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詩篇のデボーション

聞かれた

ほむべきかな【主】。
主は私の願いの声を聞かれた。(詩篇28:6)

クリスマスの季節なので、先週の土曜日にルカの福音書にあるゼカリヤの物語を読んでいました。

そしてダビデの言葉を読んだとき、ゼカリヤに語られたガブリエルの言葉を思い出しました

恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。(ルカの福音書1:13)

正直に言うと、神様が私の祈りに聞き届けてくださらないように見えるとき、失望するのは容易なことです。

けれども、神様が思い起こさせてくださいました。

「わたしはあなたの祈りを聞いています。たとえ『ノー』と答える時でも、あなたの願いを確かに聞いています。あなたを無視しているのではありません。あなたを愛しているのです。」

だから、私はダビデと共に歌います。

【主】は私の力、私の盾。
私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。

私の心は喜び躍り
私は歌をもって主に感謝しよう。(詩篇26:7)

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サムエル記第一のデボーション

弱虫ではなく、勇士

しかし、ダビデは自分の神、【主】によって奮い立った。(サムエル記第一30:6)

ダビデの行動を考えるとき、私はパウロの言葉を思い起こしました。

終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。(エペソ人への手紙6:10)

苦しむとき、私は弱虫ではなく、勇士でありたいです。

私は「かわいそうパーティー」を開きたくありません。

また、苦々しい思いやフラストレーションや怒りに支配されたくありません。

正直に言うと、時には私はそのように反応してしまいます。

私はそれをもうしたくないのです。

ダビデのように、私は神の大能の力によって強められ、神の武具を身に付け、敵であるサタンに立ち向かおうとします。

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サムエル記第一のデボーション

怒りに流されて

あなたのうちには、一生の間、悪が見出されてはなりません。。。

主が、ご主人様について約束なさったすべての良いことをあなたに成し遂げ、あなたをイスラエルの君主に任じられたとき、

理由もなく血を流したり、ご主人様自身で復讐したりされたことが、つまずきとなり、ご主人様の心の妨げとなりませんように。(サムエル記第一25:28、30~31)

アビガイルの言葉は私の心を打ちました。

ある英訳では、「あなたのうちには、一生の間、悪が見出されないように」とあります。

それが私の願いです。

私は自分の誤った選択によって、後悔や痛む良心を抱えて苦しみたくありません。

しかし、私の感情、特に怒りに流されるとき、それは起こりがちです。

ダビデもまた、その怒りによって危うく流されてしまうところでした。

私はもちろん人を殺すほど怒ったことはありませんが、愚かなことを言ったり、行ったりした経験は思い出すことができます。

私はそのようなことをもうしたくありません。

天のお父さん、どうか私の心を守ってください。特に怒りから守ってください。

怒りに流されるのは容易ですが、それは私にあなたの望まれる人生をもたらすものではありません。

どうか私のうちに、一生の間、悪が見出されないようにしてください。むしろ、この口と心にあるものがあなたの御目にかないますように。私の主よ、私の岩、私のあがない主、私の良い神よ。

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サムエル記第一のデボーション

些細なこと?

後になってダビデは、サウルの上着の裾を切り取ったことについて心を痛めた。(サムエル記24:5)

サウルの上着の裾を切り取ったことで、ダビデの心がどれほど痛んだかに私は驚きました。

その代わりに、ダビデはサウルを殺すこともできたのです。それと比べると、ダビデがしたことは些細な罪ではないでしょうか。

それでも、その「些細な罪」でさえ、ダビデの心を痛めました。

それを読んで、私は自問しました。

「些細な罪のために自分の良心が痛むとき、私はダビデと同じように反応するだろうか。」

私には、些細な罪のために言い訳をするのは容易なことです。

しかし、神様の心にかなう人とは、大きなことだけではなく、小さなことにおいても神様を喜ばせることを意味します。

私の人生の隅々まですべてを神様の支配下に置き、神様に捧げていないものは何一つあってはなりません。

それが、私の祈りです。

主よ、私の人生にあなたの御国が来ますように。御心が天で行われるように、私の人生の隅々までにも行われますように。

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サムエル記第一のデボーション

希望の灯台

そして、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。約四百人の者が彼とともにいるようになった。(サムエル記第一22:2)

