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伝道者の書

何が大切か思い出す

それでは、今日は伝道者の書の結びとなります。正直に言うと、伝道者の書を解説するのは本当に難しいものでした。

答えの出ない疑問のひとつは、ソロモンが亡くなる前に悔い改めたのかどうかということです。列王記や歴代誌には、そのことについて記されていません。

ある学者たちは、伝道者の書がソロモンの悔い改めそのものだと考えています。一方で、他の学者たちは、それについて分からないと言います。

私自身も分かりません。ソロモンが悔い改めた可能性もありますし、あるいは、伝道者の書の中でソロモンが「私はもうダメです。でも、私の失敗から学んでください。」と言いたかったのかもしれません。

ソロモンは長年、世の物を追い求め、心の半分だけで神様を求めて、貴重な歳月を無駄にしてしまいました。そして命の終わりに至り、ソロモンの結論は次のようなものでした。

人は長年生きて、ずっと楽しむがよい。だが、やみの日も数多くあることを忘れてはならない。すべておこることはみな、むなしい。

若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。

だから、あなたの心から悲しみを除き、あなたの肉体から痛みを取り去れ。若さも、青春も、むなしいからだ。(伝道者の書11:8-10)

その言葉は、以前に述べた言葉とほとんど同じです。つまり、「あなたの人生を楽しみましょう」ということです。

とはいえ、暗い時が訪れることもあります。その時、なぜ悪いことが起こるのか分からず、人生が無意味だと感じるかもしれません。

しかし、それはコントロールできないことなので、心配しすぎないでください。あなたの人生を十分に活かしましょう。ただし、賢く生きましょう。なぜなら、いつか神様があなたを裁かれるからです。

12章で、ソロモンはこう言います。「あなたが若い時に、あなたの創造者を思い出しなさい。すべては結局終わります。この地での喜びの日々も終わります。この世界も終わります。

若くて強い男性も年を取り、力を失います。私たち全員の体は次第に衰えます。そして、私たちが亡くなると、神様が与えてくださった霊は神様のもとに帰ります。」

そのため、ソロモンは次の言葉で結論を述べています。

結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。

神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。(12:13-14)

つまり、もしあなたが完全な人生を望むのであれば、神様を求めましょう。何よりも、神様を喜ばせることを最優先にしましょう。そうすれば、あなたの人生には生きがいが生まれます。

イエス様が山上の垂訓を教えた時、ソロモンの言葉を思い起こしたかもしれません。なぜなら、マタイ6章19-34はこの箇所と似ており、その結論も同じだからです。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)

私たちは、いちばん大切なことを思い出しましょう。それは、神様の国と義を求めることです。そうすれば、必要なものを得るだけでなく、あなたの人生に生きがいが生まれます。

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伝道者の書

愚かさと怠惰

この箇所で、ソロモンは良いことについての説明を続けています。

前の箇所で、ソロモンはこう認めました。「もちろん、人生はそもそも不公平なものです。正しいことをしても、知恵を持っていても、すべてがうまくいくという確信はありません。」

それでも、ソロモンは知恵の利益について主張しました。

最初にソロモンが指摘したのは、たった一つの愚かな行動が、それまで知恵によって築き上げたものをすべて壊してしまう可能性がある、ということです。他人の愚かな行動によって壊れるかもしれません(伝道者の書9:18)。また、自分自身の愚かな行動によって壊れる可能性もあります(10:1)。

そのため、ソロモンは二つのことについて警告をしています。

1つ目は、権威のある人をどのように扱うべきかということです。つまり、もし私たちのミスによって上司が怒った場合、冷静に対応し、謝罪し、そのミスを修正することで、すべてが良くなる可能性があるということです(10:4)。

次に、ソロモンは「上司について何を言うか気をつけなさい」と警告しています。なぜなら、たとえプライベートな場で言ったとしても、どのようにしてか、その言葉が上司に伝わる可能性があるからです(10:20)。

ソロモンは、もう一つのことについて警告しています。それは、怠惰についてです。

ある人は、働きたくないため、さまざまな言い訳をします。

例えば、

「穴を掘ると、私はそこに落ち込むかもしれない。」

また、

「石工の仕事をしたら、石垣から蛇が出てきて、私を噛むかもしれない。」

さらに、

「木を割ると、私はけがをするかもしれない。」(10:8-9)

では、ソロモンの返答は?

「上手に働けるかどうかを心配する必要はない。たとえ悪い道具があっても、成功できる。馬鹿な言い訳をするな。」

けれども、他の人々はこう言います。「それでも、未来に何が起こるか誰も知らない。報いがあるかどうか分からないのに、どうして頑張って働く必要があるのだろうか。しんどいよ。通勤するだけでも大変だ。」(10:14-15)

だから、もう一度、ソロモンは警告しています。

「働かないと、あなたの人生は崩れてしまうよ。今、あなたの人生は楽しいかもしれないけど、何かが必要になった時、お金がなければどうにもならないよ。」(10:18-19)

他の人々はこう尋ねます。「でも、私が成功するかどうか確信できません。例えば、トウモロコシの種を蒔いても、トウモロコシはあまり成長せず、麦の方がよく成長する年になるかもしれない。」

そこで、ソロモンはこう返答します。

「じゃあ、賢く蒔きなさい。すべての状況に備えて準備をしてください。いろいろな種を蒔きなさい。どっちがよく成長するか分からないけど、いろいろな種を蒔けば、きっとどれかがうまく成長するよ。」(11:1-6)

この話を読むと、私はタラントの話を思い出します(マタイ25章14-30)。

賢い人々はそのお金を投資して、最終的に利益を得ました。けれども、一人の愚か者は何もしませんでした。なぜなら、失敗した場合に上司が怒るのを恐れたからです。

もしその人がソロモンのアドバイスに従っていたなら(つまり、怒っている上司の扱い方や、投資を多様化することを学んでいたなら)、おそらくそのお金を投資していたかもしれません。

しかし、彼はそうしなかったため、避けたかった結果が現実となり、上司は本当に怒りました。

あなたはどうでしょうか。神様が与えてくださったものを、十分に活用していますか。神様が与えてくださった才能や資源をきちんと「投資」していますか。それとも、怠惰のために言い訳をしていませんか。

いつか、神様が私たちにこう言ってくださいますように。

よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。(マタイ25:21)

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伝道者の書

人生がフェアじゃない時に

「人生がフェアだと誰も約束した覚えはないよ。」

アメリカでは、誰かが人生の不公平について文句を言うと、多くの人々はそう返答します。なぜなら、それは真理だからです。人生は、そもそも不公平なものなのです。

この箇所で、ソロモンもそのように教えています。

一番早い人がいつもレースに勝つわけではありません。一番強い人がいつも試合に勝つわけでもありません。一番賢くて才能のある人がいつも成功するわけでもありません。なぜでしょうか。

ソロモンが書いたように、

すべての人が時と機会に出会うからだ。(伝道者の書9:11)

つまり、時には悪いことが起こるということです。そして、いつ悪いことが起こるか、私たちには全く分からないのです。

人生は、時として機会があるかどうかで不公平になることがあります。また、時には人々それぞれの性格や人格によって、私たちの人生が不公平になることもあります。

ソロモンは、その例を示しています。

わずかな人々が住む小さな町があった。そこに大王が攻めて来て、これを包囲し、これに対して大きなとりでを築いた。

ところが、その町に、貧しいひとりの知恵ある者がいて、自分の知恵を用いてその町を解放した。(伝道者の書9:14-15)

すごいですね。では、その町の人々は、その賢い人に何をしたでしょうか。その人を尊敬したのでしょうか。市長に任命したのでしょうか。その人を称えるためにパレードを行ったのでしょうか。いいえ、違います。むしろ、

だれもこの貧しい人を記憶しなかった。(15b)

