることも雷を鳴らすこともできず、星を出したり、すべての動物に餌を与えることすらできませんでした。(38:25~41)

ヨブは動物を作ったこともありませんでした。ダチョウに速く走る力を与えたのは神様であり、馬に力を与えたり、わしに飛ぶ力を与えたりするのも神様です。それに、この世界の動物をすべて飼いならすこともできませんでした。(39章)

さらに、ヨブはカバやレビヤタン(その意味は少し曖昧で、ワニを指すのかもしれません)と戦うことができなかったのです。それなのに、どうしてその創造主と戦えるというのでしょうか。(40~41章)

ヨブは自分の弱さと限界に直面したとき、へりくだり、神様にこう言いました。

あなたには、すべてができること、あなたはどんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。。。

まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。(ヨブ記42:2ー3)

私たちは何を学べるのでしょうか。以前も言いましたが、繰り返すことは価値があると思います。ヨブは、自分がなぜ苦しんだのかを最後まで知りませんでした。

もちろん、「神様は私を罰しているわけではない」とは理解しましたが、それ以上のことは知らされませんでした。

神様は「実は、サタンと私は少し話していて…」というような説明は全くされませんでした。

それでも、最終的にヨブにとって、その理由を知ることはもはや重要ではありませんでした。一体、何が大切だったのでしょうか。

私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。(42:5)

つまり、「どうしてこの事件が起こったのかは、もはや大切ではありません。大切なのは、あなたがここにおられ、私を愛してくださるということです。

あなたは私よりも偉大で、私よりも知識と知恵を持っておられます。そして、私に会う義務はなかったのに、私を愛し、私に会ってくださったのです。

だから、私はへりくだります。そして、私の疑問を置いておきます。」

私たちは、すべての疑問の答えを知ることができないかもしれません。神様は決して答えを与えてくださらないかもしれません。それでも試練と苦しみの中で、次の3つのことを思い出さなくてはなりません。

  1. 神様はすべてを制御しておられます。そして、私たちが理解できなくても、神様は何をしておられるかよく理解されています。
  2. 私たちが神様の臨在を感じられなくても、神様はここにおられます。
  3. 神様は私たちを愛しておられます。

この3つのことを決して疑わないでください。一言で言えば、これがヨブ記のメッセージです。

だから、たとえ試練があっても、苦しみがあっても、ヨブのようにこの真実を心に持ち続けましょう。

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ヨブ記

神様の正義、私達の傲慢

多くの人々は神様の良い性質や存在を疑います。彼らはこう言います。「もし神様が存在し、善良なお方であるなら、なぜこの世界に悪があるのでしょうか。なぜ神様は悪をすべて取り除かないのでしょうか。悪がある以上、絶対に神様は存在しない。たとえ存在していたとしても、神様は善良なお方ではないのです。」

ヨブもまた、ヨブ記の20ー21章および23章で、この疑問について語りました。ヨブはこう尋ねました。「なぜ多くの悪人が罰されないのでしょうか。」

すると、エリフは答えました。

神は決して悪を行わない。全能者は公義を曲げない。(ヨブ記34:12)

そして、14ー15節で、エリフは本当に大切なポイントを述べます。それは、もし神様が完全な正義を強要されたなら、すべての人々が滅ぼされるということです。(34:14ー15)

なぜなら、私たちは皆、罪を犯しているからです。

さらにエリフはこう言いました。「神様はすべての悪人を今罰していないかもしれませんが、私たちが『悪人は決して罰せられていない』とは断言できません。

そして、神様はえこひいきをなさらない方です。結局、すべての罪人は自分の罪の代償を払わなければなりません。

しかし、もし神様が今、憐れみによって何もなさらないのであれば、どうして私たちは文句を言えるでしょうか。なぜなら、もし神様が憐れみを示してくださらなければ、私たちは皆、滅ぼされてしまうからです。」(34:18ー19)

その後、エリフはへりくだる人々とヨブを比較しました。へりくだる人々は自分の罪を認め、悔い改めますが、ヨブは神様の正義を疑問視していました。

エリフは問いかけました。「神様がその態度に報いられると思いますか?あなたはまるで悪人のように話しています。」

35章では、エリフがヨブの言葉の矛盾を指摘します。ヨブは「神様が私の言葉を聞いてくだされば、私の汚名はそそがれる」と言いましたが、同時に神様の正義を疑っていました。

けれども、もしヨブの言うように神様が不正義な方であるなら、そもそも神様がヨブの無罪かどうかを気にすることはないでしょう。

続いて、エリフは「もし神様が不正義な方であるならば、どうして私たちは善を行うべきなのでしょうか」という傲慢な疑問に答えました。

ヨブ自身はその言葉を使いませんでしたが、もしヨブが言うように神様が悪人を罰しないとしたら、多くの人々がそのように考えるでしょう。

エリフはこう答えました。「神様が『悪から離れ、正しいことを行いなさい』と言われるのは、神様ご自身の益のためではなく、私たちの益のためです。

もちろん、神様は私たちを裁かれます。そして、私たちの罪は神様との関係に影響を与えます。

とはいえ、私たちの行動が影響を与えるのは、神様よりもむしろ私たち自身や周囲の人々です。ですから、もし私たちが神様の命令を無視するなら、その結果、傷つくのは私たち自身なのです。」(35:6ー8)

さらにエリフは、別のポイントを指摘しました。多くの人々は苦しみの中で叫びますが、ほとんどの場合、神様に心を向けません。彼らが傲慢な態度を取り続けるため、神様はその叫びをお聞きになりません。

そのため、エリフはヨブに言いました。「あなたも同じような態度を取っています。神様の正義を疑う中で、神様があなたの叫びに答えるべきでしょうか。」(35:9ー15)

そして、36章でエリフは再び繰り返します。神様は悪人を罰し、たとえ正しい人々が苦しむことがあっても(ヨブの友達はそれを認めませんでした)、神様は彼らを高めてくださいます。(36:6ー7)

けれども、エリフはヨブに警告しました。もし神様が苦しみを通してヨブを懲らしめておられるのであれば、その理由を必ずお示しになります。そして、神様は沈黙されません。

(ここでエリフが暗に認めているのは、神様がまだヨブにその理由を明かされていないということかもしれません。)

ただし、もし神様が「悔い改めなさい」と言われたなら、ヨブはへりくだってそれを受け入れ、苦い心を捨てなければなりません。そうしなければ、ヨブは最終的に滅ぼされてしまうでしょう。(36:8ー13)

さらにエリフは別の警告を与えました。もし神様の正義を疑い続けるなら、その態度は罪へとつながるかもしれません。(36:17ー19)

最後にエリフはこう言いました。「あなたは神様を裁く立場にはありません。神様がその苦しみを許されることを批判する資格はないのです。」

これがエリフの言葉です。

見よ。神は力にすぐれておられる。神のような教師が、だれかいようか。

だれが、神にその道を指図したのか。だれが、「あなたは不正をした」と言ったのか。(ヨブ記36:22ー23)。

また、

見よ。神はいと高く、私たちには知ることができない。その年の数も測り知ることができない。 (36:26)

エリフは続けてこう言いました。

神は、御声で驚くほどに雷鳴をとどろかせ、私たちの知りえない大きなことをされる。 (37:5)

最後に、エリフはこう言いました。

神に何と言うべきかを私たちに教えよ。やみのために、私たちのことばを並べることができない。

私が語りたいと、神にどうして伝えられようか。人が尋ねるなら、必ず彼は滅ぼされる。

今、雨雲の中に輝いている光を見ることはできない。しかし、風が吹き去るとこれをきよめる。(37:19ー21)

つまり、「あなたは神様と弁論したいのですか?あなたの理解はあまりに小さく、曖昧であるため、良い弁論をすることはできません。神様の知恵と知識は、あなたの理解をはるかに凌ぎます。神様の聖さも、あなたの清さをはるかに凌ぎます。」

