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詩篇 歴代誌第一

不従順の歴史、憐れみの歴史

詩篇106篇では、ダビデはイスラエルの歴史を伝えます。けれども、その歴史はいつもポジティブではありません。

何回も、ダビデは、どうやってイスラエル人が神様に背を向けたかを話します。その話は私たちの人生も反映します。

1. イスラエル人は神様に逆らいました。(詩篇106:6-7)

これはこの詩篇の主要なテーマの一つです。彼らは逆らうことを選びました。

一つの理由は、彼らが神様の御業をすぐに忘れたからです。何回も彼らの目の前で神様は素晴らしい奇跡を行われました。けれども、トラブルが来るとき、彼らはその御業を覚えていませんでした。

だから、何回も、彼らは罪を犯したのです。

どれくらい私たちもそうするでしょうか。神様が私たちのために何をしてくださったか忘れるので、困る時に、私たちは文句を言い、神様を責め、自分の道を行きます。

2. 彼らは自分の欲望に負けました。(14)

イスラエル人は肉を貪りました。神様が肉を与えてくださいましたが、そのあと、疫病が発生したので、たくさんの人々が亡くなりました。

そのように、私たちの欲望に従えば、結局私たちは滅びます。例えば、性病や、心臓麻痺や、ガンにかかります。

あなたは貪ったものを得るかもしれませんが、結局その代価を払うことになります。

3.彼らは本当の神の代わりに、他の神々を礼拝し始めました。(19-20,28)

そのように、私たちもよく神様に背を向け、違うものを追い求めます。私たちはセックスやお金や、この世の物を追い求めます。それらのものが私たちの「神」になります。

だから、私たちは心のすべてを神様に捧げなくなります。また、それらの物は私たちを神様から奪います。

4. 神様の約束を信じず、神様の良い計画を侮りました。(24-27)

だから、彼らは文句を言って、神様が約束したものを受け取れませんでした。

どれくらい、私たちもそうするでしょうか。私たちは聖書を読んで、神様の良い計画を見ますが、神様がその約束を守ることを信じません。

だから、神様の言葉に従わないので、神様が約束したものを受け取れません。

5. 彼らは周りの国民のようになりました。彼らはその国民の価値観と道徳を受け入れました。(34-39)

多くのクリスチャンもそうします。神様のために、この世に影響を与えずに、かえってこの世の民のようになるので、神様が憎むことをし始めます。

この詩篇では、イスラエル人の失敗がよく見えます。しかし、神様の憐みも見えます。

何回も、自分の罪によって苦しんだ時に、イスラエル人が神様に叫んだので、神様は彼らを救い出してくださいました。

そのように、私たちが罪に落ちるとき、本当に悔い改めると、神様は赦してくださいます。

だから、ダビデは歌います。

私たちの神、主よ。私たちをお救いください。国々から私たちを集めてください。あなたの聖なる御名に感謝し、あなたの誉れを勝ち誇るために。

ほむべきかな。イスラエルの神、主。とこしえから、とこしえまで。すべての民が、「アーメン」と言え。ハレルヤ。(47ー48)

主よ。私は何度も罪を犯しました。何度も私はあなたが私のために何をしてくださったか忘れるので、感謝することも忘れてしまいます。

何度も私はあなたの約束を信じることをせず、自分の道を行き、あなたに背きます。

私はよくこの世の神を追い求めます。また、何度も私はこの世の民のようになります。

赦してください。私を変えてください。

あなたの私に対する憐れみを感謝します。

毎日、私がもっとあなたのようになりますように助けてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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詩篇 歴代誌第一

ご自身の約束を覚えておられる神

詩篇105篇のテーマは、神様がご自身の約束を覚えておられる方であるということです。

特に、詩人はアブラハム、イサク、ヤコブに対する神様の約束について語ります。

神様は彼らにカナンの地を与え、その子孫から大きな国が起こると約束されました。そして、彼らとその子孫がどのような試練に直面しても、神様はその上に御手を置いて守ってくださいました。

だから、アブラハムとイサクとヤコブが寄留の他国人としてカナンにいたとき、神様は彼らを守ってくださいました。(詩篇105:12-15)

ヨセフが奴隷としてエジプトに住んでいたとき、神様は彼に対する約束を守って、彼を支配者にされました。(17-22)

そして、エジプト人がイスラエル人を迫害したとき、神様はパロとその民を裁かれました。(23-38)

イスラエル人が水と食べ物を必要としたとき、神様は彼らのニーズに備えられました。(40-41)

そして、最終的に神様がアブラハムとイサクとヤコブに対する約束を守られたので、ダビデはこの歌を書いて神様をほめたたえました。

だから、覚えておきましょう。神様はいつもご自身の約束を守られます。何が起こっても、どんな試練に直面しても、神様が忠実な方なので、私たちは神様に信頼できます。

だから、パウロはこう書きました。

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。。。

そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

私たちは、この望みによって救われているのです。

目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。

もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。(ローマ8:18,23-25)

ある日、神様がイスラエル人に安息を与えてくださったように、私たちにも安息を与えてくださいます。その日まで、ダビデは私たちに言います。

1.主が何をしてくださったか思い出して、感謝せよ。(1、5)

時々、私たちは自分の問題に巻き込まれて、主からの祝福を感謝することを忘れます。

そのとき、私たちの問題に圧倒されます。しかし、神様からの祝福を思い出し、感謝するとき、希望と喜びは戻ります。

2.主に歌え。私たちの問題に圧倒されるとき、主の聖なる名を誇りとせよ。喜ばせよ。(2-3)

そうすれば、私たちはどれくらい神様が大きいか、またどれくらい私たちの問題が小さいか分かるようになります。そして、私たちの問題に焦点を当てずに、私たちの助け主に照準を合わせます。

3.主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。(4)

あなたの人生が辛すぎるとき、また希望がないとき、主を慕い求めてください。その力を尋ね求めてください。そうすれば、神様はあなたを助けてくださいます。

パウロはこう書きました。

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。

私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ書8:26-28)

神様は私たちへの約束を覚えてくださり、守ってくださいます。だから、主を思い出し、慕い求め、賛美しましょう。

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詩篇 歴代誌第一

神様の名前を国々に宣言する

ダビデは神様の契約の箱をエルサレムに持ってきたとき、感謝の詩篇を書きました。

もしかしたら、その詩篇は詩篇96篇、105篇、106篇からのメドレーかもしれません。

もしくは、元々ダビデは一つの詩篇を書いたけど、後でその詩篇を三つの詩篇に分けて、歌詞を少し加えたかもしれません。

とにかく、私はそれぞれの詩篇について書こうと思いました。歴代誌に出た詩篇はその三つの詩篇と少し違うけど、96篇、105篇、106篇だけについて解説します。

今日は96篇について話します。

この詩篇では、私たちが学ぶのは、神様には私たちのための目的があるということです。その目的は何でしょうか。

ダビデはこう歌いました。

新しい歌を主に歌え。全地よ。主に歌え。

主に歌え。御名をほめたたえよ。日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。

主の栄光を国々の中で語り告げよ。その奇しいわざを、すべての国々の民の中で。

まことに主は大いなる方、大いに賛美されるべき方。すべての神々にまさって恐れられる方だ。

まことに、国々の民の神々はみな、むなしい。しかし主は天をお造りになった。

尊厳と威光は御前にあり、力と光栄は主の聖所にある。(詩篇96:1-6)

私たちの目的は何でしょう。それは、国々に神様の名前を宣言することです。私たちは持っている喜びを周りの人々とシェアするべきです。

ダビデは、「主に歌え」と言います。どうしてでしょうか。神様をほめたたえるためでしょうか。もちろんそうですが、それだけではありません。

ダビデは歌い続けます。

日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。

主の栄光を国々の中で語り告げよ。その奇しいわざを、すべての国々の民の中で。(2-3)

どうしてそうしなくてはならないのでしょうか。それは、多くの人々がそのことを知らないからです。

まことに、国々の民の神々はみな、むなしい。しかし主は天をお造りになった。(5)

多くの人々は神様を知っていると思っていますが、実は、その神々はただの虚しい偶像です。

だから、私たちは神様の偉大さを宣言するべきだし、裁きの日が来ることも宣言するべきです。だから、ダビデはこう書きました。

国々の民の諸族よ。主にささげよ。栄光と力を主にささげよ。

御名の栄光を主にささげよ。(7-8)

ある日、神様は自分の王座に座り、この世の民は神様を王として認めます。その日について、ダビデはこう言いました。

確かに、主は来られる。確かに、地をさばくために来られる。主は、義をもって世界をさばき、その真実をもって国々の民をさばかれる。(13)

多くの人々は不正義について文句を言います。けれども、彼らが知らないのは、正義が来ると、彼らも裁かれるということです。

もし彼らの罪がイエス様の血によってまだ赦されていないなら、彼らは自分の罪のために裁かれます。

だから、神様はその人々に警告するように私たちを招いておられます。

あなたはどうですか。あなたは周りの人々に神様について話しますか。

彼らは神様の偉大さを知っていますか。また彼らは神様の愛について知っていますか。また、将来の裁きについて知っていますか。

彼らにそのことを宣言するのが私たちの目的です。だから、ただあなたのもらった救いに安心しきってはいけません。むしろ、周りの人々に神様の名前を宣言しましょう。

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歴代誌第一

神様を忘れる?

