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マタイの福音書 マタイ7章 ルカの福音書 ルカ6-4

山上の説教:何の土台に私たちの人生を建設するか

今日で、山上の垂訓と平地の説教についての話が終わります。

どちらも同じように終わります。つまり、イエス様はその聞き手に挑戦を投げかけておられるのです。イエス様は彼らに問いかけます。

なぜ、わたしを「主よ、主よ」と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。(ルカ6:46)

要するに、「あなたが私を『主』と呼んでも、私の言葉に従わないなら、私は本当にあなたの主でしょうか。」

ある人はこのように要約しました。「イエス様があなたの人生のすべての主でないなら、イエス様はまったくあなたの主ではないのです。」

その通りです。イエス様があなたの主であるかどうか。可能性は二つしかありません。イエス様はあなたの主であるか、そうでないか、どちらかです。

そして、イエス様は非常に有名なたとえを語られます。それは、「岩の上に強い土台を持つ建てられた家」と「土台なしで砂の上に建てられた家」です。

もし私たちがイエス様の言葉を聞き、それに従うなら、私たちは「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています」。

その安定した土台のおかげで、人生の嵐が来ても、私たちの家はびくともしません。

その一方、私たちがイエス様の言葉を聞きながら従わないなら、私たちの人生は砂の上に建てられています。

砂とはどのようなものでしょうか。砂は常に移り変わるものです。

この世の価値観も砂のように移り変わります。道徳的な価値観も常に変化しています。

50年前に悪いと見なされていたことが、今では良いと見なされることがあります。また、良いとされていたものが、今では時代遅れの考え方とされてしまうこともあります。

しかし、もし私たちが移り変わる砂の上に人生を建てるなら、その土台は不安定であり、人生の嵐が襲ってきたとき、私たちの人生は崩れてしまいます。

あなたはどうでしょうか。岩の上にあなたの人生を建てていますか。

イエス様の言葉を聞くだけではなく、その言葉に従っていますか。それとも、この世と調子を合わせて、移り変わる砂の上に人生を建てているでしょうか。

簡単に言うと、イエス様はあなたの主でしょうか。

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ルカの福音書 ルカ6-4

あなたの心にあるもの

聖書を読むと、イエス様がしばしば同じたとえを用いながらも、異なる応用を教えておられることに気づきます。

例えば、マタイの福音書では、イエス様が良い実を結ぶ木と悪い実を結ぶ木について語る際、そのたとえを偽預言者に当てはめています。つまり、私たちは預言者(あるいは牧師やクリスチャンの著者)の「実」(彼らの教えや行動)を見極める必要があるのです。

一方で、ルカの福音書では、イエス様はそのたとえを用いて、私たち自身の心を探るように挑戦しておられます。

この箇所では、たとえを語る前に、イエス様は裁き、人を責めること、そして人を許すことについて教えておられます。

そのことについて語られた後、イエス様はこう言われました。

悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。木はどれでも、その実によってわかるものです。

いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。

良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。(ルカの福音書6:43-45)

イエス様は何を教えておられるのでしょうか。

それは、私たちがどのような木であるかを自問するよう促しておられるのです。私たちの心の中には何が満ちていますか。相手を裁くことでしょうか。それとも、相手を責めることでしょうか。もしくは、相手を許すことでしょうか。

私たちの心にあるものを見分ける方法は何でしょうか。それは、自分の口から出る言葉を見ることです。なぜなら、私たちの口は心に満ちているものを語るからです。

もし心の中で、私たちが相手を裁き、責めているなら、そのような言葉が私たちの口から出るでしょう。逆に、私たちの心に恵みと許しが満ちているなら、それに応じた言葉が私たちの口から出るでしょう。

イエス様の言葉に注目してください。悪い木は、相手を裁き、責める心を象徴しています。しかし、恵み深く、相手を許す心は良い木を表しています。

だから、私たちは自分自身にこう尋ねるべきです。「私たちの口からどんな言葉が出ているだろうか。」

私たちはいつも相手を批判し、責めていますか。それとも、私たちの言葉は恵みに満ちていますか。私たちの言葉は、私たち自身がどのような木であるかを映し出すのです。

あなたはどのような木でしょうか。

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山上の説教:偽善的な裁き

子供の頃、私は「Isaac Air Freight」というクリスチャンのコメディーグループが大好きでした。彼らはたくさんのパロディーを制作しており、その中には「60 Minutes」というアメリカの有名なニュース番組のパロディーもありました。

その時、リポーターは「木こりさん」という夫婦をインタビューしました。彼らはクリスチャンでしたが、非常に珍しい「特徴」がありました。なんと、彼らの目から丸太が出ていたのです。

そのため、彼らはいつも周りのものを倒してしまい、他の人々について文句を言ったり、裁いたりしていました。

インタビュー中、丸太が何度もリポーターに当たりそうになる場面がありました。ところが、リポーターがその丸太について尋ねた時、彼らはこう答えました。「へ?丸太って?」

