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出エジプト記のデボーション

私たちの間に幕屋を張られた神

そのとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。

モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。(出エジプト記40:34ー35)

今はクリスマス・シーズンなので、私は上記の言葉を読んだとき、ルカによる福音書2章の羊飼いたちの話を思い出しました。

さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。

すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。(ルカ2:8ー9)

幕屋を満たしていたのと同じ栄光が、羊飼いたちの周りを照らしました。羊飼いたちが恐れるのも無理はありません。

モーセでさえ、神様の栄光に満ちた場所に入るのを恐れました。

しかし、御使いは羊飼いたちにこう言いました。

恐れることはあ

りません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。

今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(ルカ2:10ー11)

イエス様を通して、羊飼いたちは、モーセでさえ持っていなかった神様へのアクセスを与えられました。

神様は、私たちにもその同じアクセスを与えてくださいました。

ヨハネはこう言いました。

ことば(つまり、神)は人となって、私たちの間に住まわれた。(マタイ1:14)

原語では、「住まわれる」という言葉には、「幕屋を張る」というニュアンスがあります。

神様がイスラエル人の間に幕屋を張られたように、イエス様が人間となられたとき、神様は私たちの間に幕屋を張られました。

だから、ヨハネはイエス様についてこう言いました。

私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ1:14b)

そして、イスラエル人たちが旅をしている間、神様がインマヌエルであったように、私たちの人生の旅の間も、イエス様は私たちにとってインマヌエルであり、私たちにこう約束してくださいます。

わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイ28:20)

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私のすることすべてが。。。

心を動かされた者、霊に促しを受けた者はみな、会見の天幕の仕事のため、そのあらゆる奉仕のため、また聖なる装束のために、主への奉納物を持って来た。(出エジプト記35:21)

モーセはイスラエルの子らに言った。

「見よ。主は、ユダ部族の、フルの子ウリの子ベツァルエルを名指して召し、 彼に、知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たされた。(出エジプト記35:30ー31)

天のお父さん、私のすることすべてが心から流れるようにしてください。

義務からではなく、回りの人々の期待からでもなく、あなたの恵みと愛に触れられ、感謝に満ちた心から私が仕えるようにしてください。

私の動機はよく複雑なものです。私が心のすべてをあなたに捧げるように助けてください。

私が弱くても、自分の物足りなさを感じても、あなたは私を名指して召してくださいました。

あなたの御霊で私を満たしてください。あなたの仕事を成し遂げるため、私に知恵と英知と知識を与えてください。

あなたを離れては、私は何もできません。でも、あなたにとどまっているなら、私は多くの実を結ぶことができます。

私はあなたのために多くの実を結びたいのです。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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インマヌエル

「今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民があなたの民であることを心に留めてください。」

主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」

モーセは言った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。」(出エジプト記33:13ー15)

今朝、私は自問しました。

「私はモーセの心を持っているだろうか。」

私はどれだけ、このように祈っているでしょうか。

「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私の家から出たくもありません。

もしも私がみこころにかなっているのでしたら、私と共に歩んでください。

どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。」

驚くべきことは、神様が私たちにこのように答えてくださるということです。

「あなたはわたしの心にかない、あなたを名指して選び出した。わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」(出エジプト記33:17、14)

それがクリスマスの意味です。

イエス様はインマヌエルです。イエス様にあって、神様は私たちと共におられます。

神様がモーセと共に歩み、モーセと語ってくださったように、神様は私たちと共に歩み、私たちと語ってくださいます。

さらに、イエス様は神様の栄光を私たちに現し、恵みの上にさらに恵みを与えてくださいます。(ヨハネ1:14、16~18)

考えてみれば、それはすごいことですね。

いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。(ルカ2:14)

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私たちの罪の深刻さ

翌日になって、モーセは民に言った。「あなたがたは大きな罪を犯した。」(出エジプト記32:30)

モーセの言葉で、私の心は本当に打たれました。

「あなたがたは大きな罪を犯した。」

それを読んで、私は考えました。

「私は自分の罪をどれだけ重く受け止めているだろうか。自分の罪を軽く見てしまうことがあるだろうか。」

パウロによれば、罪の報酬は死です。(ローマ書6:23)

イスラエル人たちは、その真理を学びました。3000人のイスラエル人が死に、さらに多くの人々が打たれました。

十字架でイエス様が死ななければならなかったほど、私たちの罪は深刻なものです。

私たちが自分の罪の深刻さを正しく理解してこそ、ダビデの言葉に含まれた喜びの深さを理解することができます。

幸いなことよ、その背きを赦され、罪をおおわれた人は。

幸いなことよ、主が咎をお認めにならず、その霊に欺きがない人は。(詩篇32:1ー2)

天のお父さん、私が決して自分の罪を軽く見ないようにしてください。私が決して、あなたの素晴らしい恵みを当たり前のものだと思わないようにしてください。

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聖所

彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。

幕屋と幕屋のすべての備品は、わたしがあなたに示す型と全く同じように造らなければならない。(出エジプト記25:8~9)

天のお父さん、私のうちに住んでください。私があなたの聖所となるように。私の人生が私自身の設計図によってではなく、あなたの設計図によって築かれるように。

天のお父さん、あなたは聖なる方であり、あなたのみ言葉は聖なるものです。でも、私はしばしば罪に陥ってしまいます。だから、いつも宥めの蓋の上から私に語ってください。(出エジプト記25:21~22)

イエス様、あなたは私の宥めの蓋(別訳:宥めのささげ物)です。(ローマ3:25とその脚注)

毎日、あなたの血によって、私をすべての罪から清めてください。

天のお父さん、あなたはいつも私と共におられ、日ごとのパンを与えてくださいます。(出エジプト記25:23~30)

イエス様、あなたは私に永遠のいのちを与える天から下って来たパンです。(ヨハネ6:33~35)

イエス様、あなたは私の光です。(出エジプト記25:31~38;ヨハネ8:12)

私が毎日あなたの光の中で歩むことができるように。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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古い契約、新しい契約

モーセはその血の半分を取って鉢に入れ、残りの半分を祭壇に振りかけた。そして契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らは言った。

「主の言われたことはすべて行います。聞き従います。」

モーセはその血を取って、民に振りかけ、そして言った。

「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、主があなたがたと結ばれる契約の血である。」(出エジプト記24:6~8)

日曜日に聖餐式があったので、最後の晩餐でのイエス様の言葉を思い出しました。

この杯は、わたしの血による新しい契約です。

飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。(第一コリント11:25)

ある意味、古い契約は恵みの契約でした。その契約によって、自分の罪のゆえにふさわしくなかった人々も、神様との関係を持つことができたのです。

でも、ある意味では、その契約は不完全なものでした。

その契約は、イスラエル人が神様の命令に従うという約束に基づいていました。しかし、彼らは完全にそうすることができませんでした。(ヘブル8:7~9;10:1~4)