これはルベン族、ガド族、そしてマナセの半部族の話です。彼らは他のイスラエル人から離れて、ヨルダン川の向こう側に住んでいました。

ご存じかもしれませんが、彼らはその土地を見て「良い土地だ」と思ったため、モーセにその土地で住む許可を求めました。

モーセが語ったのは、もし彼らが他のイスラエル人と共にカナン人と戦うなら、その土地に住むことを許される、ということでした。

そのため、他のイスラエル人たちがそれぞれ自分の土地を受け取った後、この三つの部族はヨルダン川の向こう側へ帰り、そこに住み始めました。

最初、彼らの生活は順調でした。彼らが攻撃された時、彼らは神様に向かって叫びました。そして、

彼らが神に拠り頼んだので、神は彼らの願いを聞き入れられた。

ところが、ヨルダンの向こう側に住むイスラエル人のように、彼らもすぐに神様を忘れてしまいました。また、神様がどのように彼らを助けてくださったかを忘れてしまいました。

彼らは他の神々に頼り始め、自分自身の力を信頼し始めたのです。

その結果は?彼らは自分の土地から追放されざるをえなくなりました。

私たちはここから何を学べるでしょうか。時には問題があるため、私たちは神様に向かって助けを求めて叫びます。そして、神様の憐れみによって私たちは救われ、私たちの人生がうまくいき始めます。

しかしその後、私たちが神様を忘れ、他のものを求め始めるのは簡単です。例えば、キャリアやお金、持ち物や愛を求め始めることです。

そのようなもの自体は悪いものではありませんが、もしそれらを神様よりも大切にするなら、私たちは神様を忘れてしまうのです。

そして、私たちは悪い決断をし始め、結局私たちの状態が救われる前よりも悪くなるのです。

あなたはどうでしょうか。あなたは楽な人生を生きていますか。他のものを神様よりも大切にし始めていますか。

すべてにおいて、神様をあなたの人生の中心にしてください。神様に信頼し、自分の知恵と理解、そして力に頼らないでください。

そうすれば、あなたは祝福を受け、イスラエル人が陥った罠を避けることができるのです。

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歴代誌第一

過去の傷から解放される

ソロモンの話を始める前に、歴代誌第一の「プロローグ」からもう二つの話について触れたいと思います。

この箇所には、ヤベツの物語が記されています。

私たちはヤベツについてほとんど何も知りません。彼の職業も、誰と結婚したのかも、子どもがいたのかどうかも、どれほど生きたのかも分かりません。

私たちが知っているのは二つのことです。

一つ目は、ヤベツが重んじられた人であったということです。

二つ目は、ヤベツが恥ずかしい名前を持っていたということです。彼の母親はヤベツを出産したとき、本当に痛みを感じたようです。そこで、その赤ちゃんに「ヤベツ」という名前をつけました。

「ヤベツ」という名前は、ヘブル語の「痛み」という言葉に似ています。

そのような名前を持っていたヤベツが育ったとき、どのような人生を送ったのか想像できるでしょうか。

周りの男の子たちは「やあ、痛いくん!出ていけ!」と言ったかもしれません。

また、彼は自分の母の愛を疑ったかもしれません。

「お母さんは私を本当に愛しているのだろうか。もしかしたら、お母さんにとって、私は苦しみの原因なのだろうか。」

おそらく、母親や周りの人々から拒絶されたことによる苦しみの中で、ヤベツは神様に向かって叫んだのでしょう。

私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。

そこで、神様は彼の願ったことをかなえられました。(歴代誌第一4:10)

あなたはどうですか。過去の傷からまだ苦しんでいるでしょうか。

お父さんやお母さんに拒絶されたと感じているかもしれません。または、学校で友達が全くいなかったかもしれません。

あなたの過去の傷を持ち続ける必要はありません。その傷があなたの現在と未来に影響を与える必要もありません。

あなたの傷を神様に委ねてください。

そして、あなたの人生を神様にささげて、神様の臨在と祝福のために祈ってください。

そうすれば、あなたが成長の過程で受け取れなかった愛と受け入れを、今、神様から受け取ることができるのです。

しかし、その愛と受け入れを受け取っただけで満足してはいけません。

むしろ、神様から受けた愛と受け入れを、傷ついている周りの人々と分かち合ってください。

パウロが言ったように、

私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。

神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。

それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。(第二コリント1:3-5)

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列王記第一 歴代誌第一

私たちの目的を達成する

これはダビデについての最後の脚注です。すこし驚くべきことですが、パウロはこの脚注を私たちに与えました。

その時、ピシデヤのアンテオケで、パウロはユダヤ人たちにイエス様の死と復活について話していました。そのメッセージの中で、パウロはダビデについて語っていたのです。

ダビデは、その生きていた時代において神のみこころに仕えて後、死ん「だ」。(使途の働き13:36)

もし私が亡くなったら、皆にそのようなことを私について言ってほしい。

ブルースはその生きていた時代において神のみこころに仕えて後、死んだ。

私たちはダビデの人生について読み、ダビデの良い時も、悪い時も、ダビデの成功も、失敗も見てきました。また、ダビデの神様に対する深い愛や、ダビデの酷い罪をも目にしてきました。

けれども、結局のところ、パウロはダビデについてこう語りました。

ダビデは神様のみこころに仕えた。

私はもう。。。歳です。もし神様の御心なら、私にはまだたくさんの年が残されているでしょう。

私は良い時もあれば、悪い時もありました。成功した時も、失敗した時もありました。神様を心を尽くして愛した時も、罪に陥った時もありました。

それらの経験は、私が死ぬまで続くはずです。

しかし、天国で神様にやっとお会いできたとき、何よりも欲しいものが一つあります。それは、神様が私にこう言われることです。

「よくやったよ。あなたは忠実なしもべでしたよ。私が頼んだことのすべてをあなたはしてくれました。」

神様が私たち皆にそう言ってくださることを願っています。

私はこの世を去るとき、
私の人生について、
私の周りの人々は結局何を思い出すでしょうか。

彼らは私が家族を愛したと言うでしょうか。
私が忠実な友達だったと言うでしょうか。
私が神様の御子について伝えるために生きたと言うでしょうか。
私の人生が終わる時。

彼らは私がイエス様の帰りを待ち望んだと言うでしょうか。 私が救い主の顔とその微笑みを見て、
「よくやった」と聞きたかったと言うでしょうか。
私の人生が終わる時。

ーージェフ·ムーア

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歴代誌第一

友達からの傷を受け入れること

このブログを書く前にちょっとお知らせがあります。歴代誌第一1-9章について、私はあまり書きません。

その箇所から少しずつ主題を選び取って書いていきます。

(例えば、前のブログで、門衛の役割について話しました。)

とにかく、この箇所には興味深いことがあります。

時々リストを読むのはつまらないかもしれませんが、注意深く読むと興味深いことが見つかります。

この箇所もそのような場所です。

ダビデとバテ・シェバには四人の息子がいました。その中の一人の名前はナタンでした。

それを読んだとき、私はびっくりしました。ナタンはダビデのバテ・シェバとの罪についてダビデを責めました。彼は神様の裁きを宣言しました。

それにもかかわらず、数年後にダビデとバテ・シェバは自分の息子にナタンと名付けたのです。

そのことから、私たちはダビデの性格を知ることができます。

ナタンがダビデを責めたとき、ダビデはそれを受け入れて、悔い改めました。

それだけではなく、ナタンを友人として受け入れ続けました。そして、自分の息子をナタンと名付けたのです。

この箇所から、ナタンの性格も知ることができると思います。

もし私がナタンであれば、友人がそのような酷い罪を犯した場合、多分その友人を避けるかもしれません。

特にダビデの場合、バテ・シェバはまだ結婚していたので、その二人を見て彼らを責め続けるのは簡単なことだと思います。

でも、ナタンはダビデの悔い改めの心を見ました。また、ナタンはダビデとバテ・シェバに対する神様の恵みと憐れみを理解しました。

だから、ナタンはその同じ恵みと憐れみを彼らに示したのです。

この箇所から、二つのことを学ぶことができると思います。

一つ目は、あるクリスチャンが自分の罪を悔い改めるとき、神様のように私たちはその人に恵みと憐れみを与えるべきではないか、ということです。

その場合、その人を裁き続けるのは簡単です。特にその罪がとても酷い場合は、彼らを責め続けるのは簡単です。

私は友だちがいました。彼はクリスチャンでしたが、不倫によって妻と離婚しました。その後、彼は悔い改めて再婚しました。 (しかし、最終的には別の人と結婚することになりました。)

それにもかかわらず、まだ私たちの間には少し距離が残っています。

今は彼に会う機会が全くありません。でも、その機会が訪れるとき、私は彼を許して恵みと憐れみを示さなければならないと思います。神様がそうしてくださったからです。

二つ目のことは、私たちが間違ったとき、友だちが私たちを責めるなら、その言葉を受け入れるかどうかということです。

つまり、私たちはその言葉を受け入れて変わるのでしょうか。

それとも、その言葉を拒み、その友だちをも拒むのでしょうか。

ソロモンは記しました。

あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。

憎む者が口づけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である。(箴言27:5-6)

愛とは、相手が聞きたいことを語ることではありません。

愛とは、相手が聞く必要のあることを語ることです。

時には、それが相手を傷つけることもあります。

また、相手が私たちを責めることで、私たち自身も傷つけられることがあります。

しかし、もしその言葉を受け入れるなら、その言葉を通して神様は私たちを変えてくださいます。そして、私たちはさらに神様に似る者とされていくのです。

あなたはどうでしょうか。友だちからの傷を受け入れることができるでしょうか。

また、友だちが間違ったとき、率直に責めるでしょうか。それとも、「彼らを愛している」から何も言わずにいるのでしょうか。

私たちは周りの人々に対して、忠実な友だちとなることができますように。

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歴代誌第一

すべての物はどこから来たか

ある日、私はスポーツのドキュメンタリーを見ました。アメリカン・フットボールの選手ランダル・カニングハムについてでした。彼はクリスチャンですが、本当にその信仰が試されました。

