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創世記のデボーション

神様が備えてくださる

御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった」 。。。

アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエ(つまり、「主が備えてくださる」、または、「主が見てくださる」という意味)と呼んだ。

今日も、「主の山には備えがある」と言われている。(創世記22:12、14)

この話を読むたびに、私はいつも感動します。でも今日、初めて気づいたことがあります。

もしかすると、パウロはこの話を思いながら、こう書いたのかもしれません。

神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。(ローマ8:31ー32)

2000年前、カルバリという丘の上で、神様はご自分の御子を惜しむことなく、私たちの救いのために備えてくださいました。

神様がそうしてくださったのなら、どうして私は神様が私のすべての必要に備えてくださることを疑うことができるでしょうか。

天のお父さん、あなたはアドナイ・イルエです。あなたは私を見てくださる主です。あなたは私の必要に備えてくださる主です。

カルバリで、あなたがそのような神であることを証明してくださいました。

どうか私がその真理を忘れないように。あなたがどのような神であるか、私が決して忘れないように。

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創世記のデボーション

隠れた罪?

アビメレクは。。。言った。「主よ。。。私は、全き心と汚れのない手で、このことをしたのです。」

神は夢の中で彼に仰せられた。

「そのとおりだ。あなたが全き心でこのことをしたのを、わたし自身もよく知っている。それでわたしも、あなたがわたしの前に罪ある者とならないようにした。だからわたしは、あなたが彼女に触れることを許さなかったのだ。」(創世記20:4ー6)

アブラハムの妻を奪ったアビメレクを責めることは難しいです。なぜなら、アブラハムは嘘をついて、「サラは私の妹だ」と言っていたからです。

でも、意図的に奪おうとしたわけではなくても、アビメレクはそうしてしまい、神様に対して罪を犯しました。

神様の恵みによって、アビメレクはサラと寝て、さらに大きな罪を犯すことはありませんでした。

この話を読んだとき、私はコリント人へのパウロの言葉を思い出しました。

私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。(第一コリント4:4)

私たちは、自分の罪に気づいていないことがあります。だからこそ、詩篇19篇にあるダビデの祈りを、時々祈る必要があります。

正直に言うと、私はその祈りをもっと祈るべきです。

今日、私はそうします。

だれが、自分の過ちを悟ることができるでしょう。

どうか 隠れた罪から私を解き放ってください。

あなたのしもべを、傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。

そのとき私は 大きな背きから解き放たれて、全き者となるでしょう。(詩篇19:12ー13)

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恐ろしい言葉?

わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。(創世記17:1)

その言葉を読んだとき、あなたが何を感じたかわかりませんが、私の目に留まりました。

「私は全能の主、万物の創造主、宇宙の支配者です。私の前に歩みなさい。

私から離れて、自分の道を行ってはならない。

全き者であれ。自分の罪にふけってはならない。あなたは聖なる者でなければならない。私が聖だからです。

すべてにおいて、私の真似をしなさい。私の性格の真似をし、私の価値観と心に従いなさい。」

その言葉をちょっと考えてみてください。正直なところ、一つの真理を心に留めておかなければ、私はこの言葉に圧倒されてしまうでしょう。

その真理とは?神様は私たちを愛してくださる父であるということです。

そして、神様はアブラハムと契約を結ばれたように、私たちとも契約を結ばれました。しかし、その契約は私たちの行いによるものではなく、イエス様の十字架の働きによるものです。

イエス様の働きによって、私たちは失敗しても、神様が私たちを受け入れてくださる確信を持ち、大胆に神様のみ前に進み出ることができます。(へブル4:16;10:19)

だから毎日毎日、一瞬一瞬、全き者として神様の御前に歩みましょう。そして、サタンが私たちを責めるとき、以下の言葉を覚えていましょう。

すなわち神は、世界の基が据えられる前から、(イエス・キリスト)にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。

神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。

この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって私たちの上にあふれさせ(ます)。(エペソ1:4ー8)

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創世記のデボーション

祝福となる

地のすべての部族は、 あなたによって祝福される。(創世記12:3)

今朝、その言葉に思いを巡らしていました。

アブラハムの子孫であるイエス様を通して、神様はアブラハムへの約束を果たしてくださいました。イエス様によって、私たち皆は祝福されているのです(ガラテヤ人への手紙3:7-14)。

しかし今日、私が初めて気づいたのは、神の民である私たち自身が、その約束の成就の一部であるということです。

つまり、イエス様によるアブラハムの霊的な子孫として、私たちはこの地のすべての人々に対する神の祝福となるべき存在なのです。

神様は私たちを通して、この世の人々に触れたいと願っておられます。そして、私たちが周囲の人々に触れることによって、神様はアブラハムへの約束を今も果たし続けておられるのです。

それは本当に素晴らしいことですね。

天のお父さん、私を通して、アブラハムへのあなたの約束を果たし続けてください。私が周囲の人々と接するとき、私があなたから彼らへの祝福となるようにしてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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寄留者と居留者

