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ガラテヤ人への手紙のデボーション

壊れた人々の重荷を担う

兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。

互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。(ガラテヤ人への手紙6:1~2)

パウロの言葉を読んだとき、イエス様のみことばを思い起こしました。

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイの福音書11:28~30)

パウロは、私たちが主のように、罪によって重荷を負っている壊れた人々に触れるように召しています。

しかし、正直に言うと、多くの場合、そのような人に対する私の最初の反応は、パリサイ人たちのように独善的で、さばきに満ちています。

私はそのような態度を取りたくありません。

主と同じように、私は人々に手を伸ばし、罪の重荷を下ろして、御国に入るように招きたいのです。

Pictures coloured with your pain
痛みに彩られた記憶
Images of silent shame
秘めた恥の思い出
All the things you thought you had to hide
隠さなければならないと思っていたすべてのこと
Broken memories you’ve locked inside
心の奥に閉ざしてきた傷

Oh, lay it down
ああ、重荷を下ろしなさい。
Come lay it down
ここに来て、重荷を下ろしなさい。
Come to the kingdom
御国に入ってきなさい。—マーク・ガーシュメル

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ヤコブの手紙のデボーション

私たちの主が来られるからこそ

あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主が来られる時が近づいているからです。

兄弟たち。さばかれることがないように、互いに文句を言い合うのはやめなさい。見なさい。さばきを行う方が戸口のところに立っておられます。(ヤコブの手紙5:8~9)

私たちは使徒の働きを通読したとき、ペテロがコルネリウスに語った福音のメッセージを読みました。そのとき、ペテロはこう語りました。

そしてイエスは、ご自分が、生きている者と死んだ者のさばき主として神が定めた方であることを、人々に宣べ伝え、証しするように、私たちに命じられました。(使徒の働き10:42)

私にとって、それは良い知らせです。なぜなら、悪がしばしば罰されないこの世にあっても、正義は最終的にもたらされるからです。

だからこそ、この壊れた世に生きる私たちに、ヤコブは「心を強くし、耐え忍びなさい」と勧めることができるのです。イエス様が再び来られ、すべてのことをさばかれるからです。

しかし、主の再臨を思うとき、私たちは自分自身の行動も省みなければならないことに気づかされます。なぜなら、私たちの心と態度、特に周囲の人々に対する心と態度もさばかれるからです。

ヤコブは以前にも、そのことについて語っていました。(ヤコブの手紙2:12~13)

私たちがさばきの日を恐れるべきだと言っているのではありません。私たちの罪の代価は十字架で支払われたのです。(第一ヨハネ4:17~18)

それでも、私たちはいつか主の前に自分のことを申し開きしなければなりません。

だからこそ、私たちは毎日どのように歩んでいるのかを省みる必要があります。

そのことを思い巡らしつつ、神の愛を確信しながら、自分の過ちを認め、ダビデとともに祈ります。

神よ、私を探り、私の心を知ってください。
私を調べ、私の思い煩いを知ってください。

私のうちに傷のついた道があるかないかを見て
私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139:23~24)

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ヤコブの手紙のデボーション

あわれみを与える者

自由をもたらす律法によってさばかれることになる者として、ふさわしく語り、ふさわしく行いなさい。

あわれみを示したことがない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。あわれみがさばきに対して勝ち誇るのです。(ヤコブの手紙2:12~13)

このことばはいつも私の心を打ちますが、今朝、私は特に深く心を打たれました。

どの教会にも、接するのが難しい人はいるものです。 私の教会も例外ではありません。

そして、ヤコブのことばを読んだとき、神様は、昨日、私がある難しい人に対して良くない態度を取ってしまったことを示してくださいました。

いつか私はキリストの前に立ち、さばきを受けます。 しかし、そのさばきは、私を自由にする律法によるさばきです。

パウロが語ったように、いのちの御霊の律法は、罪と死の律法から私を解放してくださいました。 私はもはや、罪と失敗のためにさばかれる律法の下にはいません。 イエス様の血によって私の罪の代価は支払われ、私は解放されました(ローマ人への手紙8:2)。

私はそのような律法によってさばかれるのです。

だからこそ、神様は私に語っておられました。 「あなた自身がそのように、恵みとあわれみをもってさばかれているのなら、あなたもその難しい人に対して、同じ恵みとあわれみをもって接しなさい。あなた自身が自由にされたように、その人をも自由にしなさい。」

いのちの御霊よ、昨日の私の態度を赦してください。 あなたが私にいのちを与えてくださったように、私も周囲の人々にいのちをもたらす者としてください。

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マルコの福音書のデボーション

天のお父さん、私は脆い存在なのでしょうか

まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになります。

新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものです。(マルコの福音書2:22ー23)