彼は引退した後、牧師になりました。そして、自分の家の裏庭にはプールとスパがありました。カニングハムのスパの中で、多くの人々が洗礼を受けました。

けれども、ある日、カニングハムとその妻が出かけている間、彼らの友達がカニングハムの二歳の息子と留守番をしていました。

カニングハムが帰宅すると、その息子がスパで溺れて亡くなっていたことを知りました。

ドキュメンタリーの中で、カニングハムは興味深いことを語りました。

彼はこう言いました。

「私の息子の人生は神様からの賜物でした。神様は一時的に私たちに与えましたが、神様の目的と理由で彼を取り戻されました。」

この箇所を読むと、そのドキュメンタリーとカニングハムの言葉を思い出しました。

ダビデの言葉は、カニングハムの言葉に似ていました。

ダビデとイスラエル人は神様の宮を建てるために、自分たちの物を捧げました。その物について、ダビデはこう言いました。

まことに、私は何者なのでしょう。私の民は何者なのでしょう。このようにみずから進んでささげる力を保っていたとしても。

すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。。。

私たちの神、主よ。あなたの聖なる御名のために家をお建てしようと私たちが用意をしたこれらすべてのおびただしいものは、あなたの御手から出たものであり、すべてはあなたのものです。(歴代誌第一29:14,16)

ダビデとカニングハムは同じことを認めました。私たちの持ち物のすべては神様から来るものです。私たちが受け取ったすべての良いものは神様から来たのです。

だからこそ、ダビデは喜んでそれらを神様に返しました。なぜなら、それらのものはもともと神様のものであったからです。

彼にとって、お金や宝物は一時的なものでした。

それに加えて、彼は自分の人生さえも一時的なものであると認めました。

15節で、ダビデはこう言いました。

 私たちは、すべての父祖たちのように、あなたの前では異国人であり、居留している者です。地上での私たちの日々は影のようなもので、「ずっとこの世界に住む」望みもありません。

時々、人々は「どうして献金を捧げるべきでしょうか。神様はそれを必要としていないでしょう?」と訊きます。

もちろん、神様は私たちのお金を必要としておられるわけではありません。

神様が私たちのお金そのものを欲しておられるのではないのです。神様が望んでおられるのは私たちの心です。

神様は私たちの優先順位を知りたいのです。

私たちにとって、お金が一番大切なものなのでしょうか。

それとも、神様こそが私たちにとって一番なのでしょうか。

ダビデはこのように祈りました。

私の神。あなたは心をためされる方で、直ぐなことを愛されるのを私は知っています。

私は直ぐな心で、これらすべてをみずから進んでささげました。

今、ここにいるあなたの民が、みずから進んであなたにささげるのを、私は喜びのうちに見ました。(17)

神様は私たちが与えることを求めるとき、私たちの心を試しておられます。

私たちが与えても与えなくても、神様は私たちの動機を試されます。

私たちは喜んで与えるでしょうか。私たちの持つものが神様から来たものであることを理解するでしょうか。

もし与えないとすれば、それはなぜでしょうか。あるいは、この世の物を愛しすぎているからなのでしょうか。

カニングハムの信仰は本当に素晴らしいと思います。

今でも、その同じスパで人々が洗礼を受けています。

ドキュメンタリーで、ナレーターはこう語りました。

「彼の息子が亡くなったスパで、人々は生まれ変わっています。」

カニングハムの信仰は試されました。

お金を持つことは彼にとって試練ではありませんでした。

むしろ、自分の息子を持つことこそが、彼にとっての試練だったのです。

多くの人々はその状況で「なぜ」と問いかけ、苦々しい思いを抱きます。 けれども、カニングハムはそうはしませんでした。

むしろ、この人生は神様からの賜物であると認めました。それは儚く、一時的な賜物なのです。

だからこそ、苦々しい思いをせずに感謝の心をもって、神様にその息子を返したのです。

あなたはどうですか。自分の物がどこから来たか理解していますか。

そして、あなたの人生における神様の主権を認めるでしょうか。

ダビデは歌いました。

主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。

天にあるもの地にあるものはみなそうです。

主よ。王国もあなたのものです。

あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。

富と誉れは御前から出ます。

あなたはすべてのものの支配者であられ、御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてが偉大にされ、力づけられるのです。(歴代誌第一29:11-12)

そして、彼はこう歌いました。

今、私たちの神、私たちはあなたに感謝し、あなたの栄えに満ちた御名をほめたたえます。(13)

そのような忠実で感謝の心を持つことができますように。

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歴代誌第一

自分の模範によってリードする

「私の手本に従わずに、私の言葉に従いなさい。」

私の両親がそのようなことを一度も言わなかったことに感謝しています。なぜなら、それは本当に偽善的な表現だからです。

リーダーたちは、そのようなことを言ってはいけません。

一方、ダビデは自らの模範によって民を導いていました。

この箇所では、惜しみない態度をもってイスラエル人を導いたのです。彼は神様のために宮を建てることに情熱を注ぎ、自らの金や銀、そして宝石を捧げました。

そして、彼はイスラエルの指導者たちに挑戦したのです。

きょう、だれか、みずから進んでその手にあふれるほど、主にささげる者はないだろうか。(歴代誌第一29:5)

つまり、「私は主に捧げたから、あなたもどうですか。」

それを聞いたリーダーたちは、宮を建てるために喜んで自分たちの物を捧げました。

その結果は?

こうして、民は自分たちみずから進んでささげた物について喜んだ。

彼らは全き心を持ち、みずから進んで主にささげたからである。(9)

イスラエル人はそのリーダーたちの行動を見て、きっとリーダーたちをもっと信じるようになったでしょう。

なぜでしょうか。リーダーたちは、ただ何をするべきか言うだけではありませんでした。リーダーたちは、ただ「神様に仕えなさい」と言うだけではありませんでした。

むしろ、リーダーたちは自分が言ったことを実行していたのです。

私もそのような人々に従いたいと願い、またそのようなリーダーとなりたいと願います。

あなたはどうですか。自分の手本でリードできるでしょうか。

子供たちに「私の手本に従ってください」と言えるでしょうか。

自分の教会や会社の後輩に「私の手本に従ってください」と言えるでしょうか。

それとも、そのように言うと恥ずかしく感じるでしょうか。

言葉だけではなく、私たちの手本によってリードしましょう。

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神様の宮となる

この箇所では、ダビデがソロモンとイスラエルの指導者たちに語った場面が描かれています。

ダビデの言葉を見るとき、神様が私たちに何を語っておられるかについて思いを巡らせます。つまり、私たちが神様の宮となることに関して、神様が何を語っておられるかを考えるのです。

まず、神様は、私たちが宮となるために選んでくださったと語っておられます。

ダビデは、神様がどのようにダビデをイスラエルの王として選んでくださったかを語りました。

具体的には、イスラエルの部族の中からユダの部族を選び、ユダ部族の中からダビデの家族を選び、最後にダビデの兄弟たちの中から神様がダビデを選んでくださったのです。

そして、6節で、ダビデは神様の言葉を思い出しました。

あなたの子ソロモンが、わたしの家とわたしの庭を建てる。わたしが彼をわたしの子として選び、わたしが彼の父となるからだ。(歴代誌第一28:6)

そのように、時間が始まる前に、神様は私たちを神様の子供となるために選んでくださいました。

それだけではなく、神様の宮を建てるために私たちを選んでくださったのです。つまり、神様は私たちの人生が神様の宮となるように選んでくださいました。

パウロはこのように記しています。

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。(エペソ人1:4-6)

この歴代誌の箇所を読むと、もう一つのことに気づきます。それは、神様が宮のために具体的な計画を持っておられたということです。

ダビデは言いました。

これらすべては、私に与えられた主の手による書き物にある。彼は、この仕様書のすべての仕事を賢く行う。(歴代誌第一28:19)

そのように、神様は私たちのために計画を持っておられます。ダビデはこう書いています。

あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。

私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。(詩編139:6)

ダビデが与えられた宮の計画とは異なり、私たちには自分の人生のための具体的な計画が与えられていません。

例えば、誰と結婚するのか、どこに住むのか、私たちには分からないのです。

しかし、聖書を通して、私たちのための神様の御心を一般的に知ることはできます。

そして、私たちが神様を求め、その言葉に従うなら、神様はさらに具体的に私たちを導いてくださいます。

そのため、ダビデはソロモンにこう言いました。

今あなたはあなたの父の神を知りなさい。全き心と喜ばしい心持ちをもって神に仕えなさい。

主はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを読み取られるからである。

もし、あなたが神を求めるなら、神はあなたにご自分を現される。(歴代誌第一28:9)

そして、ダビデがソロモンに言ったように、神様も私たちに語っておられます。

強く、雄々しく、事を成し遂げなさい。恐れてはならない。おののいてはならない。神である主、私の神が、あなたとともにおられるのだから―。

主は、宮の奉仕のすべての仕事を完成させてくださる。(20)

パウロは、このように言いました。

そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。(ピリピ2:12-13)

私が以前言ったように、神様の宮を建てるのは、私たち自身の力で行うべきではありません。

私たちが神様の宮となるために、神様は私たちに必要なすべてのものを与えてくださいました。

つまり、神様は私たちに聖霊を送ってくださいました。聖霊は私たちを導いてくださいます。また、聖霊は私たちを変える力を与え、私たちが神様のようになるように、私たちの内で働いておられるのです。