では、私たちは何を学ぶべきでしょうか。神様の正義を疑問視することは、私たちの傲慢さを表しています。神様と比べると、私たちはほとんど何も知らないのです。

さらに、私たちは罪深い存在であり、どうして私たちが神様の正義を疑問視することができるでしょうか。私たちは神様に答えを要求する立場にはないのです。

それでは、私たちが疑問を抱いたとき、どうすればよいのでしょうか。たとえ難しくても、私たちはその疑問を一旦置いておき、神様を信じるべきです。

神様の善良な性質を信じ、神様の正義を信じ、神様の知恵を信じるのです。そうするならば、神様は私たちの信仰に報いてくださるでしょう。

エリフが言ったように、

私たちが見つけることのできない全能者は、力とさばきにすぐれた方。義に富み、苦しめることをしない。

だから、人々は神を恐れなければならない。神は心のこざかしい者を決して顧みない。(ヨブ記37:23-24)

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ヨブ記

苦しみ、謙遜、と恵み

ヨブ記を解説する上で、さまざまな問題があります。その一つが、エリフの言葉をどのように理解すべきかということです。

ある学者たちは次のように考えています。「エリフはただの馬鹿なおしゃべりにすぎませんでした。そのため、誰も彼を重要視しませんでした。」

一方で、別の学者たちは次のように述べています。「エリフは正しかった。彼はヨブを神様の言葉を受け入れるための準備をしていたのです。」

私はエリフが正しかったと思います。なぜなら、32章2~3節で次のように書かれているからです。

エリフが怒りを燃やした。彼がヨブに向かって怒りを燃やしたのは、ヨブが神よりもむしろ自分自身を義としたからである。

彼はまた、その三人の友に向かっても怒りを燃やした。彼らがヨブを罪ある者としながら、言い返すことができなかったからである。

エリフが怒っていた理由は二つありました。

一つ目は、ヨブが神様の正義を疑ったことです。

二つ目は、ヨブの友達がヨブの神様についての誤った考え方を正そうとしなかったことです。彼らはただ、「あなたは罪人です。神様はあなたを罰している」と言い続けました。

けれども、ヨブが具体的にどの罪を犯したのかについては、まったく説明できませんでした。

33章では、エリフがヨブの文句に答えます。その文句はこうでした。「私は何も悪いことをしていないのに、神様は私に敵対している。それに、神様は私の文句に対して沈黙している。」

エリフはこう答えました。「神様は必ず私たちに語りかけてくださいます。しかし、多くの場合、私たちはそれを聞いていないのです。」

さらに、エリフはこう言いました。「時には、神様は私たちの夢を通して語られます。」

おそらく、エリフはヨブの悪い夢について考えていたのでしょう。その夢の目的とは何だったのでしょうか。

人にその悪いわざを取り除かせ、人間から高ぶりを離れさせる。

神は人のたましいが、よみの穴に、入らないようにし、そのいのちが槍で滅びないようにされる。(ヨブ記33:17-18)

ある学者たちは、エリフが暗に「あなたは罪を犯したから、神様があなたを罰している」と言っていると考えています。

けれども、もしそうだったなら、神様がヨブの友達を批判したときに、なぜエリフも批判されなかったのでしょうか。おそらく、エリフは「ヨブが大きな罪を犯したから神様が彼を罰している」とは言わなかったからです。

むしろ、彼はこう言いました。「ヨブ、私たちは皆、罪を犯しますよね?あなたは大きな罪を犯していないかもしれませんが、時々罪を犯すことはあるでしょう?だから、神様は時折、私たちの罪とプライドを取り除くために、このような試練を許されるのです。

そして、神様が私たちの敵だから、私たちを苦しめるわけではありません。むしろ、神様は私たちを愛しておられ、私たちの救いのために常に働いておられるのです。」

そして、エリフはこう言いました。

見よ。神はこれらすべてのことを、二度も三度も人に行われ、

人のたましいをよみの穴から引き戻し、いのちの光で照らされる。(33:29-30)

さらに、苦しみの中で、私たちは神様の恵みを見出すことができます。

23ー25節で、エリフは代言者について語ります。その代言者は、私たちに正しい道を教え、私たちのためにとりなしを行います。そして、その代言者はこう言います。

彼を救って、よみの穴に下って行かないようにせよ。わたしは身代金を得た。(24)

そのとりなしによって、苦しんでいる人は祈ることができるようになり、神様の恵みを見出すことができるようになります。そして、その時、彼らは喜びの叫びを上げます。

私は罪を犯し、正しい事を曲げた。しかし、神は私のようではなかった。

神は私のたましいを贖ってよみの穴に下らせず、私のいのちは光を見る。(27-28)

これは、新約聖書における救いの象徴ではないでしょうか。

ですから、この箇所から私が学んだのは、私たちの苦しみの背後には、神様の目的があるということです。私たちの試練を通して、私たちがへりくだるようになり、自分たちが罪人であり、神様の恵みが必要であることを思い出すのです。

もし、私たちがヨブのように神様の意図を疑うなら、一つのことを思い出しましょう。それは、神様が私たちを死と地獄から救うために、身代金を備えられたということです。その身代金は、神様の御子の命そのものでした。

ですから、私たちが苦しむとき、「神様が私たちを憎んでいるから、この試練を許された」と思わないでください。むしろ、神様は私たちを愛しておられるので、この試練を通して私たちを清め、救ってくださるのです。

ヨブが語ったように

しかし、神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。私は金のように、出て来る。(ヨブ記23:10)

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ヨブの最後の弁解

ヨブはこの箇所で、一番長いスピーチをします。それはヨブの最後の弁解です。

27章では、ヨブはもう一度こう言います。「私はこの苦しみに値していない。」そして、彼はその友達についても語ります。

私の敵は不正をする者のようになれ。私に立ち向かう者はよこしまな者のようになれ。

神を敬わない者の望みはどうなるであろうか。神が彼を断ち切り、そのいのちを取り去るときは。

苦しみが彼にふりかかるとき、神は彼の叫びを聞かれるであろうか。(ヨブ記27:7-9)

そして、彼は言いました。「あなたたちは『悪人だけが呪われる』と言ったでしょう?それなら、あなたたちは冤罪の罪を犯したので、呪われることになりますよ。」

その後で、ヨブはその友達の「悪人の呪い」についての教えを繰り返し、「その言葉はあなたたち自身に当てはまるのですよ」と言いました。

そして、自分の弁解を続けました。

28章では知恵について語りました。つまり、人々は金や銀を鉱山から採取しますが、神様の御告げがない限り、誰も知恵という宝を見つけることはできません。また、神様が教えなければ、人々は知恵の価値を理解することができません。

しかし、ヨブはこう言いました。「神様は知恵を現してくださいました。」

それは、

主を恐れること、これが知恵である。悪から離れることは悟りである。(ヨブ記28:28)

ヨブは文句を言っても、彼は本当の知恵とは何かを否定しませんでした。つまり、彼は主を恐れ続けたのです。

それでも、29章から31章にかけて、もう一度彼の苦しみについて文句を言い始めました。

29章では、彼は自分の以前の人生について語りました。かつて彼は尊敬され、正しい行いをしていました。

具体的には、貧しい人を助け、身寄りのない人や未亡人にあわれみを示し、さらに弱い人々を助けていたのです。そのため、神様がヨブを祝福するはずだと考えていました。

けれども、30章でヨブはこう文句を言いました。「神様はすべてを奪われた。今や皆が私をからかっている。それに、神様は私の祈りを全く聞いてくださらない。」

そして、30章から31章にかけて、ヨブはこう問いかけます。「私は貧しい者を助けたでしょう?苦しんでいる人のために悩んだでしょう?私は清い目を保ったでしょう?

