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ルカの福音書のデボーション

主よ、私の目が見えるようにしてください

弟子たちには、(イエスが言われたこと)が何一つ分からなかった。彼らにはこのことばが隠されていて、話されたことが理解できなかった。(ルカの福音書18:34)

(目の見えない人)が近くに来ると、イエスはお尋ねになった。「わたしに何をしてほしいのですか。」

するとその人は答えた。「主よ、目が見えるようにしてください。」(40ー41節)

イエス様、どれだけあなたは私に大切なこと、私が聞かなくてはならないことを伝えたいと思っておられるでしょうか。でも、弟子たちと同じように、私にはその言葉が隠されていて、理解できないのでしょうか。

私は霊的に盲目になりたくありません。どうか、私の目が見えるようにしてください。あなたが言わんとしていることを理解できるように、私の心の目を開いてください。

あなたが私に言わんとしていることを理解し、受け入れることを妨げるものを、私の心から取り除いてください。

パリサイ人のプライドを、私の心から取り除いてください。

すべてをあなたに開け渡そうとしない指導者の態度を、私の心から取り除いてください。

主よ、あなたにすべてを開け渡すことには、喜びがあります。あなたに従うことには、喜びがあります。

目が見えない人は、その喜びを知りました。

私も、その喜びを知るように。

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マタイの福音書のデボーション

自分が間違っていることを認める

多くの人が、自分が間違っていたと認めたくないものです。私もそうです。

祭司長や律法学者たちも同じでした。彼らは初めから、イエス様とバプテスマのヨハネを正当に評価しませんでした。

さらに、イエス様とヨハネのミニストリーによって変えられた人々を見ても、自分が間違っていたと認めようとはしませんでした。

その結果、彼らは最終的に粉々に砕かれてしまいました(マタイの福音書21:44節)。

それに対して、収税人や遊女たちは、ヨハネとイエス様の言葉を聞いて、謙虚に悔い改めました。そのゆえ、彼らは神様の恵みを受けました。

主よ、私の心が頑なになるときがあります。自分が間違っていると認めたくない時も、たくさんあります。どうか赦してください。私は、あなたと御国のために実を結びたいと願っています。

ですから、私が間違っているとき、それを認める心を、また、すぐに悔い改める心を与えてください。私があなたのようになりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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テトスへの手紙

罪の余裕もない。プライドの余裕もない。

前回の記事で、テトスの3章の最初の部分について話しましたが、今日は3章全体をまとめたいと思います。

前回の記事で私は言いましたが、1節ではパウロは私たちが権威者たちに従うべきだと教えます。そして、2節ではパウロはこう言います。

また、だれも中傷せず、争わず、柔和で、すべての人にあくまで礼儀正しい者となるようにしなさい。(テトスへの手紙3:2)

時々、ノン・クリスチャンたちの行為や態度のために、私たちが彼らを愛さずに裁くのは簡単です。でも、私たちは彼らを中傷せず、むしろ柔和な態度を持ち、礼儀正しい態度を取るべきです。

相手の弱さと失敗を見るとき、私たちが柔和な態度、また、謙虚な態度を取ることはとても大切だと思います。なぜでしょうか。

私たちも以前は、愚かで、不従順で、迷っていた者であり、いろいろな欲望と快楽の奴隷になり、悪意とねたみのうちに生活し、人から憎まれ、互いに憎み合う者でした。

しかし、私たちの救い主である神のいつくしみと人に対する愛が現れたとき、神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。

神はこの聖霊を、私たちの救い主イエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みを抱く相続人となるためでした。(3-7)

要するに、クリスチャンになる前に、私たちは彼らと同じでした。私たちも愚かなことをしていました。私たちも罪の奴隷であり、罪を犯していました。

私たちが周りの人々よりも良い人であったために神様が私たちを救ったわけではありません。むしろ、神様の憐れみによって、神様は私たちを救ってくださいました。

私たちは神様から何も値しませんでしたが、神様はイエス様を送り、ご自身の愛と恵みを与えてくださいました。

そして、神様は聖霊を私たちに豊かに注いでくださいました。

聖霊によって、私たちは新しく造られた者となりました。

そのため、今、私たちは神様の目には義人とされ、神様の養子として永遠の命の望みを持っているのです。

そういうわけで、私たちにはプライドを持つ余裕がありません。私たちは周りの人々を不潔なものとして見下してはいけません。むしろ、神様が私たちを愛してくださったように、私たちは周りの人々に愛を示さなければなりません。

さらに、クリスチャンとして、私たちは故意に罪を犯してはいけません。

私たちは変わったのです。私たちはイエス様の血によって洗われました。私たちは新しく造られた者となりました。どうして私たちは自分を滅ぼしていた罪に戻りたいと思うでしょうか。

パウロはこう言いました。

このことばは真実です。私は、あなたがこれらのことを、確信をもって語るように願っています。神を信じるようになった人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。これらのことは良いことであり、人々に有益です。(8)

また、

私たちの仲間も、実を結ばない者にならないように、差し迫った必要に備えて、良いわざに励むように教えられなければなりません。(14)

