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エズラ記 歴代誌第二

呼ばれた

私が歴代誌について書き始めたのは、約2年前でした。今日はやっとその話を終えることができます。列王記と歴代誌の話はずっと続いてきました。

この箇所では、また、エズラ記の初めに、ユダヤ人がイスラエルに戻ることについて読みます。なぜ彼らは帰国できたのでしょうか。

ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。

「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜わった。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。

あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神がその者とともにおられるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である。』」(エズラ記1:1-3)

2節は私の心を打ちました。「天の神、主(つまり、ヤハウェ)は、地のすべての王国を私に賜った。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。」

ペルシャ人が自分の神々を礼拝していたのに、どうしてクロスはイスラエルの神ヤハウェをほめたたえたのでしょうか。

おそらく、彼は預言者イザヤの言葉を知っていたからです。クロスが生まれるずっと前に、イザヤはこの言葉を書きました。

わたしはクロスに向かっては、『わたしの牧者、わたしの望む事をみな成し遂げる』と言う。エルサレムに向かっては、『再建される。神殿は、その基が据えられる』と言う。」(イザヤ44:28)

また、

主は、油そそがれた者クロスに、こう仰せられた。「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする。。。

それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。(イザヤ45:1、3)

おそらくその言葉によって、クロスはその宣言を伝えました。また、彼はネブカデネザルが取った主の宮の用具を返し、その宮の修理のために、イスラエル人の隣人にこう命じました。

残る者はみな、その者を援助するようにせよ。どこに寄留しているにしても、その所から、その土地の人々が、エルサレムにある神の宮のために進んでささげるささげ物のほか、銀、金、財貨、家畜をもって援助せよ。(エズラ1:4)

そして、クロスの応援で、神様が言われたように、イスラエル人は帰国しました。

神様がクロスを神様の目的を果たすために呼ばれたように、神様は私たちを呼ばれました。私たちが自分自身のために生きるように呼ばれたのではありません。私たち自身の目的を果たすために呼ばれたのでもありません。むしろ、私たちが神様のために生きるために、神様は私たちの名前を呼ばれました。

パウロはこう書きました。

また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。(第二コリント5:15)

あなたは誰のために生きているでしょうか。神様はご自身の目的のためにあなたの名前を呼ばれました。その召しに応えるでしょうか。

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エレミヤ書 列王記第二 歴代誌第二

没落の理由

この箇所は少し特別です。つまり、同じ出来事が聖書の4つの箇所に記されています。それはエルサレムの没落です。

おそらく、エレミヤは52章を書いたわけではありません。それは別の人が記した付録のようです。エレミヤ書52章と列王記の記述はほとんど同じです。

ゼデキヤ王は神様の御名によって、バビロンのしもべになることを誓いました。けれども、彼がその約束を破ったため、ネブカデネザルが軍隊を送ってエルサレムをおよそ2年にわたり包囲しました。

その結果、エルサレムの食料は徐々になくなり、最終的にエルサレムは陥落しました。

ゼデキヤは逃げようとしましたが、捕らえられました。彼の息子たちは殺され、その後、彼の目がつぶされました。

そしてネブカデネザルは大祭司、次席祭司、そしてユダの長老たちを殺しました。

バビロン人は主の宮から価値のあるものをすべて取り去り、宮、宮殿、エルサレムの家々をすべて焼きました。

なぜ、神様はそのようなことを許されたのでしょうか。

歴代誌第二には、その理由が記されています。

彼「ゼデキヤ」はその神、主の目の前に悪を行ない、主のことばを告げた預言者エレミヤの前にへりくだらなかった。。。

そのうえ、祭司長全員と民も、異邦の民の、忌みきらうべきすべてのならわしをまねて、不信に不信を重ね、主がエルサレムで聖別された主の宮を汚した。

彼らの父祖の神、主は、彼らのもとに、使者たちを遣わし、早くからしきりに使いを遣わされた。それは、ご自分の民と、ご自分の御住まいをあわれまれたからである。

ところが、彼らは神の使者たちを笑いものにし、そのみことばを侮り、その預言者たちをばかにしたので、ついに、主の激しい憤りが、その民に対して積み重ねられ、もはや、いやされることがないまでになった。(歴代誌第二36:12-16)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。なぜエルサレムは滅びたのでしょうか。

一つ目の理由は、ゼデキヤ王とその民が主の目の前で悪を行ったことです。私たちが悪を行えば、私たちの人生にも悪い結果が起こります。

二つ目の理由は、彼らが神様の言葉を聞いたとき、へりくだって悔い改めなかったことです。むしろ、彼らの心はさらに堅くなり、ますます悪化しました。

三つ目の理由は、彼らが周囲の国々の宗教的な忌み嫌われるならわしを真似して、神様の宮を汚したことです。

最後の理由は、彼らが神様の言葉を侮り、神様の預言者たちを嘲笑したことです。その結果、彼らの癒しはもはや不可能なものとなりました。

時に、私たちの心もあまりにも堅くなり、悔い改めることができなくなることがあります。しかし、悔い改めなければ、癒しも得られません。

あなたはどうでしょうか。どの道を進んでいますか。あなたは悔い改めることなく罪を犯し続けていますか。もし神様が聖書や日曜日のメッセージを通してあなたを責められたとき、あなたはその言葉に心を閉ざしてしまうでしょうか。

周りの人々の宗教的な習慣や教えに従って、聖霊の宮、つまりあなたの体を汚してしまっていませんか。(第一コリント6:19)

また、この世の神々、すなわちお金やセックス、持ち物を求めていませんか。それらも聖霊の宮を汚すことがあります。

さらに、あなたは神様の言葉を侮り、神様の使者を嘲笑してはいませんか。

これらのことによってエルサレムは滅びました。そして、これらのことによってあなたも倒れるでしょう。

もしあなたが真のクリスチャンであれば、救いを失うことはありませんが、人生は崩壊してしまいます。

神様はあなたに良い計画を用意されていますが、あなたはその計画を知ることができません。充実した人生ではなく、後悔に満ちた人生を送ることになるでしょう。

私たちはイスラエルのようにならないようにしましょう。むしろ、神様に対して柔らかい心を保ちましょう。そうすることで、真の命を見つけることができます。

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エレミヤ書 列王記第二 歴代誌第二

神様の選択、私たちの選択

クリスチャンの学者たちは長い間、神様の主権と人間の自由意志について議論を続けています。この箇所では、その二つの要素を見ることができますので、その議論について少し触れます。ただし、そのことに関して、私には特に新しい考えがあるわけではありません。

この箇所では、エホヤキム王がバビロンの王に反抗したため、バビロンはエルサレムを攻撃し、彼を退けてバビロンに囚人として連れて行きました。

その息子エホヤキンは、王としてわずか3か月しかユダを治めませんでした。ネブカデネザルは彼も退け、バビロンに囚人として連れて行きました。ネブカデネザルはエホヤキンだけでなく、エホヤキンの母、妻たち、すべての高官、一万人もの有力者、職人や鍛冶屋たちも捕囚として捕らえ、移しました。

さらに、エホヤキンの代わりにネブカデネザルは、エホヤキンのおじゼデキヤを王としました。(歴代誌によれば、ゼデキヤはエホヤキンの「兄弟」ですが、その意味は「近親者」です。列王記第二24:17によれば、ゼデキヤはエホヤキンのおじでした。)

その時、神様はエレミヤに幻を通して二つのかごのいちじくを見せられました。一つのかごにはとても良いいちじくがあり、もう一つのかごにはとても悪いいちじくがありました。

神様が言われたのは、追放された人々を良いいちじくだと見なされるということです。その一方、エルサレムに残った人々は悪いいちじくでした。そして、神様はエルサレムに残った人々を滅ぼされますが、追放された人々を祝福し、いつの日かイスラエルに帰らせると約束されました。

しかし、どうして神様はあるグループを救われ、他のグループを滅ぼされるのでしょうか。神様は追放された人々についてこのように言われました。

わたしは、良くするために彼らに目をかけて、彼らをこの国に帰らせ、彼らを建て直し、倒れないように植えて、もう引き抜かない。また、わたしは彼らに、わたしが主であることを知る心を与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心を尽くしてわたしに立ち返るからである。(6-7)

もちろん、追放された人々の中には、預言者ダニエルやエゼキエルのように、比較的良い人々もいました。とはいえ、あまり良くない人々もいました。どうして神様は彼らを救われたのでしょうか。私には分かりません。ただ、神様のあわれみだとしか言えません。

時々、人々はこう答えます。「神様は出来事が起こる前に、全てを知っておられます。だから、神様は彼らが最終的に悔い改めると知っておられたので、彼らを救われたのでしょう。」

しかし、この箇所によれば、どうして彼らは悔い改めたのでしょうか。自分の良い性格によって悔い改めたのでしょうか。それは違います。神様はこう言われました。「私は彼らに、私が主であることを知る心を与える。」

つまり、神様が彼らの心を変えられたので、彼らは悔い改めることができたのです。では、どうして神様はゼデキヤや他のエルサレムに残った人々の心を変えられなかったのでしょうか。

私には分かりません。

では、私が確信していることは何でしょうか。

一つ目は、人々が自分の選択のゆえに裁かれるということです。彼らが神様に従うことを選んでいれば、神様は彼らを救われました。けれども、彼らはその道を選びませんでした。

二つ目は、神様が人々の心に働きかけ、神様を知る心を与えなければ、だれも救われないということです。

追放された人々には、そのようなことが起こりました。そして、私たちにとっても同じです。

ある牧師がこう言いました。「神様が私たちの壊れたアンテナを修理してくださったので、私たちは神様の声を聞けるようになったのです。」

三つ目は、神様の選択はランダムではないということです。神様はサイコロの結果によって選ばれることはありません。神様にはご自身の選択のための常に良い理由があります。

とはいえ、私たちの問題は、その理由を知らないことです。多くの場合、神様はその理由を説明されません。だからこそ、私たちは神様を信頼する以外に何もできないのです。

アブラハムはこのように言いました。

全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。(創世記18:25)

アブラハムはそう信じました。アブラハムは神様がいつも公義を行ってくださることを信じました。私たちもそう信じましょう。

しかし、私たちは自分自身に尋ねなくてはならないのは、「私は何を選択するのでしょうか」ということです。

だれも、神様の前に来て、「私が信じなかったのはあなたのせいです」と言うことはできません。

私たちは自分の選択に対して責任を取るべきです。そして、その選択に対して、私たちは神様の前に申し開きをしなくてはなりません。

神様に従うでしょうか。神様に従わないでしょうか。あなたはどうしますか。

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エレミヤ書 列王記第二 歴代誌第二

神様を知る

ユダ王国の最後の4人の王たちは皆悪い王でした。

エホアハズ(エレミヤ書22章では、エホアハズはシャルムと呼ばれました)、エホヤキム、エホヤキン、そしてゼデキヤは、王として大きな失敗をしました。

エレミヤ書22章では、神様はその最初の3人の王について語られました。

彼らには神様とその民に仕える心がありませんでした。むしろ、彼らは自己中心の心を持ち、自分の立場を利用して富を集めることを望んでいました。そのため、彼らは神様を無視し、その民のニーズも無視しました。

だからこそ、神様はその3人の王を裁かれました。その時、神様は彼らをヨシヤ王と比べて、こう語られました。

あなたは杉の木で競って、王になるのか。あなたの父は飲み食いしたが、公義と正義を行なったではないか。そのとき、彼は幸福だった。

彼はしいたげられた人、貧しい人の訴えをさばき、そのとき、彼は幸福だった。それが、わたしを知ることではなかったのか。――主の御告げ――

しかし、あなたの目と心とは、自分の利得だけに向けられ、罪のない者の血を流し、しいたげと暴虐を行なうだけだ。(エレミヤ書22:15-17)

彼らは神様について知っていました。神様の過去のわざを知っていました。けれども、彼らは本当に神様を知ってはいませんでした。

神様について知ることと、神様を知ることは異なることです。

神様を知るということは、あなたの行動と人生を通して神様を認めることです。また、神様を知るということは、正しいことを行うことでもあります。

しかし、これらの王たちはそのようなことをしませんでした。

ヤコブはこう言いました。

さらに、こう言う人もあるでしょう。

「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」

あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。(ヤコブ2:18-19)

あなたはどうでしょうか。ただ神様について知っているだけでしょうか。神様が存在することを信じるだけでしょうか。

それとも、あなたの行動と人生を通して、神様を知っていることを示しているでしょうか。

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列王記第二 歴代誌第二

たった一つの悪い選択

選択。それは神様からの贈り物です。けれども、選択することは責任を伴います。私たちは日々、数多くの選択を迫られています。

深刻ではない選択もあります。たとえば、朝食に何を食べるか、通勤にバスと電車のどちらを使うべきかといった選択です。

しかし、もっと重要な選択もあります。それは、今日神様に従うか従わないか、また、この瞬間に神様に従うかどうかという選択です。

ヨシヤ王は、基本的に神様に従う生涯を送りました。

王として、さまざまな賢明な決断を下し、ユダを導きました。

他のユダやイスラエルの王たちと比較すると、ヨシヤは本当に優れた王でした。

ところが、ある日、神様の声を無視したことで彼は命を落としました。

エジプトの王が他国と戦おうとしていたとき、ヨシヤは彼を止めようとして出向きました。その際、エジプトの王はヨシヤにこう語りました。

ユダの王よ。私とあなたと何の関係があるのですか。

きょうは、あなたを攻めに来たのではありません。私の戦う家へ行くところなのです。

神は、早く行けと命じておられます。

私とともにおられる神に逆らわずに、控えていなさい。さもなければ、神があなたを滅ぼされます。(歴代誌第二35:21)

神様の命令によって、エジプトの王はそう語りました。(歴代誌第二35:22)

けれども、ヨシヤは神様の声に従いませんでした。

どうしてだったのでしょうか。ヨシヤのプライドが原因だったのでしょうか。

たとえば、彼自身の軍隊についてのプライドや、自分の作戦に対するプライドがあったのかもしれません。(彼はその戦いのために変装していました。)

あるいは、ヨシヤはプライドから神様が外国の王に語りかけるはずがないと思っていたのかもしれません。

ヨシヤの考えを正確に知ることはできませんが、確かなのは、彼がその日に命を落としたということです。そして、ユダの没落は間もなく始まりました。

時には、正しいと分かっていても、あえて悪い選択をしてしまうことがあります。

ときに、自分の行動を正当化しようとすることもあります。あるいは、言い訳さえせずに悪を行ってしまうこともあるのです。

ヨシヤの人生から、この大切な真実を心に刻みましょう。

「たった一つの悪い選択が、私たちの人生を壊してしまう可能性がある。」

たとえば、一つの悪い選択によって、不倫をしてしまい、結婚生活を崩壊させることがあります。

一つの罪によって、自分のミニストリーを破壊してしまうこともあります。

もちろん、罪を犯したとしても、悔い改めるならば神様は赦してくださいます。

神様はヨシヤを赦されました。

ヨシヤは天国に入りました。

それでも、彼の治世と命はそこで終わってしまったのです。

だからこそ、毎日毎日、一瞬一瞬、神様に従うことを選びましょう。

さらに、主の祈りを心に留め、祈り続けましょう。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。(マタイ6:13)

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列王記第二 歴代誌第二

表面的な悔い改め

これはユダ王国の没落の始まりを示しています。

ヨシヤはユダの最後の良い王でした。そして、この箇所を見ると、ヨシヤの影響によってユダ人たちは悔い改めたように見えます。

ヨシヤは偽物の神々とその祭壇を取り壊し、霊媒や口寄せ、偽りの祭司たちを処刑しました。

そして、ユダ人たちが過ぎ越しの祭りを祝った際、その祝いは非常に素晴らしいものでした。預言者サムエルの時代以来、このような祭りは行われていなかったのです。(歴代誌第二35:18)

そのため、歴代誌第二には、次のように記されています。

[ヨシヤ]の生きている間、[ユダ人たち]はその父祖の神、主に従う道からはずれなかった。(歴代誌第二34:33)

