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民数記のデボーション

罪に対して警戒する

正直に言うと、民数記に書かれていることは、たまに読みづらいです。特に、神様の裁きの話は、かなり厳しいです。

でも、パウロによれば、神様がその話を書かれたのには理由があります。パウロはこう言いました。

これらのことは、私たちを戒める実例として起こったのです。彼らが貪ったように、私たちが悪を貪ることのないようにするためです。

あなたがたは、彼らのうちのある人たちのように、偶像礼拝者になってはいけません。聖書には「民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた」と書いてあります。

また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、淫らなことを行うことのないようにしましょう。彼らはそれをして一日に二万三千人が倒れて死にました。

また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、キリストを試みることのないようにしましょう。彼らは蛇によって滅んでいきました。

また、彼らのうちのある人たちがしたように、不平を言ってはいけません。彼らは滅ぼす者によって滅ぼされました。

これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。 (第一コリント10:6ー11)

その最初の話は、出エジプト記32章からです。

その他の話は、私たちが最近読んでいる民数記の箇所からです。

どうして神様は、その話を記録されたのでしょうか。

それは、私たちの戒めのためです。

私たちは、その話から何を学ぶことができるでしょうか。

1.神様は、罪を真剣に受け止めておられます。神様は、特に故意の反抗的な罪を真剣に受け止めておられます。

民数記15~17章でも、民数記25:6でも、私たちはそれを見ました。

今日の箇所では、イスラエル人が自分の罪と神様の裁きのために泣いている間、あるイスラエル人は厚かましくミディアン人の女を自分のテントに連れていきました。たぶん、それは性的な儀式のためだったでしょう。

2.罪、特に悔い改めずに犯した故意の反抗的な罪の報酬は死です。

だから、私たちは罪を軽く見てはいけません。

むしろ、私たちは罪から逃げなければなりません。

パウロは、私たちに警告します。

ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。(第一コリント10:12)

私たちは、いつも罪に対して警戒しなければなりません。

でも、良い知らせは、神様が私たちとともにおられ、私たちが堅く立ち、罪に打ち勝つのを助けてくださるということです。

パウロは、こう言いました。

あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。

神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。

むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。(第一コリント10:13)

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神様はどんなまなさして私たちを見ているのか

私はどうして呪いをかけられるだろうか。 神が呪いをかけない者に。

私はどうして責めることができるだろうか。 主が責めない者を。(民数記23:8)

私は上の言葉を読んだとき、ローマのクリスチャンたちへのパウロの言葉を連想しました。

だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。

だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。(ローマ8:33ー34)

サタンは天の父の御前で、私たちの罪と失敗のために責めようとします。

私たち自身、自分を責めるときもあります。

でも、天の父が責めていない私たちを、どうして私たちは責めることができるでしょうか。

私たちのために流されたイエス様の血によって、神様は私たちを義と認めてくださいます。イエス様ご自身が、天の父の隣に立って、私たちを擁護してくださいます。

神様は、あらかじめ私たちを知っておられました。

神様は、私たちが御子のようになるように、自分の子供となるように、あらかじめ定められました。

神様は、私たちを召してくださいました。

神様は、私たちを義と認めてくださいました。

そして、私たちに栄光を与えてくださいました。

神様は、そのように私たちを考えておられます。天のお父さんは、愛に満ちたまなざしで私たちを見ているのです。

そして、良い知らせは、神様は私たちに対して気が変わることがないということです。

私は、民数記23:19の言葉が大好きです。

神は人ではないから、偽りを言うことがない。人の子ではないから、悔いることがない。

神が仰せられたら、実行されないだろうか。語られたら、成し遂げられないだろうか。

神様は、私たちが祝福されるように定められ、必ず祝福してくださいます。(民数記23:20)

神様は、私たちの罪のために懲らしめるかもしれませんが、私たちを決して見捨てることはありません。

神様は、気が変わることがないので、神様の愛から私たちを引き離すものは何もありません。(ローマ8:38~39)

神様は、私たちとともにおられます。だから、私たちの王をほめたたえましょう。(民数記23:21)

そして、毎日叫びましょう。

「神様が私のためにしてくださったことは、なんと素晴らしいことでしょう。」(民数記23:23)

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ただの言葉?