時々、人生はフェアではありません。

人生がフェアではないと感じるとき、私たちはどうすればよいのでしょうか。

ここに、3つの選択肢があります。

  1. 苦々しい思いを抱く。
  2. がっかりして、「しょうがないなぁ」と諦める。
  3. イエス様の模範に従う。

イエス様について少し考えてみてください。すべての人々の中で、イエス様こそが「人生がフェアではない」と言う資格を持っていたと言えます。

イエス様は全く罪を犯したことがなく、人々を世話し、自分のニーズよりも他の人々のニーズを優先しました。自分の時間を人々に捧げ、疲れていても、一人になりたくても、人々が来るとイエス様は彼らに仕えました。

それにもかかわらず、最終的にイエス様は裏切られ、見捨てられ、十字架にかけられました。

それでも、イエス様は苦々しい思いを抱きませんでした。憤慨もせず、「もう、しょうがない」と諦めることもありませんでした。むしろ、イエス様は自分の人生を天の父の手に委ねました。

イエス様は天の父の御心に従い続け、神様からの栄誉を求めました。それがイエス様の最優先事項であったため、どのような状況においてもイエス様の喜びは失われることがありませんでした。むしろ、イエス様は人々を世話し、愛し、彼らのために十字架で命を捧げたのです。

人生はフェアではありません。この壊れた世界で、壊れた人間と共に生きているからです。それは私たちがコントロールできることではありません。しかし、私たちの反応は、自分でコントロールすることができます。

この人生で公平を求めないでください。それは見つけることができないからです。

だからこそ、イエス様のように、あなたの人生を天の父の手に委ねましょう。神様の御心に従い続け、神様からの栄誉を求めましょう。そうすることで、不公平な世界の中でも喜びと意味を見つけることができるのです。

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この人生を楽しもう

この箇所では、ソロモンは伝道者の書の7章から8章のテーマを続けて書きます。すなわち、人間の知恵によって悪に関する疑問を解決することはできません。

この罪によって破壊された世界では、私たちに良いことが起こるのか、悪いことが起こるのかを予測することはできないのです。すべての人々が、善い時も悪い時も経験します。

そして、たとえ知恵を持ち、正しい人生を生きていたとしても、悪い時がやってくるのです。

そのため、ソロモンは1節で次のように書きました。

というのは、私はこのいっさいを心に留め、正しい人も、知恵のある者も、彼らの働きも、神の御手の中にあることを確かめたからである。

彼らの前にあるすべてのものが愛であるか、憎しみであるか、人にはわからない。(伝道者の書9:1)

そして、その後で、ソロモンは私たちが確実に理解している事実について語ります。すなわち、すべての人は、いつか死を迎えます。あなたが善人であろうと悪人であろうと関係ありません。誰もが、いつか死ぬのです。

ソロモンが語ったのは、死んでしまえば、何もすることもできず、何も知ることもできないということです。

あなたの働きに対する報いを受け取ることもなく、これまでの善い経験も悪い経験も、すべてが過去のものになります。そして最終的には、すべての人があなたの存在を忘れてしまいます。

だからこそ、ソロモンはこう言いました。

さあ、喜んであなたのパンを食べ、愉快にあなたのぶどう酒を飲め。神はすでにあなたの行いを喜んでおられる。

いつもあなたは白い着物を着、頭には油を絶やしてはならない。

日の下であなたに与えられたむなしい一生の間に、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。それが、生きている間に、日の下であなたがする労苦によるあなたの受ける分である。

あなたの手もとにあるなすべきことはみな、自分の力でしなさい。あなたが行こうとしているよみには、働きも企ても知恵もないからだ。伝道者の書9:7-10)

つまり、この人生を楽しみましょう。生きている間に、神様が与えてくださった人生を十分に活かしなさい、ということです。

私もこの考えに賛成です。

私たちは、しばしば心配に圧倒されます。過去の出来事について悩み、現在の状況を心配し、さらには未来を恐れることもあります。けれども、心配しすぎると、この人生を楽しむことができなくなります。それは本当にもったいないことです。

しかし、ソロモンが知らなかったことを、私たちは知っています。それは、この人生の後にも私たちは生き続ける、ということです。旧約聖書の時代において、たとえ永遠の命を信じていた人々でさえ、その理解は曖昧なものでした。

ところが、新約聖書では、イエス様が永遠の命について明確に教えています。つまり、死の後には希望があります。

マルタという女性が亡くなった兄ラザロのために涙を流していたとき、イエス様はこう言われました。

イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。(ヨハネ11:25-26)

だから、この人生を楽しみましょう。神様がこの世界を造られた理由は、私たちが楽しむためです。

しかし、それと同時に、死の後にも希望があることを忘れないでください。

永遠の命があるかどうか、私たちはもう疑う必要はありません。それは確かに存在します。

ヨハネは次のように書きました。

 私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。(第一ヨハネ5:13)

毎日、その真理を思い出して、喜びましょう。

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どうしてこの世に悪があるかと訊くと

私たちはこの世の中に悪を目にするたび、「どうして」と問いかけることがどれほど多いでしょうか。

例えば、4年前に東日本大震災が発生しました。多くの人々が、このような災害を目の当たりにしてこう尋ねました。「どうして神様はこのような出来事をお許しになるのでしょうか。」

また、人々が行う悪い行いも目にします。例えば、新聞では殺人やレイプの記事をよく見かけます。さらに、現在のISISの問題もその例の一つです。そのため、多くの人々は「どうして」と問いかけます。

そして、彼らは振り返り、「昔の時代は良かった。昔はこのような問題が今ほど多くはなかった」と考えます。

けれども、ソロモンは次のように記しました。

「どうして、昔のほうが今より良かったのか」と言ってはならない。このような問いは、知恵によるのではない。(伝道者の書7:10)

どうしてソロモンはそう言ったのでしょうか。それは、多くの場合、私たちが答えを見つけられないからです。だからこそ、神様の知恵を求め、その知恵によって心の平和を守りましょう。

確かに、ある程度までお金は私たちに平和をもたらすかもしれません。しかし、最終的に平和を与えるのは、神様の知恵だけです。この混乱した世界において、神様の知恵だけが、私たちに正しい視点を与え、この世を見る力をもたらしてくれるのです。

けれども、私たちがいつも「どうして」と問い続けるなら、絶望に導かれてしまいます。

そのような人は、次のような質問を投げかけるかもしれません。

神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか。(7:13)

つまり、「どうして私たちは神様と争うことができるでしょうか。この悪は神様のせいです。神様が行ったことを私は変えることができません。

もし神様が順境の日を作られたと言うなら、神様が逆境の日の責任も負っていると言わなければなりません。そして、毎日目覚めるたびに、神様がどのような日を与えてくださるのか、私たちには分からないのです。」

そのような人はさらにこうも言います。

「正しい人が早く亡くなるのを見たことがありますし、悪い人が長く生きるのを見たこともあります。だから、極端に正しい人生を生きることは愚かです。

もちろん、私の行動が悪すぎるのも良くありませんが、それもまた愚かな考え方です。なぜなら、私も神様を恐れているからです。だから両極端を避けましょう。私は自分の人生を楽しみたいのですから。」(7:15-18)

けれども、ソロモンはどのように答えるでしょうか。

「正しい人とはどういう意味ですか。正しい人が早く死ぬと言いますが、実際には正しい人など誰もいません。この世界でどれほど探しても、正しい人を見つけることはできませんでした。

例えば、多くの人は、相手が聞いていないと思うと、すぐにその人を呪います。あなたもそのようなことをするでしょう?

