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使徒の働きのデボーション

パリサイ人のように聞こえることがる?

そこで、ペテロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちが、彼を非難して、「あなたは割礼を受けていない者たちのところに行って、彼らと一緒に食事をした」と言った。(使徒の働き11:2ー3)

その言葉を読んだとき、私はこう考えました。 「彼らは、どれほどパリサイ人のように聞こえたのか気づいていたのだろうか。」

イエス様が「罪人」とともに食事をされたとき、パリサイ人たちは彼を激しく批判しました。(ルカ5:30;15:2)

割礼を受けているクリスチャンたちは、このような話を何度も聞いてきたでしょう。そして、おそらくこう思っただろう。 「私は決してパリサイ人のような態度を取ることはない。」

しかし、彼らはペテロを非難するとき、自分たちがまさにパリサイ人のような態度を取っていることに気づいていたのでしょうか。

そして、私は自分自身について考えました。 私はパリサイ人のように聞こえることがあるのだろうか。

たとえその瞬間がなくても、私は気づかないうちに、他の罪深い態度を持っているのではないだろうか。

聖書の登場人物について読むとき、私は「決してこの人のように振る舞うことはない」と思いながらも、気づかぬうちに同じようなことをしているのではないだろうか。

私は今、その答えを知りません。

しかし、私はこのように祈ります。

天のお父さん、私の心を私自身に明らかにしてください。 私が気づいていない罪深い態度や行為を示してください。 どうか私をあなたのようにしてください。

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ルカの福音書のデボーション

私たちの王を歓迎する?

もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。。。神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。(ルカの福音書19:42、44)

今日、私は上記の言葉を反芻していました。

私たちの王を歓迎すると、平和を知るようになります。(38節)

ザアカイは王に心の戸を開け、平和と喜びを知るようになりました。

彼に対して、イエス様が嘆かれたパリサイ人たちや他のユダヤ人たちは、その後どうなったのでしょうか。

イエス様、あなたの良い支配を歓迎せず、私の心の戸をあなたに開けないことで、どれほどの平和を失うでしょうか。

私の前に立たれているあなたを認識さえしないことで、どれほどの平和を失うでしょうか。

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ルカの福音書のデボーション

親しみやすい?

さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。(ルカの福音書15:1)

今日、なぜか私はその言葉に心を打たれました。そして、こう自問しました。「イエス様を知らない人にとって、私は親しみやすい人だろうか。」

正直に言うと、私はあまり社交的ではありません。人は好きですが、私は外交的な性格だとは言えません。

初対面の人と話すのは少し(いや、だいぶ?)苦手です。以前よりはうまく話せるようになりましたが、おそらく完全に自然にできるようにはならないでしょう。

それでも、人々は私の中にイエス様の愛を見ることができるでしょうか。私が彼らを見下すでもなく、責めるでもないと知って、気軽に私に近づけるでしょうか。

それが私の願いです。しかし振り返ると、私が親しみやすくなかった時もあると気づきます。

それに比べて、イエス様は親しみやすい方でした。そのため、「罪人」と呼ばれる人々でさえ、イエス様に惹きつけられました。一方で、パリサイ人が親しみやすいと感じた人は誰もいなかったのです。

私たちは、神様の国を広げ、人々を神の良いご支配の下に招く使命を与えられています。だから、イエス様と同じように、私たちも親しみやすい人でなければなりません。そうでなければ、その使命を果たすことはできません。

だから、今日私はこのように祈りました。「イエス様、どうか私があなたのように親しみやすい人になる方法を教えてください。」

あなたはどのような人ですか。あなたは親しみやすい人ですか。

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マタイの福音書のデボーション

誰を喜ばせようとしているのか

そのとき、弟子たちが近寄って来てイエスに言った。「パリサイ人たちがおことばを聞いて腹を立てたのをご存じですか。」

イエスは答えられた。「わたしの天の父が植えなかった木は、すべて根こそぎにされます。

彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を案内する盲人です。もし盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ちます。」(マタイの福音書15:12ー14)

パリサイ人たちがイエス様の言葉に腹を立てたとき、イエス様の弟子たちはそのことを気にしているようでした。しかし、イエス様はまったく気にしていないようでした。

実際のところ、私たちはすべての人々を喜ばせることはできません。

英語のことわざに、”If you try to please everyone, you’ll end up pleasing no one.” というものがあります。

