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エレミヤ書

あなたは私に信頼するから

このブログでは、私は可能な限り、聖書の出来事を年代順に読んでいます。私にとって、そのような読み方は非常に興味深いです。なぜなら、それまで気づいていなかったことに気づくことができたからです。

例えば、この箇所では、ネブカデネザルはエレミヤに関して次のように命じました。

彼を連れ出し、目をかけてやれ。何も悪いことをするな。ただ、彼があなたに語るとおりに、彼にせよ。(エレミヤ書39:12)

どうしてネブカデネザルはエレミヤに親切にしたのでしょうか。

40章によれば、ネブカデネザルはエレミヤの預言を知っていたからです。つまり、ユダの罪のゆえに、神様がユダをネブカデネザルの手に渡すと預言していたからです。

けれども、どうしてネブカデネザルはその預言を知っていたのでしょうか。

おそらく、エホヤキン王と他のユダ人たちが追放された際に、ネブカデネザルは彼らからその預言を知ったのかもしれません。

しかし、誰がネブカデネザルにその預言について話したのでしょうか。また、なぜネブカデネザルはその預言を信じたのでしょうか。

私は分かりませんが、多分ダニエルがネブカデネザルにその預言について話したのではないかと思います。なぜなら、ネブカデネザルはダニエルを尊敬していたからです。ダニエルは「呪法師の長」でした。(ダニエル4:9)

彼はネブカデネザルに仕えました。また、ダニエルはエレミヤの預言をよく知っていました。(ダニエル9章)

それゆえ、ダニエルはエルサレムが滅びそうだと聞いたとき、おそらく彼はネブカデネザルにこう言ったのかもしれません。

「王様、エルサレムにはエレミヤという預言者がいます。私たちは同じ神に仕えています。また、彼はユダの没落を預言しました。ですから、彼を守ってください。」

もちろん、これは私の想像に過ぎませんが、正しいかもしれないと思います。

いずれにせよ、ネブカデネザルはエレミヤを守りました。

ヨシヤ王が亡くなった後、エレミヤはずっと苦しんでいました。それでも、彼が神様に信頼したため、ユダが滅び、そのリーダーたちが追放され、あるいは殺された時も、エレミヤは救われました。

エベデ・メレクという人も救われました。以前、エレミヤが穴に投げ込まれた時、エベデ・メレクはゼデキヤ王のもとに行き、エレミヤの解放を頼みました。

そのため、神様はエベデ・メレクにこう言われました。

イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。見よ。わたしはこの町にわたしのことばを実現する。幸いのためではなく、わざわいのためだ。それらは、その日、あなたの前で起こる。

しかしその日、わたしはあなたを救い出す。――主の御告げ――

あなたはあなたが恐れている者たちの手に渡されることはない。わたしは必ずあなたを助け出す。

あなたは剣に倒れず、あなたのいのちはあなたの分捕り物としてあなたのものになる。それは、あなたがわたしに信頼したからだ。――主の御告げ――(39:16-18)

神様はその約束を守られました。エルサレムが滅びた時、神様は彼を守られました。

「あなたが私に信頼したからだ。」

その言葉は私の心に響いています。私たちが神様に信頼すると、周りの人々が裁かれても、私たちは救われます。私たちは神様の恵みとあわれみを受けます。

ただ、神様に信頼するからといって、私たちが決して苦しまないというわけではありません。エレミヤは多くの苦しみを経験しましたし、多くの人々も自分の信仰のために苦しみました。

しかし、彼らが死んだ後、最終的に休息と報いを受けました。

この世では私たちが救いを受けられないかもしれません。イエス様に従うことによって、私たちは苦しむことがあるかもしれません。けれども信仰はこう言います。

「私の救いは今は見えないけれど、最終的にその救いが来ると信じます。」

エレミヤはそのような信仰を持っていました。エベデ・メレクもそのような信仰を持っていました。私たちにもそのような信仰が必要です。

へブル人への手紙の著者はこう書いています。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。

神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。(へブル書11:6)

