クリスチャンの中には、旧約聖書を読むのがあまり好きではないという人もいます。彼らは「旧約聖書は本当に読む価値があるのだろうか」と疑問に思うからです。
けれども、この箇所で神様はイスラエルの民にこう語られます。「あなたの先祖から受け継いだ遺産、すなわちアブラハムとサラを通して受け継いだ遺産をよく見なさい」。
(イスラエルの歴史は、アブラハムとその妻サラから始まりました。)
神様はこう言われました。
義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。(イザヤ書51:1)
神様はイスラエルの民に語られましたが、同じように神様は私たちにも語りかけておられます。もしあなたが神様を求めているのなら、この言葉はまさにあなたのためのものです。
あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。
あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラのことを考えてみよ。わたしが彼ひとりを呼び出し、わたしが彼を祝福し、彼の子孫をふやしたことを。(イザヤ書51:1-2)
アブラハムとサラはイスラエルの父と母でしたが、クリスチャンとしての私たちにも彼らとの深い関係があります。彼らは信仰の歩みの模範であり、また信仰による義の象徴でもあります。
もちろん、彼ら以前にも信仰によって歩んだ人々はいましたが、旧約聖書の著者たちは信仰による義について語る際、常にアブラハムを例として挙げています。
パウロがアブラハムについて語ったとき、創世記を引用しました。
それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた。(ローマ4:3)
私たちが旧約聖書を読む理由は何でしょうか。
それは、私たちが切り出された岩を見つめるためです。私たちの信仰による義の遺産がどこから来たのかを知るためです。それだけでなく、彼らが信頼した神様について学び、その神の忠実さを見るためでもあります。
イザヤは、その神について記しています。まず、イザヤはイスラエルの民がエジプトから贖い出された出来事を思い起こします。
海と大いなる淵の水を干上がらせ、海の底に道を設けて、贖われた人々を通らせたのは、あなたではないか。(イザヤ書51:10)
さらに、イザヤは神様がどのようにしてこの世界を造られたのかを思い起こします。
わたしは、あなたの神、主であって、海をかき立て、波をとどろかせる。その名は万軍の主。。。
わたしの手の陰にあなたをかばい、天を引き延べ、地の基を定め、「あなたはわたしの民だ」とシオンに言う。(15-16)
だからこそ、私たちがその神を思い起こし、またアブラハムとサラから受け継がれた信仰の遺産を見つめるとき、神様は私たちに次のように語り、戒めておられます。
義を知る者、心にわたしのおしえを持つ民よ。わたしに聞け。人のそしりを恐れるな。彼らのののしりにくじけるな。
しみが彼らを衣のように食い尽くし、虫が彼らを羊毛のように食い尽くす。しかし、わたしの義はとこしえに続き、わたしの救いは代々にわたるからだ。。。
わたし、このわたしが、あなたがたを慰める。あなたは、何者なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるとは。
天を引き延べ、地の基を定め、あなたを造った主を、あなたは忘れ、一日中、絶えず、しいたげる者の憤りを恐れている。まるで滅びに定められているかのようだ。そのしいたげる者の憤りはどこにあるのか。(7-8、12-13)
私たちの信仰を弱めるもの、それは恐れです。将来への恐れ、そして他人の目を気にする恐れです。
「もし私が神様に従ったら、周りの人々はどう思うだろうか」という心配もその一つです。
しかし、アブラハムやサラ、そして信仰の道を歩んだ他の人々を見守られた神様は、私たちも同じように見守ってくださいます。
私たちを造られた神様、また私たちを罪から救い出された神様は、私たちを滅ぼそうとする敵からも救い出すことがおできになります。サタンからも確かに救ってくださいます。
だからこそ、自分たちが受け継いだ信仰の遺産を思い出しましょう。そして、その遺産を与えてくださった神様のことも思い起こし、神様に信頼しましょう。