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列王記第二のデボーション

み言葉に従う前に必要なこと

そのとき、大祭司ヒルキヤは書記シャファンに、「の宮で律法の書を見つけました」と言った。

そしてヒルキヤがその書物をシャファンに渡したので、彼はそれを読んだ。。。

シャファンは王の前でそれを読み上げた。王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を引き裂いた。(列王記第二22:8,10-11)

今週、私はヨハネ15章を反芻しています。そして、神のみ言葉が私たちにとどまるとはどういう意味かを考えていました。

もちろん、神のみ言葉が私たちにとどまるためには、私たちはそのみ言葉を信じ、従わなければなりません。

でも、そのみ言葉を信じて従う前に、もう一つのことをしなければなりません。

私たちは、そのみ言葉を知るべきです。

今日の話では、私たちはその真理を見ます。

神殿の状態は本当にひどいものでした。どうして祭司たちは神の律法の巻物がどこにあるのか、ずっと知らなかったのでしょうか。

ヨシヤは神様に対して柔らかい心を持っていました。神のみ言葉に対するヨシヤの反応は、自分の心を明らかにしました。ヨシヤはそのみ言葉を信じて従いました。

でも、私たちは知らないことを信じて従うことはできません。

あなたは神のみ言葉を知っているでしょうか。

神様の目には、無知は言い訳ではありません。ユダの無知によって、神の怒りと裁きは彼らに下ろうとしていました。

そのように、私たちが神様のみ言葉を信じ、従わなければ、私たちの人生、つまり、私たちの家族やほかの人間関係や経済などは、めちゃくちゃになってしまいます。

でも、私はもう一度言います。信じ、従う前に、神のみ言葉を知らなければなりません。

あなたは毎日、神のみ言葉を読む時間を取っていますか。もしかすると、聖書はあなたの家に、あるいはあなたのスマホに「見当たらない」のではないでしょうか。

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神のさばき、神の忍耐

ユダの王マナセは、これらの忌み嫌うべきことを行い。。。

それゆえ、イスラエルの神、主はこう言われる。

見よ、わたしはエルサレムとユダにわざわいをもたらす。だれでもそれを聞く者は、両耳が鳴る。(列王記第二21:11ー12)

マナセ王のことを考えたとき、神様の忍耐とあわれみは私の心をもう一度打ちました。

マナセ王はたぶん、ユダの王たちの中でもっとも悪い王でした。

彼はユダに偶像礼拝を復活させたり、自分の息子をその偶像に捧げて火の中を通らせたり、たくさんの人々を殺したりしました。

ユダヤ人の伝承によると、その時、預言者イザヤは「のこぎりで引かれました。」(へブル11:37)

そういうわけで神様はマナセとユダに判決を下しました。それでも、そのさばきは何年もユダに降りかかりませんでした。

なぜでしょうか。なぜなら、神様の望みは彼らが悔い改めることだったからです。

驚くべきことですが、マナセは最終的に悔い改めました。(歴代誌第二33:10ー13)

あいにく、マナセの息子であるアモンは悔い改めませんでしたが、その孫であるヨシヤは悔い改めたので、ヨシヤが死ぬまで、そのさばきはユダに降りかかりませんでした。

マナセの話を考えて、私は自分への神様のあわれみを思い出しました。

私が神様の目に忌み嫌うことを何度も犯したのに、神様は私をあわれんでくださいました。

神様の忍耐は本当に素晴らしいです。私は心から神様に感謝しています。

ダビデもその忍耐とあわれみを経験して、こう歌いました。

主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのに遅く、恵み豊かである。(詩篇103:8)

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祈るときの私たちの態度

ああ、主よ、どうか思い出してください。私が真実と全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたの御目にかなうことを行ってきたことを。(列王記第二20:3)

この出来事は、アッシリアの王センナケリブがユダに侵略し始めた後、その軍隊がエルサレムを包囲する前に起こったようです。(20:13と18:14ー16を参考してください。)