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エレミヤ書 オバデヤ書

裁きの理由

なぜ私はエレミヤ書とオバデヤ書の箇所を混ぜているのでしょうか。それは、オバデヤ書を読むと、このエレミヤ書の箇所に似ているからです。

例えば、エレミヤとオバデヤは同じ表現とイメージを使っています。だから、多分オバデヤはエレミヤの言葉を知っていたかもしれません。また、エレミヤはオバデヤの言葉を知っていたかもしれません。

一人の聖書の著者が別の聖書の著者を引用することは珍しいことではありませんでした。

あるいは、神様はオバデヤにこう言われたのかもしれません。「エレミヤの言葉を覚えていますか。彼が言ったことをもう一度書きなさい。」(逆の可能性もあります。)

または、彼らがお互いの預言を知らなかったけれど、神様は彼らに同じメッセージを伝えられたのかもしれません。それも珍しいことではありません。

とにかく、神様はユダの周りの国々を裁いておられます。おそらく、エレミヤ書27ー29章の出来事が起こったとき、この預言が書かれたのでしょう。27ー29章では、エレミヤはその同じ国々に対してネブカデネザルに降伏するよう警告しました。

どうして神様はその国々を裁かれたのでしょうか。神様は3つの理由を示されました。

1.偽物の神を礼拝すること。例えば、モアブ人の神はケモシュでした。またアモン人の神はモレクでした。すべての国々は真の神に背を向けて、自分の神々を礼拝しました。

2.プライドのこと。神様はモアブについてこう言われました。

おまえは自分の作った物や財宝に拠り頼んだので、おまえまで捕らえられ[る]。。。

私たちはモアブの高ぶりを聞いた。実に高慢だ。その高慢、その高ぶり、その誇り、その心の高ぶりを。「わたしは、彼の高ぶりを知っている。――主の御告げ――

その自慢話は正しくない。その行ないも正しくない。」(エレミヤ書48:7、29ー30)

アモンについて神様はこう言われました。

裏切り娘よ。あなたの谷には水が流れているからといって、なぜ、その多くの谷を誇るのか。あなたは自分の財宝に拠り頼んで、言う。「だれが、私のところに来よう。」(エレミヤ書49:4)

神様はエドムにこう言われました。

あなたの心は高慢だ。あなたが鷲のように巣を高くしても、わたしは、そこから引き降ろす。(エレミヤ書49:16)

そして、神様がケダルとハツォルという国について話されたとき、神様はネブカデネザルに命じられました。

さあ、安心して住んでいるのんきな国に攻め上れ。――主の御告げ。。。(エレミヤ書49:30-31)

3.その国々は、憐れみと情けを全然知らなかったこと。イスラエルが倒れたとき、モアブ人はイスラエル人をからかいました(エレミヤ書48:27)。

また、アモン人は追放されたイスラエル人の土地を奪いました(エレミヤ書49:1)。

そして、エドム人はイスラエル人の「兄弟」なのに、イスラエルが攻撃されたとき、エドムは全然助けませんでした。むしろ、イスラエルが倒れたとき、エドム人たちは喜んでいました。(オバデヤ12-13)

(エドムはエサウの子孫でした。イスラエル人はエサウの弟ヤコブの子孫でした。)

偶像礼拝。プライド。情けと憐れみのない心。あなたはそのような罪を犯すでしょうか。

仏壇を拝むでしょうか。もしくは、すべてのことよりもお金を大事にするでしょうか。あなたが一番大事にするものは、あなたの神です。

プライドはどうでしょうか。あなたは何に信頼するでしょうか。自分自身を信頼するでしょうか。それとも神様を信頼するでしょうか。

ナルニア国物語の著者C・S・ルイスはこう言いました。

「プライドは一番悪い罪です。ほかの罪よりも、プライドは私たちを神様から遠ざけるからです。なぜなら、プライドによって、私たちは神様がいらないと思うからです。そのプライドによって、私たちは神様に背を向けます。」

