カテゴリー
詩篇18-

自分自身を神様の御手に委ねる

いつダビデが詩篇31篇を書いたか分かりませんが、サウルから逃げた時に書いたかもしれません。

私は21節を見ると、ダビデがケイラという町から逃げた時に(第一サムエル記23章)、この詩篇を書いたのかもしれないと思います。とは言え、それはただ私の意見に過ぎません。

私の心を打つのは、ダビデが神様の助けを請いながら、何回も神様に対する信頼を宣言するということです。

彼はこう言いました。

私の霊を御手にゆだねます。真実の神、主よ。

あなたは私を贖い出してくださいました。(詩篇31:5)

また、

しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。私は告白します。「あなたこそ私の神です。」

私の時は、御手の中にあります。(14-15)

私たち皆、何かしら苦しむ時を経験します。その時、自分自身だけに信頼することは簡単なことです。私たちは自分の状況をコントロールしようとします。

しかし、生きようが死のうが、ダビデは自分の命を神様に委ねました。

彼はこう言いました。

「私の命はあなたの手にあります。周りの人々は私を殺そうとしていますが、あなたが私を生かし続けたいのであれば、彼らは成功しません。だからたとえ私が死ぬことになっても、自分の状況をコントロールしません。」

第一サムエルによれば、ダビデには自分の状況をコントロールする機会が二つありました。ダビデはサウルを殺す機会が二つありましたが、殺すことを拒絶しました。

イエス様は十字架で、その態度を示されました。つまり、イエス様は自分の命を天の父の手に委ねられました。

この詩篇はメシアについての詩篇ではありませんが、ダビデの言葉でイエス様の経験もよく見えます。

ダビデのように、イエス様は悲しみをよく知っておられました。苦しみもよく知っておられました。(10)

ダビデのように、イエス様は非難されました。(11)

ダビデのように、イエス様は友達に捨てられました。(11-12)

ダビデのように、人々はイエス様を謗って、殺そうと思いました。(13)

ダビデのように、イエス様は天の父に叫ばれました。「どうして、あなたは私をお見捨てになったのですか?」(22)

けれども、ダビデのように、イエス様は自分の状況をコントロールしようと思われませんでした。むしろ、自分の命を天の父の手に委ね、死ぬ前に言われました。「私の霊を御手にゆだねます。」(5)

イエス様が天の父に従われたので、今私たちには希望があります。その希望は、もし私たちが神様に信頼するなら、結局私たちは恥を見ない、ということです。(17)

また、神様が私たちに慈しみを与えてくださる希望があります。(19)

また、私たちの救いの希望があります。(22-23)

だから、ダビデのように叫びましょう。

雄々しくあれ。心を強くせよ。すべて主を待ち望む者よ。(24)

神様に心から信頼しましょう。

カテゴリー
詩篇18-

神様が私たちを懲らしめるとき

この詩篇のタイトルによれば、この詩篇は「主の家を捧げる歌」でした。

多分、自分のプライドによってダビデがイスラエルの人口を数えた罪を犯した後、彼はこの詩篇を書きました。(歴代誌第一21章;歴代誌第二3章1節)

神様はその罪のために、ダビデとイスラエルを懲らしめられました。つまり、イスラエルに疫病を下されました。聖書には書かれていませんが、その時、多分ダビデも病気になったと思います。

詩篇30篇では、私たちは神様からの懲らしめに対するダビデの反応を見ます。

ダビデは癒された後、神様を賛美しました。

主よ。私はあなたをあがめます。あなたが私を引き上げ、私の敵を喜ばせることはされなかったからです。

私の神、主よ。私があなたに叫び求めると、あなたは私を、いやされました。

主よ。あなたは私のたましいをよみから引き上げ、私が穴に下って行かないように、私を生かしておかれました。(詩篇30:1-3)

そして、ダビデは、なぜ神様が彼を打たれたのか説明します。

私が栄えたときに、私はこう言った。「私は決してゆるがされない。」(6)

その時、ダビデの安心は神様から来ませんでした。むしろダビデは、自分の力と自分の軍隊を信頼しました。だから、彼はその兵隊を数えました。

けれども、ダビデが懲らしめられた後、ダビデは本当の安全がどこから来るか分かるようになりました。

主よ。あなたはご恩寵のうちに、私の山を強く立たせてくださいました。あなたが御顔を隠され、私はおじ惑っていましたが。(7)

だから、ダビデは主の前にへりくだりました。彼は振り返る時、こう言いました。

主よ。私はあなたを呼び求めます。私の主にあわれみを請います。

私が墓に下っても、私の血に何の益があるのでしょうか。ちりが、あなたを、ほめたたえるでしょうか。あなたのまことを、告げるでしょうか。

聞いてください。主よ。私をあわれんでください。主よ。私の助けとなってください。(8-10)

神様はダビデの悔い改めを見られ、ダビデを憐れんで、赦してくださいました。だから、ダビデは神様を賛美しました。

あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。

私のたましいがあなたをほめ歌い、黙っていることがないために。私の神、主よ。私はとこしえまでも、あなたに感謝します。(11-12)