私は、あなたがたのところに在住している寄留者(直訳:奇留者と居留者)です。。。(創世記23:4)

サラが亡くなったとき、アブラハムにその真理はしみじみと感じられたことでしょう。

アブラハムは、神が約束された土地に住んでいましたが、彼が所有していた土地は、サラを埋葬するために買った墓地だけでした。彼は、ただの寄留者や居留者として暮らしていました。

私たちも寄留者や居留者としてこの世界に暮らしています。

この世の文化は、神の国の市民である私たちの文化とは異なります。この世界の人々の考え方や生き方は、私たちのものとは違います。だから、私たちは少し違和感を覚えることでしょう。

さらに、この世の痛みや、死がどのように人々を支配しているかを見ると、私たちは天国に憧れます。私たちが愛するのは、この世ではありません。むしろ、私たちはより良い世界に憧れているのです。

しかし、それは単なる夢物語ではありません。私たちは希望を持っています。それは、決して約束を破らない神によって与えられた、約束された遺産なのです。

だから、絶望せずに、希望をしっかりと抱き、前を向いて、アブラハムやサラ、そして他の信仰の先人たちの姿勢を見習いましょう。

これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。

約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。

そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。も

し彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。

ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。(へブル11:13ー16)

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あなたを信じることを選びます

これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。「アブラムよ、恐れるな。 わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。」。。。

アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。(15:1、6)

たぶん、へブル人への手紙の著者は、以上の話を考えながら、この言葉を書いたのかもしれません。

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。

神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(へブル11:6)

アブラハムは疑いを持っていた時もありました。アブラハムは自己憐憫に浸る時もありました。(創世記15:2–3)

アブラハムの信仰が揺らいだ時もありました。(創世記16–17章、20章)

しかし、最終的な彼の心の態度は、「主よ。私はあなたを信じることを選びます。」というものでした。

神様はそのような人を受け入れてくださいます。神様はそのような人を求めておられます。そのような人は神様を喜ばせるからです。

主よ。あなたが良い方であることを信じます。あなたが私を愛し、私の最善を望んでおられることを信じます。

だからこそ、アブラハムとともに私は宣言します。「あなたを信じることを選びます。」

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創世記のデボーション

祝福されている

アブラムに祝福あれ。 いと高き神、天と地を造られた方より。いと高き神に誉れあれ。 あなたの敵をあなたの手に渡された方に。(創世記14:19ー20)

前回の記事でも言いましたが、クリスチャンとして、私たちはアブラハムの霊的な子孫であり、神様の祝福を受け継ぐ者です。(ガラテヤ3:8–9)

上記の聖句を読んだとき、私はその真理をさらに反芻しました。

メルキゼデクの祝福を読むとき、神の祝福を受け継ぐ者として、自分の名前を入れてみましょう。

「<自分の名前>に祝福あれ。いと高き神、天と地を造られた方より。」

私たちはさまざまな意味で祝福されています。神様は私たちに多くの霊的な祝福を与えてくださいました。(エペソ1:3–14)

さらに、イエス様によって、私たちは最後の敵に対する最終的な勝利を得ました。つまり、イエス様が死を克服し、私たちに永遠の命を与えてくださったということです。(第一コリント15:26、50–57)

しかし、最も驚くべきことは、創造者である神が、そのように祝福するほどに、私たちを愛しておられるということです。

少し静かになって、その真理を思い巡らしましょう。その素晴らしい真理に心を向けましょう。

そして、ダビデとともに歌いましょう。

あなたの指のわざである、あなたの天、あなたが整えられた月や星を見るに人とは何ものなのでしょう。

あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。

あなたは、人を御使いより、わずかに欠けがあるものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせてくださいました。(詩篇8:3ー5)

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創世記のデボーション

神の祝福を受け継ぐ者

あなたを祝福し。。。あなたは祝福となりなさい。。。地のすべての部族は、 あなたによって祝福される。(2ー3)

もうすぐクリスマスがやってくるなんて、信じられないですね。

今日の箇所では、私たちは最初のクリスマスの約束の一つを読みます。

神様は、アブラハムによって地のすべての部族が祝福されると約束されました。

最終的に、その約束はアブラハムの子孫であるイエス様によって成就されました。

そして、私たちはその祝福を受け継ぐ者たちです。(ガラテヤ3:8–9、エペソ1:3–14)

でも、アブラハムのように、私たちはただ神様の祝福を受けるように召されているわけではありません。むしろ、私たちは周りの人々を祝福するように召されています。

私たちの周りの人々も、私たち自身が受けた恵みを受けることができるように、私たちはイエス様の光を照らすべきです。

だから、キリストの教会として、この世界に出て、私たちの周りの人々に対して祝福となりましょう。

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ヤコブの手紙

真の信仰がどのように表現されるか(3)