だから、私たちは自分の義に関するプライドを持つ余裕はないけれど、罪にふける余裕もないのです。

パウロの時代でも、その二つの問題に直面していました。あるクリスチャンたちは、律法主義的な態度を持って、自分の義を誇ったり、ユダヤ人の身分を誇ったりしていました。

その反面、自分勝手な人生を送っても良いと主張する人もいました。(9)

でも、パウロは彼らに関してテトスにこう言いました。

分派を作る者は、一、二度訓戒した後、除名しなさい。あなたも知っているとおり、このような人はゆがんでいて、自分で悪いと知りながら罪を犯しているのです。(10-11)

あなたはどうでしょうか。自分の義を誇って、周りの人々を見下しているでしょうか。

あなたは身分や行為によって救われたのではなく、神様の恵みと御業によって救われたことを忘れてはいけません。

自分の罪にふけっているでしょうか。

あなたは罪から自由にされるために救われました。神様はあなたを新しく造られた者としました。神様の望みは、あなたがこの世の偽物を追い求めず、本当の命と喜びを見つけることです。

あなたはどうしますか。

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コリント人への手紙第一

プライドや勝手な態度から生まれた分裂

この箇所で、パウロはコリントの教会における分裂について再び語っています。第一章では、私たちはその一例を見ました。それは、コリントの人々がどのリーダーが偉大であるかをめぐって議論したことです。

しかし、今日の箇所では、私たちはプライドや自己中心的な態度から生じた分裂を目にします。パウロはこう述べました。

ところで、次のことを命じるにあたって、私はあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが益にならず、かえって害になっているからです。

まず第一に、あなたがたが教会に集まる際、あなたがたの間に分裂があると聞いています。ある程度は、そういうこともあろうかと思います。

実際、あなたがたの間で本当の信者が明らかにされるためには、分派が生じるのもやむを得ません。(コリント人への手紙第一11:17-19)

多くの牧師は、この箇所を引用し、宗派に関わる聖書の議論が必要だと教えます。その議論を通して、私たちは聖書の本当の意味を理解できるようになるからです。

または、その議論を通して、偽のクリスチャンを見分けることができるとも考えられています。

確かにそうかもしれませんが、私の考えでは、パウロは皮肉を込めて語っているように思えます。

「あなたがたは議論しなければならないのですね。本当のクリスチャンが誰かを証明しなければならないのですね。」

要するに、この分裂はコリントの人々のプライドから生じたものであり、パウロは彼らを厳しく批判しました。なぜなら、彼らは自分の霊的な偉大さを証明しようとするあまり、他者を見下していたからです。

もしかすると、この問題の背景には、あるユダヤ人の考え方があるのかもしれません。彼らは、富を神様の祝福のしるしと信じていました。

だから、彼らは聖餐式を行い、その後、一緒に食事をするとき、金持ちは貧しい者を差し置いて、まるで食いしん坊のように振る舞いました。なぜなら、彼らは多くの食べ物を持ってきていたからです。

おそらく、彼らはこう考えていたでしょう。 「私がほとんどの食べ物を持ってきたのだから、先に食べるのは当然だろう。もし私が食べた後に残り物があれば、あいつらは食べてもいいだろう。」

しかし、パウロは彼らにこう言いました。

あなたがたには、食べたり飲んだりする家がないのですか。それとも、神の教会を軽んじて、貧しい人たちに恥ずかしい思いをさせたいのですか。

私はあなたがたにどう言うべきでしょうか。ほめるべきでしょうか。このことでは、ほめるわけにはいきません。(22)

要するに、「あなたがたはいったい何をしているのですか。本来ならキリストのからだを祝うはずなのに、むしろ貧しい兄弟たちを見下し、キリストのからだを軽蔑しているのです。」ということです。

彼らはどのようにしてキリストのからだを軽んじてしまったのでしょうか。自己中心的な態度と高ぶりによって、そのような行動を取ってしまったのです。

あなたはどうでしょうか。あなたのプライドや自己中心的な態度によって、キリストのからだを分裂させてはいませんか。

貧しい兄弟姉妹を見下してはいませんか。

霊的に未成熟な人々を軽んじてはいませんか。

自分の賜物を他の人の賜物と比べてはいませんか。

自分のミニストリーの縄張りを守ろうとしてはいませんか。

そのような態度によって、教会は引き裂かれてしまいます。

あなたは兄弟姉妹をどのように見ているでしょうか。

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コリント人への手紙第一

知識をどのように扱うか

さまざまな意味で、この箇所はローマ書14書に似ています。そこで、まず1〜3節を見て、この言葉がどのようにこの章の残りの部分に関わるのかについて考えたいと思います。

パウロはこう語っています。

次に、偶像に献げた肉についてですが、「私たちはみな知識を持っている」ということは分かっています。

しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。

自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。(コリント人への手紙第一8:1-3)

クリスチャンの兄弟たちが偶像に捧げられた食べ物を食べることに対して、あるコリントの人々は戸惑いを感じたようです。彼らは、そのような食べ物を口にすることは罪だと考えました。

