この箇所を読むと、私はこう感じます。「私はどれほどイエス様を愛しているのだろうか。」
この話には二人の人物が登場します。
一人は罪深い女性です。私たちは彼女の具体的な罪については知らないものの、周囲の人々は彼女の罪をよく知っていたようです。もしかすると彼女は売春婦だったかもしれません。ただ、それは単なる推測にすぎません。
一方、もう一人はシモンというパリサイ人です。彼は「正しい人」として知られていました。彼の言動は正しく、人生は順調に進んでいました。
そんな中で、シモンは食事にイエス様を招きました。食事の最中、その女性は泣きながらシモンの家に入りました。彼女の涙がイエス様の足にこぼれたため、彼女は自分の髪の毛でその足を拭い、香油を塗ったのです。
これに対するシモンの反応はどうだったでしょうか。それは軽蔑でした。彼女に対する軽蔑であり、イエス様に対する軽蔑でもありました。
そして、シモンはこう考えました。
この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。(ルカの福音書7:39)
けれでも、イエス様はシモンに向かってたとえ話を語られました。
その話では、一人は少額のお金を借り、もう一人は多額のお金を借りましたが、結局、二人ともそのお金を返すことができませんでした。そこで、金貸しは二人の借金を赦しました。
そして、イエス様はシモンにこう問いかけられました。
では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。(42)
多分シモンはこう考えたかもしれません。「イエス様のポイントは何だろうか。これは落とし穴のある質問なのだろうか。」
けれども、最終的に、彼は次のように答えました。
よけいに赦してもらったほうだと思います。(43)
そして、イエス様はこう言われました。「あなたの判断は正しいです。」
ところが、その次のイエス様の言葉は、シモンの心をナイフのように刺しました。
「実は、これは普通のユダヤ人のマナーですが、お客さんが来たとき、良い主人は足を洗う水を提供し、口づけで挨拶し、そのお客さんの頭に油を塗ります。
けれども、あなたは私のために何もしてくれませんでした。一方で、この女性は私が来たとき、私の足を涙で洗い、私の足に口づけし、高価な香油で私の足を塗りました。」
要するに、「シモン、あなたの愛はどこにあるのでしょうか。
この女性は私を深く愛しています。彼女は自分の行動を通して、神様の赦しに対する感謝を示しました。彼女はどれほど赦されたかを理解しているため、その愛は非常に深いです。
その一方、あなたは自分がどれほど赦しを必要としているかを理解していないため、あなたの愛はほとんどありません。さらに、あなたは私を軽んじ、いや、私に対して軽蔑的な態度を取ってしまいました。」
そして、イエス様はその女性に向かってこう言われました。
あなたの罪は赦されています。(48)
多分、周りにいた人々はその言葉を聞いて面食らったことでしょう。なぜなら、罪を赦すことができるのは神様だけだからです。
しかし、イエス様はさらに続けて言われました。
あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。(50)
あなたはどうでしょうか。あなたの愛の深さはどれほどでしょうか。
あなたは、シモンのように、自分の罪の深さを理解していないため、また、どれほど自分が赦されたかを知らないために、イエス様やその十字架の働きを軽んじてしまうのでしょうか。
私たちが神様の赦しを理解していない状態でいると、次の二つの結果が生じます。
1.私たちは独善的な態度を取り、周りの人々を軽蔑し、裁くようになります。
2.私たちの神様への愛は極端に薄くなります。
しかし、私たちが神様の愛をしっかりと理解すれば、私たちの心は神様への愛と感謝で満たされます。そして、その愛と憐れみを周りの人々にも分け与え始めます。
あなたは、どのような心を持っているでしょうか。