今日、なぜ人々がダビデのもとに集まっていたのかを思い巡らしました。

実際、ダビデは彼ら以上に大きな問題を抱えていました。彼らにとって、ダビデと共にいることは、自分たちで暮らすよりも危険だったでしょう。

しかし、なぜかダビデは彼らに希望を湧かせました。

ダビデは確かに完全な指導者ではありませんでした。彼の嘘によって、85人の祭司とその家族がサウルに殺されました。

それでも、人々は自分たちにない希望と信仰をダビデに見ました。それによって、自分たちの内にも希望と信仰が湧いてきました。

私はそのような人になりたいと願っています。私の妻、娘、同僚、友人、そして周囲の人々すべてに希望と信仰を湧かせたいと願っています。

正直に言うと、今週、それほどよくできなかったと思います。 それでも、それが私の願いです。

天のお父さん、私が希望の灯台となるように。私を通して周囲の人々があなたに引き寄せられるように。

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サムエル記第一のデボーション

信仰を周囲の人に注射する

すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るだろう。

ここに集まっているすべての者も、剣や槍がなくても、【主】が救いをもたらすことを知るだろう。この戦いは【主】の戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。」(サムエル記第一17:46~47)

ダビデの言葉は私の心を打ちました。

彼の願いは、すべての国々が、ダビデが仕えた神を知ることでした。つまり、神様がダビデを通して行われるみわざを見るとき、彼らが神様のすばらしさを見ることができるようにと願っていたのです。

同時に、ダビデはイスラエルの民にも信仰を注射したいと願っていました。ゴリアテとペリシテ人の軍勢に直面したとき、彼らは勇気を失っていました。だからこそ、ダビデはその信仰を回復させたいと願ったのです。

私も、同じことをしたいと願います。つまり、神様を知らない周囲の人々が、私の中にある神のみわざを見て、神様が存在しておられることを知るようになることです。

彼らが神様のすばらしさと力強さ、そして良さを知り、神様を知りたいと願うようになることを祈ります。

それだけではなく、私は周囲のクリスチャンたちにも信仰を注射したいと願っています。彼らが絶望するとき、私の中にある神の働きを見て、「確かに、神様はここにおられる。希望がある。」と実感するように祈ります。

天のお父さん、私が周囲の人々に信仰と希望を注射するように導いてください。

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詩篇のデボーション 士師記のデボーション

誠実に歩んで

毎日、聖書通読プランと共に、私はいつも詩篇も読みます。

今日、たまたま26篇を読みました。それを読んで、ダビデの態度とサムソンの態度の違いに気づかざるを得ませんでした。

ダビデの言葉を祈り、それに従っていたら、サムソンの人生がどれほど違っていたかを想像してみてください。

主よ、私を弁護してください。私は誠実に歩み、よろめくことなく、主を信頼しています。

主よ、私を調べ、試みてください。私の心の深みまで精錬してください。

あなたの恵みは、私の目の前にあり、あなたの真理のうちを私は歩み続けました。

私は不信実な人とともに座らず、偽善者とともに行きません。悪を行う者の集まりを憎み、悪しき者とともに座りません。

手を洗い、自らの潔白を示します。主よ、私はあなたの祭壇の周りを歩きます。

感謝の声を響き渡らせて、語り告げます。
あなたの奇しいみわざのすべてを。(詩篇26:1-7)

私はダビデの言葉を祈り、それに従いたいです。

それがあなたの願いでしょうか。

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列王記第一のデボーション

懲らしめに応える心

列王記にあるアサの話を読むと、彼がかなり良い王に見えます。

でも、彼の人生には霊的な問題があったことを示唆する箇所も見られます。つまり、ベン・ハダデとの条約を結ぶために、アサは主の宮から銀と金を取り出して、ベン・ハダデに渡したのです。

歴代誌第二16章では、著者がアサの霊的な問題を明確に記録しています。

預言者ハナニを通して、神様がアサをその行為のために責められたとき、アサはハナニを牢に入れました。

その後、アサが足の病にかかったとき、主を求めることを拒み、医者だけを求めました。

アサの話を読んだとき、私は「アサは救われただろうか。アサは今、天国にいるだろうか」と疑問に思いました。

私の意見ですが、たぶんアサは天国にいると思います。

なぜなら、列王記の著者は、アサが「主の目にかなうことを行なった」、また、「アサの心は生涯、主とともにあり、全きものであった」と記しているからです。(列王記第一15:11,14)

