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ヨハネの黙示録

この世に望みを託してしまうと

今日の箇所では、私たちは大淫婦バビロンの没落を目にします。ヨハネは、「大淫婦バビロン」を地の王たちを支配する偉大な都と定義しています。(黙示録17:18)

14章に関する記事では、私たちが目にしたのは、ヨハネ自身とこの書の読み手たちが、バビロンはローマを象徴すると理解したという点でした。ローマ帝国自体は、神なき社会、すなわち神に反する世の制度を象徴しています。

その女は、13章に登場した獣に乗っています。その獣は七つの頭を持っています。御使いによれば、その七つの頭とは、この女が座している七つの山のことであり、それはローマ帝国の七人の王のことです。

ヨハネがこの言葉を書いた時点では、七人のうち五人はすでに亡くなり、一人はまだ生きていてローマを治めており、残りの一人はまだ現れていない状態でした。(17:7)

その後、反キリストである獣が八番目の王として現れ、この世を支配することになります。(17:11)

反キリストは十人の王たちと同盟を結びます。(それが文字通り十人の王なのか、それとも世界の支配者たちを象徴しているのかは定かではありません。)

とにかく、世の人々は皆、獣に従います。なぜでしょうか。

第一の理由は、獣の力です。

第二の理由は、その獣が人々を欺く能力を持っているからです。私たちはすでに13章で、それを読んでいます。

そして、第三の理由は、大淫婦の存在です。彼女は「大水の上に座しています。」

御使いによれば、その大水は諸々の国民を象徴しています(15)。人々は、大淫婦が提供するもの、すなわち彼女の裕福さと栄光を飲み込んでいます。(4)

ところが、彼らが実際に飲み込んでいるのは、忌まわしいものと、大淫婦の淫行の汚れなのです。つまり、神の目から見るなら、彼らは神が忌み嫌われることを行っているということです。彼らは自らの創造主に対して霊的な姦淫を犯しているのです。

簡単に言えば、人々がこの世とそのものに執着しているため、彼らは獣に従います。

この世の制度は獣と結びついています。この世の友でありながら神の友であることは両立しません。だからこそ、大淫婦は聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔いしれています(17:6、18:24)。

今日の箇所で私たちが学ぶのは、この世の制度は結局滅ぼされるということです。

おそらく、神様に対する戦いのゆえに、獣とその十人の王たちは大淫婦のすべてを奪い取ります。

言い換えれば、神様との戦いにおいてこの世を滅ぼすことさえいとわないほどに、彼らは神様に敵対しているのです。だからこそ、その戦争のために彼らは自国の経済を崩壊させ、核兵器の使用さえもためらわないのです(17:6)。

そして、御使いはヨハネにこう告げます。

それは、神のことばが成る時まで、神はみこころが実現するように王たちの心を動かし、彼らが一つ思いとなって、自分たちの支配権を獣に委ねるようにされたからです。(黙示録17:17)

つまり、神様の計画は、この世が荒らされることです。その被害の一部は神様の手によって行われますが、大部分は人間の手によって行われます。結局、人間たちは自らを滅ぼすのです。

しかし、最終的に獣とその王たちが神様と戦い、この世を荒らしても、

子羊は彼らに打ち勝ちます。子羊は主の主、王の王だからです。(17:14)

では、私たちはこの箇所から何を学ぶことができるでしょうか。

この世の制度に属する人々は、自分の財産や実績を誇ります。彼らは、それらが永遠に続くと信じています。

けれども、それらは一日のうちに崩れ去り、この世の約束の空しさが露わになります。(黙示録18:8)

神様は、それらすべてを大きなひき臼のように海へ投げ込み、滅ぼされます。人々が喜び、頼っていたすべてのものは滅ぼされます。(18:21-23)

そのため、この世の人々は恐れ、嘆きます。(18:9-19)

自分が頼っていたものが、瞬く間に失われるため、彼らは嘆くのです。

バビロンに降りかかった裁きが自分にも降りかかることを知っているので、彼らは恐れます。

では、私は何を言いたいのでしょうか。

この世に望みを託してはなりません。この世の制度は倒れ、この世の制度に頼る人々も倒れます。

だからこそ、神様のみ言葉に心を留めましょう。

わたしの民は、この女の罪に関わらないように、その災害に巻き込まれないように、彼女のところから出て行きなさい。(18:4)