私が気づいたのは、ヒゼキヤの祈りの根拠と神様の答えの根拠です。

ヒゼキヤは祈るとき、自分の忠実さを指して、「私は良い人だ」と主張しました。

でも、神様がなぜヒゼキヤを癒し、ユダをアッシリアから救ってくださったのかを説明された時、何と言われたでしょうか。

神様は、「わたしのために、わたしのしもべダビデのため」と言われました。(16節)

簡単に言うと、ヒゼキヤの真実さや善良さではなく、ご自分の栄光のため、また、ご自分のいつくしみ、忠実さ、恵みによって神様はそうしてくださいました。

神様はダビデにいろんな約束をしたので、その約束を忠実に守ってくださいました。

そして、ヒゼキヤを癒し、ユダをアッシリアから救われたことによって、神様はヒゼキヤだけでなく、ユダの人々にも、周囲の国々にも、ご自分の栄光といつくしみと恵みを現されたのです。

この話を読んで、私はこう考えました。

「何によって、私は神様の前に来て祈るのだろうか。自分の忠実さや良い行為を指すのだろうか。私は神様に『私はあなたの祝福に値する』と主張するだろうか。」

もしかすると、私はこう祈るだろうか。

「神様、私はあなたから何も受けるに値しません。でも、私へのあなたのいつくしみや恵みや忠実さによって、私はあなたの前に来て、祈ります。」

そのような心をもって、祈るだろうか。

もし、私たちが「神様の祝福に値する」と思うなら、ヒゼキヤのように、プライドの罠に陥りやすくなります。(12ー19節;歴代誌第二32:24ー25)

「神様が私の願いをかなえてくださることは当たり前だろう。私はふさわしいものだから。私は神様の祝福に値するのだ。」

その反面、神様が私の祈りに「いいえ」と答えると、私たちは怒ってしまいます。

あなたは、何によって神様の前に来て、祈るでしょうか。

自分の善良さを指すのでしょうか。

それとも、神様の恵み、いつくしみ、忠実さによって祈るでしょうか。

天のお父さん、あなたから私は何の良いものに値しません。

それでも、あなたの恵みによって、あなたが私をご自分の子供と呼んでくださり、私は何でも願うことができます。

だから、私はへりくだってあなたの前に来て祈ります。

私の善良さではなく、あなたのいつくしみ、恵み、真実さによって、私は祈ります。

そして、あなたが「はい」と答えても、「いいえ」と答えても、私は、あなたが良い方であり、あなたの道が最善のものであることを信じることを選びます。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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何に拠り頼んでいるのか

(ヒゼキヤ)は。。。主の目にかなうことを行った。。。

彼はイスラエルの神、主に信頼していた。

彼の後にも前にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。

彼は主に堅くつき従って離れることなく、主がモーセに命じられた命令を守った。。。

ヒゼキヤ王の第十四年に、アッシリアの王センナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々に攻め上り、これを取った。。。

ラブ・シャケは彼らに言った。

「ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリアの王がこう言っておられる。「いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか。」」(列王記第二18:3、5ー6、13、19)

天のお父さん、ヒゼキヤは心を尽くしてあなたに従い、仕えました。それでも、困難は起こりました。そして、敵が来て叫びました。

「いったい、お前は何に拠り頼んでいるのか。」

私はヒゼキヤに共感できます。時々、私は正しいことを行い、あなたに頼り、忠実に仕えようとしますが、それでも困難が起こります。

そして、敵であるサタンが来て、私に叫びます。

「いったい、お前は何に拠り頼んでいるのか。神様なのか。」

サタンは、私があなたを疑うことを望んでいます。彼の動機は悪いものですが、その問いは実際に良いものです。

私はいったい何に拠り頼んでいるのでしょうか。私は本当にあなたに拠り頼んでいるのでしょうか。

試練が訪れるとき、自分自身に頼るのは簡単なことです。つまり、自分の力や知恵に頼るのは自然なことです。

しかし、もしかすると、この試練を通して、あなたは私に、私がどれほどあなたを必要としているかを思い起こさせてくださっているのかもしれません。

ヒゼキヤはエジプトに拠り頼むことをやめ、あなたに拠り頼み始めなければなりませんでした。(イザヤ書30-31章)

天のお父さん、私も、自分自身に頼ることをやめ、あなたに拠り頼む者となるよう助けてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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根本的な問題

