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詩篇4-

神様のようになる

ダビデが困った時、つまり、人々が彼を殺そうとしたとき、彼は詩篇17篇を書きました。

何度も、人々はダビデを殺そうとしましたが、ダビデは決して彼らのレベルに降りませんでした。つまり、ダビデは彼らのようになることを拒絶しました。彼はこう書きました。

あなたは私の心を調べ、夜、私を問いただされました。あなたは私をためされましたが、何も見つけ出されません。

私は、口のあやまちをしまいと心がけました。人としての行ないについては、あなたのくちびるのことばによりました。

私は無法な者の道を避けました。私の歩みは、あなたの道を堅く守り、私の足はよろけませんでした。(詩篇17:3-5)

私たちは、よく、「私には選択肢などない。私を憎む人を扱うなら、ルールをちょっと曲げなくてはならない。そうしないと、彼は私をずっとひどく扱うことになるだろう。」と思います。

しかし、ダビデは神様の言葉に従い続け、復讐を神様の手に委ねました。彼は叫びました。

神よ。私はあなたを呼び求めました。あなたは私に答えてくださるからです。

耳を傾けて、私の申し上げることを聞いてください。あなたの奇しい恵みをお示しください。

立ち向かう者から身を避けて右の手に来る者を救う方。私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。

私を襲う悪者から。私を取り巻く貪欲な敵から。(6ー9)

そして私たちは、ダビデの最も深い望みを見ます。彼は言いました。

「主よ。私の敵はこの世の物を求めているので、その物をどうぞ与えてください。けれども、私が求めるのは、あなたの顔を見ることです。また、私は目覚める時、私があなたのようになるなら、満足します。」(14-15)

だから、神様はダビデについてこう言われました。「彼はわたしの心にかなった者です。」

私は若い時、この歌を聞いて、本当に気に入りました。

私が大きくなると、あなたのようになりたいです。
あなたが愛するように、私も愛することを学びたいです。

周りの人々が微笑んで、私についてこう言ってほしいです。
「その人はきっと天の父の子です。」

私は大きくなったら、あなたのようになりたいです。

神様は私たちのために同じことを望んでおられます。

パウロはこう書きました。

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。

これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(第二コリント3:18)

私たちの目的がこの世の物を得ることではなく、また、私たちを憎む人のようにならないようにしましょう。

むしろ、私たちは私たちを愛している天の父のようになることを目指しましょう。そうすれば、周りの人々が私たちを見ると、天の父を見ることができるでしょう。

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詩篇4-

命の道

人は皆、生きがいのある人生を求めるものです。

ダビデには多くの苦しみがありましたが、それでも彼は生きがいのある人生を歩みました。詩篇16篇で、ダビデは「命の道」について語っています。

しかし、「命の道」とは単なる生き方のことではありません。「命の道」とは神様ご自身のことです。だから、ダビデはこう言いました。

私は、主に申し上げました。

「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」(詩篇16:2)

その言葉に、ダビデの喜びが見えます。「あなたこそ、私の主。」

自分の人生を支配することが本当の喜びだと思う人もいます。しかし、本当の喜びは、神様を私たちの王とし、神様に従うことです。

なぜでしょうか。なぜなら、神様のほかに本当の幸いはないからです。神様はすべての良い物の源だからです。

ヤコブもその真理を理解しました。

すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。(ヤコブ1:17)

だから、喜びの源から離れると、本当の喜びを見つけることはできません。

けれども、多くの人々は神様から離れて喜びを見つけようとします。だから、彼らはこの世の神々、つまりお金や持ち物やセックスから喜びを求めます。

それら自体は悪いものではありませんが、もしあなたが神様から離れたら、結局それらのものが虚しいことに気づくでしょう。

だから、ダビデはそのような人についてこう言います。「彼らのことは感心しない。今、彼らは成功しているかもしれないけど、結局彼らは苦しむことになるでしょう。だから、私はあなたに従う人生を喜びます。」(3-4)

そして、ダビデは神様に仰ぎ、歌います。

「主よ。他のすべてのものよりも、私はあなたを求めます。あなたは私の遺産です。私が一番大事にするのはあなたとの関係です。その関係によって、私の人生は生きがいがあるものになります。」

時々、人々は神様の命令が重荷だと思います。けれども、ダビデはそのようには考えませんでした。むしろ、ダビデは歌いました。

測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。(6)

ダビデには、神様と良い関係があったので、神様の命令に従うのは喜びでした。彼が分かっていたのは、その命令が喜びを取り去るためではなく、喜びを与えるためだということです。

