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マタイの福音書 マタイ7章 ルカの福音書 ルカ6-3

山上の説教:罪を避けるだけではなく、良いことをする?

マタイの福音書における「黄金律」の箇所は、少し不思議だと感じます。特に、「それで」という言葉で始まるためです。

一般的に、「それで」という言葉は前の内容を指していますが、私にはその関連性が明確には見えません。1-6節との関係があるようには感じますが、7-10節との関係は少しわかりづらいです。

一方、ルカの福音書における「黄金律」の箇所は、もっと自然だと感じます。

その箇所では、イエス様が「敵を愛しなさい。あなたのことを憎む人に親切にしなさい。あなたを呪う人を祝福しなさい。あなたを傷つける人のために祈りなさい。侮辱されても、相手を侮辱するな。自由に相手に与えなさい。」と語られた直後に、話をまとめてこう言われました。

自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。(ルカ6:31)

ほかの文化にも、同じようなことわざがあります。例えば、孔子はこう言っています。「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ。」

では、そのことわざと黄金律の違いは何でしょうか。

実は、イエス様の言葉に従う方がはるかに難しいのです。それは、積極的に相手に親切にしなければならないからです。

相手を傷つけないようにするのは、それほど難しくありません。もし、相手と全く接しないなら、彼らを傷つけることは避けられるでしょう。

けれども、相手と接することが全くなければ、彼らに親切にすることもできません。私たちは積極的に何かをしなくてはなりません。たとえ相手があなたを憎んでも、侮辱しても、利用しても、私たちは彼らに親切にすべきなのです。

それは難しいことですが、それこそが神様の望みなのです。

神様の子供として、私たちは罪を避けるだけでは十分ではありません。積極的に良いことを行うべきです。

私たちは山の上にある隠れることのできない町となるべきです。私たちは、この世を味付けする塩となるべきです。もし憎む人を愛するなら、私たちはその町であり、またその塩となるのです。

なぜなら、この世はそのような愛を理解できず、それを行う力もないからです。

しかし、イエス様に繋がっているクリスチャンはそれができます。それは、イエス様の愛が彼らの心に注がれ、溢れているからです。そして、その愛が自然と相手に流れていくのです。

あなたはどうですか。ただ罪を避けているだけでしょうか。それとも、イエス様の愛で心が満たされ、その愛を通して周りの人々に触れていますか。

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マタイの福音書 マタイ5章 ルカ6-3

山上の説教:完全の愛、完全の憐れみ

おそらく、私たちクリスチャンは、イエス様のこの言葉をよく耳にすることでしょう。

だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。(マタイ5:48)

この箇所の前後は興味深いです。もちろん、私たちは清い人生を送るべきです。とはいえ、この箇所では、イエス様は特に愛について語って言われるようです。私たちの愛は、完全であるべきなのです。

時々、人々は、イエス様の「しかし、わたしはあなたがたに言います。」という表現を誤解します。彼らは、イエス様が神様の律法に反対していると思うのです。

けれども、イエス様は神様の律法に反対されたのではなく、パリサイ人や律法学者の律法に関する間違った解釈に反対されたのです。

前回の記事で、この点について学びました。イエス様は、その正義に関する律法に反対されたわけではありませんでした。「目や歯に害を与えた者を殺してもよい」といった言葉を語られたのではありません。

むしろ、イエス様はこう言われました。「民法によれば、罪に応じた罰を与えるべきです。けれども、あなたがたは律法を乱用し、復讐の言い訳としてその律法を持ち出しているのです。」

もちろん、公平さと正義を求めること自体は良いことです。とはいえ、自分のためにいつも公平さと正義を求めるのではなく、相手に憐れみと愛を与えたら、あなたがたは天の父のようになり、この世でもっと輝く光となるでしょう。」

イエス様は、そのような人生を送られました。もしイエス様が自分のために正義を要求されていたら、十字架で死なれることは決してなかったでしょう。

この箇所では、私たちはさらにもう一つの律法に関する間違った解釈を見ることができます。旧約聖書には「自分の隣人を愛しなさい」という命令が簡単に見つかります。(レビ記19:18)