こうなったのは、イスラエルの子らが。。。主に対して罪を犯し(ました。)(列王記第二17:7)

数年前、私はメッセージを聞いたとき、牧師は興味深い質問を訊きました。

「私たちの問題には、いろんな理由があるかもしれません。でも、根本的な理由は何でしょうか。」

7節を読んだとき、その牧師の言葉を思い出しました。

イスラエルが倒れた理由はたくさんありました。

そのころ、アッシリアは大国でしたが、イスラエルは小さな国でした。

ホセア王はアッシリアの王と条約を結びましたが、その条約を破りました。

この二つの理由によって、イスラエルが倒れたことを説明することはできます。

でも、それらは根本的な理由でしょうか。

18章と19章では、ヒゼキヤもアッシリアとの条約を破り、エルサレムはアッシリアの軍隊に囲まれました。

アッシリアはユダ王国よりも強かったのですが、ヒゼキヤが神様の御前にへりくだったとき、神様はエルサレムを救ってくださいました。

その時だけではなく、イスラエルが何度もより強い敵に直面したとき、イスラエルの民が神様を信頼したので、神様は彼らを救ってくださいました。

イスラエルがアッシリアに倒された根本的な理由は、イスラエルの民が神様に背を向け、ほかの神々を礼拝していたからです。

神様とその道に従わず、イスラエルの民は周囲の国々の道を歩みました。

今日の話を読んで、自分の問題について考えました。

私の問題にはさまざまな理由があるかもしれません。でも、最も根本的な理由は何でしょうか。

私の心は神様の目にかなっているでしょうか。私は神様とその道に従っているでしょうか。

それとも、私は自分の道を歩んでいるのでしょうか。

神様が私の罪を指摘されるとき、私は悔い改めているでしょうか。

それとも、ただ言い訳をしているのでしょうか。

天のお父さん、私の心を探り、知ってください。

あなたは私の問題をすべてご存じです。その問題の根本的な理由を現してください。

私がしなければならないことがあれば、悔い改めるべきことがあれば、明らかにしてください。

私があなたを信頼し、従うことができるように助けてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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私たちが誰ものであるかを思い出す

「アハズは使者たちをアッシリアの王ティグラト・ピレセルに遣わして言った。「私はあなたのしもべであり、あなたの子です。。。」(列王記第二16:7)

この話の背景をもっと知りたいなら、イザヤ書7章を読んでみてください。

アハズがアラムやイスラエルと対立している最中に、イザヤは有名なインマヌエルの預言を語りました。

イザヤ書7章では、神様はアハズにこう語られました。

「私を信じなさい。あなたの敵は成功しない。信じるためのしるしを与える。しるしを求めなさい。」

しかし、アハズは神様を信じることを拒み、しるしを求めませんでした。

むしろ、彼はアッシリアの助けを求めました。その助けを受けたものの、「贈り物」を送らねばならず、結局、アハズの「主」と「父」はイスラエルに敵対することになったのです。

もしアハズがへりくだって神様に向かい、「私はあなたのしもべであり、あなたの子です」と告白していたなら、その結果はどれほど異なっていたことでしょうか。

私は今、自分の問題に直面しながら、神様が私にこう語っておられると感じました。

「あなたが誰のものであるかを覚えていなさい。あなたは私のしもべです。しかし、それだけではなく、あなたは私の愛する子です。私を求めなさい。私を信じなさい。」

そして、神様は私にこの詩篇を思い起こさせてくださいました。

神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある強き助け。それゆえ、われらは恐れない。

たとえ地が変わり、山々が揺れ 海のただ中に移るとも。

たとえその水が立ち騒ぎ、泡立っても、その水かさが増し、山々が揺れ動いても。。。

「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる万軍の主はわれらとともにおられる(インマンヌエル)。

ヤコブの神はわれらの砦である。(詩篇46:1ー3、10ー11)

