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ルカの福音書 ルカ7章

あなたの愛はどこでしょうか

この箇所を読むと、私はこう感じます。「私はどれほどイエス様を愛しているのだろうか。」

この話には二人の人物が登場します。

一人は罪深い女性です。私たちは彼女の具体的な罪については知らないものの、周囲の人々は彼女の罪をよく知っていたようです。もしかすると彼女は売春婦だったかもしれません。ただ、それは単なる推測にすぎません。

一方、もう一人はシモンというパリサイ人です。彼は「正しい人」として知られていました。彼の言動は正しく、人生は順調に進んでいました。

そんな中で、シモンは食事にイエス様を招きました。食事の最中、その女性は泣きながらシモンの家に入りました。彼女の涙がイエス様の足にこぼれたため、彼女は自分の髪の毛でその足を拭い、香油を塗ったのです。

これに対するシモンの反応はどうだったでしょうか。それは軽蔑でした。彼女に対する軽蔑であり、イエス様に対する軽蔑でもありました。

そして、シモンはこう考えました。

この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。(ルカの福音書7:39)

けれでも、イエス様はシモンに向かってたとえ話を語られました。

その話では、一人は少額のお金を借り、もう一人は多額のお金を借りましたが、結局、二人ともそのお金を返すことができませんでした。そこで、金貸しは二人の借金を赦しました。

そして、イエス様はシモンにこう問いかけられました。

では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。(42)

多分シモンはこう考えたかもしれません。「イエス様のポイントは何だろうか。これは落とし穴のある質問なのだろうか。」

けれども、最終的に、彼は次のように答えました。

よけいに赦してもらったほうだと思います。(43)

そして、イエス様はこう言われました。「あなたの判断は正しいです。」

ところが、その次のイエス様の言葉は、シモンの心をナイフのように刺しました。

「実は、これは普通のユダヤ人のマナーですが、お客さんが来たとき、良い主人は足を洗う水を提供し、口づけで挨拶し、そのお客さんの頭に油を塗ります。

けれども、あなたは私のために何もしてくれませんでした。一方で、この女性は私が来たとき、私の足を涙で洗い、私の足に口づけし、高価な香油で私の足を塗りました。」

要するに、「シモン、あなたの愛はどこにあるのでしょうか。

この女性は私を深く愛しています。彼女は自分の行動を通して、神様の赦しに対する感謝を示しました。彼女はどれほど赦されたかを理解しているため、その愛は非常に深いです。

その一方、あなたは自分がどれほど赦しを必要としているかを理解していないため、あなたの愛はほとんどありません。さらに、あなたは私を軽んじ、いや、私に対して軽蔑的な態度を取ってしまいました。」

そして、イエス様はその女性に向かってこう言われました。

あなたの罪は赦されています。(48)

多分、周りにいた人々はその言葉を聞いて面食らったことでしょう。なぜなら、罪を赦すことができるのは神様だけだからです。

しかし、イエス様はさらに続けて言われました。

あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。(50)

あなたはどうでしょうか。あなたの愛の深さはどれほどでしょうか。

あなたは、シモンのように、自分の罪の深さを理解していないため、また、どれほど自分が赦されたかを知らないために、イエス様やその十字架の働きを軽んじてしまうのでしょうか。

私たちが神様の赦しを理解していない状態でいると、次の二つの結果が生じます。

1.私たちは独善的な態度を取り、周りの人々を軽蔑し、裁くようになります。

2.私たちの神様への愛は極端に薄くなります。

しかし、私たちが神様の愛をしっかりと理解すれば、私たちの心は神様への愛と感謝で満たされます。そして、その愛と憐れみを周りの人々にも分け与え始めます。

あなたは、どのような心を持っているでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ11章 ルカの福音書 ルカ7章

すべての人々を喜ばせようと思う?

英語には、こんなことわざがあります。「You can please some of the people some of the time, but you can’t please all of the people all of the time.」

つまり、「あなたは、たまにある人々を喜ばせることができるかもしれません。しかし、いつもすべての人々を喜ばせることはできません。」ということです。

このことわざは、イエス様に対しても当てはまりました。イエス様は完全な方でした。イエス様のすべての行動は完全でしたし、イエス様は完全に人々を愛しておられました。

それでも、イエス様はすべての人々を喜ばせたわけではありません。そして、イエス様ご自身も、すべての人々を喜ばせようとは全く思われていませんでした。

むしろ、イエス様は批判者たちの偽善を指摘されました。そして、彼はこう言われました。

この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、こう言うのです。

「笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。」

ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ』と言い、人の子が来て食べたり飲んだりしていると、「あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」と言います。

でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。(マタイ11:16-19)

要するに、バプテスマのヨハネが来て禁欲生活を送ったとき、パリサイ人たちや律法学者たちはこう言いました。「その人の言うことを聞くな。彼は頭がおかしい。」

しかし、イエス様が来られたとき、イエス様は罪人と共に食べたり飲んだりされたため、彼らはこう言いました。「その人の言うことを聞くな。彼は食いしん坊で大酒飲みだ。」(もちろん、イエス様が食いしん坊で大酒飲みだったわけではありません。)