ですから、強く、雄々しく生きましょう。

失敗してしまった時も、がっかりしないでください。

神様はあなたの心を探っておられます。そして、あなたが神様の宮となりたいと願っていることを知っておられます。

神様は必ずあなたを助けてくださいます。

だからこそ、神様を求め続けましょう。

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歴代誌第一

キリストにあって、私たちの役割

歴代誌の著者は名前のリストを書くことがとても好きなようです。この箇所では、私たちは多くのリストを見ることができます。

この箇所は、神様の宮を建てる人々の役割について述べています。けれども、これを読むと、私たちが学べることがあると感じます。

23章では、レビ人の役割が変わりました。

砂漠を越えた時、彼らの役割は幕屋とその中の物を運ぶことでした。しかし、その必要がなくなったため、彼らは祭司たちを助け始めました。

おそらく砂漠の時代にも祭司たちを助けていたでしょうが、この箇所では彼らの責任がより具体的に記されています。

時にはその責任が小さなものに見えたかもしれませんが、彼らは忠実にそれを果たしました。

同じように、私たち全員には神様の国の中で役割があります。

私たち全員が牧師ではありませんし、全員が賛美のリーダーでもありません。それでも、それぞれに神様から与えられた才能と賜物があります。

神様の器として、また神様の宮として、私たちはその才能と賜物を使わなければなりません。

時に私たちの役割は変わることがありますし、私たちの責任が小さいと感じることもあるかもしれません。それでも忠実に主に仕えましょう。

24章は祭司たちについて述べています。彼らは宮で主と民に仕えるべき存在でした。

同じように、私たちも祭司たちです。(第一ペテロ2:5;黙示録1:6)

私たちは神様の祭司として、神様と周りの人々に仕えるべきです。

25章はミュージシャンと歌手について述べています。

主に仕える一つの方法は礼拝です。

私たちは礼拝する時に、神様を祝福します。

古い英語の聖歌に「私たちの心が礼拝を始めると、私たちは祝福される」と記されています。

これはまことに真実ですが、私はよくその歌詞を変えて歌います。

「私たちの心が礼拝を始めると、あなたが祝福されるのです。」

なぜなら、それが賛美の本来の目的だからです。私たちが祝福されるためではなく、むしろ神様を祝福するためです。

さらに、私たちの礼拝を通して、他の人々を祝福することもできます。

3節で、エドトンという人は賛美しながら預言しました。

同じように、私たちが歌う時、その言葉は周りの人々に影響を与えることができます。また、その曲によって、周りの人々は神様の臨在を感じることができるのです。

26章は門衛について述べています。

歴代誌第一9:17-33によると、彼らにはさまざまな責任がありました。

一つの責任は門を守ることでした。つまり、「汚れたもの」が入らないようにチェックすることでした。

同じように、私たちも、汚れたものが入らないように、自分の心を守らなければなりません。

それに、門衛たちは宝物倉を泥棒から守らなければなりませんでした。

同じように、サタンは私たちのイエス様にある喜びと祝福を盗もうとします。だからこそ、私たちは自分の心を守らなければなりません。

27章は、宮のあるエルサレムを守る軍隊について述べています。

この箇所を読むと、私たちが霊的な戦いのただ中にいることを思い起こすべきです。

そのため、誰かが神様の国に対して戦いを挑むなら、私たちはその国を守らなければならず、また、サタンの国を攻撃しなければなりません。

つまり、私たちは福音を伝えなければならないのです。それによって、サタンの囚人を解放することができるのです。

しもべ、祭司、歌手とミュージシャン、門衛、そして兵士。

それだけではなく、私たちは神様の宮でもあります。

キリストにあって、私たちはこれらすべてを担っているのです。

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歴代誌第一

神様のために宮を建てる

ダビデは自分のために宮殿を建てた後、神様がまだ幕屋に住んでおられることを思い浮かべました。

(もちろん、神様が本当に幕屋に住んでおられたわけではありませんが、幕屋は神様の臨在を象徴していました。)

そこで、ダビデは神様のために宮を建てる計画を立て始めました。しかし、神様はダビデを止めて言われました。

「あなたの息子がその宮を建てます。」

数年後、ダビデは亡くなる前にその準備を始めました。彼自身が宮を建てることはありませんでしたが、その宮を建てるために必要な材料をすべて集めようとしました。

この箇所から、私たちが覚えるべきことがあります。それは、神様の宮はもはや建物ではないということです。私たちこそ神様の宮であり、神様は私たちの内に住んでおられるのです。第一コリント6:19に、こう書いてあります。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

私たちはそのことを思いながら、神様の宮を建てること、つまり、生ける宮となることについて、覚えておかなくてはならないことがあります。

まず初めに、ダビデはソロモンに語りました。

主のために建てる宮は、全地の名となり栄えるように大いなるものとしなければならない。(歴代誌第一22:5)

そのように、神様は私たちが素晴らしい存在となることを望んでおられます。なぜなら、周りの人々が私たちを見ると、心を動かされ、「きっと、神様はその人の内に本当に住んでおられる。その人は他の人とは本当に違う」と言うようになるからです。

そして、私たちを通して、人々は神様の栄光と素晴らしさを見ることができ、神様に近づきたいと考えるようになるのです。

二つ目に覚えておくべきことは、宮を建てたいなら、心を尽くして神様に従わなければならないということです。

ダビデはソロモンにこう語りました。

ただ、主があなたに思慮と分別を与えて、あなたをイスラエルの上に任命し、あなたの神、主の律法を守らせてくださるように。

主がイスラエルについてモーセに命じれらたおきてと定めをあなたが守り行うなら、あなたは栄える。

強くあれ、雄々しくあれ、恐れてはならない。おののいてはならない。(歴代誌第一22:12-13)

三つ目に覚えておくべきことは、時として私たちが罪と戦う中で、落胆してしまうことがあるということです。

または、サタンが私たちを攻撃し、それによって私たちは失望してしまうことがあります。

そして、「もう神様の宮になることは無理だ」と思い、諦めようとするかもしれません。

しかし、ダビデはソロモンに言いました。

強くあれ、雄々しくあれ、恐れてはならない。おののいてはならない。(13b)

どうすれば強くなり、雄々しくなることができるでしょうか。そして、どうすれば恐れや失望と戦うことができるでしょうか。

二つのことを覚えておく必要があります。

一つ目は、私たちが神様の宮となるために、神様が必要なものを私たちに与えてくださるということです。

ダビデが困難の中で主の宮のために材料を集めたように、イエス様もご自身の困難を通して、私たちが神様の宮となるために必要なものを与えてくださいました。つまり、イエス様は十字架で、私たちの罰を代わりに受けてくださいました。

そのため、ペテロはこう言いました。

というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。

その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。

それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。(第二ペテロ1:3-4)

つまり、私たち自身の力で神様の宮を建てるべきではありません。むしろ、神様が私たちの内で働いてくださり、聖なる人生を生きるための力を与えてくださいます。

二つ目に覚えておくべきことは、神様が私たちを助けるために人々を与えてくださったということです。彼らはその宮を建てることを助けます。

ダビデがイスラエルのリーダーたちにソロモンを助けるように命じたように、神様は私たちにも互いに助け合うように命じられました。

ヘブル人への手紙の著者はこう書いています。

また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。

ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。(へブル10:24-25)

私たちは神様の宮です。私たちが国々に神様の栄光を示す存在となるように。

特に、私たちが周りの人々に神様の栄光を映し出し、現すことができるように。

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サムエル記第二 歴代誌第一

罪の結果

この箇所は少し難解です。

第二サムエル記24章と歴代誌第一21章を比較すると、違いが見られます。

歴代誌第一21章には、こう書かれています:

サタンがイスラエルに逆らって立ち、ダビデを誘い込んで、イスラエルの人口を数えさせた。(歴代誌第一21:1)

けれども、第二サムエル記24章によると、

さて、再び主の怒りが、イスラエルに向かって燃え上がった。

主は「さあ、イスラエルとユダの人口を数えよ」と言って、ダビデを動かして彼らに向かわせた。(サムエル記第二24:1)

どのようにしてその二つの箇所を説明できるでしょうか。確かに矛盾しているように見えます。私自身も完全には理解していません。

とはいえ、列王記第一22章19-22を読むことで、何らかのヒントが得られるかもしれません。

その箇所には、イスラエルの歴史の中で最も悪い王の一人が登場します。その王はアハブという人物でした。

そして、神様の御心はアハブが死ぬことでした。そのため、神様はこう問いかけられました。

だれか、アハブを惑わして、攻め上らせ、ラモテ・ギルアデで倒れさせる者はいないのか。(列王記第一22:20)

そして、ある霊(たぶん悪霊)はこう答えました。

私が出て行き、彼のすべての預言者の口で偽りを言う霊となります。(列王記第一22:22)

だから、神様はその霊に許可を与えたため、結果的にアハブは死にました。

もしかすると、このダビデの話でも、同じようなことが起こったのかもしれません。

イスラエル人が罪を犯したために、神様は彼らを罰したいと望まれました。そのため、神様はサタンにダビデを誘惑する許可を与えました。

そして、ダビデは自分のプライドに負けて、イスラエルの人口を数えるという罪を犯しました。

この罪、そしてほかのイスラエル人たちの罪を通して、神様は彼らを罰されました。

これは本当に理解が難しい箇所です。

一見すると、神様が不公平であるように感じられます。なぜなら、神様がダビデに罪を犯させたかのように見えるからです。

けれども、その考え方は誤りです。

神様はダビデに罪を犯させたのではありません。神様はサタンにダビデを誘惑する許可を与えましたが、ダビデ自身が罪を犯すかどうかを選択する責任がありました。

そして、ダビデは罪を犯す道を選びました。

ヤコブはこう書きました。

だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。

神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。

人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。

欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。(ヤコブ1:13-15)