バラムの話を読んだ時、私はパリサイ人たちと律法学者たちへのイエス様の言葉を連想しました。

この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。(マタイ15:8)

時々、バラムは敬虔な人に聞こえました。

私は私の神、主の命を破ることは、事の大小にかかわらず、断じてできません。(民数記22:18)

しかし、彼は口先で神様を敬っても、その心は神様から遠く離れていたのです。

自分の欲のために、彼は神様の命じられたことを回避する方法を探していたようです。(第二ペテロ2:15~16)

けれども、神様はバラムの心をよく知っておられ、バラムの言葉に騙されていないことをはっきりと告げられました。

神様の警告を聞いて、バラムはイスラエルを呪おうとする計画をやめました。それでも、彼は後にイスラエルを困らせる方法を見つけました。(民数記25:1~5;36:16)

日曜日に「はい、主よ。私はあなたに従います。アーメン」という言葉を歌うのは簡単なことです。

しかし、それはただの言葉でしょうか。

それとも、その言葉は本当に私たちの心の叫びでしょうか。

私たちの心は、日曜日だけではなく、むしろ毎日毎日、一瞬一瞬、神様に捧げられているものでしょうか。

私たちは心を尽くして神様に従っているでしょうか。

もしくは、私たちは神様の命じられたことを回避する方法を探しているのでしょうか。

天のお父さん、私はバラムのようになりたくありません。私の心のすべてが、あなたのものになるように。

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 神様の信頼を裏切る

あなたがたはわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現さなかった。

それゆえ、あなたがたはこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。(民数記20:12)

今朝、私はモーセとアロンへの神様の御言葉を反芻していました。

「あなたはわたしを信頼してくれなかった。」

神様の戒めを信じて従う代わりに、モーセは勝手に行動しました。

そうすることで、イスラエル人たちが自分の文句と反抗的な態度で神様を敬わなかったのと同じように、モーセも神様を敬いませんでした。

申命記では、モーセは神様の御言葉をこのように言い換えました。

「あなたは私の信頼を裏切りました。あなたは私に不誠実でした。」(申命記32:51)

神様は、人が自分の友達と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られました。(出エジプト記33:11)

でも、モーセはその信頼を裏切りました。

天の父は、どれだけモーセの裏切りに心を痛められたでしょうか。

天のお父さん、私はモーセのように、何度あなたを信じなかったことでしょうか。

あなたの戒めに信じて従う代わりに、私はどれだけ勝手に行動するでしょうか。

あなたは、恵みによって私を救ってくださいました。その恵みによって、私をご自分のものとし、私を「友達」と呼ばれます。

あなたの信頼を裏切ったと知りながら、あなたの目を見たくありません。

私がいつも、あなたを聖なる方としてあがめるように。

私のすべての言葉と行動によって、あなたにふさわしい名誉をお与えするように。

そして、回りの人々が私を見るとき、彼らがあなたを見ることができるように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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 赦さざる罪

民数記15~17章では、私たちは神様の厳しい裁きを見ます。

多くの人(クリスチャンたちも含めて)には、それが理解しがたいものです。

でも、15章では、神様は大切な原則を定めました。それは、気づかずに罪を犯すことと、故意に反抗的な罪を犯すこととは雲泥の差があるということです。

その反抗的な態度を悔い改めようとしない限り、私たちは赦されることはありません。

神様の律法によれば、気づかずに罪を犯した人は、罪のきよめのささげ物を捧げることができました。

でも、悔い改めることなく故意に罪を犯した人には、罪のきよめの捧げ物はありませんでした。そのような人にとっては、きよめの捧げ物は無意味ですから。(民数記15:22~30)

そういうわけで、悔い改めることなく故意に安息日を破った人は、石で殺されました。(民数記15:32~36)