このことからわかるのは、パリサイ人たちがヨハネとイエス様を拒絶したのは、彼らの生活スタイルのためではなかったということです。実際のところ、彼らはヨハネとイエス様が伝えたメッセージそのものを受け入れなかったのです。

多くの人々も、そのパリサイ人たちのようです。私たちがイエス様の言葉を伝えるとき、彼らはそのメッセージによって心地悪さを感じることがあります。

すると、彼らはそのメッセージを汚すため、メッセンジャーの評判を傷つけようとします。そして、批判できる点を探し出そうとします。そんな人々を喜ばせることは、絶対にできません。

ここで私が言いたい要点は何でしょうか。そんな人々を喜ばせようとしないでください。

賢い人は、すべての人々を喜ばせようとはしません。賢い人は、ただ一人、神様を喜ばせようとします。そして、その結果として、彼らは神様のために実を結ぶのです。

イエス様はこう言われました。

知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します。(ルカ7:35)

それはどういう意味でしょうか。相手があなたを批判しても、あなたが結んだ実を通して、あなたの知恵の正しさが証明されるのです。

だから、すべての人々を喜ばせようとする必要はありません。イエス様でさえそれをされませんでした。私たちも同じです。ですから、私たちを召された方を喜ばせることに集中しましょう。

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マタイの福音書 マタイ11章 ルカの福音書 ルカ7章

私たちのための神の目的を拒否する

私たち皆は偶然ではなく、神様の目的のために造られた存在です。

その目的は何でしょうか。

それは、私たちが神様との関係を持つために造られたことです。

そして、私たちは人間関係のために造られました。私たちは周りの人々に触れることができるように、そして私たち自身も周りの人々に触れられることができるように造られたのです。

さらに、私たちは神様から授かった才能や賜物を通して神様の心を実践するように造られています。

残念ながら、多くの人々はその目的を知らずに生活を続けてしまいます。なぜでしょうか。彼らは神様が与えてくださった目的を拒絶し、自分自身のためだけに生きているからです。

このように、パリサイ人たちと律法学者たちはそのような生き方をしていました。イエス様はバプテスマのヨハネの働きが神様からのものであることを認められましたが、ルカによれば、パリサイ人たちと律法学者たちについてこう書かれています。

。。。パリサイ人、律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けないで、神の自分たちに対するみこころを拒みました。(ルカ7:30)

ヨハネのメッセージは次の通りでした。

1.悔い改めなさい。その悔い改めのしるしはバプテスマです。

2.メシア(救い主、または王)はすぐに来ます。自分の心を整えなさい。

しかし、パリサイ人たちと律法学者たちは、自分の義を誇りに思い、自分が悔い改める必要があるとは認めませんでした。

さらに、神様がご自身を現された時、つまりイエス様が来られた時、彼らはイエス様を拒絶しました。それだけではなく、彼らはイエス様を十字架にかけて殺してしまったのです。

だから、マタイはこう記しています。

バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。(マタイ11:12)

バプテスマのヨハネの時代に、王であるイエス様が来られたにもかかわらず、パリサイ人たちと律法学者たちは、その王国に激しく敵対しました。

彼らは神の王国を守っていると思っていたのに、実際には神様の王国を攻撃してしまったのです。その結果、彼らは神様が彼らに対して持っていた御心を逃してしまいました。

しかし、ルカは他の人々についてこう記しています。

ヨハネの教えを聞いたすべての民は、取税人たちさえ、ヨハネのバプテスマを受けて、神の正しいことを認めたのです。(7:29)

その人々はへりくだり、神様の道が正しいことを認め、悔い改め、最終的にイエス様を王として受け入れたため、神様の王国に入ることができました。また、彼らは神様が彼らのために持っていた目的に立ち返ったのです。

あなた自身はどうでしょうか。神様があなたに与えてくださった目的に従っていますか。

最初のステップは悔い改めです。自分の最善を知らないことを認め、神様の道を受け入れる態度を取ることが必要です。特に、イエス様が真理であり、道であり、命であることを認めなくてはなりません。

言い換えると、イエス様をあなたの主として受け入れるべきなのです。

今、そうしませんか。

主よ、私は長い間、自分自身の道を歩み続け、あなたが私に示してくださった目的を逃してしまいました。私を赦してください。

私の罪のために十字架で死んでくださり、そして三日目によみがえられたイエス様を信じます。どうか私の主となってください。

これからは、あなたに従いたいです。あなたの御心に従いたいです。私をあなたに近づけてください。そして、あなたの御心を私に示してください。イエス様のみ名によってお祈りします。アーメン。

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ルカ7章

こちらに来ておられる神。私たちの近くにおられる神。

「神様はどこにおられるのだろう?」

悲劇のただ中にいる時、多くの人々がそう問うのではないでしょうか。おそらく、この箇所に登場するやもめも、そう尋ねたことでしょう。彼女の夫はすでに亡くなり、突然、息子も命を落としてしまいました。