つまり、「すべての人を喜ばせようとすれば、結局は誰も喜ばせることができない」ということです。

とくに、私たちは神様を喜ばせることができないままでいることもあります。

だからこそ、自問自答しなくてはならないのは、「私は誰を喜ばせようとしているのだろうか」ということです。

もちろん、私たちはわざと人を怒らせようとしてはいけません。けれども、人を怒らせることを避けることができない場面もあります。

私たちの言動が人の考え方に反すると、彼らは怒ってしまうことがあります。

けれども、盲人に従えば、私たちも穴に落ちてしまいます。

私はそうしたくありません。

何よりもまず、私が望むのは、アバが私に「よくやった」と言ってくださることです。

あなたはどうでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ23章

私たちの先生が悪い時

私は子供の頃、「ベスト・キッド」という映画を観ました。それはもう30年前のことですが、今でも面白い映画だと思います。

実は現在、YouTubeでその映画に基づいた現代のシリーズを見ることができます。(おそらく、それは英語だけですが。)それも非常に人気があります。

その映画では、ダニエルという少年が、ある空手道場の生徒たちにいつもいじめられていました。そのため、ダニエルは空手を習いたいと思うようになります。

あるとき、ダニエルは自分の先生にこう訊きました。「どうして彼らはあのような振る舞いをするのでしょうか。」

先生はこう答えました。「悪い弟子というものは存在しない。存在するのは悪い先生だけだ。」

私はその言葉に完全には同意できませんが、その中に真理が含まれていると思います。もし先生が悪ければ、その先生に従う者たちも同じ道を辿ることになります。

この箇所でも、私たちはそのことを学びます。イエス様はパリサイ人たちや律法の専門家を厳しく責め続けておられます。

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々の前で天の御国を閉ざしている。おまえたち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない。

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは一人の改宗者を得るのに海と陸を巡り歩く。そして改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナ(つまり、地獄)の子にするのだ。(マタイの福音書23:13-15)

この律法学者たちやパリサイ人たちにはさまざまな欠点がありました。彼らは偽善者であり、律法の細かいルールに執着していて、神様が本当に大事にするものを理解していませんでした。

その結果はどうなったのでしょうか。彼らの弟子たちも同じように振る舞うようになりました。実際、その弟子たちはさらにひどくなりました。クリスチャンになる前のサウロはその一例です。

では、この箇所から私たちは何を学ぶことができるのでしょうか。

もしあなたが聖書を教えるなら、あなたの性格はどのようなものでしょうか。

ヤコブはこう言っています。

私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しい裁きを受けます。(ヤコブ3:1)

ヤコブは主に私たちの教えについて話していると思いますが、私たちの人生についても語っています。教師であるなら、私たちはパリサイ人たちや律法学者たちとは異なり、教えと行為が一致していなければなりません。(マタイ23:3)

そこで、もしあなたが教師であるなら、あなたの教えと行為は一致していますか。それとも、偽善者のように生きていますか。

さらに、あなたが教えるとき、または人生を歩むときに、神様の優先順位を忘れずに覚えていますか。正義、憐れみ、誠実を忘れずにいますか。

心に留めておきましょう。神様はあなたの教えと行為によって裁かれます。しかし、それだけではありません。もしあなたが自分の弟子を忠実に訓練しないのであれば、神様はあなたが育てた弟子の姿を見て、あなたを裁かれます。

もう一つ忘れてはならないことがあります。それは、あなたの先生がどのような人であるかということです。

あなたの先生はどのように生きていて、何を教えているでしょうか。もし悪い先生に従うなら、あなたはその先生の歩む道を辿り、最終的には困難に直面することになるでしょう。

教会では、誰の話を聞いていますか。ポッドキャストでは、誰の言葉に耳を傾けていますか。どんな人の本を読んでいますか。

教師たちは自分の教えに責任を持ちますが、あなたは何を聞くかに責任を持っています。

ですので、以前にも述べたことではありますが、もう一度繰り返させてください。

ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。(第一テサロニケ5:21)

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マタイの福音書 マタイ23章 マルコの福音書 マルコ12章 ルカの福音書 ルカ20章

リーダーシップに関する間違った考え方

リーダーシップとは何でしょうか。

イエス様は、パリサイ人たちと律法の専門家を厳しく批判された時、本当のリーダーシップを定義されました。

まず、イエス様は弟子たちと群衆に警告されました。

律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座に着いています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。

しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで事項しないからです。(マタイ23:1-2)

この箇所で、イエス様が彼らに教えられたのは、そのリーダーたちの権威ある立場を尊重する必要があるけれど、彼らの行動を模倣してはならないということです。なぜなら、彼らの言葉と行動が一致していなかったからです。

もちろん、彼らは律法の細かなルールや、さまざまな宗教的な伝統を守っていました。けれども、最も重要なこと、つまり正義、憐れみ、そして誠実を忘れていたのです。

その態度は、神様や周囲の人々に対する彼らの姿勢に悪影響を与えてしまいました。

さらに、その態度は彼らのリーダーシップに関する考え方にも影響を与えました。彼らは人々に仕えるのではなく、命令したいという考えを持っていました。

イエス様は彼らについてこう言われました。

また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません。(マタイ23:4)