前回の記事では、「私は神様を信じる」と主張するだけでは十分ではないことを学びました。また、「イエス様が私の罪のために死んだと信じる」と言うだけでも不十分です。

真の信仰は、必ず変えられた人生へと導きます。特に、真の信仰は愛によって表現されます。それは、神様への愛と、人々への愛です。

成長せず、決して愛を示さない信仰は、実際には信仰とは言えません。それはただの空しい言葉です。それは、貧しい人に「かわいそうに。神様があなたを祝福するように。」と言いながら、何も助けないことに似ています。

そして、ヤコブはこう言います。

しかし、「ある人には信仰があるが、ほかの人には行いがあります」と言う人がいるでしょう。行いのないあなたの信仰を私に見せてください。私は行いによって、自分の信仰をあなたに見せてあげます。(ヤコブの手紙2:18)

ギリシャ語では引用符がないため、この箇所を解釈するのは少し難しいです。

この翻訳によれば、おそらく自称クリスチャンがヤコブにこう話しているのかもしれません。「あるクリスチャンは信仰があるが、ほかのクリスチャンは行いがある。でも、二人とも結局クリスチャンだよ。」

しかし、ヤコブはその人に答えます。「あなたは本当に信仰を持っているでしょうか。それを証明しなさい。

自分がクリスチャンだと主張するのは簡単なことです。あなたは自分が神様を愛していると主張するかもしれませんが、どのようにして私があなたの心を知ることができるでしょうか。私はあなたの心を見抜くことはできません。

ただ、あなたの行為を見ることしかできません。けれども、その行為のゆえに、私はあなたの信仰を疑います。なぜなら、あなたの人生に神様への愛と人々への愛が見られないからです。

もしあなたが本当に神様の愛を知っていたら、その愛は自然にあなたの人生から溢れ出るはずです。」

ある人々は、パウロの言葉とヤコブの言葉が矛盾していると考えます。なぜなら、パウロは「人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められる」と教えました(ローマ3:28)。

しかし、ヤコブによれば、「人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではない」(ヤコブ2:24)からです。

では、私たちはどのようにしてこの二つの言葉を調和させることができるのでしょうか。

神様の目には、私たちは信仰によって義と認められます。なぜなら、神様は人の心を見抜くことができ、その人が本当に信仰を持っているかどうかを理解されるからです。

けれども、人の目には、私たちは行いによって義と認められます。なぜなら、人は他人の心を見抜くことができず、その行いだけを見ることしかできないからです。

興味深いことに、パウロとヤコブはそれぞれの主張を証明するために、同じ聖句と登場人物を用いています。

ヤコブはこう言いました。

私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇に献げたとき、行いによって義と認められたではありませんか。あなたが見ているとおり、信仰がその行いとともに働き、信仰は行いによって完成されました。(21-22)

では、アブラハムは誰によって義と認められたのでしょうか。神様でしょうか。ある意味ではそうです。

しかし、アブラハムの行為によって、周りの人々も彼が神様を信じていたことを知るようになりました。それ以前、彼らはアブラハムが本当に神様を信じていたかどうか分かりませんでした。彼らはアブラハムの心を見ることができなかったからです。

過去のアブラハムの行為を見ると、彼を偽善者と呼ぶこともできたでしょう。

例えば、彼は信仰が弱く、相続人を得るために、自分の妻の奴隷と関係を持ちました。アブラハムの妻がそれを勧めたとはいえ、その行為は信仰の表れではなく、むしろ神様の約束を疑ったことを示していました。

けれども、アブラハムがイサクを生贄として捧げたとき、彼は自らの信仰を証明しました。

神様は、イサクを通してアブラハムが多くの子孫を得ると約束されました。けれども、神様がその生贄を命じたとき、イサクにはまだ子供がいませんでした。それでも、アブラハムは神様の約束を信じ、イサクを捧げようとしました。

彼の信仰は成長しました。以前は偽善的な行動をとり、信仰が揺らいでいましたが、今や彼は神様を完全に信頼していました。

だからこそ、ヤコブはこう言いました。

アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。(23)

では、アブラハムはいつ神様を信じたのでしょうか。そして、彼はいつ神様によって義と認められたのでしょうか。生贄の前でしょうか、それとも後でしょうか。

それは、生贄の前でした。実際には、イサクが生まれる前から、すでにアブラハムは神様によって義と認められていました。(創世記15:6)

その時、神様はアブラハムの心をご存知でした。神様は彼が本当に信じていたことを知っていたので、彼を義と認められました。

それでも、アブラハムがイサクを祭壇に捧げた時、その信仰は成熟し、完全なものとなりました。

以前の記事で私は言いましたが、信仰の成熟や完成には時間がかかることがあります。時に、私たちの信仰は揺らぎ、成長の過程で苦しみを伴うこともあります。

しかし、真の信仰を持っているならば、進展があるはずです。そして、最終的に周囲の人々もその進展を目にすることになります。

あなたはどのような信仰を持っているでしょうか。

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ヘブル人への手紙

神様の良さを信じる信仰

「神様は良い方です。」

「いつもです。」

「いつもです。」

「神様は良い方です。」

ある教会では、それが合言葉のように繰り返されています。

でも、私たちはその言葉を本当に信じているでしょうか。もちろん、物事が順調なときには、それを信じて熱心に語るのは簡単です。

でも、苦しいときはどうでしょうか。神様が何をなさっているのか、私たちに理解できないときはどうでしょうか。また、将来に不安を感じるときはどうでしょうか。

そのような時、私たちはなお、神様が良い方であることを信じることができるでしょうか。

私たちが自分の信仰を見つめ直すと、これは最も根本的な問いの一つと言えるかもしれません。

だからこそ、この手紙の著者は、こう語っています。

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(へブル人への手紙11:6)