また、16章では、コラたちは反抗的な態度のために厳しく裁かれました。

反抗的な心は、酷いものです。

でも、その反抗的な態度を悔い改めようとしない心が結びつけば、その罪は赦されないものとなります。

私たち皆が罪を犯すことはあります。でも、私たちが悔い改めず、反抗的な心を持つことがないように。

むしろ、ダビデの心を持ちましょう。彼は故意に罪を犯したことがありましたが、最終的に悔い改めて、赦されました。

彼はこう祈りました。

だれが自分の過ちを悟ることができるでしょう。どうか、隠れた罪から私を解き放ってください。

あなたのしもべを傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。

そのとき私は大きな背きから解き放たれて、全き者となるでしょう。

私の口のことばと私の心の思いとが御前に受け入れられますように。主よ わが岩 わが贖い主よ。(詩篇19:12~14)

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自分の心を導こう

イスラエルの子らに告げて、彼らが代々にわたり、衣服の裾の四隅に房を作り、その隅の房に青いひもを付けるように言え。

その房はあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、主のすべての命令を思い起こしてそれを行うためであり、淫らなことをする自分の心と目の欲にしたがって、さまよい歩くことのないようにするためである。

こうしてあなたがたが、わたしのすべての命令を思い起こして、これを行い、あなたがたの神に対して聖なる者となるためである。

わたしが、あなたがたの神、主であり、わたしがあなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出したのである。わたしはあなたがたの神、主である。(民数記15:38~41)

去年、私の教会では、私たちは自分の心に従うのではなく、神様に従うように自分の心を導くことについて話しました。

それは新しい概念ではありません。モーセはイスラエル人たちに同じことを教えました。

「ただ自分の心に従うな。目の欲に従うな。そうすれば、淫らなことをして、さまよい歩いてしまいます。」

英訳によれば、「あなたは霊的な売春婦になります。」

だから、モーセはイスラエル人たちに言いました。「神とその道に従うように、自分の心を導こう。」

どうして彼らはそうするべきだったのでしょうか。なぜなら、神様はまず彼らを愛してくださり、エジプトの奴隷生活から救い出してくださったからです。

神様が彼らをご自分の民にしてくださったので、彼らは神様に対して聖なるものとなるべきでした。

そのように、神様は私たちをまず愛してくださり、サタンの国から救い出してくださいました。

私たちは神様の愛しているものなので、もう一度自分を霊的な売春婦として罪に売ってはなりません。

むしろ、私たちは神様に対して聖なるものとなるべきです。

私たちは、どのように自分の心を導くことができるでしょうか。

神様はイスラエル人たちに、一つの方法を教えてくださいました。

神様は彼らに、衣服の裾の四隅に房を作り、その隅の房に青いひもを付けるように命じました。その目的は、服を着るたびに神様に従うように心を導くことを思い出させるためでした。

もちろん、私たちはそうする必要はありませんが、私たちが誰のものであるか、誰に従うべきかを日々思い出す方法を見つけるべきです。

最近、教会の友達が引っ越しをしたところ、そのアパートの礎に、こう書いてあります。

主は私たちの神。主は唯一である。(申命記6:4)

彼がそのアパートに入るたびに、それは彼の房になるかもしれません。

私の「房」は、黙示録4:11に基づく祈りです。毎日、私はこう祈ります。

主よ、私たちの神よ。 あなたこそ 栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。

あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。

みこころのゆえ、あなたは私を造られ、もう一日のために息吹を与えてくださいました。

私の人生によって、あなたがあがめられるように。アーメン。

あなたの房は何でしょうか。

自分の房を見つけましょう。

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信仰の目、恐怖に満ちた目

モーセは、カナンの地の偵察のために彼らを遣わして言った。。。

「勇気を出して。。。」 (民数記13:17、20)

