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ヘブル人への手紙

私たちは何を愛しているのか。何を信頼しているのか。

認めざるを得ません。確かに、お金があれば人生はもっと楽になるでしょう。

たとえば、重い病気にかかったときや手術を受けなくてはならないとき、お金があれば治療費を払うことができます。

また、車や家電が壊れた場合でも、すぐに新しいものを買い替えることができます。

さらに、お金があれば、旅行に出かけたり、さまざまな楽しいことを体験したりすることもできます。

しかし、私たちは自分自身に問いかけるべき重要な質問があります。

「私たちは何を愛しているだろうか。」

そして、「私たちは何に信頼を寄せているだろうか。」

この手紙の著者は、私たちにまさにその疑問を投げかけています。

金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。

主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。

ですから、私たちは確信をもって言います。「主は私の助け手。私は恐れない。人が私に何ができるだろうか。」(へブル人への手紙13:5-6)

私たちは何を愛しているでしょうか。お金や、この世のものに執着しているでしょうか。

そうしたものは結局なくなります。たとえそれらを手に入れて一時的に嬉しく感じても、やがて飽きてしまったり、古くなって壊れてしまったりします。だから、私たちは不満に陥るのです。

ある人々はそうした繰り返しを何度も経験し、決して本当の幸せを見つけることができません。

また、他の人々はお金や持ち物に執着するあまり、自分の人生を壊してしまいます。彼らはお金や快楽への過度な愛のゆえに、破産したり、結婚や家族関係を壊したり、健康を損なったりするのです。

だからこそ、神様は私たちに語りかけられます。

「金銭を愛する生活をやめなさい。今与えられているもので満足しなさい。この世のものを追い求めるのをやめなさい。

それらによって、あなたが本当に満ち足りることはありません。私との関係だけが、あなたの心を満たします。

私は決してあなたを見放さず、あなたを見捨てません。

私にあって、あなたは幸せと真の満足を見いだすことができるのです。」

私たちは、問題に直面したとき、何に信頼を寄せるでしょうか。

お金に信頼を置くことは簡単です。実際、お金によって解決できる問題は多くあります。

ところが、世の中には、お金では解決できない問題も数多く存在します。場合によっては、かえってお金が問題を悪化させることさえあります。

けれども、私たちが神様に向かうなら、どんな状況にあっても、神様は私たちを助けることがおできになります。私たちが苦しみの中にあっても、神様は決して私たちを見捨てません。

だからこそ、私たちは確信をもって言うことができるのです。「主は私の助け手。私は恐れない。」

あなたはどうでしょうか。

何を愛しているでしょうか。

何に信頼を寄せているでしょうか。

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コリント人への手紙第一

献金を献げるとき

教会を訪れるたびに、パウロはしばしばエルサレムの貧しいクリスチャンたちのために献金を集めました。

パウロの献金に関する指示を通して、私たちは献げる際のいくつかの原則を見ることができます。

第一の原則は、自分の収入に応じて献げることです。あなたがより多くの収入を得る人と同じ金額を献げる必要はありません。

神様はあなたの収入を知っておられ、どれくらい献げることができるかも理解されています。神様にとって重要なのは金額ではなく、あなたの心なのです。(ルカ21:1ー4)

2つ目は、意図的に献げることです。それはどういう意味でしょうか。

要するに、いやいやながらでもなく、強制されてもなく、心から献げるべきです。(第二コリント9:7

また、最初からどれくらい献げたいと思うかを決めるべきです。言い換えると、自分の予算に献金の項目を組み込むべきです。

このように考えないでください。「私がほかの費用を支払った後、もし残りがあれば、その余りを献げましょう。」

むしろ、予算を立てるときに、どれくらい献げるかを先に決めましょう。そして、必要であれば、自分が決めた献金を献げるために、他の費用を調整しましょう。

パウロの言葉から、私たちはこの原則を学ぶことができます。

私がそちらに行ってから献金を集めることがないように、あなたがたはそれぞれ、いつも週の初めの日に、収入に応じて、いくらかでも手もとに蓄えておきなさい。(コリント人への手紙第一16:2)

しかし、あなたの教会が財務的な説明責任を適切に果たしているかを確認することも重要です。

だから、パウロはこう語りました。

私がそちらに着いたら、あなたがたの承認を得た人たちに手紙を持たせてエルサレムに派遣し、あなたがたの贈り物を届けさせましょう。

もし私も行くほうがよければ、その人たちは私と一緒に行くことになるでしょう。(3-4)

パウロの意図は、お金に関して説明責任を果たすこと、また、お金を扱う人が信頼できる存在であることでした。

神様は私たちにお金を託されました。だからこそ、そのことを意識しながら、お金の使い方を通して神様に栄光を帰しましょう。

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ルカの福音書 ルカ16章

何に、誰に仕えているか?