さらに、契約の血がイスラエル人たちに振りかけられましたが、彼らは神様に近づくことができませんでした。

モーセ、祭司たち、長老たちだけが、神様の御前で食べたり、飲んだりすることができました。それでも、モーセだけがシナイで神様に近づくことができました。

その一方、新しい契約は、神様の律法を守ろうとする私たちの努力に基づくものではありません。その契約は、私たちが良い人間になるという誓いに基づくものではありません。

その契約は、十字架で流されたイエス様の血によって基づくものです。

その血は、アベルの血と違って、復讐を求めるのではなく(創世記4:10)、「アバ、父よ、彼らを赦してください」と叫びます。

そういうわけで、私たち皆は、恐れず、喜びをもって、大胆に神様に近づくことができます。(ヘブル10:19~22)

ヘブルの著者は、新しい契約と古い契約の違いをこのようにまとめました。

あなたがたが近づいているのは、手でさわれるもの、燃える火、黒雲、暗闇、嵐、ラッパの響き、ことばのとどろきではありません。

そのことばのとどろきを聞いた者たちは、それ以上一言も自分たちに語らないでくださいと懇願しました。

彼らは、「たとえ獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない」という命令に耐えることができませんでした。

また、その光景があまりに恐ろしかったので、モーセは「私は怖くて震える」と言いました。

しかし、あなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム、無数の御使いたちの喜びの集い、天に登録されている長子たちの教会、すべての人のさばき主である神、完全な者とされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血です。(ヘブル書12:18~24)

それは、なんと素晴らしいことでしょう。

このように揺り動かされない御国を受けるのですから、私たちは感謝しようではありませんか。

感謝しつつ、敬虔と恐れをもって、神に喜ばれる礼拝をささげようではありませんか。

私たちの神は焼き尽くす火なのです。(ヘブル12:28~29)

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私たち皆が必要とするもの

すると、モーセのしゅうとは言った。

「あなたがしていることは良くありません。あなたも、あなたとともにいるこの民も、きっと疲れ果ててしまいます。

このことは、あなたにとって荷が重すぎるからです。あなたはそれを一人ではできません。」(出エジプト記18:17ー18)

「あなたはそれを一人ではできません。」

アマレク人との戦いの直後、イテロがその言葉をモーセに言ったということは興味深いです。

その戦いで、イスラエル人のためにとりなしているとき、モーセは文字通り自分の手を上げ続けることができませんでした。そのため、勝利を収めるまで、アロンとフルはモーセを支えてくれました。(出エジプト記17:8~16)

そして、そのあと、イテロはモーセに「あなたは神様の仕事を一人ではできません」と言いました。

私たち皆はそれを心に留めておかなくてはなりません。私たちの牧師やクリスチャン・リーダーたちがスーパー・クリスチャンに見えるかもしれませんが、一人で神様の仕事をすることはできません。

もちろん、彼らには私たちの励ましと支援が必要です。でも、私たちも自分の役割を果たさなくてはなりません。神様は私たちそれぞれに、人々に仕えるための賜物を与えてくださいました。

ミニストリー、奉仕はリーダーだけの仕事ではありません。ミニストリーはすべてのクリスチャンの仕事なのです。(エペソ4:11~16)

でも、リーダーたちだけではなく、私たち皆には、支援や励ましが必要です。家族や回りの人々に対する私たちの奉仕が大変になる時もあります。

私たちの日常生活も、大変になるときがあります。だから、一人でこのクリスチャン生活を送ろうとしないようにしましょう。

そうすれば、私たちの重荷は軽くなり、私たちは立ち続けることができます。(出エジプト記18:22~23)

また、パウロの言葉を心に留めておきましょう。

互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。(ガラテヤ6:2)

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神様に叫ぶ?それとも責める?

それで、彼はその場所をマサ、またメリバと名づけた。

それは、イスラエルの子らが争ったからであり、また彼らが「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、主を試みたからである。(出エジプト記17:7)

イスラエル人たちは、どのようにその言葉を言っていたでしょうか。どんな態度を持っていたでしょうか。

彼らは苦しみの中で謙遜な態度をもって、こう言っていたでしょうか。

「神様、私たちはどうしてこんなに苦しんでいるのか理解できません。あなたは本当に私たちと共におられるのですか。私たちには水がありません。助けてくださらなければ、私たちは死んでしまいます。どうか助けてください。」

それとも、彼らは反抗的な態度をもって、こう言っていたでしょうか。

「神様、本当に私たちと共におられるのですか。おられないのですか。私たちを死なせるのですか。あなたはどのような神なのですか。あなたは本当に良い方なのですか。」

モーセの反応から察すると、イスラエル人たちは反抗的な態度をもって話していたようです。さらに、モーセは後にイスラエル人たちにそのような態度を取らないように警告しました。(申命記6:16)

試練にあうとき、自分の感情にもまれるのは簡単なことです。

もちろん、苦しみの時には、自分の疑い、痛み、恐れを表現してもいいです。詩篇では、ダビデはしばしばそうしました。

でも、私たちは反抗的な態度に注意するべきです。私たちは神様を裁く立場を取ってはいけません。神様は私たちよりもはるかに多くのことを知っておられるからです。

だから、苦しむ時、理解できない時、神様に対してへりくだる態度を持つべきです。

サタンは私たちに、神様が良い方であることを疑わせようとします。試練を通して、サタンは私たちの神様への信頼を壊そうとします。

その誘惑に負けてはいけません。むしろ、神様が良い方であり、私たちに忠実であり、私たちを愛してくださるという真理にしがみつきましょう。

そして、ぺテロの言葉を心に留めておきましょう。

ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。

堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。

あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。(第一ぺテロ5:6~10)

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安息を拒むことなく

七日目になって、民の中のある者たちが集めに出て行った。しかし、何も見つからなかった。

主はモーセに言われた。

「あなたがたは、いつまでわたしの命令とおしえを拒み、守らないのか。心せよ。主があなたがたに安息を与えたのだ。(出エジプト記16:27~29)

「主があなたがたに安息を与えたのだ。」

その言葉に、私は心を打たれました。

神様はイスラエル人たちに安息を与えようとされました。その安息は、彼らへの賜物でした。でも、神様を信頼し、従うことを拒む限り、彼らはその安息を知ることができませんでした。

彼らが神様の愛といつくしみを、どれほど早く忘れてしまったか驚くばかりです。

彼らはこう歌ったばかりでした。

「主よ、神々のうちに、だれかあなたのような方がいるでしょうか。だれかあなたのように、聖であって輝き、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行う方がいるでしょうか……

あなたが贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導き、御力をもって、あなたの聖なる住まいに伴われた」(出エジプト記15:11、13)

それなのに、彼らはすぐに「エジプトでの奴隷生活の方がましだった」と文句を言い始めました。

私はそのような人間になりたくありません。

日曜日に「偉大なる主を誉めよ」と歌いながら、その後の6日間、神様を信頼し、従うことを拒むような人間になりたくありません。

そうすれば、私は天の父を悲しませ、神様の安息と平安の賜物を逃してしまうからです。

天のお父さん、あなたの安息と平安を知りたいです。さらに、あなたは、私がその安息と平安を経験することを望んでおられます。

だから、私があなたを信頼し、従うことができるように助けてください。

あなたは良い方で、信頼でき、私を深く愛してくださいます。

私がその3つのことを決して忘れないようにしてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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私たちの前に進まれる方