また、その命令によって、神様の計画を知り、どのように生きるべきかが分かりました。

だから、ダビデは神様の言葉を喜んで聞いていました。神様の助言を聞き、神様が彼のそばにいらっしゃったので、彼は大変な状態の中でも、決して揺るぐことがありませんでした。(7-8)

それに、死んでも、彼には希望がありました。

まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。(10)

イエス様の復活によって、その言葉は成就されました。イエス様はこう約束されました。

わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。(ヨハネ14:19)

ダビデは彼の考えを要約して歌います。

あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。(11)

あなたは命の道を知りたいでしょうか。命の道は宗教的なルールを守ることではありません。また、宗教的な習慣を実践することでもありません。

むしろ、イエス様にあって、命の道を見つけます。イエス様が私たちの主なら、生きがいのある人生を見つけます。

だから、イエス様はこう言われました。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。(ヨハネ14:6)

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詩篇4-

聖い人生

ある牧師が言いました。「聖さは完全という意味です。」

つまり、私たちが聖い人生を生きるなら、私たちの人生は壊れずに、癒されて完全になります。なぜなら、私たちは神様が計画した通りに生きるからです。

昨日、私が言ったのは、人々が神様を拒絶すると、彼らの道徳観念は堕落するということです。しかし、この詩篇で、私たちは完全な人生がどんな人生であるかを学びます。どうして聖い人になることは大切なのでしょうか。

ダビデはその理由を与えます。

主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。(詩篇15:1)

つまり、すべての人々は神様の前に来ることができません。

へブル人への手紙の著者も、そのことをはっきりと言いました。

聖くなければ、だれも主を見ることができません。(12-14)

聖さとは、何でしょうか。

それは、正しく歩むことです。つまり、周りの人々は公正に罪のせいであなたを責めることができません。

もちろん、あなたを責めようとする人もいます。イエス様が罪のない方なのに、その敵はいつもイエス様を責めました。とはいえ、彼らは公正に責めることができなかった。

あなたはどうですか。周りの人々はあなたを罪のために公正に責めることができますか。

また、聖さは義を行なうことです。聖さは、悪いことを犯さないことだけではなく、良いことをすることです。ヤコブはこう書きました。

こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。(ヤコブ4:17)

そして、聖さは、心の中の真実を語ることです。あなたは真実を愛しているでしょうか。それとも、嘘がすぐにあなたの口から出るでしょうか。

「罪のない嘘」はどうでしょうか。相手の感情を考えずに真実を言うべきというわけではありません。しかし、愛を持って真実を語るべきです。(エペソ4:15)

また、聖さは人をそしらないことです。あなたは、どれくらい人の悪口を言うでしょうか。例えば、どれくらいあなたの妻や夫、お客さんや同僚について文句を言うでしょうか。聖い人はそんなことをしません。

また、聖さは悪を犯す人を感心せずに、善を行なう人を感心することです。

あなたのロールモデルは誰でしょうか。神様を愛する人、また神様に仕える人のようになりたいでしょうか。それとも、神様を拒絶する人のようになりたいですか。

誰の価値観を受け入れるでしょうか。

そして、たとえ損になっても、聖い人は立てた誓いを変えません。自分にとって不利な条件でも、あなたは自分の約束を守るでしょうか。

さらに、聖い人は気前がよく、苦しんでいる人を喜んで助けます。彼らが困難な時に、その不運につけ込むでしょうか。それとも、神様の愛で彼らを包むでしょうか。

最後に、聖さは正直に生き、正義を愛することです。相手の立場を考えずに、神様の愛で彼らを扱うでしょうか。あなたには利益がないのに、彼らを正直に扱うでしょうか。

ダビデは、そのような人が完全になると言いました。またその人は決して揺るがない人となります。

あなたはどうですか。あなたは聖い人でしょうか。

良い知らせは、あなたがイエス様に属するなら、イエス様の血によってあなたが清められて、神様の目で見ると、あなたはもう完全だということです。あなたはもう聖い人です。

だから、裁きの日に、神様が私たちをご覧になる時、「無罪」と言われます。

それだけではなく、ペテロはこう記しました。

というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。(第二べテロ1:3)

つまり、私たちは自分の力で自分自身を変える必要がないのです。むしろ、私たちが聖い人生を生きるために神様は力を与えてくださいます。

だから、毎日聖い人生を生きようと努めましょう。ペテロはこうも書いています。

こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。

これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。(第二ペテロ5:1-8)