このような人々について、パウロはこう書いています。

しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。(ローマ書14:23)

一方で、ほかのコリントの信者たちは、偶像に捧げられた肉を食べることが彼らの霊的な歩みに影響を与えないことを理解していました。実際、イエス様は「すべての食べ物は清い」と教えられました。(マルコ7:19)

ところが、その知識が彼らのプライドへとつながりました。そして、傷つきやすい良心を持つ兄弟たちの前で、自らの自由を積極的に行使し、偶像に捧げられた肉を食べました。

彼らの行為によって、傷つきやすい良心を持つ兄弟たちは、自分の良心に反しながらその肉を口にし始めました。しかし、彼らの行為が信仰から出たものではなかったため、その肉を食べることは彼らにとって罪となりました。

そのため、パウロは知識のある兄弟たちに厳しく戒めました。なぜなら、彼らの行為によって、弱い兄弟たちが罪に陥ってしまったからです。

そのうえでパウロはこう語りました。

「もちろん、偶像は真の神ではありません。私たちはそのことを知っています。だから、偶像に捧げられた肉を食べても問題はありません。」

とはいえ、パウロはさらにこうも語りました。

自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。(コリント人への手紙第一8:2)

パウロは何を伝えようとしているのでしょうか。単に知識を持っているだけでは十分ではありません。その知識をどのように扱うかを理解し、正しく用いなければなりません。知識の扱い方を知らなければ、その知識は不完全なものとなります。

では、私たちはどのように知識を用いるべきでしょうか。それは、愛をもって知識を扱うことです。

パウロはコリントの人々にこう語りました。

知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。(1)

知識を持つことは、時にプライドへとつながるかもしれません。「私は知っている。あなたは知らない。」

そのプライドによって、ある人は聖書について延々と議論しますが、何も解決しません。

また、知識とプライドのゆえに、人は相手を見下し、裁いてしまいます。

さらには、そのプライドによって、教会が分裂してしまうことさえあります。

コリントの教会でも、このような問題が生じました。そこで、パウロは彼らに語りました。

「あなたが知識を持っていること自体を、神様は喜ばれるわけではありません。神様が喜ばれるのは、あなたたちがその知識をどのように用いるかです。

その知識によって人々を築き上げるでしょうか。あるいは、その知識によって人々を壊してしまうでしょうか。」

そして、パウロはこの教えを次のようにまとめます。

しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。(3)

私たちは、人が神様を愛しているかどうかをどのように見分けることができるでしょうか。ヨハネはこのことについて、私たちに教えています。

神を愛する者は兄弟も愛すべきです。(第一ヨハネ4:21)

残念なことですが、コリントの人々はそうしませんでした。彼らは、自らの知識によって兄弟たちを築き上げるのではなく、かえって崩してしまいました。その結果はどうなったのでしょうか。

つまり、その弱い人は、あなたの知識によって滅びることになります。この兄弟のためにも、キリストは死んでくださったのです。(11)

だから、パウロは彼らに警告します。

あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。(12)

そして、パウロは彼らに、知識をどのように用いるべきかを教えています。

ですから、食物が私の兄弟をつまずかせるのなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません。(13)

あなたはどうでしょうか。自分の知識をどのように用いていますか。

自分を高ぶらせ、兄弟姉妹を傷つけてしまうでしょうか。それとも、彼らを築き上げ、成長を助けるでしょうか。

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コリント人への手紙第一

プライドについての警告

C.S.ルイスというクリスチャンの著者は、プライドを「最大の罪」と呼びました。なぜでしょうか。それは、プライドが神様と私たちの間に壁を築くだけでなく、私たちと周囲の人々の間にも壁を生み出すからです。

エデンの物語の中で、その問題を見ることができます。エバはプライドによって「神様のようになりたい」と願い、罪に陥ってしまいました。また、プライドによってサタンも罪に落ちたとされています。

今日の箇所では、プライドがコリントの教会を引き裂いていたことが分かります。さらに、プライドはパウロとコリント人の間に壁を作っていました。

コリント人への手紙第一4章4〜13節と18〜19節によれば、コリントの人々はパウロを見下していたようです。自分の持ち物や知識に誇りを持ち、満足していたため、パウロの弱さや苦しみを目にしたとき、彼らは彼を軽蔑しました。

しかし、パウロは彼らに次のように語りました。

それは、私たちの例から「書かれていることを超えない」ことをあなたがたが学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して思い上がることのないようにするためです。(コリント人への手紙第一4:6)

「書かれていることを超えない」とは、どういう意味でしょうか。

答えははっきりしませんが、おそらくパウロは、キリストにある私たちの立場に関する教えについて語っているのだと思われます。

つまり、私たちの救いは身分や行いによるものではなく、神様の恵みに基づいているのです。

もし私たちが神様の恵みによって救われた者であることを覚えていれば、他の人々を軽蔑することはありません。また、リーダーたちを比較することもありません。

パウロはその真理を明確に教え、コリントの人々に思い出させました。

いったい誰が、あなたをほかの人よりも優れていると認めるのですか。

あなたには、何か、もらわなかったものがあるのですか。

もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。(7)