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神様の忠実な愛を忘れる、再び

しかし、エホアハズが主に願ったので、主はこれを聞き入れられた。アラムの王の虐げによって、イスラエルが虐げられているのをご覧になったからである。

主がイスラエルに一人の救う者を与えられたので、彼らはアラムの支配を脱した。こうしてイスラエル人は以前のように、自分たちの天幕に住むようになった。

それにもかかわらず、彼らは、イスラエルに罪を犯させたヤロブアム家の罪から離れず、なおそれを行い続け、アシェラ像もサマリアに立ったままであった。(列王記第二13:4-6)

神様の恵みは本当に素晴らしいですね。

エホアハズとイスラエルの民は主に背を向けていたのに、エホアハズが神様の助けを求めると、神様は恵みによってイスラエルの民を助け、アラムから救ってくださいました。

しかし、彼らの生活が元に戻ると、神様のいつくしみに感謝することなく、自分の罪に戻ってしまいました。彼らは神様を捨て、自分の道に戻ったのです。

私たちもまた、自分の罪のゆえに苦しみ、神様に叫び求めるとき、神様は恵みによって私たちを助けてくださいます。

そして、私たちは神の忠実な愛といつくしみを忘れ、神様を脇に置いて、自分の道に戻ってしまうことがあるのです。

私たちの人生が順調なときこそ、神様を忘れないように。また、神様の忠実な愛といつくしみを当然のものと思わないようにしましょう。

パウロの言葉を心に留めておきましょう。

神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。(ローマ書2:4)

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神様の忠実な愛を忘れる

列王記と歴代誌の興味深い違いは、列王記の著者がしばしばユダの王の悪い行為について語らないことです。

例えば、列王記第一15章では、著者はアサ王の深刻な罪について触れていません。

そして、今日の箇所でも、著者はヨアシュ王の深刻な罪について語っていません。

しかし、アサの記述と同様に、著者はヨアシュの人生に否定的な側面があったことをほのめかしています。

著者はこう記しています。

ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えた間、いつも主の目にかなうことを行った。(列王記第二12:2)

上の言葉を読んだとき、この問いが浮かぶかもしれません。「エホヤダが死んだ後、ヨアシュは何をしたのだろうか。」

残念ながら、エホヤダが死んだ後、ヨアシュは主に背を向け、偶像礼拝を始めました。そして、エホヤダの息子ゼカリヤがヨアシュを責め、悔い改めを促したとき、

ヨアシュ王は、ゼカリヤの父エホヤダが自分に尽くしてくれた誠意(別約:忠実な愛)を心に留めず、かえってその子を殺した。(歴代誌第二24:22)

でも、ヨアシュはエホヤダの忠実な愛だけでなく、神様の忠実な愛までも忘れてしまいました。

特に、ヨアシュの祖母は彼を殺そうとしましたが、神様はヨアシュを守ってくださいました。

だからこの話を読んだ後、私はこのように祈りました。

天のお父さん、ヨアシュのようにならず、私があなたの忠実な愛を決して忘れることのないようにしてください。あなたの愛を忘れるなら、私はたやすくあなたに背を向けてしまうからです。

天のお父さん、私はあなたから決して離れたくないのです。

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全き心?

ただしエフーは、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪、すなわち、ベテルとダンにあった金の子牛に仕えることから離れようとはしなかった。。。

しかしエフーは、心を尽くしてイスラエルの神、主の律法に歩もうと心がけることをせず、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪から離れなかった。(列王記第二10:29,31)

今日、私は上の言葉を反芻しました。

神様は、アハブに属する者を殺すことによってアハブに対する神の裁きを実行するためにエフを褒められました。

なぜなら、アハブとその家族は罪を犯しただけでなく、イスラエルの民を罪に導いたからです。特に、彼らがイスラエルの民をバアル礼拝に導いたことが問題でした。

エフはバアル礼拝を止めたので、神様はそれを喜ばれました。

しかし、上の言葉によれば、神様はエフの心をすべて持っておられなかったようです。

エフはバアルを礼拝しなかったものの、ヤロブアムが偽りのヤハウェ礼拝のために立てた金の子牛を礼拝し続けました。(列王記第二12:26-33)

その罪、またおそらく他の罪に関しても、エフは主の律法に従おうと心がけることをしませんでした。(出エジプト記20:4-5;申命記12:5-14)