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詩篇4-

神様を拒絶すると

詩篇14篇と53篇は大体同じだから、今日それらについて話しましょう。

この詩篇では、人々が神様を拒絶した結果を見ます。

ある人は「神はいない」と言います。

聖書によれば、そのような人は愚か者です。愚か者というのは、「知能のない」という意味ではなく、「堕落している人」という意味です。

なぜなら、私たちが神様を拒絶すると、私たちは堕落に陥れてしまうからです。ダビデはこう書きました。

彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。(詩篇14:1)

あなたは、「ちょっと待ってください。神様を信じない良い人も知っています。それに、彼らはあるクリスチャンよりも良い人です。」と言うかもしれません。

それはそうかもしれません。しかし、人を人と比べるのは、人を神様と比べることとは全然違うことです。つまり、神様と比べると、私たちの罪の染みは明らかになります。

例えば、私たちを傷つけた人を心から許せないことがあります。

また、妻や夫に親切にできない時もあります。

さらに、私たちは短気になって、すぐに怒りを爆発させてしまうことがあります。

家や職場では、自己中心な態度を取ってしまうこともあります。

「でも、それは当然なことですよ。私たちは人間だから、誰も完璧じゃないです。」

けれども、もしそのことが当然だと思うなら、それは堕落した考え方です。

神様が人間を初めて造った時、そのことは全然当たり前のことではありませんでした。しかし、人間が神様を拒絶すると、そのことは「当然」になりました。

私たちが罪を当然だと思えば、それは堕落です。

私たちはいろんな言い訳を考えるかもしれませんが、神様の目に私たちは堕落しており、私たちの行動は忌まわしいものです。

私たちが神様から離れている間、私たちの道徳観念は堕落します。もし、私たちが善の源から離れたら、善を知っているとは言えません。

多くの人は神様から離れて、自分の道徳を造ろうと思いますが、神様の目で見ると、その道徳はいつも堕落します。

その結果は?

死です。また、裁きです。いつか、神様はこの世に戻って、この世を裁きます。

その日、神様に属する人は喜びます。けれども、神様を拒絶した人は恐れます。なぜなら、彼らは神様の聖さを見て、自分がどれほど堕落しているかを見ます。そして、彼らの言い訳が虚しいことを理解します。

だから、愚か者にならないでください。神様を認めて、私たちの王として受け入れましょう。ソロモンが言ったように、

主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。(箴言9:10)

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詩篇4-

神様、あなたはどこ?

時々、私たちは、「神様、あなたはどこ?」と思うことがあります。

詩篇13篇で、ダビデはそのように祈りました。

主よ。いつまでですか。

あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。いつまで私は自分のたましいのうちで思い計らなければならないのでしょう。

私の心には、一日中、悲しみがあります。

いつまで敵が私の上に、勝ちおごるのでしょう。(詩篇13:1-2)

時々、私たちは聖書の登場人物をスーパーヒーローのように考えます。私たちはダビデについて読む時、彼がいつも神様と親しい関係があったと思います。また、彼に問題があっても、神様の臨在を良く感じて、すぐに慰められたと思います。

けれども、私たち皆には霊的な砂漠の経験があります。その時、私たちは「神様はどこだろうか」と思います。また、私たちの祈りが天井に当たってすぐに落ちると感じることがあります。そして、どこを見ても、神様を見つけることができません。

だから、ダビデのように私たちは叫びます。

「神様、あなたはどこ?どうしてあなたは隠れているのですか?私の状態を見ていないのですか?私をもう愛していないのですか?

毎日、私の恐れと戦い、絶望と戦います。どれぐらいこれは続くのですか?助けてください。あなたがいらっしゃらないと、耐えられません。」

神様が遠いと感じる時、私たちはどうしたら良いでしょうか。

あなたの信仰にしがみつき続けてください。何も感じなくても、神様がまだあなたを愛していることを信じ続けてください。また、その気持ちがなくても、神様にあって喜んでください。

あなたは、「その気持ちがなくても、どのように喜ぶことができるでしょうか」と訊くかもしれません。

それは簡単なことではありません。けれども、ダビデの言葉を見ると、ヒントを見つけることができると思います。彼は歌いました。

私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます。私は主に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ。(5-6)

ダビデは、神様が過去に何をしてくださったかを思い出し、神様の慈しみに感謝しました。そうすると、彼は「過去に私を救い出した同じ神様は、きっと今も私を救い出します。」と分かりました。

