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エレミヤ書 列王記第二

恵み

今日、エレミヤ書と列王記を終えます。

この話はエホヤキン王についてです。彼はユダの最後から二番目の王でした。彼はわずか3か月間だけユダを治めました。その後、彼はネブカデネザルによってバビロンに追放されました。

けれども、それでエホヤキンの話が終わったわけではありません。

ユダの王エホヤキンが捕らえ移されて三十七年目の第十二の月の二十五日に、バビロンの王エビル・メロダクは、彼が即位した年のうちに、ユダの王エホヤキンを釈放し、獄屋から出し、彼に優しいことばをかけ、彼の位をバビロンで彼とともにいた王たちの位よりも高くした。

彼は囚人の服を着替え、その一生の間、いつも王の前で食事をした。

彼の生活費は、死ぬ日までその一生の間、日々の分をいつもバビロンの王から支給されていた。(エレミヤ書52:31-34)

どうして、神様は私たちにこの話を伝えられたのでしょうか。どうして、突然バビロンの王はエホヤキンに親切にしたのでしょうか。

聖書では、その理由が全く書かれていません。

しかし、ユダヤ教の伝承によれば、エホヤキンはバビロンで悔い改めたので、神様はネブカデネザルの息子(エビル・メロダク)の心に働きかけ、彼がエホヤキンに親切にし始めました。

その伝承が本当かどうかは分かりません。けれども、おそらくこの話は神様の恵みの象徴です。この話を読むと、私は神様が私たちのために何をしてくださったかを思い出します。

エホヤキンはバビロンの王のために何もしていなかったのに、その王は彼を解放し、親切な言葉をかけ、新しい衣を与え、共に食事をし、彼の位を高めました。

神様は私たちのために同じことをしてくださいました。

私たちが神様のために何もしていなかったのに、神様の恵みとあわれみによって、神様は私たちを救ってくださいました。

神様は私たちの罪を赦し、罪と死の鎖を解き、私たちに親切な言葉をかけ、キリストの義を着せてくださいました。

そして、いつの日か私たちは神様の食卓で共に食事をし、栄光の冠をいただくでしょう。

それが恵みです。

興味深いのは、第12の月の25日にエホヤキンの許しが公表されたということです。(おそらくわずか2日後に彼は牢から解放されました。(列王記第二25:27))

私は真剣に言っているわけではありませんが、神様は将来の出来事を知っておられ、人々がイエス様の誕生を12月25日に祝うことを知っておられました。

そのため、エホヤキンの赦しは、私たちの赦しの象徴であるとも言えるかもしれません。

メリークリスマス、エホヤキン!

…多分そうではありません。それを無視してください。

とにかく、大切なのは、私たちが受けたすべての祝福は、ただ神様の恵みによるものだということです。

それを心に留めておきましょう。

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赤ランプを無視する

エルサレムの没落の後、ネブカデネザルは、ゲダルヤという人物を、ユダの地に残された民の総督として任命しました。

ゲダルヤは良い人だったと思われます。彼がユダ人の恐れを抑えることができたため、多くの人々は周辺の国々からエルサレムに戻りました。

とはいえ、ゲダルヤは世間知らずでした。彼はダビデの子孫イシュマエルが彼を殺そうとしているという話を聞きましたが、それを信じず、自分自身を守るために何もしませんでした。

その結果、最終的にゲダルヤは殺害され、彼の良い働きはすべて無駄になりました。つまり、エルサレムに戻ったユダ人たちは、バビロン人の復讐を恐れ、エジプトに逃げました。

私たちは、この出来事から何を学ぶことができるでしょうか。たとえ私たちに善意があり、良いことを行っていたとしても、「赤ランプ」を無視してしまうと、私たちが達成したことは無駄になる可能性があります。

私の牧師は、日曜日のメッセージで何度も自分の経験をシェアしてくれました。

彼は若い頃、別の教会で副牧師として仕えていました。

しかし、働きすぎたために家族は次第に壊れていきました。妻はストレスから胃潰瘍を患い、息子は顔にチック症を発症しました。

それにもかかわらず、彼は教会のために多くの良い働きをしていたため、家族のことを長い間顧みませんでした。

このままその道を進み続けていたら、彼は家族とミニストリーの両方を失ったかもしれません。

最終的に、彼は教会の仕事を一時休み、神様を求めました。そのとき、神様が彼の心に語りかけ、彼は自分が別の道を進むべきであると悟るようになりました。

現在、神様は彼のミニストリーと家族を祝福してくださっています。彼が私たちの牧師であり、教会の皆も祝福されています。

あなたも多くの良いことを行っているかもしれませんが、あなたが気づいていない「赤ランプ」はないでしょうか。あなたの人生には?あなたの家族には?あなたの家計には?あなたのミニストリーには?

その「赤ランプ」を無視してしまうと、すべてを失うかもしれません。

ゲダルヤのようにならないように、私たちは「赤ランプ」に注意を払い、神様の導きに従い、神様が備えてくださった道を進みましょう。

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没落の理由

この箇所は少し特別です。つまり、同じ出来事が聖書の4つの箇所に記されています。それはエルサレムの没落です。

おそらく、エレミヤは52章を書いたわけではありません。それは別の人が記した付録のようです。エレミヤ書52章と列王記の記述はほとんど同じです。

ゼデキヤ王は神様の御名によって、バビロンのしもべになることを誓いました。けれども、彼がその約束を破ったため、ネブカデネザルが軍隊を送ってエルサレムをおよそ2年にわたり包囲しました。

その結果、エルサレムの食料は徐々になくなり、最終的にエルサレムは陥落しました。

ゼデキヤは逃げようとしましたが、捕らえられました。彼の息子たちは殺され、その後、彼の目がつぶされました。

そしてネブカデネザルは大祭司、次席祭司、そしてユダの長老たちを殺しました。

バビロン人は主の宮から価値のあるものをすべて取り去り、宮、宮殿、エルサレムの家々をすべて焼きました。

なぜ、神様はそのようなことを許されたのでしょうか。

歴代誌第二には、その理由が記されています。

彼「ゼデキヤ」はその神、主の目の前に悪を行ない、主のことばを告げた預言者エレミヤの前にへりくだらなかった。。。

そのうえ、祭司長全員と民も、異邦の民の、忌みきらうべきすべてのならわしをまねて、不信に不信を重ね、主がエルサレムで聖別された主の宮を汚した。

彼らの父祖の神、主は、彼らのもとに、使者たちを遣わし、早くからしきりに使いを遣わされた。それは、ご自分の民と、ご自分の御住まいをあわれまれたからである。

ところが、彼らは神の使者たちを笑いものにし、そのみことばを侮り、その預言者たちをばかにしたので、ついに、主の激しい憤りが、その民に対して積み重ねられ、もはや、いやされることがないまでになった。(歴代誌第二36:12-16)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。なぜエルサレムは滅びたのでしょうか。

一つ目の理由は、ゼデキヤ王とその民が主の目の前で悪を行ったことです。私たちが悪を行えば、私たちの人生にも悪い結果が起こります。

二つ目の理由は、彼らが神様の言葉を聞いたとき、へりくだって悔い改めなかったことです。むしろ、彼らの心はさらに堅くなり、ますます悪化しました。

三つ目の理由は、彼らが周囲の国々の宗教的な忌み嫌われるならわしを真似して、神様の宮を汚したことです。

最後の理由は、彼らが神様の言葉を侮り、神様の預言者たちを嘲笑したことです。その結果、彼らの癒しはもはや不可能なものとなりました。

時に、私たちの心もあまりにも堅くなり、悔い改めることができなくなることがあります。しかし、悔い改めなければ、癒しも得られません。

あなたはどうでしょうか。どの道を進んでいますか。あなたは悔い改めることなく罪を犯し続けていますか。もし神様が聖書や日曜日のメッセージを通してあなたを責められたとき、あなたはその言葉に心を閉ざしてしまうでしょうか。

周りの人々の宗教的な習慣や教えに従って、聖霊の宮、つまりあなたの体を汚してしまっていませんか。(第一コリント6:19)

また、この世の神々、すなわちお金やセックス、持ち物を求めていませんか。それらも聖霊の宮を汚すことがあります。

さらに、あなたは神様の言葉を侮り、神様の使者を嘲笑してはいませんか。

これらのことによってエルサレムは滅びました。そして、これらのことによってあなたも倒れるでしょう。

もしあなたが真のクリスチャンであれば、救いを失うことはありませんが、人生は崩壊してしまいます。

神様はあなたに良い計画を用意されていますが、あなたはその計画を知ることができません。充実した人生ではなく、後悔に満ちた人生を送ることになるでしょう。

私たちはイスラエルのようにならないようにしましょう。むしろ、神様に対して柔らかい心を保ちましょう。そうすることで、真の命を見つけることができます。

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神様の選択、私たちの選択

クリスチャンの学者たちは長い間、神様の主権と人間の自由意志について議論を続けています。この箇所では、その二つの要素を見ることができますので、その議論について少し触れます。ただし、そのことに関して、私には特に新しい考えがあるわけではありません。

この箇所では、エホヤキム王がバビロンの王に反抗したため、バビロンはエルサレムを攻撃し、彼を退けてバビロンに囚人として連れて行きました。

その息子エホヤキンは、王としてわずか3か月しかユダを治めませんでした。ネブカデネザルは彼も退け、バビロンに囚人として連れて行きました。ネブカデネザルはエホヤキンだけでなく、エホヤキンの母、妻たち、すべての高官、一万人もの有力者、職人や鍛冶屋たちも捕囚として捕らえ、移しました。

さらに、エホヤキンの代わりにネブカデネザルは、エホヤキンのおじゼデキヤを王としました。(歴代誌によれば、ゼデキヤはエホヤキンの「兄弟」ですが、その意味は「近親者」です。列王記第二24:17によれば、ゼデキヤはエホヤキンのおじでした。)

その時、神様はエレミヤに幻を通して二つのかごのいちじくを見せられました。一つのかごにはとても良いいちじくがあり、もう一つのかごにはとても悪いいちじくがありました。

神様が言われたのは、追放された人々を良いいちじくだと見なされるということです。その一方、エルサレムに残った人々は悪いいちじくでした。そして、神様はエルサレムに残った人々を滅ぼされますが、追放された人々を祝福し、いつの日かイスラエルに帰らせると約束されました。

しかし、どうして神様はあるグループを救われ、他のグループを滅ぼされるのでしょうか。神様は追放された人々についてこのように言われました。

わたしは、良くするために彼らに目をかけて、彼らをこの国に帰らせ、彼らを建て直し、倒れないように植えて、もう引き抜かない。また、わたしは彼らに、わたしが主であることを知る心を与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心を尽くしてわたしに立ち返るからである。(6-7)

もちろん、追放された人々の中には、預言者ダニエルやエゼキエルのように、比較的良い人々もいました。とはいえ、あまり良くない人々もいました。どうして神様は彼らを救われたのでしょうか。私には分かりません。ただ、神様のあわれみだとしか言えません。

時々、人々はこう答えます。「神様は出来事が起こる前に、全てを知っておられます。だから、神様は彼らが最終的に悔い改めると知っておられたので、彼らを救われたのでしょう。」

しかし、この箇所によれば、どうして彼らは悔い改めたのでしょうか。自分の良い性格によって悔い改めたのでしょうか。それは違います。神様はこう言われました。「私は彼らに、私が主であることを知る心を与える。」

つまり、神様が彼らの心を変えられたので、彼らは悔い改めることができたのです。では、どうして神様はゼデキヤや他のエルサレムに残った人々の心を変えられなかったのでしょうか。

私には分かりません。

では、私が確信していることは何でしょうか。

一つ目は、人々が自分の選択のゆえに裁かれるということです。彼らが神様に従うことを選んでいれば、神様は彼らを救われました。けれども、彼らはその道を選びませんでした。

二つ目は、神様が人々の心に働きかけ、神様を知る心を与えなければ、だれも救われないということです。

追放された人々には、そのようなことが起こりました。そして、私たちにとっても同じです。

ある牧師がこう言いました。「神様が私たちの壊れたアンテナを修理してくださったので、私たちは神様の声を聞けるようになったのです。」

三つ目は、神様の選択はランダムではないということです。神様はサイコロの結果によって選ばれることはありません。神様にはご自身の選択のための常に良い理由があります。

とはいえ、私たちの問題は、その理由を知らないことです。多くの場合、神様はその理由を説明されません。だからこそ、私たちは神様を信頼する以外に何もできないのです。

アブラハムはこのように言いました。

全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。(創世記18:25)

アブラハムはそう信じました。アブラハムは神様がいつも公義を行ってくださることを信じました。私たちもそう信じましょう。

しかし、私たちは自分自身に尋ねなくてはならないのは、「私は何を選択するのでしょうか」ということです。

だれも、神様の前に来て、「私が信じなかったのはあなたのせいです」と言うことはできません。

私たちは自分の選択に対して責任を取るべきです。そして、その選択に対して、私たちは神様の前に申し開きをしなくてはなりません。

神様に従うでしょうか。神様に従わないでしょうか。あなたはどうしますか。

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神様を知る

ユダ王国の最後の4人の王たちは皆悪い王でした。

エホアハズ(エレミヤ書22章では、エホアハズはシャルムと呼ばれました)、エホヤキム、エホヤキン、そしてゼデキヤは、王として大きな失敗をしました。

エレミヤ書22章では、神様はその最初の3人の王について語られました。

彼らには神様とその民に仕える心がありませんでした。むしろ、彼らは自己中心の心を持ち、自分の立場を利用して富を集めることを望んでいました。そのため、彼らは神様を無視し、その民のニーズも無視しました。

だからこそ、神様はその3人の王を裁かれました。その時、神様は彼らをヨシヤ王と比べて、こう語られました。

あなたは杉の木で競って、王になるのか。あなたの父は飲み食いしたが、公義と正義を行なったではないか。そのとき、彼は幸福だった。

彼はしいたげられた人、貧しい人の訴えをさばき、そのとき、彼は幸福だった。それが、わたしを知ることではなかったのか。――主の御告げ――

しかし、あなたの目と心とは、自分の利得だけに向けられ、罪のない者の血を流し、しいたげと暴虐を行なうだけだ。(エレミヤ書22:15-17)

彼らは神様について知っていました。神様の過去のわざを知っていました。けれども、彼らは本当に神様を知ってはいませんでした。

神様について知ることと、神様を知ることは異なることです。

神様を知るということは、あなたの行動と人生を通して神様を認めることです。また、神様を知るということは、正しいことを行うことでもあります。

しかし、これらの王たちはそのようなことをしませんでした。

ヤコブはこう言いました。

さらに、こう言う人もあるでしょう。

「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」

あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。(ヤコブ2:18-19)

あなたはどうでしょうか。ただ神様について知っているだけでしょうか。神様が存在することを信じるだけでしょうか。

それとも、あなたの行動と人生を通して、神様を知っていることを示しているでしょうか。

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たった一つの悪い選択

選択。それは神様からの贈り物です。けれども、選択することは責任を伴います。私たちは日々、数多くの選択を迫られています。

深刻ではない選択もあります。たとえば、朝食に何を食べるか、通勤にバスと電車のどちらを使うべきかといった選択です。

しかし、もっと重要な選択もあります。それは、今日神様に従うか従わないか、また、この瞬間に神様に従うかどうかという選択です。

ヨシヤ王は、基本的に神様に従う生涯を送りました。

王として、さまざまな賢明な決断を下し、ユダを導きました。

他のユダやイスラエルの王たちと比較すると、ヨシヤは本当に優れた王でした。

ところが、ある日、神様の声を無視したことで彼は命を落としました。

エジプトの王が他国と戦おうとしていたとき、ヨシヤは彼を止めようとして出向きました。その際、エジプトの王はヨシヤにこう語りました。

ユダの王よ。私とあなたと何の関係があるのですか。

きょうは、あなたを攻めに来たのではありません。私の戦う家へ行くところなのです。

神は、早く行けと命じておられます。

私とともにおられる神に逆らわずに、控えていなさい。さもなければ、神があなたを滅ぼされます。(歴代誌第二35:21)

神様の命令によって、エジプトの王はそう語りました。(歴代誌第二35:22)

けれども、ヨシヤは神様の声に従いませんでした。

どうしてだったのでしょうか。ヨシヤのプライドが原因だったのでしょうか。

たとえば、彼自身の軍隊についてのプライドや、自分の作戦に対するプライドがあったのかもしれません。(彼はその戦いのために変装していました。)

あるいは、ヨシヤはプライドから神様が外国の王に語りかけるはずがないと思っていたのかもしれません。

ヨシヤの考えを正確に知ることはできませんが、確かなのは、彼がその日に命を落としたということです。そして、ユダの没落は間もなく始まりました。

時には、正しいと分かっていても、あえて悪い選択をしてしまうことがあります。

ときに、自分の行動を正当化しようとすることもあります。あるいは、言い訳さえせずに悪を行ってしまうこともあるのです。

ヨシヤの人生から、この大切な真実を心に刻みましょう。

「たった一つの悪い選択が、私たちの人生を壊してしまう可能性がある。」

たとえば、一つの悪い選択によって、不倫をしてしまい、結婚生活を崩壊させることがあります。

一つの罪によって、自分のミニストリーを破壊してしまうこともあります。

もちろん、罪を犯したとしても、悔い改めるならば神様は赦してくださいます。

神様はヨシヤを赦されました。

ヨシヤは天国に入りました。

それでも、彼の治世と命はそこで終わってしまったのです。

だからこそ、毎日毎日、一瞬一瞬、神様に従うことを選びましょう。

さらに、主の祈りを心に留め、祈り続けましょう。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。(マタイ6:13)

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表面的な悔い改め

これはユダ王国の没落の始まりを示しています。

ヨシヤはユダの最後の良い王でした。そして、この箇所を見ると、ヨシヤの影響によってユダ人たちは悔い改めたように見えます。

ヨシヤは偽物の神々とその祭壇を取り壊し、霊媒や口寄せ、偽りの祭司たちを処刑しました。

そして、ユダ人たちが過ぎ越しの祭りを祝った際、その祝いは非常に素晴らしいものでした。預言者サムエルの時代以来、このような祭りは行われていなかったのです。(歴代誌第二35:18)

そのため、歴代誌第二には、次のように記されています。

[ヨシヤ]の生きている間、[ユダ人たち]はその父祖の神、主に従う道からはずれなかった。(歴代誌第二34:33)