あなたには情け深くて、憐れみ深い心があるでしょうか。パリサイ人と律法学者にはそのような心がありませんでしたので、イエス様は彼らを厳しく批判されました。イエス様はこう言われました。「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。」

パリサイ人と律法学者は神様を愛していると言いましたが、周りの人々を愛していませんでした。

あなたはどうでしょうか。あなたの周りの人々を愛しているでしょうか。それとも自分自身のことだけを考えるでしょうか。

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エレミヤ書

私たちがこの世にいる間

このブログで、この箇所について英語で書いた時(3年前)、私は命と死について深く考えていました。なぜなら、私の教会で本当に愛された方が亡くなったからです。

彼女は牧師ではありませんでしたが、生きている間に多くの人々に影響を与えました。

この箇所を読んだとき、私は自分の人生について考えました。

神様はバビロンに追放された人々に語られました。彼らは自分の家と国を離れざるを得ず、偶像で満ちた国に連れて行かれました。その国は本当に不敬虔な場所でした。

それでも、神様は彼らにこう言われました。

家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。

妻をめとって、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻をめとり、娘には夫を与えて、息子、娘を産ませ、そこでふえよ。減ってはならない。

わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。」(エレミヤ書29:5-7)

神様は、私たちに同じことを言われています。ユダヤ人と同じように、私たちも不敬虔で偶像に満ちた世界に住んでいます。そのため、「もう天国に行きたい。この世界の悪や問題に向き合いたくない」と言うのは簡単なことです。

けれども、神様は私たちにこう言われます。

「この世にいる間、私があなたに与えた人生を楽しみなさい。結婚しなさい。子供を産みなさい。働きなさい。そして、あなたが住んでいる場所の繁栄を求めなさい。その場所のために祈りなさい。なぜなら、その場所の繁栄はあなたの繁栄になるからです。」

時には、クリスチャンがこの世界から自分自身を隔離してしまうことがあります。彼らは恐れて、教会を自分たちの砦とし、神様にこう祈ります。「神様、私たちを守ってください。」

しかし、それは神様の望みではありません。神様は、私たちが自分のコミュニティの中で積極的な役割を果たすことを望んでおられます。

神様は、私たちが周囲の人々に触れて、影響を与えることを望んでおられます。神様は、私たちが政治に参加することを望んでおられます。(あなたは投票するでしょうか。)

さらに、神様は私たちが自分のコミュニティと国のために祈ることを望んでおられます。

そして神様は、私たちが未来を恐れずに、この世にも良い将来と希望があることを知るように望んでおられます。

神様はこう言われました。

わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ――

それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。

もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。。。(11-14)

神様はユダヤ人たちにそう言われましたが、私たちにもそう言われます。

ですから、私たちがこの世にいる間、主を求めましょう。また祈りましょう。

将来を恐れないでください。この世の悪を恐れないでください。

むしろ、神様が与えてくださった人生を楽しみましょう。私たちは、与えられた賜物を用いて、神様とその御国のために働きましょう。そして、周囲の人々に触れて、影響を与えましょう。

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エレミヤ書

神様の言葉を食べること

ユダの状態は本当に悪化しました。そこで、神様はエレミヤに言われました。

「モーセやサムエルがこの民のために祈っても、私は聞かない。」

ヒゼキヤ王が亡くなった後、ユダ王国は徐々に霊的に堕落していきました。

ヒゼキヤの息子マナセはユダを偶像礼拝に導きました。マナセが悔い改めたにもかかわらず、ユダは自分の罪を犯し続けました。

ヨシヤ王はヒゼキヤのように神様を求めたにもかかわらず、多くのユダ人たちは罪を犯し続けました。

なぜでしょうか。彼らは神様の言葉を真に受け入れませんでした。彼らは、エレミヤや他の預言者たちを通してその言葉を聞きましたが、従うことを拒みました。

しかし、エレミヤは違いました。彼はこう言いました。

私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。

あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。

万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。(エレミヤ書15:16)