しかし、列王記第二には次のように記されています

それにもかかわらず、マナセが主の怒りを引き起こしたあのいらだたしい行ないのために、主はユダに向けて燃やされた激しい怒りを静めようとはされなかった。

主は仰せられた。

「わたしがイスラエルを移したと同じように、ユダもまた、わたしの前から移す。わたしが選んだこの町エルサレムも、わたしの名を置く、と言ったこの宮も、わたしは退ける。」(列王記第二23:26-27)

問題は何だったのでしょうか。ヨシヤは心から悔い改めましたが、多くのユダ人たちはそうしませんでした。

もちろん、一部のユダ人たちは本当に悔い改めましたが、多くの人々は自分の罪を犯し続けました。

その罪を隠していたかもしれませんが、それでもなお罪を続けていたのです。そして、ヨシヤが死んだ後、その悪は再び現れてしまいました。

あなたはどうでしょうか。ヨシヤのように、心から神様に仕えているでしょうか。

それとも、表面的には神様に仕えているふりをしながら、この世の偶像、すなわちお金、セックス、力に仕えているのでしょうか。

周囲の人々を欺くことはできるかもしれませんが、神様を欺くことは決してできません。

そして、そのような振る舞いを続けるなら、ユダ人たちと同じように代価を支払うことになります。

私たちを神様から遠ざけるものを捨て去り、心から神様に従いましょう。

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列王記第二 歴代誌第二

神様の御言葉なしで、生きる

この箇所を読むと、私たちはユダ人の霊的な問題がどれほど深いかが分かります。なぜなら、祭司たちは神様の言葉がどこにあるか全く分からなかったからです。

どうして祭司たちが神様の言葉を失うことができたのか、私には全く理解できません。

彼らが神様の言葉を全く読んでいなかったのなら、どのようにしてユダ人に神様の言葉を教えることができたのでしょうか。

彼らはその父たちの教えを覚えていたかもしれません。けれども、ヒゼキヤ王が亡くなった後、その後の二人の王たちは偶像を礼拝したため、神様の宮は長い間放置されていました。

そのため、祭司たちが覚えていたことがどれほど正確だったのかは分かりません。

結果はどうなったのでしょうか。

おそらくイスラエルの士師の時代と同じように、ユダ人は「それぞれ自分の目に正しいと見えることを行なっていた。」(士師記21:25)

しかし、彼らの基準は神様の基準とは異なっていました。

ヨシヤ王はその事実をすぐに理解するようになりました。

祭司たちが神様の宮を修理している最中に、誰かが神様の律法の書を見つけました。大祭司はその書物をヨシヤの書記であるシャファンに渡しました。ところが、シャファンがその書物の重要性を本当に理解していたかどうかは分かりません。

シャファンはヨシヤのもとに行き、次のように報告しました。

「あなたが命じた通りに、主の宮の修理が進められています。その修理のためのお金も適切に使われています。。。

あ、それから、大祭司が一つの書物を私に渡してくれました。」(列王記第二22:9-10)

シャファンはその書物の重要性を理解していなかったかもしれませんが、ヨシヤはすぐにその意義を理解しました。

シャファンがその律法の書をヨシヤの前で読み上げると、ヨシヤは自分の衣を裂き、こう言いました。

行って、この見つかった書物のことばについて、私のため、民のため、ユダ全体のために、主のみこころを求めなさい。

私たちの先祖が、この書物のことばに聞き従わず、すべて私たちについてしるされているとおりに行なわなかったため、私たちに向かって燃え上がった主の憤りは激しいから。(列王記第二22:13)

女預言者フルダからのメッセージは決して良いものではありませんでした。

イスラエルの神、主は、こう仰せられます。

『あなたがたをわたしのもとに遣わした人に告げよ。主はこう仰せられる。

見よ。わたしは、この場所とその住民の上にわざわいをもたらす。

ユダの王が読み上げた書物のすべてのことばを成就する。

彼らはわたしを捨て、ほかの神々に香をたき、彼らのすべての手のわざで、わたしの怒りを引き起こすようにした。

わたしの憤りはこの場所に燃え上がり、消えることがない。(列王記第二22:15-17)

けれども、彼女は続けてこう言いました。

あなたが、この場所とその住民について、これは恐怖となり、のろいとなると、わたしが言ったのを聞いたとき、あなたは心を痛め、主の前にへりくだり、自分の衣を裂き、わたしの前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる。――主の御告げです――

それゆえ、見よ、わたしは、あなたを先祖たちのもとに集めよう。あなたは安らかに自分の墓に集められる。

それで、あなたは自分の目で、わたしがこの場所にもたらすすべてのわざわいを見ることがない。(列王記第二22:19-20)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。聖書を読まなければ、私たちの人生は混乱してしまいます。

また、神様の言葉を読まなければ、私たちは神様を喜ばせることができません。

時々、牧師たちが説教するとき、彼らは多くを語り、自分の意見を述べますが、ほとんど聖書に触れません。

彼らは30~40分ほど話し、ようやく「では、聖書を読みましょう」となります。

けれども、5分後には聖書を閉じ、それ以上聖書には触れないのです。

私はそのようなメッセージがあまり好きではありません。

彼らは良いことを語るかもしれません。私たちは良い助言を受けることがあるかもしれません。けれども、それは神様の言葉ではなく、単に牧師たちの意見に過ぎないのです。

また、ある人々は教会で非常に良い聖書的なメッセージを聞くかもしれません。ところが、月曜日から土曜日まで全く聖書を読まなければ、彼らは霊的に飢えてしまいます。

聖書の上に埃が積もり、自分の知恵に頼んで生きるようになり、その結果、彼らの人生は混乱してしまうのです。

あなたはどうですか。あなたの教会では、聖書が失われていないでしょうか。あなたの家では、聖書が忘れ去られていないでしょうか。

もしそのような状態であるならば、あなたの宮、すなわちあなたの人生は混乱してしまうでしょう。

なぜなら、神様の知恵によって生きるのではなく、自分の知恵に頼って生きることになるからです。

ヨシヤのように、私たちの心をへりくだらせ、神様の言葉を受け入れる者となりましょう。

そして、毎日、神様の御言葉に従って生きていきましょう。

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列王記第二 歴代誌第二

ごみを捨てる

私は古いものをあまり捨てません。必要のない物でも、私はずっと持ち続けてしまいます。

多くの人々は、私のようにため込む傾向があるかもしれません。けれども、もしあなたがクリスチャンであるなら、捨てなければならないものがあります。それは、罪と罪へと導くものです。

そのため、アモン王の息子であるヨシヤがユダの王になったとき、彼は霊的なごみを捨て始めました。ただし、それには少し時間がかかりました。

ヨシヤは8歳の時に王となりましたが、16歳になると神様を求め始めました。(歴代誌第二34:3)

では、なぜヨシヤは神様を求め始めたのでしょうか。

それは彼の父アモンの影響ではなかったはずです。アモンは本当に悪い王でした。

おそらく、彼の祖父マナセが自分の失敗についてヨシヤに教えたのかもしれません。

とにかく、ヨシヤは偶像やその祭壇を捨てました。実際、その偶像を粉々に砕いたのです。それだけでなく、その偽りの神々の祭司たちを処刑しました。

これはまさに「ごみ」を捨てることです。

私たちも同じようにすべきです。

それはポルノの雑誌やビデオといった具体的なものかもしれません。

または、心の中にある苦々しい思いや妬み、怒り、貪欲といったものかもしれません。それらもすべて捨てなければなりません。なぜなら、神様の民にはそのようなものはふさわしくないからです。

もし私たちが本当に神様を求めているなら、ヨシヤのようにそのようなものを捨てるべきです。

あなたは何を捨てるべきでしょうか。

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列王記第二 歴代誌第二

私たちの罪過を大きくする

少しだけ列王記と歴代誌に戻りましょう。

アモン王の話は短いものの、全く幸せな話ではありません。

その父であるマナセ王と同様に、アモンは偶像礼拝を行い、さまざまな酷い罪を犯しました。

アモンが父の試練を見たにもかかわらず、その同じ道を選んだのは信じがたいことです。

とはいえ、マナセとアモンには大きな違いがありました。

彼はその父マナセがへりくだったようには、主の前にへりくだらず、かえって、彼アモンは罪過を大きくした。(歴代誌第二33:23)

結果として、アモンの民は彼を裏切り、殺害しました。

おそらく預言者たちがマナセを警告したのと同様に、アモンも警告を受けたのだと思われます。

けれども、アモンは預言者たちの言葉を退けました。ところが、「彼の罪過を大きくしました」と記されており、それはどういう意味なのでしょうか。

おそらく、彼は全く悔い改めなかったのでしょう。

私たちが罪を告白し、悔い改めるならば、神様はその罪を赦してくださり、私たちの心を清めてくださいます。

しかし、私たちが悔い改めない場合、私たちの罪はゴミのように重なっていきます。

ゴミ捨て場に行ったことがあるでしょうか。それは本当に酷い場所です。

それだけではなく、おそらくアモンの罪は時間とともにさらに酷くなっていたのでしょう。

もし私たちが小さな罪を悔い改めるなら、私たちの良心の敏感さを保つことがでけれども、

けれども、神様の声を無視すると、私たちの心は堅くなってしまいます。

その結果、神様の声が聞こえなくなり、罪を犯しても罪悪感を抱かなくなります。そのため、私たちの罪はだんだんと大きくなります。

最後に、彼は自分が罪を犯していることを十分承知していながら、その罪を続けたため、その意味で彼の罪過はさらに大きくなったのです。

時々、私たちは思わず罪を犯してしまうことがあります。それでも、私たちの行動は罪であり、悔い改める必要があります。

けれども、わざと罪を犯すと、私たちの罪過はもっと大きくなります。

イエス様はこう言われました。

主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。

しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。

すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。(ルカ12:47-48)

あなたはどうでしょうか。罪を犯したとき、すぐに悔い改めているでしょうか。

それとも、罪が積み重なってしまっているでしょうか。

アモンのように罪過を大きくしないでください。そうでなければ、アモンのように代価を払うことになるでしょう。

むしろ、マナセのように悔い改めましょう。そうすることで、神の憐れみを知ることができるのです。

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決して遅すぎない

「私にはもう遅すぎるでしょう。」

ジョージ・ルーカスは『スター・ウォーズ』がダース・ベイダーの贖いについての物語だと語っています。つまり、ベイダーは悪によって腐敗しましたが、息子の愛によって救われたのです。

『ジェダイの帰還』で、ルーク・スカイウォーカーは父ベイダーにこう願いました。

「あなたの憎しみを捨ててください。皇帝を拒絶して、私と一緒に逃げましょう。」

けれども、ベイダーは悲しく答えました。「私にはもう遅すぎるのです。私は主人に従わなければなりません。」

その後、皇帝はルークを殺そうとしました。ルークはベイダーの助けをもう一度求めました。

ベイダーはその光景を見て心を悩ませましたが、最終的に皇帝を攻撃して倒したのです。こうして、彼はルークだけでなく、自分自身も救ったのです。

この箇所の話も似たような内容です。

マナセはヒゼキヤ王の息子でした。ヒゼキヤは本当に良い王でしたが、マナセは別の道を歩みました。

彼は偶像を礼拝し始め、偶像とその祭壇を主の宮に築きました。さらに霊媒や口寄せに相談し、占いも行いました。

それだけではなく、彼は自分の息子を火の中に通しました。列王記によると、

罪のない者の血まで多量に流し、それがエルサレムの隅々に満ちるほどであった。(列王記第二21:16)

何度も預言者たちはマナセに警告しましたが、マナセは全く耳を貸しませんでした。むしろ、彼はその預言者たちを殺してしまいました。

ユダヤ人の伝承によれば、マナセが預言者イザヤを殺害したとされています。へブル人への手紙11章37節にある「[他の人たちは]のこぎりで引かれ[た]」という表現は、イザヤを指している可能性があります。

そのため、神様はこう言われました。

見よ。わたしはエルサレムとユダにわざわいをもたらす。だれでもそれを聞く者は、二つの耳が鳴るであろう。

わたしは、サマリヤに使った測りなわと、アハブの家に使ったおもりとをエルサレムの上に伸ばし、人が皿をぬぐい、それをぬぐって伏せるように、わたしはエルサレムをぬぐい去ろう。

わたしは、わたしのものである民の残りの者を捨て去り、彼らを敵の手に渡す。

彼らはそのすべての敵のえじきとなり、奪い取られる。

それは、彼らの先祖がエジプトを出た日から今日まで、わたしの目の前に悪を行ない、わたしの怒りを引き起こしたからである。(列王記第二21:12-15)

そして、アッシリヤ人たちはマナセを鉤で捕らえ、青銅の足かせにつないでバビロンへ引いて行きました。

列王記ではそれ以上の記録はありませんが、歴代誌の記述はもう少し続きます。

バビロンで、マナセはへりくだり、悔い改め、神様を求め始めました。そこで、神様はマナセを赦してくださいました。

そして、マナセはエルサレムに戻り、再びユダの王として立つことができました。

彼は偶像とその祭壇を取り除き、主の祭壇をもう一度築き、その上で和解のいけにえと感謝のいけにえをささげました。

マナセは数々の悪事を行っていました。ユダの王の中でも、彼は本当に酷い王でした。それでもマナセが悔い改めるのは遅すぎることはありませんでした。

神様はマナセのように人々を裁かれますが、多くの場合、神様は長く待った後で裁かれます。神様はマナセを何度も警告し、ついに裁かれたのです。

しかし、私たちが悔い改めると、神様はすぐに赦してくださいます。

悔い改めるのが遅すぎると思うでしょうか。失敗しすぎたから、神様がもうあなたを赦せないと思うでしょうか。

遅すぎることは決してありません。

悔い改めると、神様はあなたのために待つだけでなく、あなたのもとに走り、喜んで歓迎してくださいます。

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神様の恵みを忘れる

この箇所を読んで私が驚いたのは、神様がいろいろな不思議な方法でヒゼキヤを助けられたにもかかわらず、ヒゼキヤがその恵みを忘れてしまったことです。

歴代誌第二32:35には、このことについてこう記されています。

ところが、ヒゼキヤは、自分に与えられた恵みにしたがって報いようとせず、かえってその心を高ぶらせた。そこで、彼の上に、また、ユダとエルサレムの上に御怒りが下った。

ヒゼキヤはどのように高ぶったのでしょうか。神様がヒゼキヤの病気を癒された後、バビロンから使者がやって来ました。彼らは、神様がヒゼキヤのために何をしてくださったのかを聞いたからです。

しかし、ヒゼキヤは神様を誉めることなく、自分の富、つまり金や銀、武器、そして宝物のすべてを見せびらかしました。

そのため、イザヤはヒゼキヤにこう言いました。

万軍の主のことばを聞きなさい。見よ。あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで、たくわえてきた物がすべて、バビロンへ運び去られる日が来ている。何一つ残されまい、と主は仰せられます。

また、あなたの生む、あなた自身の息子たちのうち、捕らえられてバビロンの王の宮殿で宦官となる者があろう。(イザヤ39:5-7)

多分、その日バビロン人はヒゼキヤの富を目にしたことで、後にその富を得るためにユダを攻めようと考え始めたのでしょう。

それだけではなく、ヒゼキヤはバビロン人に神様の恵みについて伝える絶好のチャンスを逃してしまいました。もし彼が神様の恵みを語っていたなら、彼らは悔い改めて神様に従い始めた可能性もあったのです。

私たちも、神様の恵みを忘れると同じようなことが起こるかもしれません。自分の持ち物や、自分が成し遂げたことを誇ってしまい、それらの祝福がどこから来たのかを見失ってしまうのです。

そして、他の人々が私たちの祝福を見るとき、私たちは時に神様が与えてくださった恵みを忘れてしまい、自分自身がどのようにそれらを得たのかを誇ることがあります。

その結果、彼らは私たちが仕える神様を誉めるのではなく、私たち自身を誉めてしまうのです。

あなたはどうでしょうか。他の人々があなたを見るとき、その人たちはあなたの成功に感動し、あなたを誉めるのでしょうか。

それとも、彼らはあなたを通して神様を知り、神様を求め始めるのでしょうか。

どうか、神様の恵みを忘れないでください。むしろ、謙遜な心を持ち、いつも神様に感謝を捧げ、神様からいただいた恵みを周りの人々と分かち合いましょう。

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私たちの問題を神様に委ねる

ヒゼキヤはついに悔い改め、神様に向き直りました。それでも、彼の問題はまだ解決していませんでした。アッシリヤは依然としてエルサレムを占領しようと狙っていました。

それでも、ヒゼキヤは再び神様に信頼を置き、神様の約束(イザヤ書38:6)を心に刻んでいたため、希望を持つことができました。そこで、ヒゼキヤは民に向かってこう言いました。

