カテゴリー
コリント人への手紙第一のデボーション

最も大切なこと

今日、私が気づいたのは、パウロが霊的な賜物について語っているものの、賜物そのものがパウロの主なポイントではないということです。

もし賜物が主題であるならば、パウロはそれらをもっと具体的に説明していたはずです。

たとえば、パウロは賜物を列挙しますが、ある賜物を省略しており(ローマ12:6〜8)、それぞれの賜物が何であるかを詳しく説明していません。

では、パウロは霊的な賜物について教えるよりも、何を伝えたかったのでしょうか。

それは、コリント人たちが教会の分裂や派閥を捨てるべきだということです。パウロは何度もそのテーマを繰り返しています。

「あなたがたは一つのからだです。あなたがたは同じ御霊、同じ主、同じ神に属しています。あなたがたの賜物は教会全体の益のために与えられています。互いに必要とされているのです。互いに敬い合うべきです。

教会のメンバーの苦しみは、あなたの苦しみです。その一方で、もしその人が尊ばれるなら、その人と共に喜びましょう。その人はあなたの一部です。または、あなたはその人の一部です。

あなたがたは霊的な賜物を求めています。それは良いことです。しかし、覚えておきなさい。あなたがたは一つのからだです。だから、分裂を捨てなさい。」

そして、パウロはこの話を第13章へと続けます。

私たちはどうでしょうか。私たちはパウロのように、神の教会とそのメンバーたちを大切にしているでしょうか。それとも、私たちはコリント人たちのように考えてしまっているでしょうか。

カテゴリー
エペソ人への手紙

私たちがどのように歩んでいる?

私は、この箇所でパウロが「歩む」という言葉をどのように用いているかが好きです。

「愛のうちに歩みまさい。」(エペソ人への手紙5:2)

「光の子どもとして歩みなさい。」(8)

「ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。」(15)

要するに、この人生において、私たちは一歩一歩進むごとに、神様の愛をより深く知るはずです。 そして、その愛は私たちを通して流れ出すはずです。

また、周囲の人々が私たちの人生を見るとき、そこに神様の光を見出すはずです。

だから、私たちは次の一歩を踏み出すたびに、 その選択が私たちをどこへ導くのかに注意を払うべきなのです。

パウロはこの教えを、次のようにまとめています。

ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。知恵のない者としてではなく、知恵のある者として、機会を十分に活かしなさい。

悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい。(15-17)

言い換えれば、私たちは愚かに生きてはならないのです。 かつて私たちは、死に至る道を歩んでいました。 だから、再びその道に戻ってはなりません。 また、いまもその道を歩んでいる人たちと、共に歩んではならないのです。

もちろん、私たちは彼らを完全に避けて生きることはできません。 けれども、彼らが私たちに影響を与えることを許してはなりません。 むしろ、私たちこそが彼らに影響を与えるべきなのです。

そしてパウロは、ほとんど同じことを二度にわたって語っています。

何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい。(10)

また、

主のみこころが何であるかを悟りなさい。(17)

私は改めて強調したいのですが、パウロは個々のクリスチャンたちに語っているのではありません。 彼は、キリストにあって一つとされた「からだ」としての教会に語っているのです。 パウロは彼らにこう言いました。

「あなたがた皆は、キリストのからだとして、知恵をもって歩みなさい。 教会として、あなたがたは時を賢く用いていますか。 神様の教会として、与えられた機会を十分に生かしなさい。」

けれども、現実には多くの場合、神様の民はそのように歩んでいません。 教会は、暗闇の中に輝く光ではなく、 むしろ、暗闇の業に加わってしまうことすらあるのです。

また、私たちは互いに噛み合い、食い合い、 心に苦々しさを抱き、他のクリスチャンを許さずに恨んでしまうこともあります。

だから、パウロは言います。 「そのような態度を捨てなさい。 それは神様の御心ではありません。 そのように生きることは、愚か者の道です。 あなたがたは、自分たちに与えられた時間と機会を無駄にしているのです。