最初の答えは少し曖昧です。もしかすると、パウロは「私は偉い」という態度を批判しているのかもしれません。

もしそれがパウロの意図であるなら、その答えは「あなたを他の人よりも優れていると認める者は誰もいません」となるでしょう。

けれども、パウロのポイントは別の可能性も考えられます。「もしあなたが本当に優れている人なら、それは神様の恵みによってその立場が与えられたのです。」

最後の二つの答えは明確です。二番目の答えは「何も」です。つまり、あなたが受け取らなかったものは何もないのです。

そして、三番目の答えは「あなたには誇る理由がありません。」

これらの答えを考えると、私たちは謙遜な態度を持たなければならないのです。

しかし、多くの場合、私たちはそのようには考えません。むしろ、私たちのプライドによって、神様との間に壁を築き、さらには周囲の人々との間にも壁を作ってしまいます。

もし私たちが神様の恵みを深く実感するなら、私たちの考え方は大きく変わるでしょう。そして、神様との関係だけでなく、配偶者との関係、教会の人々との関係、さらにはその他の人間関係もどれほど良くなることでしょうか。

あなたはどうでしょうか。あなたのプライドによって、どのような壁を築いてしまっているでしょうか。

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ローマ人への手紙

プライドの余裕がない

ほとんどのクリスチャンは、今では反ユダヤ主義的な態度を持っていません。けれども、過去にはそのようなクリスチャンもいました。

私には、そのような態度が決して理解できませんでした。なぜなら、今日の聖書の箇所で、パウロはそのような考え方を完全に否定したからです。

おそらく、反ユダヤ主義的な態度の根本にはプライドがあるのでしょう。この箇所で、パウロは私たちのプライドの根拠さえも打ち砕きます。

実は、イスラエルに対して不満を述べたとき、預言者エリヤもそのようなプライドを持っていました。エリヤはこう言いました。

私は万軍の神、主に熱心に仕えました。しかし、イスラエル子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。

ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています。(列王記第一19:10)

要するに、「神様、私を見てください。私はあなたのために熱心を持っています。私の行為を見てください。けれども、ほかのイスラエル人はもう救いようのないのです。」ということです。

ところが、神様はエリヤにこう言われました。

わたしはイスラエルの中に七千人を残している。これらの者はみな、バアルに膝をかがめず、バアルに口づけしなかった者たちである。(列王記第一19:18)

だから、パウロはこう言いました。

「エリヤの時代と同じように、この時代にも、ユダヤ人の中には、神様に忠実であり、メシアであるイエス様に仕える残された信じる者たちがいます。

そして、私たちと同じように、そのユダヤ人たちも恵みによって選ばれました。」(ローマ人への手紙11:5)

そして、パウロは私たちに思い出させます。

恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。そうでなければ、恵みが恵みでなくなります。(6)

エリヤのように、多くのクリスチャンは、自分の行為によって救われると思っています。つまり、頭では恵みによって救われたことを理解しているかもしれませんが、心の奥では、他の人よりも優れているから救われたのだと思ってしまうのです。

けれども、パウロによれば、そのような考え方は間違っています。救いは恵みに値しない者に与えられるものです。

エリヤもまた、神様の恵みに値しませんでした。それでも、その恵みを受けました。

イゼベルに脅かされたとき、エリヤは神様に怒り、苦々しい思いを抱き、最終的に落ち込んでしまいました。それにもかかわらず、神様は手を伸ばしてエリヤを励まし、強めてくださいました。

私たちも、神様の恵みに値しません。けれども、神様は私たちに手を伸ばし、救ってくださいました。

だから、私たちはユダヤ人を見下すことはできません。私たち全員が、恵みによって救われたのです。

それで、パウロはユダヤ人を折られたオリーブの木の枝に例え、私たちを接ぎ木された枝に例えました。

けれども、パウロはこう言います。

あなたはその枝に対して誇ってはいけません。たとえ誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。

すると、あなたは「枝が折られたのは、私が接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。

そのとおりです。彼らは不信仰によって折られましたが、あなたは信仰によって立っています。

思い上がることなく、むしろ恐れなさい。もし神が本来の枝を惜しまなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。

ですから見なさい、神のいつくしみと厳しさを。

倒れた者の上にあるのは厳しさですが、あなたの上にあるのは神のいつくしみです。

ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り取られます。(18-22)

もう一度、パウロのポイントは、私たち全員が恵みによって救われたことを述べています。私たちの行いによって救われたのではなく、イエス様の十字架の御業によって救われたのです。私たちにできたことは、その御業を信じることだけです。

だからこそ、私たちにはプライドの余裕などありません。

だから、イエス様を信じないユダヤ人を批判する人は、自分自身を振り返るべきです。彼らは自らにこう問うべきです。

「私は信仰と恵みによって立っているのか。それとも、自分の行いに頼っているのか。もし自分の行いによって立っているなら、私は破滅へと向かっている。しかし、恵みによって立つなら、そこにプライドの余裕はまったくない。」