私たちの社会では、「お金」という神が非常に人気です。多くの人々がお金を慕い求め、それを追いかけます。彼らはお金のために働き、時にはそのために命を落とします。(例えば、過労死です。)

しかし、イエス様はこう言われました。

しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。

あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。(ルカの福音書16:13)

私は以前も言いましたが、私にとってこの教えはとても厳しいものです。特に、お金を使って人に仕えることは難しいと感じます。だからこそ、私は自分自身に問いかけるべきです。私は誰に仕えているのでしょうか。

私はお金に仕えているのでしょうか。懸命に働き、手にした財産をできる限り手放さずに守ろうとしているだろうか。それとも、その財産を神様に仕えるための道具と考えているだろうか。神様は、私の財産にいつでも、どこでもアクセスできるだろうか。

もしそうでないなら、私は神様ではなく、お金に仕えていることになります。それは偶像礼拝です。

これはパリサイ人たちの問題でもありました。彼らはイエス様の言葉を聞いたとき、あざ笑いました。

その時代、人々は富を神様の祝福のしるしだと考えていました。

「神様は義人だけを祝福されるはずだ。私は多くの財産を持っているのだから、私は義人に違いない。」

それだけではなく、彼らは貧しい人々を見下しました。そして、イエス様までも侮りました。つまり、彼らは偶像礼拝の罪を犯しただけでなく、プライドという罪も犯したのです。

あなたはどうでしょうか。あなたは自分の持ち物を誇っているでしょうか。あなたの持ち物が、あなたの神になってはいないでしょうか。あなたはお金に仕えているために、神様の国のために周りの人々に触れることができないでしょうか。

あなたは何に仕えているでしょうか。誰に仕えているでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ12章

人生の意義

この人生の意義とは何でしょうか。

多くの人々はその答えを知らず、迷い続けています。彼らは、お金や財産の中に人生の意義を見いだせると信じ、それらを追い求めます。

だからこそ、この話の中で、その男性はイエス様に家族の遺産を公平に分けるよう願ったのです。

けれども、イエス様は彼にこう言われました。

いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではない。(ルカの福音書12:15)

そして、イエス様は周囲の人々にこう言われました。

だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。

いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。(22-23)

どうしてイエス様はこのことを言われたのでしょうか。二つの理由があります。

一つ目は、食べ物や服、お金で買えるものよりも、私たちの命がはるかに大切だからです。これらのものは一時的なものであり、瞬く間に存在し、瞬く間に消えてしまいます。

この世のものを手に入れることで、一時的に心や体が満たされるかもしれません。しかし、最終的にはもっと多くを求めるようになり、決して満足することはありません。むしろ、ますます飢え渇くようになります。

二つ目は、神様が私たちを深く愛しておられるからです。神様は私たちの必要をすべてご存知であり、もし私たちが神様を最優先に求めるなら、神様はその必要を満たしてくださいます。

それならば、私たちは他のものを優先するべきではないでしょうか。

では、私たちは何を最優先にするべきでしょうか。それは、神様の国です。

神様の国とは何でしょうか。それは「人々」です。イエス様は彼らのために命を捧げられました。神様は彼らとの関係を強く望んでおられます。だから、私たちは彼らを優先するべきです。

もし誰かが助けを必要としているなら、可能な限りその必要を満たすように努めましょう。お金を愛するのではなく、人々を愛し、惜しみなく与えましょう。なぜなら、神様は惜しみなく私たちに多くのものを与えてくださったからです。

私たちがこのように与えるなら、「自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げるのです。」(ルカ12:33)

