カテゴリー
歴代誌第一1

神様を忘れる?

これはルベン族、ガド族、そしてマナセの半部族の話です。彼らは他のイスラエル人から離れて、ヨルダン川の向こう側に住んでいました。

ご存じかもしれませんが、彼らはその土地を見て「良い土地だ」と思ったため、モーセにその土地で住む許可を求めました。

モーセが語ったのは、もし彼らが他のイスラエル人と共にカナン人と戦うなら、その土地に住むことを許される、ということでした。

そのため、他のイスラエル人たちがそれぞれ自分の土地を受け取った後、この三つの部族はヨルダン川の向こう側へ帰り、そこに住み始めました。

最初、彼らの生活は順調でした。彼らが攻撃された時、彼らは神様に向かって叫びました。そして、

彼らが神に拠り頼んだので、神は彼らの願いを聞き入れられた。

ところが、ヨルダンの向こう側に住むイスラエル人のように、彼らもすぐに神様を忘れてしまいました。また、神様がどのように彼らを助けてくださったかを忘れてしまいました。

彼らは他の神々に頼り始め、自分自身の力を信頼し始めたのです。

その結果は?彼らは自分の土地から追放されざるをえなくなりました。

私たちはここから何を学べるでしょうか。時には問題があるため、私たちは神様に向かって助けを求めて叫びます。そして、神様の憐れみによって私たちは救われ、私たちの人生がうまくいき始めます。

しかしその後、私たちが神様を忘れ、他のものを求め始めるのは簡単です。例えば、キャリアやお金、持ち物や愛を求め始めることです。

そのようなもの自体は悪いものではありませんが、もしそれらを神様よりも大切にするなら、私たちは神様を忘れてしまうのです。

そして、私たちは悪い決断をし始め、結局私たちの状態が救われる前よりも悪くなるのです。

あなたはどうでしょうか。あなたは楽な人生を生きていますか。他のものを神様よりも大切にし始めていますか。

すべてにおいて、神様をあなたの人生の中心にしてください。神様に信頼し、自分の知恵と理解、そして力に頼らないでください。

そうすれば、あなたは祝福を受け、イスラエル人が陥った罠を避けることができるのです。

カテゴリー
歴代誌第一1

過去の傷から解放される

ソロモンの話を始める前に、歴代誌第一の「プロローグ」からもう二つの話について触れたいと思います。

この箇所には、ヤベツの物語が記されています。

私たちはヤベツについてほとんど何も知りません。彼の職業も、誰と結婚したのかも、子どもがいたのかどうかも、どれほど生きたのかも分かりません。

私たちが知っているのは二つのことです。

一つ目は、ヤベツが重んじられた人であったということです。

二つ目は、ヤベツが恥ずかしい名前を持っていたということです。彼の母親はヤベツを出産したとき、本当に痛みを感じたようです。そこで、その赤ちゃんに「ヤベツ」という名前をつけました。

「ヤベツ」という名前は、ヘブル語の「痛み」という言葉に似ています。

そのような名前を持っていたヤベツが育ったとき、どのような人生を送ったのか想像できるでしょうか。

周りの男の子たちは「やあ、痛いくん!出ていけ!」と言ったかもしれません。

また、彼は自分の母の愛を疑ったかもしれません。

「お母さんは私を本当に愛しているのだろうか。もしかしたら、お母さんにとって、私は苦しみの原因なのだろうか。」

おそらく、母親や周りの人々から拒絶されたことによる苦しみの中で、ヤベツは神様に向かって叫んだのでしょう。

私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。

そこで、神様は彼の願ったことをかなえられました。(歴代誌第一4:10)