初めに、神様は良い人々を造られましたが、結局、彼らは自分の道を進み、多くの悪を行うようになりました。それでも、あなたは彼らを正しいと言いますか。(7:20-29)

ですから、賢く生きなさい。法律に従いなさい。権威ある人々の言葉に耳を傾けなさい。今苦しんでいても、最終的にはすべてが良くなります。

ただし、悪いことをすれば、その結果を知ることになり、逃れることはできません。(8:1-8)

もちろん、この世では人々が他の人々を傷つけます。もちろん、時には悪い人が死ぬときに称賛されることもあります。もちろん、正義が行われないために悪が広がっています。しかし、最終的には正義が訪れるのです。

もちろん、正しい人が悪い人の報いを受け、悪い人が正しい人の報いを受けることがあります。もちろん、それは公平ではありませんし、正しくありません。けれども、それを私たちがコントロールすることはできません。

たとえ理解しようとしても、決して理解することはできません。一番賢い人であっても、それを理解することはできないのです。『私は答えを知っている』と言ったとしても、それは誤りです。

だから、そのことについては、もう心配するのをやめたほうが良いでしょう。

むしろ、人生の良いことに焦点を当ててください。神様からの賜物に焦点を当ててください。そうすることで、喜びを見つけることができます。」(8:9-17)

ソロモンは正しいと思います。もし、私たちが「どうして」に焦点を当て続けるならば、狂気に陥るでしょう。なぜなら、私たちは神様が織りなすタペストリー全体を見ることができないからです。

そのタペストリーは、時間の初めから終わりまで続くものです。私たちが理解しようとしても、そのタペストリーを完全に理解することはできません。私たちの人生はとても短いのですから。

しかし、私たちは二つのことを理解することができます。

すべての営みには時とさばきがある。(8:6)

また、

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。(3:11)

「どうして」という問いの答えを理解する必要はありません。むしろ、次のことを覚えておかなくてはなりません。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)

そう覚えておけば、「どうして」という問いの答えが分からなくても、喜びを見つけることができるでしょう。

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良い評判を築く

イスカリオテのユダ。ペテロ。ヒトラー。アブラハム・リンカーン。

この四人はみな有名な人物ですが、そのうち二人は悪名高い存在として知られています。名前を聞けば、その人の評判が瞬時に頭に浮かぶものです。それは時に良い評判であり、また時には悪い評判でもあります。

だから、ソロモンはこう言いました。

良い名声は良い香油にまさ「る」(伝道者の書7:1)

つまり、もしあなたの人生に良いことを見つけたいのであれば、良い評判を築く必要があります。

この箇所で、ソロモンはどのようにして良い評判を築くかを教えています。

では、どのようにして良い評判を築けるでしょうか。

まず、私が以前言ったように、あなたの人生について正しい考え方を持つことです。そうすることで、優先順位が正しくなり、正しい決断を下すことができます。

次に、知恵のある人々からアドバイスを求めることです。(7:5-6)

ただ聞きたいアドバイスだけを求めてはいけません。もし相手があなたに注意を与えるなら、謙虚に耳を傾けてください。

皮肉にも、ソロモン自身はこれを実践しませんでした。聖書には具体的に書かれていませんが、おそらく預言者ナタンや他の預言者たちがソロモンに人生の方向性について注意を与えたのではないでしょうか。

ところが、ソロモンは自分の知恵に頼り続けた結果、最終的に彼の没落を招きました。

最後に、金銭を愛することで性格が汚されないようにしましょう。政治家であれ牧師であれ、その誘惑に屈することで恥を受けることがあります。

パウロが言ったように、

金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。(第一テモテ6:10)

お金自体は悪いものではありません。しかし、お金を愛することは悪いことです。そして、お金を愛することによって、多くの人々の評判が汚されてきました。

四つ目は、始めたことを最後まで成し遂げることです。始めることよりも、完了することの方が重要です。多くの人々は新しいことを始めますが、困難に直面するとすぐに諦めてしまいます。最初は簡単だと思っていたけれど、結局難しくなったために諦めてしまい、その結果、自分のプライドが傷つくこともあります。

けれども、ソロモンはこう言いました。

事の終わりは、その初めにまさり、忍耐は、うぬぼれにまさる。(8)

つまり、困難に直面しても、頑張り続けてください。我慢してください。すぐに諦めてしまうと、あなたの評判が落ちてしまいます。

イエス様も同じようなお話をされました。ある人が、プロジェクトにかかる費用を前もって考えなかったために、最後まで完了させることができませんでした。その人についてイエス様はこう語られました。

基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、

『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった』と言うでしょう。(ルカ14:29-30)

最後に、自分の怒りをコントロールするようにしましょう。多くの人々は怒りを抑えられないために、愚かな行動をしてしまいます。愛する人々を傷つけたり、無謀な決断を下したりして、振り返ったときに多くの後悔が残ることがあります。

ソロモンは次のように書き記しています。

軽々しく心をいらだててはならない。いらだちは愚かな者の胸にとどまるから。(9)

あなたはどうでしょうか。どのような評判を築いているのでしょうか。

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どうやって良いものを見つけられるか

伝道者の書の前半では、ソロモンが人生において何が虚しいかを説明しています。

けれども、6章の後半から、ソロモンは批判者の視点から語り始めます。

彼はこう尋ねます。「あなたはいろんなことが虚しいと言いました。それなら、どうやって私の人生の中で良いものを見つけることができるのでしょうか。あなたの言葉は私を全く助けてくれない。

神様は私を無意味な人生を生きるために造られたのでしょうか。もしそうだとしたら、どうやって神様と争うことができるのでしょうか。そして、私が死ぬ時、どうすれば充実した人生を生きたと言えるのでしょうか。」(伝道者の書6:10-12)

そのため、伝道者の書の最後の部分で、ソロモンはこれらの疑問に答えます。

そして7章の冒頭で、私たちはどのようにして良いものを見つける秘訣を学べるかに関する手がかりを見つけます。ソロモンは次のように記しました。

。。。死の日は生まれる日にまさる。

祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれに心を留めるようになるからだ。

悲しみは笑いにまさる。顔の曇りによって心は良くなる。

知恵ある者の心は喪中の家に向き、愚かな者の心は楽しみの家に向く。(伝道者の書7:1-4)

初めて読むと、このアドバイスは少し悲しく感じられるかもしれません。死について考えることで、良いことを見つけることができるのでしょうか。それは本当なのでしょうか。ソロモンの言葉は一体どういう意味を持っているのでしょうか。

もしあなたが本当に良いことを見つけたいのなら、人生について正しく考えなくてはなりません。つまり、私たちの人生は短いということです。そして、私たちは皆、いつか死を迎えます。

その事実を常に思い出すことで、何が本当に大切なのかを思い出すことができます。

私たちは葬式に出席するとき、自分の人生がどこに向かっているのか、また何が重要なのかを考え始めることが多いのではないでしょうか。

死に直面すると、私たちが気づくのは、お金や持ち物が実際にはそれほど大切ではないということです。むしろ、私たちが愛する人々が大切であり、さらに、神様の御心に従うことが重要です。

死を迎えたとき、誰も「もっと残業しておけば良かった」とは言わないでしょう。また、「もっとパーティーに行けば良かった」や、「趣味にもっと時間を費やせば良かった」と考える人もいないでしょう。

むしろ、多くの人々がこう思います。

「家族ともっと時間を過ごしていれば良かった。」 「時間を無駄にしなければ良かった。」 「本当に大切なことに焦点を当てていれば良かった。」

それでも、私たちはしばしば大切ではないことに焦点を当ててしまうのです。

あなたはどうですか。今日あなたがこの世を去るとしたら、充実した人生を生きたと言えるでしょうか。大切なことに焦点を当ててきたと言えるでしょうか。

それとも、「私の人生を無駄にしてしまった」と言わざるを得ないでしょうか。

正しい視点を持っているなら、きっとそのようなことは言わないはずです。

しかし、今のあなたの視点はどうでしょうか。

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不満からの空しさ

私が____を持っていたら、私は満足です。

あなたはどのようにこの文章を完成させますか。「妻」?「夫」?「もっと良い仕事」?「もっとお金」?