主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。

昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった。(出エジプト記13:21ー22)

天のお父さん、あなたは私の前に進まれる方です。昼も夜も、あなたは私の前から離れることはありません。

あなたの知恵によって、私を導いてください。私自身よりも、あなたは私のことを知っておられます。あなたは、私が耐えられることと、耐えられないことをよく知っておられるのです。(出エジプト記13:17~18)

私がヨセフのような信仰を持つことができるように。あなたが約束された通りに、必ずしてくださるという確信を持てますように。(出エジプト記13:19)

私がモーセのような信仰を持つことができるように。あなたがどこに行こうとも、私があなたの導きに従うように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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私たちを区別するもの

その血は、あなたがたがいる家の上で、あなたがたのためにしるしとなる。

わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない。(出エジプト記12:13)

イスラエル人とエジプト人は、何が違ったのでしょうか。どうして神様の裁きはエジプト人に下ったのに、イスラエル人には下らなかったのでしょうか。

イスラエル人がエジプト人より道徳的に優れていたというわけではありません。

そうではなく、彼らのために流されたやぎや子羊の血のゆえに、イスラエル人は救われました。

イスラエル人と同じように、私たちも神様の裁きを受けるべき存在でした。

私たちは他の人々より道徳的に優れているわけではありません。

私たちを区別するのは、私たちがどれだけ良い人であるか、どれだけ忠実であるかではなく、むしろ、私たちのために十字架で流されたイエス様の血です。

その血によって、私たちは神様の裁きから救われました。

もしかしたら、ダビデはイスラエル人たちがヒソプの束を使って、血を鴨居と二本の門柱に塗り付ける場面を思い浮かべて、この言葉を歌ったのかもしれません。

ヒソプで私の罪を除いてください。
そうすれば私はきよくなります。

私を洗ってください。
そうすれば 私は雪よりも白くなります。(詩篇51:7)

神様はイスラエル人たちに、神様がその日に彼らのためにしてくださったことを思い出すように命じられました(24~27節)。

私たちも、イエス様が十字架で私たちのためにしてくださったことを思い出し、イスラエル人のようにひざまずいて礼拝しましょう。

It’s your blood that cleanses me.
あなたの血は私を清め、
It’s your blood that gives me life.
あなたの血は私にいのちを与え、

It’s your blood that took my place
あなたの血は私の代わりに流され、
in redeeming sacrifice.
私をあがなってくださいました。

And washes me whiter than the snow.
その血は私を雪よりも白くしてくださいます。
My Jesus, God’s precious sacrifice.
私のイエス、神様の尊いいけにえです。ーーマイケル・キリスト

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頑固な心

いつまで、わたしの前に身を低くするのを拒むのか。(出エジプト記10:3)

ファラオの頑固さを批判するのは簡単なことです。

でも、私たちはどれほど頑固な心を保っているでしょうか。

自分が間違っているとよく知っているのに、私たちは身を低くすることを拒みます。

私も、時には頑固です。

神様は、私の頑固な心にどれほど驚かれるでしょうか。神様は、私にこう言われるでしょうか。

「いつまで、わたしの前に身を低くすることを拒むのか。」

アバ、お父さん、私が柔らかく、へりくだる心を保つことができるように助けてください。

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この世が知るように

あなたはわたしの命じることを、ことごとく告げなければならない。あなたの兄アロンはファラオに、イスラエルの子らをその地から去らせるようにと告げなければならない。。。

わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエルの子らを彼らのただ中から導き出すとき、エジプトは、わたしが主であることを知る。(出エジプト記7:2,5)

モーセとアロンは、ファラオとエジプト人全員が神様が主であることを知るように、神様の言葉を告げなければなりませんでした。

同じように、私たちの周りの人々が神様が主であることを知るために、私たちも神様の言葉を告げなければなりません。

しかし、モーセとアロンの言葉がほとんど裁きの言葉であったのに対し、私たちの言葉は和解の言葉なのです。

パウロはこう言いました。

これらのことはすべて、神から出ています。

神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。

すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。

こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。

私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。

神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。(第二コリント5:18ー21)

だからこそ、周りの人々が神様が主であることを知り、神様と和解することができるように、神様の言葉を告げましょう。

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私は何者でしょうか

神はモーセに語り、彼に仰せられた。

「わたしは主(原語:ヤハウェ)である。

わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神(原語:エル・シャダイ)として現れたが、主(原語:ヤハウェ)という名では、彼らにわたしを知らせなかった。(出エジプト記6:3)

天のお父さん、あなたはエル・シャダイ、全能の神です。あなたはヤハウェです。

あなたはアブラハム、イサク、ヤコブとともにおられた神様です。

あなたはモーセとともにおられた神様です。

そして、あなたは私とともにおられる神様です。

私は何者でしょうか。

どうして、あなたは私を愛し、心に留めてくださるのでしょうか。

どうして、私のうめきを耳に留めてくださるのでしょうか。

どうして、私を救い、購ってくださるのでしょうか。

どうして、私をご自分のものとしてくださるのでしょうか。

どうして、私を御国に導いてくださるのでしょうか。

どうして、私の神となり、あなた自身を私に現してくださるのでしょうか。

イエス様において、あなたはアブラハム、イサク、ヤコブ、モーセでさえ知らなかった方法で、私にご自身を現してくださいました。

だからこそ、苦しむときにも、私はあなた信頼することを選びます。

アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてモーセの時代に、あなたは忠実でおられました。今もあなたは忠実であり、そして永遠に、あなたは忠実な神様なのです。

アバ、あなたを愛しています。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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 天のお父さん、私はあなたを本当に信じるでしょうか?

