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エペソ人への手紙のデボーション

なぜこの世の民に従ってはいけないのか

この世にあって、私たちは、その考え方を受け入れるように促されます。特に、聖書の教えを曲げて、この世の道徳的価値観を受け入れるよう強いプレッシャーを受けています。

人々はこう言います。「道徳に関して、社会の考え方は変わりつつあります。だから、私たちは歴史の流れに乗らなくてはなりません。聖書の教えはもう時代遅れです。」

しかし、私たちはそのような考え方に従ってはなりません。

なぜでしょうか。

パウロは、この世の人々をどのように描写しているでしょうか。

彼らの心はむなしいのです。(エペソ人への手紙4:17)

彼らの心は神様に対して、頑なで、また無感覚なのです。

そのため、彼らの知性は暗くなり、神のいのちから遠く離れてしまっています。(18〜19)

さらに、彼らは自分の罪深い情欲に惑わされています。だから、彼らは神様が憎まれるものを「良い」と呼び、神様が「悪」とされるものを喜びます。

その結果はどうなるでしょうか。

彼らの人生は腐敗し、破滅に至る道を歩んでいます。(22)

だからこそ、パウロは私たちにこう訓戒します。「彼らの模範に従ってはいけません。」

むしろ、私たちは彼らの考え方を脱ぎ捨てる必要があります。反対に、私たちは「真理に基づく義と聖を持って、神にかたどり造られた新しい人を着なければなりません。」(24)

だから、聖書の教えを曲げ、この世の教えを受け入れるように誘惑されるとき、この世の人々の本当の状態を覚えておきましょう。

彼らのために祈りましょう。

彼らに神様の光を照らしましょう。

しかし、彼らの考え方や模範に従ってはなりません。

私たちが救い主イエス様のようになるために、そして本当のいのちを受けるために、イエス様は十字架でご自身のいのちを捧げられたのです。

 

 

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ピリピ人への手紙

キリストの模範に従う(2)

数日前、私は「イエス様の模範に従うこと」についてお話ししました。

ピリピ人への手紙3章では、パウロは自分自身について語っていますが、2章の内容を踏まえて読むとき、彼の言葉をまったく別の視点から見ることができるように思います。

そこで、パウロの言葉に耳を傾けてみましょう。

「しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。」(ピリピ人への手紙3:7)

クリスチャンになる前、パウロは自分がユダヤ人であること、 そしてパリサイ人であることを誇っていました。

また、彼は律法を忠実に守ろうとする努力そのものを誇りとしていたのです。

しかし、クリスチャンとなったとき、パウロはキリストのゆえに、そのような誇りをすべて捨てました。

それだけではなく、イエス様との関係と比べて、パウロはこの世のすべてのものを、価値のないものと見なしたのです。

イエス様を得、イエス様の義に包まれたいという願いのために、 彼はそれらを「ちりあくた」と見なしました(3:8〜9)。

そして、パウロの主な願いは、イエス様とその復活の力を知り、 イエス様の苦しみにあずかり、キリストの死と同じ状態にまで達することでした。

最終的には、イエス様と共に復活させられることを熱く望んでいたのです(3:10)。

それと同じように、イエス様もまた、私たちのために、ご自身にとって益であったすべてのものを、損と見なされました。

私たちとの関係と比べると、イエス様は、天にあるご自身の栄光さえも、価値のないものとされたのです。

私たちを得て、ご自身の義によって私たちを包むために、イエス様は、天のすべてのものを“ちりあくた”と見なされたのです。

イエス様の望みは、私たちがイエス様とその復活の力を知り、 イエス様の苦しみにあずかり、イエス様の死と同じ姿にあずかって、ついには栄光のうちに復活することです。

そのゆえに、イエス様は十字架へと進み、苦しみを受けられました。

それならば、私たちもイエス様のために、同じ道を歩むべきではないでしょうか。イエス様が私たちのためにすべてを捨てられたのだから、私たちもまた、イエス様のためにすべてをささげるべきではないでしょうか。

さあ、日々、イエス様の模範に従って歩みましょう。