強くあれ。雄々しくあれ。アッシリヤの王に、彼とともにいるすべての大軍に、恐れをなしてはならない。おびえてはならない。

彼とともにいる者よりも大いなる方が私たちとともにおられるからである。

彼とともにいる者は肉の腕であり、私たちとともにおられる方は、私たちの神、主、私たちを助け、私たちの戦いを戦ってくださる方である。(歴代誌第二32:7-8)

ユダ人たちはその言葉を聞いて励まされました。

けれども、アッシリヤの王は自分の家来たちをエルサレムに送りました。

そして、その家来たちは、サタンのように、ユダ人を恐れさせるために嘘と真実を混ぜて語りました。

彼らはこう言いました。

「エジプトはあなたたちを助けることができない。他の国々は私たちの前に立つことができなかった。その国々の神々は彼らを救うことができなかった。」

それらの言葉は、すべて事実でした。しかし、彼らは続けてこうも言いました。

「あなたたちの神も、あなたたちを助けることができない。たとえできたとしても、あなたたちの神は私たちの味方です。実は、あなたたちを滅ぼすために私たちを遣わしたのです。」

それは本当に興味深い言葉です。もちろん、一部は嘘でした。それは、神様がユダを救うことができないということです。

とはいえ、アッシリヤ人たちは神様の預言者たちの言葉を耳にしたことがあったのかもしれません。つまり、預言者たちはアッシリヤがユダを攻撃することを警告していました。

だから、多分アッシリヤ人たちはこう言いたかったのです。

「ほら、あなたたちの預言者たちは、私たちが来ることを警告したでしょう。そして今、私たちは来たのです。あなたたちを倒すために。」

けれども、アッシリヤ人たちは二つのことを言いませんでした。

一つ目は、神様がアッシリヤの没落をも預言していたということです。

二つ目は、神様が警告された理由は、ユダ人たちが悔い改めて救われるためだったということです。

とにかく、ヒゼキヤはその言葉を聞くと、すぐに主の宮に行き祈りました。そして、イザヤはもう一度ヒゼキヤを励ましました。

その後すぐに、クシュの王とその軍隊がアッシリヤ人たちを攻撃したため、アッシリヤ人たちは退却せざるを得ませんでした。

しかし、去る前に、彼らはヒゼキヤに手紙を送り、こう言いました。「また戻ってきます。」

さらに、その家来たちはもう一度アッシリヤが成し遂げたことを自慢しました。

では、ヒゼキヤはどうしたのでしょうか。彼はその手紙を主の前に広げ、祈りました。

ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。

主よ。御耳を傾けて聞いてください。主よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセナケリブのことばをみな聞いてください。

主よ。アッシリヤの王たちが、すべての国々と、その国土とを廃墟としたのは事実です。彼らはその神々を火に投げ込みました。それらは神ではなく、人の手の細工、木や石にすぎなかったので、滅ぼすことができたのです。

私たちの神、主よ。今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、あなただけが主であることを知りましょう。(イザヤ書37:16-20)

その祈りから、私たちはいくつかの大切なことを学ぶことができると思います。

1.困難なときに、主がどのような方であるかを思い出しましょう。

神様は天におられる神であり、この世を治めるお方です。また、創造者として私たちを助ける力を持っておられます。

2.私たちの問題を神様に委ねましょう。

自分の必要や疑いについて、正直に神様に語りましょう。

3.へりくだって、神様の助けを求めて祈りましょう。

神様の力に頼るとき、私たちは真の希望を見つけることができます。

ヒゼキヤはこのように行動しました。その結果、神様は彼の祈りを聞き入れ、彼を救われました。神様はアッシリヤの軍隊を打ち滅ぼし、その王も最終的に自分の息子たちによって命を落としました。

あなたが直面している問題は何ですか。 神様があなたの問題よりも偉大なお方であることを思い出してください。

あなたの問題を神様に委ねましょう。そして、救いを求めて祈り、神様に信頼し、その御言葉に従いましょう。

そうすれば、ヒゼキヤのように神様からの救いを経験することができます。

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低くされた

以前も言ったように、この出来事が起こった正確なタイミングは分かっていません。残念ながら、聖書は特定の箇所で具体的な説明をしていないため、私は推測するしかありません。

列王記第二17章から18章では、アッシリヤの王セナケリブが北イスラエル王国を攻撃して滅ぼしたことが記されています。

そして彼はユダを攻撃しました。その理由は、ユダがアッシリヤへの貢物の支払いをやめたからです。しかし、セナケリブ王が攻撃しようとした際、ヒゼキヤは自分のお金と主の宮から金銀を取り除いてセナケリブに支払いました。

ところが、セナケリブ王が再び攻撃してきた際、ヒゼキヤは別の準備を進めていました。ヒゼキヤとユダの民は武器を集め、都市の壁を修理し、さらにアッシリヤ人に水が流れないようにするため、エルサレムの外にある泉の水を塞ぎました。

これは私自身の考えですが、そのような状況でも、多分ヒゼキヤはまだ自分自身に頼り続けていたのだと思います。エジプトとの同盟が失敗したにもかかわらず、依然として神様に向かうことはありませんでした。

そこで、神様はヒゼキヤを病気で打たれました。ずっとイザヤの警告を無視してきたヒゼキヤでしたが、ついに主を訪ねるためにイザヤを呼びました。

そして、イザヤが来てこう言ったのです。

主はこう仰せられます。「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。」(列王記20:1)

ヒゼキヤはその状況をどう感じたでしょうか。エルサレムは包囲され、彼自身は病に倒れて死にかけていました。そして、その時点ではまだ息子がいませんでした。(息子のマナセは3年後に誕生しました。)

彼は神様を責めたかもしれません。「どうしてこんなことが起こるのでしょうか。どうして私を打たれるのでしょうか。」

その怒りは自己憐憫へと変わった可能性もあります。

けれども、最終的に彼は神様の前にへりくだるようになりました。

ヒゼキヤは自分のプライドと罪を悔い改め、神様に祈いました。彼の祈りは、神様がヒゼキヤの過去の良い行い、つまり心から主を求めたことを思い出してくださるよう願うものでした。

そして彼は主の前で涙を流しました。

イザヤはその場を立ち去り始めていましたが、神様が彼を止め、ヒゼキヤへの特別なメッセージを与えてくださいました。

わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたの寿命にもう十五年を加えよう。

わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、この町を守る。(イザヤ書38:5-6)

そして、主はしるしを与えてくださいました。それは日時計に下った時計の影を十度後に戻すというものでした。

神様がどのようにそのことをされたのかは分かりません。神様がこの世界を逆方向に回されたのか、光の錯覚を起こされたのかは分かりません。いずれにせよ、神様は約束されたとおりに、ヒゼキヤを癒してくださいました。

私たちはこの出来事から何を学ぶことができるでしょうか。

時に神様は、私たちが神様に目を向けるようにするために私たちを低くされます。もし私たちが神様の言葉に耳を傾けないとしても、神様は私たちを愛しておられるので、私たちを無視することはありません。

神様は私たちの悔い改めのために働いてくださるのです。

ヒゼキヤは次のように書き残しました。

何を私は語れましょう。主が私に語り、主みずから行なわれたのに。私は私のすべての年月、私のたましいの苦しみのために、静かに歩みます。。。

ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。あなたは、滅びの穴から、私のたましいを引き戻されました。あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。(イザヤ書38:15,17)

あなたは自分の罪によって苦しんでいるでしょうか。神様はあなたを滅ぼすことを望んでおられません。

神様の望みは、あなたがへりくだって生きることです。神様の望みは、あなたが神様に信頼し、あなたの人生が豊かになることです。また、あなたが他の人々にも神様に信頼することを教えることです。

ヒゼキヤは次のように歌いました。

父は子らにあなたのまことについて知らせます。主は、私を救ってくださる。私たちの生きている日々の間、主の宮で琴をかなでよう。(イザヤ書38:19-20)

私たちは自分自身に信頼するのではなく、毎日へりくだって神様に信頼することを選びましょう。そして、その生き方を他の人々に教え、神様への信頼を広めましょう。

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リーダーの資質

私はヒゼキヤが何を行ったかを読んだとき、深く感動します。なぜなら、ヒゼキヤの姿を通して、神様がリーダーに求めておられる資質が明確になるからです。

それは何でしょうか。

ヒゼキヤは自分の民のために祈りました。(歴代誌第二30:18)

この箇所では、多くの人々が過越の祭りを祝いましたが、モーセの律法によれば彼らは儀式的に聖くありませんでした。

(例えば、ある人の父が亡くなり、その遺体に触れた場合は儀式的に聖さを失います。)

そのため、彼らは病気になってしまいました。

しかし、その人々には本当に神様に従いたいという心があったため、ヒゼキヤは彼らのために祈りました。

そして、神様は彼らを癒してくださいました。

ヒゼキヤはその民を励ましました。(歴代誌第二30:22)

レビ人たちが熱心に働く姿を見ても、それを当たり前だとは思いませんでした。むしろ、ヒゼキヤは彼らを励まし、その努力に対して感謝を表しました。

ヒゼキヤはその民に仕事を与えました。(歴代誌第二31:2)

ヒゼキヤは自分ですべての仕事をしようとはせず、むしろ、神様が命じられた通りに祭司たちとレビ人たちに仕事を与えました。

ヒゼキヤは主の働きのために自分の物を捧げました。(歴代誌第二31:3)

ヒゼキヤはただ人々に命令するだけではありませんでした。むしろ、主の働きのために(この場合、いけにえのために)自分の物を捧げました。

ヒゼキヤは主を求めました。(歴代誌第二31:20-21)

これは最も大切な資質でした。

ヒゼキヤは時々失敗しましたが、普段は自分の知恵に頼らず、本当に神様を喜ばせたいと願っていました。

だからこそ、彼は神様との関係を何よりも大事にし、主の目の前で良いこと、正しいこと、誠実なことを行い、心を尽くして働いたのです。

神様はこのようなリーダーを望んでおられます。あなたが教会を導く場合でも、家族を導く場合でも、神様はこのようなリーダーを求めておられます。

つまり、あなたが自分の民のために祈り、彼らを励まし、仕事を与えることを望んでおられます。

また、良い模範となり、自分の物を主の働きのために捧げることを期待しておられます。

しかし、神様が最も大切だと考えておられるのは、あなたが神様を求めることです。

あなたはどのようなリーダーでしょうか。

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歴代誌第二

悔い改めの招き

この箇所の興味深いポイントは、この時代、イスラエル王国とユダ王国がまだ仲が良くなかったということです。

イスラエル王国はすでに崩壊し、多くのイスラエル人が追放されていました。それでも、ヒゼキヤは残ったイスラエル人たちに手を差し伸べました。

ヒゼキヤはこう言いました。

「私たちもあなたがたのように神様に背を向けたため、罰を受けました。でも、今私たちは神様のもとに戻ります。あなたがたも神様に立ち返りませんか。」

この箇所を通して、私たちは人々を悔い改めに招く方法を学ぶことができます。

一つ目は、たとえ相手が私たちを傷つけたとしても、私たちには憐み深い心が必要だということです。私たちは彼らを赦さなくてはなりません。

ヒゼキヤの父アハズの時代には、イスラエル人がアラム人と協力して、ユダ人たちを苦しめていました。(イザヤ書7章)

けれども、アッシリヤがイスラエルを倒したとき、ヒゼキヤは情け深い心を持ち、彼らを神様に立ち返るように招きました。

私たちもそのような心を持つ必要があります。たとえ相手が私たちを傷つけても、私たちは彼らの悔い改めと救いのために祈るべきです。

残念なことですが、多くの場合、私たちは相手の苦しみを見て、手を差し伸べることなく喜んでしまいます。そうしないようにしましょう。

二つ目は私たちのメッセージについてです。救いのメッセージとは何でしょうか。

「神様に戻ってください。あなたがたは神様に背を向けたため、あなたがたの人生はめちゃくちゃになってしまいました。

それでも、神様はあなたがたをまだ愛しておられます。そして、神様のもとに戻るなら、神様はあなたがたを赦し、癒してくださいます。

ですから、悔い改めませんか。」

これが私たちのメッセージです。悔い改めと希望のメッセージです。

最後に覚えておいてください。私たちは人々の反応をコントロールすることはできません。

多くのイスラエル人はヒゼキヤのメッセージを聞いて、彼とその使者たちをからかいました。

しかし、あるイスラエル人たちは遜った心を持ってエルサレムに行き、ユダ人と共に過越の祭りを祝いました。

そして、その祭りの後で、彼らはユダ人たちと共にユダの偶像礼拝の場所を打ち壊しました。

その後、彼らは自分の国に戻り、自分たちの偶像礼拝の場所も打ち壊しました。

ある人々は福音のメッセージを拒絶します。それでも、がっかりしないでください。私たちは彼らの反応をコントロールすることはできません。

他の人々はそのメッセージを聞いて、神様に立ち返ります。ですから、どうか頑張ってください。そのメッセージを伝え続けてください。

神様はイザヤにこう言われました。

雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。

そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。

必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。(イザヤ書55:10-11)

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神様に立ち返る

少し久しぶりに歴史書に戻りましょう。

この箇所では、私たちはユダの素晴らしい王の一人に出会います。彼の名前はヒゼキヤです。

列王記の著者はヒゼキヤについて次のように書いています。

彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼のあとにも彼の先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。(列王記第二18:18:1-5)

実は、ヒゼキヤの父アハズは酷い模範でした。

しかし、多分ヒゼキヤはイスラエル王国の崩壊を目の当たりにし、預言者ミカやイザヤの警告を聞いたことで、すぐに悔い改め、ユダを再び神様に向ける決意をしたのだと思います。

ヒゼキヤの人生を見ると、私たちがどのように神様に立ち返るべきかが分かると思います。

まず、ヒゼキヤはユダの民が礼拝していた偶像を取り除きました。

その中にはモーセが作った青銅の蛇も含まれていました。この青銅の蛇は、イスラエル人が荒野をさまよった際に、神様が蛇の毒からの癒しの手段として用いられました。

ところが、ユダの民はこの青銅の蛇を偶像として礼拝し始めたため、ヒゼキヤはこの蛇を打ち砕いたのです。

同じように、私たちが神様に戻りたいと願うなら、私たちも自分の偶像を捨てなければなりません。

もちろん、仏教の偶像や仏壇を捨てるべきですが、それだけでなく他の「神々」も捨てる必要があります。例えば、「お金の神」や「持ち物の神」です。

もし何かを神様よりも大切にしているなら、それはあなたの偶像です。

もちろん、文字通りにお金や持ち物を捨てるわけではありません。けれども、すべてに優先して神様を第一にし、大切にしなくてはなりません。

青銅の蛇のように、かつてはあなたの偶像が良いものだったかもしれません。例えば、あなたの趣味です。

ところが、その趣味によって神様との関係が疎かになり、神様のための働きを怠っているのであれば、その趣味をしばらく置いておく必要があるでしょう。

偶像を取り除いた後、ヒゼキヤは神様の宮を掃除し、清めました。

私たちクリスチャンはキリストの宮です。キリストが私たちの内に住んでおられるのですから、その宮を清める必要があります。つまり、偶像を捨てる必要があります。

それと共に、私たちは神様に罪を告白し、悔い改める必要があります。

ヒゼキヤの時代では、罪のためにいけにえを捧げなければなりませんでした。(歴代誌第二29:23-24)

しかし、私たちにとってイエス様こそが最後のいけにえです。イエス様は十字架で死んで、私たちの罰を代わりに受けてくださいました。

そして、イエス様の血が私たちをすべての罪から清めてくださいます。(第一ヨハネ1:7)

