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伝道者の書のデボーション

最終的な答え

「この世は壊れている。神様が良い方なら、どうして私たちは悪をよく見るのか。」

「人生の意味は何だろうか。」

この二つの疑問は、この書の主なテーマです。

今なお、人々は同じ二つの質問をします。

イエス様以外で最も賢明な人であるソロモンは、その二つの疑問について、こう言われました。

わが子よ、さらに次のことにも気をつけよ。多くの書物を書くのはきりがない。学びに没頭すると、からだが疲れる。(伝道者の書12:12)

悪の理由を説明しようとする本は、何冊あるでしょうか。

また、自己啓発の本や、人生の意味を説明しようとする本は、何冊あるでしょうか。数えきれないほどあります。

もちろん、それらの本は、ある程度、真理を持っているでしょう。もしかしたら、それらの本は、私たちを良い方向に導くかもしれません。なぜなら、すべての知恵は神様から来るからです(11)。

そして、神様の恵みによって、ノン・クリスチャンたちも、ある程度まで真理を把握します。

でも、最終的に神様から離れるなら、すべての人間の知恵は不十分なものと証明されます。人間の知恵に頼るなら、私たちは結局、疲れて、絶望してしまいます。

一つの結論だけによって、私たちは本当の命を知ります。その真理を信じ、その真理によって私たちの人生を送るなら、後悔せずに、他の本を捨てることができます。

その結論は、何でしょうか。

結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。

神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。

神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。(13-14節)

悪の疑問の答えは、何でしょうか。どうして「良い人たち」は苦しむのでしょうか。

最終的に、自分の限られた知恵や知識では、私たちはその疑問に答えることができません。また、私たちの知恵が限られているので、神様とその善良さを疑う立場にはありません。

むしろ、私たちは神様を恐れるべきです。なぜなら、ある日、神様は私たちの罪を含めて、すべての悪を裁かれるからです。そして、イエス様とその十字架の働きだけによって、私たちは神様の御前に立つことができます。

人生の意味は、何でしょうか。神様の命令を守ることです。特に、神様を愛し、周りの人々を愛することです。この世にある他のものは、最終的に空しいものです。なぜなら、それらは儚いものだからです。

私たちが死ぬとき、天国に持っていけるものは、二つしかありません。それは、神様との関係と、他のクリスチャンたちとの関係です。だから、神様との関係、また御国の働きに投資しましょう。そうしてこそ、私たちは人生の意味を知ることができます。

 

 

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私たちの人生はただの一息だから

ソロモンがしばしば言う「空しい」という言葉を読むとき、覚えておいた方がいいのは、その言葉が「一息」、また「一時的」という意味もあるということです。

「一息」はとても一時的なものなので、その言葉は空しさの比喩としてよく使われています。

聖書の中では、命はしばしば一息に例えられます。この地上にある私たちの人生はとても短いのですから。

私たちの人生は不確定要素に満ちています。どんな災いが自分に降りかかるか分かりません。

もちろん、不確定要素のために、私たちは伏線を張ることができます。未来に何が起こるか分からないから、そうするのは賢明なのです。(伝道者の書11:1-6節)

でも、以前も言ったように、私たちは皆、死を避けることができません。

では、その真理を知った上で、どうすればいいでしょうか。

1.神様から与えられた賜物である命を喜びましょう。喜ぶことができる神様の賜物はたくさんありますから。(7-9節)

2.壊れた世界に生きていることを覚えておきましょう。どんなに正しい人でも、悪い時は必ず来ます。(8節b)

3.悪いことも良いことも、この人生にあるすべてがはかないものであることを心に留めておきましょう。

だから、悪いことが起こるとき、それがはかないものであることを覚えておきましょう。私たちの問題は永遠に続くわけではありません。

特に、若い人たちはそれを心に留めておかなくてはなりません。多くの若者は、自分の青春を無駄にしてしまいます。なぜなら、ずっと自分の苦しみにくよくよするからです。(10節)

その反面、良いことが起こったら、喜びましょう。神様に感謝しましょう。でも、良い時もはかないものであり、また悪い時が必ずもう一度来ることを覚えておきましょう。

4.中でも、この地上にある私たちの人生が永遠の準備であることを心に留めておきましょう。そして、ある日、神様が私たち皆を裁かれることを覚えておきましょう。(9節b)