天のお父さん、もしかして私は、古い皮袋のように脆い存在なのでしょうか。私があまりにも脆くて、もしあなたが人々に触れるために、御霊というぶどう酒を注がれると、私は裂けてしまうのでしょうか。

つまり、苦しんでいる人々への、あなたのあわれみと思いやりを欠いていることで、私は脆いのでしょうか。(5、17節)

また、周囲の人々をいつもさばいてしまうことで、私は脆いのでしょうか。(15ー16節)

あるいは、私の霊的な成熟度を他の人と比べることで、私は脆いのでしょうか。(18節)

天のお父さん、どうか、あなたが自由にぶどう酒を注ぐことのできる、新しい皮袋へと私を変えてください。あなたの注がれるぶどう酒が、無駄になることのないように。

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使徒の働きのデボーション

イエス・キリストに上訴します!

すると、パウロは言った。「私はカエサルの法廷に立っているのです。。。私はカエサルに上訴します。」(使徒の働き25章)

「法廷」という言葉は、聖書の別の箇所では「さばきの座」と訳されています。特に、「神のさばきの座」(ローマ14:10)と「キリストのさばきの座」(第二コリント5:10)です。

それゆえ、今日の箇所を読んだとき、私の心にはこの思いが浮かびました。

パウロがカエサルのさばきの座の前に立ったように、ある日、私たちも神のさばきの座の前に立たなければなりません。そのとき、サタンは私たちに対して、容赦ない告発を突きつけてくるでしょう。

しかし、パウロへの告発とは異なり、サタンの告発は正当なものであり、私たちは死に値する者です。なぜなら、私たちは確かに多くの罪を持っているからです。

それでも、私たちは神の子として宣言できます。「私はイエス・キリストに上訴します!」

そして、十字架で流されたイエス様の血によって、神様は私たちに対し「無罪」との判決を下してくださるのです。

これは、なんと素晴らしい真理でしょうか。

だからこそ、サタン、または自らの良心さえも容赦なく私たちを責めるとき、大胆に叫びましょう。

「私はイエス・キリストに上訴します!」

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民数記のデボーション

 赦さざる罪

民数記15~17章では、私たちは神様の厳しい裁きを見ます。

多くの人(クリスチャンたちも含めて)には、それが理解しがたいものです。

でも、15章では、神様は大切な原則を定めました。それは、気づかずに罪を犯すことと、故意に反抗的な罪を犯すこととは雲泥の差があるということです。

その反抗的な態度を悔い改めようとしない限り、私たちは赦されることはありません。

神様の律法によれば、気づかずに罪を犯した人は、罪のきよめのささげ物を捧げることができました。

でも、悔い改めることなく故意に罪を犯した人には、罪のきよめの捧げ物はありませんでした。そのような人にとっては、きよめの捧げ物は無意味ですから。(民数記15:22~30)

そういうわけで、悔い改めることなく故意に安息日を破った人は、石で殺されました。(民数記15:32~36)

また、16章では、コラたちは反抗的な態度のために厳しく裁かれました。

反抗的な心は、酷いものです。

でも、その反抗的な態度を悔い改めようとしない心が結びつけば、その罪は赦されないものとなります。

私たち皆が罪を犯すことはあります。でも、私たちが悔い改めず、反抗的な心を持つことがないように。

むしろ、ダビデの心を持ちましょう。彼は故意に罪を犯したことがありましたが、最終的に悔い改めて、赦されました。

彼はこう祈りました。

だれが自分の過ちを悟ることができるでしょう。どうか、隠れた罪から私を解き放ってください。

あなたのしもべを傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。

そのとき私は大きな背きから解き放たれて、全き者となるでしょう。

私の口のことばと私の心の思いとが御前に受け入れられますように。主よ わが岩 わが贖い主よ。(詩篇19:12~14)

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マタイの福音書のデボーション

自分の罪に気づく

先日、マタイ6:22ー23を読んだとき、「私の目は健やかなのだろうか?」と考えました。

健やかな目を持っていれば、私は自分の罪や欠点を見ることができるはずです。しかし、自分の罪や欠点を見逃し、周囲の人々のそればかりを見るのは、いかに簡単なことでしょうか。

英語のことわざに、「最も悪い種類の欺瞞は自己欺瞞である」というものがあります。イエス様の言葉を借りれば、もし人が自己欺瞞に陥っているとしたら、その闇はどれほど深いものでしょうか。(マタイ6:23)

(主よ。)だれが自分の過ちを悟ることができるでしょう。どうか、隠れた罪から私を解き放ってください。

あなたのしもべを 傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。そのとき私は大きな背きから解き放たれて、全き者となるでしょう。