そのように、私たちは神様が遠いと感じる時、神様が過去に何をしてくださったかを思い出すべきです。

特に、イエス様が十字架で何をしてくださったかを思い出すべきです。つまり、イエス様が私たちを愛して、この世に来て、私たちの罪のために死んでくださったことを思い出すのです。

イエス様がそのように私たちを愛されたなら、どうして私たちはその愛を疑うでしょうか。きっと今も私たちを助けてくださいます。

もう一つ覚えておいてください。私たちに気持ちがなくても神様を賛美することを選択することを、神様が近いと感じるから賛美することよりも、神様は喜ばれます。

また、神様の慈しみが見えなくても、その慈しみを信じ続けることを選べば、私たちの信仰は本当に成長します。

そして、結局神様は、もう一度自分自身を私たちに表してくださいます。

あるスティーブン・カーティス・チャップマンの歌も、そのことを教えています。

この場所で、私は神様を見いだせると思いました。
聖書を読み、跪いて祈りました。
私は待ち望み、天を仰ぎました。
けれども、太陽は全く照らしてはくれませんでした。

しかし、時にはイエス様は曇っている時に来られます。
時には、私たちはイエス様の御顔が見えません。
時には、空が暗いのです。

けれども、私たちが見えない時こそ、
神様から学ぶことがあります。
また、私たちが見えない時こそ、
私たちの信仰が成長する時でもあります。

だから、時には神様は雨の時にも来られます。
その時、私たちは苦しみ、「どうして?」と問いかけます。
「どうして神様はこんなに遠いのだろうか」と思います。

しかし、後で私たちが分かるのは、
「その時でも、神様は私と共におられた」ということです。

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詩篇4-

あなたの舌の主は誰?

詩篇12篇では、ダビデは忠実な人、また、敬虔な人がいないことを嘆きます。特に、ダビデは周りの人々の舌を嘆きます。彼はこう言いました。

人は互いにうそを話し、へつらいのくちびると、二心で話します。

主が、へつらいのくちびると傲慢の舌とを、ことごとく断ち切ってくださいますように。

彼らはこう言うのです。「われらはこの舌で勝つことができる。われらのくちびるはわれらのものだ。だれが、われらの支配者なのか。(詩篇12:2-4)

しかし、ダビデは主の御言葉についてこう言います。

主のみことばは混じりけのないことば。土の炉で七回もためされて、純化された銀。(6)

私たちがイエス様を主と呼ぶなら、イエス様は私たちの舌の主であるべきです。

イエス様はあなたの舌の主ですか。イエス様の言葉のように、私たちの言葉も土の炉で七回試され、純化された銀のようですか。私たちの言葉は清いですか。

それとも、嘘、傲慢、欺き、中傷が私たちの口から出ますか。または、ゴシップ、文句、汚い言葉が私たちの口から出ますか。

パウロはこう書きました。

悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。(エペソ4:29)

今日、あなたの口から、何が出ているでしょうか。

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詩篇4-

恐れに屈しない

詩篇11篇を読むと、私はネヘミヤの話について考えます。ユダヤ人がエルサレムの城壁の修理を止めるために、その敵がある祭司を買収して、ネヘミヤにこう言いました。

「あなたを殺すために敵が来ているので、主の宮に隠れなくてはなりません。」

けれども、ネヘミヤは答えました。

私のような者が逃げてよいものか。私のような者で、だれが本堂に入って生きながらえようか。私は入って行かない。(ネヘミヤ記6:11)

ネヘミヤのように、ダビデはこう書きました。

主に私は身を避ける。どうして、あなたたちは私のたましいに言うのか。

「鳥のように、おまえたちの山に飛んで行け。それ、見よ。悪者どもが弓を張り、弦に矢をつがえ、暗やみで心の直ぐな人を射ぬこうとしている。拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか。」(詩篇11:1-3)

ダビデとネヘミヤの状況は違いましたが、彼らには共通点がありました。彼らは恐れに屈することを拒絶しました。むしろ、彼らは神様に信頼することを選びました。

周りの人々は慌てて、「大変だ。どうしよう!」と言いましたが、ダビデとネヘミヤは堅く立って、動じませんでした。どうして彼らは怖がらなかったのでしょうか。

ダビデはこう書きました。

主は、その聖座が宮にあり、主は、その王座が天にある。その目は見通し、そのまぶたは、人の子らを調べる。

主は正しい者と悪者を調べる。そのみこころは、暴虐を好む者を憎む。(4-5)

つまり、「神様はここにおられます。神様は何が起こっているか知っておられます。神様はすべてをコントロールしておられます。また、神様は私を見守って、私を攻める人を扱ってくださいます。」