それを読んで、私は自分にこの二つの質問を投げかけました。

1.私がしがみついている罪があるのだろうか。私が離れようとしない罪があるのだろうか。小さくても、私の人生にそのような罪があるのだろうか。

2.私は心を尽くして神様の言葉に従おうと心がけているのだろうか。私は神の戒めの最も小さいものにも従っているのだろうか。(マタイ5:19)

私は、神が私の心の一部ではなく、すべてを持っておられることを望みます。あなたはどうでしょうか。

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神様の忍耐、神様の裁き

アハブがナボテを殺したとき、神様はアハブとその家族を裁かれました。

しかし、アハブが神様の御前にへりくだったとき、神様はその裁きを先延ばしにされました。(列王記第一21:21〜29)

それでも、アハブはやがて再び神様に反抗し、殺されました。(列王記第一22章)

けれども、私が驚いたのは、アハブの息子ヨラムに対する神様の恵みです。12年間にわたって、神様は何度もヨラムを助けてくださいました。(列王記第二3章、5〜7章)

さらに、神様がご自身の驚くべきタイミングをヨラムに示されたことで、ヨラムはシュネムの女の人を助けてくれました。(8:1〜6)

おそらく、神様はヨラムほど他の不敬虔なイスラエルの王に、そのような恵みを与えられなかったでしょう。

それでも、私たちはヨラムが最終的に悔い改めて神様に従ったという示唆をまったく見ていません。むしろ、彼は自分の罪に執着し、それから離れることがありませんでした。(列王記第二3:3)

その結果、神の裁きが彼に下されたのです。

では、私は何を言いたいのでしょうか。

旧約聖書を読むとき、神様の裁きが厳しすぎると感じるのは容易です。

けれども、私たちが忘れてはならないのは、最も反抗的な人々に対してさえ、神様が忍耐強く、恵み深くおられたということなのです。

神様は正義の方であり、永遠に裁きを先延ばしにすることはできません。それでも、神様は人を裁くことを喜ばれる方ではありません。むしろ、神様は人を憐れむことを喜ばれるのです。

だからこそ、神様は預言者エゼキエルにこう語られたのです。

わたしは生きている──神である主のことば──。

わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。

悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。(エゼキエル33:11)

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信仰の目

見よ、これは主からのわざわいだ。これ以上、私は何を主に期待しなければならないのか。(列王記第二6:33)

抜き打ちテストをしましょう!6章に登場するイスラエルの王の名前は何でしょうか。

もしその名前がすぐに思い浮かばないとしても、正当な理由があります。

3章ではその王の名前が一度だけ登場しますが、その後、著者は彼を常に「イスラエルの王」と呼び続けます。

エリシャの名前やヨシャファテ王の名前、さらにはナアマンの名前でさえ、イスラエルの王の名前よりも頻繁に登場します。(ちなみに、その王の名前はヨラムです。)