私の口のことばと私の心の思いとが御前に受け入れられますように。 主よ、わが岩 わが贖い主よ。(詩篇19:12ー14)

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創世記

神様のさばき

こうして地の上を動いていたすべての肉なるものは、鳥も家畜も獣も地に群生するすべてのものも、また全ての人も死に絶えた。

命の息を吹き込まれたもので、 かわいた地の上にいたものはみな死んだ。

こうして、主は地上のすべての生き物を、人をはじめ、動物、はうもの、空の鳥にいたるまで消し去った。それらは、地 から消し去られた。

ただノアと、彼といっしょに箱舟にいたものたちだけが残った。(創世記 7:21-23)

上の言葉は本当に切ないですね。

多くの人々は尋ねます。「どうして神様はそのような恐ろしいことをされたのでしょうか。どうして神様は地上のすべての生き物を滅ぼされたのでしょうか。」

旧約聖書では、神様は人々を裁かれ、時にはある民族を完全に滅ぼされることもありました。そのため、ある人々は言います。

「旧約聖書の神様はあまり好きではありません。その神様は本当にひどい方ですから。新約聖書の神様の方が好きです。その神様は愛の神、恵み深い神ですから。」

けれども、そのような考え方は間違っています。旧約聖書にも神様の恵みと愛がはっきりと現れています。

そして、新約聖書にも神様の裁きがはっきりと現れています。特に、黙示録にその裁きが記されています。

どうして神様は人々を裁かなくてはならないのでしょうか。

多くの人々は神様について二つの誤解を持っていると思います。

一つ目は、神様は愛の神でしかないという考えです。

だから彼らは尋ねます。「どうして愛の神様はそのようなことをされるのですか。」

しかし、その人たちが知らないのは、神様が聖なる方であるということです。神様は罪を見過ごすことができません。また、神様は正義の神です。神様は永遠に罪を容認することはできません。

いつか神様は罪を罰しなければなりません。もしそうしなければ、神様はもはや正義の神ではないからです。

もう一つの誤解は、神様が裁きを喜んでいるということです。けれども、その考え方も間違っています。神様は預言者エゼキエルを通してこう言われました。

私は悪者の死を喜ぶだろうか。神である主の御告げ。かれがその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。(エゼキエル書18:23)

また、

彼らにこう言え。「私は誓って言う。神である主の御告げ。私は決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。

悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。(エゼキエル書33:11)

真理は、神様が正義の方であると同時に、忍耐強い神であるということです。

時々、神様の正義に文句を言う人が、神様の忍耐を見て苛立ち、こう言います。

「神様が正義の方であるならば、なぜこれほど多くの悪が存在しているのですか?悪い人が罰せられずに、栄えているように見えます。」

けれども、そのようなことを言う人々は、自分自身の罪にはほとんど気づいていません。

聖書によれば、すべての人々は罪を犯します。もし今、神様がすべての罪人を裁くとしたら、誰も生き残ることはできないでしょう。

でも、神様は忍耐強い方です。この世の歴史の中で、神様の裁きが来る前に、神様はいつも大いなる忍耐を示されます。人々を裁く前に、神様は必ず悔い改める機会を与えてくださいます。

ノアを通して、神様は差し迫った裁きについて繰り返し警告されました。しかし、誰も悔い改めなかったため、神様は大洪水を送られました。

カナンの民を裁く前に、神様は約400年を待たれました(創世記15:16)。

イスラエルの民が罪を犯したとき、神様は多くの預言者を遣わして警告されました。

そして、今、神様は私たちにこう言われます。

まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざけるものどもがやってきてあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょ う。

「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」

こう言い張る彼らは次のことを 見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神の言葉によって水から出て、水によってなったのであって、当時の世界は、その水により、洪水に覆われて滅びました。

しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。

しかし、 愛する人達。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておれるのではありません。

かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、一人でも滅びる事を望まず、すべての人が悔い改めに進む事を望んでおられるのです。(第二ペテロ3:3-9)

もちろん神様は愛の神です。けれども、神様は正義の神でもあります。

もちろん神様は正義の神です。けれども、神様は忍耐強い神でもあり、すべての人が救われることを望んでおられるのです。

もちろん神様は忍耐強い神です。けれども、その忍耐は永遠に続くものではありません。

だから、イエス様の言葉を心に留めておきましょう。

人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。

洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。

そして、洪水が来てすべてのものをさらってしまうまで、彼らは分からなかったのです。

人の子が来るのも、そのとおりです。

その時、畑に二人いると、一人は取られ、一人は残されます。二人の女が臼を引いていると、一人は取られ、一人は残されます。

だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつこられるか、知らないからです。(マタイ24:37-42)