そして、ダビデはこう言いました。

主は正しく、正義を愛される。直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る。(7)

あなたはどうですか。ダビデのように、あなたは主に信頼していますか。あなたの世界が崩壊していると思う時、パニックに屈するでしょうか。

それとも、主があなたの砦ですか。主の手が見えなくても、その手があなたを覆うことを信じますか。主に100%信頼していますか。

イザヤはこう書きました。

立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。(イザヤ書30:15)

イスラエル人と違って、恐れに屈しないでください。むしろ、ダビデとネヘミヤのように、忠実な神様に信頼しましょう。

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詩篇4-

主に身を委ねる

詩篇10篇で、ダビデは祈りながら、ヨブの疑問を繰り返し問いかけます。彼は叫びます。

主よ。なぜ、あなたは遠く離れてお立ちなのですか。苦しみのときに、なぜ、身を隠されるのですか。(詩篇10:1)

そして、ダビデは、なぜ悪人が高ぶり、神様を拒み、周りの人々を苦しめているにもかかわらず、栄えているのかを尋ねます。(2〜11節)

だから12節で、ダビデは主に請います

主よ。立ち上がってください。神よ。御手を上げてください。どうか、貧しい者を、忘れないでください。

そのあと、ダビデは興味深いことを言います。

あなたは、見ておられました。害毒と苦痛を。彼らを御手の中に収めるためにじっと見つめておられました。

不幸な人は、あなたに身をゆだねます。あなたはみなしごを助ける方でした。(14節)

「不幸な人は、あなたに身をゆだねます」という表現は、私の心を打ちます。

普通、「委ねる」という言葉は、聖書では「捨てる」と訳されることがあります(例えば、ヨシュア記1:5)。

つまり、ある人がとても苦しんで、もうどうしても何もできないとき、お金への信頼を捨てたり、自分の力への信頼を捨てたりして、自分の人生のすべてを神様に捧げます。そして、神様にすべてを委ねます。

ダビデは、そのような人についてこう言います。

主よ。あなたは貧しい者の願いを聞いてくださいました。あなたは彼らの心を強くしてくださいます。耳を傾けて、みなしごと、しいたげられた者をかばってくださいます。(17-18節)

日本語では、「心を強くしてくださいます」と訳されます。けれども、「強くする」という表現は、ヘブル語ではもっと深い意味があります。「彼らの心を強くし、整え、導く」という意味です。

私たちが身を神様に委ねると、神様は私たちを励まし、神様の計画のために私たちの心を整え、導いてくださいます。

とはいえ、私たちの身を神様に委ねるというのは、どういう意味でしょうか。

一つ目は、私たちの疑いを捨て、神様に信頼することです。つまり、私たちはこう祈ります。「どうして、こんな大変なことが起こったか分かりません。どうして、あなたが遠く離れているようなのか分かりません。それでも、私はあなたに信頼します。」

ヨブはその態度を学びました。

二つ目は、私たちの力と知恵で自分の問題を解決することを諦めることです。例えば、誰かが私たちを傷つける時、「論理的な解決」は復讐です。しかし、神様に身を委ねることは、復讐の権利を捨て、神様の手に正義を委ねることです。

伝道師オズワルド・チェンバーズはこう書きました。

「捨てる」と「委ねる」の証拠は、「神様がこう言ったことを知っているけど、この場合はどうですか」と訊かないことです。

自分の考えや想像に気を付けてください。「この場合はどうですか」と考え始めたら、それはあなたが神様に身を委ねていないことを表しています。

しかし、あなたが神様にすべてを委ねたら、もう神様が何をするかを考えなくなります。

「委ねる」というのは、質問を訊く権利を捨てることです。

そうすれば、あなたはこの世でもっとも驚かされる人、また、もっとも喜んでいる人になります。なぜなら、神様があなたのすべてを持っておられるなら、神様は本当の命をあなたに与えてくださるからです。

イエス様はこう言われました。

いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。(マタイ16:25)

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詩篇4-

正義の神

詩篇9篇の主なテーマは神様の正義です。

ダビデは神様についてこう言いました。

あなたが私の正しい訴えを支持し、義の審判者として王座に着かれるからです。(詩篇9:4)

また、

主は義によって世界をさばき、公正をもって国民にさばきを行なわれる。(8節)

また、

主はご自身を知らせ、さばきを行なわれた。(16節)

