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創世記のデボーション

私たちに笑いをくださる神

主は約束したとおりに、サラを顧みられた。主は告げたとおりに、サラのために行われた。

サラは身ごもり、神がアブラハムに告げられたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。。。

サラは言った。「神は私に笑いを下さいました。これを聞く人もみな、私のことで笑うでしょう。」(創世記21:1ー2、6)

この壊れた世界では、私たちが苦しむことがあります。

サラもその苦しみをよく知っていました。彼女は長い間、子どもを望んでいましたが、与えられませんでした。

しかし、神様の時に、神様はサラを顧みられ、子どもを与えてくださいました。その時、サラは再び笑うことができました。

今、私は二人の人のことを思い浮かべています。一人は自分の罪のために苦しんでいます。もう一人は結婚の問題で苦しんでいます。

だから、私は彼らのために祈っています。

「天のお父さん、あなたがサラを顧みられたように、その二人の人をも顧みてください。彼らを癒してください。そして、あなたの時に、彼らが再び笑うことができるようにしてください。」

あなたは、苦しんでいる人を知っているかもしれません。その人のために祈りましょう。そして、できる限り、神様の愛でその人に触れましょう。

もしかすると、あなた自身が今、苦しんでいるかもしれません。

どうか絶望しないでください。神様はあなたを今も愛しておられます。神様はあなたを赦し、癒してくださいます。

そして、神様はいつも、ご自分の約束を守ってくださいます。

だから、神様に従い、待ち望み続けましょう。そうすれば、神様の時に、あなたは再び笑うことができるようになります。

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創世記のデボーション

神様は訪れられるとき

主は約束したとおりに、サラを顧みられた。主は告げたとおりに、サラのために行われた。(創世記21:1)

聖書の翻訳は、とても興味深いものです。新改訳では「主はサラを顧みられた」とあり、英訳では「主はサラに恵みを与えた」または「神様はサラを訪れた」と訳されています。

実は、これら三つの訳はすべて正しいのです。へブル語の原文には、神様が人を心に留め、祝福するために、あるいは裁くために訪れるというニュアンスが含まれています。

サラの場合、神様は彼女を心に留め、祝福するために訪れられました。

それから何百年後、主はもう一人の女性を訪れられました。それはマリアです。その時、神様はもう一つの約束を果たされました。それは、私たちに救い主を送るという約束です。

そして、イエス様によって、私たちは恵みの上にさらに恵みを受けました(ヨハネ 1:16)。

私は以前にも申し上げましたが、もう一度言わせてください。

ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。(第二コリント9:15)

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創世記のデボーション

定めた時に

たぶん、クリスマスがもうすぐやって来るからかもしれませんが、最近、私はクリスマスのレンズで聖書を読んでいます。

主はアブラハムに言われました。

なぜサラは笑って、「私は本当に子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに」と言うのか。

主にとって不可能なことがあるだろうか。

わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子が生まれている。(創世記18:13ー14)

私はそれを読んで、マリアに対するガブリエルの言葉を思い起こしました。

聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。

見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。

神にとって不可能なことは何もありません。(ルカ1:35ー37)

そして、ガラテヤ人たちに対するパウロの言葉を思い起こしました。

しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。

それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。(ガラテヤ4:4ー5)

神様はアブラハムに、「あなたによってすべての国民は祝福される」と約束されました。

サラがイサクを出産したことによって、神様はその約束の成就を始められました。

その時、サラは九十歳で、最初は赤ちゃんを産むのはもう無理だと思っていました。

しかし、イサクを生んだとき、サラの疑いの笑いは喜びの笑いに変わりました。

そして、時が満ちて、神様は処女であるマリアを通して、イエス様を送られました。

たぶん、マリアも少し疑いを持っていたかもしれませんが、最終的にガブリエルの言葉を信じて、イエス様を生みました。

そして、イエス様によって、私たちは神様の子供たちとして喜びます。

そういうわけで、パウロはこう書きました。

そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。

ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。(ガラテヤ4:6ー7)

だからパウロと共に感謝しましょう。

ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。(第二コリント9:15)

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ヘブル人への手紙

見えないものを見える信仰(2)