もし私が姦淫を犯したり、貧しい人を助けなかったり、金銭を私の神としたり、偶像礼拝をしたり、敵の苦しみを見て喜んだり、私の罪を隠したりしたなら、どうぞ私を罰してください。

けれども、私はそのようなことを一切行っていません。

これが私の弁解です。それに署名しました。では、神様、もし私を責めたいのであれば、どうかお答えください。」

この箇所から何を学べるでしょうか。私は二つのことがあると思います。

一つ目は、ヨブの友達の「悪人だけが苦しむ」という考え方が間違っていたことです。

二つ目は、ヨブの「私が苦しみに値しないから、苦しむべきではない」という考え方も間違っていたことです。

私たちが住んでいる世界は壊れています。地震があり、台風があり、自然災害があります。また、この世界には病気や死があります。さらに、罪によって堕落した人々が多く存在し、その行動が私たちに影響を与えます。

そして、サタンもいます。また、サタンには多くの手下がいます。彼らは私たちを憎み、私たちを攻撃します。

これらすべてが私たちに影響を与えるため、神様は決して「あなたは苦しむことがない」とは約束していません。

むしろ、神様はその逆のことを約束されています。イエス様はこう言われました。

あなたがたは、世にあっては患難があります。(ヨハネ16:33)

イエス様は「あなたがたは、世にあっては患難があるかもしれない」とは言われませんでした。

むしろ、イエス様は「あなたがたは、世にあっては患難があります」とはっきりと言われました。

たとえ、あなたがこの世で最も賢く、正しい人であっても、苦しみはやってきます。

イエス様はすべての人々よりも賢く、正しかったにもかかわらず、苦しみを受けられました。私たちはイエス様にまさる者でしょうか。

時々、クリスチャンたちは「私たちが苦しまないように、イエス様は私たちのために苦しまれた」と言います。

しかし、それは間違っています。イエス様は、私たちをあがなうために苦しまれました。また、いつか、すべてが新しくなるために苦しまれました。その日はまだ来ていませんが、必ず訪れます。

ですから、苦しむときは、その日を待ち望みましょう。

パウロはこう書いています

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。

それは、被造物が虚無に服したのが自分の意思ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。

被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。

もしまだ見ていないものを望んでいるなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。(ローマ8:18-25)

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不完全な理解、歪んだ視点

やっと、ヨブの友達のスピーチが終わりました。要約すると、ビルダデはこう言いました。

「神様は偉大な方です。神様は聖なる方です。でも、あなたはどうでしょうか。

あなたはただの蛆(うじ)です。あなたはただの虫けらです。あなたは汚れていて、不潔な人です。」

ヨブは皮肉たっぷりに答えました。

「すごい!あなたの知恵は素晴らしい!あなたは偉いですね。」

そして、ヨブは言いました。

「もちろん、神様は偉大な方です。もちろん、神様の力はどんなものか想像できません。神様と比べると、私は取るに足りない存在です。

でも、この苦しみは私にふさわしいものではありません。あなたが何を言っても、私を説得することはできません。」

ビルダデを見ると、私は二つのことが分かります。

一つ目は、彼の神様についての考え方が不完全で歪められていることです。もちろん、神様は偉大な方ですし、神様と比べると私たちは取るに足りない存在です。

また、私たちの視点から見ると、神様の聖なる性格と比べると、私たちは虫けらか、蛆のように見えるかもしれません。

しかし、神様は私たちをそのようには全然思っておられません。

どうして私はそう思うのでしょうか。それは、神様が人間としてこの世に来られた時、「虫けら」とか「蛆」と呼ばれた人々と時間を過ごし、癒やしてくださったからです。体だけを癒やしたのではなく、その魂も癒やしてくださったのです。

イエス様は、投石されそうだった売春婦に手を差し伸べて、あわれみを与えてくださいました。

また、皆に憎まれていた悪辣な取税人に友情の手を差し伸べられました。

イエス様は彼らや他の悪名高い罪人たちと共に食事をし、時間を過ごされました。そして、その結果、彼らの人生は全く変わりました。

けれども、それだけではありません。死に値しない方であったにも関わらず、イエス様は十字架で死なれました。

イエス様は清い方でした。聖なる方でした。それでも、私たちの罪のために死なれたのです。なぜでしょうか。私たちを蛆だと考えていたからでしょうか。私たちを虫けらだと考えていたからでしょうか。違います。

イエス様は、私たちをすばらしい価値のある真珠だと考えられたからです。だから、高い値段でも、イエス様は喜んで払ってくださいました。

私が高校生の時、クリスチャンのコメディアンの話を聞いたことがあります。その時、彼は一番好きな歌について話しました。彼にとって、その歌はキリスト教のメッセージを要約したものでした。

彼は「その歌は何だと思いますか。」と尋ねました。

「たぶん、それは、本当に昔の素晴らしい賛美歌でしょうね。例えば……」

(コメディアンは深呼吸をして、荘重な声で「神は我がやぐら」という賛美歌のメロディで歌い始めました。)

I come before Thy throne of grace,
And throw myself upon my face.
私はあなたの恵みの御座の前に進み出て、ひれ伏します。

I know that I am but a worm.
私は自分がただの虫けらであることを深く理解しております。

So step on me God and watch me squirm.
だから、神様、私を押しつぶしてください。そして、私がもがく様子をご覧になってください。

(はい、そうですね。アメリカのユーモアは少し独特ですね。)

けれども、そのコメディアンはその後こう言いました。

「いや、違います。むしろ、この一つのシンプルな歌がキリスト教のメッセージをまとめていると思います。」

(「主われを愛す」のメロディ)

Jesus loves me this I know.
イエス様が私を愛しておられることを知っています。

For the Bible tells me so.
聖書にそう書かれているからです。

Little ones to him belong.
小さな子供たちはイエス様に属しているのです。

They are weak but he is strong.
彼らは弱いですが、イエス様は力強いお方です。

Yes, Jesus loves me.
そう、イエス様は私を愛しておられる。

Yes, Jesus loves me.
そう、イエス様は私を愛しておられる。

Yes, Jesus loves me.
そう、イエス様は私を愛しておられる。

The Bible tells me so.
彼らは弱いですが、イエス様は力強いお方です。

もちろん、それは福音のメッセージのすべてではありません。けれども、それは福音のスタート地点です。もし神様が私たちを愛しておられなかったら、福音は存在しません。

私たちは、その愛をこの世界の傷ついている人々と分かち合わなければなりません。ビルダデはそれをしませんでした。(これが、ビルダデについての二つ目のことです。)

おそらく、ビルダデが「神様はあなたを愛している」と言ったとしても、ヨブを慰めることはできなかったと思います。しかし、もしビルダデが自分の行動を通して神様の愛と哀れみを示していたなら、ヨブを慰めることができたかもしれません。

つまり、ビルダデの行動と言葉を通して、ヨブはこう感じたかもしれません。「神様はまだここにおられる。神様はまだ私を愛しておられる。このビルダデを通して、神様の愛と哀れみが見えるから。」

あなたはどうでしょうか。あなたの神様についての考え方は不完全で歪められているでしょうか。神様にとって、あなたはただの虫けらだと思うでしょうか。

神様は決してそのようには思っておられません。神様はあなたを愛しておられます。そして、神様はその愛をこの世界に分かち合うことを望んでおられます。あなたの言葉だけではなく、あなたの行動を通しても、その愛を分かち合ってほしいのです。

あなたは神様の愛を知っていますか。ほかの人々はあなたを通して神様の愛を見ることができるでしょうか。

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見えない神との関わりにおけるフラストレーション

残念なことに、エリパズは再びヨブを責めました。だから、ヨブは言い続けました。「もし私が罪を犯したのなら、どの罪を犯したのか教えてください。」

そして、ついにエリパズは具体的にヨブの罪について語り始めました。けれども、問題は、それがすべて冤罪だったことです。

そこで、ヨブは再び神様の前での裁判を求めました。彼はこう言いました。

ああ、できれば、どこで神に会えるかを知り、その御座にまで行きたい。

私は御前に訴えを並びたて、ことばの限り討論したい。

私は神が答えることばを知り、私に言われることが何であるかを悟りたい。

神は力強く私と争われるだろうか。いや、むしろ私に心を留めてくださろう。

そこで正しい人が神と論じ合おう。そうすれば私は、とこしえにさばきを免れる。(ヨブ記23:3-7)

