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ルカの福音書のデボーション

ただ一緒に歩いている?本当に従っている?

さて、大勢の群衆がイエスと一緒に歩いていたが、イエスは振り向いて彼らに言われた。

「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。(ルカの福音書14:25ー27)

イエス様の言葉は厳しく聞こえるかもしれません。しかし、イエス様は彼らに基本的にこう尋ねられていたのです。

「あなたがたは私の国に参加することを本当に望み、心から従っているのですか。それとも、ただ私と一緒に歩いているだけなのですか。」

これは、語られた例え話の一つの要点でした。ある人々は、最初は宴会に参加する意欲を示したものの、最終的には他のものを優先しました。(その宴会は神の国を象徴していました)。(16ー20節)

真の弟子とただ一緒に歩いているだけの人の違いは何でしょうか。

真の弟子たちは、イエス様とその御国を家族、財産、さらには自分の人生さえも上回るほど大切にし、心からイエス様を愛しています。

もちろん、イエス様は私たちに、自分の家族を文字通り憎むことや、すべての持ち物を手放すことを求めておられるわけではありません。

しかし、イエス様はこう問いかけておられます。「あなたにとって、私はどのような価値を持っていますか?私をすべてのものよりも優先しますか?」

イエス様は、すべてを犠牲にするほど私たちを愛しておられました。私たちはそのようにイエス様を大切にしているでしょうか。

イエス様が良い王であり、イエス様に従うことで最終的に命を失うどころか、命を得ることを本当に信じているでしょうか。

Love so amazing, so divine,
驚くほど素晴らしく、神聖な愛は、
Demands my soul, my life, my all.
私の魂、命、そしてすべてを本当に呼び求めます。

O the wonderful cross
ああ、素晴らしい十字架よ
Bids me come and die that I may truly live.
私が来て死ぬように、そして豊かに生きるように招かれています。

–アイザック・ワッツ、クリス・トムリン

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ルカの福音書のデボーション

弟子とは

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。(ルカの福音書9:23)

今朝、イエス様の御言葉を反芻していました。その御言葉を言い換えるなら、

わたしの弟子になりたいと思うなら(実際、すべてのクリスチャンは弟子です):

1. 自分中心に生きることをやめなさい。「私の人生」という考え方を手放しなさい。

2. むしろ、毎日すべてを天の父に明け渡しなさい。すべてを捧げ、すべてにおいて従いなさい。(ピリピ2:8)

3. 毎日毎日、一瞬一瞬わたしと共に歩みなさい。わたしから学び、わたしの働きに参加しなさい。御父の良い統治のもとへ人々を招きなさい。

イエス様の言葉を考えると、「日々」という言葉が私の心に響きました。クリスチャン生活は、一週間に一度だけのものではなく、日々のものです。

さらに、イエス様だけではなく、天の父も私たちがイエス様の弟子となるように呼んでおられます。

これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け。(ルカ9:35)

だから、今日私はこのように祈りました。

イエス様、あなたは私の良い王です。どうか、私が毎日あなたに従い、あなたの弟子として生きることができますように導いてください。

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申命記のデボーション

イエス様に聞き従わなければなりません!

あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。

あなたがたはその人に聞き従わなければならない。(申命記18:15)

ペテロによれば、モーセはイエス様を指していました。(使徒の働き3:19-26)

もしかすると、ペテロは自分、ヤコブ、ヨハネに対する天の父の戒めを思い出していたのかもしれません。

これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。(マルコ9:7)

正直に言うと、私はまだイエス様の言われることに耳を傾けることを学んでいる途中です。

しかし、キリストの弟子として、私たちはこの世の流れに単に従うべきではありません。

モーセもイスラエル人たちに同じような警告を与えました。(申命記18:9-14)

むしろ、私たちはイエス様に聞き従わなければなりません。

日々の生活で決断をするとき、あなたは誰に聞き従っていますか。

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マタイの福音書のデボーション

イエス様について行っているだけなの?それとも、イエス様に従っているの?

それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。(マタイの福音書16:24)

「イエス様について行く。」

「イエス様に従う。」

原語では、この二つの表現は弟子になることを表すために使われています。

「ついて行く」と訳される言葉は、直訳すると物理的に人の後ろを歩くことを意味します。

一方、「従う」と訳される言葉も「ついて行く」という意味を含みますが、多くの場合、「イエス様に従う」は、「イエス様から学び、イエス様の御声に応え、イエス様の導きに従う」というニュアンスを持っています。(マタイ4:20、ヨハネ10:4、27)

多くの人々がイエス様について行きました。癒しを求める人もいれば、イエス様の新しい教えに興味を持つ人もいました。

しかし、イエス様に本当に従っていた人は少数でした。

イエス様の弟子たちでさえ、従う姿勢を取らなかった時もありました。

イエス様が神様の計画を果たすために何をしなければならないかを説明されたとき、ペテロはその計画に従おうとはせず、むしろイエス様を別の道へ導こうとしました。その結果、ペテロはイエス様につまずきを与える者となってしまいました。

だから今日、私はこう考えました。

「私は本当にイエス様に従っているだろうか。それとも、イエス様を私の行きたい道に引っ張ろうとしているのだろうか。」

「私はイエス様の計画に従っているでしょうか。それとも、イエス様を操って、私の計画に従わせようとしているのだろうか。」

あなたはどうでしょうか。あなたは、ただイエス様について行っているだけでしょうか。

教会に行ったり、聖書を読んだり、祈ったりしているかもしれません。でも実際には、イエス様を操って、自分の計画に従わせようとしているのではないでしょうか。

それとも、あなたは本当にイエス様に従っているでしょうか。毎日毎日、一瞬一瞬、イエス様から学び、御声に応え、イエス様の導きに従っているでしょうか。

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マタイの福音書のデボーション

厳しい言葉?

自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。(マタイの福音書10:38)

それらは、確かに厳しいことばでしょう。

イエス様の言葉を読んだとき、私たちはどう感じるでしょうか。

不安?恐れ?

私は長年クリスチャンですが、最初に思ったのは、「厳しい言葉だね。イエス様は私に多くを要求されているのだ」ということでした。

そして、イエス様の言葉を自分の人生にどう当てはめるべきかを考えると、その言葉はさらに厳しく感じられました。

だから今朝、私が自問自答しなくてはならなかったのは、「この感情をどうすればいいのだろうか」ということです。

私はどうすればいいのでしょうか。

真理を覚えておきましょう。

真理とは何でしょうか。

私のアバは良い方で、私を深く愛してくださっているのです。

二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。

あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。(マタイの福音書10:29ー31)

真理とは何でしょうか。

それは、私が自分の十字架を負ってイエス様に従うなら、私のいのちを失うのではなく、むしろ私のいのちを得るということです。

自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。(マタイの福音書10:39)

イエス様に従うことは、いつも簡単なこととは限りません。時には、イエス様に従うことが、非常に困難に感じられることもあります。

それでも、私のアバは良い方で、私を深く愛してくださり、いつもご自分の約束に忠実な方です。だから、私には希望があります。そして、その希望は確かなものです。

これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。

世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(ヨハネ16:33)

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ヨハネの手紙第二のデボーション

真の弟子とは

私たちが御父の命令にしたがって歩むこと、それが愛です。。。

だれでも、「先を行って」キリストの教えにとどまらない者は、神を持っていません。

その教えにとどまる者こそ、御父も御子も持っています。(ヨハネの手紙第二6,9)

ヨハネの手紙を読むと、彼がよくイエス様のことばに思いを巡らしていたことがわかります。ヨハネのことばは、イエス様のことばに基づいています。

あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。

あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネ8:31-32)

わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。。。

だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。(ヨハネ14:21,23)

イエス様の弟子の特徴は何でしょうか。何によって、イエス様への愛は現れるのでしょうか。

それは、私たちがイエス様のことばに従うほど、イエス様に信頼することです。

そうすれば、私たちは自由を知るようになります。

しかし、それだけではなく、私たちの神との関係は、より親しくなります。神様は、御自身を私たちにさらに現してくださり、私たちは神様の愛といつくしみを、より深く理解し、経験します。

私は、神様の愛といつくしみを味わい、神様が良い方であることを知るようになりました。だから、私は神様をもっともっと求めたいです。

あなたはどうですか。イエス様のことばに従い、神様の愛といつくしみを味わったことがあるでしょうか。

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ルカの福音書のデボーション

主よ、私の目が見えるようにしてください

弟子たちには、(イエスが言われたこと)が何一つ分からなかった。彼らにはこのことばが隠されていて、話されたことが理解できなかった。(ルカの福音書18:34)