この世では、私たちは悪を見ないわけではありません。もちろん、私たちは悪をよく目にします。しかし、ダビデは神様についてこう言いました。

主はしいたげられた者のとりで、苦しみのときのとりで。御名を知る者はあなたに拠り頼みます。

主よ。あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨てになりませんでした。

主にほめ歌を歌え、シオンに住まうその方に。国々の民にみわざを告げ知らせよ。

血に報いる方は、彼らを心に留め、貧しい者の叫びをお忘れにならない。。。

貧しい者は決して忘れられない。悩む者の望みは、いつまでもなくならない。(9-12、18節)

つまり、私たちは正義が遅いと思うかもしれませんが、結局正義は必ず来ます。また、困難な時でも、神様がまだ私たちのそばにおられ、決して私たちを捨てません。

困難な時、神様があなたから遠く離れておられると思うかもしれませんが、神様は私たちを無視せず、私たちのすべての叫びを聞いてくださいます。神様は私たちを忘れておられず、助けるために立ち上がられます。

だからこそ、神様が私たちを助けてくださる時、ダビデのように神様をほめたたえましょう。彼は歌いました。

私は心を尽くして主に感謝します。あなたの奇しいわざを余すことなく語り告げます。私は、あなたを喜び、誇ります。いと高き方よ。あなたの御名をほめ歌います。(1-2節)

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詩篇4-

私は誰だろう

ハワイに帰る時、私はいつも星を見るのが大好きです。今、西宮市に住んでいるので、星があまり見えません。ここではほんの2、3個しか星を見ることができません。

けれども、星空を見ると、ダビデのように私は驚きます。

私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。あなたのご威光は天でたたえられています。(詩篇8:1)

そして、ダビデのように、私は神様がどれほど大きいか、また、私がどれほど小さいかを考えます。そして、私は思います。「どうして、この素晴らしい宇宙を造られた神様が、私を愛してくださるのだろうか。」

あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。

人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。

あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。(3-5)

私は、この詩篇に基づく現代の歌が大好きです。

私は誰なのでしょうか。
どうして、あなたは私についていつも考えておられるのでしょうか。

私は誰なのでしょうか。
どうして、私が呼ぶ時、あなたの耳を私に傾けてくださるのでしょうか。

あなたは本当に私について考えてくださっているのでしょうか。
あなたが私をそんなに愛してくださるので、私は驚きます。

主よ。あなたが私を心に留めてくださることを感謝します。私が祈る時、あなたの耳を私に傾けてくださることを感謝します。

あなたよりも、天使よりも私は劣る者です。それでも、あなたは私に栄光と誉の冠を被らせてくださいます。

私は、あなたにも、天使にも劣る者です。それでも、あなたは私に栄光と誉れの冠を被らせてくださいます。

私はそれらに値するものは何ひとつありません。それでも、あなたは私を愛してくださり、そのように祝福してくださいます。

主よ、私が決してあなたの愛を当然のことと考えないように。むしろ、私があなたの愛でいつも驚くことができますように。アーメン。

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詩篇4-

裁判官の役割を神様に委ねる

ダビデの人生を見ると、彼が神様に裁判官の役割を委ねたことが分かります。彼はめったに復讐しようとはしませんでした。

(唯一の例外はナバルの話です。その時、ナバルの妻アビガイルがダビデにナバルを殺さないように願わなければなりませんでした。ダビデはその願いを聞いて、復讐しないことに決めました。)

詩篇7篇では、彼のそのような態度を見ることができます。ある人々がダビデを殺そうと思いましたが、ダビデは自分自身とその敵を神様の手に委ねました。また、裁く役割を神様の手に委ねました。ダビデはこう書きました。

主よ。御怒りをもって立ち上がってください。私の敵の激しい怒りに向かって立ち、私のために目をさましてください。あなたはさばきを定められました。

国民のつどいをあなたの回りに集め、その上の高いみくらにお帰りください。主は諸国の民をさばかれる。

主よ。私の義と、私にある誠実とにしたがって、私を弁護してください。(詩篇7:6-8)

どうしてダビデはその裁きを神様の手に委ねることができたのでしょうか。なぜなら、彼は心と思いを調べられる神様が正しく裁いて、悪者を罰されると確信していたからです。(9)

そして、ダビデは賛美でこの詩篇を終えました。

その義にふさわしく、主を、私はほめたたえよう。いと高き方、主の御名をほめ歌おう。(17)