彼らは多くの律法やルールを人々に課しました。けれども、その人々がそのルールを守れず、罪悪感の重さで苦しみ始めると、パリサイ人たちや律法学者たちは彼らを励ますことも、彼らのために祈ることもせず、助けるどころかむしろ彼らを責めました。

さらに、パリサイ人たちと律法学者たちは、自分の立場を誇示していました。

彼らの聖句を入れる小箱は大きく、衣の房(その房にも神様の言葉が書かれていました)は長く、周りの人々は彼らを見た時に本当に感心しました。「その人は本当に霊的な人だ」と思ったのです。

また、彼らはお金を儲けるために自分の立場を利用しました。イエス様は「彼らはやもめたちの家を食い尽くします」と言われました。おそらくそれは、パリサイ人たちがやもめの歓心を買い、彼女たちのお金を搾取したということを意味しているのでしょう。

さらに、彼らは周りの人々に「先生」や「父」と呼ばれることを好みました。なぜなら、それは彼らの高い立場を示す印だったからです。

しかし、イエス様はこう言われました。

あなたがたは、先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです。

あなたがたは地上で、だれかを自分たちの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただ一人、天におられる父だけです。

また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただ一人、キリストだけです。(マタイ23:8-10)

リーダーたちはそのことを心に留めていなければなりません。肩書を持つこと自体は良いことですが、実際には私たち全員が対等なのです。神様だけが私たちに対して優れた方です。

それでも、神様はしもべとしてこの世に来られました。イエス様は病気の人々を癒し、困難にある人々に良い知らせを伝え、十字架で私たちの罪のための罰を受けて下さいました。リーダーたちはそのような態度を取るべきです。

だからこそ、イエス様はこう言われました。

あなたがたのうちで、一番偉い者は皆に仕える者になりなさい。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。(マタイ23:11-12)

本当のリーダーたちはしもべです。彼らは敬意、栄誉、またはお金を求めるのではなく、周りの人々に仕えるために全てをささげます。

さて、あなたはどのようなリーダーなのでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ18章

パリサイ人と取税人のたとえ話:恵みの必要を心に留める

まず、少しアナウンスがあります。最近、新改訳2017を購入したので、これからその翻訳から引用を始めます。そのため、あなたの聖書と比較すると、少し違うところがあるかもしれません。

それはさておき、不思議なことですが、何千年経っても人間の本質はあまり変わりません。この箇所を読むと、それがよくわかります。

ルカはこう書きました。

自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエス様はこのようなたとえを話された。(ルカの福音書18:9)

その時代、特にパリサイ人たちはそのような態度を持っていました。彼らは一生懸命に、一番細かい律法にさえ従おうとしました。しかし、それは彼らのプライドへとつながりました。

イエス様のたとえ話の中で、あるパリサイ人が大きな声でこう祈りました。(もしくは、祈りというより独り言を言ったのでしょうか)。

神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。(11-12)

ようするに、「神様、あなたの国に私のような人がいて良かったですね。私はいい人ですよね?逆に、この収税人は。。。」ということです。

残念なことですが、今でもそんな態度を取るクリスチャンがいます。彼らは神様の恵みによって救われたと認めていますが、彼らの態度は違うことを示しています。

恵みによって生きる人には二つのことがはっきり見えます。彼らの罪深い心が見えますし、どれほど神様が必要かが見えます。

この収税人には、その二つのことがはっきり見えていました。

その時代、ユダヤ人たちは収税人を憎んでいました。なぜなら、収税人はユダヤ人でありながらイスラエルを征服したローマ帝国と協力していたからです。

それに加えて、収税人たちはイスラエル人を騙して、ローマ帝国が要求した額よりも多く税を取り立てていました。

けれども、この収税人は自分の胸を叩きながら、こう祈りました。

神様、罪人の私をあわれんでください。(13)

イエス様はその人について、こう言われました。

あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。

誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。(14)

あなたはどうですか。あなたは神様の恵みによって生きているでしょうか。自分の罪深い心が見えていますか。そして、どれほど神様が必要かが分かっていますか。

そのような人とは、どのような人でしょうか。

彼らはへりくだり、神様が何をしてくださったのかを感謝します。彼らの心にはプライドの余裕がありません。つまり、自分の義や、自分のたまものに関するプライドがないのです。

彼らは、自分が永遠の死にしか値しない者であることを理解しています。それでも、神様が彼らに恵みを注いでくださったため、毎日感謝で心が満ちています。

たとえ他人が彼らを正当に評価しないときでも、彼らは苦々しい思いを抱きません。また、自分の功績を誇ることもありません。むしろ、感謝に満ちた心を持っています。

もう一つの特徴は、彼らが受けた恵みを周りの人々に与えることです。彼らは偉そうな態度を取ることはありません。むしろ、自分自身が神様の恵みを必要としていたように、周りの人々もその同じ恵みを必要としていることを理解しています。

自分の罪深い心がわかるならば、他人を軽蔑することはできません。自分がどれほど赦されたかを理解していると、他人を裁くこともできません。

むしろ、心が恵みと憐れみに満ち、その恵みと憐れみで周りの人々に触れるようになります。

あなたはどうですか。神様の恵みがどれほど必要か、あなたには分かっていますか。

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ルカの福音書 ルカ16章

人の前で義を装う自分を正しいとする?