ただし、清い心を保つためには、私たちは常に罪を告白し、悔い改める必要があります。

ヨハネは次のように書いています。

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

最後に、ヒゼキヤとユダの民は、もう一度自分たち自身を神様に捧げました。彼らは神様にこう言ったのです。

「私たちはあなたのものです。私たちの人生をもう一度あなたに捧げます。」

私たちも同じようにするべきです。

罪に背を向けるだけでは不十分です。神様に向き直らなくてはなりません。

偶像を捨てるだけでは十分ではありません。心を尽くして神様に従わなくてはならないのです。

あなたはクリスチャンであっても、神様から離れてしまったかもしれません。

かつては神様と共に歩んでいたとしても、今は神様から遠ざかっているかもしれません。

それでも、今も神様はあなたを愛しておられ、あなたのために待っておられるのです。

だから、もし神様に戻りたいと願うなら、次のように祈ってください。

イエス様、私はあなたから離れてしまい、自分の道を歩んでいました。どうか赦してください。

あなたの言葉にはこうあります。「もし私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第一ヨハネ1:9)

今、私はあなたに立ち返ります。私の偶像を捨てる助けを与えてください。そして、私の心の王座にもう一度座ってください。

あなたの恵みと憐れみに感謝します。私を決して諦めないことに感謝します。

あなたのみ名によって祈ります。アーメン。

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私たちが立てられる岩、つまずきの岩

妥協――私たちの信仰を妥協するのは、時として本当に簡単なことです。

私たちが神様のために決断を迫られるとき、私たちはどうするでしょうか。神様に従うでしょうか。それとも、人々からのプレッシャーに屈するでしょうか。

二人の預言者、イザヤとオデデは神様に従いました。けれども、ある祭司ウリヤはそのプレッシャーに屈してしまいました。

ユダの罪のゆえに、神様はアハズの軍隊をイスラエル軍の手に渡されました。けれども、イスラエル人たちはユダ人の物だけを奪うことにとどまらず、ユダ人をイスラエルまで連れて行き、奴隷にしようとしていました。

しかし、サマリヤに入る前に、オデデはイスラエル人たちの前に立ち、こう言いました。

見よ。あなたがたの父祖の神、主がユダに対して憤られたため、主はあなたがたの手に彼らを渡された。ところが、あなたがたは天に達するほどの激しい怒りをもって彼らを殺した。

今、あなたがたはユダとエルサレムの人々を従えて自分たちの男女の奴隷にしようとしている。

しかし、実はあなたがた自身にも、あなたがたの神、主に対して罪過があるのではないか。

今、私に聞きなさい。あなたがたが自分の同胞をとりこにしたそのとりこを帰しなさい。主の燃える怒りがあなたがたに臨むからです。(歴代誌第二28:9-11)

オデデにとって、そのメッセージを伝えることは非常に困難だったと思います。ユダ人たちが多くの悪事を行った一方で、イスラエル人たちはそれ以上に酷い人々でした。

それでも、この一人の預言者は軍隊の前に立ち、「あなたたちは間違っている」と言わなくてはなりませんでした。

もし私がオデデだったなら、こう考えたかもしれません。

「彼らは私の言葉に決して従わないだろう。なぜこんなメッセージを伝えなくてはならないのか。きっと私は殺されるだろう。」

それでも、オデデは彼らの前に立ち、神様のメッセージを伝えました。そして、彼らはオデデの言葉に従い、ユダ人たちに衣服と薬と食べ物を与え、彼らを解放しました。

一方で、ウリヤは全く勇気を持たず、神様の言葉をアハズ王に伝えることができませんでした。

それは驚くべきことです。なぜなら、かつて神様は「ウリヤはわたしの確かな証人」と言われたからです。(イザヤ8:2)

けれども、列王記第二によれば、アハズはウリヤにアッシリヤの神々のために祭壇を造り、全焼のいけにえを捧げるよう圧力をかけました。

そして、モーセの兄アロンがしたように(出エジプト記32章)、ウリヤはそのプレッシャーに屈しました。アハズのためにその祭壇を造り、その偶像を礼拝し始めたのです。

神様はイザヤを通して、そのような妥協について警告されました。(イザヤ書8:11-21)

例えば、神様はイザヤにこう言われました

この民が謀反と呼ぶことをみな、謀反と呼ぶな。(イザヤ書8:12)

ヘブル語で「謀反」にはもう一つの意味があります。それは「同盟」です。

したがって、この箇所を「この民が同盟と呼ぶことをみな、同盟と呼ぶな」と翻訳することができます。

この翻訳が正しいとするならば、多くのユダ人がアッシリヤとの同盟を望んでいたことを意味するでしょう。なぜなら、イスラエルとアラムは同盟を結び、ユダを攻撃していたからです。

しかし、神様はこう言われました。

「妥協してはいけません。不敬虔な国と同盟を結んではいけません。このイスラエルとアラムの同盟を恐れてはなりません。周りの人々を恐れるのではなく、むしろ私を恐れなさい。そうすれば、私はあなたの聖所となるでしょう。」(イザヤ書8:12-14)

また、神様はこう言われました。

「霊媒に尋ねてはなりません。あなたは私に尋ねなければなりません。どうして光を持たない人々に助言を求めるのでしょうか。そのようなことをすると、あなたは苦悩と暗闇だけを見つけるでしょう。」(19-22)

神様はイザヤに次のように言われました。

[主は]イスラエルの二つの家には妨げの石とつまずきの岩、エルサレムの住民にはわなとなり、落とし穴となる。多くの者がそれにつまずき、倒れて砕かれ、わなにかけられて捕らえられる。(14-15)

新約聖書の著者がその箇所を引用すると、彼らはその「岩」をイエス様と結びつけました。つまり、イエス様はイスラエルの民にとって「つまずきの石」となるという意味です。

ペテロは次のように記しています。

彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。(第一ペテロ2:8)

その「御言葉」とは、「悔い改めてください。あなたの罪が赦されるためにイエス・キリストを信じてください。」というメッセージです。

しかし、私たちが神様に背くならば、神様は私たちにとってつまずきの岩となられます。そして、ユダ人とイスラエル人が砕かれたように、私たちも背きによって倒れ、砕かれるのです。

したがって、私たちには選択肢があります。神様に背いて倒れるか、それとも神様を私たちの基礎とし、人生の礎石とするかです。

その選択をした場合、どうなるでしょうか。ペテロは次のように記しています。

彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。(第一ペテロ2:6)

イザヤとオデデのようになりましょう。プレッシャーが来ても、妥協してはいけません。むしろ、私たちの岩であるイエス・キリストの上にしっかりと立ちましょう。

イザヤのようにこう言いましょう。

私は主を待つ。。。私はこの方に、望みをかける。(イザヤ8:17)

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誰を恐れるでしょうか

以前言ったように、ヨタムの息子アハズはユダの王になると、イスラエルをさらに深く偶像礼拝へ導きました。

列王記と歴代誌によれば、アハズは偶像を造り、バアルを礼拝しました。

けれども、最も悪かったのは、アハズが自分の息子を全焼のいけにえとして神々に捧げたことです。その理由は、ユダがアラムとイスラエルと戦っており、その神々の助けを望んだからです。

ある日、アラムの王とイスラエルの王が同盟を結び、エルサレムを攻撃するために来ました。ユダの人々がその知らせを聞くと、

王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した。(イザヤ書7:2)

そこで、アハズはアッシリヤと同盟を結ぼうと考えました。その時、イザヤがアハズのもとを訪れ、こう言いました。

気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。

あなたは、これら二つの木切れの煙る燃えさし、レツィンすなわちアラムとレマルヤの子との燃える怒りに、心を弱らせてはなりません。

アラムはエフライムすなわちレマルヤの子とともに、あなたに対して悪事を企ててこう言っています。。。

[しかし]そのことは起こらないし、ありえない。(イザヤ書7:4-5,7)

そこで、イザヤはアハズにこう言いました。「あなたの神、主から、しるしを求めなさい。」(イザヤ7:11)

けれども、アハズはそれを拒み、「私は求めません。主を試みることはしません。」と答えました。(イザヤ7:12)

その言葉は敬虔に聞こえますが、実際にはアハズはイザヤの言葉の真偽を確かめたくありませんでした。なぜなら、彼はすでにアッシリヤと同盟を結ぶことを決意していたからです。

アハズは主を信頼せず、アッシリヤに頼る道を選んだのです。

そのため、イザヤは怒り、こう言いました。

あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。

見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を「インマヌエル」と名づける。。。

まだその子が、悪を退け、善を選ぶことも知らないうちに、あなたが恐れているふたりの王の土地は、捨てられるからだ。(イザヤ書7:13-16)

もちろん、マタイはこの箇所を引用してイエス様について語っていますが、イザヤはおそらく別の出産について考えていたようです。

多くの学者が指摘するのは、イザヤが自身の将来の子について言及している可能性です。(イザヤ8:3-4)

ところで、なぜマタイはイエス様を指すためにこの箇所を引用したのでしょうか。それはおそらく、イザヤの息子の出産がイエス様の出産を象徴しているからです。つまり、イザヤの息子の出産がユダの救いのしるしだったように、イエス様の出産は世界の救いのしるしでした。

また、イザヤの息子は神様がユダとともにおられるというしるしでしたが、イエス様は本物の神様であり、私たちの間に住んでくださいました。(ヨハネ1:14)

さて、イザヤはアハズに「アッシリヤに頼らないでください」と警告しました。

神様はアッシリヤを用いてアラムとイスラエルを打ち砕かれますが、アハズがアッシリヤに頼るなら、アッシリヤがユダも打ち砕くことになると警告しました。(イザヤ書7:17-8:10)

そして、それは現実となりました。

歴代誌によれば、アラムとイスラエルがユダを攻撃した際、アハズはアッシリヤの助けを求めました。アッシリヤの王が来たものの、

彼[つまり、アハズ]を攻め、彼を悩ました。彼の力にはならなかった。(歴代誌第二28:20)

それから、ユダの状態はさらに悪化しました。アハズはアラムの神々を礼拝し始め、ついには神様に背を向けて、

主の宮の戸を閉じ、エルサレムの町かどの至る所に祭壇を造った。(歴代誌第二28:24)

この話から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

誰を恐れるのか、注意してください。また、誰に信頼するのかにも気を付けてください。

アハズは主を恐れなかったため、状況が悪化すると敵を恐れるようになりました。神様に信頼しなかったため、信頼できない人々に依存し、無力な偶像を頼り始めました。

その結果、すべてが崩れてしまいました。

あなた自身はどうでしょうか。誰を恐れているでしょうか。人々を恐れているでしょうか。他人があなたについてどう思うかを心配しているでしょうか。

経済的な問題を恐れているでしょうか。この世が恐れるものを恐れていますか。

それとも神様を恐れているでしょうか。

何に頼っているでしょうか。お金でしょうか。自分の知恵や能力でしょうか。

それらはあなたを救うことはできません。それらに頼るなら、あなたもアハズのように倒れてしまうでしょう。

イザヤがアハズに言ったように、

もし、あなたがたが[神様を]信じなければ、長く立つことはできない。(イザヤ7:9)

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列王記第二 歴代誌第二

ほとんど完璧だけど

この箇所では、ユダの王ヨタムについての短い記録を読みます。彼はほぼ正しい王でした。

歴代誌第二によると、

彼はすべて、主の目にかなうことを行なった。父ウジヤが行なったとおりである。ただし、彼は、主の神殿に入るようなことはしなかった。(歴代誌第二27:2)

ウジヤ王の話を覚えていますか。彼は香を焚くために主の神殿に入ってしまいました。そのため、神様は彼を裁かれました。

(祭司たちだけがその仕事をするべきとされていました。)(歴代誌第二26:18-19)

ウジヤの治世は悪い形で終わりましたが、その息子であるヨタムの治世は非常に成功しました。

例えば、ヨタムはアモン人と戦って打ち勝ったのです。では、どうして彼が成功を収めたのでしょうか。

彼が、彼の神、主の前に、自分の道を確かなものとしたからである。(歴代誌第二27:6)

それでも、ヨタムは完璧な王ではありませんでした。どうしてでしょうか。

それは2節にこう記されています。

民はなお滅びに向かっていた。(歴代誌第二27:2)

「滅びに向かっていた」とは、どのような意味なのでしょうか。

列王記第二によると、

ただし、高き所は取り除かなかった。民はなおも高き所でいけにえをささげたり、香をたいたりしていた。(列王記第二15:35)

ヨタムは主の前で自分の道を確かなものとしましたが、その民はそうしませんでした。このような行動のために、ホセアやイザヤはユダの民を責めました。

さらに悪かったのは、ヨタムが息子アハズに主の礼拝を教えなかったように見えることです。

そのため、アハズが王になると、彼はユダの民をますます偶像礼拝へと導きました。

私たちはここから何を学ぶことができるでしょうか。

私たちが神様とともに歩み、神様の心に従っているとしても、私たちには自分が影響を及ぼす範囲があるのです。それは私たちの伴侶、子供、隣人、そして同僚です。

私たち自身が神様を仕えることだけでは十分ではありません。神様が私たちに与えてくださった人々に良い影響を与えるべきなのです。

そうしないと、神様は私たちをそのために裁かれるのです。

もちろん、私たちは他の人々に良い決断を強制することはできません。また、他の人々が主に仕えることを強制することもできません。

しかし、私たちに権威が与えられている場合、特に子供に対しては、できる限り神様について教え、彼らが神様に従うように導くべきです。

あなたの影響の範囲はどこでしょうか。神様は誰をあなたに託されたのでしょうか。

あなた自身が主に仕えるだけで満足しているでしょうか。

それとも、他の人々を主の道に導いているでしょうか。

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プライドは私たちをどこに導くか

「父が父なら子も子」――それはアマツヤとその子アザルヤの話です。

彼らは良いスタートを切りましたが、最終的にはプライドによって倒れてしまいました。

アザルヤの場合、ゼカリヤ(預言者ザカリヤとは別人)がアザルヤに主を恐れることを教えていました。

そのため、アザルヤは若いころから主を求め、神様は彼を栄えさせてくださいました。(歴代誌第二 26:5節)

彼は多くの敵と戦い、彼らを打ち破りました。アザルヤは非常に強力な軍隊を持ち、強い王となりました。

けれでも、歴代誌第二 26:16にはこう書かれています。

しかし、彼が強くなると、彼の心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。

列王記によれば、アザルヤはツァラアト(皮膚病で、ハンセン病に似たもの)にかかりました。けれども、歴代誌はその理由を明らかにしています。

神様の律法によれば、祭司だけが香の壇の上で香をたくことを許されていました。ところが、プライドに支配されたアザルヤは、自ら香をたこうとしたのです。

おそらく彼はこう思ったのでしょう。

「私は良い王だし、神様を愛している。なぜ私が香をたいてはいけないのだろうか。」

祭司たちはアザルヤに注意を促しましたが、彼はそれを全く聞き入れませんでした。それどころか、彼は激しく怒りました。

ところが、その時突然、彼の額にツァラアトが現れたのです。アザルヤはそれを見て急いで神殿を出て、自宅に戻りました。

その結果、彼は死ぬまでその病気に苦しむことになりました。

さらに、彼は王位を息子ヨタムに譲ることを余儀なくされました。

そしてその病気のために、アザルヤは決して神殿に入ることができず、家族から離れ、別の家で孤独な生活を送らざるを得ませんでした。

ソロモンはこう書いています。

高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。(箴言16:18)

アザルヤはそれを学びましたが、彼の人生は完全に行き詰まってしまいました。

あなたはどうでしょう。ご自身のプライドが、あなたを支配してはいないでしょうか。

その場合、あなたのプライドは、あなたが築き上げたものを崩してしまうでしょう。それは、あなたの人間関係や評判を壊してしまうのです。

しかし、私たちがへりくだり、神様に従うならば、神様によって祝福されます。

ヤコブはこう書いています。

神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。(ヤコブ4-6)

私たちのプライドが私たちの人生を崩してしまう前に、そのプライドを打ち砕きましょう。

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私たちはどのように神様の言葉に応答するか

プライドによって、ユダの次の二人の王、アマツヤとアザルヤは没落しました。アマツヤの場合、彼の人生はこの一言で要約されます。

彼は主の目にかなうことを行なったが、全き心をもってではなかった。(歴代誌第二25:2)