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エレミヤ書

逃げろ

前の箇所では、神様はたくさんの国々を裁いておられました。

この箇所では、神様はその国々を征服したバビロンを裁かれます。つまり、神様は北からの国々であるメディヤとペルシアがバビロンを攻撃し、バビロンが倒れると言われました。

しかし、その裁きの宣言の中で、神様はイスラエル人にこう言われました。「逃げろ。」

何度も、神様はこのようなことを言われました。

バビロンの中から逃げ、カルデヤ人の国から出よ。(エレミヤ書50:8)

また、

バビロンの中から逃げ、それぞれ自分のいのちを救え。(エレミヤ書51:6)

また、

わたしの民よ。その中から出よ。主の燃える怒りを免れて、おのおの自分のいのちを救え。(エレミヤ書51:45)

その命令は、29章の命令とは全然違います。29章で、神様はイスラエル人にこう言われました。

[バビロンで]家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。妻をめとって、息子、娘を生み。。。

その町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。」(エレミヤ29:5ー7)

どうして神様はその命令を変えられたのでしょうか。それは、メディヤとペルシアが来たとき、バビロンの裁きが近づいていたからです。だから、神様はイスラエル人たちに「逃げろ」と命じられたのです。

そのように、私たちはこの世に楽すぎて生きないほうがいいのです。むしろ、私たちは神様に対して柔らかい心を保つべきです。神様がこの世において私たちの希望であることを思い出すべきです。(50:7)

また、神様が私たちの創造者であることを覚えているべきです。神様がすべてをご自身の力と知恵によって造られたことを思い出すべきです。(51:15-16)

さらに、この世に生きる人々のために、裁きの日が近づいていることを覚えているべきです。(51:6、56)

だから、罪の人生を捨てましょう。悪に留まらないでください。むしろ、

遠くから主を思い出せ。エルサレムを心に思い浮かべよ。(エレミヤ書51:50)

将来、私たちは新しいエルサレムに住みます。(黙示録21章1-2)

だから、パウロが言ったように、

こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。

あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。

私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。(コロサイ3:1ー4)

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ダニエル書

決心した

実は、イスラエルの歴史を年代順に伝えることは非常に難しいです。なぜなら、多くの聖書の書は同時期に書かれていたからです。

それでも、私はこのブログを通して、多くのことを学びました。

以前、私はダニエル書の出来事がいつ起こったのかを尋ねたことがありました。ダニエル書の最初の部分は、エルサレムが滅ぼされる前に書かれていたことを知りました。

とはいえ、私はその出来事がユダの最後から二番目の王エホヤキンの時代に起こったのではないかと考えていました。けれども、ダニエル書によれば、エホヤキムの治世の第3年にバビロンの軍隊がエルサレムを包囲しました。

(エホヤキムは約11年間ユダを治め、その次の王がエホヤキンでした。)

ダニエルはエホヤキムの治世の第4年にバビロンへ追放されました。

ダニエルだけでなく、イスラエル人の中から王族や貴族の数人もバビロンに追放されました。なぜなら、バビロンの王ネブカデネザルは、ユダや他の国々の最も賢く、ハンサムで、偉大な人々を欲したからです。

そうすることで、征服された国々には有能なリーダーがいなくなり、バビロンがさらに強くなるからです。

そこで、バビロン人はダニエルと他のユダ人にバビロンの文化を教えました。

また、バビロン人は彼らに新しいバビロンの名前を与えました。ダニエルとその友達の名前は神様を敬うものでしたが、新しい名前はバビロンの神々を敬うものに変更されました。

やがてすぐに、ダニエルとその友達は選択しなければならない場面に直面しました。一見すると重要ではない小さな選択のように思えるかもしれませんが、王が提供した食べ物を食べるかどうかを決める必要がありました。

その食べ物は王の食卓から供されるもので、バビロンの訓練を受けている人々を尊ぶものでした。けれども、二つの問題がありました。

一つ目は、その食べ物を食べると、ダニエルが神様の食事に関する律法を破る可能性があることです。

二つ目は、その食べ物が偶像に捧げられていた可能性があることです。

では、ダニエルとその友達はどうしたのでしょうか。「私たちはイスラエルから遠くにいるし、神様が私たちを見捨てたようだから、その食べ物を食べても問題ないのではないか?」と考えるのは簡単なことです。

しかし、ダニエル書1:8にはこう記されています。

ダニエルは、王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め[ました]。(ダニエル書1:8)

ダニエルが係の人と話し合った結果、彼とその友達は神様の方法に従う許可を得ることができました。そして、

十日の終わりになると、彼らの顔色は、王の食べるごちそうを食べているどの少年よりも良く、からだも肥えていた。

そこで世話役は、彼らの食べるはずだったごちそうと、飲むはずだったぶどう酒とを取りやめて、彼らに野菜を与えることにした。(15-16節)

その結果は?