私たちは何を学ぶことができますか。

まず、何かをはっきりと言いたいです。

もしあなたが病気なら、神様はあなたの罪のために懲らしめておられるかもしれませんが、そうではない時もあります。

例えば、ヨブは本当に苦しんでいましたが、その時、神様は彼を罰しておられませんでした。他の理由のために彼は苦しんでいました。

とはいえ、時々、私たちが悪い道を行き始めると、神様は病気を通して私たちを止めてくださいます。

だから、あなたが病気の時、またあなたにトラブルがある時、「神様、私の心の中には罪があるでしょうか」と祈った方が良いです。

そして、神様があなたの罪を表されたら、ダビデのようにへりくだって悔い改めなければなりません。けれども、神様が何も表さないなら、多分その病気やトラブルには他の原因があります。

なぜ私はそう考えるのでしょうか。なぜなら、神様は私たちが苦しむことを喜ばれないからです。もし、私たちが悔い改めるために苦しみを送られたなら、私たちが悔い改めると、神様はすぐに赦してくださいます。

神様は「もし、自分の罪が分からないなら、私はあなたに伝えない」とは、決して言われません。

また、神様は「あなたがこの経験から学んで、もうその罪を犯さないためにあなたをもっと苦しませよう」と言われません。

むしろ、ダビデはこう書きました。

まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。

夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。(5)

思い出しましょう。神様は私たちを憎むので懲らしめるわけではなく、私たちを愛しておられるので、懲らしめられます。

だから、懲らしめられる時、へりくだって悔い改めましょう。

カテゴリー
詩篇18-

大いなる神、あなたを愛する神

多くの人々は私がちょっとおかしいと思うかもしれませんが、私は雷雨が大好きです。稲妻が光るのと雷が鳴るのがかっこいいと思うからです。(もちろん、その時、家にいたいですが。)😊

とにかく、英語の聖書を読むと、興味深いことが書かれていました。この詩篇は、「雷雨の歌」と呼ばれます。雷雨の時、この歌が歌われ、詩人はノアと洪水の話を思い出しました。

詩篇29篇では、神様の偉大さが見えると思います。

最初にダビデは、私たち皆が主を礼拝するように呼びかけます。

力ある者の子らよ。主に帰せよ。栄光と力とを主に帰せよ。

御名の栄光を、主に帰せよ。聖なる飾り物を着けて主にひれ伏せ。(詩篇29:1-2)

つまり、「神様の栄光と力を認めなさい。神様が値する栄光を認めなさい。主をほめたたえなさい。」ということです。

日本語では、「聖なる飾り物を着けて主にひれ伏せ」と翻訳されています。ある英語の聖書も、この箇所はそのように翻訳されています。

しかし、この箇所を翻訳する方法がもう一つあります。それは、「神様の聖なるさの美しさのために、主をほめたたえなさい」ということです。

どれほど、私たちは神様の聖なるさの美しさについて考えているでしょうか。けれども、神様の聖さを見るなら、多分、私たちは「美しい」としか言えないでしょう。

実は、私たちは神様の形として造られました。残念なことですが、今、私たちの罪によって、その形は歪んでいます。それでも、周りの人々を見るなら、時々、その美しさがちらりと見えます。

しかし、神様を見る時、そこには罪の染みがないので、神様は本当に美しい方です。

そして、ダビデは自然を見る時、雷雨の中で神様を見ます。神様の荒れ狂う御声を聞き、その声の力と尊厳を見ます。つまり、稲妻が光り、雷が鳴って、地が揺れ、大きな木が引き裂かれ、その木が裸にされ、その葉と枝が風の中で踊っているのを見ます。

ダビデはその「声」を聞くと、他の声を聞くことを想像します。つまり、天使の声が天の宮で響いて、「栄光」と呼んで、神様を礼拝します。

けれども、私の心を打つのは、ダビデの最後の言葉です。

主は、ご自身の民に力をお与えになる。主は、平安をもって、ご自身の民を祝福される。(11)

どうして、その個所は私の心を打つのでしょうか。なぜなら、この大いなる神、この聖なる神、この全能の神は、私を愛しておられるからです。

神様は私を愛しておられるので、私が弱い時に、力を与えてくださいます。私が心配する時、私が恐れる時、神様は私に平和を与えてくださいます。

私が弱い時、神様は強いです。

ある英語の翻訳では、このように書かれています。

主は、ご自身の民に強硬な力、また、決して壊れない力をお与えになる。

主よ。あなたは大いなる神です。あなたは全能の神です。あなたは聖なる神です。けれども、あなたは私を愛しておられます。そのことを感謝します。

私が小さく、取るに足りない人間なのに、あなたにとっては、私は大事な存在です。だから、あなたは、この世に来て、私の罪のために死んでくださいました。

私が弱い時、あなたが私の力でいてくださいますように。私が嵐の中にいて恐れる時、あなたの平安を与えてください。

あなたを愛しています。主イエス・キリストの皆によって祈ります。アーメン。

カテゴリー
詩篇18-

苦しむ時、神様に叫ぶ

時々、私たちは祈る時、神様の応えが遅いと思うことがあります。もしくは、神様が私たちを無視しておられると感じることもあります。

詩篇28篇で、ダビデはそう感じました。彼は叫びました。

主よ。私はあなたに呼ばわります。私の岩よ。どうか私に耳を閉じないでください。私に口をつぐまれて、私が、穴に下る者と同じにされないように。

私の願いの声を聞いてください。私があなたに助けを叫び求めるとき。私の手をあなたの聖所の奥に向けて上げるとき。(詩篇28:1-2)