そうではなく、キリストのからだのために、神様のみこころを正しく知りなさい。」

では、神様のみこころとは何でしょうか。

また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。

詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。

キリストを恐れて、互いに従い合いなさい。(エペソ人への手紙5:18-21)

「御霊に満たされなさい」という言葉を見るとき、私たちはしばしば個々のクリスチャンのことを思い浮かべます。 つまり、一人ひとりのクリスチャンが御霊に満たされるべきだと考えるのです。

しかし、パウロが語っているのは、 「あなたがたはキリストのからだとして、御霊に満たされるべきである」ということです。

教会にとって最も必要なのは、御霊に満たされることです。 けれども、多くの場合、教会は貪りや恨み、分裂的な思いに満ちてしまっています。

もし神様の教会が御霊に満たされ、御霊に導かれ、 御霊の力によって歩んでいるならば、 この世界にどれほど大きな影響を与えることができるでしょうか。

もし神様の教会の人々が互いに引き裂き合わず、 御霊による喜びに満たされ、賛美をもって互いに励まし合っているならば、 この世にどれほど大きな影響を与えることができるでしょうか。

また、もし教会の人々が恨みや分裂的な思いに満たされず、 互いに敬意を払い合い、キリストを畏れつつ互いに従い合っているならば、 どれほどこの世は変えられることでしょうか。

私たちは、そのように生きているでしょうか。 教会として、私たちはそのように歩んでいるでしょうか。 また、個々のクリスチャンとして、そのように歩んでいるでしょうか。

あなたは、今、どのように歩んでいるでしょうか。

カテゴリー
エペソ人への手紙

私たちが一つになるように

5年前にこの箇所を読んだとき、私は改めてパウロの言葉を認識しました。 それ以前は、パウロの言葉をどのように自分の人生に当てはめられるかを考えていましたが、実際には、彼が語っていたのは個々のクリスチャンではなく、教会全体についてであると気づきました。

ユダヤ人と異邦人の間にあった隔ての壁は取り壊され、私たち皆がクリスチャンとして一つにされました。

この文脈の中で、パウロは今日の箇所を書きました。 彼のポイントは、私たちがどのようにキリストのからだの一致を保つことができるかということです。

25節から、パウロはそのことを強調しています。

ですから、あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、からだの一部分なのです。(エペソ人への手紙4:25)

真実を語らなければ、一致を保つことはできないでしょう。 友人関係でも、結婚関係でも、教会の関係でも、それは同じです。

時々、私たちは真実を軽く考えすぎます。例えば、私たちは簡単に罪のない嘘を語ります。(それは本当に罪のないものでしょうか。)

また、兄弟や姉妹が罪を犯したとき、その人の反応を恐れて何も言わないことがあります。

しかし、15節によれば、私たちは愛を持って真理を語るべきです。 その目的は、相手が成長することです。

ところで、真理を語るとき、「愛を持って」ということは非常に大切です。 ある人は自分の正直さを自慢しますが、彼らの目的は相手を建て上げることではなく、むしろ相手を取り壊そうとすることです。

もしそのような態度であるならば、黙っていた方がよいでしょう。 けれども、神様の前で「私はこの人を愛し、建て上げたい」と言えるなら、どうぞ真実を語ってください。

そして、パウロはこう言います。

怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。(26-27)

私たちは怒ってもよいのです。 けれども、その怒りをどのように処理するでしょうか。

あなたはただ相手に怒鳴るでしょうか。 あるいは、その怒りを静かに心に留め、苦々しい根を張るでしょうか。

もしそうすれば、あなたは悪魔に自分を操る機会を与えることになります。

しかし、もう一度言います。 パウロは主に教会に向けて語っています。

もし教会のメンバーが心の中で怒りを持ち続けるなら、サタンはその機会を利用して教会を分裂させ、壊そうとするのです。

そして、パウロは続けて言います。

盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。(28)