神はこの四人の少年に、知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた。ダニエルは、すべての幻と夢とを解くことができた。。。

王が彼らと話してみると、みなのうちでだれもダニエル、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤに並ぶ者はなかった。そこで彼らは王に仕えることになった。

王が彼らに尋ねてみると、知恵と悟りのあらゆる面で、彼らは国中のどんな呪法師、呪文師よりも十倍もまさっているということがわかった。(17,19-20)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

あなたは神様を喜ばせることを決心していますか。

ダニエルとその友達が直面したプレッシャーについて考えてみてください。バビロン人からの圧力、神様の律法を犯した友達からの影響、自分自身の情欲とプライドからの誘惑。

これらの試練がかかっても、彼らはその圧力に屈しませんでした。むしろ、彼らは神様に仕えることを固く決心しました。

その結果、神様は彼らを祝福されました。

周りの人々からの圧力がかかっても、あなたは神様に従うことを決心していますか。誘惑が迫っても、神様に仕えることを心に決めていますか。

私たちがダニエルとその友達のようになることができますように。そうすれば、神様は私たちを祝福してくださいます。

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イザヤ書

自分自身を神とする

昔、サタンがエデンで言った嘘を、今でも私たちに囁きます。それは、「あなたは神のようになる」というものです。

人類の歴史を振り返ると、人々は自分自身を神にしようとしてきました。つまり、自分の道を進み、心の王座を神様に捧げずに、自分自身がその王座に座るのです。

バビロンの支配者たちも同じことをしました。そのため、イザヤは彼らを責めました。

あなたは「いつまでも、私は女王でいよう』と考えて。。。

だから今、これを聞け。楽しみにふけり、安心して住んでいる女。

心の中で、『私だけは特別だ。私はやもめにはならないし、子を失うことも知らなくて済もう」と言う者よ。。。

あなたは自分の悪に拠り頼み、「私を見る者はない」と言う。

あなたの知恵と知識、これがあなたを迷わせた。だから、あなたは心の中で言う。「私だけは特別だ。」(イザヤ書47:7、8、10)

バビロンの人々は、神様がご自身について言われた言葉を取り、それを自分自身に当てはめました。

日本語の翻訳では「私だけは特別だ」と書かれていますが、それは少し簡略化された翻訳です。

実際には、バビロンの人々が「私は特別だ」と言ったとき、それは神様の言葉を模倣していたのです。

つまり、

わたし、主こそ初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ。(イザヤ書41:4)

また、

わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。(イザヤ書45:5)

また

わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。(イザヤ書46:9)

しかし、イザヤは彼らに警告されました。

「あなたたちは神ではない。あなたの罪のために裁きが来る。あなたの知恵と力は、神様の怒りからあなたを救うことはできない。」

それでも、どれほど私たちはバビロンの人々のように生きているでしょうか。

私たちは安全だと思い込み、安心してしまいます。自分の道を進み、それで大丈夫だと思い込みます。誰も私たちの罪を見ていないと考え、将来の裁きについて全く思いを巡らせません。

そのような生き方を続けるなら、バビロンの人々のように私たちは倒れるでしょう。私たちは神様の前で裸で恥ずかしい姿のまま立つことになります。

そして、この世の中で、経済問題や結婚生活の問題が生じ、私たちはどうしたら良いか分からなくなるでしょう。

だからこそ、プライドを捨て、心の王座を神様にお捧げしましょう。ただお一人の神様がおられます。そして、その神様は私たちではないのです。

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イザヤ書 列王記第二 歴代誌第二

神様の恵みを忘れる

この箇所を読んで私が驚いたのは、神様がいろいろな不思議な方法でヒゼキヤを助けられたにもかかわらず、ヒゼキヤがその恵みを忘れてしまったことです。

歴代誌第二32:35には、このことについてこう記されています。

ところが、ヒゼキヤは、自分に与えられた恵みにしたがって報いようとせず、かえってその心を高ぶらせた。そこで、彼の上に、また、ユダとエルサレムの上に御怒りが下った。

ヒゼキヤはどのように高ぶったのでしょうか。神様がヒゼキヤの病気を癒された後、バビロンから使者がやって来ました。彼らは、神様がヒゼキヤのために何をしてくださったのかを聞いたからです。