私はダビデのトラブルが何だったか知らないけど、どれほど私たちはダビデのように祈るでしょうか。

「神様、私の言うことを聞いておられるでしょうか。どうして、あなたは沈黙しておられるのでしょうか。私の声を聞いてください。私があなたを呼ぶのを見ておられないのでしょうか。」

そして、ダビデは神様の正義が来るように祈ります。

どうか、悪者どもや不法を行なう者どもといっしょに、私をかたづけないでください。彼らは隣人と平和を語りながら、その心には悪があるのです。

彼らのすることと、彼らの行なう悪にしたがって、彼らに報いてください。その手のしわざにしたがって彼らに報い、その仕打ちに報復してください。(3-4)

多くの詩篇で、ダビデは神様が敵を罰するように祈ります。多くの人々はそれを読む時、「でも、私たちは敵を愛するべきではないでしょうか?どうして、ダビデはそのように祈ったのだろう」と思います。

しかし、私たちは二つのことを覚えておかなければなりません。

一つ目は、ダビデはいつも正義を神様の手に委ねたということです。自分の手で復讐しませんでした。むしろ、彼はいつも自分の敵を憐れみました。特に、サウルとアブサロムに対して、ダビデは憐れみの心を持っていました。

二つ目は、神様は私たちの敵に対する怒りの叫びを理解してくださいますが、私たちがその敵のために祈る時、神様の心に触れるということです。

ダビデが祈った後、再び喜びがダビデの心に注がれました。どうしてでしょうか。なぜなら、ダビデは神様がその祈りを聞いて、応えてくださる確信があったからです。

ほむべきかな。主。まことに主は私の願いの声を聞かれた。

主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。

主は、彼らの力。主は、その油そそがれた者の、救いのとりで。(6-8)

そして、ダビデは自分自身のために祈るだけではなく、彼が愛する人々のためにも祈りました。つまり、自分の民のために祈りました。

どうか、御民を救ってください。あなたのものである民を祝福してください。どうか彼らの羊飼いとなって、いつまでも、彼らを携えて行ってください。(9)

私たちは苦しんでいるかもしれませんが、私たちの周りの多くの人々も苦しんでいることを思い出すべきです。だから、自分自身のために祈るだけではなく、周りの人々のために祈りましょう。

そして、神様があわれみの手で私たちに触れてくださったように、私たちも周りの人々に、あわれみの手で触れましょう。

カテゴリー
詩篇18-

神様を待ち望む

私たちは神様を恐れるなら、他の物を恐れる必要はありません。詩篇27篇で、その真理を見ることができます。

ダビデはこう歌いました。

主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。

悪を行なう者が私の肉を食らおうと、私に襲いかかったとき、私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた。

たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。(詩篇27:1-3)

困った時、ダビデの最初の思いは、「神様!助けて!」ではありませんでした。むしろ、彼の最初の思いは、神様を求めることでした。また、救い主との交わりを慕いました。だから、彼はこう祈りました。

私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。(4)

多くの場合、私たちは困った時に、「助けてください」と祈ります。けれども、ダビデが祈ったのは、「あなたを知りたいです。あなたを仰ぎます。あなたとの関係が欲しいです。」ということです。

どうして、彼はそう祈ったのでしょうか。なぜなら、自分自身を神様の手に委ねたら、神様が彼を守ってくださることを知っていたからです。ダビデはこう歌いました。

それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。

今、私のかしらは、私を取り囲む敵の上に高く上げられる。私は、その幕屋で、喜びのいけにえをささげ、歌うたい、主に、ほめ歌を歌おう。(5-6)

私は8節が大好きです。

あなたに代わって、私の心は申します。「わたしの顔を、慕い求めよ」と。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。

神様は私たちを呼びます。「私の顔を慕い求めなさい。」

どれほど、私たちがそうしないことで心の中に平和がないでしょうか。むしろ、私たちは自分の問題に焦点を当てるので、圧倒されます。

もし、私たちがその問題に焦点を当てずに、神様に焦点を当てたら、どれほど私たちの人生は良くなるでしょうか。

他の人々は私たちを裏切ったり、がっかりさせたりするかもしれませんが、神様は決してそうされません。だから、ダビデは歌いました。

私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。(10)

そして、神様の導きと神様からの救いのために祈った後、ダビデはこれを宣言しました。

ああ、私に、生ける者の地で主のいつくしみを見ることが信じられなかったなら――(13)

良い時に、「神様は良い方」と言うのは簡単なことです。けれども、悪い時に、どれほど私たちは神様が良い方であることを宣言するでしょうか。

ダビデは神様を見つめたので、辛い時でも、「神様は良い方」と言うことができました。

だから、ダビデは苦しんでいる人にこう言います。

待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。(14)