実際のところ、もし今あなたが不満を感じているなら、たとえ何を持っていても、決して満足することはないでしょう。ソロモンはこの真理を理解していました。彼は次のように話しました。

金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、むなしい。

財産が増えると、寄食者もふえる。持ち主にとって何の益になろう。彼はそれを目で見るだけだ。(伝道者の書5:10-11)

多くの人々はお金をもっと欲しがりますが、どれぐらいあれば十分なのでしょうか。多くの人々は物を求めますが、どれぐらいあれば満足できるのでしょうか。実際、多くの人々にとっては、決して十分ではありません。

そのため、より良い地位やより高い給料を得るために、人々を踏み続けるのです。(5:8-9)

しかし、最終的には、それは虚しいのです。なぜなら、満足感を得られないからです。

どれほど多くの服を買っても、結局一度も着ないままの服がどれだけあるでしょうか。どれほど多くの物を買っても、使わないまま放置している物がどれほどあるでしょうか。

持ち物が増えるかもしれませんが、ソロモンが言ったように、それはただの「目の保養」にすぎません。見た目が良くても、使われないのなら価値はありません。

さらに、金儲けがあなたの人生の目的になってしまうと、どうやってそのお金を持ち続けるかという心配に取りつかれ、寝不足になります。(5:12)

ある人々は、お金が無くなることへの恐怖に囚われ、そのお金を握りしめるあまり、自分の人生を楽しむことができません。

他の人々は、馬鹿げたことにお金を使うため、すぐに財産を失ってしまいます。また、災害を通じてすべてを失うかもしれません。(5:13-14)

たとえ賢くお金を使ったとしても、あなたが亡くなれば、そのお金を持って行くことはできません。他の人がそのお金を引き継ぎますが、それをどう使うかはあなたにはわかりません。もしかすると、その人たちはすぐにすべてを浪費してしまうかもしれません。

だからこそ、ソロモンは次のように書きました。

これも痛ましいことだ。出て来たときと全く同じようにして去って行く。風のために労苦して何の益があるだろうか。

しかも、人は一生、やみの中で食事をする。多くの苦痛、病気、そして怒り。(5:16-17)

つまり、金儲けがあなたの目的になってしまうと、人生は虚しくなります。生きている間に満足を得られないだけでなく、死後には全てを失うからです。

では、どうすれば幸せを見つけることができるのでしょうか。

ソロモンは次のように書きました。

働く者は、少し食べても多く食べても、ここちよく眠る。。。

見よ。私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許されるいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。

実に神はすべての人間に富と財産を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。

こういう人は、自分の生涯のことをくよくよ思わない。神が彼の心の喜びで満たされるからだ。(5:12,18-20)

また、

目が見るところは、心があこがれることにまさる。これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。(6:9)

つまり、物を追い求めるのをやめなさい。それらは、あなたに平和や喜びを与えることはありません。だからこそ、すでに与えられたものに満足する方が良いのです。

どうでしょうか。満足するために、あなたは常に物を追い求めていますか。それとも、神様がすでに与えてくださったものに満足していますか。

もし満足しているなら、私たちはぐっすり眠れるだけでなく、人生が楽しくなるでしょう。これを望まない人はいないのではないでしょうか。

では、どうすれば私たちは満足できるのでしょうか。パウロはその秘密を見つけました。

彼は次のように書きました。

私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。(ピリピ4:12)

その秘訣とは何でしょうか?

私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。(ピリピ4:13)

満足する秘訣は、物を手に入れることではありません。むしろ、イエス様に信頼するなら満足できます。また、イエス様をあなたの喜びとするなら満足できるのです。そして、すべてにおいてイエス様を求めるなら、真の満足を得ることができます。

金持ちであっても、貧乏であっても、たくさんの物を持っていても、ほとんど持っていなくても、独身であっても、結婚していても、幸せになることができます。どのような状況でも、あなたは喜びと平和を得ることができるのです。

そのようになれば、何を持っていても、持っていなくても、満たされた人生を送ることができます。

あなたは今、満足していますか?

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神様を操ろうとする空しさ

ある人々にとって、神様はまるでジーニーのようです。普段は神様を無視して、瓶の中に閉じ込めて押入れや箪笥にしまいます。そして、何かが必要になると、その瓶から神様を取り出して助けを求めるのです。

また、神様を親のように捉える人もいます。そして、何かが欲しいときには、こうして交渉します。「もし車を使わせてくれるなら、洗車をしてあげますよ。」

しかし、この箇所でソロモンは、神様を操ろうとすることの虚しさについて語っています。

多くの人々が神様の前に出てきますが、神様に耳を傾けたり、神様の御心を求めたりすることなく、むしろ神様を操ろうとします。

例えば、たくさんの言葉を使って祈ることがあります。なぜなら、それによって神様を感動させ、私たちの願いを叶えてもらえると思うからです。

しかし、イエス様はこう言われました。

また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。

だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。(マタイ6:7-8)

他の人々は神様と交渉しようとします。何か本当に欲しいものがあると、深く考えずに愚かな約束をしてしまいます。旧約聖書に登場するエフタの話はまさにその典型です。

けれども、ソロモンは次のように話しています。

神の前では、軽々しく、心あせってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、ことばを少なくせよ。

仕事が多いと夢を見る。ことばが多いと愚かな者の声となる。。。

夢が多くなると、むなしいことばも多くなる。ただ、神を恐れよ。(伝道者の書5:2,3,7)

神様の御前に来るとき、どのように来ますか。多くの言葉を使い、自分の計画や夢、願いについて語りますか。それとも、自分の人生に対して不満を言ったり、「どうして神様は私を助けてくれないのか」と尋ねたりしますか。

ソロモンが伝えたのは、喋ることよりも、神様の言葉に耳を傾けることが大切だということです。私たちの望みに焦点を当てるのではなく、神様の望みに焦点を当てた方が良いのです。

言葉をたくさん使うよりも、必要最低限の言葉を用いる方が良いのです。

例えば:

  • 天のお父様、あなたを愛しています。
  • 天のお父様、あなたは全ての誉れにふさわしい方です。
  • 天のお父様、あなたの国が私の周りの人々の心に訪れるようにしてください。
  • 天のお父様、あなたの御心に従いたいと思います。私に何を望んでおられるでしょうか。
  • 天のお父様、私の必要を満たしてください。
  • 天のお父様、私の罪を赦してください。私はあなたのようになりたいので、誘惑から守ってください。
  • 天のお父様、____さんは私に傷を与えました。私がその人を許す力を与えてください。
  • 天のお父様、私を守ってください。

これらはシンプルな言葉ですが、力強い言葉です。実際、イエス様はこのような祈りを勧められました。(マタイ6:9-13)

そして、あなたの言葉を止めて、神様の御前に立ち、耳を傾けてください。

実は、私自身ももっとそうすべきだと思っています。しかし、神様と親しい関係を築きたいなら、それこそが出発点なのです。

神様との関係は、空虚な言葉や意味のない言葉から始まるのではありません。

少ない言葉と、神様の声に耳を傾ける心から始まるのです。

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人気と出世の儚さ

数年前、あるアメリカン・フットボールの選手ティム・ティーボウは、本当に人気になりました。彼が、あまり良い選手じゃなかったけど、彼のリーダーシップによって、そのチームはある程度成功した。だから、多くのアメリカ人は、ティーボウが大好きでした。

それに、彼はクリスチャンで、試合をやりながら、よく祈っていた。そして、多くの人々は彼を真似した。そのポーズは「ティーボイング」と呼ばれた。それも、人気になった。

けれども、その次の年は、彼のチームは、もっと良い選手を得て、ティーボウをクビにした。彼は他のチームに移籍したけれど、結局、彼はもう一度、クビにされた。今、彼は、まだフットボールをやりたいのに、どのチームでも彼が欲しくないです。