しかし、列王記第二には次のように記されています

それにもかかわらず、マナセが主の怒りを引き起こしたあのいらだたしい行ないのために、主はユダに向けて燃やされた激しい怒りを静めようとはされなかった。

主は仰せられた。

「わたしがイスラエルを移したと同じように、ユダもまた、わたしの前から移す。わたしが選んだこの町エルサレムも、わたしの名を置く、と言ったこの宮も、わたしは退ける。」(列王記第二23:26-27)

問題は何だったのでしょうか。ヨシヤは心から悔い改めましたが、多くのユダ人たちはそうしませんでした。

もちろん、一部のユダ人たちは本当に悔い改めましたが、多くの人々は自分の罪を犯し続けました。

その罪を隠していたかもしれませんが、それでもなお罪を続けていたのです。そして、ヨシヤが死んだ後、その悪は再び現れてしまいました。

あなたはどうでしょうか。ヨシヤのように、心から神様に仕えているでしょうか。

それとも、表面的には神様に仕えているふりをしながら、この世の偶像、すなわちお金、セックス、力に仕えているのでしょうか。

周囲の人々を欺くことはできるかもしれませんが、神様を欺くことは決してできません。

そして、そのような振る舞いを続けるなら、ユダ人たちと同じように代価を支払うことになります。

私たちを神様から遠ざけるものを捨て去り、心から神様に従いましょう。

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神様の御言葉なしで、生きる

この箇所を読むと、私たちはユダ人の霊的な問題がどれほど深いかが分かります。なぜなら、祭司たちは神様の言葉がどこにあるか全く分からなかったからです。

どうして祭司たちが神様の言葉を失うことができたのか、私には全く理解できません。

彼らが神様の言葉を全く読んでいなかったのなら、どのようにしてユダ人に神様の言葉を教えることができたのでしょうか。

彼らはその父たちの教えを覚えていたかもしれません。けれども、ヒゼキヤ王が亡くなった後、その後の二人の王たちは偶像を礼拝したため、神様の宮は長い間放置されていました。

そのため、祭司たちが覚えていたことがどれほど正確だったのかは分かりません。

結果はどうなったのでしょうか。

おそらくイスラエルの士師の時代と同じように、ユダ人は「それぞれ自分の目に正しいと見えることを行なっていた。」(士師記21:25)

しかし、彼らの基準は神様の基準とは異なっていました。

ヨシヤ王はその事実をすぐに理解するようになりました。

祭司たちが神様の宮を修理している最中に、誰かが神様の律法の書を見つけました。大祭司はその書物をヨシヤの書記であるシャファンに渡しました。ところが、シャファンがその書物の重要性を本当に理解していたかどうかは分かりません。

シャファンはヨシヤのもとに行き、次のように報告しました。

「あなたが命じた通りに、主の宮の修理が進められています。その修理のためのお金も適切に使われています。。。

あ、それから、大祭司が一つの書物を私に渡してくれました。」(列王記第二22:9-10)

シャファンはその書物の重要性を理解していなかったかもしれませんが、ヨシヤはすぐにその意義を理解しました。

シャファンがその律法の書をヨシヤの前で読み上げると、ヨシヤは自分の衣を裂き、こう言いました。

行って、この見つかった書物のことばについて、私のため、民のため、ユダ全体のために、主のみこころを求めなさい。

私たちの先祖が、この書物のことばに聞き従わず、すべて私たちについてしるされているとおりに行なわなかったため、私たちに向かって燃え上がった主の憤りは激しいから。(列王記第二22:13)

女預言者フルダからのメッセージは決して良いものではありませんでした。

イスラエルの神、主は、こう仰せられます。

『あなたがたをわたしのもとに遣わした人に告げよ。主はこう仰せられる。

見よ。わたしは、この場所とその住民の上にわざわいをもたらす。

ユダの王が読み上げた書物のすべてのことばを成就する。

彼らはわたしを捨て、ほかの神々に香をたき、彼らのすべての手のわざで、わたしの怒りを引き起こすようにした。

わたしの憤りはこの場所に燃え上がり、消えることがない。(列王記第二22:15-17)

けれども、彼女は続けてこう言いました。

あなたが、この場所とその住民について、これは恐怖となり、のろいとなると、わたしが言ったのを聞いたとき、あなたは心を痛め、主の前にへりくだり、自分の衣を裂き、わたしの前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる。――主の御告げです――

それゆえ、見よ、わたしは、あなたを先祖たちのもとに集めよう。あなたは安らかに自分の墓に集められる。

それで、あなたは自分の目で、わたしがこの場所にもたらすすべてのわざわいを見ることがない。(列王記第二22:19-20)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。聖書を読まなければ、私たちの人生は混乱してしまいます。

また、神様の言葉を読まなければ、私たちは神様を喜ばせることができません。

時々、牧師たちが説教するとき、彼らは多くを語り、自分の意見を述べますが、ほとんど聖書に触れません。

彼らは30~40分ほど話し、ようやく「では、聖書を読みましょう」となります。

けれども、5分後には聖書を閉じ、それ以上聖書には触れないのです。

私はそのようなメッセージがあまり好きではありません。

彼らは良いことを語るかもしれません。私たちは良い助言を受けることがあるかもしれません。けれども、それは神様の言葉ではなく、単に牧師たちの意見に過ぎないのです。

また、ある人々は教会で非常に良い聖書的なメッセージを聞くかもしれません。ところが、月曜日から土曜日まで全く聖書を読まなければ、彼らは霊的に飢えてしまいます。

聖書の上に埃が積もり、自分の知恵に頼んで生きるようになり、その結果、彼らの人生は混乱してしまうのです。

あなたはどうですか。あなたの教会では、聖書が失われていないでしょうか。あなたの家では、聖書が忘れ去られていないでしょうか。

もしそのような状態であるならば、あなたの宮、すなわちあなたの人生は混乱してしまうでしょう。

なぜなら、神様の知恵によって生きるのではなく、自分の知恵に頼って生きることになるからです。

ヨシヤのように、私たちの心をへりくだらせ、神様の言葉を受け入れる者となりましょう。

そして、毎日、神様の御言葉に従って生きていきましょう。

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ごみを捨てる

私は古いものをあまり捨てません。必要のない物でも、私はずっと持ち続けてしまいます。

多くの人々は、私のようにため込む傾向があるかもしれません。けれども、もしあなたがクリスチャンであるなら、捨てなければならないものがあります。それは、罪と罪へと導くものです。

そのため、アモン王の息子であるヨシヤがユダの王になったとき、彼は霊的なごみを捨て始めました。ただし、それには少し時間がかかりました。

ヨシヤは8歳の時に王となりましたが、16歳になると神様を求め始めました。(歴代誌第二34:3)

では、なぜヨシヤは神様を求め始めたのでしょうか。

それは彼の父アモンの影響ではなかったはずです。アモンは本当に悪い王でした。

おそらく、彼の祖父マナセが自分の失敗についてヨシヤに教えたのかもしれません。

とにかく、ヨシヤは偶像やその祭壇を捨てました。実際、その偶像を粉々に砕いたのです。それだけでなく、その偽りの神々の祭司たちを処刑しました。

これはまさに「ごみ」を捨てることです。

私たちも同じようにすべきです。

それはポルノの雑誌やビデオといった具体的なものかもしれません。

または、心の中にある苦々しい思いや妬み、怒り、貪欲といったものかもしれません。それらもすべて捨てなければなりません。なぜなら、神様の民にはそのようなものはふさわしくないからです。

もし私たちが本当に神様を求めているなら、ヨシヤのようにそのようなものを捨てるべきです。

あなたは何を捨てるべきでしょうか。

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私たちの罪過を大きくする

少しだけ列王記と歴代誌に戻りましょう。

アモン王の話は短いものの、全く幸せな話ではありません。

その父であるマナセ王と同様に、アモンは偶像礼拝を行い、さまざまな酷い罪を犯しました。

アモンが父の試練を見たにもかかわらず、その同じ道を選んだのは信じがたいことです。

とはいえ、マナセとアモンには大きな違いがありました。

彼はその父マナセがへりくだったようには、主の前にへりくだらず、かえって、彼アモンは罪過を大きくした。(歴代誌第二33:23)

結果として、アモンの民は彼を裏切り、殺害しました。

おそらく預言者たちがマナセを警告したのと同様に、アモンも警告を受けたのだと思われます。

けれども、アモンは預言者たちの言葉を退けました。ところが、「彼の罪過を大きくしました」と記されており、それはどういう意味なのでしょうか。

おそらく、彼は全く悔い改めなかったのでしょう。

私たちが罪を告白し、悔い改めるならば、神様はその罪を赦してくださり、私たちの心を清めてくださいます。

しかし、私たちが悔い改めない場合、私たちの罪はゴミのように重なっていきます。

ゴミ捨て場に行ったことがあるでしょうか。それは本当に酷い場所です。

それだけではなく、おそらくアモンの罪は時間とともにさらに酷くなっていたのでしょう。

もし私たちが小さな罪を悔い改めるなら、私たちの良心の敏感さを保つことがでけれども、

けれども、神様の声を無視すると、私たちの心は堅くなってしまいます。

その結果、神様の声が聞こえなくなり、罪を犯しても罪悪感を抱かなくなります。そのため、私たちの罪はだんだんと大きくなります。

最後に、彼は自分が罪を犯していることを十分承知していながら、その罪を続けたため、その意味で彼の罪過はさらに大きくなったのです。

時々、私たちは思わず罪を犯してしまうことがあります。それでも、私たちの行動は罪であり、悔い改める必要があります。

けれども、わざと罪を犯すと、私たちの罪過はもっと大きくなります。

イエス様はこう言われました。

主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。

しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。

すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。(ルカ12:47-48)

あなたはどうでしょうか。罪を犯したとき、すぐに悔い改めているでしょうか。

それとも、罪が積み重なってしまっているでしょうか。

アモンのように罪過を大きくしないでください。そうでなければ、アモンのように代価を払うことになるでしょう。

むしろ、マナセのように悔い改めましょう。そうすることで、神の憐れみを知ることができるのです。

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決して遅すぎない

「私にはもう遅すぎるでしょう。」

ジョージ・ルーカスは『スター・ウォーズ』がダース・ベイダーの贖いについての物語だと語っています。つまり、ベイダーは悪によって腐敗しましたが、息子の愛によって救われたのです。

『ジェダイの帰還』で、ルーク・スカイウォーカーは父ベイダーにこう願いました。

「あなたの憎しみを捨ててください。皇帝を拒絶して、私と一緒に逃げましょう。」

けれども、ベイダーは悲しく答えました。「私にはもう遅すぎるのです。私は主人に従わなければなりません。」

その後、皇帝はルークを殺そうとしました。ルークはベイダーの助けをもう一度求めました。

ベイダーはその光景を見て心を悩ませましたが、最終的に皇帝を攻撃して倒したのです。こうして、彼はルークだけでなく、自分自身も救ったのです。

この箇所の話も似たような内容です。

マナセはヒゼキヤ王の息子でした。ヒゼキヤは本当に良い王でしたが、マナセは別の道を歩みました。

彼は偶像を礼拝し始め、偶像とその祭壇を主の宮に築きました。さらに霊媒や口寄せに相談し、占いも行いました。

それだけではなく、彼は自分の息子を火の中に通しました。列王記によると、

罪のない者の血まで多量に流し、それがエルサレムの隅々に満ちるほどであった。(列王記第二21:16)

何度も預言者たちはマナセに警告しましたが、マナセは全く耳を貸しませんでした。むしろ、彼はその預言者たちを殺してしまいました。

ユダヤ人の伝承によれば、マナセが預言者イザヤを殺害したとされています。へブル人への手紙11章37節にある「[他の人たちは]のこぎりで引かれ[た]」という表現は、イザヤを指している可能性があります。

そのため、神様はこう言われました。

見よ。わたしはエルサレムとユダにわざわいをもたらす。だれでもそれを聞く者は、二つの耳が鳴るであろう。

わたしは、サマリヤに使った測りなわと、アハブの家に使ったおもりとをエルサレムの上に伸ばし、人が皿をぬぐい、それをぬぐって伏せるように、わたしはエルサレムをぬぐい去ろう。

わたしは、わたしのものである民の残りの者を捨て去り、彼らを敵の手に渡す。

彼らはそのすべての敵のえじきとなり、奪い取られる。

それは、彼らの先祖がエジプトを出た日から今日まで、わたしの目の前に悪を行ない、わたしの怒りを引き起こしたからである。(列王記第二21:12-15)

そして、アッシリヤ人たちはマナセを鉤で捕らえ、青銅の足かせにつないでバビロンへ引いて行きました。

列王記ではそれ以上の記録はありませんが、歴代誌の記述はもう少し続きます。

バビロンで、マナセはへりくだり、悔い改め、神様を求め始めました。そこで、神様はマナセを赦してくださいました。

そして、マナセはエルサレムに戻り、再びユダの王として立つことができました。

彼は偶像とその祭壇を取り除き、主の祭壇をもう一度築き、その上で和解のいけにえと感謝のいけにえをささげました。

マナセは数々の悪事を行っていました。ユダの王の中でも、彼は本当に酷い王でした。それでもマナセが悔い改めるのは遅すぎることはありませんでした。

神様はマナセのように人々を裁かれますが、多くの場合、神様は長く待った後で裁かれます。神様はマナセを何度も警告し、ついに裁かれたのです。

しかし、私たちが悔い改めると、神様はすぐに赦してくださいます。

悔い改めるのが遅すぎると思うでしょうか。失敗しすぎたから、神様がもうあなたを赦せないと思うでしょうか。

遅すぎることは決してありません。

悔い改めると、神様はあなたのために待つだけでなく、あなたのもとに走り、喜んで歓迎してくださいます。

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神様の恵みを忘れる

この箇所を読んで私が驚いたのは、神様がいろいろな不思議な方法でヒゼキヤを助けられたにもかかわらず、ヒゼキヤがその恵みを忘れてしまったことです。

歴代誌第二32:35には、このことについてこう記されています。

ところが、ヒゼキヤは、自分に与えられた恵みにしたがって報いようとせず、かえってその心を高ぶらせた。そこで、彼の上に、また、ユダとエルサレムの上に御怒りが下った。

ヒゼキヤはどのように高ぶったのでしょうか。神様がヒゼキヤの病気を癒された後、バビロンから使者がやって来ました。彼らは、神様がヒゼキヤのために何をしてくださったのかを聞いたからです。

しかし、ヒゼキヤは神様を誉めることなく、自分の富、つまり金や銀、武器、そして宝物のすべてを見せびらかしました。

そのため、イザヤはヒゼキヤにこう言いました。

万軍の主のことばを聞きなさい。見よ。あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで、たくわえてきた物がすべて、バビロンへ運び去られる日が来ている。何一つ残されまい、と主は仰せられます。

また、あなたの生む、あなた自身の息子たちのうち、捕らえられてバビロンの王の宮殿で宦官となる者があろう。(イザヤ39:5-7)

多分、その日バビロン人はヒゼキヤの富を目にしたことで、後にその富を得るためにユダを攻めようと考え始めたのでしょう。

それだけではなく、ヒゼキヤはバビロン人に神様の恵みについて伝える絶好のチャンスを逃してしまいました。もし彼が神様の恵みを語っていたなら、彼らは悔い改めて神様に従い始めた可能性もあったのです。

私たちも、神様の恵みを忘れると同じようなことが起こるかもしれません。自分の持ち物や、自分が成し遂げたことを誇ってしまい、それらの祝福がどこから来たのかを見失ってしまうのです。

そして、他の人々が私たちの祝福を見るとき、私たちは時に神様が与えてくださった恵みを忘れてしまい、自分自身がどのようにそれらを得たのかを誇ることがあります。

その結果、彼らは私たちが仕える神様を誉めるのではなく、私たち自身を誉めてしまうのです。

あなたはどうでしょうか。他の人々があなたを見るとき、その人たちはあなたの成功に感動し、あなたを誉めるのでしょうか。

それとも、彼らはあなたを通して神様を知り、神様を求め始めるのでしょうか。

どうか、神様の恵みを忘れないでください。むしろ、謙遜な心を持ち、いつも神様に感謝を捧げ、神様からいただいた恵みを周りの人々と分かち合いましょう。

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私たちの問題を神様に委ねる

ヒゼキヤはついに悔い改め、神様に向き直りました。それでも、彼の問題はまだ解決していませんでした。アッシリヤは依然としてエルサレムを占領しようと狙っていました。

それでも、ヒゼキヤは再び神様に信頼を置き、神様の約束(イザヤ書38:6)を心に刻んでいたため、希望を持つことができました。そこで、ヒゼキヤは民に向かってこう言いました。

強くあれ。雄々しくあれ。アッシリヤの王に、彼とともにいるすべての大軍に、恐れをなしてはならない。おびえてはならない。

彼とともにいる者よりも大いなる方が私たちとともにおられるからである。

彼とともにいる者は肉の腕であり、私たちとともにおられる方は、私たちの神、主、私たちを助け、私たちの戦いを戦ってくださる方である。(歴代誌第二32:7-8)

ユダ人たちはその言葉を聞いて励まされました。

けれども、アッシリヤの王は自分の家来たちをエルサレムに送りました。

そして、その家来たちは、サタンのように、ユダ人を恐れさせるために嘘と真実を混ぜて語りました。

彼らはこう言いました。

「エジプトはあなたたちを助けることができない。他の国々は私たちの前に立つことができなかった。その国々の神々は彼らを救うことができなかった。」

それらの言葉は、すべて事実でした。しかし、彼らは続けてこうも言いました。

「あなたたちの神も、あなたたちを助けることができない。たとえできたとしても、あなたたちの神は私たちの味方です。実は、あなたたちを滅ぼすために私たちを遣わしたのです。」