「神は、ご自分を求める者には報いてくださる方である。」

言い換えるならば、神様は、ご自身の良さを信じる者に報いてくださいます。その人は、神様がご自身の約束を守ると信じます。その人は、自分の苦労が無駄ではないと信じます。その人は、自分の苦しみが意味あるものだと信じます。

神様は、そのような信仰者に報いてくださるのです。

どんなに私たちの境遇が厳しくても、神様を求めるほどに、その真理を信じ続けることができるでしょうか。そう信じない限り、私たちは神様を喜ばせることができません。

アブラハムは、そう信じました。

神様は、アブラハムの子孫がイサクの系統によって多くなると約束されました。しかし、ある日、神様はアブラハムに命じられました。「あなたの息子イサクを、生贄として捧げなさい。」

それは、イサクを神様の奉仕のために捧げるという意味ではありませんでした。アブラハムは、文字通り、イサクを殺し、生贄として捧げなくてはなりませんでした。

アブラハムは、本当に混乱していたことでしょう。その生贄を捧げる山に到着するまでには、三日間かかりました。その間、アブラハムは何を考えていたのでしょうか。

「どうして神様は、そんな命令をされたのだろうか。イサクの系統を通して、神様は私に多くの子孫を与えると約束された。でも、もしイサクが死んでしまったら、その約束はどのように成就するのだろうか。」

それでも、最終的にアブラハムはこう考えるに至りました。

「神様は良い方だ。神様は、ご自身の約束を守られる。だからこそ、もし私にイサクを殺すよう命じるなら、神様は必ずイサクを復活させてくださるだろう。神様は、いのちと死を支配される神だ。そして、やはり神様は良い方だ。」

そして、アブラハムがイサクを殺すために刀を振りかざしたとき、天使は彼に告げました。「あなたの手を、その子に下してはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れていることを、よく理解した。」(創世記22:10–12)

神様は、確かに良い方でした。

イサクは、そのような経験をしたので、将来がまだ不明だったにもかかわらず、息子たちヤコブとエサウを祝福することができました。

彼は、神様が約束された地をまだ受け取ってはいませんでした。所有していたのは、父アブラハムが買った小さな土地だけでした。それでも、イサクは神様が良い方であることを信じ、息子たちを祝福しました。

ヤコブは、さまざまな試練に直面しました。ある試練はヤコブ自身のせいでしたが、ある試練は彼の責任ではありませんでした。それでもヤコブは、自分に対する神様のいつくしみと忠実さを見たのです。

だから、死ぬ直前に、その確信を持って、息子たちを祝福しました。

あなたはどうでしょうか。どんなことを経験しているのでしょうか。心から「神様は良い方だ」と言えるでしょうか。神様が忠実な方だと信じられるでしょうか。神様があなたへの約束を守られると信じているでしょうか。

それらを信じなければ、あなたは神様を喜ばせることができません。

あなたは、どんな信仰を持っているのでしょうか。

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ヘブル人への手紙

見えないものを見える信仰(2)

「それは無理です。私はできません。」

自分の状況に目を向けると、私たちはどれほどこの言葉を口にしているでしょうか。また、どれほど心の中でこの言葉が浮かんでいるでしょうか。

アブラハムとサラも、そう感じたことがあったに違いありません。

アブラハムが75歳、サラが65歳のとき、神様は彼らに「息子を与える」と約束されました。けれども、24年が過ぎても赤ちゃんは生まれませんでした。

その間、二人は自分たちなりの計画を立てました。相続人を得るために、サラは自分の奴隷ハガルをアブラハムに与え、ハガルはアブラハムの子を産みました。

しかし、神様は言われました。「それが私の意図ではありません。サラを通して、私はあなたたちに息子を与えるのです。」

その言葉を聞いて、アブラハムは笑いました。彼は99歳、サラは89歳。それでも神様は、もう一度約束されたのです。「サラは赤ちゃんを産みます。」

アブラハムは、その言葉を聞いて、到底無理だと思ったことでしょう。

それでも最終的に、アブラハムとサラは自分たちの弱さを認めながらも、現実にとらわれることなく、神様にはすべてのことができると信じる道を選びました。だからこそ、彼らは子どもをもうけようとし続けたのです。

この手紙の著者は、彼らについてこう記しています。

アブラハムは、すでにその年を過ぎた身であり、サラ自身も不妊の女であったのに、信仰によって、子をもうける力を得ました。彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです。