あなたはユダヤ人を見下さないかもしれません。けれども、ほかの人々を見下してはいないでしょうか。自分は彼らよりも優れていると思ってはいないでしょうか。

そのような考え方は誤っています。もしあなたが他の人よりも優れているなら、恵みはもはや恵みではなく、あなたの救いは当然の報酬になってしまうでしょう。

だから、謙遜な態度を持ち、神様に感謝してください。神様の国では、私たちにはプライドの余裕などないのです。

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ローマ人への手紙

自分自身を見るとき

この箇所で、パウロはユダヤ人たちに語っています。そして、彼のポイントはこうです。

律法によって神様の前で義と認められたいのなら、ただ律法を知っているだけでは不十分です。あなたはその律法に完全に従わなければなりません。

だから、パウロはこう語ります。

あなたが自らユダヤ人と称し、律法を頼みとし、神を誇り、みこころを知り、律法から教えられて、大切なことをわきまえているなら、また、律法のうちに具体的に示された知識と真理を持っているので、目の見えない人の案内人、闇の中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だ、と自負しているなら、どうして、他人を教えながら、自分自身を教えないのですか。

盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿の物をかすめ取るのですか。

律法を誇りとするあなたは、律法に違反することで、神を侮っているのです。(ローマ人への手紙2:17-23)

つまり、あなたたちは律法を知っていて、誇り高く思っています。神様の律法を与えられ、神様の民と呼ばれることを誇っています。

あなたたちは、すべてを理解していると思い、もし誰かが神様とその道を知りたいなら、自分たちのもとに来るべきだと考えています。

しかし、あなたたちは自分が教える律法に本当に従っているでしょうか。もしかすると、神様の言葉を伝えた後で、その言葉に反する行動をしてはいないでしょうか。

そして、パウロは彼らにこう語りました。

「あなたがたのゆえに、神の御名は異邦人の間で汚されている」と書いてあるとおりです。(24)

正直に言えば、聖書を教える者として、この箇所は非常に厳しく感じます。私は、自分の行動のせいで神様の御名が友人や同僚の間で汚されることを望みません。偽善者にはなりたくないのです。

それでも、私はしばしば失敗してしまいます。時には、偽善的な行動をとってしまうこともあります。正しいことを行うのが難しい時もありますし、自分が説いていることに従うのが難しい時もあります。

説教する時や、このブログを書く時、私は多くの場合、自分自身に向かって語っているのです。

結局、私はただ、神様の御座の前にひれ伏し、憐れみを請うことしかできません。

実は、それこそがパウロのポイントです。私たちは皆、神様の恵みを必要としています。もし、律法によって自分が義と認められたいと主張するなら、その律法に完全に従わなければなりません。けれども、それができる人は誰もいません。

あなたはどうでしょうか。あなたはどれほど神様の恵みを必要としているか、理解していますか。

もし、「私はまあまあ良い人だ。ほかの人よりも、私はましだと思う」と考えているなら、自分自身をもっと見つめる必要があるかもしれません。なぜなら、私たちは自分が思うほど良い人ではないからです。

その真理を理解しない限り、私たちはどれほど神様を必要としているのかを正しく知ることはできません。

鏡を眺めると、あなたは何を見るでしょうか。

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ローマ人への手紙

プライドを持ち、恵みを軽んじる?

神様の恵みは、何にも代えがたいほど素晴らしいものです。しかし、私たちは恵みに対して、決して取るべきではない二つの態度があります。この箇所で、その二つの態度が示されています。

一つ目の態度は、プライドです。つまり、人々はこう思います。「私は神様の恵みなんて必要ない。私はすでに良い人だから。その一方、私の周りの人たちは…」

パウロは、このような態度について、こう語っています。

ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。

そのようなことを行う者たちの上に、真理に基づいて神のさばきが下ることを、私たちは知っています。

そのようなことを行う者たちをさばきながら、同じことを行っている者よ、あなたは神のさばきを免れるとでも思っているのですか。(ローマ人への手紙2:1-3)

ある人々は、いつも周りの人々を裁き、相手を悪い人と決めつけます。しかし同時に、自分自身の罪や欠点には目を向けようとしません。

彼らはプライドを持ち、「あいつは絶対にダメな人だけど、私は大丈夫だ」と思います。

けれども、パウロは彼らにこう言います。「あなたも同じことをしている。どうしてあなたは相手を裁くのですか。」

例えば、私たちは相手のことを頑固だと思います。しかし、実際に彼らと話すと、私たち自身も頑固になっていることに気づくかもしれません。

また、ニュース番組で私たちは殺人犯を見て、恐ろしいと思います。だから、彼らが厳しく罰されることを願います。

しかし、もし友達や知り合いが私たちを傷つけたらどうでしょうか。私たちは縁を切り、心の中で彼らを「殺してしまう」のです。(マタイ5:21-22)

だから、パウロは私たちにこう言います。

「あなたは相手を裁く権利を持っていません。あなたも同じことをしているのだから。あなたも神様の恵みを必要としています。その恵みを受けなければ、あなたは裁かれることになるのです。」