歴代誌を読むと、列王記にある言葉は少し不思議に感じられますが、ダビデに関する神様の言葉を思い起こしてみましょう。

ダビデはわたしの命令を守り、心を尽くしてわたしに従い、ただ、わたしの目にかなうことだけを行った。(列王記第一14:8)

列王記の著者はダビデについて大体同じことを言いますが、「ヘテ人ウリヤのことのほか」という言葉を付け加えます。(列王記第一15:5;第二サムエル記11章)

私がアサとダビデのことを考えると、神様は私の心に二つのことを印象づけられました。

一つ目は、私たちは恵みによって生きるということです。

神様は私たちを見ると、私たちを義人として認めてくださいます。

それは、私たちが完全な人間だからではありません。むしろ、イエス様の十字架の御業によって、私たちを義と認めてくださるのです。私たちはイエスの義を着せられています。

だから、私たちの罪と失敗にもかかわらず、裁きの日に、神様は私たちについてこう言われます。

「あなたはわたしの命令を守り、心を尽くしてわたしに従い、ただ、わたしの目にかなうことだけを行った。」

それは本当に不思議なことですね。

でも、二つ目は、この地上において、私たちの行為が神様との関係の質に影響を与えるということです。

神様との関係の一つの面は、神様の懲らしめに対する私たちの反応です。

ダビデは神様の懲らしめによく応えたので、彼の人生の最後まで、神様と良い関係を保ちました。

その反面、アサは神様の懲らしめに良い方法で反応しなかったため、人生の最後には、神様との関係があまり良くありませんでした。

あなたの行為は、神様との関係の質にどのような影響を与えているでしょうか。

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サムエル記第二のデボーション

サタンが私たちを責める時

出て行け、出て行け。血まみれの男、よこしまな者よ。主がサウ ルの家のすべての血に報いたのだ。。。

今、おまえはわざわいにあうのだ。 おまえは血まみれの男なのだから。(サムエル記第二16:7ー8)

たぶん、その言葉はダビデの心に染みたでしょう。

もちろん、ダビデはサウルとイシュ・ボシェテを殺したわけではないし、サウルの王座を奪ったわけでもありません。

それでも、ダビデは殺人者でした。そして、ナタンはダビデに、神様がその罪のゆえにダビデの家の中からダビデの上にわざわいを引き起こす、と言っていました(第二サムエル記12:11)。

だから、シムイの言葉が大分間違っていても、その言葉には真実味がありました。

もしかしたら、そういうわけで、ダビデは、「彼が呪うのは、主が彼に『ダビデを呪え』と言われた。だれが彼に『おまえは、どうしてこういうことをするのだ』と言えるだろうか」と言ったのかもしれません(10節)。

ダビデは自分の罪の実を刈り取っていました。

それでも、神様はダビデを責めていたわけではありません。神様はすでにダビデを赦してくださっていたのです(第二サムエル記12:12)。

さらに、私たちは後で見ることになりますが、神様はダビデの味方でした(第二サムエル記17:14)。

時々、この世界で、私たちは自分の罪の実を刈り取ります。

その時、サタンが私たちを責め、その言葉は私たちの心に染みます。なぜなら、その言葉には真実味があるからです。

でも、私たちがすでに悔い改めたのなら、神様は私たちを責めていないことを覚えておきましょう。

神様は私たちをすでに赦してくださいました。さらに、神様は私たちの味方です。

だから、パウロの言葉を心に留めておきましょう。

だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。(神ではありません。)

神が義と認めてくださるのです。

だれが、私たちを罪ありとするのですか。(イエスではありません。)

死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。 (ローマ8:33ー34)