それは本当に興味深い言葉です。もちろん、一部は嘘でした。それは、神様がユダを救うことができないということです。

とはいえ、アッシリヤ人たちは神様の預言者たちの言葉を耳にしたことがあったのかもしれません。つまり、預言者たちはアッシリヤがユダを攻撃することを警告していました。

だから、多分アッシリヤ人たちはこう言いたかったのです。

「ほら、あなたたちの預言者たちは、私たちが来ることを警告したでしょう。そして今、私たちは来たのです。あなたたちを倒すために。」

けれども、アッシリヤ人たちは二つのことを言いませんでした。

一つ目は、神様がアッシリヤの没落をも預言していたということです。

二つ目は、神様が警告された理由は、ユダ人たちが悔い改めて救われるためだったということです。

とにかく、ヒゼキヤはその言葉を聞くと、すぐに主の宮に行き祈りました。そして、イザヤはもう一度ヒゼキヤを励ましました。

その後すぐに、クシュの王とその軍隊がアッシリヤ人たちを攻撃したため、アッシリヤ人たちは退却せざるを得ませんでした。

しかし、去る前に、彼らはヒゼキヤに手紙を送り、こう言いました。「また戻ってきます。」

さらに、その家来たちはもう一度アッシリヤが成し遂げたことを自慢しました。

では、ヒゼキヤはどうしたのでしょうか。彼はその手紙を主の前に広げ、祈りました。

ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。

主よ。御耳を傾けて聞いてください。主よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセナケリブのことばをみな聞いてください。

主よ。アッシリヤの王たちが、すべての国々と、その国土とを廃墟としたのは事実です。彼らはその神々を火に投げ込みました。それらは神ではなく、人の手の細工、木や石にすぎなかったので、滅ぼすことができたのです。

私たちの神、主よ。今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、あなただけが主であることを知りましょう。(イザヤ書37:16-20)

その祈りから、私たちはいくつかの大切なことを学ぶことができると思います。

1.困難なときに、主がどのような方であるかを思い出しましょう。

神様は天におられる神であり、この世を治めるお方です。また、創造者として私たちを助ける力を持っておられます。

2.私たちの問題を神様に委ねましょう。

自分の必要や疑いについて、正直に神様に語りましょう。

3.へりくだって、神様の助けを求めて祈りましょう。

神様の力に頼るとき、私たちは真の希望を見つけることができます。

ヒゼキヤはこのように行動しました。その結果、神様は彼の祈りを聞き入れ、彼を救われました。神様はアッシリヤの軍隊を打ち滅ぼし、その王も最終的に自分の息子たちによって命を落としました。

あなたが直面している問題は何ですか。 神様があなたの問題よりも偉大なお方であることを思い出してください。

あなたの問題を神様に委ねましょう。そして、救いを求めて祈り、神様に信頼し、その御言葉に従いましょう。

そうすれば、ヒゼキヤのように神様からの救いを経験することができます。

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低くされた

以前も言ったように、この出来事が起こった正確なタイミングは分かっていません。残念ながら、聖書は特定の箇所で具体的な説明をしていないため、私は推測するしかありません。

列王記第二17章から18章では、アッシリヤの王セナケリブが北イスラエル王国を攻撃して滅ぼしたことが記されています。

そして彼はユダを攻撃しました。その理由は、ユダがアッシリヤへの貢物の支払いをやめたからです。しかし、セナケリブ王が攻撃しようとした際、ヒゼキヤは自分のお金と主の宮から金銀を取り除いてセナケリブに支払いました。

ところが、セナケリブ王が再び攻撃してきた際、ヒゼキヤは別の準備を進めていました。ヒゼキヤとユダの民は武器を集め、都市の壁を修理し、さらにアッシリヤ人に水が流れないようにするため、エルサレムの外にある泉の水を塞ぎました。

これは私自身の考えですが、そのような状況でも、多分ヒゼキヤはまだ自分自身に頼り続けていたのだと思います。エジプトとの同盟が失敗したにもかかわらず、依然として神様に向かうことはありませんでした。

そこで、神様はヒゼキヤを病気で打たれました。ずっとイザヤの警告を無視してきたヒゼキヤでしたが、ついに主を訪ねるためにイザヤを呼びました。

そして、イザヤが来てこう言ったのです。

主はこう仰せられます。「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。」(列王記20:1)

ヒゼキヤはその状況をどう感じたでしょうか。エルサレムは包囲され、彼自身は病に倒れて死にかけていました。そして、その時点ではまだ息子がいませんでした。(息子のマナセは3年後に誕生しました。)

彼は神様を責めたかもしれません。「どうしてこんなことが起こるのでしょうか。どうして私を打たれるのでしょうか。」

その怒りは自己憐憫へと変わった可能性もあります。

けれども、最終的に彼は神様の前にへりくだるようになりました。

ヒゼキヤは自分のプライドと罪を悔い改め、神様に祈いました。彼の祈りは、神様がヒゼキヤの過去の良い行い、つまり心から主を求めたことを思い出してくださるよう願うものでした。

そして彼は主の前で涙を流しました。

イザヤはその場を立ち去り始めていましたが、神様が彼を止め、ヒゼキヤへの特別なメッセージを与えてくださいました。

わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたの寿命にもう十五年を加えよう。

わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、この町を守る。(イザヤ書38:5-6)

そして、主はしるしを与えてくださいました。それは日時計に下った時計の影を十度後に戻すというものでした。

神様がどのようにそのことをされたのかは分かりません。神様がこの世界を逆方向に回されたのか、光の錯覚を起こされたのかは分かりません。いずれにせよ、神様は約束されたとおりに、ヒゼキヤを癒してくださいました。

私たちはこの出来事から何を学ぶことができるでしょうか。

時に神様は、私たちが神様に目を向けるようにするために私たちを低くされます。もし私たちが神様の言葉に耳を傾けないとしても、神様は私たちを愛しておられるので、私たちを無視することはありません。

神様は私たちの悔い改めのために働いてくださるのです。

ヒゼキヤは次のように書き残しました。

何を私は語れましょう。主が私に語り、主みずから行なわれたのに。私は私のすべての年月、私のたましいの苦しみのために、静かに歩みます。。。

ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。あなたは、滅びの穴から、私のたましいを引き戻されました。あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。(イザヤ書38:15,17)

あなたは自分の罪によって苦しんでいるでしょうか。神様はあなたを滅ぼすことを望んでおられません。

神様の望みは、あなたがへりくだって生きることです。神様の望みは、あなたが神様に信頼し、あなたの人生が豊かになることです。また、あなたが他の人々にも神様に信頼することを教えることです。

ヒゼキヤは次のように歌いました。

父は子らにあなたのまことについて知らせます。主は、私を救ってくださる。私たちの生きている日々の間、主の宮で琴をかなでよう。(イザヤ書38:19-20)

私たちは自分自身に信頼するのではなく、毎日へりくだって神様に信頼することを選びましょう。そして、その生き方を他の人々に教え、神様への信頼を広めましょう。

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私たちの力と救いがどこから来るか

歴史の出来事と預言を結びつけるのは確かに少し難しいですが、この二つの箇所のタイミングは一致している可能性があります。

アッシリヤの王セナケリブとその軍隊は再びユダに侵攻し、攻撃しようとしました。理由は、ヒゼキヤ王がアッシリヤへの貢物を納めるのをやめたからです。

セナケリブはユダの城壁のある町々を攻撃し、侵略しました。そのため、ヒゼキヤは恐れ、謝罪して再びセナケリブに貢物を納めました。

けれども、その貢物を納めるために、ヒゼキヤは主の宮の金と銀を取り除かなければなりませんでした。

なぜそうなったのでしょうか。イザヤ書30-31章では、イザヤがヒゼキヤ王に対して「エジプトと同盟を結んではならない」と警告しました。

それにもかかわらず、ヒゼキヤはその警告を無視して、エジプトとの同盟を結びました。それだけでなく、ヒゼキヤとユダの民はイザヤにこう言いました。

「そのようなことを言わないでください。私たちは聞きたくありません。もし何か言いたいなら、私たちが聞きたいことだけを言ってください。例えば、エジプトが私たちを助けてくれるということなど。」(イザヤ書30:10-11)

その結果、神様は「あなたの背きのゆえに裁きが来る」と警告しました。

けれども、その後、神様はこう言われました。

「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたは、これを望まなかった。。。

それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。

幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。(イザヤ30:15、18)

つまり、神様はこう言われました。

「もう諦めなさい。自分自身を救おうとするのを止めなさい。自分の力や知恵に頼るのではなく、悔い改めて、落ち着いて私に信頼しなさい。」

さらに、神様は彼らにこう言われました。

「あなたたちにはエジプトの助けは必要ありません。私は神です。エジプトは神ではありません。私はアッシリヤを打倒することのできる神なのです。」

けれども、以前言ったように、ヒゼキヤは神様の言葉に従いませんでした。それどころか、エジプトと同盟を結び、彼らに多額のお金を送ったのです。

そして、神様の言葉どおり、アッシリヤの手によってエジプトは倒されました。

しかし、その後、イスラエルはすでに多くの金と銀をエジプトに支払っていたため、アッシリヤへの貢物を納めるために、主の宮からその金と銀を取り除かなくてはなりませんでした。

それでもアッシリヤはユダを攻撃しました。そのとき、ついにヒゼキヤは悔い改め、神様に立ち返りました。そして、神様が約束されたとおりにエルサレムを救われたのです。

私たちはこの出来事から何を学ぶことができるでしょうか。

私たちは皆、試練に直面します。そして、自分自身に頼ろうとするのは簡単なことです。

しかし、神様は私たちを助けたいと望んでおられます。神様は私たちの人生に働き、私たちを祝福したいと望んでおられるのです。ですから、神様がヒゼキヤとユダの民に語られたように、私たちにもこう言われます。

ああ、シオンの民、エルサレムに住む者。もうあなたは泣くことはない。あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み、それを聞かれるとすぐ、あなたに答えてくださる。

たとい主があなたがたに、乏しいパンとわずかな水とを賜わっても、あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。

あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。(イザヤ書30:19-21)

神様は知恵の言葉と慰めの言葉を私たちにささやいておられます。

けれども、私たちはその声に耳を傾けているでしょうか。

私たちは本当に神様に頼っているでしょうか。

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神様に立ち返る

少し久しぶりに歴史書に戻りましょう。

この箇所では、私たちはユダの素晴らしい王の一人に出会います。彼の名前はヒゼキヤです。

列王記の著者はヒゼキヤについて次のように書いています。

彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼のあとにも彼の先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。(列王記第二18:18:1-5)

実は、ヒゼキヤの父アハズは酷い模範でした。

しかし、多分ヒゼキヤはイスラエル王国の崩壊を目の当たりにし、預言者ミカやイザヤの警告を聞いたことで、すぐに悔い改め、ユダを再び神様に向ける決意をしたのだと思います。

ヒゼキヤの人生を見ると、私たちがどのように神様に立ち返るべきかが分かると思います。

まず、ヒゼキヤはユダの民が礼拝していた偶像を取り除きました。

その中にはモーセが作った青銅の蛇も含まれていました。この青銅の蛇は、イスラエル人が荒野をさまよった際に、神様が蛇の毒からの癒しの手段として用いられました。

ところが、ユダの民はこの青銅の蛇を偶像として礼拝し始めたため、ヒゼキヤはこの蛇を打ち砕いたのです。

同じように、私たちが神様に戻りたいと願うなら、私たちも自分の偶像を捨てなければなりません。

もちろん、仏教の偶像や仏壇を捨てるべきですが、それだけでなく他の「神々」も捨てる必要があります。例えば、「お金の神」や「持ち物の神」です。

もし何かを神様よりも大切にしているなら、それはあなたの偶像です。

もちろん、文字通りにお金や持ち物を捨てるわけではありません。けれども、すべてに優先して神様を第一にし、大切にしなくてはなりません。

青銅の蛇のように、かつてはあなたの偶像が良いものだったかもしれません。例えば、あなたの趣味です。

ところが、その趣味によって神様との関係が疎かになり、神様のための働きを怠っているのであれば、その趣味をしばらく置いておく必要があるでしょう。

偶像を取り除いた後、ヒゼキヤは神様の宮を掃除し、清めました。

私たちクリスチャンはキリストの宮です。キリストが私たちの内に住んでおられるのですから、その宮を清める必要があります。つまり、偶像を捨てる必要があります。

それと共に、私たちは神様に罪を告白し、悔い改める必要があります。

ヒゼキヤの時代では、罪のためにいけにえを捧げなければなりませんでした。(歴代誌第二29:23-24)

しかし、私たちにとってイエス様こそが最後のいけにえです。イエス様は十字架で死んで、私たちの罰を代わりに受けてくださいました。

そして、イエス様の血が私たちをすべての罪から清めてくださいます。(第一ヨハネ1:7)

ただし、清い心を保つためには、私たちは常に罪を告白し、悔い改める必要があります。

ヨハネは次のように書いています。

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

最後に、ヒゼキヤとユダの民は、もう一度自分たち自身を神様に捧げました。彼らは神様にこう言ったのです。

「私たちはあなたのものです。私たちの人生をもう一度あなたに捧げます。」

私たちも同じようにするべきです。

罪に背を向けるだけでは不十分です。神様に向き直らなくてはなりません。

偶像を捨てるだけでは十分ではありません。心を尽くして神様に従わなくてはならないのです。

あなたはクリスチャンであっても、神様から離れてしまったかもしれません。

かつては神様と共に歩んでいたとしても、今は神様から遠ざかっているかもしれません。

それでも、今も神様はあなたを愛しておられ、あなたのために待っておられるのです。

だから、もし神様に戻りたいと願うなら、次のように祈ってください。

イエス様、私はあなたから離れてしまい、自分の道を歩んでいました。どうか赦してください。

あなたの言葉にはこうあります。「もし私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第一ヨハネ1:9)

今、私はあなたに立ち返ります。私の偶像を捨てる助けを与えてください。そして、私の心の王座にもう一度座ってください。

あなたの恵みと憐れみに感謝します。私を決して諦めないことに感謝します。

あなたのみ名によって祈ります。アーメン。

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ふたりの主人に仕える?

この箇所は北イスラエル王国の物語の跋文です。

イスラエル人がアッシリヤに追放された後、アッシリヤの王は征服した他の国々の民をイスラエル人の代わりにサマリヤの町々に住まわせました。(サマリヤは北イスラエル王国の首都でした。)

ところが、間もなく、その人々はライオンによって殺されました。そして、アッシリヤの王はこの報告を聞きました。

あなたがサマリヤの町々に移した諸国の民は、この国の神に関するならわしを知りません。

それで、神が彼らのうちに獅子を送りました。今、獅子が彼らを殺しています。彼らがこの国の神に関するならわしを知らないからです。(列王記第二17:26)

この箇所を初めて読んだとき、「本当に主がそのライオンを送られたのだろうか」と思いました。

列王記の著者はそう考えていたのでしょうが、この話を読むと、その考えを受け入れるのは難しいと感じました。

なぜなら、アッシリヤの王が捕らえ移したイスラエルの祭司の一人をイスラエルに送り返し、その祭司がその人々にどのように主を礼拝するかを教えたからです。

そして、それ以降、ライオンが人々を襲うことはなくなったようです。

もちろん、神様は時々人々を裁かれます。また、旧約聖書の時代には、神様が動物を通して人々を裁かれた例も時々ありました。

とはいえ、問題は、サマリヤに送り返された祭司たちが堕落した祭司だったという点です。彼らは本当の祭司ではありませんでした。

ヤロブアム王一世が王位に就いたとき、本物の祭司たちは皆ユダ王国に移ったため、ヤロブアムは自分の意にかなう祭司を任命したのです。

そして、彼らは真の神様の礼拝を教えませんでした。むしろ、金の子牛がイスラエルの神であると教えたのです。

だから、もし神様がそのライオンを送られたのだとしたら、なぜ堕落した礼拝のためにライオンを送るのを止められたのでしょうか。

けれども、さらに考えてみると、一つの可能性として考えられるのは、神様が彼らを罰したものの、彼らの無知によって神様はご自身の怒りを収められたのではないかということです。

イエス様は次のように言われました。

主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。

しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。

すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。(ルカ12:47-48)

とにかく、その人々は神様について教えられたにもかかわらず、彼らは自分の神々を礼拝し続けました。

だから、私たちはこの矛盾した状況について読むことになります。

彼らは主を礼拝し[た]。(列王記第二17:32)

そして、

彼らは主を恐れているのでもなく、主が、その名をイスラエルと名づけたヤコブの子らに命じたおきてや、定めや、律法や、命令のとおりに行なっているのでもない。(列王記第二17:34)

どのようにしてこの二つの文が同時に正しいと言えるのでしょうか?