モーセは最初から、イスラエル人たちに神様の言葉のすべてを伝えたでしょうか。つまり、ファラオの心が頑なになることまで伝えたでしょうか。

それとも、モーセはただ「神様はあなたを救い出すと約束された」とだけ伝えたのでしょうか。

モーセ自身は、神様の警告を真剣に受け止めていたでしょうか。

ファラオが神様の言葉を拒絶し、イスラエル人たちがモーセに怒ったとき、モーセの心はその現実に備えられていなかったように見えます。

では、私たちはどうでしょうか。神様を信じるでしょうか。

イエス様が「世にあっては苦難があります」と警告されたとき、私たちはその言葉を信じるでしょうか。(ヨハネ16:33)

パウロが「終わりの日には困難な時代が来る」と警告したとき、その言葉を本当に信じるでしょうか。(第二テモテ3:1~5)

ペテロが同じことを語ったとき、私たちはその言葉を信じるでしょうか。(第一ペテロ4:12)

そして、私たちが実際に試練に直面したとき、神様が良い方であること、イエス様がすでに世に勝利されたこと、神様がご自分の約束を守られること、そして最終的に私たちを救ってくださることを、信じ続けることができるでしょうか。

私が自問しているのは、そして私たち皆が自ら問うべき問いは、「神様、私はあなたを本当に信じているのでしょうか」ということです。

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神様の忍耐と怒り

私たちの神様は忍耐強い方です。それは確かです。

でも、結局のところ、神様は一つのことに耐えられません。それは、意図的な不従順です。

今日の箇所では、私たちはその真理を二度見ることができます。

神様がモーセにファラオのもとへ行くよう命じられたとき、モーセはいろいろな言い訳をしました。

でも、それらはただの言い訳でした。

神様がその言い訳に応えられた後、最終的にモーセは「私は行きたくない。他の人を遣わしてください」と言いました。

それを聞いて、神様は怒られました。

神様の恵みによって、ある程度までモーセの弱さは赦され、アロンがモーセに代わって民に語ることが許されました。

それでも、神様はモーセがその務めを怠ることを許されませんでした。

そのあと、不思議な出来事がありました。それは、神様がモーセを殺そうとされたということです。

なぜでしょうか。どうやら、神様はモーセに息子の割礼を命じておられたようです。

神様は、アブラハムとその子孫すべてに割礼を命じられました。(創世記17:9~14)

イスラエルのリーダーとして、モーセは良い模範を示すべきでした。

でもなぜか、モーセは息子に割礼を施していなかったようです。

もしかしたら、モーセの妻が息子の割礼。に反対していたのかもしれません。息子に割礼を施したとき、彼女は本当に怒ったようです。

私はもう一度言います。神様は恵み深く、忍耐強い方です。

でも、神様の恵みと忍耐を、罪に対する無関心と勘違いしてはいけません。

神様は、意図的な不従順を軽んじることはありません。

だから、私たちも不従順を軽んじてはいけません。

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天の父のみ心を持つ

こうして日がたち、モーセは大人になった。彼は同胞たちのところへ出て行き、その苦役を見た。

そして、自分の同胞であるヘブル人の一人を、一人のエジプト人が打っているのを見た。。。

それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。

重い労働による彼らの叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。

神はイスラエルの子らをご覧になった。神は彼らをみこころに留められた。」(出エジプト記2:11、23ー25)

モーセは不完全な人でした。それでも、神様はモーセをご覧になったとき、ご自分と同じような心を持った人をご覧になりました。

モーセは、周りの人々のうめきや苦しみをただ見ていたのではなく、その人を助けたいと思いました。

だから、自分の民の苦しみを見たとき、モーセはただ黙って見ていることができませんでした。

もちろん、モーセのやり方は間違っていましたが、自分の兄弟たちを助けたいと思ったその心は、間違っていませんでした。

そのあと、いじめられていた女性の羊飼いたちを見たとき、先の失敗にも関わらず、モーセはただ黙って見ていることができませんでした。

そのように、神様もご自分の民の苦しみを見たとき、ただ黙って見ておられることはできませんでした。神様は彼らをあわれみ、助けたいと思われました。

だから、神様はご自分と同じような心を持った人を選び、遣わされました。

今なお、神様はそのような人を選び、遣わされます。

私はそのような人になりたいです。あなたはどうですか。

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覚えられ、誉められた

興味深いことですが、エジプトの王の名前は記録されていないのに、「取るに足りない二人の助産婦」の名前は記録されています。

シフラとプアは、神様に忠実に仕えたので、神様はその二人を祝福してくださいました。そして、今日に至るまで、彼女たちの名前は聖書の中で記念されています。

その反面、エジプトの王は、神様に記憶されることも、誉められることもありません。

神の国では、自分は取るに足りない者だと思うかもしれません。

でも、神様に忠実に仕えるなら、シフラとプアのように、あなたは神様に覚えられ、誉められます。

私はシフラとプアの話を読んで、預言者マラキの言葉を連想しました。

そのとき、 主を恐れる者たちが互いに語り合った。

主は耳を傾けて、これを聞かれた。

主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、 主の前で記憶の書が記された。

「彼らは、わたしのものとなる。 ──万軍の主は言われる──

わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。」(マラキ書3:16ー17)

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イースターの希望

神の贖いのご計画は、決して揺らぐことのないものです。私たちがどれほど失敗しても、どれほど深い罪を犯しても、救いようのない人など一人もいません。

それこそが、イースターの希望です。だからこそ、私たちは毎日、その希望の上に立って生きていきましょう。

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出エジプト記のデボーション

神様の言葉に従う

正直に言うと、出エジプト記36-39章はあまり面白く感じられないかもしれません。特に、その章は25-30章の内容をほとんど繰り返しているからです。

25-30章では、神様が幕屋やその道具などの作り方を教えられました。

36-39章では、イスラエル人たちがその指示に従いました。

それが39章の要点のようです。何度も、「主がモーセに命じられたとおりに…」という言葉が繰り返されます。(1、5、7、21、26、31、32、43)

幕屋を作るために、神様はイスラエル人たちに知恵と英知と知識を与えてくださいました。(35:31-36:2)

しかし、彼らは自分の好きなようにそれらを作ったわけではありません。彼らは単に自分にとって都合のよいことをしたわけではありません。むしろ、彼らは神様の指示に従いました。

彼らは手抜きをしませんでした。彼らは神様の指示をあえて変えませんでした。

私たちはどうでしょうか。

仕事をするとき、教会の奉仕をするとき、私たちのすべての行動において、私たちは勝手に行動するでしょうか。

それとも、神様の言葉に従うでしょうか。

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神様が望まれるもの

すべて、進んで献げる心のある人に。。。(出エジプト記35:5)

心を動かされた者、霊に促しを受けた者はみな。。。(21節)

心を動かされ、知恵を用いたいと思った女たちはみな。。。(26節)

イスラエルの子らは男も女もみな。。。心から進んで献げた。。。(29節)

「神様は私たちから何を望んでおられるだろうか?」

それを考えたことがありますか。

この言葉が、その答えを明らかにしていると思います。

ほかのどんなものよりも、神様は私たちの心を望んでおられるのです。

献金を捧げることにおいて、主に仕えることにおいて、私たちが行うすべてのことにおいて、神様は私たちの心を望んでおられます。

あなたの心は神様のものですか。

主よ、あなたが私のためにしてくださったことは数えきれません。あなたは何度も私に愛とあわれみを注いでくださいました。あなたは本当に良いお方です。

私のすべての行動が、あなたの愛と喜びに根差したものでありますように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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神様のご性格

「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。

しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」(出エジプト記34:6ー7)