8章から9章でヨラムが死ぬまで、私たちは彼の名前を再び目にすることはありません。

深読みかもしれませんが、もしかすると列王記の著者はヨラムを軽視していたのかもしれません。なぜなら、ヨラムには神様への信仰がほとんど見られなかったからです。

5章では、信仰のない民の中で(例:6章28〜29節)、敬虔な両親が敬虔な娘を育てました。それでも、その娘は捕らえられ、敵国で奴隷として仕えることになりました。

しかし、その困難な状況の中でも、彼女は主に仕え続けました。

私たちは彼女の両親の反応を詳しく知ることはできませんが、娘の信仰を考慮すれば、彼らも苦しみの中で神様への信仰を保っていたと推測できます。

エリシャもまた敵に囲まれていましたが、信仰の目でその状況を見ていました。

この不敬虔な王は、神様に何度も助けられていたにもかかわらず(3章、5〜6章)、困難が訪れると、すぐに神様を責め始めます。

では、私たちはどうでしょうか。

困難が訪れるとき、私たちはどのように反応するでしょうか。

ヨラムのように、神様が本当に良い方なのかをすぐに疑ってしまうでしょうか。

それとも、エリシャやあの少女のように、信仰の目をもって神様に仕え続けるでしょうか。

天のお父さん、困難が訪れるとき、信仰の目を私に与えてください。あなたを信頼し、従い続けることができるように、恵みを注いでください。

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信仰のある子供を育てる

ナアマンの物語を読んだとき、私は捕らえられた若い娘のことに思いを巡らせました。彼女はナアマンのツァラアトを見て、エリシャの助けを求めるように勧めたのです。

そのことを考えていた時、神様は二つのことを私の心に示してくださいました。

一つ目は、その女の子がイスラエルで育った時、神様に背を向ける人々の中で生活していたということです。

それでも、その子どもはイスラエルの王よりも深い信仰を神様に対して持っていました。

そして、神様は私の心にこの問いを置かれました。

「信仰のない国で、どうしてその子どもは信仰を持っていたのでしょうか。」

その答えは明らかだと思います。彼女の両親が、神様信頼することを教えていたのでしょう。

だから今日、私はこのように祈りました。

天のお父さん、どうか私の言葉と模範を通して、娘が信仰のある人となることを学びますように。

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 神の呪い、神の恵み、再び

エリシャがエリコの水を「癒す」という話を読んだとき、神様は、私が今まで気づかなかったことを示してくださいました。

エリコは呪われた町でした。

イスラエル人たちが約束の地に入ったとき、彼らが最初に征服した町はエリコでした。その時、ヨシュアはエリコを再建しようとする者に対して呪いを宣言しました。(ヨシュア記6:26)

そして、ある愚かな者がエリコを再建したとき、神様の呪いが彼に下されました。(列王記第一16:34)

エリシャの時代においても、ある意味でエリコは依然として呪われた町でした。その町は良い場所に位置していたものの、水が悪く、地は産物を生み出しませんでした。

しかし、エリコの人々がエリシャに助けを求めたとき、エリシャは塩を水の泉に投げ入れ、こう言いました。

主はこう言われる。『わたしはこの水を癒やした。ここからは、もう、死も流産も起こらない。』(2列王記2:21)

エリコは長い間呪われていました。ところが、神の恵みによって、エリコは瞬く間に癒されたのです。

あなたは、自分が神様に呪われていると感じることがあるかもしれません。自分の罪のゆえに、神様から裁かれていると思うことがあるかもしれません。

けれども、神様に向かい、へりくだって悔い改めるなら、神様はあなたの人生を癒してくださるのです。

神様が町に何百年も続いた呪いを取り去ることがおできになるなら、神様はあなたの人生にも同じことをしてくださるのです。

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神の呪い、神の恵み

1章と2章では、エリヤとエリシャを通して、神様の呪いが人々に下される場面を見ることができます。

多くの人々はそれを読んで、エリヤとエリシャの行為が酷いと感じるかもしれません。

しかし、私たちは一つのことを覚えておくべきです。それは、聖書において神の呪いとは、敵に対する魔法の言葉ではなく、反抗的な人々に対する神の裁きであるということです。

エリヤの場合、イスラエルの王や、最初の二人の隊長は、神様とその預言者に対して反抗的で傲慢でした。

エリシャの場合も、神様とその預言者に対して同じような態度が見られます。

けれども、多くの人々にとって受け入れがたいのは、神様が「小さい子どもたち」を裁かれたと記されている点です。

ところが、ヘブル語における「子ども」という言葉の定義は幅広く、「小さな子ども」を意味する場合もあれば、「青年」を指す場合もあるのです。

列王記第一3:7では、ソロモンが自分を「小さな子ども」と呼んでいます。おそらく、ソロモンは自分を卑下して、「私は無知で、青臭い者です」と言っていたのでしょう。

このように、列王記の著者は、あの青年たちの無知を批判していたのです。

しかし、ソロモンとその青年たちの違いは、ソロモンが神様の御前にへりくだったことです。そのゆえに、ソロモンは神様の恵みを受けました。

その一方で、あの青年たちは神様とエリシャに対して傲慢で敵対的な態度を取りました。だからこそ、彼らは裁かれたのです。

ですから、ヤコブの言葉を心に留めましょう。

「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える。」

ですから、神に従い。。。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。

罪人たち、手をきよめなさい。二心の者たち、心を清めなさい。嘆きなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。

主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます。(ヤコブ4:6-10)