この箇所によって、神様はこう言っておられるのだと思います。「二人の主人を礼拝することは、真の礼拝ではありません。」

十戒の最初の命令で、神様は「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」(出エジプト記20:3)と仰いました。

したがって、列王記の著者は、この命令によってその人々を非難したのです。(列王記第二17:34-40)

では、あなた自身はどうでしょうか。主だけに仕えているでしょうか。それとも、二人の主人に仕えようとしているでしょうか。

ある人々にとって、お金が彼らの主人となっています。そのために、イエス様はパリサイ人を非難されました。

しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。

あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。(ルカ16:13)

ある人にとっては、自分の持ち物が彼らの主人となっています。また、ある人にとっては、趣味が彼らの主人となっています。

あなたにとって一番大事なもの――それこそが、あなたの神です。

もし神様よりも他のものを優先して仕えるなら、神様はあなたの礼拝を受け入れられません。

そのような礼拝はサマリヤ人の礼拝と同じであり、神様の目には無意味なものになってしまいます。

あなたの主人は誰でしょうか。

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でも私はそんなに悪くないのに

この箇所は北イスラエル王国の終焉について記しています。イスラエルにはずっと悪い王が治めており、ホセアはイスラエルの最後の王でした。(このホセアは預言者ホセアとは異なる人物です)。

私にとって興味深いのは、ホセアが最も悪い王ではなかったことです。

もし私が神様なら、アハブ王やヤロブアムの治世のときにすでにイスラエルを追放していたことでしょう。

もちろん、ホセアも悪い王でしたが、2節には次のように書かれています。

彼は主の目の前に悪を行なったが、彼以前のイスラエルの王たちのようではなかった。(列王記第二17:2)

つまり、ホセアは悪い王でしたが、以前のイスラエルの王たちよりもましでした。しかし、神様の裁きはホセアの治世の時に下りました。

時々、私たちは周りの人々を見て、こう言います。

「私はそんなに悪くない。誰も殺していないし、人々に親切にしようとしています。もちろん時々悪いことをするかもしれないけれど、この人やあの人よりも、私は良い人です。」

そして、自分が周りの人々よりも良い人だと思うがゆえに、神様が自分を受け入れてくださると思います。

けれども、それは誤った考えです。

イスラエル人は時々公然と罪を犯しましたが、時には人々の目に見えないところで悪を行いました。

9節には次のように書かれています。

イスラエルの人々は、彼らの神、主に対して、正しくないことをひそかに行ない[ました。]

しかし、誰の前で罪を犯したとしても、またはひそかに罪を犯したとしても、神様はすべてをご覧になります。

14-17節では、イスラエルの最も深刻な問題を見ることができます。それは、神様の言葉を聞かず、頑なになり、神様に信頼することを拒絶したことです。

その結果、空しい偶像を礼拝し、彼ら自身も空しい存在になってしまったのです。

彼らが周囲の国々の民を真似るにつれて、罪の程度はさらに深刻になりました。

私たちはイスラエル人のようになってしまう可能性があります。

もし私たちが神様の言葉に従うことを拒み、神様に信頼せず、周りの人々の罪を真似して、お金やセックスの「神々」に従うなら、私たちも空しい存在になってしまうのです。

そして、最終的には裁きが訪れます。他の人々よりも罪が少ないとしても、それは関係ありません。

もちろん彼らも裁かれますが、あなたも裁かれるのです。

だからこそ、自分自身を欺いてはいけません。他の人々のほうが悪いかもしれませんが、神様の目の前では私たちも罪人なのです。

だからこそ、悔い改めましょう。神様を信頼し、神様の声を聞いて従いましょう。

そうすれば、神様の祝福、臨在、そして恵みを知ることができるのです。

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私たちが立てられる岩、つまずきの岩

妥協――私たちの信仰を妥協するのは、時として本当に簡単なことです。

私たちが神様のために決断を迫られるとき、私たちはどうするでしょうか。神様に従うでしょうか。それとも、人々からのプレッシャーに屈するでしょうか。

二人の預言者、イザヤとオデデは神様に従いました。けれども、ある祭司ウリヤはそのプレッシャーに屈してしまいました。

ユダの罪のゆえに、神様はアハズの軍隊をイスラエル軍の手に渡されました。けれども、イスラエル人たちはユダ人の物だけを奪うことにとどまらず、ユダ人をイスラエルまで連れて行き、奴隷にしようとしていました。

しかし、サマリヤに入る前に、オデデはイスラエル人たちの前に立ち、こう言いました。

見よ。あなたがたの父祖の神、主がユダに対して憤られたため、主はあなたがたの手に彼らを渡された。ところが、あなたがたは天に達するほどの激しい怒りをもって彼らを殺した。

今、あなたがたはユダとエルサレムの人々を従えて自分たちの男女の奴隷にしようとしている。

しかし、実はあなたがた自身にも、あなたがたの神、主に対して罪過があるのではないか。

今、私に聞きなさい。あなたがたが自分の同胞をとりこにしたそのとりこを帰しなさい。主の燃える怒りがあなたがたに臨むからです。(歴代誌第二28:9-11)

オデデにとって、そのメッセージを伝えることは非常に困難だったと思います。ユダ人たちが多くの悪事を行った一方で、イスラエル人たちはそれ以上に酷い人々でした。

それでも、この一人の預言者は軍隊の前に立ち、「あなたたちは間違っている」と言わなくてはなりませんでした。

もし私がオデデだったなら、こう考えたかもしれません。

「彼らは私の言葉に決して従わないだろう。なぜこんなメッセージを伝えなくてはならないのか。きっと私は殺されるだろう。」

それでも、オデデは彼らの前に立ち、神様のメッセージを伝えました。そして、彼らはオデデの言葉に従い、ユダ人たちに衣服と薬と食べ物を与え、彼らを解放しました。

一方で、ウリヤは全く勇気を持たず、神様の言葉をアハズ王に伝えることができませんでした。

それは驚くべきことです。なぜなら、かつて神様は「ウリヤはわたしの確かな証人」と言われたからです。(イザヤ8:2)

けれども、列王記第二によれば、アハズはウリヤにアッシリヤの神々のために祭壇を造り、全焼のいけにえを捧げるよう圧力をかけました。

そして、モーセの兄アロンがしたように(出エジプト記32章)、ウリヤはそのプレッシャーに屈しました。アハズのためにその祭壇を造り、その偶像を礼拝し始めたのです。

神様はイザヤを通して、そのような妥協について警告されました。(イザヤ書8:11-21)

例えば、神様はイザヤにこう言われました

この民が謀反と呼ぶことをみな、謀反と呼ぶな。(イザヤ書8:12)

ヘブル語で「謀反」にはもう一つの意味があります。それは「同盟」です。

したがって、この箇所を「この民が同盟と呼ぶことをみな、同盟と呼ぶな」と翻訳することができます。

この翻訳が正しいとするならば、多くのユダ人がアッシリヤとの同盟を望んでいたことを意味するでしょう。なぜなら、イスラエルとアラムは同盟を結び、ユダを攻撃していたからです。

しかし、神様はこう言われました。

「妥協してはいけません。不敬虔な国と同盟を結んではいけません。このイスラエルとアラムの同盟を恐れてはなりません。周りの人々を恐れるのではなく、むしろ私を恐れなさい。そうすれば、私はあなたの聖所となるでしょう。」(イザヤ書8:12-14)

また、神様はこう言われました。

「霊媒に尋ねてはなりません。あなたは私に尋ねなければなりません。どうして光を持たない人々に助言を求めるのでしょうか。そのようなことをすると、あなたは苦悩と暗闇だけを見つけるでしょう。」(19-22)

神様はイザヤに次のように言われました。

[主は]イスラエルの二つの家には妨げの石とつまずきの岩、エルサレムの住民にはわなとなり、落とし穴となる。多くの者がそれにつまずき、倒れて砕かれ、わなにかけられて捕らえられる。(14-15)

新約聖書の著者がその箇所を引用すると、彼らはその「岩」をイエス様と結びつけました。つまり、イエス様はイスラエルの民にとって「つまずきの石」となるという意味です。

ペテロは次のように記しています。

彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。(第一ペテロ2:8)

その「御言葉」とは、「悔い改めてください。あなたの罪が赦されるためにイエス・キリストを信じてください。」というメッセージです。

しかし、私たちが神様に背くならば、神様は私たちにとってつまずきの岩となられます。そして、ユダ人とイスラエル人が砕かれたように、私たちも背きによって倒れ、砕かれるのです。

したがって、私たちには選択肢があります。神様に背いて倒れるか、それとも神様を私たちの基礎とし、人生の礎石とするかです。

その選択をした場合、どうなるでしょうか。ペテロは次のように記しています。

彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。(第一ペテロ2:6)

イザヤとオデデのようになりましょう。プレッシャーが来ても、妥協してはいけません。むしろ、私たちの岩であるイエス・キリストの上にしっかりと立ちましょう。

イザヤのようにこう言いましょう。

私は主を待つ。。。私はこの方に、望みをかける。(イザヤ8:17)

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イザヤ書 列王記第二 歴代誌第二

誰を恐れるでしょうか

以前言ったように、ヨタムの息子アハズはユダの王になると、イスラエルをさらに深く偶像礼拝へ導きました。

列王記と歴代誌によれば、アハズは偶像を造り、バアルを礼拝しました。

けれども、最も悪かったのは、アハズが自分の息子を全焼のいけにえとして神々に捧げたことです。その理由は、ユダがアラムとイスラエルと戦っており、その神々の助けを望んだからです。

ある日、アラムの王とイスラエルの王が同盟を結び、エルサレムを攻撃するために来ました。ユダの人々がその知らせを聞くと、

王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した。(イザヤ書7:2)

そこで、アハズはアッシリヤと同盟を結ぼうと考えました。その時、イザヤがアハズのもとを訪れ、こう言いました。

気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。

あなたは、これら二つの木切れの煙る燃えさし、レツィンすなわちアラムとレマルヤの子との燃える怒りに、心を弱らせてはなりません。

アラムはエフライムすなわちレマルヤの子とともに、あなたに対して悪事を企ててこう言っています。。。

[しかし]そのことは起こらないし、ありえない。(イザヤ書7:4-5,7)

そこで、イザヤはアハズにこう言いました。「あなたの神、主から、しるしを求めなさい。」(イザヤ7:11)

けれども、アハズはそれを拒み、「私は求めません。主を試みることはしません。」と答えました。(イザヤ7:12)

その言葉は敬虔に聞こえますが、実際にはアハズはイザヤの言葉の真偽を確かめたくありませんでした。なぜなら、彼はすでにアッシリヤと同盟を結ぶことを決意していたからです。

アハズは主を信頼せず、アッシリヤに頼る道を選んだのです。

そのため、イザヤは怒り、こう言いました。

あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。

見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を「インマヌエル」と名づける。。。

まだその子が、悪を退け、善を選ぶことも知らないうちに、あなたが恐れているふたりの王の土地は、捨てられるからだ。(イザヤ書7:13-16)

もちろん、マタイはこの箇所を引用してイエス様について語っていますが、イザヤはおそらく別の出産について考えていたようです。

多くの学者が指摘するのは、イザヤが自身の将来の子について言及している可能性です。(イザヤ8:3-4)

ところで、なぜマタイはイエス様を指すためにこの箇所を引用したのでしょうか。それはおそらく、イザヤの息子の出産がイエス様の出産を象徴しているからです。つまり、イザヤの息子の出産がユダの救いのしるしだったように、イエス様の出産は世界の救いのしるしでした。

また、イザヤの息子は神様がユダとともにおられるというしるしでしたが、イエス様は本物の神様であり、私たちの間に住んでくださいました。(ヨハネ1:14)

さて、イザヤはアハズに「アッシリヤに頼らないでください」と警告しました。

神様はアッシリヤを用いてアラムとイスラエルを打ち砕かれますが、アハズがアッシリヤに頼るなら、アッシリヤがユダも打ち砕くことになると警告しました。(イザヤ書7:17-8:10)

そして、それは現実となりました。

歴代誌によれば、アラムとイスラエルがユダを攻撃した際、アハズはアッシリヤの助けを求めました。アッシリヤの王が来たものの、

彼[つまり、アハズ]を攻め、彼を悩ました。彼の力にはならなかった。(歴代誌第二28:20)

それから、ユダの状態はさらに悪化しました。アハズはアラムの神々を礼拝し始め、ついには神様に背を向けて、

主の宮の戸を閉じ、エルサレムの町かどの至る所に祭壇を造った。(歴代誌第二28:24)

この話から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

誰を恐れるのか、注意してください。また、誰に信頼するのかにも気を付けてください。

アハズは主を恐れなかったため、状況が悪化すると敵を恐れるようになりました。神様に信頼しなかったため、信頼できない人々に依存し、無力な偶像を頼り始めました。

その結果、すべてが崩れてしまいました。

あなた自身はどうでしょうか。誰を恐れているでしょうか。人々を恐れているでしょうか。他人があなたについてどう思うかを心配しているでしょうか。

経済的な問題を恐れているでしょうか。この世が恐れるものを恐れていますか。

それとも神様を恐れているでしょうか。

何に頼っているでしょうか。お金でしょうか。自分の知恵や能力でしょうか。

それらはあなたを救うことはできません。それらに頼るなら、あなたもアハズのように倒れてしまうでしょう。

イザヤがアハズに言ったように、

もし、あなたがたが[神様を]信じなければ、長く立つことはできない。(イザヤ7:9)

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列王記第二 歴代誌第二

ほとんど完璧だけど

この箇所では、ユダの王ヨタムについての短い記録を読みます。彼はほぼ正しい王でした。

歴代誌第二によると、

彼はすべて、主の目にかなうことを行なった。父ウジヤが行なったとおりである。ただし、彼は、主の神殿に入るようなことはしなかった。(歴代誌第二27:2)

ウジヤ王の話を覚えていますか。彼は香を焚くために主の神殿に入ってしまいました。そのため、神様は彼を裁かれました。

(祭司たちだけがその仕事をするべきとされていました。)(歴代誌第二26:18-19)

ウジヤの治世は悪い形で終わりましたが、その息子であるヨタムの治世は非常に成功しました。

例えば、ヨタムはアモン人と戦って打ち勝ったのです。では、どうして彼が成功を収めたのでしょうか。

彼が、彼の神、主の前に、自分の道を確かなものとしたからである。(歴代誌第二27:6)

それでも、ヨタムは完璧な王ではありませんでした。どうしてでしょうか。

それは2節にこう記されています。

民はなお滅びに向かっていた。(歴代誌第二27:2)

「滅びに向かっていた」とは、どのような意味なのでしょうか。

列王記第二によると、

ただし、高き所は取り除かなかった。民はなおも高き所でいけにえをささげたり、香をたいたりしていた。(列王記第二15:35)

ヨタムは主の前で自分の道を確かなものとしましたが、その民はそうしませんでした。このような行動のために、ホセアやイザヤはユダの民を責めました。

さらに悪かったのは、ヨタムが息子アハズに主の礼拝を教えなかったように見えることです。

そのため、アハズが王になると、彼はユダの民をますます偶像礼拝へと導きました。

私たちはここから何を学ぶことができるでしょうか。

私たちが神様とともに歩み、神様の心に従っているとしても、私たちには自分が影響を及ぼす範囲があるのです。それは私たちの伴侶、子供、隣人、そして同僚です。

私たち自身が神様を仕えることだけでは十分ではありません。神様が私たちに与えてくださった人々に良い影響を与えるべきなのです。

そうしないと、神様は私たちをそのために裁かれるのです。

もちろん、私たちは他の人々に良い決断を強制することはできません。また、他の人々が主に仕えることを強制することもできません。

しかし、私たちに権威が与えられている場合、特に子供に対しては、できる限り神様について教え、彼らが神様に従うように導くべきです。

あなたの影響の範囲はどこでしょうか。神様は誰をあなたに託されたのでしょうか。

あなた自身が主に仕えるだけで満足しているでしょうか。

それとも、他の人々を主の道に導いているでしょうか。

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列王記第二

不従順、殺人、敗北

イザヤ書から少し休憩して、列王記第二に戻りましょう。

イザヤが書いた時、何が起こっていたのでしょうか。

一言で言うと、北イスラエル王国は滅亡寸前の状態にありました。

ヤロブアム二世王が亡くなると、イスラエルの繁栄はすぐに終わりました。

その後の32~33年間に、イスラエルには5人の王がいました。

一人は6か月治め、次は1か月治め、次は10年治め、さらに次は2年間治め、最後の王は20年間治めました。

つまり、イスラエルは非常に不安定な王国だったのです。

その時代にイスラエルでは三つの重要な出来事が目立ちました。

一つ目は不従順です。

列王記の著者は4人の王のことをほぼ同じ言葉で説明しています。その5人目の王についてはほとんど何も書かれていませんが、おそらく1か月しか治めなかったためでしょう。

けれども、4人の王については、「彼らは主の目の前に悪を行ない、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪を離れなかった」と記されています。

つまり、イスラエル人は自分が好きなように神々を礼拝し、神様の律法を拒絶し、自分の目に正しいと見えることを行っていたのです。

その結果、二つ目の出来事が起こります。それは殺人です。

この5人の王のうち4人が暗殺されました。

その中で息子が王となったのはたった一人でしたが、彼も2年間しか治められませんでした。そのため、その「王朝」はわずか12年間しか続きませんでした。

そういう状態だったため、誰も王を尊敬せず、その結果、無政府状態に陥りました。

三つ目の出来事は敗北です。

アッシリヤという国がイスラエルを攻め始めました。

最初に、イスラエルはアッシリヤに貢物を納めなければなりませんでした。しかし、すぐにアッシリヤはイスラエルの町を占領し、その住民をアッシリヤに捕らえ移しました。

私たちは何を学ぶことができるのでしょうか。

私たちが神様に背を向け、自分の道を行けば、それは混乱と敗北に導くのです。

アメリカはその例の一つです。離婚率や貧困率、犯罪率が高く、暴力や児童虐待の話をよく耳にします。

けれども、日本でもさまざまな問題が見られます。

他国と比べても日本の自殺率は非常に高いです。昨年、日本では2万5千人が自殺しました。また、十代の子供の死因の主な原因も自殺でした。

日本の離婚率はアメリカの半分ほどですが、それでも27%にのぼります。

今年の児童虐待の事例は、昨年より32%も増加しました。

私たちが神様に背を向け、自分の目に正しいと思うことを行っているため、最終的に私たちの社会は深刻な状態に陥っているのです。

その結果、多くの人々は敗北し、打ち砕かれます。彼らの人生は罪によって壊され、闇の国の囚人となってしまうのです。

神様はイザヤにそのようなことについて警告されました。つまり、イスラエル人は神様に対して自分の目と耳を閉じたため、最終的に彼らの人生は滅びることになるのです。(イザヤ6:11-12)

あなたはどうでしょう。あなたも神様に背いて、人生が壊れていると感じてはいないでしょうか。

希望があります。もし神様に向かって悔い改めるなら、神様はあなたを赦し、癒してくださいます。

神様が望むのは、人々が滅びることではなく、命を見つけることです。それは一歩から始まります。

神様、私は自分の道を歩むことをやめます。どうか私の罪を赦してください。私はあなたの道を歩み始めたいのです。私の主となってください。

パウロはこう書いています。

もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。(ローマ10:9)

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列王記第二 歴代誌第二

プライドは私たちをどこに導くか

「父が父なら子も子」――それはアマツヤとその子アザルヤの話です。

彼らは良いスタートを切りましたが、最終的にはプライドによって倒れてしまいました。

アザルヤの場合、ゼカリヤ(預言者ザカリヤとは別人)がアザルヤに主を恐れることを教えていました。

そのため、アザルヤは若いころから主を求め、神様は彼を栄えさせてくださいました。(歴代誌第二 26:5節)