これは旧約聖書の中でもっとも有名な箇所の一つです。その言葉は旧約聖書の中で何度も繰り返されます。

なぜでしょうか。それは、その言葉が神様のご性格を表しているからです。

出エジプト記や他の旧約聖書の物語を読むと、神様を怒りの神と見なすのは簡単なことです。

確かに、ある意味で神様は怒りの神です。神様は罪を憎み、罰せられます。

良い神が罪を愛することができるでしょうか。正義の神が罪を見過ごすことができるでしょうか。

それでも、神様は「あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す神」です。

神様は何度も裁きが迫ると警告されます。

しかし、人を裁く前に、神様がいつもご自分の民にその裁きについて知らせておられることに気づいたことがありますか。

たとえば、神様はアブラハムに知らせました。(創世記18章)また、モーセにも知らせました。(出エジプト記32章)

なぜ、神様はアブラハムとモーセに知らせられたのでしょうか。彼らがただその裁きを観測するためだったのでしょうか。

違います。その理由は、彼らがその人々のためにとりなすためだったのです。

いずれの場合も、神様は正義を実行されました。どうしても悔い改めない人々は裁かれました。けれども、アブラハムとモーセのとりなしによって、ある人々は救われました。

神様は必ず悪を裁かれます。けれども、それ以上に、神様は人をあわれみたいと願っておられます。

そのために、神様はイエス様をこの世に送ってくださいました。十字架において、イエス様は私たちの罪の代価を支払われたので、神様は私たちをあわれむことができます。

ですから、モーセのように、覆いを取り除かれた顔で、大胆に神様に近づきましょう。

私たちは神様の怒りと裁きを恐れる必要はありません。むしろ、神様に近づくにつれて、神様は私たちをイエス様と同じかたちに姿を変えてくださいます。(第二コリント3:12、18)

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一息つく

イスラエルの子らはこの安息を守り、永遠の契約として、代々にわたり、この安息を守らなければならない。

これは永遠に、わたしとイスラエルの子らとの間のしるしである。

それは主が六日間で天と地を造り、七日目にやめて、休息したからである。(出エジプト記31:16-17)

「主はやめて、休息した」とは、実に興味深い言葉です。

まるで神様が疲れて、英気を養わなくてはならないかのように聞こえます。

しかし、もちろん神様にはそのような必要はありません。

むしろ、神様はご自分の働きを止めて、一息つかれたのです。けれども、それは疲れたからではなく、ご自分が造られたものを楽しもうと思われたからなのです。

どれぐらい、私たちは自分がしていることを休憩して、ちょっと一息つき、創造主との関係を楽しむでしょうか。

もちろん、私たちは毎日そうした方がいいです。でも、特に日曜日に、私たちはそうした方がいいです。

時々、クリスチャンたちは問いかけます。「私は毎週の日曜日に、教会に行かなくてはならないのですか。」

でも、その考え方は間違っています。

教会に行くのは義務ではありません。教会に行くのはチャンスなのです。

毎週の日曜日に、私たちは2時間ぐらい、仕事や勉強や日常の単調さを休憩して、創造主との関係を楽しむことができます。私たちに対する神様のあわれみと恵みを思い出します。

さらに、教会では、神の家族を祝福するチャンスがあるし、神の家族に祝福されるチャンスもあります。

あなたにとって、教会は何でしょうか。

教会に行くのは、義務でしょうか。

それとも、教会に行くのはチャンスでしょうか。

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私たちの宥めな蓋

今日の箇所では、幕屋に関して、とても具体的な指示がたくさんありますね。

どうして、幕屋のことはそんなに大切なのでしょうか。私たちには、関係あるでしょうか。

ヘブル書の著者は説明します。

この祭司たちは、天にあるものの写しと影に仕えています。

それは、モーセが幕屋を設営しようとしたときに、御告げを受けたとおりのものです。

神は、「よく注意して、山であなたに示された型どおりに、すべてのものを作らなければならない」と言われました。(へブル書8:5)

「天にあるものの写しと影」とは、どういう意味でしょうか。

出エジプト記25章には、いくつかの例がありますが、私の心を打ったのは、22節です。

わたしはそこであなたと会見し、イスラエルの子らに向けてあなたに与える命令を、その「宥めの蓋」の上から、あかしの箱の上の二つのケルビムの間から、ことごとくあなたに語る。(出エジプト記25:22)

そのあかしの箱の中には、十戒が書かれた板が入っていました。(16)

十戒は神の民に神様の聖なるさを思い出させました。また、十戒は、彼らが神様のように聖なる者とならなければならない、ということを思い出させました。

でも、十戒は彼らの罪をも思い出させました。

私たちは自分の聖さによって、神様に近づくことができません。

むしろ、神様は宥めの蓋から私たちに語られます。その場所で、私たちは神様に近づきます。

旧約聖書の時代、一年に一回、宥めの供え物からの血は宥めの蓋の上にかけられました。その血によって、イスラエル人たちは赦されました。(レビ記16章)

でも、今、パウロはこう言います。

神は(イエス)を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。(ローマ3:25)

別訳では、

神は(イエス)を、信仰によって受けるべき、血による宥めの蓋として公に示されました。

イエス様こそが私たちの宥めの蓋です。

イエス様の血によって、私たちは赦されました。

また、その血によって、私たちは神様に近づくことができます。

だから、今日の箇所を読むとき、パウロの言葉を覚えていて、喜びましょう。

すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。

神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めの蓋として公に示されました。(ローマ3:23ー25)

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血によって近づく者たち

モーセはその血を取って、民に振りかけ、そして言った。

「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、主があなたがたと結ばれる契約の血である。」(出エジプト記24:8)

その言葉を読むとき、私はいつも最後の晩餐でのイエス様の言葉を思い起こします。

これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。(マタイ26:28)

モーセや祭司たちや、長老たちは血に振りかけられたので、彼らは神様の裁きを恐れず、神様との交わりができました。(9〜11)

そのように、私たち皆は(クリスチャンのリーダーたちだけではなく)、イエス様の血に振りかけられたので、裁きを恐れず、神様との交わりができます。

ペテロによれば、私たちは天の父に選ばれ、聖霊に聖別され、イエス様の血の注ぎかけを受けました。

そのゆえ、私たち皆は、恵みを受け、神様との平和を持っています。(第一ペテロ1:1〜3)

出エジプト記24章を読むとき、ヘブル9章も読んだ方が良いでしょう。

ヘブル書の著者は出エジプト記24章を引用し、その出来事をちょっと解説します。

でも、とりあえず、この素晴らしい言葉を心に留めておきましょう。

雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、からだをきよいものにするのなら、まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。(へブル9:13ー14)

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律法の精神を求めて

出エジプト記やレビ記の律法を読むとき、「この律法は私に本当に関係あるのか」と思うのは簡単なことです。

例えば、4〜5節をちょっと読んでみましょう。

あなたの敵の牛やろばが迷っているのに出会った場合、あなたは必ずそれを彼のところに連れ戻さなければならない。

あなたを憎んでいる者のろばが、重い荷の下敷きになっているのを見た場合、それを見過ごしにせず、必ず彼と一緒に起こしてやらなければならない。(出エジプト記23:4-5)