例えば、アマツヤがエドムという国と戦う準備をしていたとき、北イスラエル王国から勇士を雇いました。けれども、ある預言者がアマツヤにこう言いました。

王よ。イスラエルの軍勢をあなたとともに行かせてはなりません。主は、イスラエル、すなわち、すべてのエフライム族とは、共におられないからです。

それでも、あなたが行くと言われるのなら、そうしなさい。雄々しく戦いなさい。神は敵の前にあなたをつまずかせられます。

神には、助ける力があり、つまずかせる力もあるからです。(歴代誌第二25:7-8)

アマツヤはそれを聞いて非常に怒りました。なぜなら、彼はすでにその勇士たちに多額のお金を支払っていたからです。

しかし、最終的には彼らを引き離し、それぞれの場所に帰しました。

ところが、次に預言者が来たとき、アマツヤの態度はまったく問題がありました。

ユダがエドム人を打ち破った後、アマツヤはエドム人の偶像を取って礼拝し始めたのです。

預言者が来てアマツヤを戒め始めると、アマツヤはこう答えました。

私たちはあなたを王の議官に任じたのか。

身のためを思ってやめなさい。なぜ、打ち殺されるようなことをするのか。(歴代誌第二25:16)

預言者はそれを聞いて話すのを止めましたが、彼はこう言いました。

私は神があなたを滅ぼそうと計画しておられるのを知りました。あなたがこれを行ない、私の勧めを聞かなかったからです。(歴代誌第二25:16b)

その預言はただちに成就しました。

アマツヤは愚かにも北イスラエル王国を攻撃しようとしましたが、ヨアシュ王は彼にプライドについて警告を与えました。

あなたは、どうだ、自分はエドムを打ち破ったと言った。あなたの心は高ぶり、誇っている。

今は、自分の家にとどまっていなさい。なぜ、争いをしかけてわざわいを求め、あなたもユダも共に倒れようとするのか。(歴代誌第二25:19)

アマツヤはヨアシュの言葉を無視し、北イスラエル王国を攻撃しました。その愚かな決断によって、彼は命を落としました。

あなたはどうでしょうか。あなたは神様の言葉にどのように応答するでしょうか。

しぶしぶ従いますか。

それとも、無視しますか。

もしくは心から従いますか。

多くの場合、私たちは自分の知恵に頼り、神様の言葉を拒絶します。私たちは高ぶって、自分の知恵で成功できると思い込むことがあります。

しかし、そのプライドは私たちを没落へと導きます。

ソロモンはこう書いています。

人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。(箴言16:25)

自分の知恵に頼るのではなく、命へと導く道を歩みましょう。

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全然成長しなかった少年

成長しなかった少年。その話を聞くと、私はピーター・パンを思い浮かべます。彼は決して成長したくありませんでした。

残念なことに、ヨアシュ王もそのような人物でした。

祭司エホヤダがヨアシュを育て、教えたことで、ヨアシュは人生の前半、主に仕えることができました。

また、エホヤダや他の祭司たちが主の宮を修理しないとき、ヨアシュは彼らを叱責しました。

しかし、ある日エホヤダが亡くなりました。

ヨアシュを育てた人、そして彼を教えていた人がいなくなったのです。

エホヤダがヨアシュを訓練したおかげで、ヨアシュには学んだことを活かしてユダを賢く治める機会が与えられていました。

それでも、ヨアシュはその機会を活かしませんでした。

むしろ、エホヤダが死んだ後、ユダのつかさたちがヨアシュの心を神様から離れるように導きました。そして、ヨアシュは修理したばかりの宮を捨て、他の神々を礼拝し始めたのです。

それだけでも悪いことでしたが、ヨアシュはさらに悪いことをしました。

神様はエホヤダの息子ゼカリヤをヨアシュに送られました。そして、ゼカリヤはヨアシュにこう言いました。

神はこう仰せられる。「あなたがたは、なぜ、主の命令を犯して、繁栄を取り逃がすのか。」

あなたがたが主を捨てたので、主もあなたがたを捨てられた。(歴代誌第二24:20)

ヨアシュはそれを聞いても、その父エホヤダの親切さに全く感謝せず、ゼカリヤを殺しました。

そのため、神様はユダを裁かれました。

ユダの軍隊がアラムの軍隊よりも規模が大きかったにもかかわらず、神様はユダをアラムの手に渡されました。

その際、ヨアシュは重傷を負い、すぐに彼の家来たちによって暗殺されました。

皮肉なことに、エホヤダは王たちと一緒に葬られましたが、ヨアシュは王たちと一緒に葬られませんでした。

なぜでしょうか。それは、ヨアシュが本当に成長することがなかったからです。

彼は心を尽くして神様に信頼することを決して学びませんでした。むしろ、彼は人間に頼ることを選びました。

エホヤダのような善良な人に頼れば良いことを行いましたが、悪い人々に頼ると悪いことを行いました。

そして結局、それが彼の没落を招いたのです。

あなたはどうでしょうか。あなたのメンターは誰ですか。誰に信頼し、誰に頼っていますか。

いずれ私たちは成長しなくてはならない時を迎えます。敬虔な人々は永遠に私たちと共にいるわけではありません。

彼らが私たちの元を去った時、私たちは霊的な大人として成長し、人々に頼るのではなく、神様だけに頼ることを学ばなければなりません。

私たちはそのことを学び、私たちの人生を神様の御手に委ねましょう。

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私たちの宮を清める

ヨアシュ王は、祭司エホヤダの訓練と影響を受けて、王として順調なスタートを切りました。

王となると、ヨアシュはすぐに宮の修復をしたいと考えました。

アハズヤがユダの王であった時、その母アタルヤの影響を受けていたのか、アハズヤとその兄弟たちは宮を打ち壊し、宮の聖なる品々をすべてバアルの礼拝に使用しました。(歴代誌第二24章7節)

その結果、宮は次第に荒廃していきました。そこで、ヨアシュは祭司たちに命じて、人々から資金を集め、宮の修理を行うように指示しました。

なぜ、あなたはレビ人に要求して、主のしもべモーセとイスラエルの集団の、あかしの天幕のための税金を、ユダとエルサレムから持って来させないのですか。(歴代誌第二24:6)

こうして、彼らはようやく修理に取りかかりました。

彼らは宮を修理しただけでなく、アハズヤが盗んだ物の代わりに新しい器具も作りました。

この箇所を見ると、私はこう考えます。「私たちは主の宮を十分に注意しているだろうか。」

もちろん、ここで私が話しているのは建物のことではありません。私たち自身の体について話しています。

なぜなら、パウロがこう言ったからです。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。(第一コリント6:19)

罪によって私たちの宮はどのような霊的な損害を受けているのでしょうか。

私たちはその罪をそのまま残しているのでしょうか。

それとも、聖なる器となるために、その罪を清めているのでしょうか。

時々、この話の祭司たちのように、私たちは神様に仕えることに忙しくなってしまいます。

しかし、私たちが忘れてはならないのは、神様が最も関心を持っておられるのは、私たち自身のことだということです。

私たちが神様のために何かを成すこと以上に、神様は私たち自身を気にかけておられます。

神様は、宮が清められ、修復され、聖なるものとなることを望んでおられます。

私は「神様に仕えるには、完全に清められなければならない」と言っているのではありません。

けれども、「神の仕事」をしているからといって、自分自身の宮を顧みる時間がない、という態度をとってはいけません。

神様の最初の仕事はあなた自身です。

神様がまずあなたの中で働き、その後で、神様がどのようにしてあなたを用いるかを考え始められるのです。

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正当な王

もしヨシャパテが未来を見ることができたなら、彼は違う選択をしたでしょうか。

彼はアハブ王と同盟を結び、その結果、ヨシャパテの息子ヨラムはアハブの娘アタルヤと結婚しました。

アタルヤはヨラムを神様から離れるように導き、彼女の助言によってヨラムは兄弟たちを殺害しました。

その後、ヨラムとその息子アハズヤが死んだとき、アタルヤはユダの女王となるために王族を皆殺しにしようとしました。

もしヨシャパテがこれらの出来事を知っていたなら、彼は何を考え、どう行動したでしょうか。

アタルヤはほとんどの王族を殺してしまいました。

幸いにも、アハズヤの姉妹がアハズヤの息子ヨアシュを救い出しました。

ヨアシュは主の宮に隠され、6歳になると、祭司エホヤダによってユダの民の前に出され、油を注がれ、王冠を被せられました。そしてアタルヤはすぐに殺されました。

私たちはアタルヤの行動を見て侮るかもしれません。

けれども、どれほど私たち自身が、そのようにして神様から私たちの心の王座を奪っているでしょうか。

聖書によると、神様は正当な王です。しかし、私たちはしばしば神様をその王座から押し出し、その王座を奪おうとします。

神様のために生きるのではなく、自分自身のために生き、神様に従うのではなく、自分の欲望に従ってしまいます。

そして、神様がその王座を再び取ろうとされると、私たちはアタルヤのように叫びます。「それは私の王座です。」

多くの人々は、自分がその王座に座れば幸せな人生を送れると思います。

けれども、その王座に座ると、結局私たちの人生は混乱に陥ります。結婚は破れ、家族は崩れ、私たちが築こうとするものはすべて倒れてしまいます。

では、神様がその王座に座られるとどうなるでしょうか。

本当の喜びが訪れます。そして、私たち自身の悪い決断によって破壊してしまったものを神様が癒してくださるのです。

ユダの民は約6年間、アタルヤの治世によって苦しんでいました。

しかし、正当な王がその王座に座ったとき、希望が戻り、人々は喜びに満ちました。

あなたも、自分自身の誤った決断によって苦しんでいるかもしれません。

けれども、もし神様に心の王座をささげるなら、希望は再び戻ります。そして、その希望によって、あなたの心は喜びで満たされることでしょう。

あなたは神様からその王座を奪ってはいませんか。

その王座を神様にお返ししましょう。

神様を私たちの真の王として迎え入れましょう。

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誰に注意した方が良いでしょうか

私は高校生の頃、この歌をよく聴きました。

誰に注意を払うべきか、
また誰に注意を払わないべきかを知る必要があります。

多くの場所から意見が寄せられるため、
誰に注意を払うべきか、
また誰に注意を払わないべきかを決める必要があります。

ーーエイミー・グラント

それは真理です。

あなたは誰の意見を受け取っているでしょうか。

それは非常に重要な質問です。なぜなら、その意見があなたの人生を形成するからです。

良い意見を受け取れば、あなたの人生は良い方向に進みます。

けれども、悪い意見を受け取れば、悪い方向に進んでしまいます。

ユダのアハズヤはそのことを学びました。

以前言ったように、列王記と歴代誌を読む際には名前に注意を払わなければなりません。

このアハズヤはイスラエルの王アハズヤではありません。(列王記第二1章)

これは、ユダの王ヨラムの息子アハズヤです。

その父と同じように、アハズヤは悪い意見を受け入れました。

母アタルヤから悪い意見を受けた上、アタルヤはアハブの娘だったため、アハズヤはアタルヤの兄弟であるイスラエルの王ヨラムからも悪い意見を受け入れました。

その結果、アハズヤはその父と同じようにバアルを礼拝しました。

(もし名前に関して混乱している場合は、心配しないでください。この説明をもう一度読んでみてください。)

歴代誌第二22章3-4節にはこう書かれています。

「アハズヤ」もまた、アハブの家の道に歩んだ。彼の母が彼の助言者で、悪を行なわせたからである。

彼はアハブの家にならって主の目の前に悪を行なった。

その父の死後、彼らが助言者となって、彼を滅びに至らせたのである。

つまり、アハズヤは悪い意見を受け入れたため、彼の人生は破滅へと向かってしまいました。

彼はイスラエルの王ヨラムと共にアラムの王と戦いました。そして、その戦いでヨラムが傷を負ったため、後でアハズヤは彼を見舞いに訪れました。

しかしその時、エフーという人がヨラムを殺すために現れました。そして、アハズヤがヨラムと付き合いがあり、ヨラムのように偽物の神々を礼拝していたため、エフーはアハズヤも殺しました。

悪いタイミングだったため、アハズヤは殺されました。けれども、それだけではなく、彼は悪い意見に従っていたために殺されたのです。

あなたはどうでしょうか。誰の意見に従っていますか。

敬虔な人々の意見に従っていますか。

それとも、不敬虔な人々の意見に従っていますか。

もちろんノンクリスチャンでも時には良い意見を与えることがあるかもしれません。また、クリスチャンでも時には悪い意見を与えることがあるかもしれません。

そのため、最も重要なのは、その意見を神様の言葉と照らし合わせることです。神様だけが完全な意見を与えるからです。

ダビデはこう書きました。

幸いなことよ。悪者のはかりことに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。

まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。(詩篇1:1-2)

私たちは神様の御言葉に従いましょう。そうすれば、

その人は、水路のそばに植わった木のようだ。
時が来ると、実がなり、その葉枯れない。

その人は、何をしても栄える。(詩篇1:3)

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聖書は矛盾があるでしょうか

聖書を信じることができるでしょうか。時には、ミスがないのだろうかと疑問を抱くことがあります。

多くの人々がそのような疑いを持っています。そして、今日の箇所を読むと、多くの人々がそう考えるかもしれません。

列王記と歴代誌を合わせて読むことは非常に興味深いです。

なぜなら、時には両書に同じ話が記録されているものの、列王記には歴代誌に書かれていない情報があり、また歴代誌には列王記に書かれていない情報があるからです。

そのため、列王記と歴代誌を合わせて読むことで、その話の全体像を知ることができます。

とはいえ、列王記と歴代誌を合わせて読むことで、少し分かりにくい点が出てくることもあります。つまり、列王記と歴代誌の記録には、若干矛盾があるように見える場合もあるのです。

その一例が、ユダの王アハズヤの死に関する記述です。

アハズヤはどのようにして死んだのでしょうか。

このブログでは、できる限り難しい箇所から逃げずに向き合いました。

けれども、この話について私の意見を述べる前に、このような難しい箇所について私がどのように考えるかを説明したいと思います。

二人の人が同じ出来事について語る場合、彼らがまったく同じ言葉を使うことはありません。

なぜなら、彼らの記憶は異なり、また何を重要と見るかについても意見が違うため、同じ出来事を語っていても焦点を当てる点が異なるからです。

裁判において、複数の証人が同じ出来事について語ると、異なる証言が現れるものです。

しかし、話が少し異なっていても、その事件が実際に起こらなかったわけではありません。また、それが矛盾しているわけでもありません。

裁判官はそれらの証言を聞き、どのようにして異なる点を統合するかを考えます。

私たちが聖書を読むときも、同じことをするのです。

もし列王記と歴代誌の間に異なる記述があった場合、それらをどのように統合すればよいか考えます。

また、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書の間で矛盾があるように見える場合も、同じことを行います。

その結果、常に良い説明が存在すると信じています。

とにかく、アハズヤはどのようにして死んだのでしょうか。

列王記によると、アハズヤは傷を負い、ミギドという都市に逃げました。そして、彼はそこで死に、彼の家来たちは彼をエルサレムに葬りました。(列王記第二9:27-28)