私たちは一時的なものに集中して、たくさんの時間を無駄にすることができます。救えないものに望みを託すこともできます。

だから、そうせずに、神様に向かい、望みを託しましょう。

ダビデと一緒に、こう祈りましょう。

主よ、お知らせください。私の終わり、私の齢がどれだけなのか。私がいかにはかないかを知ることができるように。

ご覧ください。あなたは、私の日数を手幅ほどにされました。あなたの御前では、私の一生はないも同然です。

人はみなしっかり立ってはいても、実に空しいかぎりです。まことに、人は幻のように歩き回り、まことに 空しく立ち騒ぎます。人は蓄えるがだれのものになるのか知りません。

主よ、今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。(詩篇39:4-7)

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自然なもの?

「死は自然なものです。死は、ただ生命の循環の一部です。」

そんな言葉を聞いたことがあるでしょうか。

それは本当でしょうか。

ある意味では、それは本当ですが、ある意味では、本当ではありません。

この罪によって壊れた世界では、死は自然なものです。パウロが言ったように、罪の報酬は死です。(ローマ6:23)

でも、神様はもともと私たちを永遠のものとして造られました。

死が本当に自然なものであれば、人々は死を恐れず、悲しむことはないでしょう。でも、実際には、自分自身に死が自然なものだと説得しようとしなくてはなりません。

自分の心の中で、彼らはソロモンが分かってきたことを理解します。それは、死が悪であるということです。(3節)

すべての人は死にますし、私たちが全然予期しないときに、死は来るかもしれません。(2、11ー12節)

では、その真理にどのように反応するべきでしょうか。

私たちは絶望するのを選ぶことができます。また、死に対して憤るのを選ぶことができます。

私たちは憎しみや妬みや他の空しい感情を抱いて、たくさんの時間を無駄に費やすのを選ぶことができます。

もしくは、命がはかないものであっても、私たちはソロモンの助言に従って、神様から与えられた賜物であるこの人生を楽しむのを選ぶことができます。大切な人々に愛を示すことができます。(6ー9節)

また、神様から与えられた脳と体を用いて、仕事やレジャーやすべての活動を通して、神様に栄光を帰するのを選ぶことができます。(10節、コロサイ3:17)

でも、なぜ私たちはそうするべきでしょうか。命がはかないものであるなら、私たちの人生や行動には本当に意味があるのでしょうか。

意味があります。なぜなら、死は終わりではないからです。

イエス様はこう言われました。

わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。(ヨハネ14:19)

また、最終的に、

正しい人も、知恵のある者も、彼らの働きも、神の御手の中にある。(伝導者の書9:1)

だから、死を考えるとき、絶望しないでください。むしろ、ソロモンのお父さんダビデと一緒に歌いましょう。

私はいつも主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることがありません。

それゆえ、私の心は喜び、私の胸は喜びにあふれます。私の身も安らかに住まいます。

あなたは、私のたましいをよみに捨て置かず、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。

あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。

満ち足りた喜びがあなたの御前にあり、楽しみがあなたの右にとこしえにあります。(詩篇16:8ー11)

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悪に触れる世界での信仰

私たちが悪に満ちた世界に存在していることを否定することはできないでしょう。悪に触れない人は誰もいません。でも、悪に直面したら、どうすれば良いでしょうか。

今日の箇所では、私たちは三つの答えを見つけます。

1.この世の悪の理由を知るために、脳みそを絞ってはいけません。前回の記事でも言いましたが、イエス様以外では、ソロモンは最も賢明な人なのに、すべての悪の理由を知ることができませんでした。私たちも知ることができません。(伝導者の書8:16ー17)

2.神様が最終的に正義をもたらすことを信じましょう。(12ー13節)

この世で、正義を見ることができないかもしれません。(10ー11節)

でも、神様は良い方で、最終的に、全地をさばくお方は、公正を行います。(創世記18:25)

3.神様の知恵を求めましょう。

この世では、相手を傷つける力を持っている人々がいます。(9節)

私たちはクリスチャンかもしれませんが、人々に決して傷つけられないとは限りません。だから、どうすれば良いかを考えるとき、神様の知恵を求めるべきです。

私たちはいつ正義を求めるべきでしょうか。私たちはいつ相手にあわれみと恵みを与えるべきでしょうか。私たちはいつ、ただ正義を神様の手に委ねるべきでしょうか。その疑問に答えるために、私たちには神様の知恵が必要です。