どれぐらい、私たちはそんな状況に遭遇するでしょうか。多分、そんな状況に遭遇することはないでしょう。

でも、その律法の文字だけではなく、その原則をも考えた方がいいです。

上記の律法の原則は何でしょうか。

イエス様は、こう言われました。

しかし、これを聞いているあなたがたに、わたしは言います。あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。

あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。あなたがたを侮辱する者たちのために祈りなさい。。。

しかし、あなたがたは自分の敵を愛しなさい。彼らに良くしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。

そうすれば、あなたがたの受ける報いは多く、あなたがたは、いと高き方の子どもになります。

いと高き方は、恩知らずな者にも悪人にもあわれみ深いからです。

あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。(ルか6:27ー28、35ー36)

だから、旧約聖書にある戒めを見るとき、その文字だけではなく、その精神をも考えましょう。

そして、神様に「この言葉を通して、あなたは私に何を教えたいのですか」と祈りましょう。

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飼いならされた神ではない

それでモーセは民に言った。

「恐れることはありません。神が来られたのは、あなたがたを試みるためです。これは、あなたがたが罪に陥らないよう、神への恐れがあなたがたに生じるためです。」(出エジプト記20:20)

それらは、ちょっと逆説的な文だと思いませんか。

「恐れることはありません。」

「神様を恐れるべきです。」

どのようにその二つの文を繋ぎ合わせることができるでしょうか。

私たちが覚えていなくてはならないのは、神様は良い方ですが、飼いならされた神様ではないということです。

私たちは神様をコントロールすることができません。

私たちは神様を操ることができません。

聖なる万能の神様を相手にするとき、私たちは恐れるべきです。私たちは、故意に神様を軽んじてはならないのです。

なぜなら、ある日、神様はご自分に反対して憎む人々を裁かれるからです。(5)

その裁きを見るとき、私たちは恐れるべきです。なぜなら、私たち皆は罪を犯したからです。私たち皆は裁きにふさわしい者です。

それでも、神様は良い方です。神様は気まぐれな方ではありません。神様は悪意を持っておられる方ではありません。

さらに、神様はご自分のひとり子をこの世に送って、私たちの代わりにイエス様は裁かれました。

だから、神様を愛し、イエス様を受け入れる人々には、神様は恵みを注いでくださいます。

私たちが罪を犯すとき、神様は私たちを懲らしめるかもしれませんが、ご自分の恵みを私たちから取り去られることはありません。(第二サムエル記7:14ー15)

そういうわけで、イスラエル人と違って、私たちは神様の裁きを恐れて、神様から遠く離れて立つ必要はありません。

むしろ、モーセのように、私たちは神様に近寄ることができます。(18、21)

だから、神様を恐れましょう。でも、神様を怖いと思う必要はありません。

それを心に留めて、神様に近づきましょう。

こうして、愛が私たちにあって全うされました。

ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。

恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。(第一ヨハネ4:17ー18)

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私たちのアイデンティティーを心に留めて

「今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。 あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」

これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。(出エジプト記19:5ー6)

それらは驚くべき言葉ですね。

でも、1000年以上経って、ペテロはイスラエル人たちに語られた神様の言葉を、私たちに当てはめました。

しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。

それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。

あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。(第一ぺテロ2:9ー10)

私たちのアイデンティティーを心に留めておきましょう。

私たちは神様に愛され、選ばれた民です。

でも、それだけではなく、私たちは大王の祭司で、神様の栄誉を告げ知らせるために召されました。

しかし、それは、ただ神様をほめたたえるためではありません。むしろ、回りの人々が私たちのあかしを聞いて、彼らも闇の中から神様の驚くべき光の中に入るためです。

だから、私はもう一度言います。

自分が何者であるかを心に留めておきましょう。

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打たれてくださった神

どれほど、私たちは神様を疑い、「あなたは本当に私と共におられるでしょうか」と疑問に思うでしょうか。

イスラエル人たちは荒野でそのように感じました。

だからその荒野で、旧約聖書の中で神様は初めて、そしてただ一度だけ、裁かれるために人の前に立たれました。

通常、人は裁かれるために神様の前に立ちました。(申命記19:17)

しかし今回は、神様は(もしかすると、雲の柱の形で)モーセとイスラエルの長老たちの前に、岩の上に立たれます。

もちろん、雲を打つことはできないので、その代わりに、モーセは神様が立っておられる岩を打ちます。

そして神様はイスラエル人たちに水を与え、ご自身が彼らと共におられることを証明されました。

神様は打たれるに値しませんでした。むしろ、イスラエル人たちが不信の罪のために打たれるに値しました。しかし神様は打たれてくださり、彼らに命を与えてくださいました。

パウロによれば、その岩はキリストの象徴でした。(第一コリント10:4)

そして、千年以上後に、神様が人間となられたイエス様は、もう一度、裁かれるために人の前に立たれました。

もう一度、イエス様はご自身の罪のためではなく、ご自身の民の罪のために裁かれました。

十字架で、イエス様はもう一度打たれました。そして、十字架でイエス様が流された血によって、私たちは命を得ました。

あなたはどんな試練に直面していますか。あなたは、神様が本当にあなたと共にいるかどうか疑問に思っていますか。

十字架を仰ぎましょう。

イエス様の十字架のみわざを心に留めておきましょう。

そして、イエス様を信じましょう。

イエス様はインマヌエルです。

イエス様は、私たちと共におられる神様です。

ダビデは、今日の話を覚えていたとき、詩篇95篇を作りました。

ダビデと共に歌いましょう。

さあ、主に向かって、喜び歌おう。

私たちの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。(詩篇95:1)

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私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください

主はモーセに言われました。

「見よ、わたしはあなたがたのために天からパンを降らせる。民は外に出て行って、毎日、その日の分を集めなければならない。

これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを試みるためである。」(出エジプト記16:4)

もしかすると、イエス様はこの箇所を覚えておられ、ご自身の弟子たちにこのように祈ることを教えられたのかもしれません。

私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。(マタイ6:11)

今日、私が気づいたのは、そのように祈るとき、私たちが単に自分のニーズのために祈っているのではない、ということです。

むしろ、私たちはこう祈っているのです。

「神様、私が日々あなたに信頼するように教えてください。すべてにおいてあなたに従うほど、私があなたに信頼するように教えてください。」

主よ。私を罪の奴隷から救い出してくださり、感謝します。

毎日、私があなたをもっと知り、あなたの栄光を見ることができますように。(6–7節)

私がそうするにつれて、すべてにおいて、あなたを信頼し、従うように教えてください。

私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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神様に叫ぶとき、信仰で進むとき

主はモーセに言われた。「なぜ、あなたはわたしに向かって叫ぶのか。

イスラエルの子らに、前進するように言え。(出エジプト記14:15)