ヨブはもう一度、自分の無実を宣言しました。また、ヨブは神様の公平さを信じていることも明言しました。ヨブは心の中でこう考えていました。「もし神様と論じ合うことができたなら、きっと私は正義を勝ち取るだろう。」

けれども、その後で、ヨブはこう言いました。

ああ、私が前へ進んでも、神はおられず、うしろに行っても、神を認めることができない。

左に向かって行っても、私は神を見ず、右に向きを変えても、私は会うことができない。(ヨブ記23:8-9)

つまり、ヨブはこう叫びました。「神様!あなたはどこですか?私が苦しんでいるのに、あなたはどこにおられるのですか?どうして、あなたは私に敵対しておられるのですか?」

これが、見えない神様との関わりにおけるフラストレーションです。時には、試練の中でも神様の臨在を感じ、慰めを得ることがあります。

しかし、時には神様がとても遠く感じられることもあります。その理由は私たちには分かりませんし、神様も説明されることはありません。

私たちは祈りますが、その祈りが神様に届かないように思える時があります。聖書を読みますが、神様が何も語られないように感じることもあります。そんな時、ヨブのように私は問いかけます。

「どうして、あなたは私に敵対しておられるのですか?私は悪いのでしょうか?もしそうなら、どうか私に教えてください。」

そのような状況で、私たちはどうしたら良いのでしょうか。簡単な答えはありません。

しかし、私がヨブを尊敬しているのは、彼が神様に疑問を投げかけ、神様が彼を捨てられたと思い、さらには神様が彼を迫害されていると思ったにもかかわらず、ヨブが決して神様を見捨てることはないと信じていた点です。

そして、ヨブの問いと苦情、苦しみの中で、彼は信仰に基づき次のような言葉を残しました。

しかし、神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。私は金のように、出て来る。(23:10)

だから、辛い試練を経験しても、ヨブは続けてこう言いました。

私の足は神の歩みにつき従い、神の道を守って、それなかった。

私は神のくちびるの命令から離れず、私の定めよりも、御口のことばをたくわえた。(23:11-12)

私たちも同じ態度を取らなくてはなりません。たとえ神様が遠く感じられる時や、神様が私たちに敵対しておられるように思える時でも、私たちは神様にすがりつくべきです。

また、神様の慈しみを信じ続けなくてはなりません。そして、神様が公平な方であることを疑わず信じ続けるべきです。そしてもう一つ、私たちが今苦しんでいたとしても、最終的には金のように純粋にされるという希望を持ち続けることです。

だから、試練が訪れても、神様に背を向けないでください。たとえ神様を見つけられないように思える時でも、神様のことをあきらめないでください。

神様の言葉を心に蓄え、その言葉を手放さないでください。そして、神様を求め続けましょう。

そうすれば、ヨブのように、あなたも再び神様を見出す時が来るでしょう。

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ヨブ記

辛い真実

ヨブ記を読み続けると、ヨブの友達は頑固に「あなたは何か悪いことをしたから、神様があなたを罰している」と言い続けます。

けれども、ヨブとその友達の喧嘩の中で、私たちは神様が答えてくださらない疑問に直面します。それは、「どうして神様は悪を止めようとなさらないのでしょうか」という疑問です。

また、「時々悪い人は苦しむけれど、どうしていつもそうではないのでしょうか。時々、彼らは本当に幸せな人生を送っているように見えます。どうして彼らはもっと苦しまないのでしょうか」とも考えます。

ツォファルの答えは単純です。「悪人の人生は一時的にうまくいくけれど、結局は苦しむよ。」

しかし、ヨブはこう答えます。

「そうですか?でも、私が見るのは、彼らが生き続けており、さらに強力になっている姿です。どうしてでしょうか?どうして彼らは神様を恐れないのに、富を得たり、安全な人生を送ったりしているのでしょうか。」

ヨブは続けてこう言います。

「あなたが言ったように、彼らの子供たちは苦しむかもしれませんが、どうして本人が苦しまないのでしょうか。亡くなったら、子供のことをもう気にしないではないですか。どうして神様はその本人を罰しないのでしょうか。」

だから、21章の最後で、ヨブは言いました。

どうしてあなたがたは、私を慰めようとするのか。むだなことだ。あなたがたの答えることは、ただ不真実だ。(ヨブ記21:34)

24章で、ヨブは同じようなことを言います。皮肉を込めて彼はこう言いました。「分かりました。悪人は結局罰される。それでは、あなたの証拠を示してください。」

辛い真実ですが、多くの悪人が栄え、この世では神様からの罰を受けません。

もちろん、いつか神様は彼らを裁きますが、「どうして今裁かないのか」は理解しにくいです。

私にも分かりません。麦と毒麦のたとえ話(マタイ13:24-30)でイエス様が暗示されたのは、麦(神様に属している人々)を傷つけずに、毒麦(悪人)をこの世界から取り除くのは難しい、ということです。

たとえば、誰かが罪を犯した結果、ある人が本当に傷つきます。その人はそれまで神様のことを全く考えず、神様を求めてもいませんでした。けれども、自分の世界が揺れ動く中で、神様を求め始めます。

多くの日本人の場合も同じです。多くの日本人がクリスチャンになった理由は、人生の危機がきっかけでした。

それでも、私はこの答えに完全に満足しているわけではありませんし、それが完全な答えだとも思いません。しかし、その答えから分かるのは、神様は私よりもよくご存じで、賢明な方だということです。

また、神様には私たちには見えない目的と、私たちには分からない理由があります。それがヨブ記のメイン・ポイントの一つです。

有限の知識しか持たない私たちには、無限の知識を持つ創造者に尋ねる立場はありません。

他の記事で、この問題についてさらに深くお話しします。

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ヨブ記

贖い主

ヨブ記の中で、これは少し驚くべき箇所です。なぜなら、ヨブはイエス様のことを全く知らなかったにもかかわらず(もちろん、イエス様はまだお生まれになっていませんでした)、贖い主を信じることを叫んだからです。

最初に、もう一度触れておきますが、ヨブの友達はヨブの本当の状態を理解せず、ヨブを支えようとはしませんでした。そのため、ヨブはその友達を批判しました。

けれども、その中で、ヨブは叫びました。

どうか、私を保証する者をあなたのそばに置いてください。ほかにだれか誓ってくれる者がありましょうか。(ヨブ記17:3)

ヨブが何を言っているのか、少し分かりにくいです。「保証すること」と「誓うこと」というのは、どういう意味でしょうか。旧約聖書では、これらには三つの意味があります。

まず、創世記では、ユダが自分の命をかけてベニヤミンの命を保証しました。彼は父ヤコブにこう言いました。

私自身が彼の保証人となります。私に責任を負わせてください。万一、彼をあなたのもとに連れ戻さず、あなたの前に彼を立たせなかったら、私は一生あなたに対して罪ある者となります。(創世記43:9)

だから、ヨセフがベニヤミンを自分の奴隷として取ろうとした時に、ユダは「ベニヤミンの代わりに私を奴隷にしてください」と願っていました。

もう一つの意味があります。日本のように、もし誰かがローンを組みたい場合、時々保証人が必要です。もしお金を借りた人が返済しなければ、その保証人が代わりに支払います。

しかし、この箇所では、多分別の意味があります。もし誰かが犯罪に問われた場合、時々ある人がその人のために保証をします。つまり、「この人は無罪だと思う」と誓うのです。

なぜそのようにしたのか、私たちにはわかりません。それは裁判官の要求だったのかもしれません。

もし誰もその人の保証をしなければ、裁判官は有罪と判断するかもしれません。さらに、その人が有罪であっても、その報いを支払えない場合には、保証人が代わりに支払うこともあり得ます。