ダビデのように、私たちは心と思いを調べられる神様に信頼し、その神様に裁きを委ねましょう。

復讐の思いは私たちを食い尽くし、私たちの喜びを奪います。しかし、正しく裁かれる神に裁きを委ねると、苦しみの中でも、私たちは喜びと平和を見つけることができます。

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詩篇4-

あなたの苦しみは長く続くと思う時

ダビデは詩篇第6篇を書きましたが、ヨブもまた、同じような思いを神様にぶつけました。

ヨブと同じように、ダビデも病に苦しみ、その苦しみが永遠に続くかのように感じていました。

さらに、神様はダビデを懲らしめるように思われましたが、ヨブと同じようにダビデもその理由を知りませんでした。(この詩篇で、ダビデは全く罪を告白していません。)

それだけでなく、ダビデの敵はその病気を見て、彼を攻撃する機会と捉えました。

それにもかかわらず、ヨブとは異なり、ダビデは神様の正義を決して疑いませんでした。

彼は、自分が神様から何ももらう価値がないことを理解していました。実際には、彼は神様の怒りに値していました。

だからこそ、自分の義によるのではなく、神様の憐れみと絶え間ない愛によって癒しを求めました。

彼は叫びました。

主よ。私をあわれんでください。私は衰えております。

主よ。私をいやしてください。私の骨は恐れおののいています。私のたましいはただ、恐れおののいています。

主よ。いつまでですか。あなたは。

帰って来てください。主よ。私のたましいを助け出してください。あなたの恵みのゆえに、私をお救いください。(詩篇6:2-4)

しかし、ダビデが祈った時、神様の慰めを受けました。

不法を行なう者ども。みな私から離れて行け。

主は私の泣く声を聞かれたのだ。主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入れられる。

私の敵は、みな恥を見、ただ、恐れおののきますように。彼らは退き、恥を見ますように。またたくまに。(8-10)

クリスチャンのコメディアン、マーク・ローリーはこう言いました。「私の大好きな聖書の箇所は『And it came to pass…』という箇所です。」

それはちょっとした冗談です。

「It came to pass」という表現は、少し古い英語で、「そのころ」や「ある時期になって」という意味です。

けれども、文字通りに解釈すると、「その時期はすぐに過ぎた」という意味になります。

ローリーのポイントは、「私たちの苦しみは永遠に続きません。いつか、その苦しみの時間は過ぎ去ります」ということです。

そして、彼は自分の詩篇を歌いました。

私の心には、私が一人で泣いた涙がいっぱい隠されています。

それでも、神様が近くにおられることを知っています。
神様が私の声を聞いてくださることを知っています。
この涙がいつまでも続かないことを知っています。

今日の苦しみは一掃されるのです。
なぜなら、この時期も過ぎます。

夜が朝になると、 私たちはその真実を見ます。
皆がトラブルを経験しますが、
そのトラブルは結局消えます。

この時期も過ぎます。
この時期も過ぎます。

雨垂れのように落ちる涙は結局乾きます。

この時期も過ぎます。

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詩篇4-

王に願う

私は詩篇5篇が大好きです。子供の時から今でも、その詩篇からの歌を歌い続けています。

私の言うことを耳に入れてください。
主よ。私のうめきを聞き取ってください。
私の叫びの声を心に留めてください。
私の王、私の神。

私はあなたに祈っています。
主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。
朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします。(詩篇5:1ー3)

この詩篇を読む時、私は正義と助けを願う人が宮廷に入ることを想像します。その人は王の前に跪いて、叫びます。

「私の王。私の神。私を憐れんでください。あなたの助けが必要です。私の願いを聞いてください。」

この箇所では、その人の謙遜な態度が見えるし、その人が王を愛し、信頼することも見えます。

「主よ。朝に私が起きる時、私の最初の思いはあなたについてです。あなたの前に、私は来て、私の願いを捧げて、待ち望みます。なぜなら、あなたが私を愛し、私の祈りに応えてくださることを信じるからです。」

その時、ダビデがどの問題に直面していたのか、私たちは知りません。けれども、いつもトラブルや恐れや心配がある時、彼は王に向かいました。私たちもそうするべきです。

どうして、私たちは神様の前に来られるのでしょうか。私たちは私たちを傷つける人よりも正しい人だからでしょうか。違います。神様の憐れみによって、私たちは神様に近づくことができます。

人は私たちを傷つけたり、裏切ることがあるかもしれません。しかし、神様はそのようなことは決してなさいません。

神様は良い王であり、私たちが叫び求めると、神様は正義を与えてくださいます。また、神様はその翼で私たちを覆ってくださり、守ってくださいます。ダビデはこう祈りました。