けれども、「自分の敵を憎め」という命令はどこにもありません。それはユダヤ人たちがそのアイデアを付け加えたものです。

そこで、イエス様はその考え方を訂正されました。

自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)

また、

あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。(ルカ6:27-28)

イエス様は、十字架の上でそうされました。

イエス様の敵が彼を十字架にかけた時、そして彼を嘲笑した時でさえ、イエス様は彼らのために祈られました。

イエス様は彼について祈られたわけではありません。「ほら、彼らはひどいでしょう?」とは言われませんでした。

むしろ、イエス様は彼らのために祈られたのです。

父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23:34)

彼らがイエス様を憎んでいたとしても、イエス様は彼らのことを愛されました。そして、イエス様の死によって、私たちは永遠の命への希望を持つことができるのです。

イエス様はこう言われました。「あなたを愛している人を愛するのは簡単なことです。誰にでもできることです。悪い人でさえそれができます。けれども、あなたを憎む人を愛することは本当に難しいのです。」

しかし、神様はそれをされます。私たちが神様を憎んだり侮ったりして背を向けても、神様は毎日私たちにさまざまな祝福を与えてくださいます。

天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。(マタイ5:45)

それに、私たちを罪から救い出すために、神様はご自身の子をこの世に送られました。

だから、神様は私たちにご自身のようになるように呼びかけておられます。私たちの愛は神様の愛のように完全であるべきです。神様が憐れみに富んでおられるように、私たちも憐れみに富むべきです。

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マタイの福音書 マタイ5章 ルカ6-3

山上の説教:でも、フェアじゃない

すべての人々は、おそらくフェアなことを望みます。だからこそ、物事がフェアではないと感じると、「フェアじゃない」と叫びたくなります。しかし、それが最善の反応なのでしょうか。

イエス様の言葉は、私たちの本能のすべてに反しています。

イエス様はこう言われました。

「目には目で、歯には歯で」と言われたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(マタイ5:38-39)

38節は、神様の律法から来ています。(出エジプト記21:23ー25)

その出エジプト記の箇所では、神様はモーセと裁判官に、悪い行動をどのように罰するべきかを教えられました。

この律法は復讐について語っているものではなく、その要点は罪に応じた罰を与えるということです。つまり、罰が過度であってはならないということです。

例えば、誰かが相手の目に害を与えた場合、その相手がその人を殺してはならないということです。

それでも、実際にはモーセや裁判官はその律法を文字通りには適用しませんでした。それは神様の意図ではなかったからです。

その箇所の後を読んでみると、その律法の応用についての具体例が見られます。普通は、相手が償いをしなくてはなりませんでした。

この律法のポイントは公平さ、すなわち正義です。

とはいえ、この箇所でイエス様は、私たちが公平さを心配しすぎるべきではないとおっしゃっています。それよりも、あなたを傷つける人々に対して、あなたは光となるべきです。

イエス様の最初の例は非常に興味深いものです。

なたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。(マタイ5:39)

私は左利きなので、相手の右の頬を打つのは簡単なことです。けれども、ほとんどの人々は右利きです。したがって、右利きの人が相手の右の頬を叩こうとする場合、手の甲で打たなくてはなりません。

つまり、イエス様はここで、単なる暴力ではなく、侮辱について話しておられるのです。ユダヤ人の文化において、相手を手の甲で打つ行為は、侮辱と見なされていました。

ですから、イエス様が言われた意味は、相手があなたを侮辱したとしても、それを許しなさい、ということです。侮辱を侮辱で返す必要はないのです。

それは公平でしょうか。それは公平ではありません。それでも、イエス様はこう語られます。「公平を気にするのではなく、恵みを与えなさい。」

そして、イエス様はこう言われました。

あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。(40)

イエス様の時代、イスラエル人は下着を複数持っていることが多かったですが、多くの場合、上着は一枚しか持っていませんでした。そして、寝るときには、その上着を毛布として使用していました。

そのため、律法では、もし貧しい者が上着を担保として差し出した場合、貸し手は毎晩、その上着を必ず返さなければなりませんでした。(申命記24:12-13)