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サムエル記第二のデボーション

子どもたちへの赦しと希望の言葉

私たちの子どもたちが大きな失敗をしたとき、私たちはどんなメッセージを伝えるでしょうか。

私たちは彼らから距離を置くでしょうか。

彼らがしたことは許されないという印象を与えるでしょうか。

ダビデはそのようなメッセージをアブサロムに伝えてしまいました。

ダビデがアブサロムを抱きしめ、もう一度自分の愛を伝えていたらよかったのに。

ダビデがアブサロムに、次のような言葉を伝えていたと想像してみましょう。

「私はあなたと同じ立場に立ったことがある。私も人を殺した。しかも、私の理由はあなたの理由よりももっとひどかった。でも、神様は私にご自分のもとに戻る道を備えてくださった。神様はあなたにも、その道を備えることができる。」

ダビデがそう言っていたら、アブサロムは悔い改めたでしょうか。

私はわかりません。そうだったかもしれませんが、私にはわかりません。

しかし、神のいつくしみ深さが私たちを悔い改めへと導いてくださいます(ローマ2:4)。

だからこそ、私たちの子どもたちが大きな失敗をしたとき、その同じ恵みを与え、主のもとに帰る道を示してあげましょう。

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サムエル記第二のデボーション

主に愛された者

彼女は男の子を生み、彼はその名をソロモンと名づけた。主は彼を愛されたので、預言者ナタンを遣わし、主のために、その名をエディデヤと名づけさせた。(「エディデヤ」とは「主に愛されたもの」を意味します)。(サムエル記第二12:24-25)

ダビデは大きな失敗をしていました。自分の罪によって、ダビデは主を蔑んでしまいました。そして、その罪の結果は、ダビデとその家族に長い間、大きな影響を与えました。

それでも。。。

ダビデの悔い改めに伴って、彼は神様の赦しを知りました。そのあと、ダビデはこの言葉を書きました。

東が西から遠く離れているように、
主は、私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。(詩篇103:12)

もし私が神様だったら、たぶんこう言っていたと思います。

「ダビデとバテ・シェバを赦しはするが、この結婚を絶対に祝福しない。」

でも、神様はそのようには考えられませんでした。

ソロモンを「主に愛された者」と名づけることによって、神様はダビデとバテ・シェバにこのメッセージを伝えたかったのだと思われます。

「私はあなたたちをまだ愛している。あなたたちの罪によって、つらい時に直面することになるが、この子どもを見るとき、私の愛があなたたちから取り去られていないことを心に留めなさい。

ソロモンは私の愛する子どもです。あなたたちも、私の愛する子どもたちです。」

そして最終的に、ダビデとバテ・シェバとソロモンを通して、イエス様はこの世に来られました。(マタイ1:6–16)

それは恵みです。それは神の忠実な愛です。

あなたはどんな後悔を抱えているでしょうか。自分の過去の罪の結果によって、今も苦しんでいるでしょうか。

心に留めておきましょう。ダビデとバテ・シェバとソロモンのように、あなたは主に愛されている子どもです。

イエス様にあって、赦しがあり、神があなたのために整えられた道があります。

だからこそ、イエス様と共に、次の一歩を踏み出しましょう。

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サムエル記第二のデボーション

神の忠実な愛を受ける者として

王は言った。「サウルの家の者で、まだ、だれかいないか。私はその人に神の恵み(つまり、忠実な愛)を施そう。」(サムエル記第二9:3)

上の言葉は、私の心を打ちました。

第二サムエル記7章では、神様がご自分の忠実な愛をダビデに与えられ、ダビデは圧倒されました。

けれども、ダビデは神様に感謝しただけではありませんでした。

むしろ、ダビデは他の人々への神の忠実な愛のパイプラインになりたいと願っていました。

だからこそ、彼は積極的に、誰にその愛を与えられるかを探しました。

ヨナタンへのダビデの愛と約束のゆえに、メフィボシェテが選ばれたのは当然のことでした。(第一サムエル記20:14–15)

