こうしてペテロは牢に閉じ込められていたが、教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていた。(使徒の働き12:5)
今日の箇所を読んだとき、私はクリスチャンたちの姿について考えました。彼らはヤコブのために熱心に祈りましたが、彼はヘロデによって殺されました。
それでも、ヘロデがペテロを拘束したとき、教会はペテロのために祈りました。そしてただ祈っただけでなく、熱心に祈りました。
そのことを考えながら、私は自問しました。 「神様の答えが遅く感じられるとき、私はどれほど熱心に祈り続けているだろうか。
そして、神様が『ノー』と答えられたことを思い出しながらも、それでも私は同じ熱心さで祈り続けているだろうか。」
今、私は二人の友人のことを考えています。彼らのためにずっと祈っていますが、今のところ神様の答えはまだ来ていません。
熱心に祈るときもあれば、あまり熱心に祈らないときもあります。
もちろん、熱心に祈ったからといって、必ず神様がその祈りを聞き届けてくださるとは限りません。
また、祈りの熱心さが、私の信仰の深さを証明するものとは限りません。(15-16節を読んでみてください。)
しかし、祈りの熱心さは、このような態度を表します。
「天のお父さん、私にとってこの問題は非常に重要です。あなたが私の願いを聞いてくださることを信じます。 あなたが私を愛してくださることを信じます。 だからこそ、私はあなたを信じて、すべてをあなたに委ねます。」
今日、そのような態度を持って、私は友人のために祈りたいと思います。
あなたはどうでしょうか。熱心に祈り続けていますか。