「それは無理です。私はできません。」

自分の状況に目を向けると、私たちはどれほどこの言葉を口にしているでしょうか。また、どれほど心の中でこの言葉が浮かんでいるでしょうか。

アブラハムとサラも、そう感じたことがあったに違いありません。

アブラハムが75歳、サラが65歳のとき、神様は彼らに「息子を与える」と約束されました。けれども、24年が過ぎても赤ちゃんは生まれませんでした。

その間、二人は自分たちなりの計画を立てました。相続人を得るために、サラは自分の奴隷ハガルをアブラハムに与え、ハガルはアブラハムの子を産みました。

しかし、神様は言われました。「それが私の意図ではありません。サラを通して、私はあなたたちに息子を与えるのです。」

その言葉を聞いて、アブラハムは笑いました。彼は99歳、サラは89歳。それでも神様は、もう一度約束されたのです。「サラは赤ちゃんを産みます。」

アブラハムは、その言葉を聞いて、到底無理だと思ったことでしょう。

それでも最終的に、アブラハムとサラは自分たちの弱さを認めながらも、現実にとらわれることなく、神様にはすべてのことができると信じる道を選びました。だからこそ、彼らは子どもをもうけようとし続けたのです。

この手紙の著者は、彼らについてこう記しています。

アブラハムは、すでにその年を過ぎた身であり、サラ自身も不妊の女であったのに、信仰によって、子をもうける力を得ました。彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです。

こういうわけで、一人の、しかも死んだも同然の人から、天の星のように、また海辺の数えきれない砂のように数多くの子孫が生まれたのです。(へブル人への手紙11:11-12)

あなたはどうでしょうか。自分の問題を乗り越えることは、到底無理だと感じていませんか。

私たちの弱さに目を向けると、希望を失うのは、あまりにも簡単です。でも、神様は弱さを持っていません。

あなたは、自分の弱さを脇に置いて、弱さのない神を信じる信仰を持っていますか。

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ガラテヤ人への手紙

約束の子供

この箇所で、パウロはアレゴリーを用いて、非常に重要なポイントを教えています。それは、律法への従順ではなく、神様の約束によって私たちが神様の子供となるということです。

この真理を説明するために、パウロはハガルとサラの物語に言及します。(この話は創世記16~21章に記されています。)

神様はアブラハムに息子を与えると約束されました。けれども、何年経っても子供が生まれなかったため、アブラハムとサラはその約束に疑念を抱くようになりました。そこで、サラはアブラハムに対し、自分の奴隷ハガルと寝て、その息子を相続人とするように勧めました。

現代の視点では衝撃的な提案ですが、当時の社会ではそれが一般的な習慣でした。

こうして、アブラハムはハガルと関係を持ち、イシュマエルが生まれました。しかし、イシュマエルは神様の約束と力によって生まれたのではなく、人間的な努力の結果として生まれたのです。

そのあと、サラも赤ちゃんを産みました。それがイサクでした。その時、サラはすでに90歳になっていたため、その出産はまさに奇跡でした。それは神様の御業でした。そして、神様はアブラハムに言われました。「イサクを通して、私はあなたを大いなる国民とします。」

そして、パウロは、ハガルとイシュマエルを、律法によって義と認められようとする人々の例として挙げました。彼らは、神様の約束と御業によって神様の祝福を受けようとは思いません。むしろ、自分の努力によって神様の祝福を得ようとします。

ところが、その考え方には大きな問題があります。奴隷の子供も奴隷です。

つまり、ハガルの子供、すなわち自分の努力によって義と認められようとする人は、結局、罪と死の律法の奴隷になってしまうのです。律法は人々を救うことはできません。律法ができるのは、ただ人の罪を指摘することだけです。(ガラテヤ人への手紙4:24~25)

その反面、恵みによって義と認められる人はイサクのようです。彼らは、神様の約束と御業によって、神様の子供と相続人になります。

そういうわけで、私たちは、もはや罪と死の奴隷ではありません。私たちは自由にされて、いと高きの神の子供になりました。(4:26-28)

それでも、人間の努力によって生まれたイシュマエルが、神様の約束によって生まれたイサクを迫害したように、一部のユダヤ人のクリスチャンたちはガラテヤ人のクリスチャンたちを迫害しました。

彼らはガラテヤ人たちを律法の奴隷としようとし、「そうしないと、あなたは本当のクリスチャンではない」と主張しました。(4:29)

そのため、パウロは厳しく語ります。

しかし、聖書は何と言っていますか。「女奴隷とその子どもを追い出してください。女奴隷の子どもは、決して自由の女の子どもとともに相続すべきではないのです。」(ガラテヤ人への手紙4:30)

つまり、「その偽教師たちを追い出しなさい。彼らは奴隷の子供であり、決して遺産を受け継ぐことはありません。彼らはあなたたちと何の関係もありません。彼らはあなたたちを退けようとしますが、実際には彼ら自身が退けられているのです。」ということです。

そして、パウロは改めて強調します。

こういうわけで、兄弟たち、私たちは女奴隷の子どもではなく、自由の女の子どもです。(4:31)