彼らは彼女が愛する家族であるだけでなく、彼女を経済的に支える唯一の存在でした。その時代では、夫や息子を失うことは、女性にとって貧困に陥る可能性が非常に高い状況でした。

そのため、葬儀の場で泣きながら、彼女はこう叫んだかもしれません。

「神様、あなたはどこにおられるのでしょうか。私たちを本当に愛してくださっているのでしょうか。なぜあなたは、このようなことを許されたのでしょうか。」

そして、神様が来られました。

死骸を運ぶ群衆は、命の源であるイエス様を取り囲む群衆に出会いました。

イエス様は泣いているその母親を見た時、彼女に深い同情の念を抱かれました。

イエス様は彼女に近づき、「泣かなくてもよい」とおっしゃいました。そして、イエス様は彼女の息子を復活させられたのです。

その奇跡を目の当たりにした群衆は、初めは度肝を抜かれたことでしょう。しかし、すぐに喜びに満たされ、歓声を上げたのです。

大預言者が私たちのうちに現われた。。。神がその民を顧みてくださった。(ルカの福音書7:16)

神様はどこにおられるでしょうか。神様は、すでに来ておられます。そして、神様は私たちのすぐ近くにおられます。

たとえあなたには神様が見えないとしても、また神様の臨在を感じられないとしても、神様は確かにここにおられるのです。

神様は、あなたの涙をご覧になっています。あなたの悲しみをよく知っておられます。そして、神様はあなたを深く愛しておられます。

その愛を神様は2000年前に証明されました。罪によって壊れたこの世界のために、イエス様は十字架で命を捨てられました。

そして、イエス様の復活を通じて、神様は私たちの問題に取り組む力を持っておられることを示されました。

また、イエス様は、ナインのやもめを助けられたように、私たちをも助けてくださいます。私たちがしなければならないのは、ただイエス様に頼ることだけです。

ダビデはこう言っています。

主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。(詩篇34:18)

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マタイの福音書 マタイ8章 ルカの福音書 ルカ7章

恵みと信仰

この二つの箇所をまとめると、私たちはこの話全体を見渡すことができます。

ルカの福音書によると、百人隊長がイエス様の助けを求めた際、実際には百人隊長の代わりにユダヤの長老たちがイエス様に願い出てくれました。彼らはこう言いました

この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。(ルカ7:4-5)

長老たちは、百人隊長について「この人はイエス様の助けをいただく資格があります」と言いました。

けれども、百人隊長自身はこう言いました。

あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。(ルカ7:6-7)

時々、私たちは救いをいただくために、あるいは神様から何かをいただくために、自分には「資格」が必要だと思い込むことがあります。

しかし、恵みはそうした条件とは無縁のものです。恵みとは、「あなたに資格がないにもかかわらず、私はあなたに永遠の命や、その他の必要なものを与えます。あなたがしなくてはならないのは、ただ私に頼むことだけです。」ということです。

だからこそ、私たちは自分自身にこう問いかけるべきです。「私は神様に祈り、信頼する信仰を持っているだろうか。」

時に、私たちは信仰を失い、皮肉っぽくなることがあります。私自身もそう感じることがあります。なぜなら、祈りが必ずしも神様の期待通りに答えられるとは限らないからです。

そんな時、私たちは疑問を抱きます。「祈りには本当に意味があるのだろうか。神様は本当に私の祈りに答えてくださるだろうか。神様には私を助ける力があるのだろうか。神様は私を本当に愛してくださるだろうか。」

けれども、信仰はこう答えます。「神様の良さを信じ続けます。神様は私の最善をよくご存じです。それに、神様には私を助ける力があります。だから、私は祈り続けます。」

百人隊長はそのような信仰を持っていました。彼はこう考えました。

「私はローマ人であり、ユダヤ人は普通ローマ人を嫌っています。だから、私はイエス様の助けをいただく資格がないと思う。

とはいえ、きっとイエス様には私を助ける力があり、さらにイエス様が喜んで私を助けてくださると思う。だからこそ、頼んでみよう。」

その結果、彼のしもべは癒やされました。

イエス様が驚かれることは非常に珍しい出来事です。聖書の中でその記述は二回だけあります。一つは、イエス様の地元の人々がイエス様を信じなかった時(マルコ6:6)です。

そしてこの話では、イエス様はこのローマ人の信仰を見て驚かれました。イエス様は、彼についてこう言われました。

まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。

あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。

しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。(マタイ8:10-12)

この箇所から、もう一つの重要なポイントを学ぶことができると思います。

この百人隊長のように、恵みが必要であると認め、イエス様を信じる人は神の国に入ることができます。私たちは家系の資格によって神の国に入ることはできません。また、私たちの良い行いによって入ることもできません。

むしろ、私たちはこう認めなくてはならないのです。

「私には、あなたから何かをいただく資格はありません。でも、私はあなたを信じます。私はあなたの十字架の働きを信じます。そして、私はあなたが三日目によみがえられたことを信じます。だから、どうか私を救ってください。」

パウロはこう言いました。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2:8-9)