彼は多くの敵と戦い、彼らを打ち破りました。アザルヤは非常に強力な軍隊を持ち、強い王となりました。

けれでも、歴代誌第二 26:16にはこう書かれています。

しかし、彼が強くなると、彼の心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。

列王記によれば、アザルヤはツァラアト(皮膚病で、ハンセン病に似たもの)にかかりました。けれども、歴代誌はその理由を明らかにしています。

神様の律法によれば、祭司だけが香の壇の上で香をたくことを許されていました。ところが、プライドに支配されたアザルヤは、自ら香をたこうとしたのです。

おそらく彼はこう思ったのでしょう。

「私は良い王だし、神様を愛している。なぜ私が香をたいてはいけないのだろうか。」

祭司たちはアザルヤに注意を促しましたが、彼はそれを全く聞き入れませんでした。それどころか、彼は激しく怒りました。

ところが、その時突然、彼の額にツァラアトが現れたのです。アザルヤはそれを見て急いで神殿を出て、自宅に戻りました。

その結果、彼は死ぬまでその病気に苦しむことになりました。

さらに、彼は王位を息子ヨタムに譲ることを余儀なくされました。

そしてその病気のために、アザルヤは決して神殿に入ることができず、家族から離れ、別の家で孤独な生活を送らざるを得ませんでした。

ソロモンはこう書いています。

高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。(箴言16:18)

アザルヤはそれを学びましたが、彼の人生は完全に行き詰まってしまいました。

あなたはどうでしょう。ご自身のプライドが、あなたを支配してはいないでしょうか。

その場合、あなたのプライドは、あなたが築き上げたものを崩してしまうでしょう。それは、あなたの人間関係や評判を壊してしまうのです。

しかし、私たちがへりくだり、神様に従うならば、神様によって祝福されます。

ヤコブはこう書いています。

神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。(ヤコブ4-6)

私たちのプライドが私たちの人生を崩してしまう前に、そのプライドを打ち砕きましょう。

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列王記第二

不実な私たち、忠実な神

この箇所では、もう一人の北イスラエル王国の悪い王について取り上げます。彼の名前はヤロブアム二世です。

けれども、彼は他のイスラエルの王とは少し違った点がありました。それは、彼が悪い王であったにもかかわらず、神様が彼を助けてくださったのです。

ヤロブアムの人生を見ると、彼はまったく神様を求めていなかったようです。

しかし、この世の基準に照らし合わせると、彼は非常に成功した王でした。彼はイスラエルを41年間治め、北イスラエル王国の歴史において最も長い治世を持ちました。

そして彼はイスラエルの領土を回復しました。

ところが、聖書によれば、ヤロブアムは神様に忠実ではない王でした。それにもかかわらず、神様は彼を助けてくださったのです。

なぜ神様は彼を助けてくださったのでしょうか。

主がイスラエルの悩みが非常に激しいのを見られたからである。そこには、奴隷も自由の者もいなくなり、イスラエルを助ける者もいなかった。

主はイスラエルの名を天の下から消し去ろうとは言っておられなかった。それで、ヨアシュの子ヤロブアムによって彼らを救われたのである。(列王記第二14:26-27)

つまり、私たちが不実であっても、神様はいつもご自身の約束を守ってくださいます。

しかし、私たちが心に留めておかなければならないことがあります。 それは、私たちの人生がうまくいっていても、必ずしも神様が私たちを喜んでおられるとは限らないということです。

神様はヤロブアムを喜んでおられませんでしたが、彼を祝福してくださいました。けれども、ヤロブアムが死んだ後、神様はその悪い行いのゆえに必ず彼を裁かれたことでしょう。

だから、私たちが祝福されているときでも、この問いを自分に向ける必要があります。

「どうして私は祝福されているのだろうか。神様に従っているからだろうか。それとも、私の人生が罪深いのに、それでも神様は私を祝福してくださっているのだろうか。」

もう一つ覚えておくべきことがあります。

それは、時として私たちの罪のせいで私たちは落ち込み、神様が私たちを赦してくださらない、また用いてくださらないと思い込んでしまうことです。

そのような時こそ、神様が忠実であられるお方であることを心に留めてください。

私たちが悔い改めるならば、神様は確実に私たちを赦し、回復してくださいます。

私たちが不実であっても、神様は忠実な方です。(第一ヨハネ1:9)

パウロが言ったように、

私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。(第二テモテ2:13)

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列王記第二 歴代誌第二

私たちはどのように神様の言葉に応答するか

プライドによって、ユダの次の二人の王、アマツヤとアザルヤは没落しました。アマツヤの場合、彼の人生はこの一言で要約されます。

彼は主の目にかなうことを行なったが、全き心をもってではなかった。(歴代誌第二25:2)

例えば、アマツヤがエドムという国と戦う準備をしていたとき、北イスラエル王国から勇士を雇いました。けれども、ある預言者がアマツヤにこう言いました。

王よ。イスラエルの軍勢をあなたとともに行かせてはなりません。主は、イスラエル、すなわち、すべてのエフライム族とは、共におられないからです。

それでも、あなたが行くと言われるのなら、そうしなさい。雄々しく戦いなさい。神は敵の前にあなたをつまずかせられます。

神には、助ける力があり、つまずかせる力もあるからです。(歴代誌第二25:7-8)

アマツヤはそれを聞いて非常に怒りました。なぜなら、彼はすでにその勇士たちに多額のお金を支払っていたからです。

しかし、最終的には彼らを引き離し、それぞれの場所に帰しました。

ところが、次に預言者が来たとき、アマツヤの態度はまったく問題がありました。

ユダがエドム人を打ち破った後、アマツヤはエドム人の偶像を取って礼拝し始めたのです。

預言者が来てアマツヤを戒め始めると、アマツヤはこう答えました。

私たちはあなたを王の議官に任じたのか。

身のためを思ってやめなさい。なぜ、打ち殺されるようなことをするのか。(歴代誌第二25:16)

預言者はそれを聞いて話すのを止めましたが、彼はこう言いました。

私は神があなたを滅ぼそうと計画しておられるのを知りました。あなたがこれを行ない、私の勧めを聞かなかったからです。(歴代誌第二25:16b)

その預言はただちに成就しました。

アマツヤは愚かにも北イスラエル王国を攻撃しようとしましたが、ヨアシュ王は彼にプライドについて警告を与えました。

あなたは、どうだ、自分はエドムを打ち破ったと言った。あなたの心は高ぶり、誇っている。

今は、自分の家にとどまっていなさい。なぜ、争いをしかけてわざわいを求め、あなたもユダも共に倒れようとするのか。(歴代誌第二25:19)

アマツヤはヨアシュの言葉を無視し、北イスラエル王国を攻撃しました。その愚かな決断によって、彼は命を落としました。

あなたはどうでしょうか。あなたは神様の言葉にどのように応答するでしょうか。

しぶしぶ従いますか。

それとも、無視しますか。

もしくは心から従いますか。

多くの場合、私たちは自分の知恵に頼り、神様の言葉を拒絶します。私たちは高ぶって、自分の知恵で成功できると思い込むことがあります。

しかし、そのプライドは私たちを没落へと導きます。

ソロモンはこう書いています。

人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。(箴言16:25)

自分の知恵に頼るのではなく、命へと導く道を歩みましょう。

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列王記第二

命を与えてくださる神

この話は非常に短いですが、大変興味深いものです。

エリシャが死んで葬られた後も、イスラエル人にはまだ多くの敵やさまざまな問題がありました。例えば、モアブの略奪隊がイスラエルに侵入していました。

ある日、イスラエル人たちが友人を葬ろうとしていたその時、略奪隊を見かけました。彼らは慌てて、一番便利な場所にその死体を置いて立ち去りました。

偶然、その場所はエリシャの墓でした。その死体がエリシャの骨に触れると、死者がよみがえったのです。

恐らく、その出来事を通して、神様はヨアシュ王とイスラエル人にメッセージを伝えようとされたのです。

それは、「私は生ける神である。私のしもべエリシャが死んでも、私はなお生きて働いている。そして、私は死者に命を与えることのできる神である。」というメッセージでした。

つまり、自分の罪によってイスラエル人が死にかけても、モアブ人やアラム人がイスラエル人を攻撃していても、神様にはイスラエル人に命を与える力を持っておられます。

イスラエル人がしなければならなかったのはただ一つ、それは神様に向かって悔い改めることです。

しかし残念なことに、彼らはそうしませんでした。その結果、彼らの状況は徐々に悪化していきました。

あなたはどうでしょうか。あなたの罪によって、大変な状況に陥っているのではないでしょうか。

もしあなたが悔い改めるなら、神様にはあなたに命を与える力を持っておられます。

ですから、悔い改めてください。イスラエルの王たちのように頑固にならないでください。

むしろ、へりくだって祈り、神様を求め、罪から離れてください。

そうすれば、神様はあなたを癒してくださいます。

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列王記第二

尊敬だけでしょうか。または心からの愛でしょうか。

イスラエルの王ヨアシュ(ユダのヨアシュではなく)と預言者エリシャにはどのような関係があったのでしょうか。

ヨアシュは父エホアハズやほかのイスラエルの王たちと同じように悪いことを行い、偶像礼拝をしました。

わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち(列王記第二13:14)

神様がエリヤを天に取られたとき、エリシャは同じ言葉を言いました。(列王記第二2:12)

けれども、もしヨアシュがエリシャを本当に愛していたなら、エリシャの言葉に従ったはずです。しかし、ヨアシュはそれをしませんでした。

この話で、エリシャはヨアシュに最後の命令を与えました。そして、エリシャはこう言いました。

弓と矢を取りなさい。。。弓に手をかけなさい。。。東側の窓をあけなさい。。。矢を射なさい。(列王記第二13:15-17)

ヨアシュはそうしました。そして、エリシャは言った。

主の勝利の矢。アラムに対する勝利の矢。あなたはアフェクでアラムを打ち、これを絶ち滅ぼす。(17)

そして、エリシャはさらにこう言いました。

矢を取りなさい。。。それで地面を打ちなさい。(18)

ヨアシュはそれを聞いて、どう思っていたのでしょうか。

おそらく、エリシャがそのように命じた理由が分からなかったため、ためらいながら三回打ったのでしょう。

エリシャはそれを見て怒り、こう言いました。

あなたは、五回、六回、打つべきだった。

そうすれば、あなたはアラムを打って、絶ち滅ぼしたことだろう。

しかし、今は三度だけアラムを打つことになろう。(19)

エリシャの言葉は成就しました。神様の助けによって、ヨアシュはアラム人を三回打ち破り、父エホアハズから奪われた町々を取り返しました。

しかし、ヨアシュのエリシャに対する態度は、神様に対する態度によく似ていました。

彼はエリシャや神様を尊敬していたかもしれませんし、少し愛していたかもしれません。

それでも、ヨアシュは心のすべてを神様に捧げることはありませんでした。

心を尽くして神様の言葉に従うこともありませんでした。彼が捧げたのは、せいぜい心の半分、あるいはそれ以下だったかもしれません。

そのため、神様がヨアシュに多くの良いことを望んでおられたにもかかわらず、ヨアシュはその良いことをほとんど経験できませんでした。

もしヨアシュが心を尽くして神様に従っていたなら、もっと多くを成し遂げることができたかもしれません。

あなたはどうでしょうか。

心のすべてを神様に捧げていますか。

心を尽くして神様に従うことを決心していますか。

それとも、ヨアシュのように、神様を少し尊敬しているだけでしょうか。

「神様の言葉は良いかもしれないけど、ちょっと遠慮します」と言っていないでしょうか。

半端な心で神様を求めるのではなく、すべてを神様に捧げましょう。

心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、神様に従いましょう。

ある讃美歌の歌詞には、こう書かれています。

素晴らしい神様からの愛は、
私の魂、命、そして私のすべてを要求する。

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列王記第二

決して遅すぎない

北イスラエル王国の歴史では、すべての王が悪い王でした。エホアハズ王も例外ではありませんでした。

彼は父エフーと同じように主に仕えることなく、金の子牛を礼拝しました。

そのため、神様はイスラエルをアラム人の手に渡されました。イスラエル人がアラム人と戦ったとき、エホアハズには騎兵五十、戦車十台、歩兵一万だけの軍隊しか残されていませんでした。

しかし、他のイスラエルの王たちとは異なり、エホアハズは悔い改め、神様を求め始めました。だから、

主はこれを聞き入れられた。アラムの王のしいたげによって、イスラエルがしいたげられているのを見られたからである。

主がイスラエル人にひとりの救い手を与えられたとき、イスラエルの人々はアラムの支配を脱し、以前のように、自分たちの天幕に住むようになった。(列王記第二13:4-5)

この話から私たちは、神様に悔い改めるのは決して遅すぎない、ということを学ぶことができます。

どんなに罪深い過去であっても、もし神様を求めるなら、神様は私たちを受け入れ、癒してくださいます。

私たちの行動によって神様が怒られることがあっても、私たちが悔い改めるなら、神様はすぐに憐れみを与えてくださいます。

あなたも、もう希望がないと思っていますか。もう神様があなたを受け入れてくださらないと思っていますか。

神様が赦すことのできない人は一人も存在しません。

また、神様が癒すことのできない人も一人も存在しません。

ヤコブが言ったように、

主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。 (ヤコブ4:10)

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全然成長しなかった少年

成長しなかった少年。その話を聞くと、私はピーター・パンを思い浮かべます。彼は決して成長したくありませんでした。

残念なことに、ヨアシュ王もそのような人物でした。

祭司エホヤダがヨアシュを育て、教えたことで、ヨアシュは人生の前半、主に仕えることができました。

また、エホヤダや他の祭司たちが主の宮を修理しないとき、ヨアシュは彼らを叱責しました。

しかし、ある日エホヤダが亡くなりました。

ヨアシュを育てた人、そして彼を教えていた人がいなくなったのです。

エホヤダがヨアシュを訓練したおかげで、ヨアシュには学んだことを活かしてユダを賢く治める機会が与えられていました。

それでも、ヨアシュはその機会を活かしませんでした。

むしろ、エホヤダが死んだ後、ユダのつかさたちがヨアシュの心を神様から離れるように導きました。そして、ヨアシュは修理したばかりの宮を捨て、他の神々を礼拝し始めたのです。

それだけでも悪いことでしたが、ヨアシュはさらに悪いことをしました。

神様はエホヤダの息子ゼカリヤをヨアシュに送られました。そして、ゼカリヤはヨアシュにこう言いました。

神はこう仰せられる。「あなたがたは、なぜ、主の命令を犯して、繁栄を取り逃がすのか。」

あなたがたが主を捨てたので、主もあなたがたを捨てられた。(歴代誌第二24:20)

ヨアシュはそれを聞いても、その父エホヤダの親切さに全く感謝せず、ゼカリヤを殺しました。

そのため、神様はユダを裁かれました。

ユダの軍隊がアラムの軍隊よりも規模が大きかったにもかかわらず、神様はユダをアラムの手に渡されました。

その際、ヨアシュは重傷を負い、すぐに彼の家来たちによって暗殺されました。

皮肉なことに、エホヤダは王たちと一緒に葬られましたが、ヨアシュは王たちと一緒に葬られませんでした。

なぜでしょうか。それは、ヨアシュが本当に成長することがなかったからです。

彼は心を尽くして神様に信頼することを決して学びませんでした。むしろ、彼は人間に頼ることを選びました。

エホヤダのような善良な人に頼れば良いことを行いましたが、悪い人々に頼ると悪いことを行いました。

そして結局、それが彼の没落を招いたのです。

あなたはどうでしょうか。あなたのメンターは誰ですか。誰に信頼し、誰に頼っていますか。

いずれ私たちは成長しなくてはならない時を迎えます。敬虔な人々は永遠に私たちと共にいるわけではありません。

彼らが私たちの元を去った時、私たちは霊的な大人として成長し、人々に頼るのではなく、神様だけに頼ることを学ばなければなりません。

私たちはそのことを学び、私たちの人生を神様の御手に委ねましょう。

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列王記第二 歴代誌第二

私たちの宮を清める

ヨアシュ王は、祭司エホヤダの訓練と影響を受けて、王として順調なスタートを切りました。

王となると、ヨアシュはすぐに宮の修復をしたいと考えました。

アハズヤがユダの王であった時、その母アタルヤの影響を受けていたのか、アハズヤとその兄弟たちは宮を打ち壊し、宮の聖なる品々をすべてバアルの礼拝に使用しました。(歴代誌第二24章7節)

その結果、宮は次第に荒廃していきました。そこで、ヨアシュは祭司たちに命じて、人々から資金を集め、宮の修理を行うように指示しました。

なぜ、あなたはレビ人に要求して、主のしもべモーセとイスラエルの集団の、あかしの天幕のための税金を、ユダとエルサレムから持って来させないのですか。(歴代誌第二24:6)

こうして、彼らはようやく修理に取りかかりました。

彼らは宮を修理しただけでなく、アハズヤが盗んだ物の代わりに新しい器具も作りました。

この箇所を見ると、私はこう考えます。「私たちは主の宮を十分に注意しているだろうか。」

もちろん、ここで私が話しているのは建物のことではありません。私たち自身の体について話しています。

なぜなら、パウロがこう言ったからです。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。(第一コリント6:19)