(目の見えない人)が近くに来ると、イエスはお尋ねになった。「わたしに何をしてほしいのですか。」

するとその人は答えた。「主よ、目が見えるようにしてください。」(40ー41節)

イエス様、どれだけあなたは私に大切なこと、私が聞かなくてはならないことを伝えたいと思っておられるでしょうか。でも、弟子たちと同じように、私にはその言葉が隠されていて、理解できないのでしょうか。

私は霊的に盲目になりたくありません。どうか、私の目が見えるようにしてください。あなたが言わんとしていることを理解できるように、私の心の目を開いてください。

あなたが私に言わんとしていることを理解し、受け入れることを妨げるものを、私の心から取り除いてください。

パリサイ人のプライドを、私の心から取り除いてください。

すべてをあなたに開け渡そうとしない指導者の態度を、私の心から取り除いてください。

主よ、あなたにすべてを開け渡すことには、喜びがあります。あなたに従うことには、喜びがあります。

目が見えない人は、その喜びを知りました。

私も、その喜びを知るように。

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マタイの福音書のデボーション

誰に従っているのでしょうか

ヨハネの死は、本当に切ない出来事ですね。でも今日、私はヨハネの弟子たちの反応について考えました。彼らはヨハネの遺体を引き取り、丁寧に葬りました。そして、イエス様のもとへ行って、そのことを報告しました。

今日、それを読んで、私は初めてこう思いました。

「そのあと、彼らは何をしたのだろうか。イエス様に従い始めたのだろうか。

それとも、ただ自分の家に戻ったのだろうか。」

私たちには分かりません。

もし彼らがイエス様に従い始めたのなら、それは本当に素晴らしいことだったと思います。なぜなら、ヨハネはいつもイエス様を指して、「その方に従いなさい」と語っていたからです。

それはさておき、私たちはどうでしょうか。私たちは誰に従っているのでしょうか。

多くの人々は、他の人の影響によってクリスチャンになりました。その人は牧師かもしれません。友人や家族かもしれません。

しかし、その人がいなくなったとき、私たちはどうするでしょうか。

その人は亡くなるかもしれません。

その人は引っ越すかもしれません。

残念なことですが、その人が罪に陥り、神様から離れてしまうこともあるかもしれません。

そのような時、私たちはどうするでしょうか。

私たちはただ「家に帰る」のでしょうか。

それとも、私たちはイエス様に向かい、従うのでしょうか。

イエス様は、5000人にパンを与えられたとき、ご自身が命のパンであることを証明されました(ヨハネ6章)。

つまり、イエス様こそが、私たちに真の命を与える方であることを示されたのです。イエス様こそが、私たちの霊的な飢えと渇きを満たすことのできるお方です。

さらに、人生の嵐が襲うときにも、イエス様はいつも私たちと共におられる方です。

人々が私たちから離れていくこともあります。彼らが私たちを失望させることもあります。

しかし、イエス様は決してそのようなことはなさいません。

だから、私はもう一度あなたに問いかけます。

あなたは誰に従っているのでしょうか。

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マタイの福音書のデボーション

イエス様についていく

イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。(マタイ7:28ー29)

イエス様についていくとは、どういう意味でしょうか。

もちろん、私たちはイエス様の権威を認めなければなりません。

イエス様は、はっきりとご自身の権威を示されました。

イエス様が命じられると、風と波は従いました。

イエス様が命じられると、悪霊たちも従いました。

イエス様は、もちろん権威を持っておられる方ですが、私たちはその権威を本当に認めているでしょうか。

百人隊長はそれを認めました。

イエス様についていきたいと思った二人の人たちが、その権威を認めていたかどうかは、私たちにはわかりません。

マタイ7:28〜29に登場する群衆の中には、イエス様の権威を認めた人もいれば、拒絶した人もいました。

しかし、イエス様の権威を認めることが、必ずしもイエス様についていくことを意味するわけではありません。

悪霊たちはイエス様の権威を認めましたが、イエス様を憎みました。

ガダラ人たちはイエス様を恐れ、その地方から立ち去ってほしいと願いました。

では、私たちはどうでしょうか。

イエス様は私たちに問いかけられます。「私の権威を認めているのですか。私に従うほどに、私を愛し、信頼しているのですか。」

あなたは、イエス様に従いたいと願っていますか。

あなたは、イエス様を愛し、心から知りたいと願っていますか。

イエス様のことばを心に留めましょう。

わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。

わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。(ヨハネ14:21)