パリサイ人の大きな問題の一つは、独善的な態度でした。

彼らは細かい規則に従っていましたが、自分の明白な罪を認識することができませんでした。そして、イエス様がその罪を指摘されたとき、彼らはそれを否定しました。「私たちは正しい人だ」と言い張ったのです。

そこで、イエス様は彼らにこう言われました。

あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。

人間の間であがめられるものは、神の前で憎まれ、きらわれます。(ルカの福音書16:15)

この話の中で、イエス様は彼らのお金への執着を裁かれました。

けれども、パリサイ人たちはこう考えました。 「でも、私の財産は神様の祝福のしるしのはずだ。イエス様は何を言っているのだろう?」

ところが、彼らの心の中では、お金が偶像となっていました。彼らは神様よりもお金を愛していたのです。

あるいは、彼らはお金以上に、ただ一つのものを愛していたかもしれません。それは、周囲の人々からの称賛です。だからこそ、彼らは施しをするとき、人々に見てもらえるように確認しました。

多くの人々はお金や世間からの称賛を求めますが、神様の目にはそれらは忌み嫌われるものです。

もちろん、お金や称賛そのものが悪いわけではありません。しかし、それらが人生の目的となり、さらにそれらが私たちの神となってしまうなら、神様との関係を妨げる障害となります。

パリサイ人たちは、人前で正しい行いを示すだけでなく、ほかにも多くのことをしていました。彼らは過剰な規則を強制しながら、自ら抜け道を見つけ、それを正当化して自分自身を誇りました。

例えば、イエス様は彼らの姦淫に関する考えを非難されました。あるパリサイ人は、その律法を回避するために、自分の妻たちと離婚し、すぐに別の女性と再婚しました。

けれども、イエス様は彼らにこう言われました。

だれでも妻を離別してほかの女と結婚する者は、姦淫を犯す者であり、また、夫から離別された女と結婚する者も、姦淫を犯す者です。(18)

しかし、最も問題なのは、彼らが罪人と関わることなく、ただ裁いたことです。彼らは律法を利用して人々を裁きましたが、罪人の救いを望んでいませんでした。むしろ、彼らは「人々から天の御国を遮っていました。」(マタイ23:13)

それでも、ある人々はパリサイ人の妨害を乗り越え、神の国へ入っていました。

つまり、パリサイ人たちが拒絶した人々こそがイエス様に触れられ、彼らの余計な規則を押し切り、神の国へと導かれていたのです。(ルカ16:16)

あなたはどうでしょうか。あなたの心には何があるでしょうか。外側は清く見えても、あなたの心は汚れていないでしょうか。

あなたは独善的な態度を持ち、自分の罪を認識できないでいるでしょうか。

私たちがパリサイ人のようにならないように。むしろ、イエス様が私たちの罪を明らかにし、神様との関係を阻む私たちのプライドの壁を打ち砕いてくださるように祈りましょう。

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ルカの福音書 ルカ14章

議論を通して、人を救う?

イエス様は優れた教師であるだけでなく、優れた論者でもありました。この個所では、イエス様は再びパリサイ人たちと、安息日に人を癒すことが合法的かどうか議論されています。

パリサイ人たちの反応は少し興味深いものです。イエス様が彼らに対して、安息日に癒すことが正しいか、そうでないかを問われたとき、彼らは黙ってしまいました。そこで、イエス様は水腫を患っている人を癒されました。

その後、イエス様はパリサイ人たちにこう問いかけられました。

自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。(ルカの福音書14:5)

彼らの答えは?