こういうわけで、一人の、しかも死んだも同然の人から、天の星のように、また海辺の数えきれない砂のように数多くの子孫が生まれたのです。(へブル人への手紙11:11-12)

あなたはどうでしょうか。自分の問題を乗り越えることは、到底無理だと感じていませんか。

私たちの弱さに目を向けると、希望を失うのは、あまりにも簡単です。でも、神様は弱さを持っていません。

あなたは、自分の弱さを脇に置いて、弱さのない神を信じる信仰を持っていますか。

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ヘブル人への手紙

見えないものを見える信仰

この地球は、私たちの最終的な家ではありません。

多くのクリスチャンはそのことを知っています。 けれども、その知識に基づいて日々を生きているクリスチャンは、どれほどいるでしょうか。

アブラハムは、まさにそのように生きました。 だから、この手紙の著者はアブラハムについてこう記しています。

信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。

信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに受け継ぐイサクやヤコブと天幕生活をしました。

堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都の設計者、また建設者は神です。(へブル人への手紙11:8-10)

信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に向かって召しを受けたとき、その召しに従い、行き先を知らずに出て行きました。

信仰によって、彼は約束された地に他国人として住み、同じ約束を受け継ぐイサクとヤコブとともに、天幕生活を送りました。

彼が待ち望んでいたのは、堅固な土台の上に建てられた都でした。 その都の設計者、また建設者は神です。(へブル人への手紙 11:8-10)

アブラハムにとって、約束の地はカナンでした。 しかし、私たちクリスチャンにとっての約束の地は、新しい天と地です。

アブラハムはカナンを所有することはありませんでしたが、その土地に暮らしました。

何百年後にその地はイスラエルとなりましたが、アブラハムは生涯、他国人としてその土地に住みました。 偶像礼拝と罪に満ちたその地で、彼は神様に喜ばれる人生を送りました。

この世はいつか新しくされ、私たちは神の子として新しい天と地を相続することになります。 けれども、その日が来るまでは、この世には偶像と罪が満ちています。

だからこそ、私たちは現代社会の真の市民ではなく、他国人のようにこの世に住む者なのです。 そして、来るべき新しい天と地を、心から待ち望んでいます。

その日まで、私たちはどのように生きるべきでしょうか。 たとえ生前にその結果を見ることがなくても、私たちは神様の命令に従って生きるのです。

神様は、アブラハムの子孫が増え、カナンを相続し、偉大な国となることを約束されました。 だから、アブラハムは父の家を離れ、神様に従ってカナンへ向かいました。

けれども、アブラハムが亡くなったとき、彼とサラには一人の息子しかいませんでした。 さらに、サラを葬るために小さな土地を購入しましたが、彼が生涯所有したのはその土地だけでした。

イサクには二人の息子がいましたが、彼もまたその小さな土地しか所有していませんでした。

ヤコブには十二人の息子がいました。 けれども、飢饉のために彼はエジプトへ移住しました。 神様の恵みによって、彼らの命は守られ、ヤコブはエジプトで亡くなりました。 そして彼も、カナンのその小さな土地に葬られました。

この三人は神様に従いましたが、神様の約束の完全な成就を見ることはありませんでした。

この手紙の著者は、彼らについてこう記しています。

これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。

そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。

もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。

ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。(13-16)

神様は、いつもご自身の約束を守られます。 神様はアブラハムを、大いなる強い国民とされました。 イスラエルが誕生してから、さまざまな国々が興亡を繰り返しましたが、イスラエルは今も存在しています。

そして、ある日、クリスチャンであるユダヤ人と異邦人が、一つの大いなる国民として立ち、アブラハムを「私たちの父」として認める日が来ます。

しかし、その日が来るまで、神様があなたに命じられたことに従いましょう。

アブラハムのように、あなたは生前に神様の約束の完全な成就を見ないかもしれません。 けれども、最終的にはその成就を目にします。 また、地上においても、あなたの子どもや孫たちは、あなたの忠実さの実を刈り取るでしょう。

さらに、この地球があなたの真の住まいではないことを覚えていましょう。

もし、過去の人生ばかりに心を向けるなら、その生き方に戻ってしまう危険があります。 そうすると、神様があなたのために用意されたものを、失ってしまうかもしれません。 だからこそ、永遠の住まいを待ち望みつつ、神様に忠実でありましょう。

神様は、あなたのために新しい都を備えておられます。 そして、ある日、イエス様はあなたのためにこの世に再び来られ、すべてのものを新しくされます。

だから、イエス様のことばを覚えていましょう。

わたしの父の家には住むところがたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。

わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためにです。(ヨハネ14:2-3)