私のポイントは?人気と出世は儚いことです。どんなに人気者になっても、会社で、どんなに出世しても、結局その人気と立場はなくなる。

この箇所において、ソロモンは、そう教えた。

最初に、王の例を与えた。その王は、自分の立場、また、自分のやったことを誇って、もはや、他の人々のアドバイスを聞かなくなった。だから、彼は馬鹿な決断をして、クーデターが起こって、別の人が王になった。

その次の王は、元は貧しい人だった。けれども、彼は牢から出て、本当に人気の王になった。ところが、結局、彼の人気も、なくなりました。

人気と出世は悪いことでしょか。そうではないです。イエス様はどっちもありました。彼は人気者になったし、彼のステータスも上がりました。それでも、イエス様は、そのことが儚いと分かりました。つまり、人々が気まぐれだと分かりました。

イエス様が奇跡を行っている間は、本当に人気者になった。けれども、ヨハネは、イエス様についてこう書いた。

しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからである。

また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったのである。(ヨハネ2:24-25)

もちろん、イエス様は、その人々の愛と忠実さを疑って正しかった。ある日曜日、彼らは、イエス様を王として祝っていた。けれども、その次の金曜日、彼らは「イエスを十字架に付けろ」と叫んだ。

だから、自分のステータスや人気に焦点を当てずに、天の父を喜ばせることに焦点を当てた。なぜなら、そうすれば、本当の喜びと満足が見つけられると分かっていたから。

また、人々を喜ばせたら、その喜びと満足が見つけられないと分かりました。イエス様が喜んでいたのは、天の父が「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。]と言う事です。

あなたはどうですか。あなたの目的は人気者になる事でしょうか。もしくは、あなたの目的は出世する事でしょうか。それらは、儚いです。もし、それらを求めたら、一番大切なことを得られない。つまり、神様の承認をもらわない。

私たちの目的が人気か出世にならないように。むしろ、私たちの目的は、神様からこの言葉を聞くことです。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わたしの愛する子です。わたしはあなたを喜ぶ。」

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仕事が私達を食い尽くす虚しさ

この箇所でソロモンは、2つの問題について話しています。最初にソロモンは、全く働かない人について話しています。

「愚かな者は、手をこまねいて、自分の肉を食べる。」(5節)

つまり、もしあなたが働かなければ、最終的にあなたの人生は破滅へと向かうでしょう。多くの場合、そのような人は貧困に陥ります。

たとえ裕福な家庭に生まれたとしても、働かないなら、あなたの人生は虚しいものとなるのです。先に述べたように、神様は仕事を良きものとして造られました。

そして、最も重要な仕事は、神様の国を建てることです。

たとえあなたが裕福であっても、神様の国のためにその財産を全く使わないのであれば、いずれ神様に説明する責任を負うことになるでしょう。

けれども、ソロモンは逆の問題にも目を向けます。それは、働きすぎる人々のことです。

私が初めて日本に来たとき、大きなカルチャーショックを受けました。私の英会話クラスのある生徒が、「私の夫は仕事のためにドイツに行きました」と話しました。

私が「どのくらいドイツに滞在するのですか?」と尋ねたところ、彼女は「5年ほどです」と答えました。

私は信じられませんでした。とはいえ、日本ではそれほど珍しいことではありません。

アメリカではセールスマン、スポーツ選手、軍人、エンターテイナーなど、特定の職業ではそのような家庭生活がありますが、一般的な会社員ではまずありません。家庭が非常に大切だからです。

けれども、多くの日本の会社にとって、仕事は家族よりも重要視されているのです。

その結果、多くの父親は長時間残業をし、子供たちにほとんど会う時間がありません。その影響で家庭生活は悪化します。

アメリカの離婚率は日本よりも高いものの、このような家庭問題において、日本も似たような課題を抱えているのです。つまり、夫婦関係が脆弱であり、親子関係(特に父親と子供の関係)が希薄であることです。

このため、ソロモンはバランスが必要だと話しています。6節には次のように書かれています。

片手に安楽を満たすことは、両手に労苦を満たして風を追うのにまさる。(伝道者の書4:6)

そのバランスが欠けると、どのような影響があるのでしょうか。それは、私たちの人間関係が崩れてしまうということです。

最近の日本では、夫が引退した後に、その夫婦がすぐに離婚するという話をよく耳にします。それはなぜでしょうか。

それは、夫が長年働き続ける間、妻はまるでシングルのような生活を送り、また夫婦が結婚生活を育むことを怠っていたことが原因です。結果として、夫が引退した後に共通の関心事がなくなり、妻は夫と一緒に生活することに耐えられなくなってしまうのです。

ソロモンはその状況をよく理解していたため、次のように話しています。

ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もない人がいる。それでも彼のいっさいの労苦には終わりがなく、彼の目は富を求めて飽き足りることがない。

そして、「私はだれのために労苦し、楽しみもなくて自分を犠牲にしているのか」とも言わない。これもまた、むなしく、つらい仕事だ。(8)

つまり、働きすぎると、正しい視点を見失ってしまうのです。もし金儲けにばかり焦点を当ててしまうと、人間関係、特に家族が最も大切であることを忘れてしまいます。

さらに、人生を楽しむことを忘れ、人間関係を楽しむことも忘れてしまいます。その結果はどうなるのでしょうか?

孤独で、虚しく、惨めな人生です。

しかし、人間関係に焦点を当てることで、あなたの人生はより生産的になり(9)、困難なときにあなたを愛し支えてくれる人がそばにいるのです(10-12)。

あなたは何に焦点を当てていますか?仕事があなたを食い尽くしていませんか?もしそうなら、今すぐ大切なことに焦点を当て始めてください。特に、家族との関係、そして神様との関係を大切にしてください。

ソロモンは次のように話しています。

もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。(12節)

あなたの人生が神様と、あなたを愛する人々に繋がっているなら、その人生は簡単に切れることのない、しっかりとした糸になります。あなたはどうしますか。

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「食うか食われるかの世の中だ」の態度を持つ空しさ

「食うか食われるかの世の中だ。だから、他の人々を踏み台にしても、自分が成功するために何をしても良い。」

多くの人々は、そのような態度を取っています。彼らは人生を競争と捉えています。相手の持ち物を見て、その物を欲しくなり、相手の成功を見て羨ましさを覚えます。

彼らは常に相手と比べ、競争しています。

実際、そのような態度によって、多くの人々が素晴らしい成果を上げました。

しかし、ソロモンはその態度について何と言ったのでしょうか。

私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。(伝道者の書4:4)

どうして、その態度が空しいのでしょうか。

それは、その態度によって、神様が私たちのために望んでおられる喜びと満足を見つけることができないからです。

その喜びの一つは、他の人々と共に働くことにあります。けれども、もし常に他者と比べたり、競争したりするならば、その喜びを理解することはできません。

他人の成功を喜ぶどころか、妬みを抱きます。相手の成功を応援する代わりに、押し下げることを選びます。そのような態度は、人間関係を壊し、職場の環境を本当に悪くしてしまいます。

さらに、私たちの仕事は自己中心的になります。神様が何を望まれるかを考えず、ただ自分たちがしたいことに焦点を当てます。その結果、私たちは神様の良い計画と目的から遠ざかってしまいます。

神様はご自身の目的のために私たちを造られました。その目的を理解し、その目的のために生きるならば、本当の喜びを見つけることができます。つまり、神様の国を広げるために働くときに、喜びを得ることができるのです。

では、神様の国の働きとは何でしょうか。それは、人々を愛し、彼らに触れることです。

しかし、他人と競争したり、妬んだりするならば、それは不可能です。そのような態度を持っているならば、神様の愛で彼らに触れることもなく、興味を持つこともありません。むしろ、彼らを押し下げます。私たちは、自分自身の目的を達成するために、他人を踏みつけるのです。