あなたが彼らをかばってくださり、御名を愛する者たちがあなたを誇りますように。主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、大盾で囲むように愛で彼を囲まれます。(11-12)

それを読む時、一つのイエス様のたとえ話を思い出します。その話では、ある女性が不正な裁判官に正義を求めました。彼はしばらく何もしませんでしたが、彼女が諦めずに頼み続けたので、最終的には彼女に正義を与えました。

イエス様はその裁判官を、私たちを愛している天の父に対比されました。

まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。

あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。

しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。(ルカ18:7-8)

時々、神様がダビデを救い出すために、ダビデは何日間も、何年も待たなければなりませんでした。それでも、彼は自分の信仰を決して失いませんでした。

毎朝、ダビデは神様の前に来て、自分の願いを捧げました。そして、神様は愛をもってその祈りを聞き、最終的にダビデを救い出されました。

私たちも苦しむ時、ダビデの信仰を持ちましょう。なぜなら、神様は私たちの声を聞き、私たちを愛し、私たちの祈りに応えてくださるからです。

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詩篇4-

平和

この混迷の世にあっては、平和を見つけるのが難しい時もあります。特に、皆があなたに反対している時には、平和を見つけるのは一層難しくなります。

サウルやアブサロムがダビデを攻めた時、ダビデもそのように感じたと思います。

だからこそ、ダビデは神様に向かって叫びました。

私が呼ぶとき、答えてください。私の義なる神。あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。私をあわれみ、私の祈りを聞いてください。

人の子たちよ。いつまでわたしの栄光をはずかしめ、むなしいものを愛し、まやかしものを慕い求めるのか。(詩篇4:1-2)

ダビデの苦しみの中で、周りの人々はダビデの信仰をからかっていたかもしれません。「神様はあなたを救えない。神様は本当に存在しているのだろうか。」

現代でも、人々は同じようなことを言います。彼らは偽りの神々を礼拝し、お金の「神」や、セックスの「神」や、力の「神」を追い求めます。

だからこそ、私たちが問題に直面する時、彼らは私たちが神様に従うことをからかいます。

けれども、ダビデはその敵にこう言いました。

知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。(3)

つまり、「あなたは私の信仰をからかうかもしれないけど、私は神様のものです。結局、あなたはそのことを知ります。神様は私の祈りに応えてくださるから。」

そして、自分自身に、また苦しんでいる私たちにこう言います。

恐れおののけ。そして罪を犯すな。床の上で自分の心に語り、静まれ。(4)

私たちが怒ることは悪いことではありません。イエス様も怒ったことがあります。

しかし、怒るときには、罪を犯さないようにする必要があります。

そのため、神様の前に静まり、自分の心を探り、自分の態度を見直すべきです。そして、神様が私たちの心を汚すものを清めてくださるように祈るべきです。

特に、苦々しい思いに気を付けなければなりません。私たちが苦々しい思いを持ち続けると、その苦々しい思いは、がんのように私たちの人生に広がるからです。

だからこそ、神様がその苦々しい思いを取り去ってくださるように祈るべきです。

そしてダビデはこう言いました。

義のいけにえをささげ、主に拠り頼め。(5)

イエス様によれば、義のいけにえを捧げたいなら、健康な人間関係を保つべきです。イエス様はこう言われました。

だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。

それから、来て、その供え物をささげなさい。(マタイ5:23-24)

時々、人々が私たちを傷つけ、私たちが仲直りしようとしても、彼らが傷つけ続けることがあります。その場合、私たちは神様がふさわしい時にその人を扱ってくださると信頼すべきです。私たちは復讐してはいけません。

それでも、できるだけ、その人から距離を保つ方が良いです。

サウルがダビデを殺そうと思った時、ダビデはサウルから逃げました。けれども、ダビデのように、その人に対して苦々しい思いを持たないようにしましょう。むしろ、神様に信頼し、その状況とその人を神様の手に委ねるべきです。

そして、苦しむ時、神様の愛と慈しみを疑わないでください。むしろ、ダビデのように、こう祈りましょう。

どうか、あなたの御顔の光を、私たちの上に照らしてください。(6)

言い換えるなら、「主よ。私に向かってください。あなたが私とともにおられることを現してください。また、私たちに対するあなたの愛を現してください。なぜなら、あなたの光が私を照らす時、私の周りのものは、ただ陰になるから。」

その態度を取れば、神様の喜びはあなたを満たし、あなたはダビデのように言うでしょう。

平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。(8)

あなたはどうですか。神様の平和を知っているでしょうか。