列王記だけを読むと、アハズヤが傷によって死んだのだと思うかもしれません。

けれども、歴代誌によると、アハズヤは捕まり、サマリヤでエフーによって殺されました。

では、この二つの話をどのように統合することができるでしょうか。

ここで、この話をもう少し詳しく見てみましょう。

列王記によると、アハズヤはイスラエルの王ヨラムを見舞いに訪れました。

エフーが現れ、ヨラムを殺した後、アハズヤを見て追いかけ、殺そうとしました。アハズヤは傷を負ったものの、メギドに逃げました。

一方、歴代誌にはさらに多くの情報が書かれています。

エフーがアハズヤを探し続けていたところ、エフーの民がサマリヤでアハズヤを見つけました。

では、なぜアハズヤはサマリヤにいたのでしょうか。

ある可能性として、アハズヤが傷を負ったとき、最初にミギドに逃げたと考えられます。

エフーはその知らせを聞いてミギドに向かいましたが、アハズヤがエフーの接近を知ると、サマリヤへ逃げたのかもしれません。

エフーがミギドに到着したときには、アハズヤはすでに逃げてしまっていたため、エフーはアハズヤを探すために人々を送り出しました。

その後、彼らがアハズヤを見つけ、彼をミギドに連れ戻し、そこでエフーが彼を殺したと考えられます。

歴代誌によると、アハズヤがサマリヤで見つかったと記されていますが、サマリヤで殺されたとは書かれていません。

むしろ、「人々は彼をエフーのもとに引いてきて殺した」と記されています。

とはいえ、その時点でエフーがどこにいたのかは明記されていません。

一方、列王記には、アハズヤが傷を負った後にミギドで死んだと記されていますが、どのようにして死んだのかについての詳細は書かれていません。

ただ「ミギドで死んだ」とだけ記されています。

そして、エフーが彼を埋葬した後、アハズヤの家来たちがその遺体をエルサレムに運び、葬ったのだと考えられます。

この説明は正しいのでしょうか。私は分かりません。

他の説明が存在する可能性もあります。けれども、私が確信しているのは、聖書には矛盾がないということです。

聖書の中には時折、難しい箇所があります。

列王記と歴代誌の中にも、福音書の中にも、統合が難しい箇所があります。

しかし、それらの箇所を詳しく調べたり、深く考えたりすると、聖書に矛盾がないことが分かるのです。

ですから、私たちは聖書を信じ、従いましょう。

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神様の警告を無視する

イスラエル人が子供に名前を付けるとき、もっと独特な名前を使えばよかったと思います。なぜなら、列王記と歴代誌を読むと、少し混乱するからです。

例えば、イスラエルでアハブ王が亡くなると、その息子アハズヤが王になりました。そして、アハズヤが亡くなると、その兄弟ヨラムがイスラエルの王になりました。

一方、ユダでは、別のヨラムがユダの王になり、彼が亡くなると、その息子アハズヤが王になりました。

つまり、同じ時期に、二つの国で二人のヨラム王と二人のアハズヤ王がいました。

とにかく、この箇所に登場するヨラム王はイスラエルの王ではありません。

イスラエルの王ヨラムはエリシャをよく知っていましたが、この箇所のヨラム王はユダの王ヨラムで、彼はエリシャをあまり知りませんでした。

ユダの王ヨラムはヨシャパテ王の息子でした。

けれども、ヨシャパテとは異なり、ヨラムは心を尽くして神様に従いませんでした。

なぜでしょうか。おそらく、彼がアハブの娘アタルヤと結婚したことが理由かもしれません。

以前私が言ったように、もしあなた自身が不敬虔な人と結びついたら、大変な状態に陥ることがあります。

この箇所にはその結果を見ることができます。

ヨシャパテが亡くなった後に、ヨラムは兄弟たちを殺そうと決めました。

私の考えですが、多分アタルヤの影響によってヨラムはそのようにしました。なぜなら、ヨラムの息子アハズヤが亡くなった後に、アタルヤも同じようなことをしたからです。

また、アタルヤはヨラムを偶像礼拝へと導きました。(歴代誌第二 21:6;列王記第二 8:18)

神様はダビデのためにその家系を守りたいと思われたため、ヨラムを悔い改めさせるために懲らしめられました。

ヨラムが神様を捨て去ったため、エドムとリブナという国はイスラエルに反逆しました。(歴代誌第二 21:10)

ある時、ヨラムはエドム人に囲まれて、逃げなくてはならない状況に陥りました。それでも、彼は悔い改めることはありませんでした。

そのため、神様は最後の警告を送りました。それはエリヤからの手紙でした。

列王記第一と第二には、エリヤとエリシャの話がたくさん登場します。しかし、歴代誌にはエリシャの名前が全く記載されておらず、エリヤの名前も1回しか出てきません。

この1回は非常に混乱させられる箇所です。なぜなら、列王記第二によれば、エリヤはすでに天国に召されていたからです。

では、ヨラムはどのようにしてこの手紙を受け取ったのでしょうか。

それは誰にも分かりません。とはいえ、いろいろな意見があります。

一つ目の意見によれば、神様はエリヤを天に連れて行かれたのではなく、「静かな場所」に導かれ、そこで死ぬまで住んでいたというのです。

そして、その場所からエリヤが手紙を送ったという説です。

興味深い意見ではありますが、私はそうは考えません。

二つ目の意見は、この話が年代順ではないというものです。つまり、この出来事の後にエリヤは天国に行ったという考え方です。

三つ目の意見は、エリヤが天国に行く前に、神様がヨラムについてのメッセージを与えたため、エリヤがその手紙を書きました。そしてその手紙をある弟子に渡し、適切な時にその弟子がヨラムに手紙を届けたというものです。

それは正しいかもしれません。

なぜなら、エリシャはハザエルの未来をよく知っていたからです。

また、クロス王(イサヤ44:28-45:1)とヨシヤ王(列王記第一13:2)が生まれる前に、神様は彼らの名前と行動をよく知っておられました。

もし預言を信じるなら、エリヤの手紙はそれほど珍しいことではありません。

とにかく、ヨラムは死んだ人からの手紙を受け取りました。

多くの人々は、その手紙を読めば悔い改めるはずです。しかし、ヨラムは悔い改めませんでした。

そのため、結局、神様は彼を裁かれました。ヨラムは重病の床で死にました。

歴代誌第二の著者は、その死について、こう記しました。

彼は人々に愛されることなく世を去った。(歴代誌第二21:20)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

私たちが神様に背を向けるとき、神様はご自身の約束を守られるゆえに、忍耐とあわれみを示され続けるかもしれません。

神様は私たちに警告を与え、私たちの状況を通して懲らしめられることもあるでしょう。

しかし、私たちがそれを無視し続けるならば、裁きが訪れます。

私はあなたが救いを失うと言っているのではありません。けれども、もし罪を犯し続けるならば、裁きが必ず来るのです。

そして、神様の裁きは本当に苦しいものです。

神様からの警告と懲らしめを無視しないようにしましょう。むしろ、

私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。。。

霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さあずからせようとして、懲らしめるのです。(へブル書12:9-10)

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どうしたら良いか分からないとき

時に、私たちの悪い決断が原因で問題が起こることがあります。しかし、時に、私たちのせいではなくても、問題が私たちを追いかけてくることがあります。

この箇所では、ある問題がヨシャパテを追いかけてきました。

三つの民族が協力して、ユダを攻めるために大きな軍隊を編成しました。その軍隊はユダの軍隊よりもはるかに大きかったのです。

ヨシャパテは希望を失い、どうすれば良いのか全く分かりませんでした。

そのような時、私たちはどうすれば良いのでしょうか。答えは、3節に書かれています。

「ヨシャパテは恐れて、ただひたすら主に求め」ました。(歴代誌第二20:3)

ヨシャパテはその問題が自分では解決できないと分かったため、ユダ全国に断食を布告しました。

ユダの人々が全員祈るために集まったとき、ヨシャパテは立って祈りました。そして、その祈りの最後に、ヨシャパテはこう祈りました。

私たちとしては、どうすればよいかわかりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです。(歴代誌第二20:12)

そして、ユダの人々は主の前に静かに立ち、答えを待ちました。

すると、突然、主の霊が一人のレビ人に臨まれました。その人は励ましの言葉を語り、次のように宣言しました。

1.恐れてはなりません。気落ちしてはならないのです。

2.この戦いはあなたがたのものではなく、主の戦いです。

3.彼らのところに攻め下りなさい。しっかり立って動かずにいなさい。彼らに向かって出陣しなさい。

4.主はあなたがたとともにおられます。主の救いを見なさい。

そこで、次の朝、彼らはその大軍に向かって出陣しました。そのとき、ヨシャパテはこう言いました。

ユダおよびエルサレムの住民よ。私の言うことを聞きなさい。

あなたがたの神、主を信じ、忠誠を示しなさい。その預言者を信じ、勝利を得なさい。(20)

そして、ヨシャパテは不思議な作戦を立てました。兵士たちを先に行かせず、歌う者たちを先頭に配置しました。軍隊はその歌う者たちの後に続き、彼らは賛美を歌いました。

主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。(21)

結果はどうだったのでしょうか。

神様はその敵の軍隊の中に混乱を起こされ、彼らは互いに殺し合ったのです。

ユダの人々は全く戦いませんでした。彼らが到着したときには、敵は全員すでに亡くなっていました。

そのため、彼らは略奪品を取って喜びながらエルサレムに帰りました。そして、

地のすべての王国が、主はイスラエルの敵と戦われたということを聞いたとき、神の恐れが彼らの上に臨んだ。

このようなわけで、ヨシャパテの治世は平穏であった。彼の神は、周囲の者から守って、彼に安息を与えられた。(29-30)

私たちは何を学べるでしょうか。

問題があるとき、パニックになってはいけません。

心配してはいけません。

恐れてはいけません。

むしろ、神様を求めましょう。

あなたの重荷を主の前に置きなさい。

一人ぼっちではないことを思い出し、問題に向き合いなさい。

あなたの信仰によって立ち、神様の言葉を信頼しなさい。

そして、神様の慈しみと憐れみを思い起こしながら、賛美をささげなさい。

ヨシャパテはそのようにしたので、神様からの救いを見ました。あなたもまた、救いを見ることになるでしょう。

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歴代誌第二

権威の下にある者

ヨシャパテ王は愚かな同盟を結びましたが、心から主を愛していました。預言者エフーはそのことを認めて、こう語りました。

しかし、あなたには、良いことも幾つか見られます。あなたはこの地からアシェラ像を除き去り、心を定めて常に神を求めて来られました。(歴代誌第二19:3)

エフーの言葉によって懲らしめられましたが、最終的には励まされました。

そのため、ヨシャパテは自分の民を主に立ち返らせようとしました。

ヨシャパテはユダヤ人が正義を得られるように、さばきつかさ(士師)を任命しました。

また、祭司たちやレビ人たち、イスラエルの一族のかしらたちの中から、「主のさばきおよび訴訟に携わる者たち」を任命しました(8節)。

その際、ヨシャパテは彼らに「あなたがたは神様の権威の下にある」ということを思い出させました。彼らはただヨシャパテの権威の下にあるのではなく、神様の権威の下にあることを改めて認識させました。

ヨシャパテは士師たちにこう言いました。

あなたがたは自分のする事に注意しなさい。

あなたがたがさばくのは、人のためではなく、主のためだからです。この方は、さばきが行われるとき、あなたがたとともにおられるのです。

今、主への恐れがあなたがたにあるように。忠実に行いなさい。

私たちの神、主には、不正も、えこひいきも、わいろを取ることもないからです。(歴代誌第二19:6-7)

ヨシャパテは祭司たち、レビ人たち、そしてかしらたちに向かってこう言いました。

あなたがたは、主を恐れ、忠実に、また全き心をもって、このように行わなければなりません。(9)

私たちも神様の権威の下にあります。ただ人々に仕えるのではなく、神様に仕えるため、その真理は私たちの行動に影響を与えるべきです。

神様は私たちが何をするにも忠実に、また全き心を持つことを期待しておられます。

だからこそ、私たちは何をするのか、またどうやってするのかをよく考えるべきです。

パウロが言ったように、

あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。(コロサイ3:17)

あなたがどんな立場にあっても、何をしていても、神様の権威の下にいることを思い出してください。

神様の名に栄誉をもたらす生き方をしましょう。

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列王記第一 歴代誌第二

不堅実な付き合い

ヨシャパテ王は概ね良い王でした。彼は神様を愛し、正しいことを行いたいと願っていました。

とはいえ、彼には一つ大きな欠点がありました。それは、交際相手の選び方において不堅実であったことです。

そのため、ヨシャパテは何度も困難な状況に陥りました。

まず、ヨシャパテの息子ヨラムとアハブの娘アタルヤとの結婚によって、アハブと縁を結びました。

この後私たちが見るように、その関係によってヨシャパテの家系はほぼ滅びることになったのです。

さて、この箇所では、アハブがアラムの王と戦いました。そこでアハブはヨシャパテに協力を求めました。

私といっしょにラモテ・ギルアデに戦いに行ってくれませんか。(列王記第一22:4)

ヨシャパテはこう答えました。

私とあなたとは同じようなもの、私の民とあなたの民、私の馬とあなたの馬も同じようなものです。(列王記第一22:4)

そして、400人の預言者たちはその戦争を始めるよう進め、勝利を約束しました。

けれども、ヨシャパテは何か違和感を覚え、これらの預言者が神様からの者ではないと気づいたのです。そこで彼はアハブに尋ねました。

「神様からの本当の預言者がほかにいないのでしょうか。」

アハブは答えました。

「まあ、預言者がもう一人いるけれど、私は彼のことが好きではありません。彼はいつも私について悪いことばかり言うからです。」(列王記22:7-8)

おそらく、アハブの答えはヨシャパテの心を騒がせたのでしょう。それは、アハブが本当の預言者をまったく尊敬せず、さらにその預言者がいつもアハブについて否定的なことを言ったからです。

その後、預言者ミカヤが呼ばれ、その状況はさらに悪化していきました。

ミカヤは皮肉なトーンでこう言いました。

「もちろん、行きなさい。アラム王と戦えば、きっと神様はあなたに勝利を与えるでしょう。」

アハブはミカヤの皮肉なトーンを聞いて、こう言いました。

いったい、私が何度あなたに誓わせたら、あなたは主の名によって真実だけを私に告げるようになるのか。(列王記第一22:16)

そこで、ミカヤはアハブに警告しました。「もしあなたが行けば、きっとあなたは死に、神様の裁きが下るでしょう。」

その言葉を聞くと、アハブはミカヤを牢に入れました。

そのすべてを目の当たりにしたヨシャパテはどうしたのでしょうか。

彼は、「神様がそう言われたのだから、やはり私は行かない」と言ったでしょうか。

いいえ、それを聞いてもなお、行ってしまいました。

さらに意外だったのは、アハブがヨシャパテに言った言葉です。

私は変装して戦いに行こう。でも、あなたは、自分の王服を着てください。(列王記22:20)

そしてヨシャパテは同意しました。

私にはヨシャパテの考え方が理解しがたいところがあります。

しかし、神様の恵みと憐れみにより、ヨシャパテはその戦いを生き延びました。

一方、変装していたにもかかわらず、アハブは殺されました。

ヨシャパテが帰国すると、預言者エフーが彼の前に現れました。そして、エフーはこう言いました。

悪者を助けるべきでしょうか。

あなたは主を憎む者たちを愛してよいのでしょうか。

これによって、あなたの上に、主の前から怒りが下ります。(歴代誌第二19:2)

それでも、ヨシャパテはアハブの息子アハズヤと同盟を結び、彼らは一緒に船団を造りました。

アハズヤがアハブと同じように悪人であったため、他の預言者がヨシャパテのもとを訪れてこう言いました。

あなたがアハズヤと同盟を結んだので、はあなたの造ったものを打ちこわされました。(歴代誌第二20:37)

主がその船団を打ち壊されたため、ヨシャパテはもはやアハズヤと協力することをやめました。

それでも、すぐにヨシャパテは同じような過ちを繰り返しました。

彼はアハブの別の息子ヨラムと手を組み、モアブの王と戦いました。それもまた、すぐに困難な状況に陥りました。(列王記第二3章)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

誰と付き合うかについて気を付ける必要があります。

それはすべてのノンクリスチャンと離れることを意味するのではありません。しかし、もし彼らが私たちを悪い方向へ導くなら、彼らとの交わりを避けた方が良いでしょう。

ソロモンは次のように言いました。

知恵のある者とともに歩む者は知恵を得る。
愚かな者の友となる者は害を受ける。(箴言13:20)

聖書において、「愚かな者」とは神様に背を向ける人、また神様の道に進まない者のことです。

もし私たちが、そのような人と結びつくならば、私たちは害を受けるでしょう。

最も重要な問いは、「誰が誰に影響を与えているのか」ということです。

あなたは彼らに影響を与え、彼らを神様に近づけているでしょうか。

それとも、彼らがあなたに影響を及ぼし、あなたを神様から遠ざけてしまっているのでしょうか。

あなたは、誰と交わりを持っているのでしょうか。

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列王記第一 歴代誌第二

心を全部か、半分か、なしで?