彼らは答えることができなかった。(6)

もしかすると、彼らはこのことわざを思い浮かべたのかもしれません

「あなたが黙っていて、周囲の人々に馬鹿者だと思われる方が、あなたの言葉によって、周囲の人々が馬鹿者だと明確に理解するよりも良い。」

けれども、ここで再び重要な真理が明らかになります。

パリサイ人たちは何度もイエス様と議論を試みました。そして最終的に、彼らはイエス様の議論に対して何も答えることができませんでした。イエス様はその議論に勝利されました。

では、パリサイ人たちはイエス様の教えを信じるようになったでしょうか。安息日に人を癒すのが正しいことだと認めたでしょうか。

残念ながら、そうではありません。むしろ、彼らはイエス様を殺そうと企むようになりました。

つまり、単なる議論によって人々をイエス様に信じるよう導くことはできません。あなたが議論を通じて、イエス様を信じるべき理由や聖書を信じるべき理由、そしてキリスト教が正しい理由を説明することは可能です。

あなたはその議論に勝つことがあるかもしれません。相手がパリサイ人たちのように黙るかもしれません。それでも、どれだけ議論をし、証拠を示しても、イエス様を拒絶する人は必ずいます。

かつてラジオ番組で、あるクリスチャンが哲学者と議論を交わしました。その哲学者はこう言いました。

「クリスチャンたちは聖書の真実性を証明しようとするとき、いつも聖書を引用します。それは循環論法ですよ。証明したいことを最初から仮定してはいけません。」

そのクリスチャンはこう反論しました。

「あなたはなぜ聖書が一冊の本だと思うのですか。実際には聖書は66冊で構成されています。さらに、著者は40人以上に及び、1000年以上をかけて書かれました。

ですから、一人の著者の言葉を使って別の著者の言葉を検証することは循環論法ではありません。全く異なる出所を利用しているのです。」

哲学者は「違う、違う、違う」と言い続けました。

そして、クリスチャンはこう尋ねました。「なぜ違うと言うのですか。私の議論に答えることができますか。それとも単に信じないだけですか。」

哲学者は「私はそれを信じない」と断言しました。

その哲学者は答えることができませんでした。彼はパリサイ人たちのように沈黙しました。とはいえ、おそらく彼は他のクリスチャンたちと話すときでも、同じ議論を繰り返していたことでしょう。

では、私たちはノン・クリスチャンと議論を交わすべきではないのでしょうか。彼らの疑問に答えない方が良いのでしょうか。そうではありません。

ペテロはこう記しました。

むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。(第一ペテロ3:15)

答えを心から求めている人もいるでしょう。そして、もしあなたがその答えを与えるなら、彼らはクリスチャンになるかもしれません。しかし、単なる議論によっては、誰も神の国に入ることはできません。

人々の心を開くことができるのは聖霊様だけです。ですから、人々と話すとき、彼らの質問に答えるだけでなく、彼らのために祈りましょう。

そうすることで、聖霊様が彼らの心を変え、彼らは救われるかもしれません。

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マタイの福音書 マタイ12章 ルカの福音書 ルカ11章

私たちは御霊を歓迎しないと

パリサイ人たちは、「イエス様が悪魔の力によって悪霊を追い出している」と言いました。

そのため、イエス様は彼らの不信を責められました。そこで、彼らはイエス様にしるしを求めました。

しかし、たとえイエス様がしるしを示されたとしても、彼らはそれでも信じなかったでしょう。だからこそ、イエス様は彼らの要求を拒まれました。

では、なぜ私は「彼らはしるしを見ても信じなかっただろう」と思うのでしょうか。それは、イエス様がすでにヨナのしるしを彼らに示されたからです。

つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいた後、その魚から出たように、イエス様も三日三晩、地の中にいた後、お墓から出られました。ところが、イエス様がよみがえられた時、パリサイ人たちはそれでもイエス様を信じませんでした。

そのため、イエス様はもう一度彼らの固い心を責められました。具体的には、イエス様は「ニネベの人々と南の女王(つまり、シェバの女王)が彼らを裁く」と言われました。

なぜなら、彼らはヨナやソロモン王のメッセージを聞いた時、悔い改めたからです。

一方で、イエス様がソロモンやヨナよりも優れた方であるにもかかわらず、パリサイ人たちは信じようとしませんでした。

そのため、イエス様は彼らに例えを示されました。その例えを通して、イエス様は「彼らがイエス様を信じないこと、また、聖霊を拒絶することの結果」について教えられました。

イエス様はこの世に来られた時、地獄の力を克服されました。例えば、その時、イエス様は多くの悪霊を人々から追い出されました。けれども、イエス様はイスラエルの民とパリサイ人たちに警告されました。

「私は悪霊を追い出し、地獄の力を克服し、私の賜物、つまり御霊を与える。ところが、もしあなたたちが御霊を拒絶するなら、地獄の力が戻り、あなたの状態は以前よりも悪くなる。」

なぜでしょうか。それは、あなたが神様の力を味わい、あなたを救うことのできる方に触れられたにもかかわらず、その方を拒絶したからです。

そして、イエス様は山上の垂訓の例えをもう一度語られました。それは、「体のあかりは、あなたの目である」ということです。もちろん、これは物理的な真理ですが、同時に霊的な真理でもあります。