罪によって私たちの宮はどのような霊的な損害を受けているのでしょうか。

私たちはその罪をそのまま残しているのでしょうか。

それとも、聖なる器となるために、その罪を清めているのでしょうか。

時々、この話の祭司たちのように、私たちは神様に仕えることに忙しくなってしまいます。

しかし、私たちが忘れてはならないのは、神様が最も関心を持っておられるのは、私たち自身のことだということです。

私たちが神様のために何かを成すこと以上に、神様は私たち自身を気にかけておられます。

神様は、宮が清められ、修復され、聖なるものとなることを望んでおられます。

私は「神様に仕えるには、完全に清められなければならない」と言っているのではありません。

けれども、「神の仕事」をしているからといって、自分自身の宮を顧みる時間がない、という態度をとってはいけません。

神様の最初の仕事はあなた自身です。

神様がまずあなたの中で働き、その後で、神様がどのようにしてあなたを用いるかを考え始められるのです。

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正当な王

もしヨシャパテが未来を見ることができたなら、彼は違う選択をしたでしょうか。

彼はアハブ王と同盟を結び、その結果、ヨシャパテの息子ヨラムはアハブの娘アタルヤと結婚しました。

アタルヤはヨラムを神様から離れるように導き、彼女の助言によってヨラムは兄弟たちを殺害しました。

その後、ヨラムとその息子アハズヤが死んだとき、アタルヤはユダの女王となるために王族を皆殺しにしようとしました。

もしヨシャパテがこれらの出来事を知っていたなら、彼は何を考え、どう行動したでしょうか。

アタルヤはほとんどの王族を殺してしまいました。

幸いにも、アハズヤの姉妹がアハズヤの息子ヨアシュを救い出しました。

ヨアシュは主の宮に隠され、6歳になると、祭司エホヤダによってユダの民の前に出され、油を注がれ、王冠を被せられました。そしてアタルヤはすぐに殺されました。

私たちはアタルヤの行動を見て侮るかもしれません。

けれども、どれほど私たち自身が、そのようにして神様から私たちの心の王座を奪っているでしょうか。

聖書によると、神様は正当な王です。しかし、私たちはしばしば神様をその王座から押し出し、その王座を奪おうとします。

神様のために生きるのではなく、自分自身のために生き、神様に従うのではなく、自分の欲望に従ってしまいます。

そして、神様がその王座を再び取ろうとされると、私たちはアタルヤのように叫びます。「それは私の王座です。」

多くの人々は、自分がその王座に座れば幸せな人生を送れると思います。

けれども、その王座に座ると、結局私たちの人生は混乱に陥ります。結婚は破れ、家族は崩れ、私たちが築こうとするものはすべて倒れてしまいます。

では、神様がその王座に座られるとどうなるでしょうか。

本当の喜びが訪れます。そして、私たち自身の悪い決断によって破壊してしまったものを神様が癒してくださるのです。

ユダの民は約6年間、アタルヤの治世によって苦しんでいました。

しかし、正当な王がその王座に座ったとき、希望が戻り、人々は喜びに満ちました。

あなたも、自分自身の誤った決断によって苦しんでいるかもしれません。

けれども、もし神様に心の王座をささげるなら、希望は再び戻ります。そして、その希望によって、あなたの心は喜びで満たされることでしょう。

あなたは神様からその王座を奪ってはいませんか。

その王座を神様にお返ししましょう。

神様を私たちの真の王として迎え入れましょう。

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自分の動機を見極める

エフーはイスラエルの王としての評判はやや複雑でした。

彼は神様の命令に従い、アハブの家族を皆殺しました。そのため、神様は彼を誉め、約束を与えられました。

あなたはわたしの見る目にかなったことをよくやり遂げ、アハブの家に対して、私が心に定めたことをことごとく行なったので、あなたの子孫は四代目まで、イスラエルの王座に着こう。(列王記第二10:30)

けれども、ダビデやソロモンに対する約束とは異なり、神様はエフーに永遠の王国を約束されませんでした。

なぜでしょうか。おそらく、神様はエフーの心を見ておられたからでしょう。

9章を読むと、エフーが預言者にイスラエルの王として油を注がれたにもかかわらず、彼はそのことを真剣に受け止めていなかったように見えます。

しかし、人々が彼を王として認めると、突然、彼は預言者の言葉を信じるようになったようです。

それにもかかわらず、エフーの行動を見ると、彼は神様を恐れることなく、自分の力のために振る舞っていたことが分かります。

また、預言者が彼に油を注いだ出来事とその言葉を利用して、自分の行動を正当化したのです。

9章から10章にかけて、エフーはアハブの家族を殺害した後、ユダの王アハズヤとアハズヤの親族の数人を殺しました。

それだけでなく、エフーはアハブの身分の高い者や親しい者も殺害しました。けれども、神様はそのようなことを命令されたわけではありませんでした。

その行動のためか、預言者ホセアを通して、神様はエフーを裁かれました(ホセア書1:4)。

また、彼は他の罪も犯しました。

彼はイスラエルでバアルの礼拝を止めたものの、ヤロブアム王の二つの子牛の偶像を礼拝し続けました。

もしエフーが本当に神様を愛していたなら、そのようなことを決してしなかったでしょう。

あなたはどうでしょうか。あなたの動機は何でしょうか。

あなたは神様を愛しているために神様に仕えているのでしょうか。

それとも、自己中心的な動機のために生きているのでしょうか。

あなたは正しい行動をしているかもしれません。周りの人々はあなたを誉めているかもしれません。

しかし、神様はあなたの心をご覧になります。

もしあなたの動機が悪かったならば、神様からの報いは来ないでしょう。

自己中心的な態度で神様に仕えないようにしましょう。むしろ、神様をあなたの王として迎えましょう。

そして、神様の栄光のために生きましょう。

パウロが言ったように、

あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。(コロサイ3:17)

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誰に注意した方が良いでしょうか

私は高校生の頃、この歌をよく聴きました。

誰に注意を払うべきか、
また誰に注意を払わないべきかを知る必要があります。

多くの場所から意見が寄せられるため、
誰に注意を払うべきか、
また誰に注意を払わないべきかを決める必要があります。

ーーエイミー・グラント

それは真理です。

あなたは誰の意見を受け取っているでしょうか。

それは非常に重要な質問です。なぜなら、その意見があなたの人生を形成するからです。

良い意見を受け取れば、あなたの人生は良い方向に進みます。

けれども、悪い意見を受け取れば、悪い方向に進んでしまいます。

ユダのアハズヤはそのことを学びました。

以前言ったように、列王記と歴代誌を読む際には名前に注意を払わなければなりません。

このアハズヤはイスラエルの王アハズヤではありません。(列王記第二1章)

これは、ユダの王ヨラムの息子アハズヤです。

その父と同じように、アハズヤは悪い意見を受け入れました。

母アタルヤから悪い意見を受けた上、アタルヤはアハブの娘だったため、アハズヤはアタルヤの兄弟であるイスラエルの王ヨラムからも悪い意見を受け入れました。

その結果、アハズヤはその父と同じようにバアルを礼拝しました。

(もし名前に関して混乱している場合は、心配しないでください。この説明をもう一度読んでみてください。)

歴代誌第二22章3-4節にはこう書かれています。

「アハズヤ」もまた、アハブの家の道に歩んだ。彼の母が彼の助言者で、悪を行なわせたからである。

彼はアハブの家にならって主の目の前に悪を行なった。

その父の死後、彼らが助言者となって、彼を滅びに至らせたのである。

つまり、アハズヤは悪い意見を受け入れたため、彼の人生は破滅へと向かってしまいました。

彼はイスラエルの王ヨラムと共にアラムの王と戦いました。そして、その戦いでヨラムが傷を負ったため、後でアハズヤは彼を見舞いに訪れました。

しかしその時、エフーという人がヨラムを殺すために現れました。そして、アハズヤがヨラムと付き合いがあり、ヨラムのように偽物の神々を礼拝していたため、エフーはアハズヤも殺しました。

悪いタイミングだったため、アハズヤは殺されました。けれども、それだけではなく、彼は悪い意見に従っていたために殺されたのです。

あなたはどうでしょうか。誰の意見に従っていますか。

敬虔な人々の意見に従っていますか。

それとも、不敬虔な人々の意見に従っていますか。

もちろんノンクリスチャンでも時には良い意見を与えることがあるかもしれません。また、クリスチャンでも時には悪い意見を与えることがあるかもしれません。

そのため、最も重要なのは、その意見を神様の言葉と照らし合わせることです。神様だけが完全な意見を与えるからです。

ダビデはこう書きました。

幸いなことよ。悪者のはかりことに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。

まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。(詩篇1:1-2)

私たちは神様の御言葉に従いましょう。そうすれば、

その人は、水路のそばに植わった木のようだ。
時が来ると、実がなり、その葉枯れない。

その人は、何をしても栄える。(詩篇1:3)

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列王記第二 歴代誌第二

聖書は矛盾があるでしょうか

聖書を信じることができるでしょうか。時には、ミスがないのだろうかと疑問を抱くことがあります。

多くの人々がそのような疑いを持っています。そして、今日の箇所を読むと、多くの人々がそう考えるかもしれません。

列王記と歴代誌を合わせて読むことは非常に興味深いです。

なぜなら、時には両書に同じ話が記録されているものの、列王記には歴代誌に書かれていない情報があり、また歴代誌には列王記に書かれていない情報があるからです。

そのため、列王記と歴代誌を合わせて読むことで、その話の全体像を知ることができます。

とはいえ、列王記と歴代誌を合わせて読むことで、少し分かりにくい点が出てくることもあります。つまり、列王記と歴代誌の記録には、若干矛盾があるように見える場合もあるのです。

その一例が、ユダの王アハズヤの死に関する記述です。

アハズヤはどのようにして死んだのでしょうか。

このブログでは、できる限り難しい箇所から逃げずに向き合いました。

けれども、この話について私の意見を述べる前に、このような難しい箇所について私がどのように考えるかを説明したいと思います。

二人の人が同じ出来事について語る場合、彼らがまったく同じ言葉を使うことはありません。

なぜなら、彼らの記憶は異なり、また何を重要と見るかについても意見が違うため、同じ出来事を語っていても焦点を当てる点が異なるからです。

裁判において、複数の証人が同じ出来事について語ると、異なる証言が現れるものです。

しかし、話が少し異なっていても、その事件が実際に起こらなかったわけではありません。また、それが矛盾しているわけでもありません。

裁判官はそれらの証言を聞き、どのようにして異なる点を統合するかを考えます。

私たちが聖書を読むときも、同じことをするのです。

もし列王記と歴代誌の間に異なる記述があった場合、それらをどのように統合すればよいか考えます。

また、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書の間で矛盾があるように見える場合も、同じことを行います。

その結果、常に良い説明が存在すると信じています。

とにかく、アハズヤはどのようにして死んだのでしょうか。

列王記によると、アハズヤは傷を負い、ミギドという都市に逃げました。そして、彼はそこで死に、彼の家来たちは彼をエルサレムに葬りました。(列王記第二9:27-28)

列王記だけを読むと、アハズヤが傷によって死んだのだと思うかもしれません。

けれども、歴代誌によると、アハズヤは捕まり、サマリヤでエフーによって殺されました。

では、この二つの話をどのように統合することができるでしょうか。

ここで、この話をもう少し詳しく見てみましょう。

列王記によると、アハズヤはイスラエルの王ヨラムを見舞いに訪れました。

エフーが現れ、ヨラムを殺した後、アハズヤを見て追いかけ、殺そうとしました。アハズヤは傷を負ったものの、メギドに逃げました。

一方、歴代誌にはさらに多くの情報が書かれています。

エフーがアハズヤを探し続けていたところ、エフーの民がサマリヤでアハズヤを見つけました。

では、なぜアハズヤはサマリヤにいたのでしょうか。

ある可能性として、アハズヤが傷を負ったとき、最初にミギドに逃げたと考えられます。

エフーはその知らせを聞いてミギドに向かいましたが、アハズヤがエフーの接近を知ると、サマリヤへ逃げたのかもしれません。

エフーがミギドに到着したときには、アハズヤはすでに逃げてしまっていたため、エフーはアハズヤを探すために人々を送り出しました。

その後、彼らがアハズヤを見つけ、彼をミギドに連れ戻し、そこでエフーが彼を殺したと考えられます。

歴代誌によると、アハズヤがサマリヤで見つかったと記されていますが、サマリヤで殺されたとは書かれていません。

むしろ、「人々は彼をエフーのもとに引いてきて殺した」と記されています。

とはいえ、その時点でエフーがどこにいたのかは明記されていません。

一方、列王記には、アハズヤが傷を負った後にミギドで死んだと記されていますが、どのようにして死んだのかについての詳細は書かれていません。

ただ「ミギドで死んだ」とだけ記されています。

そして、エフーが彼を埋葬した後、アハズヤの家来たちがその遺体をエルサレムに運び、葬ったのだと考えられます。

この説明は正しいのでしょうか。私は分かりません。

他の説明が存在する可能性もあります。けれども、私が確信しているのは、聖書には矛盾がないということです。

聖書の中には時折、難しい箇所があります。

列王記と歴代誌の中にも、福音書の中にも、統合が難しい箇所があります。

しかし、それらの箇所を詳しく調べたり、深く考えたりすると、聖書に矛盾がないことが分かるのです。

ですから、私たちは聖書を信じ、従いましょう。

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神様の警告を無視する

イスラエル人が子供に名前を付けるとき、もっと独特な名前を使えばよかったと思います。なぜなら、列王記と歴代誌を読むと、少し混乱するからです。

例えば、イスラエルでアハブ王が亡くなると、その息子アハズヤが王になりました。そして、アハズヤが亡くなると、その兄弟ヨラムがイスラエルの王になりました。

一方、ユダでは、別のヨラムがユダの王になり、彼が亡くなると、その息子アハズヤが王になりました。

つまり、同じ時期に、二つの国で二人のヨラム王と二人のアハズヤ王がいました。

とにかく、この箇所に登場するヨラム王はイスラエルの王ではありません。

イスラエルの王ヨラムはエリシャをよく知っていましたが、この箇所のヨラム王はユダの王ヨラムで、彼はエリシャをあまり知りませんでした。

ユダの王ヨラムはヨシャパテ王の息子でした。

けれども、ヨシャパテとは異なり、ヨラムは心を尽くして神様に従いませんでした。

なぜでしょうか。おそらく、彼がアハブの娘アタルヤと結婚したことが理由かもしれません。

以前私が言ったように、もしあなた自身が不敬虔な人と結びついたら、大変な状態に陥ることがあります。

この箇所にはその結果を見ることができます。

ヨシャパテが亡くなった後に、ヨラムは兄弟たちを殺そうと決めました。

私の考えですが、多分アタルヤの影響によってヨラムはそのようにしました。なぜなら、ヨラムの息子アハズヤが亡くなった後に、アタルヤも同じようなことをしたからです。

また、アタルヤはヨラムを偶像礼拝へと導きました。(歴代誌第二 21:6;列王記第二 8:18)

神様はダビデのためにその家系を守りたいと思われたため、ヨラムを悔い改めさせるために懲らしめられました。

ヨラムが神様を捨て去ったため、エドムとリブナという国はイスラエルに反逆しました。(歴代誌第二 21:10)

ある時、ヨラムはエドム人に囲まれて、逃げなくてはならない状況に陥りました。それでも、彼は悔い改めることはありませんでした。

そのため、神様は最後の警告を送りました。それはエリヤからの手紙でした。

列王記第一と第二には、エリヤとエリシャの話がたくさん登場します。しかし、歴代誌にはエリシャの名前が全く記載されておらず、エリヤの名前も1回しか出てきません。

この1回は非常に混乱させられる箇所です。なぜなら、列王記第二によれば、エリヤはすでに天国に召されていたからです。

では、ヨラムはどのようにしてこの手紙を受け取ったのでしょうか。

それは誰にも分かりません。とはいえ、いろいろな意見があります。

一つ目の意見によれば、神様はエリヤを天に連れて行かれたのではなく、「静かな場所」に導かれ、そこで死ぬまで住んでいたというのです。

そして、その場所からエリヤが手紙を送ったという説です。

興味深い意見ではありますが、私はそうは考えません。

二つ目の意見は、この話が年代順ではないというものです。つまり、この出来事の後にエリヤは天国に行ったという考え方です。

三つ目の意見は、エリヤが天国に行く前に、神様がヨラムについてのメッセージを与えたため、エリヤがその手紙を書きました。そしてその手紙をある弟子に渡し、適切な時にその弟子がヨラムに手紙を届けたというものです。

それは正しいかもしれません。

なぜなら、エリシャはハザエルの未来をよく知っていたからです。

また、クロス王(イサヤ44:28-45:1)とヨシヤ王(列王記第一13:2)が生まれる前に、神様は彼らの名前と行動をよく知っておられました。

もし預言を信じるなら、エリヤの手紙はそれほど珍しいことではありません。

とにかく、ヨラムは死んだ人からの手紙を受け取りました。

多くの人々は、その手紙を読めば悔い改めるはずです。しかし、ヨラムは悔い改めませんでした。

そのため、結局、神様は彼を裁かれました。ヨラムは重病の床で死にました。

歴代誌第二の著者は、その死について、こう記しました。

彼は人々に愛されることなく世を去った。(歴代誌第二21:20)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

私たちが神様に背を向けるとき、神様はご自身の約束を守られるゆえに、忍耐とあわれみを示され続けるかもしれません。

神様は私たちに警告を与え、私たちの状況を通して懲らしめられることもあるでしょう。

しかし、私たちがそれを無視し続けるならば、裁きが訪れます。

私はあなたが救いを失うと言っているのではありません。けれども、もし罪を犯し続けるならば、裁きが必ず来るのです。

そして、神様の裁きは本当に苦しいものです。

神様からの警告と懲らしめを無視しないようにしましょう。むしろ、

私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。。。

霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さあずからせようとして、懲らしめるのです。(へブル書12:9-10)

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神様の前で隠れている物はない

鶏が先だったでしょうか。もしくは卵が先だったでしょうか。英語では、それはよく聞かれる疑問です。もちろん、クリスチャンにとって、答えは鶏です。

とにかく、この話を読むと、同じような質問を考えます。

エリシャがハザエルが王になる預言を言った後に、ハザエルはアラムの王を殺そうと決めたのでしょうか。

もしくは、ハザエルがすでに王を殺そうと決めていたので、エリシャはその預言を言ったのでしょうか。

私には分かりません。以前私が思ったのは、ハザエルがエリシャの預言を聞いたので、すぐに王を殺そうと決めたことです。

けれども、もしくは、ハザエルはその王の病気を見て、「これはチャンスだから、王を殺そう」と考え始めたのかもしれません。

そして、エリシャはその預言を通して、ハザエルの心を表しました。

どちらが正しいか分かりませんが、とにかく、神様の前で隠れているものは何もありません。

未来のことも隠れていませんし、人々の心の中のことも隠れていません。神様はすべてのことをご覧になることができます。

その真理によって、私たちは警告されています。しかし、その真理によって、私たちは慰められています。

警告されているのは、私たちの罪を神様から隠すことはできないことです。また、私たちの心の中の罪も隠すことはできません。

ですから、私たちの生き方には注意を払わなくてはなりません。なぜなら、いつか私たち全員がキリストの裁きの座に現れなくてはならないからです。

へブル人への手紙の著者はこう言いました。

造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。(へブル書4:13)

それでも、その真理によって、私たちは希望を持っています。なぜなら、私たちの未来は神様の御手の中にあるからです。

ダビデはこう書きました。

あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。

私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。(詩編139:16)