つまり、私たちは自分の心の中にある悪によって誘惑されます。

私たちが善良な存在だったのに神様が私たちに悪を植え付けたというわけではありません。

私たちの心には悪があり、それが誘惑によって引き出されるのです。

しかし、忘れてはならないのは、悪が現れるのは私たち自身の選択によるということです。

サタンがダビデを誘惑する前から、ダビデの心の中にはプライドが存在していました。サタンはただそのプライドを引き出したに過ぎません。

そのプライドは罪を生み、そして罪が熟すと死を生みました。罪の結果は死だからです。

悲しいことですが、死と破壊は罪の避けられない結果なのです。

神様にとって罪は本当に深刻なものです。神様は罪を必ず罰しなければなりません。

しかし、素晴らしい知らせがあります。それは、神様がその代価をすでに払ってくださったことです。

ダビデは、自分の罪のためにいけにえをささげる際、必要なもの(土地と牛)を所有者から購入しようとしました。

けれども、その所有者はこう言いました。「すべてを王に差し上げます。」

(おそらく、剣を持つ天使を見て恐怖を感じ、それを言ったのかもしれません。)(歴代誌第一21:20、27)

それに対して、ダビデはこう答えました。

いいえ、私はどうしても、代金を払って、あなたから買いたいのです。費用もかけずに、私の神、、主に、全焼のいけにえをささげたくありません。(第二サムエル記24:24)

神様は同じようなことを語られました。「私は費用をかけずにいけにえを捧げない。代価が必要です。」

そのため、神様は人間としてこの世に来られ、私たちの罪のために命を捧げてくださいました。その死によって、神様は罪の結果に対する代価を永遠に払ってくださいました。

そして、死の剣がさやに納められ、神様はすべての人に永遠の命を提供してくださいます。

ローマ6:23には、このように書かれています。

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

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サムエル記第二 歴代誌第一

私たちが心を頑なにすると

今日は、ダビデの最も低い状態について考えます。

アメリカでは、ノン・クリスチャンがダビデを思い浮かべるとき、二つの出来事を連想します。ゴリアテとの戦い、そしてバテ・シェバとの不倫です。

一つはダビデの最大の勝利であり、もう一つはダビデの最大の失敗です。

いったいどうして、神様の心にかなうと言われたこの人物が、そんな最悪の事態に陥ってしまったのでしょうか。それは、彼が自分の心を頑なにしてしまったからです。

以前言ったように、この罪の種は、その前に蒔かれていました。

神様がイスラエルの王たちに与えられた命令は、「多くの女性を妻にしてはならない」というものでした。

けれども、ダビデはその戒めを無視して、複数の女性を妻にしたのです。

その態度が原因となり、この箇所の問題が生じました。

少し想像してみてください。もしダビデが若い時から神様の戒めに従っていたらどうなっていたでしょうか。

罪を犯すこと自体はあり得たかもしれません。しかし、若い時に誘惑と戦い続けていたなら、つまりずっと情欲と戦っていたなら、バテ・シェバを見た時に誘惑から逃れられた可能性があるのではないでしょうか。

けれども、ダビデには他にも失敗がありました。

第二サムエル記と歴代誌第一によると、王たちが出陣するころ、ダビデはエルサレムに留まっていました。ダビデの軍隊とその将軍が出陣したのに対し、彼自身は自分の家にとどまっていたのです。

つまり、ダビデは自分の国を守ることもせず、また神様が「取りなさい」と命じられた土地を取ることもしないまま、自宅で寛いでいたのです。

英語のことわざに、「怠け者の頭は悪魔の仕事場」というものがありますが、ダビデの場合、このことわざがまさに当てはまりました。

私たちも、するべきことを放棄してずっと寛ぐならば、誘惑に対して脆弱になってしまいます。

特にインターネット上のポルノに関して、多くの男性はこの真理を理解できるのではないでしょうか。

私たちは退屈を感じ、何気なくインターネットを始めた結果、罪に陥ってしまうことがあるのです。

ダビデはさらに大きな過ちを犯しました。

彼は屋上からバテ・シェバが体を洗っているのを目にしましたが、すぐに自分の部屋に戻ることはせず、その場に立ち続けて彼女を見続けました。

その後、バテ・シェバについて尋ねました。

ダビデがすぐに知ったのは、彼女がダビデの30人の勇士の一人の娘であり、さらにダビデの議官アヒトフェルの孫であるということでした(第二サムエル記23:34)。

そして、彼女は30人の勇士の一人、ウリヤの妻でもあったのです。

それでも、ダビデは自分の心を頑なにし、バテ・シェバを呼び寄せて彼女と関係を持ってしまったのです。

その結果、バテ・シェバが妊娠すると、ダビデは自分の罪を認めることをせず、それを隠そうとしました。

彼はウリヤを呼び戻し、戦争がうまくいっているかどうか尋ねました。その後、ダビデはこう言いました。

「では、どうぞ家に帰ってください。疲れているでしょう?リラックスしてください。」

もちろん、ダビデの真の意図は、ウリヤがバテ・シェバと寝ることで、自分の罪を隠そうとすることでした。

ところが、ウリヤは家には帰りませんでした。

ダビデが「どうして帰らないのか」と尋ねると、ウリヤは答えました。

神の箱も、イスラエルも、ユダも仮庵に住み、私の主人ヨアブも、私の主人の家来たちも戦場で野営しています。

それなのに、私だけが家に帰り、飲み食いして、妻と寝ることができましょうか。

あなたの前に、あなたのたましいの前に誓います。私は決してそのようなことをいたしません。(第二サムエル記11:11)

ダビデはそれを聞いたとき、その心が刺されたかもしれません。

ウリヤがダビデに本当に忠実であったにもかかわらず、ダビデはウリヤの妻と関係を持ち、そのことについて彼を欺こうとしたのです。

その後、ダビデはウリヤを欺くことができなかったため、ウリヤを殺し、バテ・シェバと結婚しました。

将軍ヨアブがダビデにウリヤの死を伝える場面を見ると、私たちはダビデの心の状態をよく理解することができます。ダビデはこう言いました。

このことで心配するな。剣はこちらの者も、あちらの者も滅ぼすものだ。(第二サムエル気11:25)

ダビデの心は本当に冷たかったです。

どうやって神様の民は罪に落ちるのでしょうか。

それは、私たちが心を頑なにするときです。心が硬くなれば硬くなるほど、心は冷たくなります。

そして、心が冷たくなればなるほど、罪はますます深く、悪くなっていくのです。

あなたの心はどうですか。心を罪に対して頑なにしていますか。

そのようにすれば、ダビデのように罪に落ちます。

ダビデはおそらく、そのような罪を決して犯さないと思ったかもしれません。あなたもそのように思うかもしれません。

しかし、私たちが心を硬くするなら、私たちもダビデのようになるかもしれません。本当に酷い罪を犯すかもしれません。

どれくらい、クリスチャンのリーダーが罪に落ちたという話を聞いたことがあるでしょうか。

もし彼らが失敗するなら、私たちも失敗する可能性があります。

ですから、心を守り、神様に対して柔らかくあり続けるようにしましょう。

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サムエル記第二 歴代誌第一

私たちが弱い時

この箇所では、興味深く学ぶべき点がたくさんあります。

一つ目は、誰に助言を求めるか注意した方が良いということです。

アモン人の王が亡くなった際、その息子ハヌンは悪いアドバイスを受けました。具体的には、ダビデがその父を悔やむために家来を派遣した際、ハヌンのアドバイザーがこう言ったのです。

ダビデがあなたのもとに悔やみの使者をよこしたからといって、彼が父君を敬っているとでもお考えですか。

この町を調べ、探り、くつがえすために、ダビデはあなたのところに家来をよこしたのではありませんか。(サムエル記第二10:3)

そこで、ハヌンはダビデの家来に恥をかかせて追い出しました。その侮辱が原因で戦争が始まりました。

二つ目の学びとして、アラム人はアモン人と一緒にイスラエル人と戦った際、一度打ち負かされても再び団結し、戦い続けたということです。

同じように、私たちがサタンと戦う時、サタンが一度敗北しても決して諦めることはありません。むしろ、後になって再び攻撃してくるので、私たちは常に警戒しなければなりません。

けれども、一番印象に残るポイントは、ヨアブとその弟の軍隊が敵に囲まれる状況を理解した際、彼らが二つのグループに分かれ、ヨアブがこう言ったことです。

もし、アラムが私より強ければ、おまえが私を救ってくれ。もし、アモン人がおまえより強かったら、私がおまえを救いに行こう。(第二サムエル記10:11)

時々、私たちは霊的な攻撃に直面します。それはサタンからの誘惑かもしれませんし、試練かもしれません。そして、その時、私たちは自分が弱く、倒れそうだと感じることがあります。

もちろん、私たちは神様に頼るべきです。しかし、神様の御心は、私たちが力を得るために互いに助け合うことでもあります。

パウロはこう言いました。

互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい(ガラテヤ6:2)

あなたは弱さを感じていますか。倒れてしまいそうだと思っていますか。

そんな時は、互いに重荷を負い合い、一緒に祈り合い、支え合いましょう。

そうすることで、ヨアブとダビデが得たような勝利を私たちも得ることができるのです。

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サムエル記第二 歴代誌第一

勝利を得るため

この箇所を見ると、ダビデの勝利によって、初めてカナンに入ったイスラエル人が「勝利できない」と言ったのは、ただの言い訳であったことが分かります。

士師記には繰り返しこのような話が登場します。つまり、イスラエル人の敵が鉄の馬車などを持っていたため、イスラエル人はカナン人を追い払うことができなかったというものです。

けれども、ダビデの敵はさらに優れた武器を持っていたにもかかわらず、ダビデは勝利を収めました。なぜでしょうか。それはダビデが神様に信頼したからです。一方、その時代のイスラエル人はそうしませんでした。