その態度によって、この世で成功することはあるかもしれません。けれども、神様からの喜びを知ることは決してできません。そして最終的には、私たちが達成したことは空しくなるのです。

つまり、ある日神様はこう尋ねられるでしょう。「あなたは与えられた人生で何をしましたか。あなたの周りに多くの人々を置きましたが、彼らのために何をしましたか。」

もし私たちが良い答えを持っていなければ、私たちは裁かれることになります。

では、あなたの答えは何でしょうか。

仕事場でのあなたの態度はどうですか。神様の国をまず第一に求めていますか。周囲の人々を大切にしていますか。それとも、自分のキャリアや立場を第一に考えていますか。

「食うか食われるかの世の中だ」という態度を取るならば、最終的に、あなたの人生は空しくなります。

だからこそ、神様の国をまず第一に求めましょう。そうすれば、あなたの仕事は楽しくなり、充実感を得ることができるでしょう。

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楽しくない仕事の空しさ

4章全体を見ると、ソロモンがしいたげについて語ったとき、多分奴隷について触れていたのではないかと思われます。彼は、仕事を楽しむためではなく、ただ他の人々の利益のために働かざるを得なかった人々について話していたのかもしれません。

ソロモンが言ったのは、そのような惨めな状態にあるよりも、死のほうがましだということです。

あなたは奴隷ではないかもしれませんが、時々、奴隷のように感じることはありませんか。あなたの仕事が、まるであなたの命を吸い取っているように感じることはありませんか。

信じがたいかもしれませんが、神様の意図は、仕事が楽しく、充実感を与えるものであることです。仕事は罪の結果としてこの世界に現れたのではありません。それどころか、その前に神様はアダムに仕事を与えられました。それは、エデンの園を世話するということでした。

けれども、罪の結果として、仕事は困難なものとなりました。(創世記3:17-19)

とはいえ、ソロモンが言ったように、

すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた神の賜物である。(伝道者の書3:13)

しかし、神様から離れると、仕事は重苦しくなります。たとえ神様と共に歩んでいても、時には大変な上司や職場、仕事に直面することがあります。そのようなとき、私たちの人生は惨めに感じることがあるでしょう。

もしそうなら、神様があなたのためにもっと良い仕事を準備しておられると思います。それを信じられないかもしれません。自分の状況から抜け出せないと思うかもしれません。

けれども、そのような嘘を信じないでください。祈り、神様の御顔を求めてください。神様にはあなたの状況を変える力があります。そして、その日が来るまで、神様は今のあなたの状況の中であなたを慰め、助けてくださいます。

イエス様はこう言われました。

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。

だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。

また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。

してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。

とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。(マタイ7:7-11)

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自己中心的な仕事の空しさ

私たち皆は、人生の意味を探しています。多くの人々、特に男性たちは、仕事を通して人生の意味を見つけようとします。

それは、彼らの自己価値感が仕事から来ているからです。その仕事を通して、周りの人々に良い影響を与えたいと考えています。また、自分の手柄によって思い出されたいと願っています。そのため、彼らは一生懸命働きます。

ソロモンも同じことをしました。けれども、彼の結論は何だったのでしょうか。

私は生きていることを憎んだ。日の下で行われるわざは、私にとってはわざわいだ。すべてはむなしく、風を追うようなものだから。

私は、日の下で骨折ったいっさいの労苦を憎んだ。後継者のために残さなければならないからである。

後継者が知恵ある者か愚か者か、だれにわかろう。しかも、私が日の下で骨折り、知恵を使ってしたすべての労苦を、その者が支配するようになるのだ。これもまた、むなしい。

私は日の下で骨折ったいっさいの労苦を思い返して絶望した。

どんなに人が知恵と知識と才能をもって労苦しても、何の労苦もしなかった者に、自分の分け前を譲らなければならない。これもまた、むなしく、非常に悪いことだ。

実に、日の下で骨折ったいっさいの労苦と思い煩いは、人に何になろう。

その一生は悲しみであり、その仕事には悩みがあり、その心は夜も休まらない。これもまた、むなしい。(伝道者の書2:17-23)

ソロモンは、仕事によって絶望しました。なぜでしょうか。それは、彼の目的が有名になることだったからです。ソロモンは、自分が亡くなった後も、彼の努力が人々に影響を与えることを望んでいました。

しかし、彼は死後には自分が築いたものをもはやコントロールできないことに気付きました。 一生懸命働いたにもかかわらず、後継者がそのすべてを壊してしまう可能性があると理解したのです。 そして実際に、それは現実となりました。

ソロモンの息子レハブアムの愚かさと頑固な態度によって、イスラエルは二つの国に分裂しました。それに加えて、レハブアムが治めた部分は非常に小さなものでした。

そのため、ソロモンはイスラエルを強い国にしようと懸命に働いたにもかかわらず、彼の死後、その努力は空しくなってしまったのです。

ソロモンは死ぬ前にその可能性を見て取ることができました。だからこそ、彼は「どうしようもない」態度を取って、こう言ったのです。

私は見た。人は、自分の仕事を楽しむよりほかに、何も良いことがないことを。それが人の受ける分であるからだ。だれが、これから後に起こることを人に見せてくれるだろう。(3:22)

つまり、私たち皆は、いつか死にます。死んだ後、私たちが築いたものをもはやコントロールすることはできません。そのため、そのことについて心配する必要はありません。だからこそ、できるだけ自分の仕事を楽しむべきです。

けれども、仕事に関しては、別の考え方もあります。つまり、私たちの仕事には、神様が作っているタペストリーの中での役割があるのです。そして、神様に従うなら、神様は私たちの努力を用いて、この世に影響を与えることができます。

3章には、そのようなテーマを見ることができます。つまり、私たちの人生にはタペストリーがあります。

ソロモンはこう書きました。

天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。

生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。

殺すのに時があり、いやすのに時がある。(3:1-3)

私たちはある事を悪いと思い、ある事を良いと思い、またある事をただ命のサイクルとして受け止めます。

しかし、ソロモンが理解したのは、それらすべてが神様が作っているタペストリーの中で役割を果たしているということです。悪いことであっても、神様はそれを用いて最終的に美しい絵を完成させるのです。

例えば、サタンがずっとイスラエルを破壊しようとしていたと考えられます。その最も酷い例の一つが、ユダヤ人のホロコーストでした。それは本当に悪でした。

けれども、結果としてどうなったでしょうか。イスラエルという国は回復しました。神様は、サタンの悪い行動さえもご自身の計画を成就するために用いられました。神様は、悪いことを良いことへと変えられたのです。

だからこそ、ソロモンはこう言えました。

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。(3:11)

私たちが生きている間に、すべてがどうなるか分からなくても、神様がご自身の計画通りに全てを整えられることを確信できます。

また、この世の不正義を目の当たりにしても、結局は神様の裁きによって必ず正義が行われるという確信を持つことができます。(3:16-17)

さて、仕事の話に戻りましょう。ソロモンは、こう書きました。

働く者は労苦して何の益を得よう。

私は神が人の子らに与えて労苦させる仕事を見た。(3:9-10)

もし、私たちの人生と仕事が自己中心であり、私たちが心配するのが自分が何を成し遂げたかということだけなら、ソロモンのように私たちも絶望してしまうでしょう。それは、他の人々が私たちの努力を忘れたり、それを無駄にしてしまうかもしれないからです。

しかし、もし私たちの人生と仕事の焦点が神様に向けられているなら、そして、自分がしたいことではなく、神様が望まれることに焦点を当てているなら、私たちは未来に希望を持つことができます。なぜなら、神様が私たちの努力を神様のご計画のために用いてくださることを知ることができるからです。