アーメン。主イエスよ、どうか来てください。

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ガラテヤ人への手紙

律法とは何か、その役割とは

多くの人々は十戒や旧約聖書の律法を見ると、こう考えます。「律法によって私は義と認められるだろう。永遠の命を望むなら、その律法に従うべきだろう。」

ところが、この考え方は、律法が何であるか、そして何ではないかについての誤解です。また、律法が何をするのか、何をしないのかについての誤解でもあります。

そこで、パウロは律法について具体的に説明します。

人間の契約でも、いったん結ばれたら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはしません。

約束は、アブラハムとその子孫に告げられました。神は、「子孫たちに」と言って多数を指すことなく、一人を指して「あなたの子孫に」と言っておられます。それはキリストのことです。

私の言おうとしていることは、こうです。先に神によって結ばれた契約を、その後四百三十年たってできた律法が無効にし、その約束を破棄することはありません。(ガラテヤ人への手紙3:15-17)

パウロによれば、契約がいったん結ばれると、それを簡単に無効にすることはできません。この箇所で、パウロが言う「契約」とは、おそらく遺言について語っているのでしょう。

人が遺言を書き、亡くなった後、その遺言を簡単に無効にすることはできません。なぜでしょうか。それは一方的な契約だからです。つまり、一人の人だけが契約の条件を定め、その人の約束に従って契約の条件が実行されるのです。

神様はアブラハムとそのような契約を結ばれました。この契約はアブラハムの行いに基づいているのではなく、むしろ神様の約束のみに基づいていました。

創世記第15章では、神様はアブラハムの子孫についてさまざまな約束をされました。そして、煙の立つかまどと燃えているたいまつとして現れ、アブラハムへの約束の証として、切り裂かれた動物の間を通り過ぎられました。

現代の私たちの文化では、それは非常に不思議なことのように思えますが、当時の文化では、人々はそのように契約を結んでいました。(その時代には印鑑などが存在していませんでした。)

通常、契約を結んだ二者が、切り裂かれた動物の間を通り過ぎました。その意味は、「もし私がこの契約を守らなければ、この動物のように殺されることになる」というものでした。

ところが、神様とアブラハムの契約では、アブラハムはその切り裂かれた動物の間を通り過ぎませんでした。神様だけが通り過ぎられました。それは一方的な契約でした。

そして、パウロによれば、その契約はアブラハムだけのためではありませんでした。その契約はアブラハムの子孫、つまりイエス様のためだったのです。

創世記第12章7節、第13章6節、第15章18節におけるアブラハムへの神様の約束に関するパウロの解釈は、とても興味深いものです。

「子孫」という言葉は、一人の子孫を指す場合もあれば、多くの子孫を指す場合もあります。創世記では、神様は主にアブラハムの多くの子孫について語られました。

ところが、パウロによれば、もちろんその契約の祝福はアブラハムの真の子孫すべてのためでしたが、特にイエス様のためのものでした。そして、イエス様を通して、アブラハムのほかの子孫は祝福を受けるのです。

また、パウロは一つの重要なことをはっきりと教えています。律法は神様の約束の条件を変えるものではありません。その約束はアブラハムの行いに基づくものではありませんでした。だからこそ、神様の約束は私たちの律法を守る能力に基づくものでもないのです。

なぜでしょうか。パウロはこれについて説明します。

相続がもし律法によるなら、もはやそれは約束によるのではありません。しかし、神は約束を通して、アブラハムに相続の恵みを下さったのです。(18)

要するに、もし神様の祝福が律法の遵守によるものであるなら、その祝福はもはや神様の約束による一方的な契約に基づくものではなくなります。むしろ、その祝福は律法の遵守に依存することになります。

ところが、神様が祝福の約束を与えた時、その約束には条件がありませんでした。神様の契約は、恵みによる一方的なものです。

その契約が一方的なものであるため、神様はそれを簡単に無効にすることはできません。神様はご自身の約束を必ず守られます。なぜなら、それが神様の御性質だからです。神様はご自身が約束されたことを必ず成し遂げられます。

だから、覚えておきましょう。律法は神様の約束に取って代わるものではありません。アブラハムとその子孫に神様が約束された祝福は、神様の律法の遵守に基づいているのではありません。

では、律法の目的とは何でしょうか。次の記事で、そのことについてお話しします。

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ローマ人への手紙

確固とした確信を持っている?

私は聖書を何度も読んだことがあるので、新しい発見があると、本当にうれしく感じます。

とくに16-17節は、私の心に深く響きました。

そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。

こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。

アブラハムは、私たちすべての者の父です。「わたしはあなたを多くの国民の父とした」と書いてあるとおりです。

彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前で父となったのです。(ローマ人への手紙4:16-17)

「死者を生かし、無いものを有るものとして召される神。」

この言葉を深く考えてみると、救いの本質を表していることが分かります。

神様が私たちを救う前、私たちは霊的に死んでいました。罪のために裁かれたのです。しかし、イエス様が十字架で私たちの罪のために死んでくださったことによって、私たちは永遠の命を与えられました。