神様は私たちに勝利を与えたいと望んでおられます。それにもかかわらず、私たちはしばしば自分自身を説得して「勝利できない」と思い込んでしまいます。

例えば、良い仕事を探す時、良い妻や夫を見つけようとする時、また罪と戦う時に、よくこう思うのです。「私は勝てない。」

「この仕事には絶対に就けないから、面接に挑戦するのはやめておこう。」

「その人とデートをしても、どうせ最後には捨てられるだろう。」

「この罪と何度も戦ってきたけれど、いつも負けている。もう戦い続ける意味があるのだろうか。」

しかし、私たちが自分自身に問いかけるべき質問があります。

「神様は本当に私と共にいてくださるでしょうか。神様は本当に私の味方でいてくださるでしょうか。神様は私のために良いことを望んでおられるでしょうか。」

もしそう信じなければ、私たちは信仰によって踏み出すことができません。むしろ、恐れによって立ち止まったままになります。

あなたはどうでしょうか。今、勝利を得ていると感じていますか。

私は正直に言います。多くの場合、恐れが私の前進を妨げています。「やっぱり、私はできない」と思ってしまうのです。

私はもっと神様に信頼し、信仰によって歩む必要があります。

だから、これを書きながら、自分自身に語りかけているのです。

主よ、私の人生において、勝利が欲しいです。けれども、「私はダメだ」と思ってしまうことが多いのです。また、過去の失敗を思い出して「無理だ」と感じてしまいます。

どうか、私が初期のイスラエル人のようにはならないようにしてください。むしろ、ダビデのように信仰によって踏み出し、勝利を得られるよう助けてください。 主イエス・キリストのみ名によって祈ります。 アーメン。

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サムエル記第二 歴代誌第一

神様は私のことを考えておられる

きれいな夜に星空を見上げたことがありますか。日本に来てから、私はそれをあまり見ません。時々、星が見えることもありますが、ほんの少しだけです。

けれども、ハワイの山にいた時、その星空は本当に素晴らしいものでした。その時、私は自分の小ささを感じました。そして、こう思いました。

「この宇宙がこんなに大きいのに、神様は私を愛しておられるのでしょうか。私の名前を知っておられるのでしょうか。私のために計画を持っておられるのでしょうか。信じられない。それは本当に素晴らしいことです。」

ダビデも、同じように感じたのです。新しい宮殿で王座に座りながら、彼はこう思いました。「私はこの素晴らしいところに住んでいるのに、神様は天幕にしかおられないのですか。」

そこで、ダビデは神様のために素晴らしい宮を建てる計画を立て始めました。

ところが、神様はダビデの計画を止められました。なぜでしょうか。第一の理由は、神様には宮が必要なかったからです。なぜなら、神様は霊であり、物理的な場所を必要とされなかったからです。

第二の理由は、ダビデが戦争で多くの人々を殺してきたことです。そのため、神様はそのような人が宮を建てることを望まれなかったのです。

おそらくダビデにとって、神様の言葉は少し辛いものであったかもしれません。けれども、神様はすぐにダビデを励まされました。神様はこう言われました。

「あなたは私のために家を建てたいと思いましたが、実際には私はあなたのために家を建てます。そして、あなたの王国と家を永遠に堅く立てます。」(第二サムエル記7:11-16)

イエス様は神の子でありながら、人間としてはダビデの子孫です。そのため、イエス様がこの世界に戻られる時、その預言を成就して、この世界を永遠に支配されます。

では、ダビデの反応はどのようなものだったのでしょうか。

神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか。

神、主よ。この私はあなたの御目には取るに足らない者でしたのに、あなたは、このしもべの家にも、はるか先のことまで告げてくださいました。

神、主よ。これが人の定めでしょうか。(第二サムエル記7:18-19)

「私はいったい何者でしょうか。」

ダビデが理解したのは、自分が決して重要な人ではなかったということです。けれども、神様はダビデを粗末な場所からこの素晴らしいところまで導かれました。それはダビデ自身の栄光のためではなく、神様の栄光のためでした。

私たちは埃のように取るに足らない存在です。宇宙の中では小さな一点に過ぎません。しかし、神様は私たちに目を留め、私たちを愛しておられます。

それだけではありません。神様の手は私たちの上にあり、私たちを支え続けてくださいます。

ダビデはそれを理解し、こう記しました。

そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。(詩編139:6)

あなたは、自分が愛されていないと感じることがありますか。必要とされていないと思うことがありますか。自分は取るに足らない存在だと思ってしまうことがありますか。

そんなときは、このことを思い出してください。

「神様は私のことをいつも心に留めておられます。

この広大な宇宙の中で、また、この世界で数え切れないほどの出来事が起きている中で、神様は私のことを考えておられるのです。神様は私を知っておられます。

そして、神様は私のために計画を持っておられます。」

私は一体何者なのでしょうか。
世界でただ一人の主が、
私の名前を覚えていてくださるとは。
私が悩んでいるときに、
神様が同情してくださるとは。

私は一体何者なのでしょうか。
明るく輝く明けの明星が、
迷い続ける心のために、
道を照らしてくださるとは。

私だからという理由ではなく、
あなたの行いによって、
私が何かをしたからではなく、
あなたの性格が素晴らしいからです。

私はすぐにしぼんでしまう花、
今日はあっても明日には消える存在、
海に打ちつけられる波、
風の中に漂う霧のようです。

それでもあなたは、
私が呼ぶときに耳を傾け、
倒れそうなときに助けてくださいます。
そして、あなたは私に、
「あなたは私のものだ」と教えてくださいました。

私は誰を恐れるでしょうか。
なぜなら、私はあなたのものだからです。

ーージョン・マーク・ホール

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サムエル記第二 歴代誌第一

苦々しい心は私たちを食い尽くす時

喜びの日であるはずだったのに、その最後はそうではありませんでした。

ダビデは自分の過ちに気づき、神様がオベデ・エドムという人をどのように祝福されたかを見て、その箱をエルサレムに運ぶことを決意しました。

ダビデは祭司たち、レビ人、ミュージシャン、歌手、イスラエルの長老、そして軍隊を集め、一緒にその箱を運びました。

その間、ダビデは飛び跳ねながら喜び踊っていました。

けれども、ある人がダビデを見ていました。それは妻のミカルでした。そして、それを見たとき、ミカルは心の中でダビデをさげすんだのです。

ダビデが家に帰ったとき、ミカルはこう言いました。

イスラエルの王は、きょう、ほんとうに威厳がございましたね。

ごろつきが恥ずかしげもなく裸になるように、きょう、あなたは自分の家来のはしための目の前に裸におなりになって。(第二サムエル記6:20)

この箇所を読むと、私はこう思います。「ミカルは本当にダビデの行動に反対していたのでしょうか。それとも、ミカルの心の中にはもっと深い問題があったのでしょうか。」

少し考えてみましょう。その前に、ミカルの父親と兄弟たちは戦争で命を落としていました。また、ミカルは愛していた夫から引き離されていました。(第二サムエル記3:13-16)

さらに、今のミカルはダビデの愛を巡り、6人の妻と競わなければならない状況にありました。

彼女が苦々しい思いを抱く権利があったとしても不思議ではありません。おそらく、ミカルの言葉はその苦々しい心から来たのだと思います。

私がダビデの行動を正当化しているわけではありません。ダビデは6人の妻と結婚し、神様の戒めを守りませんでした。(申命記17:17)

その時代の文化においてはダビデの行動は受け入れられていたかもしれませんが、神様は「多くの妻を持つことは禁じられています」と言われました。

さらに、私が以前言ったように、ダビデはミカルに「私に戻りたいですか」と尋ねるべきでした。

けれども、ダビデはミカルにその選択肢を与えませんでした。

それにしても、ミカルは自分の苦々しい心が自分自身を食い尽くすことを許したため、大変な状態は本当にみじめな状態へと変わりました。

第二サムエル記6:23の意味は少し微妙です。どうしてミカルは子供ができなかったのでしょうか。

神様が彼女の胎を閉じられたのでしょうか。

それとも、ダビデがミカルを避けたのでしょうか。

または、ミカルがダビデを避けたのでしょうか。それは明確には示されていません。

はっきりしていることは、その苦々しい心がミカルの死ぬまで続き、彼女自身をみじめにさせたということです。

あなたの心にはどうでしょうか。苦い根があるでしょうか。あなたは苦々しい思いを抱く権利があると思っているかもしれません。それは事実かもしれません。

しかし、重要なのは、あなたにその権利があるかどうかということではありません。むしろ、あなたがその苦い心があなたを滅ぼすことを許してしまうかどうかということです。

もしあなたが自分の苦々しい思いが自分を食い尽くすことを許してしまったら、次第にあなたの喜びは失われてしまいます。

私たち全員が辛い状況を経験します。私たちには皆、苦々しい思いを抱く理由があるかもしれません。

それでも、心に留めておいてください。私たちは常に状況をコントロールすることはできませんが、自分の反応をコントロールすることはできるのです。

あなたは苦々しい思いを抱き続けますか。それとも、自分の痛みを神様に委ね、神様の癒しを受け入れますか。

神様が私たちの問題を取り去られないこともあるかもしれません。しかし、苦難の中でも、神様はあなたに平和と喜びを与えてくださいます。

そして、神様はあなたの人生を意味あるものへと変えてくださるのです。

あなたはどちらを選びますか。

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サムエル記第二 歴代誌第一

情熱はあるけど、服従がない

神様は情熱のある人々を好まれます。とはいえ、情熱だけでは十分ではありません。神様は服従も求められます。

この箇所で、ダビデはそのことを学びました。

ダビデは神の箱をエルサレムに持ち帰ることができて、本当に嬉しかったのです。

サウルの時代にはその箱が無視されていましたが(歴代誌第一13:3)、ダビデはサウルの過ちを繰り返したくありませんでした。神様がダビデの王国の中心におられることを望んだからです。