以前のブログで、私は「神様のタイミングは完璧である」と書きました。

もし私たちが神様が未来を知り、コントロールされることを覚えていたなら、神様のタイミングを待つことがもっと簡単になるかもしれません。

私は子供の時にこの歌を聞いて、今でもそれが大好きです。

あなたはずっと休むことができません。
あなたは心配しすぎて、
はっきりと考えることができません。

あなたがどれだけ頑張っても、
問題の解決を見つけることができません。

もし神様に頼れば、神様はあなたを導いてくださいます。
しかし、神様の知恵を信頼しなくてはなりません。
また、神様の御言葉を信じなくてはなりません。

あなたが見ることができないことを、
神様はご覧になることができます。
神様はあなたにとって最善を知り、望まれます。
ですから、この真理を学びましょう。

つまり、未来は神様の御手の中にあります。
神様は計画を持っておられます。
ですから、心配する必要はありません。
すべては神様の御手の中にあるからです。

ですから、もしどうすれば良いか混乱したときには、思い出してください。
神様は御手の中にあなたの未来を持っておられます。

ーーデヴィッド・ミース

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神様の完璧なタイミング

二つの理由で、この話は興味深いです。

一つ目はゲハジのことです。

前回ゲハジの名前を見ると、ゲハジがナアマンに嘘をついたために、神様はゲハジをらい病で打たれました。(列王記第二5章)

けれども、この箇所では、ゲハジがヨラム王にエリシャについて話しているのです。

この話は年代順ではない可能性もあります。つまり、ゲハジがらい病になる前に今回の話が起こったのかもしれません。

あるいは、神様があわれみを与えられ、ゲハジを癒されたのかもしれません。

あるユダヤ人の学者が興味深い考えを述べています。それは、7章のらい病のある4人の人々が、ゲハジとその息子たちであるということです。そして、彼らの行動によって、神様が彼らを癒されたというものです。

いずれにせよ、二つ目は神様の完璧なタイミングについてです。

4章で、私たちはシュネムの女の人について読みました。

イスラエルに飢饉があったために、エリシャはその家族に別の国に住んだ方が良いと言いました。

しかし、その間に、その主人は亡くなりました。そのため、彼女とその息子はイスラエルに帰り、すぐに王のもとに行き、自分の家と畑が返されるように頼みました。

彼らが王の前に来たちょうどその時、ゲハジは王にエリシャがどのようにその女の人の息子を復活させたかについて話しているところでした。

ゲハジが彼女を見て本当に驚いたと思います。そして彼は言いました。

王さま。これがその女です。これが、エリシャが生き返らせたその子供です。(列王記第二8:5)

ヨラムは彼女にその事件について尋ね、感動したため、彼女の畑と家をすぐに返しました。

神様のタイミングは本当に完璧です。振り返ると、さまざまな例を思い出します。

例えば、神様が私の妻を私の人生に導いてくださったことは、本当に素晴らしいと思います。(ですが、その話は別のブログに置いておきましょう。)

それでも試練の時には、待つことが大変になるかもしれません。時には、神様のタイミングを待たずに、自分の力で何かをしようとしてしまいます。

日本では、多くのシングルの人々が、待つことに飽きてノンクリスチャンと結婚してしまいます。けれども後になって、一つの問題の代わりにさらに大きな問題を抱えることに気付くことがあります。

神様のタイミングが完璧であることを心に留めておきましょう。ダビデが書いたように、

ああ、私に、生ける者の地で主のいつくしみを見ることが信じられなかったならーー

待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。(詩篇27:13-14)

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忍耐がなくなり、信仰もなくなっている

イスラエル人はアラム人にあわれみを与えたので、しばらく平和が続きました。

ところが、結局、アラムの王は再び全軍を召集して、サマリヤを包囲しました。

その結果、イスラエル人は食べ物がなく、生き残るために酷いことをしてしまいました。

ある女性がイスラエルの王ヨラムの前に行き、言いました。

この女が私に[あなたの子どもをよこしなさい。私たちはきょう、それを食べて、あすは私の子どもを食べましょう]と言ったのです。

それで、私たちは、私の子どもを煮て、食べました。その翌日、私は彼女に「さあ、あなたの子どもをよこしなさい。私たちはそれを食べましょう」と言ったのですが、彼女は自分の子どもを隠してしまったのです。(列王記第二6:28-29)

ヨラムはどのように反応したでしょうか。彼は神様と預言者エリシャを責めました。

きょう、シャファテの子エリシャの首が彼の上についていれば、神がこの私を幾重にも罰せられますように。(列王記第二6:31)

そして、エリシャを殺すために、ヨラムはエリシャを探していた。見つけると、ヨラムは言った。

見よ。これは、主からのわざわいだ。これ以上、何を私は主に期待しなければならないのか。(列王記第二6:33)

つまり、「私は忍耐がもうなく、信仰も失っています。この悪い状態の中で、なぜ私は神様に信頼し続けなければならないのでしょうか。」

では、その前に、ヨラムは何をしていたのでしょうか。エリシャのアドバイスを求めていたのでしょうか。主の御言葉を求めていたのでしょうか。

多分、そうしなかったのでしょう。

むしろ、自分の知恵と力によってその問題を解決しようとしました。

そして、解決できないと分かっても、なお神様を求めてはいませんでした。むしろ、ヨラムは自分自身の悪い決断のために神様を責めました。(列王記第二3章でも、ヨラムは同じようなことをしていました。)

とにかく、エリシャはヨラムに神様からの救いを予言しました。ヨラムはエリシャを信じたようですが、ヨラムの侍従は信仰を失い、その疑いを口にしました。

そこで、エリシャは言いました。「あなたは神様からの救いを見るが、それを楽しむことはありません。」(列王記第二7:2)

神様はイスラエル人を救い出されました。包囲が終わり、イスラエル人は食べ物を集めるために門から暴れて出ました。

その侍従は門の管理をしていましたが、イスラエル人が彼を踏みつけたため、彼は死んでしまいました。

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

大変な時に、私たちの信仰はどれほどあるでしょうか。諦めるでしょうか。解決を探すことを諦めるだけでなく、私たちの信仰も諦めるのでしょうか。

それとも、神様に信頼し続けるのでしょうか。

すべてがうまくいく時に、神様に信頼するのは簡単です。

しかし、うまくいかなくても、あなたは信頼し続けるのでしょうか。

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悪に善を報いる

「もし私が彼を捕らえたら……」

「いつ、どこで、どうなるか分かりませんが、いつかきっと復讐してみせます……」

あなたは、そのようなことを言ったことがありますか。

私たちが傷つくと、そのような思いは珍しくありません。しかし、神様は私たちがそのように生きることを望まれていません。

この話では、アラム人の軍隊がエリシャが泊まっていた都市を包囲しましたが、神様は彼らを打って盲目にされました。

彼らが全く見ることができなかったかどうかは分かりません。そうではないかもしれません。

可能性の一つとしては、彼らの目が見えていたけれど、何を見たのか分からなかったのかもしれません。

例えば、イエス様がよみがえられた後、マグダラのマリアと二人の弟子たちはイエス様を見ましたが、すぐにはイエス様だと分かりませんでした。

もしその軍隊が全く見ることができなかったのであれば、サマリヤまで歩くのは非常に困難だったことでしょう。

とにかく、結局イスラエルの王ヨラムはエリシャの助けによって、その軍隊を捕らえました。そして、ヨラムはエリシャに尋ねました。

私が打ちましょうか。私が打ちましょうか。わが父よ。(列王記第二6:21)

多分、ヨラム王はこのように考えました。「これはチャンスです。敵を打てば大きい勝利になります。」

また、「私たちは何もしていないのに、彼らは私たちを攻撃しました。彼らは死に値するのではないでしょうか。」と考えたのかもしれません。

しかし、エリシャはこう答えました。

打ってはなりません。あなたは自分の剣と弓でとりこにした者を打ち殺しますか。

彼らにパンと水をあてがい、飲み食いさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。(22)

ヨラム王はエリシャの言葉に従いましたので、アラム人は恥ずかしくなり、しばらくイスラエルを攻撃するのを止めました。

人々があなたを傷つける場合、あなたはどのように反応されるでしょうか。

神様は私たちがこの世の人々が反応するように望まれていません。むしろ、私たちがイエス様の模範に従うことを望まれます。

イエス様は、からかわれ、打たれ、十字架につけられながらも、敵を赦されました。

さらに、彼らの罪のために死んでくださいました。

つまり、イエス様は彼らの悪に善をもって報いられたのです。

パウロの言葉を思い出しましょう。

だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。

あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。

愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」

もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。

悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(ローマ12:17-21)

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列王記第二

霊的な世界が見える目

この話はあまり読まれることがありませんし、日曜日のメッセージでこの話について聞くこともほとんどないでしょう。

しかし、この話が大好きです。なぜなら、この話を通して霊的な世界を垣間見ることができるからです。

エリシャとそのしもべは敵に包囲されました。しもべはパニックになりましたが、エリシャはまったく慌てることはありませんでした。なぜでしょうか。

それは、エリシャがしもべには見えないものを見ていたからです。

しもべが見たのは敵だけでしたが、エリシャはもっと大きな軍隊を見ていたのです。そして、その軍隊はエリシャの敵を包囲していました。

そこで、エリシャは祈りました。

どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。(列王記第二6:17)

エリシャが祈った後、すぐにそのしもべは火の馬と戦車がエリシャを取り巻いているのを見ることができました。その火の馬と火の戦車が山を満たしていました。

認めなければならないのは、私がいろいろなことについて心配してしまうということです。自分の問題を見て、時には心配しすぎてしまいます。

私はエリシャのような目を持ちたいのです。自分の状況だけに目を向けるのではなく、私の問題をはるかに超えておられる神様を仰ぎ見る目を持ちたいのです。

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列王記第二

細かいことも見逃さない神

神様が私たちの人生の細やかなことにまで心を留めてくださることは、私にとって驚くべきことです。

神様にとって、細かすぎることなど一つもありません。

この話では、ある預言者たちは住む場所を作ろうと木を切り始めました。けれども、その作業中に誰かが斧の頭をヨルダン川に落としてしまいました。そのうえ、その斧は借りたものでした。

エリシャはその問題について聞いたとき、それを無視しませんでした。また、「このような問題には関心がない」とは言いませんでした。

むしろ、彼はその預言者を助けました。エリシャは一本の枝を切ってヨルダン川に投げ込み、奇跡的に斧の頭を浮かばせました。

その結果、その預言者は斧の頭を取り上げることができました。

私たちは、神様の私たちへの愛をどれほど理解できるでしょうか。神様が私たちの大きな問題だけでなく、小さなことにも心を配ってくださることを理解できるでしょうか。

神様の注意に値しないことだと思うがために、私たちはどれほど祈ることを控えているでしょうか。

しかし、神様にとって、私たちは常に注意を払うに値する存在です。もし私たちが気にしているのなら、神様もまたそれを気にしてくださいます。

だから、私たちが心配することがあれば、すぐに天のお父様の前にその問題を持っていきましょう。神様は決して「これは馬鹿な話だ」などと思われることはありません。

雀の一羽でも地に落ちるのをご存じである神様は、あなたの細かいことも気づいておられます。あなたの頭の毛さえも、みな数えられている神様です。

だからこそ、神様の愛の中で安らぎましょう。

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列王記第二

神様からの救い

この箇所を読むとき、私は神様からの救いについて考えます。

まず、救いを受けるためには、誰かがその救いの方法を述べ伝えなければならないということです。

この話では、少女が本当に素晴らしいと思います。彼女の名前は記されていません。

それでも、彼女は自分の国から捕えられて奴隷となったにもかかわらず、新しい主人に憐れみを示しました。

そして、彼女は女主人にこう言いました。

もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのツァラアトを直してくださるでしょうに。(列王記第二5:3)

もし彼女が何も言わなかったら、その主人はきっと亡くなっていたことでしょう。

同じように、私たちの周りには多くの人々が罪の中で死にかけています。もし私たちが何も言わなければ、彼らはその罪の中で死んでしまいます。

だから、パウロはこう記しました。

しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。

聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。

宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。

遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。

次のように書かれているとおりです。

「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」(ローマ10:14-15)

この話から、神様からの救いについて、もう一つのことを学ぶことができます。それは、救いを得るためには、自分の方法ではなく、神様の方法に従わなければならないということです。

エリシャがナアマンにヨルダン川で身を洗いなさいと言ったとき、ナアマンは怒りました。彼はこう言いました。

 何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このツァラアトに冒された者を直してくれると思っていたのに。

ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。

これらの川で、洗って、私がきよくなれないのだろうか。(列王記第二5:11-12)

しかし、ナアマンは、自分の方法では癒されないことを認めなければなりませんでした。彼は謙遜になり、自分自身を助けることができないことを認めなければなりませんでした。

また、信仰を持ち、神様の言葉を信じて従わなければなりませんでした。

同じように、もし人々が神様からの救いを望むなら、謙遜な態度と信仰が必要です。

つまり、私たちは罪人であり、自分自身を変えることはできません。そして、罪の赦しのために、イエス様の十字架の働きを信じなければなりません。

最後に、救いは購入できる賜物ではないということです。

そのため、エリシャはナアマンの支払いを拒絶しました。神様はナアマンに、救いが無償の賜物であることを教えようとされました。

ところが、エリシャのしもべゲハジは嘘をつき、自分のためにナアマンから支払いを受け取りました。

そのため、神様は彼を罰されました。彼は、神様の無償の賜物を、対価を払わなければならないものにしてしまったからです。

救いは無償の賜物です。私たちはその賜物を得るために働くことも、支払うこともできません。ただ謙遜な心で受け取ることができるだけです。

エペソ2:8−9には、こう書いてあります。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。

行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

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列王記第二

私たちを守ってくださる神、私たちのニーズを備えてくださる神

この二つの話を通して、私たちは神様の愛を見ることができます。

一つ目の話では、飢饉がありましたが、エリシャはしもべに言いました。

大きなかまを火にかけ、預言者のともがらのために、煮物を作りなさい。(列王記第二4:38)

ところが、その煮物を食べている間に、皆はそのしもべが偶然毒のある材料を使ったことに気付きました。

そのため、彼らはエリシャに向かって叫びました。

神の人よ。かまの中に毒が入っています。(40)

けれども、神様は彼らの命を守られました。すなわち、その毒のある食べ物を命を支えるものに変えられたのです。

二つ目の話はイエス様の奇跡に似ています。

誰かがエリシャにパンを持ってきましたが、周りの人々もおなかが空いていたため、エリシャはそのパンを分けたいと思いました。

けれども、100人のためにパンが20個しかありませんでした。それにもかかわらず、エリシャはしもべにこう言いました。

この人たちに与えて食べさせなさい。主はこう仰せられる。「彼らは食べて残すだろう。」(43)

そして、神様はすべての人々のためにパンを備えてくださいました。

3年前に、私は家計について少し心配していました。そのため、私の妻はアルバイトを探していました。

彼女はその仕事に関していろいろな条件を望んでいたので、良い仕事を見つけるのは少し大変でした。

しかし最終的に、神様はちょうど良い仕事を備えてくださいました。

そして、去年、神様は私にもっと良い仕事を備えてくださいました。私たちは本当に祝福されています。

だから、これから私たちは神様にさらに信頼することを学びたいと思っています。

あなたはどうでしょうか。あなたは神様に信頼しているでしょうか。

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列王記第二

命を与えてくださるる方、希望を回復してくださる方

エリシャの奇跡はエリヤの奇跡に似ています。

なぜでしょうか。それは、エリシャの奇跡が彼がエリヤの霊の二つ分け前を受け継いだことの証拠だったからです。

そして、エリヤがある女性の息子を復活させたように、エリシャは別の女性の息子を復活させました。

この女性とその夫には子供がいませんでしたが、苦々しい思いを持つことはありませんでした。むしろ、彼らは神様を深く愛していました。

それにもかかわらず、その女性の言葉を見ると、彼女の心には何か虚しい部分があったのではないかと思います。(列王記第二4:16)

それでも、彼女は神様を愛し、エリシャを助けたいと思いました。そこで、彼女はその夫に頼んだのです。

屋上に壁のある小さな部屋を作り、「エリシャ」のために寝台と机といすと燭台とを置きましょう。「エリシャ」が私たちのところにおいでになるたびに、そこをお使いになれますから。(列王記第二4:10)

そこで、エリシャは彼女のために何をすべきか考えました。そして、彼は彼女に尋ねました。

ほんとうに、あなたはこのように、私たちのことでいっしょうけんめいほねおってくれたが、あなたのために何をしたらよいか。(13)

おそらく、彼女は息子が欲しかっただけですが、それが無理だと思っていたため、何も頼みませんでした。

けれども、エリシャはしもべゲハジから彼らに息子がいないことを聞きました。そこで、エリシャはこう言いました。

来年の今ごろ、あなたは男の子を抱くようになろう。(16)

一年後、その女性に赤ちゃんが生まれました。

ところが、数年後、その子供が父親と一緒に畑にいたとき、急に「頭が、頭が」と叫びました。その後すぐに、その子供は母親の腕の中で亡くなってしまいました。

もちろん、彼女は深い悲しみに陥りました。

そのため、彼女はエリシャのもとに行き、涙を流しながら訴えました。エリシャは彼女と一緒に戻り、神様の恵みによって、その息子は復活しました。

この箇所では、私たちは二つのことを学ぶことができると思います。

一つ目は、神様が命を与えられる方であるということです。

この話の中で、神様は二度命を与えられました。まず、その女性に赤ちゃんが授けられました。そして、その息子が亡くなったとき、再び命の息を吹き込まれました。

同じように、神様は私たちにも命の息を吹き込まれます。

私たちが生まれるとき、神様は命の息を吹き込んでくださいます。そして、私たちがクリスチャンになるときには、霊的な命の息を吹き込んでくださいます。

出産も霊的な新生も、神様からの贈り物です。その命を得るために、私たち自身で働くことはできません。

パウロもこのことを書きました。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。

それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。

行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2:8-9)

二つ目は、神様が希望を回復される方であるということです。

その息子の誕生によって、その家系が続く希望を回復されました。(長い間子供ができず、その希望が失われていたのでしょう)。

そして、その息子が亡くなったとき、神様は彼を復活させ、もう一度希望を回復されました。

神様は私たちにも同じことをしてくださいます。私たちの希望が失われたとき、神様はその希望を回復してくださるのです。

私の教会では、この歌を歌うのが大好きです。ローマ15:13とローマ8:26に基づいた歌です。

どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和で満たし、聖霊の力によって望みにあふれるようにしてくださいますように。