「無いものを有るものとして召される神。」

この言葉は創造を示しているようです。つまり、神様の思いによって、この世界のすべてが存在するようになったということです。

けれども、アブラハムの物語を読むと、私たちはこの「無いものを有るものとして召される神」という概念をより深く理解できます。神様はアブラハムにこう約束されました。

「あなたは多くの国民の父となる。」 「地のすべての国民はあなたによって祝福される。」

驚くべきことに、神様がその約束をされたとき、アブラハムはすでに75歳であり、妻サラは65歳でした。

それでも、神様はその約束を守られました。神様のご計画の中には、アブラハムのための素晴らしい未来があり、その計画は実現しました。

そして、アブラハムは決して神様がご自身の約束を守るかどうかを疑いませんでした。

時には、神様の計画の詳細を理解できず、愚かな行動を取ることもありました。(だから、ハガルの問題が起こりました。)

けれども、アブラハムは決して「神様はうそをついた」と考えることはありませんでした。

だから、パウロはこう言いました。

彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。

不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。

だからこそ、「彼には、それが義と認められた」のです。(ローマ人への手紙4:19-22)

そして、パウロはこう言いました。

しかし、「彼には、それが義と認められた」と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、私たちのためでもあります。

すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。(23ー24)

この箇所で、パウロは「義と認められる」ということについて語ります。

私が以前述べたように、この概念を理解するのは少し難しいです。どうして神様は罪人を義人と見なすことができるのでしょうか。彼らが何度も罪を犯すのに、どうして義と認められるのでしょうか。

その答えは17節にあります。神様は「無いものを有るものとして召します。」

新改訳第三版では、このように翻訳されています。「(神様は)無いものを有るもののようにお呼びになります。

これは「義と認められる」という概念を表しています。神様は義のない者を義のある者のようにお呼びになります。

どうしてでしょうか?それは、神様のご計画の中で、私たちはすでに義人とされているからです。神様は現在の私たちだけでなく、将来の私たちの姿を見ておられます。

神様が宇宙を造られたとき、神様の思いにはすでにどんな宇宙になるかが見えており、一言で、すべてが造られました。

神様がアブラハムに約束されたとき、その思いにはイサク、イスラエル、そしてイエス様の姿があり、一言ですべてが成就しました。

神様が私たちを見るとき、その思いには私たちがどのような人になるかが見えています。そして、神様の力によって、私たちはイエス様のかたちに変えられていきます。

毎日、私たちは少しずつ変わりつつあり、天国に行くと、そのプロセスは完成します。だからこそ、神様は私たちを見ると、義人と呼ぶことができるのです。

けれども、アブラハムのように、私たちはしばしば目の前の現実を見ます。つまり、私たちは弱く、罪を犯し続けてしまいます。

だから、アブラハムのように確固たる信仰を持ち、神様の約束を信じましょう。

神様がご自身の約束を実行する力を持っておられることを確信しましょう。神様は私たちを変え、私たちを本当に義人とされます。それは神様の思いの中だけでなく、現実となるのです。(第二コリント 3:18、第一ヨハネ 3:2)

このことを心に留め、信仰を強め、神に栄光を帰しましょう。それは私たちの行いによるものではなく、イエス様の行われたことによるものです。

主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。(25)

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ローマ人への手紙

救い:賜物?当然支払われるべきもの?

この個所では、パウロはとても大切な疑問について話します。

救いや永遠の命は神様からの賜物でしょうか。もしかしたら、それらは、当然支払われるべきものでしょうか。

パウロははっきりと答えます。

働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払われるべきものと見なされます。

しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。(ローマ人への手紙4:4-5)

従業員が働くと、給料日に上司は「あなたの給料を振り込みました。私はとても気前がいいですね。」とは決して言わないでしょう。

もし上司がそんなことを言えば、従業員は心の中でこう思うはずです。

「どういうことなんだ?気前がいいだって?私たちには契約があるはずだ。私はきちんと働いたのだから、会社は当然給料を払うべきだろう。」

しかし、私たちは神様に対してこのようなことを言うことはできません。

私たちが赦され、永遠の命を得る理由は、私たちが完全に律法を守ったからではありません。律法を守ることによって神様の子供になったわけでもありません。

むしろ、パウロはこう言います。

実際、律法は御怒りを招くものです。(15)

要するに、どんなに頑張っても、私たちは失敗してしまいます。

私はこう思うかもしれません。「前回は失敗したけれど、これからは努力して律法を完全に守ります。」

しかし、結局私たちは律法に違反し、神様の怒りを招いてしまいます。

旧約聖書の時代、ユダヤ人たちはその真理を深く学びました。そこで、神様は彼らにこう言われました。

「この律法に基づいた契約はうまくいっていない。

もちろん、律法は良いものだが、あなたがたは罪人であり、その律法を完全に守ることはできない。

だから私は新しい契約を与える。その契約はあなたがたの行為によるものではなく、私の行為によるものだ。」

エレミヤ書31:31ー34には、その新しい契約が記されています。

見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。

その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──主のことば──。

これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。

わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、「主を知れ」と言って教えることはない。

彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──主のことば──。

わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」

要するに、「あなたがたはもはや自分自身を変える必要はありません。私があなたがたの心を変えるので、あなたがたは善を行うことができるようになります。

また、私とあなたがたの間に、もはや仲介者としての祭司は必要ありません。あなたがたは私と直接関係を持ち、私はあなたがたの罪をすべて赦します。」ということです。

この新しい契約は何に基づいているのでしょうか。最後の晩餐の時、イエス様は弟子たちにこう言われました。

また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」

また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。

「みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの(新しい)契約の血です。」(マタイ26:26-28;ルカ22:19-20)