けれども、パウロはもう一つの問題についても語ります。ある人々は、神様の恵みを軽んじます。つまり、彼らはこう考えます。

「神様は私を赦してくれるのだから、私は好き勝手にして、あとで神様に謝ればいい。」

パウロはそのような人々にこう言います。

それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。(ローマ人への手紙2:4)

つまり、神様の恵みの目的は、私たちが罪にふけることではありません。その目的は、私たちが罪を悔い改め、その罪を捨てることです。

けれども、多くの人々は恵みを軽んじ、自分の罪にふけり、結果として神様や周りの人々を傷つけてしまいます。

だから、パウロはプライドを持つ人や、恵みを軽んじる人にこう語ります。

あなたは、頑なで悔い改める心がないために、神の正しいさばきが現れる御怒りの日の怒りを、自分のために蓄えています。神は、一人ひとり、その人の行いに応じて報いられます。

忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと朽ちないものを求める者には、永遠のいのちを与え、利己的な思いから真理に従わず、不義に従う者には、怒りと憤りを下されます。

悪を行うすべての者の上には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、苦難と苦悩が下り、善を行うすべての者には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。神にはえこひいきがないからです。(5-11)

つまり、そのような態度を持てば、あなたも必ず裁かれることになります。

もし、プライドを持ち、「神様の恵みなんて必要ない」と思い、周りの人々を裁くなら、私たちの罪は暴かれ、私たち自身が裁かれてしまいます。

また、神様の恵みを軽んじ、罪にふけるなら、私たちは裁きを受けることになります。

あなたはどうでしょうか。

神様の恵みは必要ないと思いますか。

それとも、神様の恵みを軽んじていますか。

そのような態度は裁きにつながります。だからこそ、謙遜を持ち、私たちが恵みを必要としていることを認め、神様の愛と恵みに目を向け、驚きましょう。

神の国には、プライドや恵みを軽んじる余地はありません。

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使徒の働き

破滅に至る高慢

ソロモンはこの言葉を書きました。

高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ。(箴言16:18)

ヘロデ・アグリッパの人生で、私たちはその真理を見ることができます。

ちょっとややこしいですけど、聖書の中にはたくさんのヘロデがいます。

バプテスマのヨハネを殺して、イエス様の裁判に参加するヘロデはヘロデ・アグリッパとは違う人でした。それは、ヘロデ・アンティパスという人でした。アンティパスはヘロデ大王の息子でした。

そして、ヘロデ・アグリッパはヘロデ大王の孫で、アンティパスの甥でした。イエス様が小さい子どものころに、ヘロデ大王はイエス様を殺したいと思いました。

ヘロデ大王のように、ヘロデ・アグリッパは暴力的な人でした。彼はヤコブを殺したし、ペテロをも殺そうとしました。神様がペテロを救い出した後、アグリッパはペテロの番兵たちを殺しました。

ヘロデは権力者で、高慢な人でした。だから、ヘロデがツロとシドンの人たちに怒ったとき、彼らは謙遜にヘロデのところに行って、和解を願いました。

ヘロデの演説を聞いた時、彼らは叫んだ。

神の声だ。人間の声ではない。(使徒の働き12:22)

ヘロデは神様を認めず、その言葉を受け入れなかったため、天使によって打たれ、命を落としました。

神様が最も嫌われるものの一つはプライドです。なぜなら、プライドは神様との間に壁を築き、私たちを神様から遠ざけるからです。そのプライドによって、私たちは神様を必要としないと考え、神様抜きで生きようとします。

プライドは、他の人々との関係にも壁を作ります。プライドのせいで、どれほど友人関係、家族、結婚、そしてその他の人間関係が壊されてきたでしょうか。

さらに、ヘロデのように、悔い改めないなら、プライドは私たちを破滅へと導きます。もしプライドを持ち続け、「神様、あなたを必要としない」と言い続けるなら、神様は最終的に私たちの願いを叶えます。

つまり、永遠に神様から離れたまま生きることになります。しかし、神様から離れるなら、私たちは命、愛、喜び、平和からも遠ざかります。なぜなら、それらの源は神様だからです。

ヘロデは、最後にこの真理を思い知らされました。

あなたはどうでしょうか。あなたのプライドは、友人、妻、夫、同僚、そして教会の人々との間に壁を作っていませんか。あなたのプライドは、神様との間に壁を作っていませんか。

ペテロはこう書きました。

「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。

ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。(第一ペテロ5:5-6)

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マタイの福音書 マタイ21章 マルコの福音書 マルコ11章 ルカの福音書 ルカ20章

あなたの間違った考え方を認めないと

私たちの考え方が間違っていると分かる時、時にはそれを認めるのが難しいものです。私自身もそれを認めたくないことがあります。どうしてでしょうか。

それは、プライドがあるからです。「私は間違っていた」と言うのは簡単ではなく、謙虚な態度が求められます。

けれども、もし私たちが神様との関係や人々との関係を守りたいと思うなら、その謙虚な態度が不可欠です。

イエス様の時代の宗教的なリーダーたちは、このような態度を持っていませんでした。イエス様は何度も彼らの間違った考え方を指摘されましたが、彼らはどうしてもそれを認めようとはしませんでした。特にイエス様の最後の週(つまり、十字架にかかる前)に、その姿が明らかになります。