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ヨハネの福音書のデボーション

あなたは、わたしに従いなさい

イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」(ヨハネの福音書21:22)

多くの人々は、しばしば自分を周りの人々と比べてしまいます。正直に言うと、私もよくそうしてしまいます。

でも、そうしてしまうと、私たちは一番大切なことを忘れてしまいます。それは、イエス様に従うことです。

今日の話を読んだとき、私はペテロのことを思い起こしました。イエス様を見ると、ペテロは湖に飛び込んで、イエス様のもとへ泳いでいきました。

私の最初の思いは、「イエス様に対するペテロの情熱が欲しいなぁ」ということでした。

次の思いは、「ペテロはクレージーだった。私は絶対に湖に飛び込まない」というものでした。

もちろん、私はイエス様を愛しています。でも、ペテロの性格と私の性格はまったく違います。

(あなたはどうでしょうか。イエス様を見たら、湖に飛び込んで、イエス様のもとへ泳いでいくでしょうか。)

でも、神様は私にこう言われました。「たとえ私がペテロにそのような性格を与えようと望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。私はあなたを、ありのままに造りました。あなたは、私に従いなさい。」

神様は、私がペテロのようになることを望んでおられるのではありません。神様は、私が自分の牧師や他のクリスチャンのようになることを望んでおられるのではありません。神様は、私を造られたとおりに生きることを望んでおられるのです。

神様は、あなたに対しても同じように感じておられます。

もし私たちがイエス様から目を離さず、イエス様に従い、神様に託されたものを忠実に用いるなら、神様は喜ばれます。

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ルカの福音書のデボーション

イエスに従うことを妨げるもの

イエスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。(ルカ9:23)

私たちがイエス様に従うことを妨げるものは何でしょうか。

パリサイ人の場合、プライドは大きな問題でした。特に、彼らは自分の義を誇り、自分の罪を見ることができなかったのです。そのような人々には、憐れみの必要性や救い主の必要性がわかりませんでした。(ルカ18:9-14)

指導者の場合、自分の持ち物が大きな問題でした。つまり、イエス様に従うことよりも、楽な生活と安心感を与えてくれるお金を優先したということです。(18-25)

弟子たちの場合、イエス様に従うことを妨げるものは、自分たちの夢でした。それは、イエス様がローマ帝国を打ち倒し、イエス様の国の中で彼らに偉大な地位を与えるという夢です。

それ以外のことについては、彼らはイエス様のためにすべてを捨てていましたが、その夢だけは手放すことができませんでした。

だから、イエス様がご自身の死について話されたとき、彼らは理解できなかったのです。ペテロの場合、彼はイエス様をいさめようとしました。(マルコ8:32)

神様、罪人の私をあわれんでください。

私のプライドを赦してください。自分の罪を軽く見て、ほかの人々を見下すことを赦してください。私が自分の罪を見て、あなたの恵みの必要性を認識するように助けてください。

私の偶像礼拝を赦してください。あなたに従うことよりも、ほかのものを優先することを赦してください。

自分の夢と希望にしがみつき、あなたの言葉に目と耳を閉じることを赦してください。

あなたは良い方です。だから、あなたに従うために私にとって尊いものを失っても、もっと素晴らしいものを見つけることを私は知っています。(ルカ18:29-30)

天のお父様、変わるのは本当に難しいです。正直に言うと、それは不可能に近いように思えます。でも、人にはできないことが、あなたにはできます。

あなたはすでに、誰にもできないことをしてくださいました。つまり、私を自分の罪から救ってくださったのです。だから、私の人生に始められた良い働きを完成させてください。(ピリピ1:6)

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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イエス様に従い甲斐がある?