それでもリポーターは言い張りました。「あなたの目にでかい丸太がありますよ。あなたはいつも周りのものを倒してしまっているんですよ。」

すると、彼らは答えました。「そうなの?全然気づかなかったけど。」

多くのクリスチャンがその木こりさんたちのようです。自分の欠点には気づかず、他人を批判してしまうのです。

しかし、イエス様は私たちにこう言われます。「あなたは批判によって相手を助けていると思っているけれど、あなた自身の欠点にはまったく気づいていません。

相手の問題はただのちりですが、あなたの問題は梁です。あなたは盲人であり、そのことを知りません。もし盲人のあなたが他の盲人を導こうとするなら、あなたたちは穴に落ち込むでしょう。

あなたは、愚かな人々を賢くするための教師だと思っています。けれども、生徒たちはあなたの欠点を学び、結果的にあなたのような者になってしまうのです。それでもなお、あなたは自分の欠点にまったく気づいていないのです。

イエス様はこの話をこのように締めくくられました。

偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです。(ルカ6:42)

イエス様の要点は何でしょうか。それは、謙遜だと思います。

多くの人々は、自分の目にプライドという梁を持っています。

誤解しないでください。時には、私たちは兄弟や姉妹に彼らの罪について話す必要があります。それはイエス様の命令です(マタイ18:15)。また、使徒たちもその命令を繰り返しました(ガラテヤ6:1)。

とはいえ、そのようなとき、私たちはどのような態度を取るべきでしょうか。プライドに満ちた態度を取るべきでしょうか。「私はあなたより優れたクリスチャンだ」という態度でしょうか。

そうではありません。

へりくだった態度を取るべきです。自分自身にも神様の恵みと憐れみが必要だという謙虚さを持つべきです。

だから、相手を責める前に、まず神様にこう尋ねるべきです。

「神様、私の罪は何でしょうか。私の目にどんな梁が入っていますか。私はプライドを持っているでしょうか。私は相手を許せていないでしょうか。私は相手を責めていますが、同じ欠点を持っているのでしょうか。」

もし、神様があなたの欠点を示されたなら、すぐに悔い改めてください。

自分の弱さを知らないうちに、また、自分がどれだけ神様の憐れみを必要としているかを理解できていないうちに、相手と話すのを急がない方がよいかもしれません。

そうしないと、相手が自分の罪を悔い改めたとしても、あなたからさらに悪いこと、特にプライドや偽善を学んでしまうかもしれません。

イエス様はこう言われました。

弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。(ルカ6:40)

あなたの目には、どのような梁が入っていますか。

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山上の説教:相手を裁くと

相手の欠点を見て裁くのは簡単なことです。つまり、相手の性格や行動を裁くのは容易いことです。特に、私が傷ついた時、相手を裁くことはさらに簡単になります。

ルカの箇所では、イエス様はこの教えを敵を愛し、憐れむことについて語られた後に言われました。そのため、私たちを侮辱する人、そして私たちを呪う人に関して、イエス様はこう言われました。

あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。(ルカ6:36)

その直後、イエス様は相手を裁くことについて語られます。

さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。

赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。(ルカ7:37)

つまり、相手があなたを傷つけても、その人を裁いてはいけません。なぜなら、それはあなたの責任ではなく、神様の責任だからです。むしろ、イエス様は「相手を許しなさい」と言われます。

実は、相手を許すことは、相手のためというよりも、あなた自身のためなのです。なぜなら、私が以前言ったように、相手を許さないことで、あなたは過去の傷に縛られ続けてしまうからです。そして、神様が望んでおられる未来に進むことができなくなります。

だから、神様は「その傷を手放し、許しなさい」と言われます。そうすれば、相手が変わることもあるかもしれませんが、それは神様の約束ではありません。

(イエス様が十字架の上でパリサイ人とサドカイ人の赦しのために祈られましたが、彼らの多くは決して悔い改めませんでした。)

さらに、私たちは主の祈りを思い出すべきです。すなわち、「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」

もしそうしないなら、もし私たちが受けた傷のために相手に裁きを注ぐのであれば、イエス様はこう警告されます。

与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。

あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。(ルカ6:38)

多くの人々は、この箇所を読むとき、イエス様が献金について話していると考えます。けれども、イエス様は献金について全く話していません。この箇所の前後は裁きと憐れみについて語られているのです。

イエス様のたとえは、農家が袋に穀物を入れる様子を描写しています。私たちはその光景をすぐに想像するのが難しいかもしれません。そこで、別の例えを考えてみましょう。

ごみ袋を思い浮かべてみてください。ごみの日に、どのようにごみを袋に入れるでしょうか。

まず、ごみを袋に入れます。けれども、袋が少し一杯になったらどうするでしょうか?袋を軽く揺らすと、ごみが下に詰まり、さらにごみを入れられるようになります。

しかし、袋がいっぱいになった後は、揺すってもごみが下に詰まりません。そこで、袋の上から手で押して、もう少しごみを入れます。けれども、袋の限界に達すると、ごみが袋から溢れます。

イエス様が言われたのはこのようなことです。

「もしあなたが相手に裁きを注ぐなら、神様は裁きをあなたに注がれるでしょう。そして、あなたにさらに裁きを注ぐために、神様はすでに注いだ裁きを揺すり、押されます。そして、裁きが溢れるまで、神様はあなたの人生に裁きを注がれます。

しかしその反対に、もしあなたが相手に憐れみと許しを注ぐなら、神様は憐れみと赦しをあなたの人生に溢れるほど注がれるのです。」

あなたはご自身に何を注がれることを望みますか?