しかし、ダビデはメフィボシェテに、自分の忠実な愛だけでなく、神の忠実な愛を示したかったのです。

だから、この話の中で、ダビデはそのように行動しました。

主よ、私は周りの人々への、あなたの忠実な愛のパイプラインになりたいと願っています。

ダビデのように、私が積極的に、誰にあなたの愛を示すことができるかを探すように、私を助けてください。

そして、私と共にいるその人が、あなたの忠実な愛に圧倒され、喜びをもって叫びます。

「いったい私は何者なのでしょうか。神様がこのように私を愛してくださっているとは!」

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サムエル記第二のデボーション

私たちのリーダーたちのために祈る

私たちは、リーダーたちからしばしばがっかりさせられることがあります。

政治家も教会のリーダーたちも、私たちを失望させる時が多いです。

なぜなら、彼らはただの人間だからです。そういうわけで、彼らには欠点も失敗も多くあります。

ダビデはイシュ・ボシェテよりも強い王だったかもしれませんが、イシュ・ボシェテがアブネルのことをうまく扱えなかったように、ダビデもヨアブのことをうまく扱うことができませんでした。

さらに、王に関する神様の戒めを無視して、ダビデは多くの妻を持っていました。(申命記17:17)

ダビデは、少なくとも一人の妻と政治的な理由で結婚しました。(第二サムエル記3:3)

また、たぶん愛のためではなく、むしろ政治的な理由のために、ダビデはサウルの娘ミカルを自分に返してくれるように要求しました。ミカルの夫は彼女を愛していたのに、ダビデはその要求をしました。

ミカルはどう感じたでしょうか。もちろん、彼女はかつてダビデを愛していました。(第一サムエル記18:28)

しかし、父サウルに悪く扱われ(第一サムエル記25:44)、ミカルは新しい夫と歩んでいくことを選んだようです。

ところが今、彼女はダビデの愛のために他の妻たちと競争しなければなりませんでした。

もしかすると、そういうわけで、彼女はダビデを軽蔑するようになったのかもしれません。(第二サムエル記6:20)

それでも、神様はご自分の目的をダビデを通してもたらしました。

今なお、私たちが神様の目的を理解できなくても、神様は政治家や教会のリーダーたちを通してその目的をもたらされます。

だから、そのリーダーたちのために祈りましょう。彼らの欠点や弱さにもかかわらず、彼らを通して神様がご自分の目的をもたらされるように祈りましょう。

もし、そのリーダーたちが神様をまだ知らないなら、彼らの救いのために祈りましょう。

もし、彼らが神様を知っているなら、神様が彼らを導かれるように祈りましょう。

そしてその導きによって、彼らがリーダーとして、また人間として成長し、彼らに与えられた神様の召しを果たすことができるように祈りましょう。

神様は彼らに恵みを与えてくださっているのです。

その恵みの心をもって、彼らのために祈りましょう。

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サムエル記第一のデボーション

真っ直ぐな人だろうか 

そこでアキシュはダビデを呼んで言った。「主は生きておられる。あなたは真っ直ぐな人だ。」(サムエル記第一29:6)

聖書の中のこのアキシュの言葉は、最も皮肉な言葉の一つです。

アキシュはダビデに言いました。「私はあなたが仕えている神の名によって誓って、真実を言います。あなたは真っ直ぐな人です。」

ところが、アキシュが知らなかったのは、ダビデが一年以上もアキシュに嘘をついていたということです。

そして、アキシュがそれを言った直後、ダビデはもう一度嘘をついて、自分がアキシュに忠実に仕えているしもべであるかのように話しました。

聖書には、その時の神様の思いやダビデの思いは記されていません。

けれども、アキシュの言葉を振り返ったとき、ダビデはこのように祈ったのではないでしょうか。

「主よ。私は大失敗しました。赦してください。私は真っ直ぐな人のように振る舞っていなかったのです。でも、これから、そのような人になりたいです。」

主よ、ダビデと同じように、私はいつも真っ直ぐな人ではありません。私の行為によって、あなたの御名を汚してしまいました。どうか赦してください。

私のすべての言葉、行為、思いが、あなたの目にかなうものとなりますように。

私が立っているあなたの恵みに感謝します。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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サムエル記第一のデボーション

ほかに道はない。。。本当に?