イエス様は私たちに問いかけられます。「あなたは何を見ていますか。神様が語られるとき、その真理を見えますか。私を見るとき、私が誰であるか分かりますか。」

もし私たちが正しく見ることができるなら、私たちの人生は光に満ちるでしょう。しかし、正しく見えなければ、私たちの人生は暗闇に満ちてしまいます。そのため、イエス様は私たちに警告されます。

だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。(ルカ11:35)

あなたはどうでしょうか。イエス様をあなたの主と救い主として受け入れていますか。御霊をあなたの人生に歓迎していますか。

もしあなたが心を神様に対して固くしてしまうなら、サタンの破壊的な働きを受けやすくなります。

しかし、もしあなたが心を御霊に開くなら、命を見いだすのです。

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マタイの福音書 マタイ11章 ルカの福音書 ルカ7章

私たちのための神の目的を拒否する

私たち皆は偶然ではなく、神様の目的のために造られた存在です。

その目的は何でしょうか。

それは、私たちが神様との関係を持つために造られたことです。

そして、私たちは人間関係のために造られました。私たちは周りの人々に触れることができるように、そして私たち自身も周りの人々に触れられることができるように造られたのです。

さらに、私たちは神様から授かった才能や賜物を通して神様の心を実践するように造られています。

残念ながら、多くの人々はその目的を知らずに生活を続けてしまいます。なぜでしょうか。彼らは神様が与えてくださった目的を拒絶し、自分自身のためだけに生きているからです。

このように、パリサイ人たちと律法学者たちはそのような生き方をしていました。イエス様はバプテスマのヨハネの働きが神様からのものであることを認められましたが、ルカによれば、パリサイ人たちと律法学者たちについてこう書かれています。

。。。パリサイ人、律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けないで、神の自分たちに対するみこころを拒みました。(ルカ7:30)

ヨハネのメッセージは次の通りでした。

1.悔い改めなさい。その悔い改めのしるしはバプテスマです。

2.メシア(救い主、または王)はすぐに来ます。自分の心を整えなさい。

しかし、パリサイ人たちと律法学者たちは、自分の義を誇りに思い、自分が悔い改める必要があるとは認めませんでした。

さらに、神様がご自身を現された時、つまりイエス様が来られた時、彼らはイエス様を拒絶しました。それだけではなく、彼らはイエス様を十字架にかけて殺してしまったのです。

だから、マタイはこう記しています。

バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。(マタイ11:12)

バプテスマのヨハネの時代に、王であるイエス様が来られたにもかかわらず、パリサイ人たちと律法学者たちは、その王国に激しく敵対しました。

彼らは神の王国を守っていると思っていたのに、実際には神様の王国を攻撃してしまったのです。その結果、彼らは神様が彼らに対して持っていた御心を逃してしまいました。

しかし、ルカは他の人々についてこう記しています。

ヨハネの教えを聞いたすべての民は、取税人たちさえ、ヨハネのバプテスマを受けて、神の正しいことを認めたのです。(7:29)

その人々はへりくだり、神様の道が正しいことを認め、悔い改め、最終的にイエス様を王として受け入れたため、神様の王国に入ることができました。また、彼らは神様が彼らのために持っていた目的に立ち返ったのです。

あなた自身はどうでしょうか。神様があなたに与えてくださった目的に従っていますか。

最初のステップは悔い改めです。自分の最善を知らないことを認め、神様の道を受け入れる態度を取ることが必要です。特に、イエス様が真理であり、道であり、命であることを認めなくてはなりません。

言い換えると、イエス様をあなたの主として受け入れるべきなのです。

今、そうしませんか。

主よ、私は長い間、自分自身の道を歩み続け、あなたが私に示してくださった目的を逃してしまいました。私を赦してください。

私の罪のために十字架で死んでくださり、そして三日目によみがえられたイエス様を信じます。どうか私の主となってください。

これからは、あなたに従いたいです。あなたの御心に従いたいです。私をあなたに近づけてください。そして、あなたの御心を私に示してください。イエス様のみ名によってお祈りします。アーメン。

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イエス様を悲しませる?

私たちがこの三つの箇所をまとめると、この話全体を理解することができると思います。

イエス様は会堂におられ、片手のなえた人をご覧になりました。同時に、イエス様はパリサイ人たちと律法学者たちの存在にも気づかれました。そして彼らは、イエス様がその人を安息日に癒やすかどうかをじっと見守っていました。(マルコ3:1-2)

イエス様は、彼らの思いをよく知っておられました。そのため、イエス様は片手のなえた人を呼ばれました。その時、そのリーダーたちはイエス様にこう尋ねました。

安息日にいやすのは正しいことでしょうか。(マタイ12:10)

イエス様は、いつものように、質問で答えられました。

あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。(ルカ6:9)