あなたはどうですか。過去の傷からまだ苦しんでいるでしょうか。

お父さんやお母さんに拒絶されたと感じているかもしれません。または、学校で友達が全くいなかったかもしれません。

あなたの過去の傷を持ち続ける必要はありません。その傷があなたの現在と未来に影響を与える必要もありません。

あなたの傷を神様に委ねてください。

そして、あなたの人生を神様にささげて、神様の臨在と祝福のために祈ってください。

そうすれば、あなたが成長の過程で受け取れなかった愛と受け入れを、今、神様から受け取ることができるのです。

しかし、その愛と受け入れを受け取っただけで満足してはいけません。

むしろ、神様から受けた愛と受け入れを、傷ついている周りの人々と分かち合ってください。

パウロが言ったように、

私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。

神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。

それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。(第二コリント1:3-5)

カテゴリー
歴代誌第一1

友達からの傷を受け入れること

このブログを書く前にちょっとお知らせがあります。歴代誌第一1-9章について、私はあまり書きません。

その箇所から少しずつ主題を選び取って書いていきます。

(例えば、前のブログで、門衛の役割について話しました。)

とにかく、この箇所には興味深いことがあります。

時々リストを読むのはつまらないかもしれませんが、注意深く読むと興味深いことが見つかります。

この箇所もそのような場所です。

ダビデとバテ・シェバには四人の息子がいました。その中の一人の名前はナタンでした。

それを読んだとき、私はびっくりしました。ナタンはダビデのバテ・シェバとの罪についてダビデを責めました。彼は神様の裁きを宣言しました。

それにもかかわらず、数年後にダビデとバテ・シェバは自分の息子にナタンと名付けたのです。

そのことから、私たちはダビデの性格を知ることができます。

ナタンがダビデを責めたとき、ダビデはそれを受け入れて、悔い改めました。

それだけではなく、ナタンを友人として受け入れ続けました。そして、自分の息子をナタンと名付けたのです。

この箇所から、ナタンの性格も知ることができると思います。

もし私がナタンであれば、友人がそのような酷い罪を犯した場合、多分その友人を避けるかもしれません。

特にダビデの場合、バテ・シェバはまだ結婚していたので、その二人を見て彼らを責め続けるのは簡単なことだと思います。

でも、ナタンはダビデの悔い改めの心を見ました。また、ナタンはダビデとバテ・シェバに対する神様の恵みと憐れみを理解しました。

だから、ナタンはその同じ恵みと憐れみを彼らに示したのです。

この箇所から、二つのことを学ぶことができると思います。

一つ目は、あるクリスチャンが自分の罪を悔い改めるとき、神様のように私たちはその人に恵みと憐れみを与えるべきではないか、ということです。

その場合、その人を裁き続けるのは簡単です。特にその罪がとても酷い場合は、彼らを責め続けるのは簡単です。

私は友だちがいました。彼はクリスチャンでしたが、不倫によって妻と離婚しました。その後、彼は悔い改めて再婚しました。 (しかし、最終的には別の人と結婚することになりました。)

それにもかかわらず、まだ私たちの間には少し距離が残っています。

今は彼に会う機会が全くありません。でも、その機会が訪れるとき、私は彼を許して恵みと憐れみを示さなければならないと思います。神様がそうしてくださったからです。

二つ目のことは、私たちが間違ったとき、友だちが私たちを責めるなら、その言葉を受け入れるかどうかということです。

つまり、私たちはその言葉を受け入れて変わるのでしょうか。

それとも、その言葉を拒み、その友だちをも拒むのでしょうか。

ソロモンは記しました。

あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。

憎む者が口づけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である。(箴言27:5-6)

愛とは、相手が聞きたいことを語ることではありません。

愛とは、相手が聞く必要のあることを語ることです。

時には、それが相手を傷つけることもあります。

また、相手が私たちを責めることで、私たち自身も傷つけられることがあります。

しかし、もしその言葉を受け入れるなら、その言葉を通して神様は私たちを変えてくださいます。そして、私たちはさらに神様に似る者とされていくのです。

あなたはどうでしょうか。友だちからの傷を受け入れることができるでしょうか。

また、友だちが間違ったとき、率直に責めるでしょうか。それとも、「彼らを愛している」から何も言わずにいるのでしょうか。

私たちは周りの人々に対して、忠実な友だちとなることができますように。