主よ。苦しむ時に、私があなたを待ち望むことを助けてください。私があなたが良い方であることを信じ続けることを助けてください。あなたが見えなくても、あなたの臨在を感じなくても、私があなたが私と一緒におられることを思い出すように。

私の一つの願いはあなたを知ることです。だから、あなたが呼ぶ時、私があなたの声を聞くことができるように。そして、私にあなたを求める心を与えてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

カテゴリー
詩篇18-

恵みによって、神様の御前に聖いもの

もう一度、ダビデがいつこの詩篇を書いたか知りたいです。

サウルから逃げた時に詩篇26篇を書いたのでしょうか。もしくは、アブサロムから逃げた時にこの詩篇を書いたのでしょうか。それとも、他の時にこの詩篇を書いたのでしょうか。

ダビデの言葉を見ると、多くの人々は彼がサウルから逃げた時にこの詩篇を書いたと思うでしょう。なぜなら、彼はこう書いたからです。

私を弁護してください。主よ。私が誠実に歩み、よろめくことなく、主に信頼したことを。

主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。

あなたの恵みが私の目の前にあり、私はあなたの真理のうちを歩み続けました。(詩篇26:1-3)

ウリヤとバテ・シェバの事件の後、ダビデはその言葉を書くことができたでしょうか。その事件の前、つまり、サウルから逃げた時、その言葉はもっと言いやすかっただろうと思います。

てはいえ、ダビデはバテ・シェバとの罪の後で、この詩篇を書いたかもしれません。

けれども、その罪の後で、どうしてダビデはそんな言葉が言えたのでしょうか。彼は本当に酷い罪を犯しました。

なぜなら、彼は神様の赦しの深さをよく理解していたからです。つまり、神様の赦しとあわれみによって、ダビデは雪よりも白くなりました。神様は彼の罪を本当に除いて清めてくださいました。(詩篇51)

だから、彼が「私は誠実に歩む」と言う時、その意味は彼が決して罪を犯していないという事ではありません。むしろ、神様が彼の罪を除いて清めてくださったことによって、ダビデはその言葉を言うことができました。(エレミヤ書31:34)

神様のあわれみによって、ダビデは正しい道に戻りました。また、彼は神様が計画された通りにもう一度生きはじめました。だから、ダビデは神様をほめたたえました。

主よ。私は手を洗ってきよくし、あなたの祭壇の回りを歩きましょう。

感謝の声を聞こえさせ、あなたの奇しいみわざを余すことなく、語り告げましょう。(6-7)

また確信を持って、彼は言いました。

私の足は平らな所に立っています。(12)

時々、私たちは振り返って自分の失敗を思い出します。私たちの罪を思い出します。そして、サタンは私たちを責めます。「ほら、あなたは絶対だめです。あなたの人生は本当にめちゃくちゃになった。」

けれども、その時、私たちは恥ずかしがらずにサタンにこう言えるのです。

「それはそうです。しかし、神様が私の罪を赦してくださり、神様はもうその罪を思い出されません。神様が私を責められないので、あなたには私を責める権利がありません。

だから黙って、出ていきなさい。私は神様の子です。私はもう赦されました。また、神様の目には私は聖い者です。」

カテゴリー
詩篇18-

神様に叫ぶ

私は、よくダビデの詩篇の背景を知りたいです。時々、ある詩篇のタイトルで、その背景が書かれています。けれども、この詩篇では、その背景が書かれていません。

詩篇25篇で、ダビデはトラブルの中で神様に叫びました。彼はこう歌いました。

主よ。私のたましいは、あなたを仰いでいます。

わが神。私は、あなたに信頼いたします。(詩篇25:1-2)

つまり、「私のすべてをあなたに捧げます。私のすべてはあなたのものです。あなたを信頼するから。」

その言葉を言うことは簡単です。とはいえ、その言葉を生きるのは難しいことです。私はよく神様に捧げたものを取り戻します。多くの場合、私は信仰を持たないので、神様を信頼しません。

けれども、私は失敗しても、ダビデのようにその言葉を叫びます。

そして、ダビデはこう祈りました。

主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください。

あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。(4-5)

この箇所では、私たちはダビデの謙遜な態度を見ることができます。私たちはしばしば、すべてのことを知っているかのような態度を持ち、神様に相談する必要がないと思いがちです。

しかし、ダビデはへりくだって、神様に言いました。「私はすべてのことを知りません。最も良い道を知りません。だから教えてください。導いてください。」

どうしてダビデは神様の道を求めたのでしょうか。それは、ダビデが神様を愛し、神様を喜ばせたかったからです。だから彼は「あなたは救いの神です。私はあなたを待ち望みます。」と言いました。

そして、ダビデは請いました。

主よ。あなたのあわれみと恵みを覚えていてください。それらはとこしえからあったのですから。

私の若い時の罪やそむきを覚えていないでください。あなたの恵みによって、私を覚えていてください。主よ。あなたのいつくしみのゆえに。。。

主よ。御名のために、私の咎をお赦しください。大きな咎を。(6-7,11)

ダビデはアブサロムから逃げた時、この言葉を書いたのでしょうか。もしそうなら、多分、バテ・シェバとの罪について考えたかもしれません。神様はダビデを赦されましたが、その罪は結局ダビデを追放に導きました。だから、ダビデは祈りました。