ソロモンが書いたように、

私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かを加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。(3:14)

つまり、神様にはご計画があります。そして何者も、そのご計画を妨げることはできません。神様は、すべてをご自身のタペストリーに織り込んでおられます。

私たちは、自分自身に一つの問いを立てるべきです。あなたは神様と協力し、神様に用いられていますか。それとも、神様を無視し、さらには神様と戦いながらも、結果的に神様の目的のために用いられているのでしょうか。

神様と協力するなら、喜びの道を見出すことができます。けれども、そうしなければ、フラストレーションと絶望に直面することになります。

ソロモンが書いたように、

実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができようか。

なぜなら、神は、みこころにかなう人には、知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神のみこころにかなう者に渡すために、集め、たくわえる仕事を与えられる。

これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。(2:25-26)

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私たちが死んだ後で、何もないなら。。。

伝道者の書を読むと、ソロモンの立場がすぐに分かります。ソロモンが本当にその立場を取ったのか、それとも神様から離れた人の視点を代弁しているのか、私は分かりません。

ただ、彼が言っているのは、この人生しか何もないということです。死んだらそれで終わりだという考えです。彼は、2章、3章、8章、9章で何度もそのようなことを言っています。

時々、彼がそのように言うとき、絶望しているように見えます。

私は心の中で言った。「私も愚かな者と同じ結末に行き着くのなら、それでは私の知恵は私に何の益になろうか。」私は心の中で語った。「これもまたむなしい」と。

事実、知恵ある者も愚かな者も、いつまでも記憶されることはない。日がたつと、いっさいは忘れられてしまう。知恵ある者も愚かな者とともに死んでいなくなる。(伝道者の書2:15-16)

また、

私は心の中で人の子らについて言った。「神は彼らを試み、彼らが獣にすぎないことを、彼らが気づくようにされたのだ。」

人の子の結末と獣の結末とは同じ結末だ。これも死ねば、あれも死ぬ。両方とも同じ息を持っている。人は何も獣にまさっていない。すべてはむなしいからだ。

みな同じ所に行く。すべてのものはちりから出て、すべてのものはちりに帰る。

だれが知っているだろうか。人の子らの霊は上に上り、獣の霊は地の下に降りて行くのを。(3:18-21)

もう一度、

何が起こるかを知っている者はいない。いつ起こるかをだれも告げることはできない。

風を支配し、風を止めることのできる人はいない。死の日も支配することはできない。この戦いから放免される者はいない。悪は悪の所有者を救いえない。。。

悪者に対する報いを正しい人がその身に受け、正しい人の行いに対する報いを悪者がその身に受けることがある。これもまた、むなしい、と私は言いたい。(8:7-8,14)

最後に、

すべての事はすべての人に同じように起こる。同じ結末が、正しい人にも、悪者にも、善人にも、きよい人にも、汚れた人にも、いけにえをささげる人にも、いけにえをささげない人にも来る。

善人にも、罪人にも同様である。誓う者にも、誓うのを恐れる者にも同様である。

同じ結末がすべての人に来るということ、これは日の下で行われるすべての事のうちで最も悪い。

だから、人の子らの心は悪に満ち、生きている間、その心には狂気が満ち、それから後、死人のところに行く。(9:2-3)

この考え方によって、ソロモンは「どうしようもない」態度を取ってしまいました。だから、彼の結論は、「できるだけ、この人生を楽しんでください。」(3:12-13、22;8:15;9:7-10)でした。

もちろん、この人生を楽しむべきです。神様からの快楽を楽しむべきです。嬉しくなるべきです。良いことをするべきです。結婚を楽しむべきです。食べたり、飲んだり、仕事を楽しんだりするべきです。

しかし、この地上の人生がすべてではありません。死は終わりではありません。

だから、この世に悪を見るときも、正義が必ず来ると確信できます。この世に痛みや苦しみを見るときも、癒しが必ず来ると確信できます。

また、私たちの決断によって永遠の報いが来ると確信できます。つまり、この世での私たちの行動に対して、神様は永遠の報いを与えてくださるのです。

パウロが書いたように、

神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。

忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、

党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。(ローマ2:6-8)

ソロモンは、こう言いました。

神はまた、人の心に永遠を与えられた。(伝道者の書3:11)

つまり、人々は死に直面すると、「これが終わりだと信じられない。これが終わりだと信じたくない」と叫びます。

ある人々はそう言いながらも、結局絶望してしまいます。

他の人々は、ソロモンのように「どうしようもない」態度をとり、できるだけ今の人生を楽しもうと思います。

しかし、どうして神様は、人の心に永遠を与えられたのでしょうか。それは、神様が人々に神様を飢え求めることを望んでおられるからです。もし私たちがそうするなら、自分の壊れた人生は癒され、苦しみの中で平和を受け、この世においても永遠においても素晴らしい人生を生きることができるのです。

だから、絶望を感じる必要はありません。「どうしようもない」態度をとる必要もありません。この地上の人生よりも素晴らしいことがあるので、喜ぶことができるのです。

あなたはどうですか。

この人生しか何もないと思って、絶望していませんか。すべてが空しいと思い、「どうしようもない」態度をとっていませんか。

神様を求めましょう。そうすれば、希望を見つけ、あなたの人生の意味を見つけることができます。

イエス様の約束をいつも思い出ましょう。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

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快楽主義の空しさ

「気持ち良かったら、するべきです。」

1960年代のアメリカでは、多くの人々がそう言いました。その時代、麻薬や性的な自由が流行しました。

その結果はどうだったでしょうか。壊れた結婚、壊れた家族、壊れた人生が残されました。離婚率が上昇し、エイズや他の性病が蔓延し、道徳観念が低下しました。

けれども、快楽を追い求めることは新しいことではありません。ソロモンの時代にも、人々は快楽を求めていました。だからこそ、ソロモン自身も快楽を追い求めようとしました。そして、ソロモンはこう言いました。

さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。(伝道者の書2:1)

だから、ソロモンは自分のために様々なものを集めました。土地を買い、奴隷を買い、羊や山羊を手に入れ、金や銀を蓄えました。

それだけでなく、彼は自分のハーレムも持っていました。以前言った通り、ソロモンには300人の妻と700人のそばめがいました。

その時代、麻薬は存在しませんでしたが、ソロモンは大量のワインを飲みました。

では、その結果はどうだったでしょうか。ソロモンの結論は何だったのでしょうか。

しかし、これもまた、なんとむなしいことか。

笑いか。ばからしいことだ。快楽か。それがいったい何になろう。。。

私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。(伝道者の書2:1,2,11)

私は、快楽が悪いことだと言っているのでしょうか。違います。快楽は良いことです。神様は私たちがこの人生を楽しむことを望んでおられます。

しかし、自分自身を喜ばせることを私たちの目的にしてしまうと、結局のところ、すべてが空しくなります。どうしてでしょうか。それは、私たちが持っているものは決して十分ではないからです。

パウロはこう書きました。

道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行いをむさぼるようになっています。(エペソ4:19)

情欲の問題は、私たちが決して満足することがないという点にあります。私たちは常に、もっと多くを求め、さらに手に入れたいと願ってしまいます。そして、その情欲に屈してしまうと、それを満たすために本当に酷い行動をとってしまうことがあります。

ポルノや麻薬の問題を見れば、そのことがすぐに理解できるでしょう。

ただ一つだけ、私たちを本当に満たすものがあります。それは神様を求めることです。神様を求めるとき、私たちは一時的な喜びを見つけるのではありません。むしろ、永遠の喜びを見つけるのです。

多くの人々は、神様が退屈な存在であり、私たちの喜びを奪うものだと考えています。

けれども、イエス様の人生を見ると、イエス様がまったく退屈な存在ではなかったことが分かります。むしろ、彼に敵対する人々はこう言いました。

あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、「悪い」人の仲間だ。(マタイ11:19)