そして、パウロは彼らを戒めます。

キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。(ガラテヤ人への手紙5:1)

その真理を忘れないようにしましょう。イエス様は私たちを律法から解放してくださいました。その目的は、再び私たちを律法の束縛のもとに置くことではありません。むしろ、イエス様の目的は、私たちが永遠に律法から自由にされることです。

だから、神様の子供として、私たちは神様の愛に値するかどうかを心配する必要はなく、神様が私たちを受け入れてくださっているという確信を持つことができます。

あなたはどうでしょうか。神様の子供として、平和と喜びをもって生きているでしょうか。それとも、宗教のルールの重荷を担いながら、奴隷のように生きているでしょうか。

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イザヤ書

私たちの遺産

クリスチャンの中には、旧約聖書を読むのがあまり好きではないという人もいます。彼らは「旧約聖書は本当に読む価値があるのだろうか」と疑問に思うからです。

けれども、この箇所で神様はイスラエルの民にこう語られます。「あなたの先祖から受け継いだ遺産、すなわちアブラハムとサラを通して受け継いだ遺産をよく見なさい」。

(イスラエルの歴史は、アブラハムとその妻サラから始まりました。)

神様はこう言われました。

義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。(イザヤ書51:1)

神様はイスラエルの民に語られましたが、同じように神様は私たちにも語りかけておられます。もしあなたが神様を求めているのなら、この言葉はまさにあなたのためのものです。

あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。

あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラのことを考えてみよ。わたしが彼ひとりを呼び出し、わたしが彼を祝福し、彼の子孫をふやしたことを。(イザヤ書51:1-2)

アブラハムとサラはイスラエルの父と母でしたが、クリスチャンとしての私たちにも彼らとの深い関係があります。彼らは信仰の歩みの模範であり、また信仰による義の象徴でもあります。

もちろん、彼ら以前にも信仰によって歩んだ人々はいましたが、旧約聖書の著者たちは信仰による義について語る際、常にアブラハムを例として挙げています。

パウロがアブラハムについて語ったとき、創世記を引用しました。

それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた。(ローマ4:3)

私たちが旧約聖書を読む理由は何でしょうか。

それは、私たちが切り出された岩を見つめるためです。私たちの信仰による義の遺産がどこから来たのかを知るためです。それだけでなく、彼らが信頼した神様について学び、その神の忠実さを見るためでもあります。

イザヤは、その神について記しています。まず、イザヤはイスラエルの民がエジプトから贖い出された出来事を思い起こします。

海と大いなる淵の水を干上がらせ、海の底に道を設けて、贖われた人々を通らせたのは、あなたではないか。(イザヤ書51:10)

さらに、イザヤは神様がどのようにしてこの世界を造られたのかを思い起こします。

わたしは、あなたの神、主であって、海をかき立て、波をとどろかせる。その名は万軍の主。。。

わたしの手の陰にあなたをかばい、天を引き延べ、地の基を定め、「あなたはわたしの民だ」とシオンに言う。(15-16)

だからこそ、私たちがその神を思い起こし、またアブラハムとサラから受け継がれた信仰の遺産を見つめるとき、神様は私たちに次のように語り、戒めておられます。

義を知る者、心にわたしのおしえを持つ民よ。わたしに聞け。人のそしりを恐れるな。彼らのののしりにくじけるな。

しみが彼らを衣のように食い尽くし、虫が彼らを羊毛のように食い尽くす。しかし、わたしの義はとこしえに続き、わたしの救いは代々にわたるからだ。。。

わたし、このわたしが、あなたがたを慰める。あなたは、何者なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるとは。

天を引き延べ、地の基を定め、あなたを造った主を、あなたは忘れ、一日中、絶えず、しいたげる者の憤りを恐れている。まるで滅びに定められているかのようだ。そのしいたげる者の憤りはどこにあるのか。(7-8、12-13)

私たちの信仰を弱めるもの、それは恐れです。将来への恐れ、そして他人の目を気にする恐れです。

「もし私が神様に従ったら、周りの人々はどう思うだろうか」という心配もその一つです。

しかし、アブラハムやサラ、そして信仰の道を歩んだ他の人々を見守られた神様は、私たちも同じように見守ってくださいます。

私たちを造られた神様、また私たちを罪から救い出された神様は、私たちを滅ぼそうとする敵からも救い出すことがおできになります。サタンからも確かに救ってくださいます。

だからこそ、自分たちが受け継いだ信仰の遺産を思い出しましょう。そして、その遺産を与えてくださった神様のことも思い起こし、神様に信頼しましょう。