イエス様が神殿から商人たちと両替人を追い出された後、祭司長たちや民の長老たちがイエス様のところに来て、こう尋ねました。

何の権威によって、これらのことをしてるのですか。だれがあなたにその何の権威を授けたのですか。(マタイ21:23)

いつものように、イエス様は彼らの質問に対して別の質問で答えられました。

ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか、それとも人からですか。(マタイ21:25)

それを聞かれた時、彼らは板挟みになってしまいました。

もし彼らが「天から」と答えたなら、イエス様は「では、どうしてヨハネの言葉を信じなかったのでしょうか。ヨハネは私がメシアであることを語りました。もしその言葉を受け入れるなら、私の権威がどこから来るのかが理解できるはずです。」と言われたでしょう。

その一方で、彼らが「人から」と答えたなら、周りの群衆は彼らに怒りを向けたでしょう。なぜなら、群衆はヨハネが本当の預言者であると信じていたからです。

そこで彼らは「分かりません」と答えました。

すると、イエス様は「もし私の質問に答えないなら、私もあなたの質問に答えません。」と仰いました。

その後、イエス様は彼らにたとえ話を語られました。その話では、あるお父さんに二人の息子がいました。お父さんが長男に何かを頼んだ時、最初はその息子が「それをしたくありません」と答えましたが、最終的にはその仕事をしました。

一方で、次男は頼まれた時に「はい、します。」と言いましたが、結局その仕事をしませんでした。

このたとえ話を通して、イエス様は宗教的なリーダーたちを、かつて罪を犯していた罪人たちと比較されました。

宗教的なリーダーたちは正しい人たちに見えましたが、心の中では神様に背いていました。

彼らがバプテスマのヨハネを見た時、彼が頭がおかしいと思いました。しかしすぐに分かったのは、ヨハネのミニストリーを通して多くの人々の人生が変わったということです。神様がヨハネを通して働かれていることは明らかでした。それでも、彼らはプライドのゆえにヨハネを拒絶しました。

さらに、彼らはイエス様をも見ていました。彼らはイエス様の奇跡を目の当たりにし、イエス様の教えを聞きましたが、それでもイエス様を拒絶しました。

イエス様が彼らの間違った考え方を暴露し、彼らがイエス様の議論に反論することができなくても、彼らは自分の考えに固執しました。

一方で、このリーダーたちに見下されていた罪人たちは、かつて神様に背き、人々をだましたり、自分の体を売ったりしましたが、ヨハネやイエス様の言葉を聞くと、謙虚に自分の罪を認め、悔い改めました。

そこで、イエス様は宗教的なリーダーたちにこう言われました。

まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります。(マタイ21:31)

あなたはどうでしょうか。自分が間違った時、それを認めることができるでしょうか。プライドは人間関係を壊します。けれども、さらに深刻なのは、プライドが神様との関係を壊してしまうことです。

だからこそ、謙虚な心を保ちましょう。相手から訓戒された時は、その言葉を素直に受け入れましょう。そして、自分が間違ったと気づいた時には、すぐにそれを認めましょう。

そうしなければ、あの宗教的リーダーたちのように、私たちは周りの人々から距離を置かれ、さらには神様からも離れてしまうかもしれません。

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ヨハネの福音書 ヨハネ9章

もう学ぶ必要がないを思うと

この箇所では、強烈な皮肉があります。

生まれつき盲目の人はイエス様をキリストとして認識したため、イエス様を拝みました。

一方で、ずっと見える目を持つ人たちは、イエス様を見ても、イエス様がキリストであることを認めませんでした。

さらに、彼らはイエス様の奇跡を目にしましたし、イエス様と論じようとするたびにいつも負けました。それでも彼らはイエス様を信じませんでした。

どうして彼らは真理を見ることができなかったのでしょうか。それは、彼らが自分はすでに真理を知っていると思っていたからです。

彼らは律法と預言者の書をよく知っており、若い頃からその知識を誇っていました。そのため、イエス様が来て彼らの誤った考え方を暴露したとき、彼らはその考えを手放すことができませんでした。自分が間違っていると認めることができなかったのです。

イエス様はこう言われました。

わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。(ヨハネの福音書9:39)

イエス様が意味されたことは何だったのでしょうか。イエス様に会うと、人々は分かれ目に立つことになります。もし彼らがへりくだり、イエス様を受け入れるなら、彼らの霊的な目が開かれ、救いを得るでしょう。

しかし、もし彼らが自分のプライドを手放さず、すでに真理を知っていると思うなら、イエス様に関する真理を見ることはできません。それは、彼らがその真理に目をつぶってしまうからです。

パリサイ人たちがしたのはまさにそれでした。彼らはイエス様にこう尋ねました。

私たちも盲目なのですか。(40)