とはいえ、彼らの物質的な必要を満たすだけではなく、彼らの霊的な必要にも目を向け、イエス様の愛によって彼らに触れるべきです。

神様は私たちに素晴らしい国を与えてくださいました。私たちの罪を赦すために、神様はイエス様を送ってくださいました。そして、神様は私たちを養子として迎えてくださいました。

だから、一時的なものに心を奪われたり、時間を浪費したりしないようにしましょう。むしろ、永遠に価値のあるものを追い求めましょう。

私たちを愛してくださる神様を求め、その愛をもって周りの人々に触れましょう。そうすれば、彼らも神様を知るようになるでしょう。

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箴言

私たちのお金を賢く使う

アメリカでは、多くの人々がクレジット・カードを使います。アメリカ人と比べると、日本人はクレジット・カードをあまり使いません。

私が日本に住み始めた時、ちょっとカルチャーショックを受けました。なぜなら、店でレジの列が割と短かったからです。日本人の大部分は現金を使うからです。

アメリカでは、多くの人がクレジット・カードを使うので、列はもっと長いです。

アメリカでは、たくさんの現金を持っているとちょっと危ないです。私がアメリカに住んでいた時、そんなにたくさんの現金を持つことがありませんでした。けれども、日本は割と安全だから、大丈夫です。

アメリカでは、クレジット・カードを持っている人の間では、54%の人がクレジット・カードで支払います。

日本でクレジット・カードを持っている人の間では、18%の人がクレジット・カードで支払います。

それに、アメリカ人のクレジット・カードの負債は平均で65万円ぐらいです。アメリカ人の間では、半分ぐらいが分割払いを選ぶからです。しかし、日本人は、90%ぐらいが一括払いを選ぶそうです。

それでも、日本人はあまり貯金していません。アメリカ人は可処分所得の6%ぐらいを貯金します。日本人は可処分所得の0.72%ぐらいを貯金します。

だから、アメリカ人でも、日本人でも、お金をもっと賢く使わなくてはなりません。

多くのアメリカ人はお金が足りないのに、クレジット・カードで購入します。だから、分割払いを選んで、利子を付けて借金を払います。それに、軽率な購入のため、多くの人々は破産してしまいます。

だから、ソロモンはこう書きました。

勤勉な人の計画は利益をもたらし、すべてあわてる者は欠損を招くだけだ。(箴言21:5)

どれほど、私たちは欲しいものを見つけると、家計の状態を考えずに買ってしまうでしょうか。

もし、私たちが時間を取って、私たちの消費について考えたら、どれほど経済的な苦しみが避けられるでしょうか。

ソロモンは続けてこう言います。

知恵のある者の住まいには、好ましい財宝と油がある。しかし愚かな者はこれをのみ尽くす。(21:20)

アメリカ人と比べると、日本人は持っていないお金を使う癖があまりありません。とはいえ、多くの人は自分の将来を考えずにお金を使いすぎます。

あなたはどうでしょうか。あなたの将来のために計画していますか。それとも、将来を考えずに、自分の快楽にふけっているでしょうか。

あなたはクレジット・カードを使いすぎているでしょうか。あなたの借金が大きすぎるので、最終的に破産してしまう可能性がありますか。

私たちは神様のお金の管理人です。だから、神様が私たちに委ねてくださったお金を賢く使いましょう。

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詩篇

お金で買えない物

英語では、「Money makes the world go round」ということわざがあります。つまり、「金は天下の回りもの。」ということです。

お金がないと、私たちの社会は動きません。

しかし、詩篇49篇では、詩人はもっと大切な真理を教えます。「お金で買えない物もあります。」

詩人はこう書きました。

人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。

自分の身代金を神に払うことはできない。――たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない――人はとこしえまでも生きながらえるであろうか。墓を見ないであろうか。(詩篇49:7-9)

言い換えれば、お金で永遠の命を買うことはできません。私たち皆は、お金持ちでも貧乏な人でも、賢い人でも愚か者でも、強い人でも弱い人でも、いつか死にます。そして、死ぬと、貯まったお金を天国に(または地獄に)持って行けません。

だから、私たちのお金では天国に入ることはできません。「天国への切符」を買うことはできません。

なぜなら、私たちの罪によって、神様に対する負債があるからです。けれども、この世界のお金のすべてを持って行っても、私たちの負債を支払うことはできません。

神様だけが、その代価を支払うことができます。だから、神様自身が人間としてこの世に来て、私たちの負債を支払ってくださいました。しかし、お金を使わずに、十字架で自分の血を流されました。