上の言葉で、私の心に打たれました。

モーセは12人の斥候を遣わす前に、「勇気を出しなさい」と言いました。

でも、彼らが戻って来た時に、まだ勇気を失っていなかったのはカレブとヨシュアだけでした。

なぜでしょうか。なぜなら、彼らは信仰の目を持っていたからです。彼らは神様の偉大さを見たのです。

でも、残りの10人の斥候は、恐怖に満ちた目をしていました。

なぜでしょうか。彼らはカナン人の大きさしか見ることができなかったからです。

どれだけ、私たちは神様の偉大さを忘れ、未来や神様が私たちをどこに導いてくださるのかを恐れるでしょうか。

また、神様がどれほど良い方であるのかを、私たちはどれほど忘れているでしょうか。

今日、私はたまたま詩篇16篇を祈っていました。5~8節は、特に今日の話に適していたと思いました。

主は私への割り当て分、また杯。あなたは、私の受ける分を堅く保たれます。

割り当ての地は定まりました。私の好む所に。実にすばらしい、私へのゆずりの地です。

私はほめたたえます。助言を下さる主を。実に、夜ごとに内なる思いが私を教えます。

私はいつも主を前にしています。主が私の右におられるので私は揺るがされることがありません。(詩篇16:5ー8)詩篇16:5ー8)

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 私があなたをあがめるように

聞け、わたしのことばを。

もし、あなたがたの間に預言者がいるなら、主であるわたしは、幻の中でその人にわたし自身を知らせ、夢の中でその人と語る。

だがわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者。(民数記12:6ー7)

ですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちが告白する、使徒であり大祭司であるイエスのことを考えなさい。

モーセが神の家全体の中で忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実でした。

家よりも、家を建てる人が大いなる栄誉を持つのと同じように、イエスはモーセよりも大いなる栄光を受けるにふさわしいとされました。。。

モーセは、後に語られることを証しするために、神の家全体の中でしもべとして忠実でした。

しかしキリストは、御子として神の家を治めることに忠実でした。そして、私たちが神の家です。。。(ヘブル人への手紙3:1ー6)

イエス様、モーセは天の父の家全体の中で、しもべとして忠実でした。だから、彼は栄誉や栄光を受けるにふさわしい人でした。

でも、あなたは天の父の家全体の中で、御子として忠実でした。そういうわけで、モーセよりも、あなたは大いなる栄誉と栄光を受けるにふさわしい方です。

だから、私の言動によって、あなたがあがめられるように。あなたは、私の服従と敬いにふさわしい方です。

私があなたに従わないとき、あなたを敬わないとき、赦してください。

そんなときにも関わらず、あなたが私の大祭司として、私のために忠実にとりなし続けてくださり、感謝します。

あなたの素晴らしい恵みを感謝します。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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烏合の衆の一員?

彼らのうちに混じって来ていた者たちは激しい欲望にかられ、イスラエルの子らは再び大声で泣いて、言った。

「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、玉ねぎ、にんにくも。

だが今や、私たちの喉はからからだ。全く何もなく、ただ、このマナを見るだけだ。」(民数記11:4-6)

「混じって来ていた者」と訳された言葉は、かなり珍しくて、上記の箇所にしか出てきません。

ある英訳では、その言葉は「riffraff」、つまり、「烏合の衆」と訳されました。

もしかしたら、彼らはイスラエル人ではなかったかもしれません。でも、イスラエル人がエジプトから逃げた時、その人たちはイスラエル人と一緒に行きました。

とにかく、はっきりしているのは、彼らはいつも文句を言い、周りの人々に影響を及ぼし、モーセの重荷になっていたということです。

その反面、イスラエルの民の70人は御霊に満たされ、モーセを支えました。モーセはヨシュアに、「イスラエル人の皆が御霊に満たされるといいのに」と言いました。

数世紀後、神様はペンテコステでその願いをかなえられました。(使徒の働き2:14~18)

今日の箇所を読んだとき、私はこう考えました。

「烏合の衆の一員になりたくない。私はいつもぶつぶつ不平を言って、悪い影響を周りの人々に与えたくない。私はリーダーたちの重荷になりたくない。」

むしろ、私は御霊に満たされることを望みます。教会の内でも外でも、周りの人々に触れ、祝福をもたらすために、神様に用いられることを願います。

あなたはどうですか。

神様はあなたに御霊を与えてくださいました。

御霊に満たされ、導かれている人生を送っているでしょうか。

もしくは、烏合の衆の一員のように生きているでしょうか。

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性的な罪を軽く見ていないか

バラムが神様に仕えているかどうかという疑いがあれば、25章では、その疑いは解けました。なぜなら、バラムのせいで、イスラエル人たちは偶像礼拝や性的な罪に陥ってしまったからです。(民数記31:16)