歴代誌第二を読むと、アビヤムが良い王だったと思うかもしれません。ユダがイスラエルと戦う前に、アビヤムの言葉は神様を恐れる人からのスピーチのように聞こえます。

そして、イスラエルの軍隊がユダの軍隊よりも大きかったにもかかわらず、神様の助けによってユダが勝利しました。

とはいえ、列王記によると、アビヤムは本当に悪い王でした。こう書かれています。

彼は父がかつて犯したすべての罪を行い、彼の心は父ダビデのようには、彼の神、と全く一つにはなっていなかった。

しかし、ダビデに免じて、彼の神、は、エルサレムにおいて彼に一つのともしびを与え、彼の跡を継ぐ子を起こし、エルサレムを堅く立てられた。(列王記第一15:3ー4)

その父レハブアムは、どのような罪を犯したのでしょうか。

一番悪い罪は偶像礼拝でした。

歴代誌だけを読むと、アビヤムが神様に心の全部をささげたように見えます。けれども、実際は心の半分だけをささげました。

アビヤムが良い王だったから神様がユダを救われたわけではありません。むしろ、その祖父ダビデのために、神様はユダを救われました。なぜなら、ダビデは心の全部を神様にささげたからです。

神様がユダを救われた理由は、もう一つ考えられるかもしれません。それは、イスラエルの王ヤロブアムが神様に心を全然ささげなかったことです。

神様はヤロブアムにイスラエルを与えました。また、預言者を通してヤロブアムに罪について注意しました。ヤロブアムはそのことをよく知っていたのに、神様に背を向けました。

もう一つの理由があります。歴代誌によると、その戦いの日、ユダの軍隊は神様に拠り頼んだからです。

もしかすると、神様はユダの民に「もし私にあなたの心の全部をささげたら、私はあなたを祝福する」と教えたかったのかもしれません。

残念ながら、彼らはそのことを全く学びませんでした。

あなたはどうでしょうか。神様に対してどのような心を持っているでしょうか。

神様があなたを愛しているのに、あなたが心を全くささげていないのではありませんか。それならば、ヤロブアムのように、あなたも裁かれることになります。

心の半分をささげているのではありませんか。それも、神様は望まれません。

黙示録で、神様はラオデキヤにある教会にこう言いました。

わたしは、あなたの行いを知っている。

あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。

このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。(黙示録3:15-16)

私たちはアビヤムやヤロブアムのようにならないようにしましょう。むしろ、ダビデのようになりましょう。

ダビデは完全ではありませんでした。そのことは列王記第一15:5に書かれています。

しかし、ダビデは心を尽くして神様に従ったので、神様はその罪を赦し、ダビデを祝福されました。

あなたはどうでしょうか。

神様に心のすべてをささげますか。

それとも、心の半分だけをささげますか。

あるいは、心をまったくささげないのでしょうか。

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列王記第一 歴代誌第二

うまく始まり、崩れ去ってしまう

アメリカ人はよくこう言います。

「あなたの始まりはそれほど大切ではありません。大切なのは、どのように終わるかです。」

それは本当です。ユダの王アサの人生において、その真理をはっきりと見ることができます。

王として、彼は良い形で始まりました。

歴代誌第二14:2に、こう書いてあります。

アサは、彼の神、主がよいと見られること、御目にかなうことを行い「ました」。

つまり、彼は偽りの神々の祭壇を取り除き、ユダの民に本当の神様を礼拝するよう命じました。また、神様の祝福によって、アサはユダを強めました。

ある時、より強力な軍隊がユダを攻めてきたとき、アサは神様を信頼したため、神様がユダを救われました。

その時、神様は預言者アザルヤを通してアサを励まされました。

アサおよび、すべてユダとベニヤミンの人々よ。私の言うことを聞きなさい。あなたがたがとともにいる間は、主はあなたがたとともにおられます。

もし、あなたがたがこの方を求めるなら、あなたがたにご自身を示してくださいます。

もし、あなたがたがこの方を捨て去るなら、この方はあなたがたを捨ててしまわれます。。。

しかし、あなたがたこそ強くあってほしいのです。力を落としてはなりません。あなたがたの働きには報いが伴っているからです。(歴代誌第二15:2-7)

アサはそれを聞いて、心から従いました。そのため、偶像をすべて取り除き、自分の祖母を王母の位から退けました。なぜなら、彼女が偶像を礼拝していたからです。

すべてはうまくいっていました。ところが、突然すべてが崩れてしまいました。なぜでしょうか。

一つ目は、アサが神様に信頼することを辞めたことです。むしろ、自分の知恵と力に頼り始めました。

イスラエルの王バシャはアラムの王ベン・ハダデと同盟を結びました。そのすぐ後に、バシャはユダを攻めてきました。

けれども、アサは以前とは異なり、神様に信頼しませんでした。むしろ、アサはベン・ハダデと同盟を結び、自分の金と銀を差し出しただけでなく、神様の宮からの金と銀も差し出しました。

アサの計画はうまくいきました。ベン・ハダデはバシャの国を攻めたため、バシャは速く帰りました。

しかし、神様は喜ばれませんでした。

そして、次の問題が発生しました。

アサは間違っていても、神様からの注意を受け入れませんでした。神様は預言者ハナニを送られました。

ハナニは言いました。

あのクシュ人とルブ人は大軍勢ではなかったでしょうか。戦車と騎兵は非常におびただしかったではありませんか。

しかし、あなたがに拠り頼んだとき、主は彼らをあなたの手に渡されたのです。。。

あなたは、このことについて愚かなことをしました。今から、あなたは数々の戦いに巻き込まれます。(歴代誌第二16:8-9)

アサの反応はどうだったでしょうか。彼はハナニを牢に入れました。

それに、神様に対する怒りからか、アサは自分の民を踏みにじったようです。

アサは懲らしめられても、決して悔い改めることはありませんでした。年を取ったアサは、両足とも病気にかかりました。それでも、彼は神様にまだ怒りを抱いていたため、

その病の中でさえ、彼は主を求めることをしないで、逆に医者に求めた。(歴代誌第二16:12)

あなたはどうでしょうか。神様との関係で、良い形で始まったのに、今はうまくいっていないのではありませんか。

アサの過ちから学びましょう。良い時も悪い時も、神様を信頼しましょう。

たとえ神様が辛いことを言ったとしても、それを聞き、受け入れましょう。そして、罪を犯したら、すぐに悔い改めましょう。

ハナニが言ったように、

主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。(歴代誌第二16:9)

私たちの心が神様に完全に委ねられるように。

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列王記第一 歴代誌第二

神様に仕えることと罪に仕えることとの違い

ヤロブアム王は悪い所から始め、その罪の穴から決して出ることはありませんでした。実は、彼はその穴から出ようとしようと全く思わなかったようです。

レハブアム王もあまり良い王ではありませんでした。

本当の祭司たちやレビ人、神様を恐れる人々は皆、ユダ(レハブアムの王国)に引っ越しました。そのため、しばらくの間、レハブアムは神様に従おうと思っていました。

ところが、急に彼は偶像礼拝をし始めました。もちろん、ユダの人々はレハブアムの模範に従いました。

なぜレハブアムが別の神々を礼拝し始めたのかははっきりしません。

一つの理由は、レハブアムのプライドかもしれません。歴代誌第二12:1によると、

レハブアムの王位が確立し、彼が強くなるに及んで、彼は主の律法を捨て去った。

もしかしたら、レハブアムの母はレハブアムに悪い影響を与えたのかもしれません。列王記第一には、レハブアムの母がアモン人だと2回書いてあります。

私の推測にすぎませんが、もしかすると、その母の影響で彼が堕落したため、そのことが書かれているのかもしれません。(アモン人は偽りの神々を礼拝していました。)

とにかく、先ほど言ったように、レハブアムの民も偶像礼拝をし始めました。だから、神様は彼らに言われました。

あなたがたがわたしを捨て去ったので、わたしもまたあなたがたを捨ててシシャクの手に渡した。(歴代誌第二12:5)

エジプトの王シシャクは、すでにユダの防備の町々を攻め取りました。そして、今はエルサレムを攻めていました。

レハブアムとその民は神様の言葉を聞き、神様の前にへりくだりました。そこで、神様は預言者シェマヤに言われました。

 彼らがへりくだったので、わたしは彼らを滅ぼさない。間もなく彼らに救いを与えよう。シシャクの手によって、わたしの怒りをエルサレムに注ぐことはやめよう。

ただし、彼らは彼のしもべとなる。わたしに仕えることと地の諸王国に仕えることとの違いを思い知るためである。(歴代誌12:7-8)

私たちが神様に背を向け、罪に仕え始めるとき、神様は私たちに同じようなことを言われます。

私たちが悔い改めるまで、神様は罪が私たちを治めることを許されます。そして、私たちは罪に仕えることと神様に仕えることの違いを見ることになります。

その違いとは何でしょうか。罪に仕えるとき、一時的には楽しいかもしれません。けれども、最終的に2つのことが起こります。

一つ目は、最初は私たちが罪に仕えることを選んだと思うかもしれませんが、結局は罪をやめることができないことに気づくことです。

罪に縛られてしまい、私たちにはもはや自分をコントロールする力がありません。つまり、罪が私たちを支配するようになるのです。

例えば、多くの男性がポルノを見ることがあります。最初は、それが自分自身の選択のように思われますが、最終的にはやめることができなくなります。

妻との関係を壊してしまっても、なおやめられないのです。

他の人々はアルコール中毒になり、家族や人生を破壊してしまっても、なお酒をやめることができません。

二つ目は、罪が私たちを破壊し、私たちのために神様が望んでおられる喜びを盗むことです。その代わりに、私たちに悪い代用品を与えます。

例えば、シシャク王が来たとき、ソロモンが作った金の盾をすべて取ってしまいました。それで、レハブアムは新しい盾を作りました。けれども、彼は青銅の盾を作ったのです。

罪は、そのようなことをします。素晴らしい結婚の代わりに、壊れた関係の連続をもたらします。

永遠の喜びの代わりに、一時的な幸せしか与えません。

そして、やがて私たちの人生は空しくなってしまうのです。

しかし、キリストに従うと、イエス様は私たちに永遠の命を与え、この世においても満ち足りた人生を与えてくださいます。

もちろん、私たちの人生が幸せばかりになるわけではありません。けれども、振り返ると、「満ち足りた人生だった」と言えるのです。

あなたは罪に仕えていることで、疲れていて、重荷が大きく感じられますか。

キリストに向かいましょう。主はその重荷を取り去り、あなたを休ませてくださいます。

イエス様はこう言われました。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイ11:28-30)

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列王記第一 歴代誌第二

聞きたいことだけを聞くと

伝道者の書で、ソロモンは書きました。

私は、日の下で骨折ったいっさいの労苦を憎んだ。後継者のために残さなければならないからである。

後継者が知恵ある者か愚か者か、だれにわかろう。

しかも、私が日の下で骨折り、知恵を使ってしたすべての労苦を、その者が支配するようになるのだ。これもまた、むなしい。

私は日の下で骨折ったいっさいの労苦を思い返して絶望した。

どんなに人が知恵と知識と才能をもって労苦しても、何の労苦もしなかった者に、自分の分け前を譲らなければならない。

これもまた、むなしく、非常に悪いことだ。(伝道者の書2:18-21)

ソロモンは、それを書いた時には知らなかったのですが、息子のレハブアムがその言葉の真実を証明しました。

ソロモンが死んだ後、イスラエルの人々はレハブアムのもとに来て、こう言いました。

あなたの父上は、私たちのくびきをかたくしました。今、あなたは、父上が私たちに負わせた過酷な労働と重いくびきとを軽くしてください。

そうすれば、私たちはあなたに仕えましょう。(列王記第一12:4)

レハブアムはそれを聞いた後、父ソロモンの助言者に相談して、どうすればよいか尋ねました。彼らはこう答えました。

きょう、あなたが、この民のしもべとなって彼らに仕え、彼らに答え、彼らに親切なことばをかけてやってくださるなら、彼らはいつまでもあなたのしもべとなるでしょう。(列王記第一12:7)

それは良いアドバイスでした。実は、そのアドバイスはイエス様の言葉を思い起こさせるものでした。

あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。

しかし、あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。

あなたがたの間でひとの先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。

人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人たちのための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。(マルコ10:42-45)

けれども、レハブアムはそのアドバイスを気に入りませんでした。

注目してください。助言者は二つの選択を提示したわけではありませんでした。レハブアムが二つのアドバイスを見比べて迷い、偶然に悪い選択をしたのではないのです。

むしろ、良いアドバイスを受けながらも、レハブアムはそれを拒み、一緒に成長した友人たちのもとへ向かいました。なぜなら、彼らがレハブアムの聞きたいアドバイスを与えるだろうと分かっていたからです。

彼らはこう言いました。

「あなたがたの父上は私たちのくびきを重くした。だから、あなたは、それを私たちの肩から、軽くしてください」と言ってあなたに申し出たこの民に、こう答えたらいいでしょう。

あなたは彼らにこう言ってやりなさい。「私の小指は父の腰よりも太い。

私の父はおまえたちに重いくびきを負わせたが、私はおまえたちのくびきをもっと重くしよう。

私の父はおまえたちをむちで懲らしめたが、私はさそりでおまえたちを懲らしめよう」と。(王列記第一12:10-11)

レハブアムはその助言に従いました。ところが、聞きたいアドバイスだけを選んだ結果、彼の国は分裂してしまいました。

その後、良かったことは、レハブアムがシャマヤという預言者の言葉に耳を傾け、従ったことでした。

イスラエルの十部族はレハブアムに背き、分裂し、その地域はイスラエルという名前を取りました。レハブアムは二つの部族だけを支配し続け、その地域はユダと呼ばれました。

けれども、その国を再び統一するために、レハブアムは戦争の準備をしました。その時、神様はシャマヤを送られました。

シャマヤはこう言いました。

主はこう仰せられる。上って行ってはならない。あなたがたの兄弟であるイスラエル人と戦ってはならない。おのおの自分の家に帰れ。

わたしがこうなるようにしむけたのだから。(列王記第一12:24)

それを聞いたレハブアムは帰りました。しかし、時すでに遅く、彼の国は分裂してしまいました。

時には、人々が私たちに聞きたくないことを言うことがあります。私たちは心の中では、その助言が正しいと分かっているのに、聞きたくないと感じることがあります。

そのような時、私たちはどうするべきでしょうか。

すぐにその助言を拒絶してしまうでしょうか。

それとも、それを受け入れて変わるでしょうか。

時には、それは苦い薬を飲むようなものです。本当に飲みにくく、辛いと感じるかもしれません。

しかし、その薬を飲み込むことで、私たちの人生は健康になり、実り豊かなものとなります。

一方、聞きたいことだけを選んで聞くと、大きな問題を引き起こす可能性があります。レハブアムはそれを学びました。

私たちは謙遜な態度を持ち、聞きたいことだけでなく、聞きたくないことにも心を開き、受け入れるようにしましょう。

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列王記第一 歴代誌第二

神様は私たちを懲らしめられる時

神様は私を罰しておられるでしょうか。

時々、辛い時に、人々はその質問を訊きます。

実は、多くの場合、私たちが自分のせいで辛い時を経験しているのだと思います。つまり、私たちの悪い行動によって大変なことが起こります。それは当然のことと言えるでしょう。

パウロが言ったように、

人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。(ガラテヤ6:7)

時々、私たちが神様に背を向ける時、神様は私たちが困難を経験することをお許しになります。

しかし、その時、神様の目的は、そのつらい経験を通して、私たちの人生に最終的に良いことをもたらすことです。つまり、私たちが罪に背を向け、再び神様に向かうことです。

神様はソロモンを懲らしめるために、国内の敵(ヤロブアム)と外国の敵(ハダデとレゾン)を起こされました。けれども、神様がソロモンの懲らしめについて何を言われたのかをご覧ください。

何年か前、神様はソロモンの父ダビデに言われました。

わたしは「ソロモン」にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。

もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。

しかし、わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。

あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。(第二サムエル記7:14-16)

神様が言われたのは、もしソロモンが悪いことをしたとしても、神様は彼を懲らしめられますが、それでもソロモンを愛することをおやめにならないということです。

そのため、列王記第一11:39で、神様はこう言われました。

このために、わたしはダビデの子孫を苦しめる。しかし、それを永久に続けはしない。

二つのことに気づくべきです。

一つ目は、私たちが罪を犯した時、神様は私たちを懲らしめられるということです。

しかし、もし私たちが悔い改めるなら、神様は決して私たちを責め続けることはなさいません。むしろ、私たちを赦してくださいます。

ダビデはこう書きました。

主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。(詩篇103:9)