ヨブの言葉は本当に興味深いです。なぜなら、神様は保証人を要求する裁判官でありながら、ご自身が保証人であられるからです。

イエス様こそが私たちのためにそのようにしてくださいました。イエス様は神様でありながら、天の父がすべての裁きをイエス様にゆだねても、なお私たちの保証人でいてくださいます。

そして、神様は私たちの罪をご覧になり、私たちがその報いを支払うことができなかったので、イエス様はご自身の血でその代価を支払われました。

神様への嘆きの中で、ヨブは叫びました。

私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。

私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。

この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。私の内なる思いは私のうちで絶え入るばかりだ。(25-27)

ヨブ記を読むと、時々「ヨブは永遠の命を信じていたのだろうか」と思います。

彼の感情によって意見が変わったように見えることもあります。けれども、この箇所で、彼ははっきりと宣言します。「私は死んでも生きる。その時、私の贖い主は私を弁護してくださる。」

私たちも同じ希望を持っています。たとえ試練があっても、後の日に私たちの贖いは地上に立たれるのです。その日、天の父の前に立ち、私たちのために弁護して、「この人の罪のために、私はすでに支払いを済ませました」と言われるのです。

だからこそ、パウロが言ったように、キリスト・イエスにある私たちは、罪に定められることが決してありません。(ローマ8:1)

少し古いけれど、私の大好きな歌があります。

贖い主がいます。
神様の子イエス・キリストです。
神の尊い子羊、救い主、 聖なる方。

イエス様、私の贖い主、
すべての名にまさる名前。
尊い神の子羊、救い主、
罪人の希望、
罪人のために殺された。

私は栄光の中で立つときに、
イエス様の顔を見ます。
私の王に永久まで仕えます
その聖なるところで。

私のお父様、感謝します。
あなたはご自分の子を送ってくださいました。
そして、あなたの聖霊を残してくださいました。
この世界で、あなたの御業が終わるまで。

ーーキース・グリーン

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ヨブ記

煩わしい慰め手、本当の慰め手

エリパズの言葉を聞いて、ヨブは腹を立てて、このように返事をしました。

そのようなことを、私は何度も聞いた。あなたがたはみな、煩わしい慰め手だ。

むなしいことばに終わりがあろうか。あなたは何に興奮して答えるのか。

私もまた、あなたがたのように語ることができる。もし、あなたがたが私の立場にあったなら、私はことばを連ねてあなたがたを攻撃し、あなたがたに向かって、頭を振ったことだろう。

私は口先だけであなたがたを強くし、私のくちびるでの慰めをやめなかったことだろう。(ヨブ記16:2-5)

つまり、「もう、やめてくれ!何度も何度も同じことを繰り返して言うけど、その言葉は俺を全然助けていない。もしお前たちが俺の立場にあったなら、俺はお前たちを攻撃するだろうか?

いや、情け深い心を持って、俺はお前たちを慰め、お前たちを励ます。それなのに、どうしてそうしてくれないんだ?」

そして、ヨブは自分の惨めな人生について文句を言うけど、最後に興味深いことを言います

今でも天には、私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高い所におられます。

私の友は私をあざけります。しかし、私の目は神に向かって涙を流します。

その方が、人のために神にとりなしをしてくださいますように。人の子がその友のために。(19-21)

ヨブの友達は悪い慰め手でしたが、ヨブは天に誰かが、ヨブのためにとりなしをしてくださることを信じていました。

それはその通りです。私たちのためにも、誰かがとりなしをしてくださっています。パウロはこう書きました。

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。

私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。(ローマ8:26-27)

ヨブのように、私たちは苦しみ、どのように祈ったらよいかわからず、また私たちの友達が私たちをがっかりさせる時にも、私たちのためにとりなしをしてくださる方がおられます。その方は聖霊様です。聖霊様は私たちのために、神様の御心に従い、とりなしをしてくださいます。

それでは、その結果はどうなるのでしょうか。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)。

多くの場合、私たちは28節だけを読みますが、どうして神様が私たちの益のために働いておられるのか、わからないことがあります。その理由は、聖霊様が私たちのためにとりなしをしてくださっているからです。

あなたはヨブのように、神様があなたを捨てられたと思いますか。また、神様があなたに敵対しておられると思いますか。

それはサタンからの嘘です。今でも、聖霊様はあなたのためにとりなしをしてくださっています。ですから、たとえあなたが見えなくても、神様が私たちの益のために働いておられることを覚えておきましょう。

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ヨブ記

知っているつもりの高ぶり

ヨブが14章でもっと文句を言った後で、エリパズはもう一度話しかけます。もう一度、エリパズは「悪人だけが苦しむ」と言います。

でも、私にとって、興味深いことは、どうやって、その話を始めることです。

彼は言った。

知恵のある者はむなしい知識をもって答えるだろうか。東風によってその腹を満たすだろうか。

彼は無益なことばを使って論じ、役に立たない論法で論じるだろうか。(ヨブ記15:2-3)

また、

あなたは最初に生まれた人か。あなたは丘より先に生み出されたのか。

あなたは神の会議にあずかり、あなたは知恵をひとり占めにしているのか。(7-8)

エリパズはヨブを批判していたけど、実は、この言葉を彼自身に対して言ったほうが良かったのです。

彼は最初に生まれた人のように話した。

彼は神様の会議に与る人のように話した。

彼は自分自身だけが知恵がある人のように話した。

でも、結局、彼が分かったのは、彼がヨブについて、全く間違っていたことです。

空しい知識と言葉を持っていた人はエリパズ自身でした。

あなたはどうですか。「周りの人よりも、私は知っている」と思うでしょうか。私たちが状況を本当に知らないのに、すぐに「知恵」の決まり文句を言いますか。

ヨブがその友達に言ったように、多くの場合、私たちに対して、全く黙るのは知恵です。(13:5)

じゃあ、私たちは他の人々に決して知恵をシェアしないほうが良いんでしょうか。

そこまで言わない。でも、知恵の部分は、いつ知恵をシェアしたほうが良いか、また、どうやって知恵をシェアしたほうが良いか知っていることです。

そして、もし、状況を知らないと、知恵というのは黙ることです。情報を全部持っているまで、知恵は何も言わない。

あなたのあの言葉は知恵深いですか。もしくは、あなたの言葉は全部空しいでしょうか。

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ヨブ記

人々を裁くこと

この箇所では、ヨブの友人たちはヨブの性格を攻撃し続けています。

今度はツォファルの番です。ツォファルも他の友人たちと同じように、ヨブが悪いことをしたために、神様がヨブを罰していると主張します。

ヨブはそれを聞き、その友人たちの「知恵」を嘲笑し、「あなたたちだけではなく、私も神様の力と知恵をよく知っている」と言いました。その後、ヨブはこう言いました。

だが、私は全能者に語りかけ、神と論じ合ってみたい。

しかし、あなたがたは偽りをでっちあげる者、あなたがたはみな、能なしの医者だ。

ああ、あなたがたが全く黙っていたら、それがあなたがたの知恵であったろうに。

さあ、私の論ずるところを聞き、私のくちびるの訴えに耳を貸せ。

あなたがたは神の代わりに、なんと、不正を言うのか。神の代わりに、欺きを語るのか。

神の顔を、あなたがたは立てるつもりなのか。神の代わりに言い争うのか。

神があなたがたを調べても、大丈夫か。あなたがたは、人が人を欺くように、神を欺こうとするのか。

もし、あなたがたが隠れて自分の顔を立てようとするなら、神は必ずあなたがたを責める。

神の威厳はあなたがたを震え上がらせないだろうか。その恐れがあなたがたを襲わないだろうか。(ヨブ記13:3-11)

つまり、「あなたたちはたくさん言っているけど、事実を理解していない。『あなたは罪を犯しただろう?』と言うけど、私は全くしていない。あなたたちとはもう話したくない。神様と話したい。神様のほうが公平だから。