もちろん、そのリーダーたちはその質問に答えることができませんでした。

もし彼らが「安息日に善を行うのはだめです」または「命を救うのはだめです」と答えたなら、彼らは愚か者と見なされたでしょう。

しかし、もし彼らが「善を行ってもよいです。命を救ってもよいです。」と答えたなら、イエス様は「よし、この人を癒やします」と言われたことでしょう。

さらに、彼らはもちろん「悪を行うのは良いです」または「命を失うのは良いです」と全く言えませんでした。

そのため、彼らはずっと沈黙を守り続けました。英語のことわざには真理があると思います。「Better to remain silent and be thought a fool than to speak and to remove all doubt.」

つまり、「黙っていることで周りの人々に愚か者だと思われる方が、言葉によってそれがはっきり知られるよりも良いです。」ということです。

ルカはイエス様が彼らの答えを待っていたと記していますが、マルコはさらに詳しい情報を教えてくれます。

イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆き[ました。] (マルコ3:5)

だから、イエス様は、彼らにもう一つの質問を投げかけられました。

あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。(マタイ12:11-12)

つまり、「あなたは自分の羊を助けるでしょう。どちらの方が大切でしょうか。羊でしょうか、人間でしょうか。もし、人間の方が大切であるなら、どうして私が安息日に人を癒やすと、あなたたちは私を責めるのでしょうか。」

こうして、イエス様はご自身の疑問に答えられました。

それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。(マタイ12:12b)

そして、イエス様はその人を癒やされました。

この話には皮肉な点があります。イエス様は彼らに「安息日にしてよいのは、いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」と尋ねられました。

そのリーダーたちは、この出来事の後、イエスをどのようにして殺すかを相談し始めました。彼らは安息日にそのことを考え始めたのです。(マルコ3:6)

けれども、もう一つのことが私の心に深く響きます。

イエス様は彼らの頑なな心をご覧になり、嘆かれました。彼らの伝統と律法主義的な考え方によって心が固くなりすぎていたため、神様の言葉と真理がその心を貫くことはできませんでした。

彼らは心の中で、自分たちが間違っていることに気づいて、沈黙しました。それでも、自分たちの間違いを認めることはありませんでした。

あなたはどうでしょうか。神様に対して頑なな心を持っていませんか。

もしかすると、あなたの行動や思いが間違っているために、神様が語りかけておられるのかもしれません。そして、その言葉を通して、自分の誤りに気づき、変わらなければならないと示されることもあります。

それでもなお、自分の間違った考えや罪にしがみついてしまうでしょうか。もしそうなら、あなたは神様を悲しませてしまうことになります。

なぜなら、神様はあなたの最善を望んでおられるからです。けれども、罪によってあなたは神様だけでなく、周りの人々、そして自分自身をも傷つけてしまいます。

だから、あなたの心を開いてください。神様のみ言葉を受け入れてください。そして、私たちのために死なれたイエス様を悲しませることのないようにしましょう。むしろ、イエス様を喜ばせましょう。

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罪のない者たちを罪に定めはする?

以前の記事では、私たちは宗教的なリーダーたちが、イエス様が安息日を破ったと責めたことを見ました。しかし実際には、イエス様は神様の安息日に関する律法を破ったわけではありません。イエス様が破ったのは、彼らが作った余計なルールでした。

この箇所でも、イエス様は宗教的なリーダーたちと安息日について議論されます。イエス様とその弟子たちが麦畑を通っていた時、弟子たちはお腹が空いたため、穂を摘んで食べ始めました。

(その時代、それは合法的な行為でした。申命記23:25に記されています。)

けれども、パリサイ人の目には、穂を摘む行為は仕事と見なされました。そして、律法では安息日に仕事をしてはならないとされていました。

それに対して、イエス様は二つの理由を挙げてその考え方を否定されました。

一つ目は、祭司たちが安息日に働いていても、それが罪とは見なされなかったことです。

二つ目は、ある律法はほかの律法よりも優先されるべきだということです。つまり、命を守ることは安息日の律法よりも重要だということです。この点については、パリサイ人もある程度同意していました。

例えば、誰かが死にかけている場合、お医者さんはその人が次の日まで生き延びられるように治療を行い、その後、その人を完全に治療しました。

そして、もう一度、イエス様は預言者ホセアの言葉を引用されます。

「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。(マタイ12:7)

多くの人々は、神様の目にはルールを守ることが最も重要なことであると思っています。そして、彼らは神様が私たちを罰する機会を待っていると考えています。

けれども、実際には神様はルールを守ることよりも、人々自身を大切にされます。

パリサイ人はこのことを理解しておらず、神様の律法を守るために、たくさんの余計なルールを作り出しました。そして、その余計なルールを守らない人を見ると、パリサイ人はその人を責めました。

しかし、イエス様は彼らにこう言われました。

安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。(マルコ2:27)