ユダ人たちは神様の言葉を味わった時、すぐに吐き出してしまいました。しかし、エレミヤがその言葉を味わった時、彼は喜び、それを受け入れて変わりました。

あなたはどうでしょうか。神様の言葉を聞いた時、どのように反応しますか。

ある人々は御言葉の栄養を十分に受け取っていないため、霊的に飢えています。彼らは日曜日のメッセージだけで十分だと思っています。

けれども、私たちは毎日食事をとりますよね。日曜日だけに食べる人がいるでしょうか。

また、他の人々は御言葉を聞きますが、すぐにその言葉を忘れてしまうため、彼らにとって御言葉は何の役にも立ちません。

もし、神様が私たちの人生に働くことを望んでおられるなら、私たちは神様の言葉を食べ、受け入れ、喜ばなければなりません。そして、その言葉に従うべきです。

そうするならば、私たちの思いは新しくされ、私たちの考え方と行動は変わります。

また、困難な時代に生きていても、私たちは裁きを受けることはありません。むしろ、エレミヤのように神様の憐れみを受けるのです。

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エレミヤ書

迷っている人々のために泣くこと

エレミヤは「泣いている預言者」と呼ばれます。この箇所で、私たちはその理由を見ることができます。

時々、私たちは預言者たちの裁きのメッセージを見て、彼らがそのメッセージを伝えるのを楽しんでいると思うことがあります。

しかし、多分エレミヤのように、多くの預言者たちがそのイスラエル人のために泣いたのだと思います。なぜなら、イスラエル人たちは預言者たちの警告に耳を傾けず、裁きの道を歩んでいたからです。

だから、エレミヤはこのように言いました。

私の悲しみはいやされず、私の心は弱り果てている。聞け。遠くの地からの私の民の娘の叫び声を。

「主はシオンにおられないのか。シオンの王は、その中におられないのか」。。。

「刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。それなのに、私たちは救われない。」

私の民の娘の傷のために、私も傷つき、私は憂え、恐怖が、私を捕らえた。

乳香はギルアデにないのか。医者はそこにいないのか。それなのに、なぜ、私の民の娘の傷はいやされなかったのか。。。

ああ、私の頭が水であったなら、私の目が涙の泉であったなら、私は昼も夜も、私の娘、私の民の殺された者のために泣こうものを。

ああ、私が荒野に旅人の宿を持っていたなら、私の民を見捨てて、彼らから離れることができようものを。彼らはみな姦通者、裏切り者の集会だから。(8:18ー22;9:1ー2)

以前、私は言いましたが、旧約聖書の預言書を読み通すのは少し辛いです。なぜなら、何度も同じメッセージを伝えるからです。つまり、神様の裁きです。

なぜ預言者たちはいつもその裁きのメッセージを伝えたのでしょうか。それは、イスラエル人たちが罪を犯し続けたからです。

そして、彼らは新しい罪を犯していたわけではありません。むしろ、同じ罪を繰り返していました。彼らは自分たちの歴史から全く学びませんでした。

もし、最近あなたが私のブログを読んでいるなら、「ブルースは裁きについて書くのが大好き」だと思うかもしれません。

しかし、実際はあまり好きではありません。神様の愛と恵みについて話す方が、もっと楽しいです。

それでも、聖書の教師として、真実を語らなければなりません。そして、預言者たちのように、私の希望は人々が救われることです。

正直に言えば、私は罪に迷っている人々のためにもっとあわれみ深い心を持つ必要があります。

エレミヤのように、私は迷っている人々のためにさらに涙を流すべきです。彼らの必要を見て、彼らに手を差し伸べるべきです。

もし私たち皆がそのような心を持つなら、どれほどこの世の人々に大きな影響を与えることができるでしょうか。

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エレミヤ書

私たちが思うよりも

今日からエレミヤ書を始めます。

エレミヤ書は、少し不思議な書です。つまり、この書は全く年代順に書かれておりません。

エレミヤはヨシヤ王について話し、それから急にゼデキヤ王(ユダの最後の王)について話し、さらにエホヤキム(ヨシヤの息子)について話し、またゼデキヤについて話します。