もし、あなたたちが神様の前に裁かれたら、立てるだろうか?あなたたちはどう感じるだろうか?」

ヨブは正しかった。彼らは根拠もないのにヨブを責めました。そして、神様が彼らを問い詰めると、彼らは立つことができませんでした。ヨブ記の最後にその様子が描かれています。

だから、私たちが人を裁くときには注意が必要です。

時々、人々はヨブの友人たちのように周りの人々を裁きます。彼らはこう言います。「あなたの病気が癒されない理由は、あなたの信仰が弱すぎるからです。もし信仰が十分なら癒されるはずです。」

時には、さらにひどいことを言います。「あなたには秘密の罪があるのでしょう?だから病気なのです。」

けれども、神様はそのような人たちを裁かれます。パウロはこのように書いています。

それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。

次のように書かれているからです。「主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる。」

こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。

ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。(ローマ14:10-13)

この箇所では、パウロは人々の意見について話しています。たとえば、野菜だけを食べるか、肉を食べるかということや、どの日に礼拝するべきかについてです。パウロは、これらの意見を理由に人々を裁いてはいけないと言いました。

しかし、ほかの箇所で、パウロはこうも言っています。もし誰かが罪を犯したなら、その罪を無視せず、その人に面と向かって指摘しなければならない、と。(第一コリント5章)

ただし、根拠がなければ裁いてはいけません。罪の証拠がないままに兄弟や姉妹を責めてはいけないのです。

そうすると、ヨブの友人たちのように、相手を助けるどころか、彼らの前につまずきになるものを置くことになります。そして、そのようなことをすれば神様はあなたを裁かれるでしょう。

あなたはどうでしょうか。根拠がないのに他の人を裁くことはありますか。イエス様はこのように言われました。

うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。(ヨハネ7:24)

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ヨブ記

神様は私たちを罰する機会を待っておられるのでしょうか

この箇所で、私がヨブの文句を読むと、多くの人々の考え方が浮かび上がってくるように感じます。ヨブはこう言いました。

あなたはいのちと恵みとを私に与え、私を顧みて私の霊を守られました。

しかし、あなたはこれらのことを御心に秘めておられました。私はこのことがあなたのうちにあるのを知っています。

もし、私が罪を犯すと、あなたは私を待ちもうけておられ、私の咎を見のがされません。(ヨブ記10:12-14)

また、

あなたの日々は人間の日々と同じですか。あるいは、あなたの年は人の年と同じですか。

それで、あなたは私の咎を捜し、私の罪を探られるのですか。(5-6)

ヨブのように、多くの人々は、神様が私たちの罪を犯すのを待っていると思っています。そして、私たちの罪を見ると、神様が喜んで私たちを罰すると考えています。

もちろん、もし私たちが良いことをすれば、神様が私たちを祝福すると信じています。しかし、もし私たちがたった一つの悪いことをすれば、「どかん!」と神様が私たちを罰すると感じています。

けれども、神様はヨブに対して、全くそのようには考えておられませんでした。ヨブ記1~2章にあるように、神様はヨブを責めておられませんでした。むしろ、サタンがヨブを責めていました。神様はヨブを擁護されていたのです。

今でも、誰かが私たちを責めるとき、神様は私たちを擁護してくださいます。以前のブログでそのことについて読んだことがありますが、もう一度確認してみましょう。パウロはこのように書きました。

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。。。

神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。

罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしてくださるのです。 (ローマ8:1,33-34)

ですから、「神様が私たちを罰したいから、私たちのミスを待っている」という考え方は捨てましょう。

神様は私たちを擁護してくださる方です。そして、もし私たちが神様の子供であるなら、決して罪に定められることはありません。

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ヨブ記

仲介者を必要とする

この箇所では、ヨブのフラストレーションが神様に対してあふれ出しました。ヨブは神様の主権を認めていましたが、それでも神様が非常に遠い存在に感じられ、自分が捨てられたように思えていました。

そのため、ヨブはこう言いました。

たとい神が私のそばを通り過ぎても、私には見えない。神が進んで行っても、私は認めることができない。

ああ、神が奪い取ろうとするとき、だれがそれを引き止めることができようか。だれが神に向かって、「何をされるのか」と言いえよう。(ヨブ記9:11-12)

それに、ヨブは神様が自分を苛めていると思っていました。

たとい、私が呼び、私に答えてくださったとしても、神が私の声に耳を傾けられたとは、信じられない。

神はあらしをもって私を打ち砕き、理由もないのに、私の傷を増し加え、

私に息もつかせず、私を苦しみで満たしておられる。

もし、力について言えば、見よ、神は力強い。もし、さばきについて言えば、だれが私を呼び出すことができるか。(16-19)

また、ヨブには神様が自分の惨めさを喜んでいるように感じられました。

にわか水が突然出て人を殺すと、神は罪のない者の受ける試練をあざける。(23)

ヨブにとって、最も辛かったのは、神様が不公平に思えたことでした。

みな同じことだ。だから私は言う。神は、潔白な者をも悪者をも共に絶ち滅ぼされる。。。

地は悪者の手にゆだねられ、神はそのさばきつかさらの顔をおおう。もし、神がそうするのでなければ、そうするのはだれか。(22,24)

ヨブを批判するのは簡単です。けれども、おそらく、ほとんどの人々はヨブのような苦しみに直面したら、同じように感じるのではないでしょうか。一番信仰の強いクリスチャンでさえ、そう感じる可能性があります。

しかし、この箇所で私たちが覚えておくべきことがあります。一つ目は、神様の前に立って「私は全然悪いことをしたことがない」と言える人は誰もいないということです。

ヨブはこう言いました。

まことに、そのとおりであることを私は知っている。しかし、どうして人は自分の正しさを神に訴えることができようか。

たとい神と言い争おうと思っても、千に一つも答えられない。

神は心に知恵のある方、力の強い方。神に身をこわくして、だれがそのままで済むだろうか。(2-4)

多くの人々は、裁きの日に神様の前に立ち、自分の人生について申し開きができると思っています。けれども、その日には、神様が私たちの悪い思いと行動のすべてを明らかにされます。

それだけではなく、良いことをする機会がありながら何もしなかったことも明らかにされます。そのとき、私たちは神様の聖なるご人格と比較して、自分がいかに罪深いかを知り、自分自身を申し開くことができないことを悟るのです。そして、私たちの言い訳や申し開きの空しさが明白になるでしょう。

その日、多くの人々は、ヨブのようにこう言います。

いったい、この私が神に答えられようか。私が神とことばを交わせようか。

たとい、私が正しくても、神に答えることはできない。私をさばく方にあわれみを請うだけだ。(14-15)

ヨブは、自分が無実であっても、無罪の人として神様の前に立つことができないことを理解していたため、叫びました。

私たちふたりの上に手を置く仲裁者が私たちの間にはいない。

神がその杖を私から取り去られるように。その恐ろしさで私をおびえさせないように。

そうすれば、私は語りかけ、神を恐れまい。いま私はそうではないからだ。(33-35)

ヨブには、そのような仲介者がいませんでした。しかし、私たちにはいます。パウロはこのように書きました。

神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。

キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。(第一テモテ2:5-6)

また、

死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしてくださるのです。(ローマ8:34)

神様の前で、誰も無罪の人として立つことはできません。私たちは皆、裁きを受けるに値します。しかし、イエス様は私たちの仲介者です。

イエス様は天の父にこう言われます。「私はその人の罪のために支払いをしました。」

それゆえ、天の父は私たちにこう言われます。「あなたはもう罪に定められていない。あなたは赦された。」

それだけではなく、イエス様は私たちのように苦しんだ経験をお持ちです。けれども、私たちと異なり、イエス様は罪がないにもかかわらず、苦しまれました。

だからこそ、イエス様は私たちの苦しみを理解されています。私たちの痛みをわかり、混乱を理解し、捨てられたと感じる思いをも共感してくださいます。

なぜなら、イエス様は人間として私たちと同じすべての感情を経験されたからです。

ヘブル人への手紙の著者はこのように書いています。

主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。(へブル書2:18)