「私の咎は大きいけれども、どうか赦してください。
私はあなたの赦しに値しません。しかし、あなたの恵みとあわれみによって、どうか赦してください。」

多くの場合、私たちが振り返る時、私たちの罪は神様に赦されましたが、その罪が結局私たちのトラブルを起こしたことが分かります。その時、私たちは、「神様は本当に私を赦されたのだろうか。」と思います。

けれども、私たちが心から悔い改めたら、神様は私たちをきっと赦してくださいます。そして、私たちが赦しに値しないのに、裁きの日に、神様は私たちにあわれみを与えてくださいます。

それでも、神様は、この世における罪の結果を取り去らないかもしれません。しかし、ダビデの時と同じように、神様は私たちと共にいて、支えてくださいます。

だからダビデは歌いました。

主は、いつくしみ深く、正しくあられる。それゆえ、罪人に道を教えられる。

主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる。

主の小道はみな恵みと、まことである。その契約とそのさとしを守る者には。(8-10)

つまり、私たちが罪を犯しても、神様を求め続けたら、神様は私たちを決して諦めません。神様は私たちを導き続け、教え続けてくださいます。

もちろん、私たちはダビデと大きな違いがあります。それは、私たちがモーセの律法の下に生きていないことです。だから、私たちが罪を犯しても、神様の私たちに対する愛と忠実さは決して変わりません。

パウロはこう書きました。

私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。(第二テモテ2:13)

そして、ダビデは神様の守りのために祈りました。

私のたましいを守り、私を救い出してください。私が恥を見ないようにしてください。私はあなたに身を避けています。

誠実と正しさが私を保ちますように。私はあなたを待ち望んでいます。(20-21)

だから、ダビデはこの詩篇を始めたように、この詩篇を終えます。彼は自分の魂を神様の御手に委ね、神様を待ち望みました。

試練の中で、私たちもそのようにしましょう。

カテゴリー
詩篇18-

王様のために心を整える

詩篇23篇で、私たちは神様を羊飼いとして見ました。詩篇24篇では、神様を王として見ます。

神様はどのような理由で私たちの王であると主張しておられますか?神様は私たちの創造主だからです。ダビデはこう歌いました。

地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。

まことに主は、海に地の基を据え、また、もろもろの川の上に、それを築き上げられた。(詩篇24:1-2)

大体すべての人々は、もし誰かが何かを自分の手で、また自分の原料で作ったら、その物がその人に属することを認めます。

そのように、神様はこの世の全てを造られたから、すべては主の物です。神様は私たち皆をも造られたので、私たちも神様に属します。そして、いつか私たちの王の前に私たち皆は、自分のことを申し開きすることになります。

その日、誰が神様の前に立てるでしょうか。

手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。

その人は主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。

これこそ、神を求める者の一族、あなたの御顔を慕い求める人々、ヤコブである。(4-6)

この箇所によれば、「良い人生」を生きることは不十分です。

神様をあなたの王として認めなくてはなりません。あなたの神として認めなくてはなりません。また、あなたの救い主として認めなくてはなりません。それに、あなたは神様を求める心が必要です。

神様にとって、それらは大切なことです。神様は、毎日私たちが神様に信頼することを望んでおられます。その態度によって、アブラハムは救われました。

アブラハムは何回も罪を犯しましたが、心の中で神様に信頼していたので、彼は神様の目には義人と認められました。

その信仰によって、旧約聖書の人々も、新約聖書の人々も、私たちも救われました。

神様はそのような人を祝福し、裁きの日に「無罪」と宣言されます。

あなたはどうですか。神様をあなたの王として認めていますか。あなたの心を王のために整えていますか。ダビデはこう書きました。

門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。

栄光の王とは、だれか。強く、力ある主。戦いに力ある主。

門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。

その栄光の王とはだれか。万軍の主。これぞ、栄光の王。(7-10)

私たちの心の門を開いて、私たちの王を歓迎しましょう。そして、その王に従いましょう。

カテゴリー
詩篇18-

私たちの羊飼い

多分、詩篇23篇は一番有名な詩篇です。なぜなら、この詩篇は、私たちの神様との親しい関係を表すからです。

他の詩篇では、私たちは神様を王や、裁判官や、正義の味方や、勇士として見ます。けれども、この詩篇では、私たちは神様を羊飼いとして見ます。

実は、私たちが羊と呼ばれることは、賛辞ではありません。世界中で、多分羊は一番馬鹿な動物です。羊飼いがいないと、羊は全く迷ってしまいますから。

私たちもその通りです。私たちの多くは、自分自身が他の人よりも賢いと思いたいです。また、私たちは神様を必要としないと思います。

しかし、神様がおられないと、私たちの人生はめちゃくちゃになります。神様がおられないと、私たちは全く迷ってしまいます。

ダビデは、「主は私の羊飼い」と書きました。「私たちの羊飼い」と書かなかったのです。つまり、多くの羊がいるかもしれませんが、神様はそれぞれの羊を愛しておられます。

迷っている羊のたとえ話のように、一匹の羊が羊飼いから離れると、羊飼いはその羊を探して救います(ルカ15:3-7)。

神様が私たちを愛しておられるので、ダビデは私たちが乏しいことがないと言います。イエス様も同じことを教えました。天の父は鳥に餌をやり、花を美しく着せるように、天の父は私たちを世話してくださいます(マタイ6:25-30)。