ダビデは心の中で言った。「私はいつか、今にサウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地に逃れるよりほかに道はない。(サムエル記第一27:1)

それは本当だったでしょうか。ダビデは本当に他の道がなかったのでしょうか。

もし、以前と同じようにダビデが神様に相談していたら、神様はより良い道を示してくださったかもしれません。

確かに、ダビデはその決断によって、一時的にサウルから逃れることができました。

しかし、そうするために、ダビデはアキシュを欺かなければなりませんでした。その結果、第二十八章で、ダビデがペリシテ人の軍隊と一緒にイスラエルと戦うように頼まれることになりました。(二十八章一節)

時々、私たちは道徳的に問題があることをしなければならないと思ってしまいます。そして、その決断によって、私たちの問題が一時的に解決されることもあるかもしれません。

けれども、ダビデの決断と同じように、私たちの決断はさらに多くの問題や、道徳的に問題がある選択へとつながることがあります。

主よ、私は決して「ほかに道はない」と考えながら決断しないようにしてください。

むしろ、正しい道を教えてください。あなたに喜ばれる道を教えてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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サムエル記第一のデボーション

健全な良心を保つ

後になってダビデは、サウルの上着の裾を切り取ったことについて心を痛めた。(サムエル記第一24:5)

私たちの良心によって心が痛むとき、私たちはどうするでしょうか。

神様のみ前に柔らかい心を保つため、良心は罪に対して私たちの防衛最前線です。

しかし、良心を無視すると、その良心は麻痺してしまう恐れがあります。(第一テモテ四:二)

私たちの良心が麻痺してしまった兆候は何でしょうか。以前、ある罪を犯したときには心を痛めたけれど、今はもう気にしなくなることです。

何年か後に、ダビデの良心が麻痺してしまい、預言者ナタンはダビデに面と向かって責めなくてはなりませんでした。そのとき初めて、ダビデは悔い改めて、柔らかい心を取り戻しました。(第二サムエル記11-12章)

私たちが健全な良心を保つように努めましょう。そして、ダビデと一緒に歌いましょう。

だれが 自分の過ちを悟ることができるでしょう。

どうか、隠れた罪から私を解き放ってください。

あなたのしもべを 傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。

そのとき私は、大きな背きから解き放たれて、全き者となるでしょう。

私の口のことばと、私の心の思いとが 御前に受け入れられますように。主よ、わが岩 わが贖い主よ。(詩篇19:12ー14」

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サムエル記第一のデボーション

弱さに対する忍耐

ケイラの人たちを批判するのは簡単なことでしょう。なぜなら、ダビデが彼らをペリシテ人たちから救ったのに、彼らはサウルの手に引き渡そうと考えていたからです。

しかし、ジフ人とは違って、ケイラの人たちがサウルに連絡したという証拠はありません。

彼らはそうしていたかもしれませんが、何も言わなくても、サウルは自分の家来たちから、ダビデがケイラの人たちをペリシテ人たちから救ったことを聞いていたでしょう。

おそらく、ケイラの人たちは、サウルがダビデを捕らえるために来るという噂を耳にしたのでしょう。そして、ダビデと周囲の人々の会話を聞いたかもしれません。

「どうしたらいいでしょうか。私たちはダビデをサウルに引き渡してはいけないでしょう。ダビデは最近、私たちを助けてくれたのです。」

「でも、サウル王がノブで何をしたか聞いた?祭司アヒメレクがダビデを助けたことで、サウルは約八十人の祭司たちを殺したそうです。祭司たちですよ。」

「そうでしょう。さらに、私たちは自分自身をペリシテ人たちから守れなかった。どうすれば私たちはダビデをサウルから守ることができるでしょうか。」

たぶん、そのような話を聞いて、ダビデは神様に相談しました。「ケイラの者たちは、私をサウルの手に引き渡すでしょうか。」

神様が「彼らは引き渡す」と言われると、ダビデはケイラの人たちに怒りませんでした。彼らが自分を助けてくれるように要求しませんでした。

むしろ、ダビデはひっそりとケイラを出ました。ダビデは彼らの弱さを理解して、彼らを許しました。

時々、人々は私たちをがっかりさせます。彼らは弱いものだからです。

でも、私たちも弱いものです。それでも、イエス様は毎日、私たちに恵みを与えてくださいます。

だから、パウロの言葉を心に留めておきましょう。

ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。

互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。

主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。(コロサイ3:12ー13)

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サムエル記第一のデボーション

見捨てられたように感じるとき

「おまえたちのだれも、私のことを思って心を痛めてくれない」(第一サムエル22:8)