だから、ソロモンはこう言いました。

知恵ある者の心は時とさばきを知っている。すべての営みには時とさばきがある。人に降りかかるわざわいは多い。(5-6節)

4.喜ぶことを選びましょう。(15節)

いつも自分のトラブルに集中するなら、私たちは絶望の落とし穴に落ちてしまいます。でも、主は近いです。主は良い方です。だから、苦しみのとき、主とその慈しみに集中しましょう。

また、私たちの重荷を主に委ねるとき、神様が今までしてくださったことを感謝することを忘れないようにしましょう。

そうするにつれて、この世の悪に触れても、私たちは神様の平和を知ることになります。(ピリピ4:6ー7)

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どうしてこれが私に起こっているの?

正直に言うと、今日の個所には分かりにくい言葉があります。

私はいろいろな聖書学者の解説を読みましたが、彼らの意見はあまり一致していません。

例えば、

あなたは正しすぎてはならない。

自分を知恵のありすぎる者としてはならない。なぜ、あなたは自分を滅ぼそうとするのか。

あなたは悪すぎてはいけない。愚かであってはいけない。時が来ないのに、なぜ死のうとするのか。

一つをつかみ、もう一つを手放さないのがよい。神を恐れる者は、この両方を持って出て行く。(伝道者の書7:16-18)

「あなたは正しすぎてはならない」とはどういう意味でしょうか。

また、「あなたは悪すぎてはいけない」とは、どういう意味でしょうか。

ソロモンは、「やりすぎないなら、ちょっと罪を犯しても良い」と言っているのでしょうか。

多分そうではありません。なぜなら、ソロモンは「神を恐れる者は、この両方(の真理)を持って出て行く。」と言っているからです。

では、ソロモンは何を言いたいのでしょうか。

12節では、ソロモンは、知恵が私たちを守ると言っています。

でも、ソロモンは私たちに警告します。私たちは知恵を持っているかもしれませんが、何も悪いことが起こらないとは限りません。

もちろん、神様が私たちを祝福してくださるときもありますが、神様が私たちが試練に直面することを許されるときもあります。

良い人が滅びることもあるし、悪い人が栄えることもあります。(13-15)

とは言え、20節で、ソロモンは、本当に正しい人が誰もいないことを指摘しています。

私たち皆は罪人です。

だから、「どうして、これは私に起こっているの?私は何も悪いことを全然していないのに。」と正直に言える人は誰もいません。

どれだけ、私たちは、相手の罪に気づくのに、自分が同じ罪を犯していることに気づかないでしょうか。(21-22)

だから、たぶんソロモンが意味したのはこうです。「自分が正しいほどに、試練や苦しみを経験することに値しないと考えてはいけません。」

そんなに正しい人は誰もいません。

その反面、「良い人が滅びることもあるし、悪い人が栄えることもあるので、やたらと罪を犯してもいい」と考えてはいけません。なぜなら、その道は必ず死に導くからです。(ローマ6:23)

では、「自分を知恵のありすぎる者としてはならない」とはどういう意味でしょうか。

多分、ソロモンが意味したのは、「自分が十分な知恵を持って、悪の理由のすべてを悟ることができると考えてはいけない」ということです。

イエス様以外では、ソロモンは最も知恵のある人でした。

それでも、ソロモンは悪の理由を説明することができませんでした。

彼は男性も女性もよく観察しました。

彼は、完全に理解できる女性を誰も見つけられませんでした。理解できる男性もあまりいませんでした。

彼が分かったのは、一つのことです。それは、すべての人々が罪に染まっているということです。(23-29)

悪の理由のすべてを理解しようとすると、私たちの脳は爆発してしまい、私たちは自分の信仰を壊してしまうかもしれません。

ヨブの友人たちは、すべての理由を理解していると思っていましたが、最終的に、神様は彼らの知恵を批判し、彼らを責められました。

だから、その二つの間違った考え方を避けましょう。

むしろ、神様の御前にへりくだり、神様が良い方であることを信じ、何が起こっても、神様に従いましょう。

そうすれば、ヨブのように、私たちは神様がやっぱり良い方であることを知るようになります。

 