また、

私たちの大祭司は「つまり、イエス様」、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル書4:15-16)

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ヨブ記

正しいけど、間違っている

エリファズはヨブに最初のスピーチをした。私にとって、興味深いポイントは、時々エリファズが正しいことを言ったことです。

実は、パウロは第一コリント3:19でエリファズの言葉を引用しています。

神は知恵のある者を彼ら自身の悪知恵を使って捕らえる。彼らのずるいはかりごとはくつがえされる。(ヨブ記5:13)

エリファズはもう一つの真実を語りました。

ああ、幸いなことよ。神に責められるその人は。だから全能者の懲らしめをないがしろにしてはならない。

神は傷つけるが、それを包み、打ち砕くが、その手でいやしてくださるからだ。(17-18)

ソロモンも、そのようなことを書きました。

わが子よ。の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。

父がかわいがる子をしかるように、は愛する者をしかる。(箴言3:11ー12)

しかし、問題は、この言葉がヨブの状況には適用できなかったという点です。神様はヨブを罰しておられず、ヨブは全く悪いことをしていませんでした。

そのため、その「真実」の言葉はヨブを助けるどころか、さらに彼を落ち込ませ、怒らせる結果となりました。

ヨブはこう思いました。「友人たちは私を慰めてくれるはずだったのに、かえって攻撃された」(6章)。

彼らの言葉によって、神様はまるで不公平な方のように見えてしまいました。つまり、ヨブが何の悪いこともしていないにもかかわらず、神様はヨブを罰しているように見えたのです(7章)。

私が伝えたいポイントはこうです。「真実」を使うときには注意が必要です。あなたの言葉が真実であったとしても、それがその状況に本当に適用できるかどうかをよく考えてください。

あなたの意図が良かったとしても、もしあなたの言葉がその状況に適用できないなら、相手を傷つけてしまう可能性があります。そして、神様はその言葉のためにあなたを裁かれるかもしれません。

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ヨブ記

簡単すぎる説明と冤罪

少し告白があります。このブログを英語で書いたとき、「ヨブ記はどうしようかなあ」と考えました。

ヨブ記の内容自体はそれほど問題ではありませんでしたが、難しかったのは、4章から31章まででヨブとその友人たちがずっと言い争いをしており、同じようなことを何度も繰り返している点です。

このブログは主にデボーションを目的としているため、普段はあまり具体的な解説を行っていません。そのため、ヨブ記をどのように進めればよいか、長い間考えてきました。

最終的に私が決めたのは、4章から31章をまとめて一般的な解説を行うことでした。その後、次の11回ほどのブログの記事で、さらに具体的な内容を取り上げることにしました。

時にはいくつかの箇所を省略することもありますが、神様の導きに従って書いていきます。

先ほども述べたように、4章から31章は主にヨブとその友人たちの言い争いが記録されています。友人たちはヨブの苦しみを見て、またヨブの訴えを聞いて、なぜヨブが苦しんでいるのかを説明しようとしました。

彼らは何を言ったのでしょうか。要約すると、彼らの答えは次のようなものでした。

もし、あなたの子らが神に罪を犯し、神が彼らをそのそむきの罪を手中に送り込まれたのなら、

もし、あなたが、熱心に神に求め、全能者にあわれみを請うなら、

もし、あなたが純粋で正しいなら、まことに神は今すぐあなたのために起き上がり、あなたの義の住まいを回復される。(ヨブ記8:4-6)

つまり、「あなたの子供たちは罪を犯したので罰せられた。あなたも罪を犯したのではないか。だからこそ、あなたが罰せられているのだ。けれども、悔い改めれば、神様があなたを赦してくださり、すべてが大丈夫になるだろう。」

そして、4章から31章まで、ヨブの友人たちは一貫して「神様はいつも悪人を罰し、悪人だけが苦しむ」ということを言い続けました。

しかし、この説明には二つの問題がありました。一つ目は、この説明があまりにも単純すぎたことです。ヨブが述べたように、悪人は最終的に罰を受けるかもしれませんが、この世界では罰を受けないこともあります。

また、悪人の行動によって無実の人々が苦しむこともあります。彼らは衣服を失い、飢え、またその子どもたちは奴隷にされてしまいます。

それだけでなく、無実の人が殺されることもあり、主人や妻が相手の不貞によって苦しむ場合もあります。(21章と24章)

したがって、「悪人だけが苦しむ」という主張は誤りです。

二つ目の問題は、さらに深刻です。ヨブの友人たちは、「ヨブが悪事を行ったに違いない」と言いましたが、それは完全に間違いでした。

神様はヨブについてこのように言われました。

おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。(1:8)

神様はヨブを罰しておられませんでした。神様の目から見ると、ヨブは無実であると言われます。ですから、ヨブの友人たちが「あなたは罪を犯したのではないか」と言ったとき、彼らは完全に間違っていたのです。

ヨブは彼らにこう言いました。

私に教えよ。そうすれば、私は黙ろう。私がどんなあやまちを犯したか、私に悟らせよ。(6:24)

しかし、彼らはヨブが犯した罪を一つも思いつくことができませんでした。それにもかかわらず、自分たちの主張を証明しようとして、ヨブの罪の例をあれこれ挙げましたが、それらはすべて根拠のないものでした(22:5-9)。

そして、彼らはこう結論づけました。「あなたはそのような罪を犯したのだろう。それゆえ、罰せられているのだ。」

私たちはこの話から何を学べるでしょうか。

人々がなぜ苦しむのかという疑問は、簡単に答えられるものではありません。ただ「悪人は罰せられ、善人は守られる」と言うだけでは解決にはなりません。その答えはあまりにも単純であり、誤っています。

ヨブ記1~2章を読むと、より深いことが明らかになります。つまり、悪霊が存在しており、その悪霊は私たちに対して悪意を持っています。

また、私たちの周りには悪い行いをする人々がおり、その行動によって私たちが影響を受けることもあります。したがって、神様からの罰以外に、もう二つの理由が見えてきます。

では、なぜ神様は悪霊や悪人の働きを止めようとなさらないのでしょうか。この疑問に対して、神様は答えを言われませんでした。ヨブ記でも答えられず、今日でも神様はその理由を説明しておられません。

しかし、ヨブ記の最後で神様がヨブに答えられたとき、ヨブにとっては神様が言われたことが十分で、満足するものでした。それについては、後ほど読みます。

もう一つ学べることは、人を責めるときに慎重でなければならないということです。特に、その人が苦しんでいるときには、さらに気をつけなければなりません。

なぜなら、冤罪を作ることは、その人との関係を損なうだけでなく、神様は冤罪を作る人を非常に嫌われるからです。

ヨブ記の最後では、そのことがはっきりと示されています。

この世の悪や、私たちの愛する人々がなぜ苦しむのかという疑問は、簡単に答えられるものではありません。

けれども、ヨブの友人たちのように、この疑問を安易に扱うことは避けましょう。単純すぎる答えを与えることは控えましょう。また、冤罪を作ることのないようにしましょう。

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ヨブ記

私たちが見えないもの

この箇所で、ヨブは本当に失望していました。それは、ヨブの大切なものをすべて奪われてしまったからです。

ヨブの子供たちは亡くなり、妻の心は苦々しく、ヨブの持ち物はすべて失われ、さらに彼の体には悪性の腫瘍が満ちていました。

このような状況では、誰でも心が折れてしまうのは不思議ではないと思います。そして、ヨブは自分の感情を表現しました。彼は自分の誕生日を呪い、生まれたときにどうして死ななかったのかと嘆きました。