びっくりするのは、この詩人がイエス様について全然知らなかったのに、彼がその真理を知っていたということです。彼はこう書きました。

しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ。(15)

イエス様が生まれる何百年も前に、神様が私たちを贖なうので、私たちが永遠に神様と共にいる確信が詩人にはありました。だから、彼はこう書いた。

恐れるな。人が富を得ても、その人の家の栄誉が増し加わっても。

人は、死ぬとき、何一つ持って行くことができず、その栄誉も彼に従って下っては行かないのだ。

彼が生きている間、自分を祝福できても、また、あなたが幸いな暮らしをしているために、人々があなたをほめたたえても。

あなたは、自分の先祖の世代に行き、彼らは決して光を見ないであろう。(16-19)

あなたはどうですか。金持ちをねたんでいるでしょうか。あなたは富を求めているでしょうか。もしくは、あなたにはお金がたくさんあるけど、まだ満足していないでしょうか。もっともっとお金を儲けたいでしょうか。

詩人の言葉を覚えておきましょう。

人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。(20)

お金や富を持つことは悪いことではありません。この世では、また神様の国のために、私たちはお金でたくさんの良いことができます。

けれども、お金は一番大切なものではありません。もっと大切なものがあります。

だから覚えておきましょう。きっと、お金で買えない物があります。

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イザヤ書

安心。。。じゃない

安心。

多くの人々は安心を求めています。彼らは心から安心したいと願っています。特に自分の将来において、安定を求めています。

そのため、多くの人々がお金を求めています。お金さえあれば安心できると思うからです。

1980年代、日本の経済は本当に順調でした。その結果、多くの日本人が経済的に繁栄していました。

けれども、結局バブルは崩壊し、その安心も消えてしまいました。1991年から2003年の間に、日本の自殺率は約70%も上昇しました。現在でも、日本の自殺率は依然としてかなり高いままです。

イザヤの時代、イスラエル人は1980年代の日本人のようでした。彼らは繁栄し、安心していました。ところが、日本人と同じように、その繁栄と安心は突然失われました。

そんな中、イザヤは彼らに次のように言いました。

のんきな女たちよ。立ち上がって、わたしの声を聞け。うぬぼれている娘たちよ。わたしの言うことに耳を傾けよ。うぬぼれている女たちよ。

一年と少しの日がたつと、あなたがたはわななく。ぶどうの収穫がなくなり、その取り入れもできなくなるからだ。

のんきな女たちよ。おののけ。うぬぼれている女たちよ。わななけ。着物を脱ぎ、裸になり、腰に荒布をまとえ。(イザヤ書32:9-11)

あなたは何に安心を感じますか。お金でしょうか。

お金は安心を買うことはできません。

むしろ、多くの人々はお金によってさまざまなトラブルを抱えてしまいます。

例えば、働きすぎることで結婚生活が弱くなり、最終的に離婚に至ることがあります。そして、離婚によって子供との関係も壊れてしまうのです。

また、他の人々は働きすぎて、自分が貯めたお金を楽しむことすらできません。現在でも、日本政府の報告によれば、過労死により毎年約200人が亡くなっています。

他の人々はお金を愛し、自分の経済のことを絶えず心配しています。どうやってそのお金を持ち続けるか、常に不安に感じています。

しかし、神様だけにあって、本当の安全を見つけることができます。

イザヤがイスラエル人に言ったのは、「あなたが信頼しているものは、あなたから取り除かれる」ということです。

けれども、そのあとで、イザヤは次のように言いました。

しかし、ついには、上から霊が私たちに注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。(15)

私たちが聖霊によって満たされるなら、私たちは霊の実を結ぶことができます。例えば、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、そして自制を結びます。(ガラテヤ5:22-23)

これらの実を結ぶことで、私たちは真の安心を見出すことができるのです。

そして、イザヤは次のように書きました。

義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。(17)

あなたは安心を求めているでしょうか。お金やこの世のものによって安心を見つけることはできません。一時的な安心を見つけることができても、それはすぐに消えてしまいます。

むしろ、神様に信頼しましょう。聖霊があなたの人生を満たしてくださるように祈りましょう。そうすれば、

人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4:7)