その罪のゆえに、2万4千人のイスラエル人たちが死にました。

イスラエル人たちがその罪を犯したのは、これが二度目です。(出エジプト記32章)

さらに、民数記15章の話のように、イスラエル人たちは気づかずに罪に陥ったわけではありません。むしろ、彼らは故意に罪を犯したのです。

特に、祭司ピネハスが殺した人は、故意に罪を犯しました。

主の罰で多くの人々が死にかけている中で、また、モーセや他のイスラエル人たちが主の前で泣いている中で、その人はバアル礼拝の関係で、ある女性と性的な関係を持とうとしました。

その時代、売春と偶像礼拝には強い関係がありました。

もちろん、日本では今も偶像礼拝がありますが、性的な罪そのものが現代の偶像になっています。

現代社会では、多くの人々が性的な罪を軽く考え、実際には罪だと思っていないのです。(ローマ1:24、26-27、32)

しかし、神様によれば、その罪は死に値するのです。(ローマ1:32;第一コリント6:9-10)

そういうわけで、パウロはその二つの事件を振り返って、こう言いました。

これらのことは、私たちを戒める実例として起こったのです。彼らが貪ったように、私たちが悪を貪ることのないようにするためです。

あなたがたは、彼らのうちのある人たちのように、偶像礼拝者になってはいけません。聖書には「民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた」と書いてあります。

また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、淫らなことを行うことのないようにしましょう。彼らはそれをして一日に二万三千人が倒れて死にました。(第一コリント10:7ー8)

あなたはどうですか。

現代の人々と同じように、性的な罪を軽く考えているのでしょうか。

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本当に神様を求めているのか

バラムとバラクは、本当に敬虔な人々のように聞こえましたね。

「主にお会いして、その御言葉を求めます。」

「はい、わかりました。主の御言葉を待ち望みます。。。では、主は何をお告げになりましたか。」(民数記23:15-17)

しかし、神の御言葉を聞いて、バラムとバラクは怒りました。

神様がイスラエルを呪うことを拒まれたとき、バラクは怒りました。

バラムは、バラクに報酬を受けたかったので、切実に神様がご自身の考えを変えてくださることを願いました。けれども、神様はどうしてもそうされませんでした。(19節)

どれほど、私たちはバラクとバラムのように振る舞っているでしょうか。

私たちは、神様の御言葉を求めていると言いながら、神様が語られるとき、その言葉を受け入れません。

神様の御言葉が気に入るときだけ、その言葉を受け入れるのでしょうか。

それとも、その御言葉が気に入らないときにも、その言葉に従うのでしょうか。

私たちは、神様が自分たちの意思に従ってくださることを望んでいるのでしょうか。

それとも、私たちは神様の御心に従うのでしょうか。

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神が私たちの口に置かれることば

バラムはバラクに言った。

「ご覧なさい。私は今あなたのところに来ているではありませんか。私に何が言えるでしょう。神が私の口に置かれることば、それを私は告げなければなりません。」(民数記22:38)

私が教会で聖書を教えているので、その言葉は私の心を打ちました。

私には、単に好きなことを教える自由がありません。神様が私の口に置かれた言葉を告げなければなりません。

しかし、すべてのクリスチャンがその原則に従わなければなりません。

時には、周りの人々が、自分が聞きたいことを言うように、私たちにプレッシャーをかけてきます。

パウロはこう言いました。

というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め(ます)。。。(第二テモテ4:3)

イエス様も、そんなプレッシャーをよく感じられました。けれども、イエス様はいつも天の父の言葉に応じて話されました。(ヨハネ7:16-17)