このブログではいつも通りに、年代順に進めます。そのため、エレミヤ書のあちこちを飛び回ることになります。

この箇所では、神様はエレミヤにこう言われました。

わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。(エレミヤ書1:5)

その時、エレミヤが何歳だったか分かりません。けれども、エレミヤには全く自信がありませんでした。そのため、彼はこう答えました。

ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。(6)

つまり、「私ですか。私はできません。私は若すぎますし、知恵がありません。それに、私はスピーチをするのが苦手です。別の人を呼んだら良いのではないでしょうか。」

しかし、神様はこう答えられました。

まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。

彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。――主の御告げ――」

そのとき、主は御手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に仰せられた。

「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。見よ。わたしは、きょう、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわし、あるいは建て、また植えさせる。」(7ー10)

神様は何を言われているのでしょうか。

「あなたが思うよりも、あなたは貴い人です。なぜなら、私は、あなたを貴くしたからです。私はあなたの口に私の言葉を入れ、あなたを通してこの世界に影響を与えます。」

多くの人々はエレミヤのように思います。

「私は特別な人ではありません。あまり賢明ではありません。神様が私を呼んでおられるかもしれませんが、そんな資格はありませんし、才能もありません。」

時々、私も自分自身についてそのように思います。

けれども、神様は私たちにこう言われます。

「自分自身を見下さないでください。私はあなたと共にいます。あなたがどのような人であるかは問題ではありません。

大切なのは、私がどのような者であるかということです。そして、私はあなたを用いることができます。あなたを通してこの世に影響を与えます。」

では、私たちはどうすれば良いでしょうか。神様が言われることにただ従うだけです。神様は私たちができないことを命じられることはありません。

そのため、神様はエレミヤに簡単なことを命じられました。

次のような主のことばが私にあった。「エレミヤ。あなたは何を見ているのか。」

そこで私は言った。「アーモンドの枝を見ています。」

すると主は私に仰せられた。「よく見たものだ。わたしのことばを実現しようと、わたしは見張っているからだ。」(11ー12)

神様は簡単な幻を見せ、簡単な質問をされました。エレミヤが正しく答えたので、神様はこう言われました。

「ほら、できるでしょう。そして、私があなたに与える言葉を、私は必ず実現します。」

エレミヤがその幻を思い出すために、神様はダジャレを使われました。ヘブル語では、「アーモンドの枝」の発音は「見る」の発音に似ています。

そのように、神様は最初に簡単な仕事を私たちに与えられます。そして、私たちが上手になると、もっと大きな仕事を与えられます。

しかし、一番大切なのは、神様がいつも私たちと共におられることです。

神様はエレミヤにこう言われました。

さあ、あなたは腰に帯を締め、立ち上がって、わたしがあなたに命じることをみな語れ。

彼らの顔におびえるな。さもないと、わたしはあなたを彼らの面前で打ち砕く。

見よ。わたしはきょう、あなたを、全国に、ユダの王たち、首長たち、祭司たち、この国の人々に対して、城壁のある町、鉄の柱、青銅の城壁とした。

だから、彼らがあなたと戦っても、あなたには勝てない。わたしがあなたとともにいて、――主の御告げ――あなたを救い出すからだ。(17ー19)

神様は私たちに同じようなことを言われます。

「私の仕事のために準備しなさい。立ち上がって、私があなたに命じることを行いなさい。

ある人々はあなたに反対するかもしれませんが、あなたに勝つことはできません。

サタンもあなたを攻撃するかもしれませんが、あなたに勝つことはできません。なぜなら、私はあなたと共におり、あなたを救い出すからです。」

あなたは自分についてどう思うでしょうか。弱い者だと思うでしょうか。取るに足らない者だと思うでしょうか。価値がない者だと思うでしょうか。

神様の目には、あなたは本当に貴い人です。

神様に従えば、そのことが分かるようになります。神様に従いませんか。