私たちにとって大きすぎる問題に遭遇するときもあります。そのとき、私たちの自然な反応は、神様に「助けて!」と叫ぶことです。

もちろん、神様に叫ぶべき時もあります。

でも、私たちがただ神様とその約束を信じて、前進すべき時もあります。つまり、私たちは最終的に神様の救いを見ることを信じて、神様の指示に従うのです。

私たちがこの世でその救いを見るとは限りません。

イエス様は、私たちの問題のすべてを取り去ると約束されたわけではありません。あるクリスチャンはこの世でイエス様のために苦しみ、命を落としました。

しかし、イエス様は十字架において最終的な勝利を得られたのです。だから、この世で私たちがどのような苦しみを経験しても、やがて神様の救いを見るという確信を持つことができるのです。

だからこそ、信仰によって前進し、神様が私たちに与えてくださった役割を果たしましょう。

そして、パウロの言葉を心に留めておきましょう。

しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。

ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。

あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。(コリント人への手紙第一15:57ー58)

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神様の印を受けた者

その血は、あなたがたがいる家の上で、あなた方のためにしるしとなる。

わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。

わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない。(出エジプト記12:13)

聖書には、神様が人々を裁かれるが、ご自身の民をその裁きから守られるというテーマがあります。

エゼキエル書9:4にも、黙示録7:3と9:4にも、そのテーマが見られます。

しかし、今日の箇所では、神様の裁きから私たちを守る印の描写が見られます。それは、傷もなく汚れのない子羊の血潮です。

私たちにとって、イエス様は私たちの過越の子羊です。(第一コリント5:7)

十字架で流されたイエス様の血潮によって、私たちは印を押されているのです。

そのゆえに、この世界が裁かれるとき、神様は私たちをあわれみ、過ぎ越してくださるのです

だから毎日、罰を恐れずに、私たちに対する神様の愛と恵みの確信をもって、神様に近づきましょう。(第一ヨハネ4:17–18、へブル10:19–22)

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怒りを覚えるとき

こうして、モーセは怒りに燃えてファラオのところから出て行った。(出エジプト記11:8)

その言葉は私の印象に残りました。

どうしてモーセはそんなに怒りを覚えたのでしょうか。

たぶん、彼はファラオの頑なな心に対して怒りを覚えたのでしょう。また、モーセは、ファラオが神様の民をどのように酷使したかについても怒ったのかもしれません。

モーセの怒りは清いものだったでしょうか。

それは少し微妙です。モーセは人間でしたから。

自分の怒りによって、モーセが困難に陥ったこともありました。(出エジプト記2:11–12、民数記20:10–12)

それでも、クリスチャンの生活には、怒りの余地があります。特に、人々の頑なな心を見るとき。また、この世界の中の不正を見るときです。

イエス様も怒りを覚えられたことがありました。(マルコ3:5、11:15–17)

しかし、注意しなくてはならないのは、私たちがその怒りを感じた後に、どうするかということです。

パウロはこう言いました。

怒っても、罪を犯してはなりません。

憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。

悪魔に機会を与えないようにしなさい。(エペソ4:26ー27)

私たちが覚えておかなくてはならないのは、人々の頑なな心やこの世の中の不正の中で、神様が計画を持っておられるということです。その最終的な計画は、人々を救うことです。

ファラオの頑なな心は神様の計画の一部であり、神様はイスラエル人の救いをもたらされました。

また、ユダヤ人の指導者たちの頑なな心によって、イエス様が十字架にかけられ、神様は私たちの救いをもたらされました。

だから、怒りを覚えるとき、私たちはどうすればよいでしょうか。

怒ってもかまいません。でも、罪を犯してはいけません。サタンに私たちを操る機会を与えてはいけません。

人々の頑なな心のために罵ることは、神様の救いをもたらすはずがありません。

世界の中の不正を呪うことも、神様の救いをもたらすはずがありません。

むしろ、神様の愛によって人々に触れることによって、私たちは神様の救いを目にします。

その救いを見たいなら、私たちはイエス様の恵みとまことの模範に従わなくてはなりません。

イエス様は真理を曲げられたことがありません。むしろ、イエス様は人々の罪を指摘されました。(ヨハネ4:16–18)

イエス様は、神様の言葉に関する人々の無知を指摘されました。(マタイ22:29)

人々が神様の言葉を曲げたとき、イエス様はそれをも指摘されました。(マタイ5:43–44)

それでも、イエス様は罪人の仲間と呼ばれました。(マタイ11:19)

私たちはどうでしょうか。

私たちも罪人の仲間と呼ばれるでしょうか。

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空しい悔い改め

ファラオは急いでモーセとアロンを呼んで言った。

「私は、おまえたちの神、主とおまえたちに対して過ちを犯した。

どうか今、もう一度だけ私の罪を見逃してくれ。おまえたちの神、主に、こんな死だけは取り去ってくれるよう祈ってくれ。」出エジプト記10:16-17)

それは、本当の意味での悔い改めのように聞こえたかもしれません。

しかし結局、それらは空しい言葉でした。

どうしてでしょうか。

なぜなら、その言葉には、神様に喜んで聞き従う心が伴っていなかったからです。ファラオは、ただ神の裁きからの救いを望んでいただけでした。

悔い改めとは、ただ「ごめんなさい」と言うことではありません。

悔い改めとは、ただ「許してください」と言うことでもありません。

悔い改めとは、愛と従順の心をもって、神様に向かうことです。

そのような心を伴わない悔い改めは、本当の悔い改めではありません。

あなたはどうですか。あなたは本当に悔い改めの心を持っておられるでしょうか。

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神様の御怒りとあわれみ

今度、わたしは、あなた自身とあなたの家臣と民に、わたしのすべての災害を送る。わたしのような者が地のどこにもいないことを、あなたが知るようになるためである。

実に今でも、わたしが手を伸ばし、あなたとあなたの民を疫病で打つなら、あなたは地から消し去られる。

しかし、このことのために、わたしはあなたを立てておいた。わたしの力をあなたに示すため、そうして、わたしの名を全地に知らしめるためである。(出エジプト記9:14ー16)

今日、この箇所は私の心を打ちました。神様は裁きをエジプト人たちに注がれましたが、彼らをあわれんでくださいました。

神様は一瞬で彼らを滅ぼすことができましたが、そうされませんでした。

さらに、彼らの命を守るために、雹に関する警告を与えられました。(19)

神様は人々の罪のために御怒りを注がれますが、人々をあわれんでくださいます。

なぜでしょうか。それは、人々が神様を知り、悔い改めることを望まれているからです。

ファラオは傲慢で、モーセに言いました。「私は主を知らない。」(出エジプト記5:2)

それゆえ、神様はご自身がどのような方であるかをファラオに現されました。

つまり、神様は正義の神であり、罪を罰される方です。そして、主はあわれみ深い神であり、主を恐れる者をあわれまれる方です。

私にとって興味深いことは、神様の言葉がラハブの人生に成就したことです。

神様はファラオを生かし、紅海を分け、ご自身の力と御名を周囲の国々に現されました。

その結果、ラハブとその家族は救われました。(ヨシュア記2:8–14、6:25)