それに、バラムとは違って、イエス様はいつも天の父の栄誉を求められました。

私たちは、主の模範に従って、恵みとまことをもって人々に語りましょう。

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死者と生者の間に立つ

(アロン)が死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、主の罰は終わった。(民数記16:48)

その言葉は、私の心の中に響きました。

アロンの片側では、何千人もの人々が、自分の反抗のために死にました。

アロンの反対側では、何千人もの人々が救われました。

神様の祭司として、私たちは同じ立場に立っています。

私たちの周りでは、多くの人々が自分の罪のゆえに死にかけています。

私たちには選択肢があります。

私たちは、ただ神様の裁きが彼らに降りかかるのを見ていることもできます。

それとも、アロンのように、私たちは祈ることができます。彼らのためにとりなし、彼らに触れて、悔い改めと赦しという神様の福音を伝えることができます。

主よ、アロンの心を私に与えてください。

たくさんの人は自分の罪のゆえに苦しみ、死にかけています。

アロンのあわれみの心を私に与えてください。

あなたのあわれみの心を私に与えてください。

私がどのように人に触れることができるか教えてください。

そして、私を通して、彼らの人生にあなたの救いをもたらしてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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反抗的

安息日を破った人の話が、民数記15:27-31にある神様の指示のあとに記録されているのは、偶然ではないと思います。

27-31節では、神様は、気づかずに罪に陥ってしまう人と、故意に罪を犯す人を区別されます。

気づかずに罪に陥ってしまう人のためには、祭司が宥めを行い、その人は赦されました。

しかし、故意に罪を犯した人のためには、宥めはありませんでした。神様はその人を赦されませんでした。

安息日を破った人は、そのような人でした。

彼はただ、その日が安息日であったことを忘れていたわけではありません。周りの人々がその罪を指摘したとき、彼は「大変です。忘れてしまいました。どうしたらいいですか」とは言いませんでした。

むしろ、彼はまったく気にしませんでした。彼は神様の言葉を侮り、その行為によって神様を冒瀆しました。

その結果は――死です。

素直に悔い改める心を持つ人に対して、神様は恵み深いお方です。神様は、いつもそのような人を赦してくださいます。

しかし、悔い改めようとしない反抗的な人は、神様の赦しを知ることがありません。

ですから、いつも神様に対して柔らかい心を保ちましょう。

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神様にを信頼し従うように、互いに励まし合う

わたしの栄光と、わたしがエジプトとこの荒野で行ったしるしとを見ながら、十度もこのようにわたしを試み、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、だれ一人、わたしが彼らの父祖たちに誓った地を見ることはない。

わたしを侮った者たちは、だれ一人、それを見ることはない。

ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者とは違った霊を持ち、わたしに従い通したので、わたしは、彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる。(民数記14:22ー24)

時間があれば、この箇所と一緒にへブル書3章を読む甲斐があります。なぜなら、へブル書の著者がこの出来事の霊的な応用を説明しているからです。

兄弟たち。あなたがたのうちに、不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。(へブル3:12)

不信仰で悪い心は、多くのイスラエルの民の問題でした。

彼らは、自分たちをエジプトから贖ってくださった主を侮りました。

神様が多くのことをしてくださったのに、彼らは神様に信頼することを拒みました。

私たちは、どのような心を持っているでしょうか。

神様に対して頑なな心を持っているでしょうか。神様を信頼しない心を持っているでしょうか。

それとも、私たちはカレブとヨシュアのように、柔らかい心を持っているでしょうか。彼らのように、私たちは周りの兄弟姉妹に神様に信頼するように促すでしょうか。

罪に欺かれるのは簡単なことです。心が頑なになるのも簡単なことです。

だからこそ、クリスチャンの交わりはとても大切なのです。

ですから、カレブやヨシュアのような人々と時間を過ごしましょう。

また、周りのクリスチャンに対して、私たち自身がカレブやヨシュアのような者となりましょう。

「今日」と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい。(へブル3:13)