その箱をエルサレムに運んでいる間、ダビデとその民は力の限り踊り、歌い、楽器を演奏していました。

しかし、一つの問題がありました。昔、神様はその箱の運び方について具体的な指示を与えられていました。つまり、レビ人だけがその箱を運ばなくてはならなかったのです。

それにもかかわらず、ダビデはそれを守りませんでした。なぜでしょうか。おそらく、それを知らなかったからでしょう。または彼がこう思ったのかもしれません。

「一番運びやすい方法はカートだろう。では、新しいカートを作って使おう。」

そして、神の箱をその新しいカートの上に置き、牛に引かせる形にしました。

けれども、箱を運んでいる間に、牛がそれをひっくり返しそうになったため、ウザという人がその箱を押さえました。けれども、箱に触れることは禁じられていたのです。その結果、神様が彼を打たれたので、彼は死んでしまいました。

ダビデはそれを見たとき、非常に神様に怒りを覚えました。

しかし、後に彼は自分の罪に気づきました。ダビデは神様に対して情熱を持っていたものの、服従が欠けていたのです。

そのため、後にダビデはこう言いました。

最初の時には、あなたがたがいなかったため、私たちの神、主が、私たちに怒りを発せられたのです。

私たちがこの方を定められたとおりに求めなかったからです。(歴代誌第一15:13)

その日、ダビデは本当に大切なことを学びました。情熱があることは素晴らしいことです。けれども、服従も必要です。情熱だけでは十分ではありません。私たちは神様の戒めを守るべきです。

時々、人々はこう考えます。

「どうして、天国に行きたいなら、イエス様しか行く方法がないのでしょうか。たくさんの誠実な人々が正しいことをしようとしていて、彼らは熱心に神様を求めていますが、クリスチャンではありません。どうして、彼らは天国に行くことができないのでしょうか。」

その理由は、真実さと情熱だけでは十分ではないからです。完全な情熱と完全な真実があったとしても、もし神様の戒めを守らなければ、それには意味がありません。

では、神様の命令とは何でしょうか。

神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。

神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。(第一ヨハネ3:23-24)

一番大切な命令はイエス様のみ名を信じることです。つまり、私たちの救いのためにイエス様を信じることを意味します。そうしないなら、私たちの真実さと情熱には意味がありません。

情熱のない服従は良くありません。なぜなら、神様は私たちの心を求めておられるからです。

とはいえ、服従のない情熱も良くありません。不従順は私たちが神様に信頼していないことを示します。

もう一度言います。神様は私たちの心を求めておられます。

そして、服従はその信頼の証しとなるのです。

あなたはどうでしょうか。従順さのない情熱を持っているでしょうか。

それとも、情熱のない服従をしているでしょうか。

あるいは、その両方があるでしょうか。

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サムエル記第二 歴代誌第一

欠点のある人々、力をもつ人々

たくさんの箇所をスキップしましたが、心配しないでください。明日、戻ります。けれども、年代順に話を進めたいので、この話はここで触れる方が良いと思います。

この箇所は、非常に興味深い人々についてです。ダビデがサウルから逃げていた時、この人々はダビデの元に集まってきました。そして、サウルが亡くなった後、この人々はダビデが王になることを助けました。

しかし、彼らはどのような人々だったのでしょうか。

第一サムエル記22:2には、このように書かれています。

また、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。

そのような人々はダビデの軍隊となりました。つまり、欠点のある人々がダビデの民となったのです。

ヨアブ、アビシャイ、そしてアサエルを見ると、それがよく分かります。この三人は本当に殺伐な人々でした。彼らは相手を殺すのも早く、復讐するのも早かったのです。

ダビデの民のすべては、欠点のある人々でした。けれども、彼らには共通点がありました。彼らはダビデを愛し、ダビデに忠実だったのです。

ある日、ダビデがのどの渇きを覚えた時、彼の民はペリシテ人の陣営を突き抜けて、水を取って戻ってきました(第二サムエル記23:15–17)。

その後、ベニヤミンの人々(つまり、サウルの部族の人々)はダビデの元に行き、こう言いました。

ダビデよ。私たちはあなたの味方。エッサイの子よ。私たちはあなたとともにいる。

平安があるように。あなたに平安があるように。あなたを助ける者に平安があるように。まことにあなたの神はあなたを助ける。(歴代誌第一12:18)

そのダビデに対する愛と忠実さによって、彼らは素晴らしいことを成し遂げることができました。

私たちの神様との関係も同じです。私たち全員は欠点のある人々です。私たちは罪を犯し、弱さを抱えています。時には、その欠点に気づけないこともあります。

それでも、もし私たちが神様を愛し、心を尽くして神様に従うなら、神様は私たちを素晴らしいことを成すために用いてくださいます。

神様はどんな人でも、男性でも女性でも、用いることができます。しかし、神様はあなたの心を必要としておられます。神様はあなたの心を持っておられるでしょうか。

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サムエル記第二 歴代誌第一

敵に追われている。神様を求めている。

ペリシテ人はすぐに、ダビデがイスラエルの王になったことを知りました。

ペリシテ人の王アキシュはどう感じたのでしょうか。驚いたでしょうか。裏切られたと思ったでしょうか。

とにかく、ペリシテ人はすぐに反応しました。彼らは皆、ダビデを狙って攻め上がってきたのです。もちろん、彼らはダビデを殺したかったのだと思います。

ペリシテ人がダビデを狙い、倒そうとしたように、サタンも私たちを狙って倒そうとします。

私たちがクリスチャンになる前は、サタンは私たちをあまり気にしませんでした。しかし、私たちが神様の国に入ると、サタンはすぐに私たちに注意を払うようになります。

それは、私たちがサタンの国から逃れ、その国にとって脅威となるからです。つまり、私たちは他の人々をサタンの国から救い出し、神様の国へと導く存在となるからです。

だからこそ、サタンは私たちにすぐ攻撃を仕掛けてくるのです。

それは、家族や友達、または同僚からの迫害であるかもしれません。あるいは、もっと微妙な方法を使ってくるかもしれません。例えば、サタンはいろいろな誘惑を通して私たちを倒そうとします。

私たちはどうすれば良いでしょうか。ダビデのように、私たちは神様を求めるべきです。

ダビデが神様を求めた時、神様は敵の攻撃からどう守るかを教えてくださいました。そしてダビデは勝利を収めました。

私たちも同じです。サタンがあなたを狙っているでしょうか。周りの人々から攻撃を受けていますか。それとも誘惑に直面していますか。

神様を求めてください。そして、神様の助けを求めてください。

そうすれば、神様はどうすれば良いかを教えてくださり、勝利を収めるための力を与えてくださいます。

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サムエル記第二 歴代誌第一

神様の栄光と国と民のため

長い間逃亡者として生きていた後、ダビデはついに全イスラエルの王となりました。その印の一つとして、ダビデのために宮殿が建てられました。そして、その王座に座ったとき、ダビデは悟りました。

主が彼をイスラエルの王として堅く立て、ご自分の民イスラエルのために、彼の王国を盛んにされた。(第二サムエル記5:12)

ダビデが理解したのは、神様がダビデ自身の目的のために彼を王にされたのではないということです。むしろ、神様の目的のためにダビデを王にされました。

そして、その民がダビデに仕えるためではなく、むしろダビデがその民に仕えるために、神様は彼を王にされたのです。

私たちはこのことを理解しているでしょうか。つまり、神様はあなたをご自身の子供として選ばれ、ご自身の国においてあなたにポジションを与えられました。

しかし、それはあなたの栄光のためではなく、神様の栄光のためなのです。

あなたが自分の国を築くためではなく、むしろ神様の国を築くためなのです。

また、あなたの立場は、他の人々があなたに仕えるためではなく、むしろあなたが他の人々に仕えるために与えられたのです。

この真実を理解していないと、神様が私たちのために用意してくださっている目的を見失ってしまいます。

多くのクリスチャンが自己中心的で、自分のことや自分の立場、自分の栄光ばかりを考えます。

私もそのように考えてしまうことがあります。

しかし、私たちの人生は自己中心的であってはなりません。むしろ、神様中心であり、神様の目的を中心としたものであるべきです。

あなたは誰に仕えていますか。誰の栄光を求めていますか。誰のために生きていますか。

私はある曲の歌詞が大好きです。

あなたの栄光のために、
御国のために、
あなたの御名のために、
私はここにおります。

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サムエル記第二 歴代誌第一

神様が私たちの味方であれば

「私はこの罪を乗り越えることができない。勝利をおさめることができない。」

そう思ったことはありませんか?私も罪と戦う中で、時々がっかりすることがあります。そのような時、サタンは私を見て、さらに責め立てます。

「あなたは本当にクリスチャンなのですか?あなたなんて絶対だめです。他のクリスチャンは罪に勝つけれど、あなたはいつも負けるのです。この罪はあまりにも強大で、あなたは決して乗り越えることなどできない。」

ダビデとその民がエルサレムの城壁の外にいた時、敵は同じようなことを言いました。彼らはダビデを侮辱し、こう言い放ちました。

あなたはここに来ることはできない。目の見えない者、足のなえた者でさえ、あなたを追い出せる。(第二サムエル記5:6)

その時、彼らはこう思いました。「ダビデがここに来ることはできない。」

同じように、サタンは「私は勝った。このクリスチャンはその罪を決して捨てることができない。」と思うとき、私たちを侮辱し始めます。

けれども、ダビデはどうしたでしょうか。彼は作戦を立てました。そして、彼はその民にこう言いました。

だれでもエブス人を打とうとする者は、水汲みの地下道を抜けて、ダビデが憎む、目の見えない者、足のなえた者を打て(第二サムエル記5:8)