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満足して生きる、祝福を分かち合う

この章の主なテーマの一つは、満足することです。ソロモンはこう書きました。

目が見ることは、欲望のひとり歩きにまさる。 これもまた空しく、風を追うようなものだ。(伝導者の書6:9)

私たちが満足していないなら、自分の人生を楽しむことができません。でも、どれだけ私たちは持っていないものを追い求めすぎて、持っているものを楽しんでいないでしょうか。

ソロモンは、たくさんの子供がいる人について話します。しかし、自分の不満のゆえに、その人は自分の子供たちとの関係を楽しみませんでした。だから、彼は愛されていない人として亡くなり、彼の死を悼む人は誰もいませんでした。(3)

でも、満足することだけでは足りません。イエス様の例え話の一つでは、ある人は大満足でした。(ルカ12:16ー21)

でも、彼がとても自己中心だったので、神様は彼を裁かれました。もしかしたら、イエス様がこの話を語られたとき、伝道者の書6:2を考えておられたかもしれません。

私たちは、神様に人々を祝福するように召されています。人々を祝福するにつれて、私たちはイエス様の言葉を実感します。つまり、

受けるよりも与えるほうが幸いである。(使徒の働き20:35)

神様があなたに与えてくださった人生を楽しみたいと思うでしょうか。

満足することを学びましょう。

そして、神様があなたを祝福してくださったように、周りの人々を祝福しましょう。

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私たちは誰を信頼すべきか

ある州で、貧しい者が虐げられ、権利と正義が踏みにじられているのを見ても、そのことに驚いてはならない。その上役には、それを見張るもう一人の上役がいて、彼らよりももっと身分が高い者たちもいるからだ。

国にとっての何にもまさる利益は、農地が耕されるようにする王がいることである。(伝道者の書5:8ー9)

あなたはどう感じるか分からないけど、私は政治家たちや官僚たちや裁判官たちをあまり信じていません。

ちょっと可笑しいけど、ソロモンが王だったのに、彼もその人たちをあまり信じていなかったらしいです。

もちろん、政治家や官僚や裁判官の皆が悪いわけではありません。

ソロモン自身は政府の利点をよく分かっていました。良い政府があれば、国は栄えることができます。(9)

その反面、説明責任のために政治制度や官僚制があるけれど、堕落が入り込んでしまいます。その結果は?政府や社会に、私たちは不正をよく目にします。

私たちが罪によって壊れた世界にいるので、それは当然のことです。

だから、私たちクリスチャンは、政府に希望を寄せるべきではありません。もちろん、神様が政府を良いものとして立ててくださり、政府は必要なものです。それでも、私たちの政府は不完全な道具です。

それでは、私たちは誰に信頼を寄せるべきでしょうか。私は、チャールズ・コルソンというクリスチャンの言葉が大好きです。

希望はどこにあるでしょうか。私は、社会の腐敗によって落ち込んでいる人に何度も会ったことがあります。

私たちが持っている希望は、政治家にあるわけではありません。

私たちの希望は、新しい法律を制定することではありません。

私たちの希望は、この国の実績から生まれるものではありません。

私たちが持っている希望は、人々の心に働いている神様の力です。

それがこの国の希望です。それが私たちの人生の希望です。

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何を優先しているか?

私は再び、日の下で 空しいことを見た。

ひとりぼっちで、仲間もなく、 子も兄弟もいない人がいる。それでも彼の一切の労苦には終わりがなく、その目は富を求めて飽くことがない。

そして「私はだれのために労苦し、楽しみもなく、自分を犠牲にしているのか」とも言わない。

これもまた空しく、辛い営みだ。(伝道者の書4:7ー8)

どれだけ、私たちは、自分がしていることを休憩して、反省し、自分の優先順位を考え直すでしょうか。

今日の箇所では、ソロモンは仕事人間について話します。彼の目的は金持ちになり、経済的に安定することです。

でも、その結果、彼は働きすぎて、愛の関係がなく、自分の富を楽しむことができません。さらに、彼はもう金持ちなのに、なんだか満足していません。

私たちは何を優先するでしょうか。神様との関係、また、私たちを愛している人との関係のない人生は、生き甲斐のあるものではありません。

ひとりぼっちの人はすぐに打ち負かされるかもしれません。

でも、三つ撚りの糸は簡単には切れません。神様と自分を愛している人々と一緒に歩めば、私たちはすぐに打ち負かされません。(12)