イエス様に従うことは本当に甲斐があるのでしょうか。裕福な役人はその疑問に直面しなければなりませんでした。残念ながら、彼はイエス様に従うことに甲斐がないと感じてしまいました。

ペテロもまた、自分自身に同じ問いを投げかけました。「イエス様のために、私はすべてを捨ててきましたが、それは本当に価値あることなのでしょうか。」

そこで彼はイエス様に尋ねました。

ご覧ください。私たちはすべとを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。(マタイ19:27)

イエス様はこのように答えられました。

まことに、あなたがたに言います。

私のために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は、今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来たるべき世で永遠のいのちを受けます。

しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。(マルコ10:29-31)

ここには、二つの重要な注意事項があります。

1.イエス様は、私たちがイエス様に従うなら報いを得ると教えてくださいました。報いは天国で得るだけではなく、この世でも得られます。それだけではなく、イエス様は私たちが豊かに祝福されると語られました。

もちろん、私たち全員が金持ちになるわけではありません。それでも、私たちの人生の終わりに振り返るとき、「私は祝福された。イエス様に従った甲斐があった」と心から言えるでしょう。

2.マルコの福音書にのみ記されているこの言葉は特に目立つものです。イエス様は報いについて語るだけではなく、警告もしてくださいました。「あなたは迫害を受けるでしょう。私に従えば必ず迫害されるでしょう。」

つまり、クリスチャンとしての生活はいつも楽しいものではありません。もちろん、喜びの瞬間はありますし、神様が私たちに祝福を注いでくださることもあります。

しかし、イエス様に従うならば、あなたを憎む人々がいるでしょう。イエス様は完全な神の子であったにもかかわらず、人々は彼を憎んだのです。

そして、イエス様はこう語られました。

しもべは主人にまさるものではない。。。人々が、私を迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。(ヨハネ15:20)

だから、イエス様に従っている間に迫害を受けることがあっても驚かないでください。むしろ、永遠の報いに目を向けましょう。なぜなら、どんな苦しみがあっても、最終的にはイエス様に従う価値があるからです。

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イエス様に従う?

イエス様に従うとはどういう意味でしょうか。

この話では、三人の人々が「弟子であることの意味」を知りました。

律法学者がイエス様のもとへ来て、こう言いました。

先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。(マタイ8:19)

この人物は、他の律法学者たちとは異なっていました。多くの律法学者はイエス様に反対しましたが、この人は熱心にイエス様に従おうとしました。

もちろん、熱心であることは良いことです。けれども、イエス様は彼に警告されました。

狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。(マタイ8:20)

要するに、イエス様はこう言われました。

「私は楽な人生を約束しません。私に従うことは時に困難です。あなたが家を離れれば、戻る機会は限られるでしょう。もしかすると、一度も結婚しないかもしれません。それでも、あなたはまだ私に従いたいのですか。」

そして、イエス様は別の人にもこう言われました。

「わたしについて来なさい。」

しかし、その人はこう答えました。

まず行って、私の父を葬ることを許してください。(ルカ9:59)

おそらく、その人の父親はまだ生きていたでしょう。イエス様が「私について来なさい」と言われたのは、葬儀の最中ではなかったはずです。

もしかすると、その父親は病気で死にかけていたのかもしれません。いずれにせよ、あるいはとても元気ではあるものの、年老いていたのかもしれません。いずれにせよ、その人は父親が亡くなるまで待ちたいと考えました。

さらに、その父親がイエス様に反対していたため、その人がイエス様に従うならば、父親に拒絶される可能性もあったのです。

そこで、イエス様はこう言われました。

死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。(ルカ9:60)

おそらく、イエス様が意味されたことは、「霊的に死んでいる者たちが霊的に死んでいる者たちを葬らせなさい」ということだったのでしょう。

時に、人々はこう考えます。「私はクリスチャンになりたくありません。なぜなら、私の両親はすでに亡くなっており、もし私がクリスチャンになるなら、彼らが地獄に行ったと認めなければならないからです。」

しかし、イエス様が伝えたかったのは、あなたにそのことを決定する権限はないということです。霊的に死んでいる者たちがあなたの霊的な運命を決めることを許してはなりません。

また、霊的に死んでいる者のために、神様の働きを避けるべきではありません。なぜなら、あなたが他の霊的な死人に福音を伝えれば、その人は救われる可能性があるからです。

けれども、もしあなたが家族の意見を恐れて福音を伝えないなら、その人々も地獄へ行ってしまうかもしれません。

そのとき、もう一人の人がイエス様のもとへ来て、こう言いました。

主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。(ルカ9:61)

でも、イエス様はその人にこう言われました。

だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。(ルカ9:62)