二つ目は、私たちが罪を犯したとしても、神様は私たちを愛することをおやめにならないということです。

あなたは悪いことをして、「神様は私を罰している」と思うかもしれません。

確かに神様は、あなたを懲らしめておられるかもしれません。

けれども、心に留めてください。神様は私たちの益のために私たちを懲らしめてくださるのです。

神様は、あなたが罪を犯すのを待っておられるわけではありません。神様にとって、あなたを罰することは決して楽しいことではありません。

むしろ、神様はあなたを愛しておられ、あなたの最善を望んでおられるのです。

ヘブル人への手紙の著者はこう書きました。

そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。

主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」

訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。

もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。

さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。

なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。

すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。(へブル12:5-11)

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列王記第一 歴代誌第二

周りの人々が私たちをどう思うか

周りの人々は、あなたを見るとどのような印象を持つでしょうか。また、彼らはあなたについてどのようなことを耳にするのでしょうか。

ソロモンは、私たちにとって良い模範となる人物でした。人々がソロモンについて話す時、彼の素晴らしい知恵について語りました。そのため、シェバの女王はソロモンを試すために難問を携えてイスラエルを訪れました。

ソロモンを試した後、彼女は言いました。

私が国であなたの事績とあなたの知恵とについて聞き及んでおりましたことはほんとうでした。

実は、私は、自分で来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じなかったのですが、驚いたことに、私にはその半分も知らされていなかったのです。

あなたの知恵と繁栄は、私が聞いていたうわさよりはるかにまさっています。

なんとしあわせなことでしょう。あなたにつく人たちは。なんとしあわせなことでしょう。

いつもあなたの前に立って、あなたの知恵を聞くことのできる家来たちは。

あなたを喜ばれ、イスラエルの王座にあなたを着かせられたあなたの神、主はほむべきかな。

主はイスラエルをとこしえに愛しておられるので、あなたを王とし、公正と正義とを行わせられるのです。(列王記第一10:6-9)

彼女はソロモンの中で何を見たのでしょうか。

もちろん、彼女はソロモンの知恵を見ました。また、神様がソロモンをどのように祝福されたかも目の当たりにしました。

しかし、それ以上に、ソロモンの人生の中に神様を見たのです。

同じように、周りの人々は私たちを見る時、神様を見ているはずです。

すなわち、神様の知恵、神様の祝福、そして神様の臨在を感じているはずです。周りの人々は私たちについてこう言うでしょうか。

あなたについて聞いたけど、人々が言ったよりにも、あなたが知恵があるし、祝福されている。

あなたの家族は、なんと幸せでしょう。あなたの職場の先輩と後輩は、なんと幸せでしょう。あなたがいて、あなたの近所の人たちと教会の人たちはなんと幸せでしょう。

私は、周りの人々が私についてそのような言葉を語るのを聞きたいです。

もちろん、たとえあなたが完全なクリスチャンであったとしても、すべての人があなたを好意的に見るとは限りません。

イエス様でさえ、完全で罪のないお方でありながら、ある人々に憎まれていました。

しかし、もし誰かが神様に対して開かれた心を持っているならば、彼らはあなたを見る時、きっとあなたに惹かれるはずです。

あなたは、そのような存在となっているでしょうか。

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列王記第一 歴代誌第二

どのようにすべてを失ってしまうか

ソロモンはすべてを持っていました。お金、力、知恵、そして誰もが手に入れたいと思うものをソロモンは全て持っていました。

そして、神様がソロモンに約束されたのは、もしソロモンとその子孫が心を尽くして神様に従うなら、神様はソロモンの王国の王座を永遠に確立すると言われたことです。

また、神様の心と目がソロモンの建てた宮に注がれると約束されたのです。

しかし、神様は同時にソロモンに警告も与えられました。

もし、あなたがたとあなたがたの子孫が、わたしにそむいて従わず、あなたがたに授けたわたしの命令とわたしのおきてとを守らず、行ってほかの神々に仕え、これを拝むなら、わたしが彼らに与えた地の面から、イスラエルを断ち、わたしがわたしの名のために聖別した宮を、わたしの前から投げ捨てよう。

こうして、イスラエルはすべての国々の民の間で、物笑いとなり、なぶりものとなろう。

この宮も廃墟となり、そのそばを通り過ぎる者はみな、驚いて、ささやき、『なぜ、はこの地とこの宮とに、このような仕打ちをされたのだろう』と言うであろう。

すると人々は、『あの人たちは、エジプトの地から自分たちの先祖を連れ出した彼らの神、を捨てて、ほかの神々にたより、これを拝み、これに仕えた。そのために、はこのすべてのわざわいをこの人たちに下されたのだ』と言うようになる。(列王記第一9:6-9)

残念ながら、ソロモンとその子孫は神様に忠実ではありませんでした。結果として、彼らの王座は取り上げられ、その美しい宮は破壊されてしまいました。

同じように、私たちは時折、尊敬されていたクリスチャンリーダーが失敗してしまう様子を見ることがあります。

最近、アメリカの大きな教会が、その有名な牧師のプライドによって解散するという出来事がありました。

あるミニストリーが多くの人々に影響を与えていたとしても、リーダーがもはや神様に心を尽くして仕えず、自分自身に仕え始めるならば、そのミニストリーも衰退してしまうことがあります。

彼らが神様を求めず、この世のもの、つまりお金やセックスや権力を求め始めるからです。

正直に言うと、そのような人々を見ることは私に恐れを抱かせます。なぜなら、自分自身を振り返った時、同じような弱さが見えるからです。そして、もし私が注意を怠れば、私も倒れてしまうかもしれないという思いに駆られるのです。

あなたはどうでしょうか。心を尽くして神様に従っていますか。それとも、罪に陥り始めているでしょうか。小さなことに妥協していますか。

もし私たちが小さなことに妥協すれば、すぐに大きなことにも妥協し始めます。そして、私たちが築いてきたものはすべて崩れてしまいます。

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列王記第一 歴代誌第二

神様の宮のための祈り

ソロモンの宮の奉献の祈りを読むと、私たちには神様の宮として何を祈らなければならないのかがわかるのです。

まず、ソロモンはその宮が正義のある場所となるように祈りました。つまり、もし二人の人々が争ったとき、神様がその宮で正義を与えてくださるように祈ったのです。

同じように、人々が私たちの判断を信頼できるよう、私たちの人生は敬虔であるべきです。そして、争っている人々が私たちに相談したとき、私たちは正義を与えるために、神様の知恵を求めて祈らなければなりません。

また、ソロモンはもう一つ祈りました。それは、もし人々が罪を犯して苦しんだときに、悔い改めれば、神様が彼らを赦し、癒してくださるようにという祈りです。

同じように、私たちは神様の宮でありながら、ときどき罪を犯します。

ソロモンが言ったように、

罪を犯さない人間はひとりもいない。(列王記第一8:46)

だから、私たちは罪を認識したとき、すぐに謙遜な心で神様の前に来て、悔い改め、赦しを求めて祈らなければなりません。そうするなら、神様は私たちを赦してくださいます。

次に、ソロモンはイスラエルの民が試練を経験したとき、神様がその民の祈りを聞いてくださるように祈りました。

もちろん、時にはイスラエルの民が罪を犯したために苦しみを受けました。

しかし、自分たちに責任がない状況でも、彼らは飢饉や地震、その他の天災によって苦しみました。そこで、ソロモンが祈ったのは、神様がその民の祈りを聞き、助けてくださるようにということでした。

私たちも試練に直面することがあります。時にはそれが私たちの過ちによるものですが、そうでない場合もあります。私たちは壊れた世界に生きているからです。それゆえ、そのような時でも神様の癒しを求めて祈るべきです。

また、ソロモンは祈りました。それは、外国人が神様のことを聞き、宮に来て祈ったとき、神様がその祈りを聞いてくださるようにという祈りです。

そして、彼らが神様を誉めて、自分の国に帰り、その国で神様についての知識を広げることを願いました。(列王記第一8:41-43)

同じように、キリストを知らない人が私たちに「私のために祈ってください」と頼むことがあるかもしれません。

その時、彼らが神様の存在を知り、神様を誉め、愛するようになることを願いながら、私たちは「神様、この祈りを聞いてください」と祈るべきなのです。

そして、彼らが神様との関係を持ち、その良い知らせを周りの人々に伝えることができますようにと祈るべきなのです。

さらに、ソロモンは戦争の時に神様の助けを求めて祈りました。(列王記第一8:44-45)

私たちにも戦いがあります。しかし、その戦いは血肉に対するものではありません。むしろ、その戦いは、

主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:12)

だから、私たちは神様の助けを求めて祈るべきです。誘惑と戦う時や、福音をサタンの国に持っていく時に、勝利のために祈るべきです。

最後に、私たちは神様の宮として、このように祈るべきです。

この[宮]に、夜も昼も御目を開いてくださって、あなたのしもべ[の]祈りを聞いてください。(列王記第一8:29)

主よ、あなたの宮として、ソロモンのように祈ります。知恵を必要とする人々が私のところに来て、あなたの知恵を求めるように、どうか私の人生を光としてください。

また、人々が祈りを求めて私のところに来る時、その祈りを聞いてください。そして、その答えを通して彼らがあなたに近づき、周りの人々にあなたの愛を広げることができますように。

主よ、私が罪を犯す時、どうか赦してください。私はしばしば罪に陥ります。この宮を汚す罪から清めてください。

さらに、霊的な戦争を戦う時に、どうか私の剣と盾となってください。あなたの国のために、この世界に影響を与えたいです。

夜も昼もあなたの目を私に向けてください。私の祈りを聞いてください。

私の神よ、新しい契約の力、すなわちキリストの血の力によって私を清め、私があなたの憩いの場となりますように。

どうか私に住んでください。あなたの復活の力が私の中に宿りますように。

あなたの祭司として、私たちを救いで覆い、またあなたの聖徒たちにいつくしみを喜びとさせてください。

あなたは私たちを地上の民から区別し、ご自身のものとしてくださいました。また、あなたは私たちを暗闇の圧制から救い出し、あなたの驚くべき光の中へと導かれました。

どうか聖霊を注がれた私たちを見捨てないでください。あなたの愛を永遠に思い起こしてください。アーメン。

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宮となるのには

ソロモンは本当に美しい宮を建てました。その時代までのイスラエルの歴史において、これほど美しい建物は存在しなかったかもしれません。

しかし、その宮がどれほど美しくても、それはただの建物に過ぎませんでした。

そして、神様がその宮に臨まれました。

列王記第一8:10-11には、こう書かれています

祭司たちが聖所から出て来たとき、雲が主の宮に満ちた。

祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。

宮とはいったい何でしょうか。宮は神様が住まわれる場所です。そして、神様の栄光が輝く場所でもあります。

しかし、もし神様がおられなければ、それはただ空の建物に過ぎないのです。

では、どうして私たちが神様の宮と呼ばれているのでしょうか。

それは私たちの外見の美しさのためではありません。つまり、私たちが細くても太っていても、背が高くても低くても、賢くても賢くなくても、美しくてもそうでなくても、才能があってもなくても、それらは全く問題ではないのです。

では、何によって私たちは神様の宮と呼ばれているのでしょうか。

それは、神様の臨在と栄光が私たちの中にあることによるのです。

つまり、私たちがクリスチャンになると、神様は私たちの心の中に住んでくださり、その栄光が私たちを通して輝きます。そのことによって、私たちは神様の宮と呼ばれているのです。

あなたが自分自身を見たとき、何を思うでしょうか。神様の宮として自分を見るでしょうか。それとも、ただの普通の建物として見るでしょうか。

神様はあなたをご自身の宮としてご覧になります。あなたは神様の住まいであり、神様はあなたを通してご自身の栄光を表したいと望んでおられます。そして、周りの人々はそれを見て、神様に近づくのです。

どうかそのことを忘れないでください。この真理を心に留めながら、イスラエルの民のように神様の前に跪き、宣言しましょう。

主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(歴代誌第二7:2)

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私たちの中に住んでおられる神様

ソロモンが建てた宮について読んで考えると、その美しさには本当に驚かされます。実際に見てみたかったです。

とはいえ、どれほど宮が壮麗であっても、ソロモンはこう言いました。

天も、天の天も主をお入れできないのに、いったいだれが主のために宮を建てる力を持っているというのでしょうか。(歴代誌第二2:6)

多くの人々は、教会や宮が神様の家だと考えています。しかし、実際には、神様はそのような建物には住んでおられません。

ソロモンが言ったように、「天の天でさえ主をお入れすることはできない」のです。

それにもかかわらず、そのお入れできない神様が人間の心に住んでおられます。その真理は、ソロモンの宮の美しさ以上に不思議で驚くべきことだと思います。

少し想像してみてください。

もしあなたがクリスチャンであれば、宇宙を造られた神様があなたの中に住んでおられるのです。

イエス様はこう言われました。

だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。

そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。(ヨハネ14:23)

パウロも同じようなことを書いています。つまり、聖霊様は私たちの中に住んでおられます。そして、私たちは神様の宮なのです。(第一コリント6:19)

あなたは自分のことを取るに足りない人だと思うかもしれません。また、自分にはあまり価値がないと感じるかもしれません。

しかし、心に留めておいてください。神様の目には、あなたはとても大きな価値を持つ存在なのです。

天の天も神様をお入れすることはできませんが、それでも神様はあなたと共に、そしてあなたの内に住んでおられるのです。

神様にとって、ソロモンの宮よりもあなたこそが美しい宮なのです。

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列王記第一 歴代誌第二

神様の価値観を反映する

夢のようですね。神様が私に「何が欲しいか」と尋ねて、その願いを叶えてくださったら、私はとても嬉しくなるでしょう。

あなたがソロモンだったら、何をお願いしたでしょうか。

私はさまざまなことを考えることができます。たとえば、私の家のローンがすべて払い終わること、私の日本語がペラペラになること、または私の糖尿病が癒されることなど。欲しいものはいろいろとあります。

ソロモンも何にでも願うことができました。たとえば、富を得ることや、権力を増すこと。それでも、彼はこう願ったのです。

わが神、主よ。今、あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし、私は小さい子どもで、出入するすべを知りません。

そのうえ、しもべは、あなたの選んだあなたの民の中におります。しかも、彼らはあまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど、おびただしい民です。

善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。

さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるのでしょうか。(列王記第一3:7-9)

神様がその願いを聞いて、二つのことについて喜ばれたと思います。

一つ目はソロモンの謙遜な態度です。ソロモンは自分がすべてを知っているわけではないことを認めました。そして、イスラエルを治めるために神様の知恵が必要であると理解していました。

二つ目は、その願いが自分のためではなく、神様の民のためであったということです。

ソロモンは、自分のプライドのために知恵を願ったのではありませんでした。むしろ、彼は神様の民を正しく治めるため、また神様から与えられた役割を忠実に果たすために知恵を願ったのです。

それは、あなたの優先順位にも当てはまるでしょうか。つまり、神様の国と神様の民を大切にしていますか。

私にとって、それは家族から始まります。良い夫であり、父であるために、私は神様の知恵を求めます。

私の妻はクリスチャンですが、彼女が成長し続け、神様の目的を果たすようにと祈っています。

そして、私の娘は5歳で、まだクリスチャンではありません。彼女が主を愛し、求めるようにと祈っています。それと同時に、彼女を正しく育てるために、私は知恵が必要です。

でも、家族だけではなく、私の同僚、近所の人たち、そして教会の人たちにも神様の愛を示したいと思います。

しかし、神様の国のために人々に触れるよりも、私はしばしば他のことに焦点を当ててしまいます。

それは、多くの場合、私が自己中心的であり、自分の必要や願いにばかり焦点を当ててしまうからです。

けれども、イエス様は、この世の物に焦点を当てるのではなく、神様の国に焦点を当てなさいと言われました。そうすれば、私たちの必要はすべて満たされると約束されています(マタイ6:33)。

あなたはどうでしょうか。神様から何を求めているでしょうか。神様が望んでおられることを、あなたも望んでいるでしょうか。

神様の国が広がることを願っていますか。

それとも、この世の物に焦点を当てすぎてはいませんか。