その言葉から、重要な原則を見ることができます。 単に相手を傷つけることをやめるだけでは不十分なのです。 私たちは相手を建て上げなくてはなりません。

なぜなら、私たちの目的は、キリストのからだを建て上げることだからです。

次の記事でこの話を続けますが、その前に少し考えてみてください。

私たちの行動によって、キリストのからだの一致を保っているでしょうか。 あるいは、私たちの行動によって、キリストのからだを分裂させてしまっているでしょうか。

私たちはキリストのからだを建て上げているでしょうか。 それとも、キリストのからだを取り壊しているでしょうか。

カテゴリー
コリント人への手紙第一

私たちは他のクリスチャンをどう見るべきか

前回の記事では、私たちがどのように自分自身をキリストのからだの一部として見なすべきかについて話しました。では、私たちは他のクリスチャンたちをどのように見なすべきでしょうか。

パウロはこう書いています。

ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。

私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。(コリント人への手紙12:12-13)

パウロの言葉において、最も大切な真理は、私たちクリスチャンが一つのからだであるということです。もちろん、からだには多くの部分があります。しかし、私たちは一つのからだであり、互いに必要とし合っています。

また、パウロによれば、一つの御霊によって私たちはバプテスマを受け、一つの御霊を受けて、一つのからだとなりました。

さらに、同じ御霊が私たちをキリストのからだに置き、私たちの中で働いています。だから、どうして私たちは他のクリスチャンたちを見下すことができるでしょうか。

私たちが彼らを見るとき、彼らに住んでおられる御霊を見るはずです。どうして私たちは彼らに住んでおられる御霊を軽蔑できるでしょうか。どうして彼らの中で働いている御霊を見下すことができるでしょうか。

以前の記事で述べましたが、パウロによれば、私たちは他のクリスチャンに「あなたはいらない」と言うことはできません。私たちは皆、互いに必要とし合っているからです。

キリストのからだが正しく機能するためには、私たち一人ひとりが自分の役割を果たさなくてはなりません。私たちは皆、キリストのからだに欠かせない存在です。

さらに、パウロはこう語っています。

それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。(コリント人への手紙第一12:22)

数年前、バスケットボールをしていたとき、私は右手の薬指を骨折しました。それ以前は、自分の薬指の重要性を意識していませんでした。

しかし、薬指を負傷すると、その手で何も握ることができなくなり、メールを打つのも困難になりました。これまで簡単にできていた動作が、とても難しくなったのです。

パウロは続けてこう言いました。

また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。

こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、格好の良い部分はその必要がありません。(23-24a)

例えば、足と手について考えてみてください。「美しい手」という表現はよく聞きますが、「美しい足」という表現はあまり聞いたことがありません。(「美しい脚」という表現なら聞いたことがあるかもしれませんが。)

それでも、一般的に手よりも足のほうがマッサージされることが多いでしょう。また、靴を選ぶときはスタイルだけでなく、履き心地も考えるでしょう。

だから、パウロはこの話を次のようにまとめています。

神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。

それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。(24b-25)

同じように配慮し合うこと。この言葉は、霊的な賜物に関する人のプライドや利己的な態度に反対します。

あなたは自分の霊的な賜物について考えるとき、主に自分自身の益を考えるでしょうか。それとも、相手の益を考えるでしょうか。自分自身に焦点を当てるでしょうか。それとも、他の人に焦点を当てるでしょうか。

イエス様のことを思い出してください。イエス様はさまざまな力を持っていましたが、自分自身に栄光を与えるためにその力を使うことはありませんでした。むしろ、いつも周りの人々のニーズを考えておられました。

パウロはさらに語っています。

一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。(26)

痛みは興味深いものです。痛みを感じると、私たちは痛んでいる部分に意識を向けます。体のほかの部分は問題ないかもしれませんが、指を骨折すると、「まあ、私は99%元気だ」とは思わず、「痛い!」と感じます。

私たちが他の人々を見るときも、同じように考えるべきです。彼らが悩んでいるとき、私たちは彼らを無視してはいけません。むしろ、寄り添い、助けるべきです。

パウロはこう語っています。

あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。(27)

だから、他のクリスチャンたちを見下してはいけません。神様は決してそうされないので、私たちもそうしてはいけません。

むしろ、彼らを神様の目で見るべきです。神様が大切にされる者として、彼らを尊重して扱うべきです。

カテゴリー
ローマ人への手紙

他のクリスチャンと共に歩んでいる?