しかし、イエス様はこう語られました。「もし相手があなたを訴えて下着を取るなら、公平であることを気にせず、上着も与えなさい。」

さらに、ローマの律法では、ローマ兵がユダヤ人に対し、1.5キロほどの荷物を運ばせるよう命じることができました。

当然、ユダヤ人はそのような命令に従いたいとは思いませんでした。けれども、イエス様はこうおっしゃいました。「1.5キロ運ぶだけでなく、3キロ運びなさい。」

そして、イエス様はこう言われました…。

求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。(42)

では、相手が私たちのやさしさに付け込むことを許してもよいのでしょうか。

そうとは限りません。けれども、私たちが公平さについて心配しすぎると、フラストレーションをよく感じるようになります。なぜなら、この世界は不公平だからです。そして、私たちはその不公平さをコントロールすることはできません。

私たちがコントロールできるのは、自分自身の態度だけです。

フラストレーションを感じて、叫ぶこともできますし、戦うこともできます。

それとも、私たちは別の道を選ぶこともできます。つまり、相手に恵みを与え、憐れみを示すことができるのです。

イエス様は、私たちに対してそうしてくださいました。

イエス様が十字架で死なれることは、決して公平ではありませんでした。イエス様は、何も罪を犯していませんでした。

それでも、イエス様は私たちに恵みと憐れみを与えてくださいました。その結果、私たちは神様からの赦しと永遠の命を受け取ることができるようになりました。

もしイエス様が私たちにその恵みと憐れみを与えてくださるのであれば、私たちも周りの人々にそれを与えるべきではないでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ6-3

自己満足の問題

イエス様は、貧しい者たちへの神様からの祝福について話された後、金持ちと自己満足な人々に焦点を当てられました。

しかし、あなたがた富む者は哀れです。慰めをすでに受けているから。

いま食べ飽きているあなたがたは哀れです。やがて飢えるようになるから。

いま笑うあなたがたは哀れです。やがて悲しみ泣くようになるから。

みなの人がほめるとき、あなたがたは哀れです。彼らの父祖たちも、にせ預言者たちに同じことをしたのです。(ルカの福音書6:24-26)

それらは、本当に厳しい言葉でした。けれども、イエス様の祝福がすべての貧しい者たちに向けられていたわけではなかったように、この厳しい言葉もすべての金持ちに向けられたものではありませんでした。

むしろ、この言葉は自己満足している人々に向けられたものでした。彼らは気楽に過ごしすぎて、神様のことを必要としていないと感じ、神様とその御国についてほとんど考えていなかったからです。

しかしある日、彼らは自分の富、食べ物、快楽、そして快適な人生が一時的なものであることを理解する時が訪れるでしょう。

その日、彼らは何も持たずに神様の前に立つことになります。そして、神様はこう尋ねられるでしょう。「あなたは私の一人子について聞いたとき、どのように応答しましたか。」

もし彼らがイエス様を拒絶していたのであれば、最終的に彼らは永遠に地獄で過ごすことになるでしょう。

あなたも、同じです。

あなたはどうでしょうか。あなたは神様を必要としていないと思うでしょうか。あなたの人生が幸せで、他には何も必要がないと思っているでしょうか。

多くの人々が大体70〜80年ほど生きることを心に留めてください。その後、彼らは永遠に向かいます。あなたも、永遠に神様と共にいるか、永遠に地獄で過ごすかのどちらかです。

もしあなたが神様を拒絶するなら、この世で楽しんでいたすべてのことは無意味になります。

この世で神様を拒絶するなら、永遠の時代において神様もあなたを拒絶されるでしょう。

けれども、もしあなたが心の王座を神様に譲るなら、あなたはいつか神の国に住むだけではなく、この人生も充実したものになるでしょう。

そしてイエス様のためにこの世で苦しんだとしても、いつか振り返り、「それは素晴らしい人生だった」と言えるでしょう。

イエス様はこう言われました。

わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。(ヨハネ10:10)

あなたは何によって満足するのでしょうか。自分自身でしょうか。あなたの持ち物でしょうか。それとも、あなたを愛し、十字架であなたのために死んでくださった方によって満足するのでしょうか。