それに、神様は私たちに平和と安らぎを与えてくださいます。羊が不安で恐れているとき、全然眠れません。しかし良い羊飼いが羊を慰めると、羊は平安を持ってすぐに眠れます。

そして、私たちが重荷を持って疲れているとき、主が私たちのたましいを生き返らせてくださいます。

私たちが新しい日に向かうとき、神様は「彼は疲れているけど、私が彼に力をこれぐらい与えると、彼は何となく今日のチャレンジを乗り越えるだろう」とは言われません。

むしろ、神様は私たちを本当に生き返らせてくださいます。

私たちの羊飼いとして、神様は私たちを正しい道に導いてくださいます。その道がいつも楽しいわけではありません。ダビデが言ったように、時々その道は死の陰の谷を通ります。その時が暗くて、私たちが希望がないと思うこともあります。

しかし、ダビデは言います。「その暗い所を通る時、死に向かっても、私は決して恐れません。」

どうしてでしょうか。

「あなたが私とともにおられますから。」

また、ダビデは歌いました。

あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。(詩篇23:4)

羊飼いは、羊をライオンや狼から守るため、むちを使いました。また、羊を導くため、杖を使いました。

だから、ダビデの意味は「暗い時でも、あなたの守りと導きが見える」ということです。

神様は私たちの全ての逆境を取り去らないかもしれませんが、ダビデは私たちの必要とそれ以上を与えてくださると言います。だから5節に、彼はこう歌いました。

私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。(5)

そして、信仰と喜びによってダビデは歌いました。

まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。(6)

あなたはどうですか。神様はあなたの羊飼いでしょうか。神様だけにあって、あなたは私たち皆が求める平安と喜びと満足が見つけることができます。

カテゴリー
詩篇18-

苦しみを理解しておられる神

苦しみについてのメッセージで、私の牧師はこう言いました。

「神様は私たちの苦しみを取り除いてくださらないかもしれないけど、それは神様がおられない理由ではありません。時々、神様は私たちの望み通りに祈りに応えられないかもしれないけど、それは神様が私たちを愛しておられないわけではないのです。」

詩篇22篇では、その真理を見ることができます。ダビデは叫びました。

わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。

わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。(詩篇22:1-2)

神様が遠く離れたようで沈黙しておられた時でも、ダビデはこう言います。

けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。

私たちの先祖は、あなたに信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。

彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。

彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。(3-5)

つまり、「あなたがまだ存在しておられるのを信じます。あなたは私の先祖が信頼した神で、彼らはあなたに信頼すると、結局恥を見ませんでした。だから、私はあなたが見えなくても、あなたが何をされているか見えなくても、私はあなたに信頼し続けます。」

それでも、ダビデは自分のトラブルについて神様に伝え続けました。

しかし、この詩篇で、私たちはもう一つのことを見ます。この詩篇はイエス様の苦しみも預言しています。

この詩篇は、十字架でイエス様の状態を預言しています。(14-17)

また、イエス様がからかわれることを預言しています。(7-8)

また、人々がイエス様の着物をくじ引きにすることを預言しています。(17-18)

そして、イエス様の犠牲からの勝利や、救いや、祝福を預言します。(22-31)

だから、イエス様は十字架にかけられた時、こう叫ばれました。「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)

その時、イエス様はこの詩篇を自分の状況に当てはめられました。

私たちは、この箇所から何を学ぶことができるでしょうか。

私たちが苦しむ時、神様が遠く離れたように感じ、また神様が私たちを愛しておられないと思うかもしれませんが、それはただ私たちの感情です。そして、その感情は現実とは異なります。

現実は、神様がまだ私たちと共におられることです。また、神様は私たちをまだ愛しておられます。

だから、ダビデは歌います。

まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。(24)

あなたは苦しむ時、この箇所を思い出しましょう。神様は私たちの悩みを軽く見ておられません。神様は私たちから隠れません。むしろ、神様は私たちの叫びを聞いてくださいます。また、神様は私たちの苦しみをよく理解しておられます。

どうして、私はそんなことが言えるのでしょうか。なぜなら、イエス様は苦しまれたからです。イエス様にも神様に捨てられた感じもありました。イエス様も苦しみをよく経験されました。

しかし、私たちが神様に信頼し続けると、神様はイエス様の苦しみを神様の栄光のために利用されたように、私たちの苦しみも神様の栄光のために利用されます。

カテゴリー
詩篇18-

勝利と祝福がどこから来るか思い出す

何かがうまく行かない時や思い通りにならない時、私たちはすぐに神様について考えます。

けれども、勝利の時、また、祝福の時はどうでしょうか。その時、私たちはすぐに神様をほめたたえるでしょうか。もしくは、私たちは誇って、自分の偉さについて考えるでしょうか。