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私たちの喜びの源

前回の記事で私は言いましたが、伝道者の書で、ソロモンは神様中心の生活を送っていない人であるかのようによく話します。なぜでしょうか。

なぜなら、長い間ソロモンはそんな生活を送っていたからです。彼は外国人の女性と結婚して、彼女たちの偶像を礼拝し始めました。

ソロモンはまだ神様も礼拝していましたが、その礼拝は希薄なものになりました。さらに、ソロモンは神様から離れて、喜びを追い求め始めました。

今なお、多くの人々は同じ罪を犯してしまいます。彼らは神様から離れて、喜びを追い求めます。

彼らは快楽によって、喜びを追い求めます。(伝道者の書2:1)

彼らは仕事や物を得ることによって、喜びを追い求めます。(4ー9節)

また、彼らはこう考えます。「もし私は他の人よりも頭が良く、知恵を持つなら、幸せな人生を送るだろう。」(12節)

それらによって、彼らは一時的に幸せになるかもしれません。でも、神様から離れると、彼らは最終的にそのものの空しさが分かってきて、絶望してしまいます。(1ー2、11、14ー23節)

最終的にソロモンもその真理が分かってきました。もちろん神様は、私たちが与えられた世界を楽しむことを望まれます。でも、私たちは賜物を与える方から賜物を切り離すことはできません。

だから、ソロモンはこの話をこのようにまとめます。

実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができるだろうか。なぜなら神は、ご自分が良しとする人には知恵と知識と喜びを与え(ます)。。。(25ー26節)

ソロモンのようにならず、時間を無駄にせず、その教訓を学びましょう。

神様は、私たちがこの人生を楽しむことを望まれます。命は神様からの賜物です。でも、神様から離れるなら、私たちは決して真の喜びを見つけることができません。

だから、神様中心の生活を送りましょう。そうすれば、私たちは喜びだけではなく、満ち溢れる喜びを持つことができます。(ヨハネ15:9ー11)

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神様が人生の中心であるなら

伝道者の書を読むと、気が沈むのは簡単なことです。

でも、この書の鍵は以下の表現にあります。

「もし、神様が私たちの人生の中心なら。。。」

もし、神様が私たちの人生の中心なら、私たちの仕事には意味があります。なぜなら、その仕事によって、私たちは神様に栄光を与えるからです(コロサイ3:17、23ー24)。

もし、仕事そのものが私たちの人生の中心なら、最終的に、私たちが振り返ると「私は意義のあることを本当にやり遂げただろうか」と疑問に思います。(3節)

神様が私たちの人生の中心なら、私たちは被造物を見ると、そのデザイン、また、その創造者に感嘆します(詩篇19:1ー6;詩篇104)。

でも、神様が私たちの人生の中心ではないなら、その畏敬の念を失ってしまいます。(伝道者の書1:5ー9)

神様が私たちの人生の中心なら、毎日は神様との新しい冒険です。神様のあわれみや慈しみは朝ごとに新しいですから(哀歌3:22ー23)。

でも、神様が私たちの人生の中心ではないなら、毎日、私たちは喜びがなく、何も期待せず、ただ一日を乗り切ろうとします。(伝道者の書1:8ー11)

神様が私たちの人生の中心なら、私たちはいつも希望を持っています。神様の知恵を持つので、私たちはこの壊れた世を見るけれど、神様が人間が壊したものを直すことができるという確信を持っています。

でも、神様から離れると、人間の知恵は絶望に至ります。なぜなら、私たちは人間の力の限界を見て、人間が自分で壊したものを直すことができないと分かるからです。(12ー18節)

だから、伝道者の書にあるソロモンの言葉を読むとき、ソロモンがどんなものの見方を表現するかに注意しましょう。神様中心のものの見方で話すときもあるし、神様中心ではないものの見方で話すときもあります。

ソロモンが悲観的な言葉、また、憂鬱な言葉を語るとき、考えてみてください。ソロモンが神様中心のものの見方を使えば、どのようにその言葉は変わるでしょうか。

でも、それだけではなく、自分に訊きましょう。「私の人生が神様中心のものなら、どのように、私のものの見方は変わるだろうか。」