これは、サウルが自分の家来たちに語った言葉でした。だれもサウルに謀反を企てていないのに、彼はそう思い込んでいました。

同じ頃、洞窟の中で、ダビデも似たようなことを語りました。

ご覧ください。私の右に目を注いでください。私には、顧みてくれる人がいません。私は逃げ場さえも失って、私のいのちを気にかける人もいないのです。(詩篇142:4)

もちろん、サウルはダビデを殺そうとしていました。けれども、ダビデの言葉も正確ではありませんでした。

ヨナタンはダビデをかばい、彼を守ってくれました。

妻ミカルは命がけで、ダビデをサウルから逃がすように助けました。モアブの王も、ダビデの家族の世話をしてくれました。

さらに、四百人の者たちがダビデとともにいました。

それでも、ダビデは逃走中であり、洞窟に隠れていたため、彼の言葉は誇張された反応のように見えます。

しかし、サウルとは違って、ダビデは主に信頼を寄せました。彼は自分の心を神に注ぎ出し、自分の弱さを認めました。それでも、ダビデはこのように言いました。

私の霊がわたしのうちで衰えはてた時にも、あなたは、私の道をよく知っておられます。(詩篇142:3)

主よ、私はあなたに叫びます。「あなたこそ私の避け所、生けるもの地でもの、私の受ける分。」(詩篇142:5)

正しい人たちは私の周りに集まるでしょう。あなたが私に良くしてくださるからです。(詩篇142:7)

だれもあなたのことを気にかけてくれないと思うでしょうか。ちょっと考え直してみましょう。自分が思っている以上に、人々はあなたを愛しているのです。

さらに、すべての人々があなたを見捨てても、神様は決してそうされません。

神様は私たちの道を知っておられます。神様は私たちの避け所です。神様は私たちに良くしてくださいます。

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詩篇

どこに向かうか

私たちは困った時に、どこに向かうでしょうか。人々が私たちに反対するとき、私たちは助けを得るためにどこに行くでしょうか。ダビデは何度も自分にその質問をしなくてはなりませんでした。

ダビデも多くの人々のように、自分自身に頼ることができたでしょう。自分の力や知恵に頼ることができたでしょう。

しかし、彼は神様に向かいました。彼はこう祈りました。

主よ。私の祈りを聞き、私の願いに耳を傾けてください。あなたの真実と義によって、私に答えてください。(詩篇143:1)

暗闇の中で、自分の失望から、彼は叫びました。

私に行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。

主よ。私を敵から救い出してください。私はあなたの中に、身を隠します。

あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから。あなたのいつくしみ深い霊が、平らな地に私を導いてくださるように。(詩篇143:8-10)

どれほど私たちは神様に頼らず、自分の力で問題に取り組もうと思うでしょうか。どれほど私たちは神様の言葉を聞かず、自分の知恵に頼るでしょうか。

ダビデはそうしませんでした。むしろ、彼は神様に何をすべきか尋ね、神様の知恵に頼りました。また彼は聖霊様の導きに従いました。

ヤコブはこう言いました。

あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。(ヤコブ1:5)

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詩篇

自分の嘆きを神様の前に注ぎ出す

以前、詩篇57篇と一緒にこの詩篇について話しましたが、今回は詩篇142篇だけについて話したいと思います。

ダビデがこの詩篇を書いたとき、サウルかアブサロムから逃げて洞穴に隠れていました。だから、ダビデは牢に入っているように感じていました。(詩篇142:7)

洞穴から彼は神様に叫びました。

私は御前に自分の嘆きを注ぎ出し、私の苦しみを御前に言い表わします。(詩篇142:2)

彼は本当に苦しんだので、時々彼のトラブルを大げさに言いました。彼はこう言いました。

私の右のほうに目を注いで、見てください。私を顧みる者もなく、私の逃げる所もなくなり、私のたましいに気を配る者もいません。(4)