主よ、あなたはすべてのことを働かせて益としてくださいます。 希望の神、あなたこそ私の希望です。

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列王記第二

払うことができない負債

負債が嫌いです。クレジットカードはあまり使いませんが、使った場合は、必ず一括で全額を支払います。

家のローン以外には他の負債がありません。もうお金を借りるつもりはありません。

なぜローンが嫌われるのでしょうか。もちろん返済しなければならないからです。そして、もし返済できなければ、非常に厳しい状況に追い込まれてしまいます。

この箇所では、ある女性がその問題に直面していました。その夫は亡くなりましたが、まだ負債が残っていました。さらに、その女性はその負債を返済することができませんでした。

多分、それは夫の医療費だったのかもしれません。いずれにせよ、その女性は本当に困っていました。

その時代では、もし負債を返済できなければ、牢に入るか、負債を返済するまで奴隷として働かなければなりませんでした。

この場合、貸主はその女性の二人の子供を奴隷にしようとしていました。しかし、そうなると、その女性が年を取ったとき、彼女の息子たちは彼女の必要に応えることができなくなります。

そのため、彼女はエリシャに助けを求めました。

そして、エリヤがツァレファテのやもめの持っていた粉と油を増やしたように(列王記第一17章)、エリシャはその女性の持っていた油を増やしました。

彼女は少しの油しか持っていませんでしたが、エリシャはこう言いました。

外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。

家に入ったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。

そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。(列王記第二4:3-4)

彼女はエリシャの言葉に従い、その油が奇跡的に増えました。すべての器がいっぱいになりました。そのため、彼女は負債を返済することができ、さらにその残りで生活をすることができました。

その女性のように、私たちも返済できない負債を抱えていました。それは、罪の負債です。

ローマ書3:23には、このように書かれています。

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができ「ない」

だから、私たちの罪のためには代価を支払わなければなりません。

けれども、どうやってその代価を支払うことができるのでしょうか。実際のところ、私たちにはその力がありません。

そのため、私たちは神様から永遠に離れることに値するのです。

しかし、神様は私たちを愛しておられ、御子イエス様を送りました。そして、イエス様は私たちの罪のために十字架で死なれました。その十字架で、イエス様は私たちの罪の負債をすべて支払われたのです。

イエス様は死ぬ前に、「完了した」と言われました。

この「完了した」という言葉は、ローマ時代に税金の支払いでよく使われました。誰かが税金を支払うと、その書類に「完了した」とスタンプが押されました。これは、「すべて支払いました」という意味を持っていました。

したがって、イエス様の意味するところは、「私の死によって、あなたの罪の負債をすべて支払った」ということです。

そして、神様があの女性の器に油を注がれたように、神様は私たちの心に聖霊を注いでくださいます。(油は聖霊の象徴です。)

パウロによれば、「聖霊は、私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」(エペソ1:14)

それだけではなく、神様はあなたの人生を生きがいのあるものにし、あなたの必要をすべて備えてくださいます。

だから、パウロの言葉を心に留めておきましょう。

私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。(ローマ8:32)

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列王記第二

神様の御心に従うか自分の心に従うか

イスラエルの王ヨラムは、モアブの反逆に直面しました。モアブは、ヨラムの父アハブに貢物を送り続ける義務がありました。

けれども、アハブが死ぬと、モアブの王はその貢物を送るのをやめました。そのため、ヨラムはエドムの王とユダの王と同盟を結び、モアブを攻めるために行動しました。

再び、ユダの王ヨシャパテは悪い決断を下しました。それは、良くない同盟を結んだことです。

なぜそのような決断をしたのでしょうか。

おそらく、ヨシャパテの息子がアハブの娘と結婚していたためでしょう。

また、ユダとモアブの関係が悪かったことも理由として挙げられます。いずれにせよ、その決断はまた新たなトラブルを生み出しました。

3人の王とその軍隊が一緒に砂漠を越えたとき、水が尽きてしまいました。そのとき、現代でも多くの人がするように、ヨラムは神様を責めました。彼はこう言いました。

ああ、主が、この三人を召されたのは、モアブの手に渡すためだったのだ。(列王記第二3:10)

ヨシャパテがエリシャの助言を求めましたが、エリシャが来ると、彼はヨラムにこう言いました。

私とあなたとの間に何のかかわりがありましょうか。

あなたの父上の預言者たちと、あなたの母上の預言者たちのところにおいでください。(13a)

けれども、ヨラムは再び自分の問題の責任を神様に押し付けました。

いや、主がこの三人の王を召されたのは、モアブの手に渡すためだから。(13b)

それでも神様は恵み深く、水を備え、彼らに勝利を与えられました。

私たちが自分自身に問いかけるべきなのは、「私は本当に神様の御心に従っているのだろうか。それとも、神様の名前を使って自分自身の心に従っているのだろうか」ということです。

その違いは何でしょうか。

私たちが自分の計画を立てて、「神様、この計画を祝福してください」と祈ることは、神様の御心に従うことではありません。

それは自分自身の心に従っているにすぎません。ただ、神様の御名を自分の計画に付け加えているだけなのです。

多くの場合、その結果として、私たちは困難に陥ります。そして、「なぜ?」と問いながら、神様を責め始めます。

しかし、それは良い生き方でも良い考え方でもありません。

むしろ、私たちが祈るべきことは、「神様、あなたの御心は何でしょうか。そして、あなたの御心が私の人生に成し遂げられますように」ということです。

もし私たちが最初から神様を求めるなら、神様は私たちを導いてくださいます。そして、私たちが神様に従うなら、私たちの「することで繁栄し、また栄えることができる。」(ヨシュア記1:8)

あなたはどうでしょうか。

あなたは神様の御心に従っているでしょうか。

それとも、神様の御名を口にしながら、自分自身の心に従っているのでしょうか。

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列王記第二

神様の言葉に背くと

この箇所を通して、私たちは神様の言葉に背くことの結果を思い出させられます。

ここに書かれているのは、神様の言葉を知らないことの結果ではなく、神様の言葉に背くことについてです。

この箇所で、エリシャはベテルという町に行きました。そのとき、ある男性たちがエリシャのもとに近づいてきました。

少し説明する必要があります。

新改訳聖書には「小さい子供たち」と書かれていますが、そのヘブル語の表現は別の方法でも翻訳できます。つまり、「若い男性たち」と訳すこともできるのです。

列王記第一14-17節において、この同じヘブル語の表現は「若い者」と訳されています。その箇所では、若い者たちが戦争で戦ったと記されています。

したがって、この「小さい子供たち」は、10代あるいは20代の若者たちであった可能性があります。

また、彼らは町から出てきて、エリシャのもとへ向かいました。それは偶然ではありませんでした。彼らは意図的にエリシャのもとへ行ったのです。

そして、彼らはこう言いました。

上って来い、はげ頭。上って来い、はげ頭。(列王記第二2:23)

それはどういう意味なのでしょうか。

おそらく、彼らはエリヤが天国に行ったことについて聞いていたのかもしれません。そして、彼らが言ったのは、「もう出て行け!あなたの主人のもとに行きなさい。」という意味だったのでしょう。

ある聖書の学者によれば、彼らはその言葉でエリシャを脅した可能性があります。

それが事実かどうかは分かりませんが、彼らが神様の言葉に背き、神様の預言者を尊敬しなかったことは確かです。

そのため、エリシャは彼らを呪いました。そして神様は熊を送り、その40人の若い者たちを殺しました。

彼らを殺す必要が本当にあったのでしょうか。神様はそう判断されたのです。

思い出してください。エリシャではなく、神様がその熊を送られたのです。

そして、その40人の若者たちがエリシャを脅したとき、エリシャを守るために神様は彼らを滅ぼさざるを得ませんでした。

とはいえ、たとえ彼らがエリシャを脅さなかったとしても、神様はその若者たちとその町の人々に重要なことを教えられました。

それは、もしあなたが神様の言葉に背くなら、また神様に反抗するなら、最終的に裁きが来るということです。

それはすぐに来るかもしれませんし、遅れて来るかもしれません。しかし、確実に裁きが来るのです。

では、私たちはどうでしょうか。私たちは神様の言葉にどのように反応するのでしょうか。

時々、私たちは神様の言葉を聞いて気分が悪くなることがあります。それは、神様が私たちの罪を明らかにされるからです。

また、時には、その言葉を聞きたくないために怒ることもあります。

けれども、私たちはどのように感じても、正しく応答すべきです。

その言葉を無視することはできません。

そして、もしその言葉に背くなら、私たちは裁きを受けることになるのです。

神様は忍耐強いお方です。しかし、神様の忍耐は永遠には続きません。

歴代誌第二36章では、ユダへの裁きについて記されています。それは、ユダがイスラエルのように罪と堕落に陥ったためです。このように記されています。

 彼らの父祖の神、主は、彼らのもとに、使者たちを遣わし、早くからしきりに使いを遣わされた。

それは、ご自分の民と、ご自分の御住まいをあわれまれたからである。

ところが、彼らは神の使者たちを笑いものにし、そのみことばを侮り、その預言者たちをばかにしたので、ついに、主の激しい憤りが、その民に対して積み重ねられ、もはや、いやされることがないまでになった。(歴代誌第二36:15-16)

あなたはどうでしょうか。神様の言葉を聞いたとき、どのように反応するのでしょうか。

特に、神様があなたの罪を示されたとき、あなたは怒るでしょうか。

それとも、その言葉を無視するでしょうか。

それとも、その言葉に背くでしょうか。

そのようにすると、イスラエル人のように、あなたの心は固くなってしまいます。

そして、長く続けば、最終的に癒されることがない状態に至ります。裁きが来るのです。

しかし、もしあなたが自分の心を柔らかくして、罪を告白し、神様の言葉を受け入れるなら、あなたの人生は変えられます。そして、赦しと癒しが与えられるのです。

あなたはどの道を選ぶのでしょうか。

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死んでいる土地、また実を結ばない土地で塩になる

この国は沼地だ。やがてお前にもわかるだろうな。この国は考えていたより、もっと怖ろしい沼 地だった。

どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。

我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった。

それは遠藤周作の小説『沈黙』の中で、棄教した教父クリストヴァン・フェレイラの言葉です。

この物語の中で、フェレイラは他の神父たちに、日本でキリスト教を広める努力が空しいことを説得しようとしました。

現在でも、日本にはクリスチャンがあまりいません。クリスチャンは日本の人口の1%以下です。

長い間、多くのクリスチャン宣教師が日本を訪れましたが、その状況はほとんど変わっていません。

日本は「宣教師の墓地」と呼ばれることがあります。多くの宣教師は希望を持って日本に来たものの、最終的に失望して帰国します。

この箇所を読むと、そのことについて考えさせられます。エリシャがある町に行った時、その人々はこう言いました。

あなたさまもご覧のとおり、この町は住むのには良いのですが、水が悪く、この土地は流産が多いのです。(列王記第二2:19)

「この土地は流産が多い」という表現には、二つの意味が含まれている可能性があります。

一つ目は、妊婦たちが頻繁に流産を経験していたかもしれないということです。

二つ目は、その土地の木々が実をしっかりと結ばず、完熟する前にいつも落ちて死んでしまっていたということです。

多くのクリスチャンは日本について、似たようなことを語ります。

「日本は素晴らしい国です。また、日本人は本当に優しいです。しかし、水が悪く、この土地では実が全然結ばれません。努力して福音の種を蒔いても、何も育たないのです。」

では、エリシャは何と言ったのでしょうか。彼は塩を水の源に投げ込んで、こう言いました。

主はこう仰せられる。「わたしはこの水をいやした。ここからは、もう、死も流産も起こらない。」(列王記第二2:21)

イエス様は、そのようなことを日本に対してもなさりたいのです。

イエス様は、私たちを「地の塩」と呼ばれました。そして、イエス様は日本という沼に私たちを投げ込み、その「水」を癒したいと望んでおられます。

イエス様は、この根が腐った沼を変え、生ける水、すなわち聖霊様をその沼に注ぎたいと望んでおられます。

そうすることで、この沼はもはや死が治める場所ではなくなり、肥沃な土壌となり、福音の種がしっかりと育つのです。

しかし、それが実現するためには、私たち自身が塩となる必要があります。

イエス様はこう言われました。

あなたがたは、地の塩です。

し塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。(マタイ5:13)

どうやって、私たちの塩けはなくなってしまうのでしょうか。

この世の人のように振る舞うならば、塩けを失います。つまり、私たちの考え方や行動が、この世の人々と同じになることです。

また、毎日、神様中心の生活ではなく、自己中心の生活を送ることです。

さらに、天にあるものを思わず、地上のものだけを思うようになることも原因です。

このようにして、私たちはさまざまな方法で塩けを失ってしまうのです。

私たち自身に問いかけるべきことは、「私はどれくらい塩けがあるでしょうか」ということです。

もし日本でリバイバルを見たいと願うなら、また日本が福音の種に対して肥沃な土壌となることを望むなら、それは私たちが塩となることから始まるのです。

神様は私たちを日本のための塩として召してくださいました。だからこそ、その役割を果たしていきましょう。

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ひとりぼっちじゃない

エリヤがこの世を去り、神様のもとへ行く時が近づいていました。しかし、エリヤが去る前に、彼は弟子エリシャにこう尋ねました。

私はあなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。(列王記第二2:9)

エリシャはこのように答えました。

では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように。(9b)

エリヤは約束することはできませんでしたが、エリシャにこう言いました。

もし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことがあなたにかなえられよう。できないなら、そうはならない。(10)

彼らが歩いていると、突然、一台の火の戦車と火の馬が現れ、エリヤは竜巻に乗って天へと上って行きました。エリシャはそのすべてを見ていました。

エリヤとエリシャがヨルダン川を渡っていた時、エリヤは自分の外套を取り、それを丸めて水を打つと、水は両側に分かれました。(8)

エリシャが一人で戻った時、彼はこう尋ねました。

エリヤの神、主はどこにおられるのですか。(14)

つまり、エリシャはこう考えたのです。「神様はエリヤと共におられたように、私と共にもいてくださるのだろうか。それとも、私は一人ぼっちなのだろうか。」

そしてエリシャは、エリヤの外套を取り、丸めて水を打ちました。すると、再び水は両側に分かれました。これにより、エリシャは神様の答えを悟ることができました。

この話を読むと、私は別の話を思い出します。最後の晩餐で、イエス様は弟子たちにこう言われました。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。

またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。

あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。。。

わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。(ヨハネ14:12-14,18)

エリヤが去った時、聖霊様がエリシャと共におられたように、聖霊様は私たちと共におられます。

そして、エリシャがエリヤよりもさらに大きなわざを行ったように、私たちもイエス様よりさらに大きなわざを行うことができるのです。

どうしてでしょうか。それは、神様がエリシャをお見捨てにならなかったように、私たちを決してお見捨てにならないからです。また、私たちを決して孤児とされないからです。

むしろ、イエス様は私たちのもとに来てくださり、愛を与えてくださるだけでなく、力も与えてくださいます。そして、私たちがイエス様の名によって何かを求めるならば、イエス様はそれを成してくださいます。

だからこそ、エリシャがエリヤに忠実に仕えたように、私たちもイエス様に忠実に仕えましょう。絶えずイエス様についていき、また、イエス様が私たちに託されたことを行いましょう。

イエス様はこう言われました。

わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。

私を愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。(ヨハネ14:21)

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口先だけの言葉を望まない神

イスラエルの王アハズヤの治世は、それほど長くは続きませんでした。およそ2年間だけでした。

父アハブと同様に、アハズヤはバアルを礼拝し、またヤロブアム王が作った金の子牛を通して「ヤハウェ」を礼拝しました。

けれども、アハズヤは本当に神様に従いたいとは思いませんでした。そのため、大きな事故の後、アハズヤは自分が生き延びるかどうかを知るために、異国の神に相談しました。

そのことに対して、神様はエリヤを送りました。そしてエリヤは、アハズヤの使者にこう言いました。

主はこう仰せられる。あなたが人をやって、エクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てるのは、イスラエルに神がいないためか。

それゆえ、あなたは上った寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。(列王記第二1:6)

アハズヤはそのメッセージを聞くと、五十人隊の長を、その部下五十人と共にエリヤのもとに遣わしました。

なぜアハズヤが彼らを遣わしたのかは分かりません。エリヤを捕らえるために送ったのかもしれませんし、エリヤからさらに話を聞きたかったのかもしれません。

いずれにせよ、二度にわたり、五十人隊の長はエリヤのもとに行き、高慢な態度で話しました。

神の人よ。王がこう申しております。急いで降りて来てください。(11)

おそらく、彼らは「神の人」と言いながらも、エリヤをからかっていただけだったのでしょう。

そのため、エリヤは二度、こう答えました。

もし、私が神の人であるなら、天から火が下って来て、あなたと、あなたの部下五十人を焼き尽くすだろう。(10-12)

けれども、次の五十人隊の長は謙遜な態度を示し、こう言いました。

「神の人よ。どうか私のいのちと、このあなたのしもべ五十人のいのちとをお助けください。

ご承知のように、天から火が下って来て、先のふたりの五十人隊の長と、彼らの部下五十人ずつとを、焼き尽くしてしまいました。今、私のいのちはお助けください。」(13-14)

そこで、神様はエリヤをもう一度アハズヤのもとに送りました。その直後、アハズヤは命を落としました。

私たちはここから何を学べるでしょうか。神様は私たちの口先だけの言葉を決して望まれません。

アハズヤは他のイスラエルの王たちと同様に、神様を礼拝すると言いながらも、神様が定められたとおりには礼拝しませんでした。

特に彼は、金の子牛を礼拝し、「これが神様だ」と宣言していたのです。

さらに、困難な時にも本当の神様に相談せず、異国の「神」に相談しました。

最初の二人の五十人隊の長はエリヤを「神の人」と呼びましたが、心の中では彼が本当に神の人だとは思っていませんでした。

けれども、最後の五十人隊の長は信仰を持ったため、神様は彼に憐れみを示されました。

私たちはどうでしょうか。神様に口先だけの言葉を捧げるのか、それとも謙遜な心を持って神様に従うのかを問われています。

ある日、

イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、

すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2:10-11)

ある人は、感謝の心から喜びとともに告白します。ある人は、苦しい心から涙とともに告白します。しかし、すべての人々はイエス様の権威に従い、口先だけの虚しい言葉は消え去るのです。

だからこそ、今こそ、口先だけの言葉や態度を捨て去りましょう。むしろ、心から神様に仕え、イエス・キリストが主であることを認めましょう。