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マルコの福音書のデボーション

天のお父さん、私は脆い存在なのでしょうか

まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになります。

新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものです。(マルコの福音書2:22ー23)

天のお父さん、もしかして私は、古い皮袋のように脆い存在なのでしょうか。私があまりにも脆くて、もしあなたが人々に触れるために、御霊というぶどう酒を注がれると、私は裂けてしまうのでしょうか。

つまり、苦しんでいる人々への、あなたのあわれみと思いやりを欠いていることで、私は脆いのでしょうか。(5、17節)

また、周囲の人々をいつもさばいてしまうことで、私は脆いのでしょうか。(15ー16節)

あるいは、私の霊的な成熟度を他の人と比べることで、私は脆いのでしょうか。(18節)

天のお父さん、どうか、あなたが自由にぶどう酒を注ぐことのできる、新しい皮袋へと私を変えてください。あなたの注がれるぶどう酒が、無駄になることのないように。

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使徒の働きのデボーション

イエス・キリストに上訴します!

すると、パウロは言った。「私はカエサルの法廷に立っているのです。。。私はカエサルに上訴します。」(使徒の働き25章)

「法廷」という言葉は、聖書の別の箇所では「さばきの座」と訳されています。特に、「神のさばきの座」(ローマ14:10)と「キリストのさばきの座」(第二コリント5:10)です。

それゆえ、今日の箇所を読んだとき、私の心にはこの思いが浮かびました。

パウロがカエサルのさばきの座の前に立ったように、ある日、私たちも神のさばきの座の前に立たなければなりません。そのとき、サタンは私たちに対して、容赦ない告発を突きつけてくるでしょう。

しかし、パウロへの告発とは異なり、サタンの告発は正当なものであり、私たちは死に値する者です。なぜなら、私たちは確かに多くの罪を持っているからです。

それでも、私たちは神の子として宣言できます。「私はイエス・キリストに上訴します!」

そして、十字架で流されたイエス様の血によって、神様は私たちに対し「無罪」との判決を下してくださるのです。

これは、なんと素晴らしい真理でしょうか。

だからこそ、サタン、または自らの良心さえも容赦なく私たちを責めるとき、大胆に叫びましょう。

「私はイエス・キリストに上訴します!」

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民数記のデボーション

 赦さざる罪

民数記15~17章では、私たちは神様の厳しい裁きを見ます。

多くの人(クリスチャンたちも含めて)には、それが理解しがたいものです。

でも、15章では、神様は大切な原則を定めました。それは、気づかずに罪を犯すことと、故意に反抗的な罪を犯すこととは雲泥の差があるということです。

その反抗的な態度を悔い改めようとしない限り、私たちは赦されることはありません。

神様の律法によれば、気づかずに罪を犯した人は、罪のきよめのささげ物を捧げることができました。

でも、悔い改めることなく故意に罪を犯した人には、罪のきよめの捧げ物はありませんでした。そのような人にとっては、きよめの捧げ物は無意味ですから。(民数記15:22~30)

そういうわけで、悔い改めることなく故意に安息日を破った人は、石で殺されました。(民数記15:32~36)

また、16章では、コラたちは反抗的な態度のために厳しく裁かれました。

反抗的な心は、酷いものです。

でも、その反抗的な態度を悔い改めようとしない心が結びつけば、その罪は赦されないものとなります。

私たち皆が罪を犯すことはあります。でも、私たちが悔い改めず、反抗的な心を持つことがないように。

むしろ、ダビデの心を持ちましょう。彼は故意に罪を犯したことがありましたが、最終的に悔い改めて、赦されました。

彼はこう祈りました。

だれが自分の過ちを悟ることができるでしょう。どうか、隠れた罪から私を解き放ってください。

あなたのしもべを傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。

そのとき私は大きな背きから解き放たれて、全き者となるでしょう。

私の口のことばと私の心の思いとが御前に受け入れられますように。主よ わが岩 わが贖い主よ。(詩篇19:12~14)

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マタイの福音書のデボーション

自分の罪に気づく

先日、マタイ6:22ー23を読んだとき、「私の目は健やかなのだろうか?」と考えました。

健やかな目を持っていれば、私は自分の罪や欠点を見ることができるはずです。しかし、自分の罪や欠点を見逃し、周囲の人々のそればかりを見るのは、いかに簡単なことでしょうか。

英語のことわざに、「最も悪い種類の欺瞞は自己欺瞞である」というものがあります。イエス様の言葉を借りれば、もし人が自己欺瞞に陥っているとしたら、その闇はどれほど深いものでしょうか。(マタイ6:23)

(主よ。)だれが自分の過ちを悟ることができるでしょう。どうか、隠れた罪から私を解き放ってください。

あなたのしもべを 傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。そのとき私は大きな背きから解き放たれて、全き者となるでしょう。

私の口のことばと私の心の思いとが御前に受け入れられますように。 主よ、わが岩 わが贖い主よ。(詩篇19:12ー14)