ですから、神様が紅海で御怒りをファラオとその軍隊に注がれたことによって、ラハブとその家族は神様のあわれみを受けました。

さらに、ラハブはイエス様の系図に加えられました。(マタイ1:5)

ある意味で、神様はすべての人々をあわれんでくださいます。つまり、神様はこの瞬間、私たちを滅ぼされないということです。しかし、私たちが悔い改めてこそ、救いに至るあわれみを受けるのです。

神様は私たちに警告を与えられます。神様は私たちに悔い改める時間を与えてくださいます。

あなたはどうされますか。

神は言われます。 「恵みの時に、わたしはあなたに答え、 救いの日に、あなたを助ける。」

見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。(第二コリント6:2)

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私たちが絶望するとき

モーセはこのようにイスラエルの子らに(神様の約束を)語ったが、彼らは失意と激しい労働のために、モーセの言うことを聞くことができなかった」(出エジプト記6:9)

正直に言うと、私たちが絶望して、この世に打ちのめされているとき、人々が神様の励ましの言葉を語っても、多くの場合、私たちはその言葉を聞きたくないものです。

私たちはその言葉を聞いて、うんざりし、「私は何回もこんな言葉を聞いたことがあるけれど、私の人生は前よりも大変になった」と思います。

でも、私たちが覚えていなくてはならないのは、神様が「ヤハウェ」という神であるということです。

「ヤハウェ」という名前は、変わることのない神、いつも約束を守られる神、そして、常に忠実な神を意味します。

だからこそ、神様は三回、「私は主である」、つまり「私はヤハウェである」と言われました(2、6、8)。

ですから、今あなたが苦しんでいるなら、その真理に思いを巡らしましょう。

「私は主である。私はヤハウェである。」

そして、心に留めておきましょう。アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、そしてイスラエルの民と共におられた神様は、今もあなたと共におられるのです。

神様は、昔も今も忠実であり、永遠に忠実でおられるお方です。

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主の権威を拒む心

主とは何者だ。私がその声を聞いて、イスラエルを去らせなければならないとは。

私は主を知らない。(出エジプト記5:2)

たぶん、ファラオのように、自分の人生における主の権威をきっぱりと否定するクリスチャンは、あまりいないでしょう。

しかし、私たちはどれほど、自分の不従順のために言い訳をするでしょうか。

どれほど、聖書に記されている神様の明快な言葉を否定するでしょうか。

聖霊様が私たちの罪を指摘されるとき、どれほど、私たちは御霊の声を無視するでしょうか。

そうすることで、私たちは基本的にこう言っていることになります。

「主とは何者だ。私がその声を聞かなければならないとは。私は主を知らない。」

「主よ」と「いいえ」とは、相いれない言葉です。

もし、イエス様が本当に私たちの主であるならば、どうして、私たちは主に「いいえ」と言えるでしょうか。

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神様が私たちに求められること

モーセは主に言った。

「ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」

主は彼に言われた。

「人に口をつけたのはだれか。だれが口をきけなくし、耳をふさぎ、目を開け、また閉ざすのか。それは、わたし、主ではないか。

今、行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたが語るべきことを教える。」(出エジプト記4:10-12)

私たちは皆、弱点と限界を持っています。そして、神様が私たちに何かをするように命じられると、自分の限界や弱点を、神様の指示に従わない言い訳にしてしまうのは、簡単なことです。

しかし、神様は私たちの限界や弱点に縛られることはありません。

神様が私たちに求められるのは、ただ二つのことです。それは、神様に喜んで自分の時間を捧げることと、神様に従う心です。

そして、私たちは自分の力に頼らず、神様に頼るにつれて、神様が命じられることを何でも行うことができます。

主よ、私は弱点や限界を持っていますが、あなたは私をこのように造ってくださいました。そして、あなたは私の限界に縛られることはありません。

だから、その限界や弱点を持つ自分自身をあなたに捧げ、「ここに私がおります。私を遣わしてください」と申し上げます。

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出エジプト記のデボーション

私たちをみこころに留めてくださる神

神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。

神はイスラエルの子らをご覧になった。神は彼らをみこころに留められた。(出エジプト記2:24-25)

どのようにイスラエルの民は嘆いたのでしょうか。

もしかすると、アサフは詩篇77篇で彼らの苦しみを代弁したのかもしれません。

主は、いつまでも拒まれるのか。
もう決して受け入れてくださらないのか。

主の恵みは、とこしえに尽き果てたのか。
約束のことばは、永久に絶えたのか。

神は、いつくしみを忘れられたのか。
怒って、あわれみを閉ざされたのか。(詩篇77:7-9)

どれほど私たちは、そのように感じることがあるでしょうか。

神様が私たちを拒まれたのではないかと疑問に思います。神様の愛や忍耐、そして私たちへの恵みが尽き果てたのではないかと疑問に思います。

しかし、神様は私たちの声を聞いてくださいます。神様は、私たちのために流されたイエス様の血による新しい契約を思い起こされます。そして、私たちの苦しみの中で、神様は私たちをご覧になり、みこころに留めてくださいます。

そして最も大切なのは、神様がご自分の民を救ってくださるということです。

エジプトで、神様はそうしてくださいました。十字架でも、神様はそうしてくださいました。

だから、神様がなさったすべてのことを思い巡らし、神様のみわざを静かに考えましょう。

そして、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフの霊的な子孫として、アサフとともに歌いましょう。

神よ。あなたの道は聖です。
私たちの神のように大いなる神がいるでしょうか。

あなたは奇しいみわざを行なわれる神。
国々の民の中で御力を現わされる方。

あなたは御腕をもって贖われました。
ご自分の民、ヤコブとヨセフの子らを。(詩篇77:13-15)

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出エジプト記のデボーション

神の揺るぐことのない計画

それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてある事を彼らに説き明かされた。(ルカ24:27)

モーセの書について話されたとき、イエス様は、モーセの人生がどのようにイエス様の人生の伏線となったかを説明されたのでしょうか。

イエス様のように、モーセは救い主となるために生まれました。

イエス様のように、王の命令によって、生まれたばかりのモーセは命の危険にさらされました(マタイ2:8、16)。

イエス様の場合のように、神様の救いの計画が進むように、ある人々は王の命令に従わず、神様に従いました(マタイ2:12–15)。

最近、私はこの言葉を読みました。「神様の贖いの計画は揺るぐことのないものです。」

サタンは、初めからその計画を妨害しようとしました。

アダムとエバがエデンから追い出されて以来、サタンはその計画を妨害しようとしました。そして、十字架でサタンは自分がついに勝ったと思いました。

でも、神様の贖いの計画は揺るぐことのないものです。

イエス様は十字架で死なれましたが、三日目に神様はイエス様を復活させられました。

そして、イエス様の死と復活によって、私たちは赦しと永遠の命を得ました。

今なお、神様の贖いの計画は揺るぐことのないものです。

私たちがどんなに失敗しても、どんなにひどい罪を犯しても、救いようのない人は誰もいません。

それがイースターの希望です。毎日、その希望の上に立ちましょう。