実は、ダビデの周りには彼の兵隊たちがいました。彼らはダビデを愛し、本当に忠実でした。

また、ダビデがサウルから逃げたとき、親友(また、サウルの息子)ヨナタンはダビデを見つけて、励ましました。

また、ダビデがアブサロムから逃げたとき、他の親友がダビデを助け、アブサロムの計画を無にしました。

時々、私たちが試練に直面するとき、実際よりも状況を悪く考えることがあります。だから、文句を言ったり、自分の問題を大げさに言ったりします。

しかし、私たちがそうしても、神様は私たちをよく理解しておられます。だから、嘆きを注ぐとき、神様は私たちを責めずに、憐れみを注いでくださいます。

ダビデは、神様が彼を受け入れておられることを知っていたので、神様に正直に祈ることができました。

そして、神様が彼と共にいて、素晴らしい計画を持っておられることを知っていたので、ダビデはこう歌いました。

私の霊が私のうちで衰え果てたとき、あなたこそ、私の道を知っておられる方です。(3)

また、

あなたは私の避け所、生ける者の地で、私の分の土地です。(5)

だから、試練に直面するとき、ダビデのように、自分の嘆きを神様の前に注ぎ出しましょう。神様があなたを責めないことを心に留めておきましょう。

また、神様が私たちのために計画を持っておられる確信を捨てないようにしましょう。もし神様が私たちと共におられるなら、私たちは乏しいことがありません。

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サムエル記第一

私たちが背くときに

サウルの没落は、非常に早く進行しました。この箇所では、サウルが最も低い地点に達したことを見ることができます。

サウルは、預言者や祭司、また夢を通して神様の御声を聞くことができなかったため、霊媒を通して助けを求めました。その霊媒を通じて、サムエルの霊と話したいと願ったのです。

けれども、聖書学者たちの間では、その霊が本当にサムエルだったのか、それとも悪霊だったのかについて議論が分かれます。

私個人の意見ですが、この時、神様は霊媒の働きを止め、ご自身の許可によってサムエルの霊を送られたのだと思います。

つまり、霊媒の力でサムエルが現れたのではなく、神様の御心によるものだったのです。

しかし、その時、神様はサウルを祝福されませんでした。むしろ、神様はサウルを裁かれたのです。神様は霊媒や占いを全く認められないからです。

この箇所を読むと、意図的な背きの結果について思い起こさせられます。

一つ目は、神様が私たちにもう話されなくなることです。

なぜでしょうか。それは私たち自身が自分の耳を閉じてしまうからです。その結果、神様は私たちにもう語られません。

サウルは何度も神様の声と命令を無視しました。だから、最終的に神様はこう言われたのです。「もういい。私に聞きたくないのであれば、私はもう語らない。」

二つ目は、私たちが恐れ始めることです。

どうしてでしょうか。私たちが神様の知恵に頼らずに、自分の知恵に頼り始めるからです。けれども、すぐに私たちの知恵が足りないことに気付きます。特に、私たちの状況がコントロールできなくなる時です。

サウルもそのような状態でした。神様の命令を無視した後、サウルは自分ではコントロールできない問題に直面しました。神様の助言が必要でしたが、神様から何も聞くことができませんでした。

三つ目は、罪が罪を生み出すことです。

サウルの場合、必死になりながらも、占いが悪であることを知っていたにもかかわらず、霊媒に相談しました。

しかし、神様から何も言われなかったため、占いを神様が裁かれることを知っていても、その人に助けを求めました。

最後の点は、背きは死に導くということです。

ローマ6:23で次のように書かれています。

罪から来る報酬は死です。

だから、その次の日、サウルは命を落としました。

サウルのようになることを避けるにはどうしたら良いでしょうか。

神様に対して柔らかい心を保つことです。神様が私たちに最善を望んでおられることを信じましょう。そして、神様の言葉に従いましょう。

さらに、もし罪を犯してしまったなら、すぐに悔い改めましょう。自分の罪を告白し、神様の言葉に従う助けを求めて祈りましょう。

ヨハネは次のように書いています。

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

不思議なことですが、ダビデの罪(つまり、姦淫と殺人)とサウルの罪を比較すると、サウルの罪の方がそれほど悪いようには見えません。

その違いは何でしょうか。それはサウルが決して悔い改めなかったため、死に至ったことです。その一方、ダビデは悔い改めたことで、神様に赦されました。

あなた自身はどうでしょうか。罪を犯した時、どのように対応しますか。