しかし、ヒゼキヤは神様を誉めることなく、自分の富、つまり金や銀、武器、そして宝物のすべてを見せびらかしました。

そのため、イザヤはヒゼキヤにこう言いました。

万軍の主のことばを聞きなさい。見よ。あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで、たくわえてきた物がすべて、バビロンへ運び去られる日が来ている。何一つ残されまい、と主は仰せられます。

また、あなたの生む、あなた自身の息子たちのうち、捕らえられてバビロンの王の宮殿で宦官となる者があろう。(イザヤ39:5-7)

多分、その日バビロン人はヒゼキヤの富を目にしたことで、後にその富を得るためにユダを攻めようと考え始めたのでしょう。

それだけではなく、ヒゼキヤはバビロン人に神様の恵みについて伝える絶好のチャンスを逃してしまいました。もし彼が神様の恵みを語っていたなら、彼らは悔い改めて神様に従い始めた可能性もあったのです。

私たちも、神様の恵みを忘れると同じようなことが起こるかもしれません。自分の持ち物や、自分が成し遂げたことを誇ってしまい、それらの祝福がどこから来たのかを見失ってしまうのです。

そして、他の人々が私たちの祝福を見るとき、私たちは時に神様が与えてくださった恵みを忘れてしまい、自分自身がどのようにそれらを得たのかを誇ることがあります。

その結果、彼らは私たちが仕える神様を誉めるのではなく、私たち自身を誉めてしまうのです。

あなたはどうでしょうか。他の人々があなたを見るとき、その人たちはあなたの成功に感動し、あなたを誉めるのでしょうか。

それとも、彼らはあなたを通して神様を知り、神様を求め始めるのでしょうか。

どうか、神様の恵みを忘れないでください。むしろ、謙遜な心を持ち、いつも神様に感謝を捧げ、神様からいただいた恵みを周りの人々と分かち合いましょう。

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イザヤ書

砕かれた人々のための希望

この箇所はちょっと難しいです。多くの聖書の学者によれば、この箇所はペルシア人とメディヤ人がバビロンを攻撃することを預言しているものです。とはいえ、ほかの可能性もあります。

その攻撃の150年以上前に、バビロンはメディヤ人とエラム人と同盟を結んでアッシリヤを攻撃しました(紀元前700年ごろ)。

そしてユダはそれを見て、その同盟を応援しました。なぜなら、アッシリヤはユダも虐げたからです。

イザヤもそれを見て、希望を持ったかもしれません。けれども、イザヤはこの主からの幻を見て、泣きました。なぜなら、その攻撃は失敗して、バビロンが倒れたからです。(イザヤ書21:3-4)

最初にその攻撃について聞いた時、ユダ人たちは大宴会を催しましたが、バビロンが倒れたニュースを聞いたら、希望がなくなって、その大宴会は急に終わりました。

しかし、イザヤは彼らに言いました。

踏みにじられた私の民、打ち場の私の子らよ。私はイスラエルの神、万軍の主から聞いた事を、あなたがたに告げたのだ。(イザヤ書21:10)

この言葉は脱穀された穀物の絵です。最初に穀物の穂は踏まれます。そして、その穀物の種が出て、農夫はその穀物を空気中に投げます。そうすると、風によってその要らない殻が吹き飛ばされて、穀物は落ちて保存されます。

そのように、神様はユダ人たちがアッシリヤ人に踏まれたとしても、神様が主を愛して仕える残りの者を保護すると約束されました。しかし、以前ユダ人が信頼したバビロン人たちは殻のように吹き飛ばされるのです。

時々私たちは困難な時に、ユダ人のように助けを探しますが、神様に向かいません。けれども、結局その助けが無駄になって、私たちは砕かれるように感じます。

しかし、もう一度神様に向かって信頼すると、神様がまだ私たちのために計画を持っておられるので、私たちには希望があることが分かるようになります。

あなたは砕かれたと思うでしょうか。あなたは助けを探しているけど、神様があなたの人生に何をされるのか無視しているでしょうか。

神様はあなたを癒すことができます。まだ希望があります。

もしへりくだって神様に立ち返り、悔い改めるなら、神様はあなたを癒してくださいます。神様に信頼するなら、神様の力によってあなたの人生は回復するのです。