ダビデにも、その罠で倒れる時もありました。(第二サムエル記11-12章;24章)

しかし、詩篇21篇で、ダビデは勝利と祝福がどこから来るかを思い出しました。だから、彼はこう歌いました。

主よ。王はあなたの御力を、喜びましょう。あなたの御救いをどんなに楽しむことでしょう。

あなたは彼の心の願いをかなえ、彼のくちびるの願いを、退けられません。セラ

あなたは彼を迎えてすばらしい祝福を与え、彼のかしらに純金の冠を置かれます。

彼はあなたに、いのちを請い求めました。あなたは彼に、とこしえまでの長い日々を与えられました。

御救いによって彼の栄光は、大きい。あなたは、尊厳と威光を彼の上に置かれます。

あなたは、とこしえに彼を祝福し、御前の喜びで彼を楽しませてくださいます。(詩篇21:1-6)

それに、ダビデは、どうして神様が彼を祝福してくださったか思い出しました。

まことに、王は主に信頼し、いと高き方の恵みによってゆるがないでしょう。(7)

勝利の時、あなたの考えはどこに向くでしょうか。

自分の力と知恵について自慢するでしょうか。もしくは、神様をその御業のために賛美するでしょうか。

あなたは、おもに自分の力と能力に頼るでしょうか。もしくは、おもに神様とその力に頼るでしょうか。

カテゴリー
詩篇18-

勝利の鍵

多分、戦争の前にダビデはこの詩篇を書いたでしょう。だから、イスラエル人は神様がダビデとその軍隊を祝福してくださるように祈りました。

苦難の日に主があなたにお答えになりますように。ヤコブの神の名が、あなたを高く上げますように。

主が聖所から、あなたに助けを送り、シオンから、あなたをささえられますように。

あなたの穀物のささげ物をすべて心に留め、あなたの全焼のいけにえを受け入れてくださいますように。セラ

主があなたの願いどおりにしてくださいますように。あなたのすべてのはかりごとを遂げさせてくださいますように。

私たちは、あなたの勝利を喜び歌いましょう。私たちの神の御名により旗を高く掲げましょう。主があなたの願いのすべてを遂げさせてくださいますように。(詩篇20:1-5)

それは素晴らしい祈りです。けれども、そのあと、ダビデは彼らに勝利の鍵を思い出させます。

ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。

彼らは、ひざをつき、そして倒れた。しかし、私たちは、立ち上がり、まっすぐに立った。(7-8)

多くの場合、私たちは神様に相談せずに計画を立てて、「神様、私たちの計画を祝福してください」と祈ります。そして、私たちの計画がうまくいかないと、「どうしてでしょうか?」と尋ねます。

けれども、ダビデは自分の民に、そして私たちに思い出させます。成功の鍵は自分の力や知恵ではありません。むしろ、成功の鍵は神様に信頼することです。

自分の力と知恵に頼ると、結局あなたは倒れます。しかし、神様に信頼すると、結局あなたは立ち上がり、まっすぐに立つのです。

あなたはどうでしょうか。自分の力と知恵に頼りながら、神様の祝福のために祈っているでしょうか。それとも神様に頼り、信頼しているでしょうか。

戦う時だけではなく、計画を立てる時にも神様を求めているでしょうか。

私たちの知恵と力ではなく、神様とその言葉が私たちの基礎となりますように。

カテゴリー
詩篇18-

神様はどのようにご自身を示されるのか

私は、詩篇19篇が大好きです。この詩篇で、神様がどのようにご自身を現されるかを教えてくださいます。

最初に、神様は被造物を通してご自身を現しておられます。ダビデはこう歌いました。

天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。

昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。

話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。

しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。(詩篇19:1-3)

多分、パウロはこの詩篇について考えたとき、この言葉を書いたでしょう。

それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。

神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。(ローマ1:19-20)

時々、人々はこう訊きます。「神様について聞いたことがない人はどうなるでしょうか。彼らはキリストの名前について聞いたことがないのに、裁かれるのでしょうか。」

その答えは、「はい、裁かれます。」

けれども、その理由は、彼らがキリストの名前を聞いたことがないから裁かれるわけではありません。彼らが知っていることによって裁かれます。

つまり、彼らは被造物を見た時、心の中で、この世が偶然の産物ではないと悟ることができます。

また、彼らの偶像がこの世を造ることができなかったと分かったと思います。なぜなら、彼らは自分の手でその偶像を造ったからです。それでも、彼らはその知識を拒絶しました。

人々が神様が与えてくださった知識を拒絶するなら、神様がもっと情報を与える義務はありません。もし、神様がもっと情報を与えるのであれば、それはただ恵みによって与えてくださるのです。私たちはその情報を持つ権利がありません。

実は、神様についての情報のすべては賜物なのです。

しかし、もし福音が届かない国の人が、空を仰いで、「私はこの世を造らなかった。私が知っている人々もこの世を造らなかった。私が作った偶像もこの世を造らなかった。だから、この世を造った方、自分自身を私に現してください。」と言うなら、神様はきっとその人の祈りに応えるでしょう。

どうして私はそう信じるのでしょうか。それは、パウロがこう書いたからです。

神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。(第一テモテ2:4)

