私たち皆は、人生の意味を探しています。多くの人々、特に男性たちは、仕事を通して人生の意味を見つけようとします。
それは、彼らの自己価値感が仕事から来ているからです。その仕事を通して、周りの人々に良い影響を与えたいと考えています。また、自分の手柄によって思い出されたいと願っています。そのため、彼らは一生懸命働きます。
ソロモンも同じことをしました。けれども、彼の結論は何だったのでしょうか。
私は生きていることを憎んだ。日の下で行われるわざは、私にとってはわざわいだ。すべてはむなしく、風を追うようなものだから。
私は、日の下で骨折ったいっさいの労苦を憎んだ。後継者のために残さなければならないからである。
後継者が知恵ある者か愚か者か、だれにわかろう。しかも、私が日の下で骨折り、知恵を使ってしたすべての労苦を、その者が支配するようになるのだ。これもまた、むなしい。
私は日の下で骨折ったいっさいの労苦を思い返して絶望した。
どんなに人が知恵と知識と才能をもって労苦しても、何の労苦もしなかった者に、自分の分け前を譲らなければならない。これもまた、むなしく、非常に悪いことだ。
実に、日の下で骨折ったいっさいの労苦と思い煩いは、人に何になろう。
その一生は悲しみであり、その仕事には悩みがあり、その心は夜も休まらない。これもまた、むなしい。(伝道者の書2:17-23)
ソロモンは、仕事によって絶望しました。なぜでしょうか。それは、彼の目的が有名になることだったからです。ソロモンは、自分が亡くなった後も、彼の努力が人々に影響を与えることを望んでいました。
しかし、彼は死後には自分が築いたものをもはやコントロールできないことに気付きました。 一生懸命働いたにもかかわらず、後継者がそのすべてを壊してしまう可能性があると理解したのです。 そして実際に、それは現実となりました。
ソロモンの息子レハブアムの愚かさと頑固な態度によって、イスラエルは二つの国に分裂しました。それに加えて、レハブアムが治めた部分は非常に小さなものでした。
そのため、ソロモンはイスラエルを強い国にしようと懸命に働いたにもかかわらず、彼の死後、その努力は空しくなってしまったのです。
ソロモンは死ぬ前にその可能性を見て取ることができました。だからこそ、彼は「どうしようもない」態度を取って、こう言ったのです。
私は見た。人は、自分の仕事を楽しむよりほかに、何も良いことがないことを。それが人の受ける分であるからだ。だれが、これから後に起こることを人に見せてくれるだろう。(3:22)
つまり、私たち皆は、いつか死にます。死んだ後、私たちが築いたものをもはやコントロールすることはできません。そのため、そのことについて心配する必要はありません。だからこそ、できるだけ自分の仕事を楽しむべきです。
けれども、仕事に関しては、別の考え方もあります。つまり、私たちの仕事には、神様が作っているタペストリーの中での役割があるのです。そして、神様に従うなら、神様は私たちの努力を用いて、この世に影響を与えることができます。
3章には、そのようなテーマを見ることができます。つまり、私たちの人生にはタペストリーがあります。
ソロモンはこう書きました。
天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。
生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。
殺すのに時があり、いやすのに時がある。(3:1-3)
私たちはある事を悪いと思い、ある事を良いと思い、またある事をただ命のサイクルとして受け止めます。
しかし、ソロモンが理解したのは、それらすべてが神様が作っているタペストリーの中で役割を果たしているということです。悪いことであっても、神様はそれを用いて最終的に美しい絵を完成させるのです。
例えば、サタンがずっとイスラエルを破壊しようとしていたと考えられます。その最も酷い例の一つが、ユダヤ人のホロコーストでした。それは本当に悪でした。
けれども、結果としてどうなったでしょうか。イスラエルという国は回復しました。神様は、サタンの悪い行動さえもご自身の計画を成就するために用いられました。神様は、悪いことを良いことへと変えられたのです。
だからこそ、ソロモンはこう言えました。
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。(3:11)
私たちが生きている間に、すべてがどうなるか分からなくても、神様がご自身の計画通りに全てを整えられることを確信できます。
また、この世の不正義を目の当たりにしても、結局は神様の裁きによって必ず正義が行われるという確信を持つことができます。(3:16-17)
さて、仕事の話に戻りましょう。ソロモンは、こう書きました。
働く者は労苦して何の益を得よう。
私は神が人の子らに与えて労苦させる仕事を見た。(3:9-10)
もし、私たちの人生と仕事が自己中心であり、私たちが心配するのが自分が何を成し遂げたかということだけなら、ソロモンのように私たちも絶望してしまうでしょう。それは、他の人々が私たちの努力を忘れたり、それを無駄にしてしまうかもしれないからです。
しかし、もし私たちの人生と仕事の焦点が神様に向けられているなら、そして、自分がしたいことではなく、神様が望まれることに焦点を当てているなら、私たちは未来に希望を持つことができます。なぜなら、神様が私たちの努力を神様のご計画のために用いてくださることを知ることができるからです。
ソロモンが書いたように、
私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かを加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。(3:14)
つまり、神様にはご計画があります。そして何者も、そのご計画を妨げることはできません。神様は、すべてをご自身のタペストリーに織り込んでおられます。
私たちは、自分自身に一つの問いを立てるべきです。あなたは神様と協力し、神様に用いられていますか。それとも、神様を無視し、さらには神様と戦いながらも、結果的に神様の目的のために用いられているのでしょうか。
神様と協力するなら、喜びの道を見出すことができます。けれども、そうしなければ、フラストレーションと絶望に直面することになります。
ソロモンが書いたように、
実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができようか。
なぜなら、神は、みこころにかなう人には、知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神のみこころにかなう者に渡すために、集め、たくわえる仕事を与えられる。
これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。(2:25-26)