なぜイエス様はこのように言われたのでしょうか。おそらく、イエス様はその人の心を見抜いておられたからでしょう。

つまり、彼は家族への愛ゆえに、心を尽くしてイエス様に従うことができませんでした。そのため、たとえイエス様について行っても、すぐに家へ戻ってしまうでしょう。

もし私たちがいつも過去を振り返ってばかりいるならば、イエス様に従うことは非常に困難になります。イエス様は私たちの心のすべてを求めておられます。一部分だけを望まれるのではありません。

そのため、時には良いことであっても手放さなければならないことがあります。なぜなら、私たちはより優れたものを求めているからです。

その三人の人々がイエス様の言葉にどのように反応したのか、私たちには分かりません。おそらく、福音書の著者たちは、私たち自身が心を探るように意図したのでしょう。

たとえ困難でも、あなたはイエス様に従うでしょうか。

家族や友人がイエス様に従うことを拒んだとしても、それでもイエス様に従うでしょうか。

イエス様に従うために、すべてを捨てるでしょうか。

もしイエス様が「わたしについて来なさい。」と言われたなら、あなたはどうするでしょうか。

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最も大切なもの

あなたは何のために生きているでしょうか。何を求めているでしょうか。

楽な人生でしょうか。富でしょうか。この世の物でしょうか。

この箇所で、イエス様は私たちに自分の優先順位を見直すように挑戦されています。イエス様は弟子たちに、そして私たちに、本当に難しいことを語られました。

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい(ルカ9:23)

イエス様は私たちにそう要求されましたが、ご自身もそのように生きておられました。

イエス様は自分自身を捨てられました。

イエス様は天国に留まり、私たちをそのまま放置し、地獄へ向かわせることもできました。けれども、イエス様は天国を離れ、栄光を捨て、天使の礼拝を後にしてこの世に来られ、人間となられました。

この世において、イエス様はご自身のニーズを優先せず、周囲の人々の必要を満たすことを選ばれました。

イエス様は十字架を背負われました。

イエス様は打たれ、血を流されながらも、自らの十字架を死刑の場まで運ばれました。そして、十字架上で激しく苦しまれ、死なれました。なぜでしょうか。

天の父の計画を成し遂げるためです。私たちの救いのために死なれました。

イエス様がご自身を捨てられたように、私たちも自分自身を捨てるべきです。とはいえ、それは人生を楽しんではいけないという意味ではありません。イエス様もご自身の人生を楽しまれました。

ただし、神様の計画を果たすために、時には自分のニーズや願いを手放す必要があるのです。

時には、私たちは苦しまなければならないことがあります。私たちの家族は、私たちの信仰のゆえに私たちを拒絶するかもしれません。日曜日に働かないことで、職を失うかもしれません。イエス様に従うがゆえに、迫害を受けるかもしれません。

それでも、私たちは苦しみの中にあっても、イエス様に従うべきです。

なぜでしょうか。それは、イエス様にあって、私たちが最も大切なものを見出すからです。それは、イエス様との関係であり、また私たちのために備えられたイエス様の計画を成し遂げることです。

しかし、ある人々は、自分が欲しいもののために、イエス様とその計画を捨てます。彼らは自分の欲望を手放さず、代わりにイエス様を手放してしまいます。

イエス様は彼らにこう言われます

人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。

もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥とします。

しかし、わたしは真実をあなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国を見るまでは、決して死を味わわない者たちがいます。(ルカ9:25-27)

時に厳しい現実ですが、もし私たちがイエス様を捨て、自分の欲望を持ち続けるなら、最終的にすべてを失ってしまうのです。

けれども、逆に自分の願いを手放し、イエス様に従うなら、真の満足と平安を見出すことができます。なぜなら、裁きの日に、イエス様は私たちに報いを与えてくださるからです。

この世においても、私たちはその栄光を垣間見ることができます。

そのため、イエス様は弟子たちにこう約束されました。

まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。(マルコ9:1)

弟子たちはイエス様のために苦しみましたが、彼らは神の国が力強く到来するのを目の当たりにしました。神様は彼らを通して奇跡を行われ、福音によって多くの人々の人生が変えられました。

また、彼らはイエス様のために殉教しましたが、神の国に着いたとき、素晴らしい報いを受けました。

あなたはどうでしょうか。一番大切なものを得るために、自分の欲するものを手放すことができるでしょうか。