そのことを疑うなら、コルネリオの話を読んでください(使徒の働き10章)。

彼はイエス様を救い主として受け入れなくてはならないことを知りませんでした。けれども、彼は神様について聞いたことを信じたので、神様はもっと情報を与えました。

つまり、神様はペテロを送って、ペテロがコルネリオとその家族にイエス様のことを伝えたので、彼らは信じて救われました。

神様は被造物を通してご自身を現されますが、御言葉を通しても現されます。そして、被造物の知識のように、人々はその御言葉を信じるかどうか選ばなくてはなりません。

私たちは、その言葉が完全で確かなものであることを信じるかどうか選ばなくてはならないのです。(7)

神様の御言葉が正しいものであることを信じるかどうか選ばなくてはならない。(8)

神様の言葉が私たちに喜びと光を与えるものであることを信じるかどうか選ばなくてはならない。(8)

ダビデは信じることを選びました。けれども、多くの人はその選択をしません。

しかし、私たちが神様の御言葉をどのように考えるかは、私たちが神様をどのように考えるかに影響を与えます。もし神様の言葉を拒絶すると、私たちの神様についての考え方は間違ってしまいます。

けれども、私たちが神様をありのままに見ると、私たちは神様を愛し、喜ばせたいと望むようになります。ダビデもそうしました。だから、彼はこう祈りました。

だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。

あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。

私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。(詩篇19:12-14)

カテゴリー
サムエル記第二 詩篇18-

私たちの祈りを聞き、助けと力を与えてくださる神

「神様はどこでしょうか。」

時々、試練の中で、私たちはこのように問いかけます。

「神様は私を見ていてくださるでしょうか。私の声を聞いてくださるでしょうか。」

ダビデもそのように感じることがあったのではないでしょうか。

けれども、自分の人生を振り返った時、ダビデはこの詩篇を書きました。

その時、ダビデは神様が自分をどれほど守り、祝福してくださったかを悟りました。そして、彼はこう書きました。

死の波は私を取り巻き、滅びの川は、私を恐れさせた。

よみの綱は私を取り囲み、死のわなは私に立ち向かった。(第二サムエル記22:5-6)

ダビデは、サウルやアブシャロムのことについて考えていたかもしれません。

また、ある戦いの記憶が頭をよぎっていたのかもしれません。その戦いの日、イシュビ・ベノブというペリシテ人が、疲れ果てたダビデに向かって「今、あなたを殺す」と宣言しました。

ダビデは、命の危険を感じて本当に恐れていたに違いありません。けれども、アビシャイがダビデを助け、そのペリシテ人を打ち倒しました。

それが、ダビデにとって最後の戦いとなりました(第二サムエル記21:16–17)。

そのことを思い起こしながら、ダビデは歌いました。

私は苦しみの中に主を呼び求め、わが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、私の叫びは、御耳に届いた。。。

主は、いと高き所から御手を伸べて私を捕らえ、私を大水から引き上げられた。

主は、私の強い敵と、私を憎む者とから私を救いだされた。彼らは私より強かったから。

彼らは私のわざわいの日に私に立ち向かった。だが、主は私のささえであった。

主は、私を広い所に連れ出し、私を助け出された。主が私を喜びとされたから。(第二サムエル記22:7,17-20)

この言葉を見るたびに、神様が私たちを罪からどのように救ってくださったかを思い起こします。

私たちの罪によって、私たちは死に値していました。しかし、私たちが神様に向かって叫んだ時、神様は私たちの声を聞き、大水から引き上げてくださいました。

自分自身では救われることができない時、神様は私たちを救い、広いところへ導き出してくださいました。

さらに、私たちが神様の助けが必要だと気付く前に、神様は人間としてこの世界に来られ、私たちの罪のために死んでくださいました。

だからこそ、ダビデのように私たちもこう言うことができます。

主はわが巌、わがとりで、わが救い主、

わが身を避けるわが岩なる神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。私を暴虐から救う私の救い主、私の逃げ場。(第二サムエル記22:2-3)

神様は私たちを救うだけではなく、私たちが戦う時には力を与えてくださいます。ダビデはこう書きました。

この神こそ、私の力強いとりで。私の道を完全に探り出される。

彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる。(第二サムエル記22:33-34)

神様は私たちを救われた後、「では、自分自身の力で生きなさい」とは決して言われません。

むしろ、私たちがこの人生を歩んでいる間、神様は常に私たちと共に歩み、助けてくださいます。

鍵となるのは、私たちが神様に目を留め、謙遜に従うことです。

そして、ダビデはこう言いました。

あなたは、恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ、

きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方。

あなたは、悩む民を救われますが、高ぶる者に目を向けて、これを低くされます。(第二サムエル記22:26-28)

ペテロもこう書きました。

ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(第一ペテロ5:6-7)

あなたは悲しんでおり、神様が本当におられるのか、また神様があなたを愛してくださっているのか問いかけているかもしれません。

そのような時は、ダビデの歌を思い出してください。そして、その歌を心の中で歌い続けましょう。

ダビデを助けてくださった神様は、きっとあなたも助けてくださいます。

だからこそ、謙遜な心で神様に従い続けましょう。