そして、ヨアブの助けによって、その敵を征服することができました。

しかし、良い作戦とヨアブの助けだけではなく、神様の力によって征服することができました。第二サムエル記5:10にはこう書かれています。

ダビデはますます大いなる者となり、万軍の神、主が彼とともにおられた。

つまり、神様がダビデとともにおられたからこそ、勝利を収めることができたのです。

もちろん作戦は必要でした。もちろん、他の人々の助けも必要でした。

けれども、結局のところ、ダビデが勝利できたのは神様の力によるものでした。

同じように、私たちが罪と戦う時も作戦が必要です。もし欲情と戦うなら、ある場所を避けた方が良いでしょう。例えば、ビデオレンタル店を避けるべきかもしれません。

また、他の人々の助けが必要な場合もあります。私たちのために祈り、アドバイスを与え、「今週はどうですか」と尋ねることで私たちを助けてくれるでしょう。

しかし、結局のところ、私たちが勝利するのは神様が私たちの味方であるからです。それは私たちの力や努力だけによるものではありません。

パウロはこう言いました。

 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。(ピリピ2:13)

あなたは罪と戦っていますか。落ち込んでいますか。

神様があなたの味方であることを心に留めておきましょう。作戦を立てましょう。他の人々の助けを求めめましょう。

けれそも、最終的には、私たちが勝利できるのは、神様の恵みと助けによるものだということを覚えておきましょう。

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サムエル記第二 歴代誌第一

神様を待ち望む

私は待つのが本当に大嫌いです。店でレジの列に並ぶのも嫌いだし、交差点で信号を待つのも嫌いです。病院で待つことも大嫌いです。

だから、ダビデの態度がよく理解できません。想像すらできません。

ユダヤ人の歴史家ヨセフスによれば、ダビデは10歳の時にサムエルから油を注がれました。その際、サムエルは「あなたは次のイスラエルの王になる。神様があなたを選ばれた」と告げました。

もし10歳だったとすると、ダビデはユダの王になるまで20年間も待ち、さらに全イスラエルの王になるまで27年間待ったことになります。

ダビデは忍耐強く待ち続けました。それだけでなく、待つ間にさまざまな試練を経験しました。

最初はイスラエルのヒーローとして称えられたのに、その後すぐに逃亡者となり、何度も命を狙われる状況に直面しました。

それでもなお、良い時でも悪い時でも、たとえ疑いが生じたとしても、ダビデは神様を待ち望むことを決して諦めませんでした。

ダビデは二度、神様を待ち望まずに王になるために行動する機会がありました。つまり、サウルを殺すことができる状況が二度あったのです。

しかし、それをしないでダビデは神様を待ち望み続け、神様のタイミングを信じて待ちました。

どうしてそれができたのでしょうか。私にとって、赤信号で待つだけでも非常に辛いです。

その鍵は、ダビデが神様が約束を必ず守る方であると信じていたことにあります。

ダビデは自分の手でコントロールしようとせず、神様の手に全てを委ねました。また、神様の戒めを忠実に守り続けました。

その結果、神様はダビデを良いところへと導いてくださいました。

私たちもダビデの例に従うなら、神様は私たちに対しても同じようにしてくださるでしょう。

一方、サウルはそれができませんでした。ペリシテ人がイスラエルを攻撃した時、サウルはサムエルや神様の救いを待たずに、自分でいけにえを捧げて罪を犯しました。

さらに、彼は神様の祝福を待たずに、自ら祝福を得ようとしました。

例えば、イスラエル人がアマレク人との戦いの前に、神様はこう言われました。「彼らを征服したら、彼らの物をすべて私に捧げなさい。」

それなのに、サウルは自分のために一番良いものを持ち帰りました。

この二つの事件によって、神様はサウルをイスラエルの王として退けました。

あなたはどうでしょうか。 あなたは何のために待っていますか。仕事ですか。妻ですか。夫ですか。

神様があなたの必要を備えると約束しておられることを心に留めておきましょう。

また、神様が良い未来を与えると約束しておられることを心に留めておきましょう。

ですから、神様の言葉に背いて、「私は自分の力で何かをしなければならない」と考えないでください。

神様を待ち望み続けましょう。神様に信頼し続けましょう。神様の言葉を守り続けましょう。

そうすれば、神様は必ず約束を守ってくださいます。

ダビデはこう書きました。

 見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。
その恵みを待ち望む者に。。。

私たちのたましいは主を待ち望む。
主は、われらの助け、われらの盾。

まことに私たちの心は主を喜ぶ。
私たちは、聖なる御名に信頼している。(詩篇33:18、20-22)

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人々の良い点を思い出すのを選ぶ

今日は第一サムエル記のブログを締めくくります。その前に、少しブログに関するお知らせがあります。

このブログでは、基本的に年代順に聖書の出来事をお話ししたいと考えています。そのため、最近は時折、第一サムエル記について書きながら、詩篇についても取り上げてきました。

これからは、時々特定の箇所をまとめて扱う予定です。例えば、第一サムエル記31章と歴代誌第一10章は同じ出来事について書かれているため、今日はその二つの箇所を一緒にまとめます。

さて、今日はサウルの話が終わります。それは、本当に悲惨な話です。戦争の中で、もうすぐ殺されると悟ったサウルは、自ら命を絶ちました。

ペリシテ人はサウルの首を切り、その頭をある宮にさらし、別の宮には彼の武具をさらしました。また、彼の遺体をペリシテ人の一つの都市の城壁にさらし、さらにはサウルの息子たちの遺体もその城壁にさらしました。

どうして、このようなことが起こったのでしょうか。歴代誌の著者はその答えを示しています。

このように、サウルは主に逆らったみずからの不信の罪のために死んだ。主のことばを守らず、そのうえ、霊媒によって伺いを立て、

主に尋ねなかった。それで、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに回された。(歴代誌第一10:13-14)

確かにサウルは悪い王でした。とはいえ、ある人々は、サウルの良い点を忘れずに覚えていました。それは、ヤベシュ・ギルアデの人々です。

何年か前、サウルはサムエルにイスラエルの王として油を注がれたものの、それでもなお自分の農場で働き続けていました。

けれども、ヤベシュ・ギルアデが攻撃されたと聞くや否や、サウルはイスラエル人を集め、その人々を助けに向かったのです。

そのため、ヤベシュ・ギルアデの人々は、その出来事を決して忘れることはありませんでした。そして、彼らがサウルとその息子たちの遺体について聞いた時、彼らは勇気を持ってその遺体を引き取り、葬りました。

ヤベシュ・ギルアデの人々は、サウルが悪い王であったことを知っていたはずです。サウルは正当な理由がないにもかかわらず、ダビデを殺したいと思い、ダビデを追いかける間、時折イスラエルを適切に守ることを怠りました。

また、ノブの祭司たちがダビデを助けたため、サウルは彼らを殺害しました。ヤベシュ・ギルアデの人々は、それらすべての出来事を知っていたに違いありません。

それでも、彼らはサウルの悪い行いを思い出すことを選ばず、むしろサウルの良い行いを思い出すことを選びました。その結果、彼らは生命を危険にさらし、サウルとその息子たちの遺体を取り戻して葬ったのです。

その話を読むと、私はこう考えます。

「私は周囲の人々についてどのように考えるだろうか。彼らの悪い点ばかりに心を留め続けるだろうか。それとも、彼らの良い点を忘れずに心に留め続けるだろうか。」

普通は良い点について考え続けますが、時々悪い点についても考えてしまうことがあります。それは、まだ私の心の中に苦々しい根が残っているからです。そのため、今でも私の彼らに対する態度に影響を与えています。

おそらく、ヤベシュ・ギルアデの人々は、サウルに対して全く苦々しい思いを抱いていなかったのでしょう。彼らはサウルの悪い行いについては耳にしていたはずですが、サウルが彼らに害を及ぼすことはありませんでした。

しかし、ある人々は私を傷つけました。私はある程度まで彼らを許しましたが、それでも心の中には苦々しい根が残っており、彼らのことを考えると、悪いことを思い出してしまいます。

とはいえ、よく考えてみると、彼らにも良い点がありました。時には、彼らは他の人々や私自身を助けてくれたこともありました。

そのため、この箇所を読むと、私はこう思います。「このようなことを思い出さなくてはならない。悪いことではなく、良いことについて考えるべきだ。」

それでもなお、時にはそれが難しいと感じます。

良いことを思い出すことは、悪いことをすべて忘れるという意味ではありません。また、それが彼らに再び私を傷つけることを許すということでもありません。

ダビデはその良い例です。サウルが亡くなった時、ダビデは泣きました。そして、サウルを讃える歌も書きました。

しかし、サウルが生きている間、ダビデはサウルから逃げ続けました。なぜなら、サウルは危険な人だったからです。

ダビデは、サウルの良い点に目を向け続けることを選びました。そして、サウルの罪を赦すことを決断されました。けれども、それと同時に、ご自身を守ることも忘れませんでした。私たちも、このようなバランスを持つ必要があります。

あなたを傷つける人がいるでしょうか。それはお父さんでしょうか。それともお母さんでしょうか。同僚でしょうか。それとも教会の人々でしょうか。

彼らについて、あなたはどのように考えられるでしょうか。悪いことにばかり焦点を当てるでしょうか。それとも、彼らの良い点に目を向けるでしょうか。

神様は、私たちをどのようにご覧になるでしょうか。私たちの悪い点に目を向けることもできますが、そうはされません。

イエス様が私たちの罪のために命を捨て、その血が私たちの罪を覆ってくださるからです。その結果、神様は私たちの良い点を思い起こしてくださいます。

私たちを傷つけた人々について考える時、そのようなあわれみを示しましょう。