この箇所を読むとき、自分自身のクリスチャン生活について考えるのは容易なことです。

しかし、私たちが注目すべきなのは、パウロが個々のクリスチャンに向かって語っているのではなく、キリストのからだ全体に語りかけているという点です。

パウロはまずこう語ります。

愛には偽りがあってはなりません。(ローマ人への手紙12:9)

私は、ある英語の翻訳が気に入っています。

相手を愛するふりをせず、心から愛しなさい。

例えば、私たちはどれほど相手の話を聞いているふりをしながら、実は全く別のことを考えているでしょうか。

そうではなく、私たちは本当に相手の話に関心を持つべきです。

そして、パウロは教会にこう語ります。

悪を憎み、善から離れないようにしなさい。(9b)

教会として、私たちはこの世の悪を憎み、戦うべきです。同時に、善にしっかりとしがみつくべきです。しかし、まずは教会の中でそれを実践することが大切です。

もし苦々しい思いや、相手を許さない心を目にしたとき、私たちはその態度と向き合い、それと戦うでしょうか。それとも、許し合う姿勢を求めるでしょうか。

教会の中で争いや分裂があるなら、和解をもたらすために努力するでしょうか。私たちは教会の一致を心から求めるでしょうか。

プライドや差別を見たとき、それを教会から取り除き、互いに受け入れ合うでしょうか。(ローマ人への手紙12:10,16)

人が故意に罪を犯し、悔い改めない場合、その問題に正しく向き合い、適切に対処するでしょうか。(第一コリント5章)

誰かが罪に陥ったとき、私たちは柔和な心を持って、その人を正しく導くでしょうか。(ガラテヤ6:1)

そして、パウロは続けてこう言います。

望みを抱いて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈りなさい。(ローマ人への手紙12:12)

試練に苦しんでいる人がいるとき、私たちはその人を支え、励ますでしょうか。その人のために心から祈るでしょうか。

また、私たちは「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣く」でしょうか。(ローマ人への手紙12:15)

私たちは教会の仲間たちに仕えるでしょうか。パウロはこう語りました。

聖徒たちの必要をともに満たし、努めて人をもてなしなさい。(13)

それこそが、本来あるべきクリスチャンの歩みです。果たして、私たちはそのように生きているでしょうか。

カテゴリー
ローマ人への手紙

この世の人々も祝福すべきではないでしょうか

もしかしたら、前回の記事を読んで異議を持った人がいたかもしれません。なぜなら、私はこのように述べたからです。

「私たちがクリスチャンの交わりを必要とする理由の一つは、互いに必要な存在だからです。キリストのからだの中で、私たちはそれぞれに役目を持っています。だからこそ、神様から与えられた賜物を用いて、互いに仕え合う必要があります。」

とはいえ、ある人はこう言うかもしれません。 「教会の人々を祝福するだけでなく、この世の人々も祝福すべきではないでしょうか。」

もちろん、その通りです。それでも、忘れないでください。私たちが受けた賜物の多くは、まず教会のために与えられています。

例えば、エペソ人への手紙で、パウロはこう語りました。

こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。(エペソ4:11)

イエス様はなぜそのようにされたのでしょうか。

それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。

私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。(エペソ4:12-13)

伝道者の役割について少し考えてみましょう。彼らの使命は、特に教会の外にいる人々に向けられているはずです。

しかし、パウロの言葉に注目してください。伝道者の働きの目的は、聖徒たち(つまりクリスチャン)を整え、奉仕の働きへと導くことにあります。

伝道者はもちろん福音を宣べ伝えますが、それだけでなく、他のクリスチャンが福音を伝えられるよう励ます役割も担っています。

他のクリスチャンは、伝道者がこの世に与える影響を見て勇気づけられ、自らの友人に福音を述べ伝えようと決意するでしょう。そのうえ、伝道者は彼らに福音を伝える方法を教えることもあるかもしれません。