確かに、それは少し誇張されているように思えるかもしれませんが、イエス様はこの人生を楽しんでおられました。

イエス様は、私たちが良い人生を送り、豊かな人生を持つことを望んでおられます。

一方で、サタンは私たちの喜びを盗もうとします。そのため、一時的に私たちを喜ばせるものを提示しますが、最終的には私たちの人生を空虚なものとし、失望に導きます。

ソロモンも、それを身をもって学びました。

そして、イエス様はこう言われました。

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。(ヨハネ10:10)

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哲学の限界

すべての人々が問いかける質問があります。それは、人間の知恵では答えられないにもかかわらず、誰もが抱く疑問です。賢い人々も、知識のある人々も、その答えを探し求めてきました。

その質問とは何でしょうか。

「どうして?」

「どうして私は存在しているのでしょうか?どうして人間は苦しむのでしょうか?どうして人間は亡くなるのでしょうか?どうしてこの世に悪があるのでしょうか?」

何世紀にもわたって、人々はそのような問いを抱えてきました。何世紀にもわたって、人間の知恵を用いて、その問いに答えようとしてきました。

けれども、ここに一つの問題があります。それは、私たちの知識と知恵には限界があるということです。そのため、このような問いに対して、私たちは決して完全な答えを出すことができません。

結局、ソロモンはその真理に気付くようになりました。そして彼はこう言いました。

私は、天の下で行われるいっさいの事について、知恵を用いて、一心に尋ね、探り出そうとした。これは、人の子らが労苦するようにと神が与えたつらい仕事だ。

私は、日の下で行われたすべてのわざを見たが、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。

曲がっているものを、まっすぐにはできない。なくなっているものを、数えることはできない。(伝道者の書1:13-15)

つまり、ソロモンは、この世について問い、探求を重ねる中で、苦しみや壊れた者たちを目の当たりにしました。そして、彼が理解したのは、「どうして」という問いの答えを見つけることができなかったということです。

彼の知恵は、この世の歪んだものや壊れたものを修復することができませんでした。彼の知恵は、人生の空しさを埋めることもできませんでした。

そのため、ソロモンはこの結論に至ったのです。

実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。(18)

神様が存在されなければ、結局、哲学者たちが正直であれば、同じ結論に達するでしょう。

「どうして」という質問に答えられないために、「人生には意味がないし、悪は当たり前です。文句を言っても何も変わりません。だから、頑張ってください。できるだけ、人生を楽しんでください。なぜなら、明日何が起こるか分からないからです。」

しかし、そのような言葉には希望がなく、人々を癒すこともできません。その言葉を信じる人々は、最終的に悲しみに沈み、失望してしまいます。

「どうして」の答えを知っている方はただ一人。それは神様です。神様は、一人一人の人生の糸を見ているだけではなく、タペストリー全体を見ておられます。だからこそ、神様は私たちの人生の意味や苦しみの理由をよくご存じです。

そのため、神様にこそ、私たちは苦しみの中で希望を見出すことができるのです。神様にこそ、未来の希望を見出すことができるのです。

希望を見つけたいと思いますか。それは人間の知恵や哲学の中には見つけられません。なぜなら、人間は「どうして」に答えられないからです。

「どうして」の答えを知っているのは神様だけです。そして、神様においてのみ、私たちは希望を見つけることができるのです。

けれども、結局のところ、一番大切な質問は「どうして」ではありません。

一番大切な質問は、「私は神様を信頼するだろうか?私の大変な状況の中でも神様を信頼するだろうか?この世の悲劇や悪を目の当たりにしても神様を信頼するだろうか?」という問いです。

「イエス」と答えるならば、あなたと、この世の人々が探し求めている希望を見つけることができるのです。

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新しいことがないでしょうか

私の娘が二歳の頃、彼女にとっては、すべてが新鮮でした。私にとっては当たり前の物が、彼女には驚きと感動を与えていたのです。

どうして私たちは、そのような子供のような驚きと感性を失ってしまうのでしょうか。ソロモンも同じように、その感性を失いました。そして、彼はこう書きました。

一つの時代は去り、次の時代が来る。しかし地はいつまでも変わらない。

日は上り、日は沈み、またもとの上る所に帰って行く。

風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。

川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れ込む所に、また流れる。

すべての事はものうい。人は語ることさえできない。目は見て飽きることもなく、耳は聞いて満ち足りることもない。

昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下に新しいものは一つもない。

「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。

先にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、それから後の時代の人々には記憶されないであろう。(伝道者の書1:4-11)

私たちの希望と夢がだんだん消えていくと、私たちの考え方は簡単に悲観的になってしまいます。私たちが求めていたものは、結局、寂しさと空しさに導くのです。

希望を持って誰かと結婚しても、年が経つにつれて、愛はだんだん薄れていきます。

新しい物を買っても、すぐに興奮は消えてしまいます。

私たちは一生懸命働き、退職の日を楽しみに待ちますが、その日が来るとすぐに退屈を感じてしまいます。

喜びを与えてくれると思ったものが、私たちをほんの少しの間だけ満足させたとしても、結局は空しさを感じさせるのです。

なぜでしょうか。

それは、神様のいない人生だからです。

神様は愛と喜び、そして平和の源です。

他のどんなものも、私たちをほんの少しだけしか満足させることができません。最終的には、それらが空しいものであることに気づくのです。

しかし、もし私たちが神様に焦点を当て、神様のみ心に従うなら、私たちの人生は毎日新鮮で、常に新しいものとなります。

神様のみ心に従い、私たちの妻や夫を敬い、愛するなら、年月が経っても結婚は枯れることなく、さらに美しく咲き誇るでしょう。

また、神様が私たちのために準備してくださった仕事をするなら、ただお金を稼ぐだけでなく、充実感を持つことができます。

そして、神様の御心に従い、自由な時間を賢く使うなら、例えば人々を祝福し、また人々から祝福されることで、私たちの人生は毎日新鮮で、充実したものとなるのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの人生にうんざりしていませんか。存在しているけれど、本当には生きていないと感じていませんか。

ここに一つの解決があります。それは、自己中心な態度を捨てることです。自己中心の人生はすぐに枯れます。けれども、神様を中心とした人生は新鮮で、深い喜びに満ちます。

だからこそ、神様を求めてください。神様の御心を求めてください。そうすれば、毎日が新鮮な冒険となり、神様の愛と喜び、そして平和があなたの心を満たしてくれるでしょう。

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伝道者の書

人生の意味を探す

ソロモンの人生について、もう読んでしまったから、列王記と歴代誌からちょっと休憩して、ソロモンの「伝道者の書」を読もうと思いました。

伝道の書に、年寄りの人としてソロモンの人生についての反省を見る。

実は、これは、かなり難しい書です。難しいのは、もし、この書がちゃんと理解したいなら、一度に全部読まなくてはならない。そうしないと、この書が理解できないと思います。

だから、この書の教えを一言にまとめたら、私はこう言います。

神様があなたの人生にいないと、あなたの人生は意味がないです。

この書の中で、ソロモンが神様から離れて、人生の意味を探している様子を見ることができます。彼は哲学、快楽主義、仕事などを通して人生の意味を探し求めていました。

けれども、最終的にソロモンは叫びました。

空の空。。。空の空。すべては空。(伝道者の書1:2)

伝道者の書の中では、人生の喜びを少し垣間見ることができます。しかし、最終的にその喜びは神様から来ることが分かります。

もし私たちが神様から離れて人生の意味を探すなら、結局ソロモンと同じ結論に達してしまいます。つまり、「私の人生には意味がない」ということです。

なぜでしょうか。それは、神様が命そのものであり、命の源だからです。私たちが神様から離れれば、命の源からも離れてしまうのです。

あなたは、人生の意味をどこで探しているでしょうか。