だから、私たちの救いと神様との関係は、私たちの行為に基づいているのではありません。むしろ、私たちの行為によって、神様の怒りを受けるに値します。しかし、救いは、イエス様の十字架の働きに基づいた賜物です。

律法が与えられる前に、神様はアブラハムにその賜物を与えてくださいました。そして、神様は同じ賜物を私たちにも与えてくださいます。

アブラハムは信仰によって受け入れられ、その賜物を受けました。同じように、私たちも信仰によって受け入れられ、その賜物を受けるのです。

だから、パウロはこう言われました。

そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。

こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちすべての者の父です。(ローマ人への手紙4:16)

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イザヤ書

私たちの遺産

クリスチャンの中には、旧約聖書を読むのがあまり好きではないという人もいます。彼らは「旧約聖書は本当に読む価値があるのだろうか」と疑問に思うからです。

けれども、この箇所で神様はイスラエルの民にこう語られます。「あなたの先祖から受け継いだ遺産、すなわちアブラハムとサラを通して受け継いだ遺産をよく見なさい」。

(イスラエルの歴史は、アブラハムとその妻サラから始まりました。)

神様はこう言われました。

義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。(イザヤ書51:1)

神様はイスラエルの民に語られましたが、同じように神様は私たちにも語りかけておられます。もしあなたが神様を求めているのなら、この言葉はまさにあなたのためのものです。

あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。

あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラのことを考えてみよ。わたしが彼ひとりを呼び出し、わたしが彼を祝福し、彼の子孫をふやしたことを。(イザヤ書51:1-2)

アブラハムとサラはイスラエルの父と母でしたが、クリスチャンとしての私たちにも彼らとの深い関係があります。彼らは信仰の歩みの模範であり、また信仰による義の象徴でもあります。

もちろん、彼ら以前にも信仰によって歩んだ人々はいましたが、旧約聖書の著者たちは信仰による義について語る際、常にアブラハムを例として挙げています。

パウロがアブラハムについて語ったとき、創世記を引用しました。

それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた。(ローマ4:3)

私たちが旧約聖書を読む理由は何でしょうか。

それは、私たちが切り出された岩を見つめるためです。私たちの信仰による義の遺産がどこから来たのかを知るためです。それだけでなく、彼らが信頼した神様について学び、その神の忠実さを見るためでもあります。

イザヤは、その神について記しています。まず、イザヤはイスラエルの民がエジプトから贖い出された出来事を思い起こします。

海と大いなる淵の水を干上がらせ、海の底に道を設けて、贖われた人々を通らせたのは、あなたではないか。(イザヤ書51:10)

さらに、イザヤは神様がどのようにしてこの世界を造られたのかを思い起こします。

わたしは、あなたの神、主であって、海をかき立て、波をとどろかせる。その名は万軍の主。。。

わたしの手の陰にあなたをかばい、天を引き延べ、地の基を定め、「あなたはわたしの民だ」とシオンに言う。(15-16)

だからこそ、私たちがその神を思い起こし、またアブラハムとサラから受け継がれた信仰の遺産を見つめるとき、神様は私たちに次のように語り、戒めておられます。

義を知る者、心にわたしのおしえを持つ民よ。わたしに聞け。人のそしりを恐れるな。彼らのののしりにくじけるな。

しみが彼らを衣のように食い尽くし、虫が彼らを羊毛のように食い尽くす。しかし、わたしの義はとこしえに続き、わたしの救いは代々にわたるからだ。。。

わたし、このわたしが、あなたがたを慰める。あなたは、何者なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるとは。

天を引き延べ、地の基を定め、あなたを造った主を、あなたは忘れ、一日中、絶えず、しいたげる者の憤りを恐れている。まるで滅びに定められているかのようだ。そのしいたげる者の憤りはどこにあるのか。(7-8、12-13)

私たちの信仰を弱めるもの、それは恐れです。将来への恐れ、そして他人の目を気にする恐れです。

「もし私が神様に従ったら、周りの人々はどう思うだろうか」という心配もその一つです。

しかし、アブラハムやサラ、そして信仰の道を歩んだ他の人々を見守られた神様は、私たちも同じように見守ってくださいます。

私たちを造られた神様、また私たちを罪から救い出された神様は、私たちを滅ぼそうとする敵からも救い出すことがおできになります。サタンからも確かに救ってくださいます。

だからこそ、自分たちが受け継いだ信仰の遺産を思い出しましょう。そして、その遺産を与えてくださった神様のことも思い起こし、神様に信頼しましょう。