ヨブは自殺したかったわけではないと思いますが、眠るたびに、「決して目覚めなければいいのに」と思っていたのです。

それでも、毎日目覚め、彼の状態は依然として厳しいものでした。そして、彼はこう思いました。「なぜ、苦しんでいる人々はそのように生き続けなければならないのでしょうか。つまり、どうして悔しく、苦い人生を生きなければならないのでしょうか。」

そして、ヨブは問いかけました。

神が囲いに閉じ込めて、自分の道が隠されている人に、なぜ、光が与えられるのだろう。(ヨブ記3:23)

つまり、私は自分の人生の目的が見えません。私は問題ばかりで、それがずっと続いているのに、どうして神様がこの命を与えてくださったのでしょうか。

最後に、ヨブはこう言いました。

実に、私には食物の代わりに嘆きが来て、私のうめき声は水のようにあふれ出る。

私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。

私には安らぎもなく、休みもなく、いこいもなく、心はかき乱されている。(24-26)

それは、ヨブの地上からの視点でした。

けれども、天の視点はどうでしょうか。なぜかは分かりませんが、ヨブはその視点を決して見ることがありませんでした。ヨブは、神様が天使とサタンの前でヨブを誇られたことを全く知りませんでした。

また、神様がその試練を許された理由は、ヨブに敵対していたわけではありませんでした。むしろ、神様はヨブがこの試練を乗り越えられると確信していたので、その試練が起こることを許されたのです。

しかし、神様はその理由をヨブに一切教えられませんでした。

さらに、大変なことが起こっても、神様がヨブの人生の上にその御手を置いておられたことをヨブはまったく知りませんでした。

サタンはヨブを完全に破壊したいと願っていましたが、神様がそれを許されませんでした。しかし、それさえもヨブには教えられませんでした。

私たちも試練に直面するとき、なぜそのような悪いことが起こるのかを理解できないことがあります。そして、神様が私たちに反対していると思うかもしれません。神様がもう私たちを愛しておられないと思うかもしれません。あるいは、神様が私たちのことを気にしておられないと思うかもしれません。

けれども、どうか忘れないでください。神様の私たちに対する愛は決して止まることはありません。それどころか、神様は誇りある父として私たちを考え、信じておられることを覚えておきましょう。

また、何が起こったとしても、神様は守りの御手を私たちから取り去られることはなく、私たちが耐えられない試練を決して許されないことを覚えておきましょう。

パウロはこのように書きました。

あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。

神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。(第一コリント10:13)

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ヨブ記

友達が悲しむときに

この箇所では、ヨブの三人の友人を見ることができます。その名前は「エリファズ」、「ビルダデ」、そして「ツォファル」です。彼らはヨブの困難について聞き、彼を慰めるために訪問しました。ヨブの状態を見たとき、

彼らは声をあげて泣き、おのおの、自分の上着を切り裂き、ちりを天に向かって投げ、自分の頭の上にまき散らした。

こうして、彼らは彼とともに七日七夜、地にすわっていたが、だれも一言も彼に話しかけなかった。彼の痛みがあまりにもひどいのを見たからである。(ヨブ記2:12-13)

ヨブ記を読むと、ヨブの友人たちについて多くの批判ができるかもしれませんが、彼らの良い点は、ヨブを本当に愛していたことです。

そして、最初の七日間、彼らは最も良い行動をとっていました。それは、彼らが黙って、ヨブと共に座っていたことです。

ところが、彼らが口を開いて「知恵」を語り始めると、状況は悪化しました。

この話から私たちは重要な教訓を学べると思います。私たちの友人が困難な状況にあり、苦しんでいるとき、多くの場合、私たちのアドバイスは必要ありません。私たちの「知恵」も必要ありません。

何よりも、彼らは私たちが共にいてくれることを望んでいます。また、私たちが彼らの話を聞いてくれることを望んでいます。

時に、彼らの苦しみによって馬鹿なことを言うかもしれません。彼らは神様の知恵や道を疑うこともあるかもしれません。

しかし、その時、彼らを批判しない方が良いのです。彼らには批判が必要ではありません。彼らはただ自分の苦しみを表現しているだけです。彼らに必要なのは、私たちの理解と同情です。

もし、私たちが彼らを理解し、彼らと共にいるなら、その行動を通して私たちは神様の愛を示すことができます。そして、彼らは再び神様の愛と臨在を感じることができるようになるのです。

パウロはこのように書きました。

喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。 (ローマ12:15)

ですから、周りの人々が苦しんでいるときには、私たちはあまり口を開かず、耳と慰めの腕を使いましょう。

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ヨブ記

私たちが神様を礼拝する理由

私たちはイスラエル人の歴史を少し休憩して、ヨブ記を学びたいと思います。その理由は二つあります。

第一に、ヨブがいつ生きていたのか、私たちにははっきり分かりませんが、多分、彼はアブラハムの時代に生きていた可能性があります。また、モーセの時代に生きていたかもしれません。

いずれにしても、ヨブの物語はモーセ五書の時代に起こったとされています。そして、このブログでは、可能な限り聖書を時系列順に読むことを目指しています。

第二に、私たちの教会は新しいメッセージ・シリーズを始める予定です。そのテーマは「私たちが苦しむとき、神様はどこにおられるのでしょうか」ということです。

このブログとそのメッセージ・シリーズには強い関係があるかもしれません。

さて、ヨブについて聖書にはこのように書かれています。

この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。(ヨブ記1:1)

さらに、神様は彼を豊かに祝福されました。彼は、

東の人々の中で一番の富豪でした。(1:3)

けれども、突然、その平和な人生が失われました。 神様はサタンと話されたときに、ヨブについて誇られました。

おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。(1:8)

しかし、サタンはこのように答えました。

ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。

あなたは彼と、その家とすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。

あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。

しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」 (1:9-11)

そして、神様はサタンにヨブを攻撃する許可を与えられました。サタンは一日でヨブの財産を破壊し、息子たちと娘たちを殺しました。

ヨブの反応はどうだったでしょうか。

彼はもちろん泣きました。けれども、その後で、ヨブは神様を礼拝しました。

私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。は与え、は取られる。の御名はほむべきかな。(1:21)

ヨブは全く罪を犯しませんでしたので、サタンは神様に言いました。

皮のかわりには皮をもってします。人は自分のいのちの代わりには、すべての持ち物を与えるものです。

しかし、今あなたの手を伸べ、彼の骨と肉とを打ってください。彼はきっと、あなたをのろうに違いありません。(ヨブ記2:4-5)

再び、神様はサタンにヨブを攻撃する許可を与えられました。すると、サタンは「ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫瘍で彼を打ちました。」(2:7)

その時、ヨブの妻の忍耐は失われました。

彼女はこう言いました。

それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。(2:9)

しかし、ヨブはこのように答えました。

あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。(2:10)

私たちがヨブの人生について考えるなら、大切なことを心に留めるべきです。どうして私たちは神様を礼拝するのでしょうか。どうして神様に従うのでしょうか。それは、神様からの祝福だけが目的なのでしょうか。

ヨブはそのような人ではありませんでした。神様がしてくださったことのために礼拝したのではなく、むしろ神様が礼拝に値する方だからヨブは礼拝しました。

神様がヨブを祝福されたとしても、祝福されなかったとしても、神様は礼拝に値する方であり、ヨブの信頼に値する方です。だからこそ、ヨブは問題がいくつもあったとしても、神様を礼拝し続け、従い続けました。

あなたはどうでしょうか。どうしてあなたは神様を礼拝するのでしょうか。神様があなたを祝福してくださったからでしょうか。それとも、あなたの得のために従うのでしょうか。

あるいは、神様が礼拝に値する方だから礼拝するのでしょうか。神様があなたの信頼に値する方だから従うのでしょうか。

真の礼拝者は、神様が何をしてくださったかだけのために礼拝するのではありません。真の礼拝者は、神様が礼拝されるべき方であると信じるからこそ礼拝します。

また、真の礼拝者は、大変なことが起こったとしても、神様が良い方であることを信じ続けます。

あなたはどのような礼拝者でしょうか。