そして、パウロが挙げた人々がそれぞれの使命を果たすと、キリストのからだは建て上げられていきます。

もしかすると、あなたはこう思うかもしれません。 「でも、私は使徒や預言者、伝道者、牧師、教師ではありません。」

それは関係ありません。なぜなら、パウロはこう語りました。

むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。

キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。(エペソ4:15-16)

私はもう一度、パウロの強調するポイントに目を向けます。

キリストのからだが完全に成長するまで、私たちはそれぞれの役割を果たし、互いに築き上げていくべきです。

だから、別の箇所でパウロはこう語りました。

ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。(ガラテヤ人への手紙6:10)

だから、私たちは賜物を用いて、この世の人々に仕えるべきです。とはいえ、同時に教会の兄弟姉妹にも仕えることが求められています。

イエス様の言葉を心に留めておきましょう。

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネの福音書13:34-35)

イエス様の言葉に目を向けてみましょう。

この世の人々は、どのようにして私たちがイエス様の弟子であることを知るのでしょうか。それは、私たちが互いに愛し合うことによってです。私たちが互いに愛し、仕え合うなら、人々はその姿を見て、キリストに惹かれるでしょう。

ところが、もし私たちが争ったり、自分勝手に振る舞ったり、プライドを持ったりするなら、彼らは問いかけます。 「クリスチャンは私たちとどう違うのか。結局、彼らは私たちと同じではないか。」

あなたはどうでしょうか。神様の民を愛しているでしょうか。それとも、避けているでしょうか。神様の民に仕えているでしょうか。もしかすると、あなたが受けた賜物を無駄にしているのではないでしょうか。

カテゴリー
ローマ人への手紙

クリスチャンの交わりを壊すもの

クリスチャン生活を単なる個人的なものと考えてしまうのは容易なことです。もしかすると、特に欧米諸国では、そのように捉える人が多いのかもしれません。

けれども、クリスチャン生活は一人で送るものではなく、私たちが他のクリスチャンと共に歩むことこそが、神様の御心です。

それにもかかわらず、多くのクリスチャンが教会に行かなくなっています。なぜでしょうか。理由はさまざまありますが、この箇所でパウロは一つの理由を挙げています。

パウロはこう書きました。

私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。

むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。(ローマ人への手紙12:3)

また、

互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません。(16)

クリスチャンの交わりを壊す要因の一つはプライドです。

「私には、ほかのクリスチャンは必要ない。一人でクリスチャン生活を送ることができる」と考えるプライド。

「私は彼らよりも優れたクリスチャンだから、彼らとの交わりは不要だ」と思うプライド。

「私は彼らと異なる立場にあり、共通点がない」と決めつけるプライド。

「この人も、あの人も私を傷つけた。彼らが謝るまで、私はもう教会に行かない」と意固地になるプライド。

しかし、パウロは私たちに大切なことを思い出させます。

一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。(4-5)

この箇所では、私たちは非常に重要な真理を目の当たりにします。すべてのクリスチャンはキリストのからだの器官です。

したがって、私たちはもはや自分自身だけに属しているのではありません。まずキリストに属し、さらに私たちクリスチャンは互いに属し合っています。

なぜでしょうか。それは、私たち一人ひとりがキリストのからだの中で異なる機能を持っており、からだ全体が私たちの役割の働きに依存しているからです。

だから、パウロはこう語りました。

私たちは、与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい。(6-8)

あなたは、ほかのクリスチャンを必要としないと思うかもしれません。けれども、たとえあなたが彼らを必要としなくても、彼らはあなたを必要としています。

神様は、あなたを通して彼らを祝福するために、霊的な賜物を与えてくださいました。そして、私たちがほかのクリスチャンに仕えるとき、それは神様に仕えることでもあるのです。

だから、パウロは私たちに重要な教訓を示しています。

勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。(11)

もし私たちがプライドによって賜物を用いず、教会に仕えることをしないなら、いつか神様は私たちにその責任を問われるでしょう。

ですから、忘れないでください。私たちは他のクリスチャンに属し、また彼らも私たちに属しています。私たちは互いに必要な存在なのです。

だから、兄弟たちとの交わりを断つプライドを捨てましょう。そして、むしろパウロの言葉に従いましょう。

兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。(10)