神様が立てられたルールはすべて正しいものです。それらのルールは、私たちの利益のために存在しています。

私たちはそのルールのために造られたのではありません。神様は、私たちを支配するためではなく、私たちを祝福するためにそのルールを作られました。

その原則を理解すれば、ルールの目的を正しく把握し、それを私たちの人生に適切に当てはめることができます。

、その原則を理解しなければ、パリサイ人のようにルールの本質が分からず、間違った方法で当てはめてしまうでしょう。それだけでなく、私たちは神様の目に無実の人を責めることになりかねません。

あなたはどうでしょうか。神様のルールをどのように考えているでしょうか。それらを余計なルールだと思っているでしょうか。

あるいは、それらのルールがあなたの利益のためだと理解しているでしょうか。そして、そのルールの背後にある理由を正しく理解しているでしょうか。

そのように理解すれば、無実の人を責めることはなくなるでしょう。

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ルールに目がくらむこと

ルールは良いものです。カオスの状態では、ルールによって秩序が確立されます。そういうわけで、学校の教室でも、家庭でも、社会でも、ルールは大切なものです。

とはいえ、人々がルールの目的を忘れると、ルールは害となることがあります。私たちがルールの精神を思い出さない限り、非常に困難な状況に陥る可能性があります。

さらに、ある人々はルールを守るために、余計なルールを作り出します。例えば、パウロはこう言いました。

また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。(エペソ5:18)

そこだけではなく、聖書のさまざまな箇所で、酔ってはいけないという警告がたくさんあります。どうしてでしょうか。

酔うと、自分自身をコントロールできなくなるからです。それに、神様ではなく、お酒があなたの行動をコントロールするようになります。

けれども、ある人々は余計なルールを作ります。「全くお酒を飲んではいけません。あなたが飲むと酔う可能性があるから。」

そのルール自体は悪いわけではありません。そのため、私はお酒を飲みません。(その上、その味が嫌いなのです。)

ですが、他の人々がその余計なルールを守らないからといって、彼らを批判してはいけません。

パリサイ人たちはそのようなことをしていました。神様はこう命じられました。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。(出エジプト記20:28)

つまり、その日に働いてはいけません。

その律法の精神は何でしたか。

一つ目は、人々が神様に焦点を当てる時間を取ることです。

二つ目は、神様を信頼することです。つまり、毎日働かずに、一週間に一日休んでも、神様があなたの必要を満たしてくださるのを信じるのです。

三つ目は、彼らがリラックスすることです。神様は彼らを愛しておられるので、時々休んでほしいと思われました。

それらがその律法の精神でした。しかし、パリサイ人と律法学者たちは、その律法のためにさまざまな余計なルールを作りました。例えば、どれくらい旅ができるかとか、何キロのものなら運んでもいいというルールを作りました。

医者に対しても、安息日に関するルールがありました。安息日に、誰かが死にかけている場合だけ、医者がその人を助けることができました。その場合でも、その人が次の日まで生き延びられるようにするだけでした。

ところが、そのルールのせいで、彼らはその律法の精神を忘れてしまいました。彼らは人々に神様が望んでいなかった重荷を負わせました。

さらに、誰かが神様が立てていないルールを破った場合、その人を批判しました。

その上、そのルールのせいで、彼らは神様がなさっていることに目を向けられなくなりました。

この箇所では、そのことを見ることができます。

彼らは、安息日に床を取り上げている人を見ました。(彼は安息日に荷物を運ぶルールを破りました。なぜなら、それは「仕事」でした。)

パリサイ人たちは言いました。「お前は働いているよ。なぜ安息日に働いているのか。」

「私をいやしてくれた人は『床を取り上げて歩け』と言ったからです。」

つまり、「もしその人に私をいやす力があれば、私に『床を取り上げなさい』と言う権利もあるでしょう。」

この箇所では、注意事項が二つあります。

一つ目は、その人が病気にかかっていた間に、パリサイ人たちは彼のことに全然気づいていなかったということです。けれども、彼が彼らのルールを破った時に、初めて彼に気づきました。

私たちは、どれくらいそのようにふるまうでしょうか。私たちの周りに霊的な必要がある人がいるのに、彼らが私たちのルールを破る時以外には彼らを無視します。

二つ目は、その奇跡にやっと気づいた時、彼らはルールに集中しすぎたせいで、神様がその人のために何をしてくださったかに感謝することができませんでした。

そのため、彼らはそのルールを破った人が誰かという疑問に集中し、イエス様だと分かった時、イエス様を迫害しました。

これがルールに集中しすぎることの危険性です。私たちの周りの人々のニーズが見えなくなり、神様が何をなさっているかを認識できなくなります。

あなたはどうでしょうか。あなたはルールに目がくらんでいますか。