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イエス様の声を聞いて、従う

(モーセ)はわたしの全家を通じて忠実な者。彼とは、わたしは口と口で語り、 明らかに語って、謎では話さない。 彼は主の姿を仰ぎ見ている。

なぜあなたがたは、わたしのしもべ、 モーセを恐れず、非難するのか。(民数記12:7ー8)

言うまでもなく、神様はモーセに対するアロンとミリアムの反抗的な態度に怒られました。

しかし、へブル書の著者は興味深い方法で、その出来事を私たちに当てはめています。

モーセは、後に語られることを証しするために、神の家全体の中でしもべとして忠実でした。

しかしキリストは、御子として神の家を治めることに忠実でした。そして、私たちが神の家です。。。

ですから、聖霊が言われるとおりです。

「今日、もし(イエスの)御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。 荒野での試みの日に 神に逆らったときのように。」(へブル3:5ー8)

イスラエルの民はモーセに従わなければなりませんでした。私たちがイエス様に従わなければならないことは、なおさらです。

モーセは忠実なしもべにすぎませんでした。

イエス様は忠実な御子です。さらに、イエス様は私たちの使徒であり、大祭司です。(へブル3:1)

ですから、頑なな心を持たず、柔らかい心をもって、イエス様の声を聞き、従いましょう。

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弱すぎると思うだろうか?

この主の手が短いというのか。(民数記11:23)

今日、その言葉は私の心を打ちました。

「主の手が私のところに届かないと思うだろうか。主の手が弱すぎると思うだろうか。」

モーセや(14)、私たちとは違って、神様は弱いお方ではありません。

ご自身の約束を守ることに関して、神様は弱いお方ではありません。

ご自身の民の世話をすることに関して、神様は弱いお方ではありません。

ご自身の民を懲らしめることに関して、神様は弱いお方ではありません。

今日の箇所では、神様はそのようにご自身の力を現されます。

しかし、もう一つの面でも、神様は弱いお方ではありません。私は23節を読んで、イザヤ書59:1にある神様の言葉を思い起こしました。

見よ。主の手が短くて救えないのではない。 その耳が遠くて聞こえないのではない。(イザヤ書59:1)

私たちは、神様の救いを見ることに関して絶望することがあるでしょうか。

日本を思うとき。

愛する人々を思うとき。

この世の罪とよこしまを思うとき、人々の頑なな心を見るとき、絶望するのは簡単なことです。

しかし、この真理を心に留めておきましょう。

主の手が短くて救えないのではありません。

もう一つのことも覚えておきましょう。

神様がイスラエルの長老たちにご自身の御霊を注がれたように、神様は私たちにもご自身の御霊を注いでくださいました。(イザヤ書59:21、使徒の働き2:17-18)

神様の目的は、私たち皆が神の命の言葉を周りの人々に伝えることです。

それは、牧師たちだけの役割ではなく、私たち皆の役割です。

主よ、あなたがモーセやイスラエルの民に御霊を注がれたように、使徒の働きの時代のクリスチャンたちに御霊を注がれたように、私たちにも御霊を注いでください。

あなたの手が短くて救えないのではありません。あなたは私を救ってくださいました。

ですから、私の周りの人々を救うために、私をあなたの御霊で満たし、用いてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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神の導きに従う

主の令によりイスラエルの子は旅立ち、主の命により宿営した。

雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営した。(民数記9:18)

今日、私はこのように祈りました。

主よ、私があなたの導きに従う心を持つことができますように。

時に、私があまりに快適になってしまい、あなたが新しい方向へ進まれるとき、私はためらってしまいます。

しかし、別の時には、私は多くの計画を抱えて、待ちきれなくなります。今すぐ何かをしたいと思ってしまいます。

でも、あなたは私に語られます。

「待ちなさい。少し休みなさい。私との時間を楽しみなさい。私の顔を求めなさい。私の時を待ちなさい。」

ですから主よ、私があなたの前に出すぎることなく、あなたの後ろに遅れてしまうこともありませんように。

むしろ、毎日あなたに導かれるままに、私が進むことができますように。

あなたが進まれるとき、私も進み、あなたが立ち止まられるとき、私も立ち止まることができますように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。