現代でも、多くの人々はこう尋ねます。「私が盲目だって?私にはいい学歴がある。私には、いろんな経験がある。私はもうこの世のことを知っている。」

けれども、イエス様はこう答えられます。

もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。(41)

要するに、イエス様は彼らにこう言われていたのです。

「はい、あなたは盲目です。もし、あなたが謙遜で、助けを求め、自分の目が見えないと認めるなら、神様はあなたの罪を赦してくださるでしょう。

けれども、もしあなたがすでに真理を知っていると思い、あなたのプライドのために私の真理を拒絶するなら、あなたの罪は残るのです。」

あなたはどうですか。もう学ぶ必要がないと思いますか。それとも、あなたはへりくだり、イエス様の真理を受け入れますか。イエス様自身が真理であることを信じますか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ7章

イエス様は誰でしょうか

以前、イエス様は弟子たちに「私が誰だと思うか」と問いかけられました。(マタイ16:13)

この箇所では、ほかのユダヤ人たちがエルサレムで同じ質問に直面しました。

いろいろな意見がありました。

「イエス様は良い人だ。」

「イエス様は預言者だ。」

「違う。イエス様は群衆を惑わしている。彼は悪霊につかれている。」

「いや、メシアじゃないでしょうか。」

どうしてユダヤ人たちはそんなに混乱していたのでしょうか。

一つの理由は、彼らが「メシア」、つまり「キリスト」がどんな方であるかを誤解していたからです。

彼らはキリストが奇跡的に現れると思っていました。けれども、彼らはイエス様の家族を知っていると思い込んでいました。(ただし、その話の全てを理解していたわけではありません)。

それに、イエス様は律法学者のように特別な教育を受けていませんでした。

もう一つの理由は、イエス様が律法学者の伝統を何度も破ったことです。例えば、安息日にイエス様は人々を癒しました。

イエス様は安息日に良いことをするのは合法であると教えましたが、彼らは自分たちの伝統を手放すことができませんでした。彼らは自分たちが律法をよく知っていると思い込んでいたため、その大工の意見を受け入れることができなかったのです。

三つ目の理由は、ユダヤ人のリーダーたちが律法をよく知っていると思っていたものの、実際には多くのことを見逃していたからです。そのため、ニコデモがイエス様を擁護しようとした際、彼らはこう答えました。

あなたもガリラヤの出身なのか。調べてみなさい。ガリラヤから預言者は起こらない。(ヨハネの福音書7:52)

けれども、イザヤ書9章には、キリストがガリラヤで現れることが書かれています。

とはいえ、イエス様は最も大切な理由を伝えられます。

だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。(17)

つまり、あなたが心から神様を求めるなら、神様を見つけることができます。そして、イエス様を見るなら、イエス様がキリストであることを理解します。けれども、心から神様を求めなければ、その真理を理解することはできません。

パリサイ人たちは宗教的な熱心を持っていましたが、同時にプライドを持ち、偽善者でした。彼らは神様を求めているように見えましたが、実際には人間の喝采を求めていました。そのため、彼らはイエス様を見ても、イエス様を認めませんでした。

その一方、神様を求める人々は真理を見ることができました。なぜなら、彼らは神様の前にへりくだったからです。

あなたはどうでしょうか。あなたはまだイエス様が誰なのか疑問に思っていますか。自分のプライドを捨ててください。神様に関するあなた自身の意見を捨ててください。

お金よりも、自分の幸せよりも、すべてよりも、神様を求めてください。そうすれば、あなたの混乱がなくなり、神様はご自身をあなたに現わしてくださいます。

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マルコの福音書 マルコ9章 ルカの福音書 ルカ9章

ミニストリーに関するプライド

イエス様が弟子たちに「神の国でどのように偉くなるのか」を教えられたとき、おそらく彼らは少し違和感を覚えたことでしょう。なぜなら、彼らは誰が一番偉いのかを巡って言い争いをし、さらに自分たちのグループの外にいる人々を軽んじていたからです。

そのため、ヨハネは少し緊張しながら、こう尋ねました。

先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。(マルコ9:38)

イエス様はこう答えられました。

やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行ないながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。

あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。(39-41)

教会の問題の一つは、人々が自分のミニストリーを守ろうとすることです。つまり、彼らはこう考えます。 「これは私の役割であり、私のミニストリーだ。他の人が参加するべきではない。」

弟子たちも同じような態度を取りました。 ある人物が悪霊を追い出しましたが、その人は弟子たちの仲間ではありませんでした。 そのため、弟子たちは彼に「やめなさい」と命じました。

けれども、イエス様は彼らにはっきりとこう言われました。

「これは競争ではありません。その人は私を愛し、仕えたいと思ったのです。だから、彼にやらせなさい。私は彼にその力を与えたのだから。」

私たちも同じような態度を取るべきです。たとえ相手が私たちよりも優れた働きをしていても、喜んで彼らをミニストリーに迎え入れるべきです。なぜなら、私たちはミニストリーをする際に自分の栄光を求めてはならないからです。

むしろ、私たちは神様に栄光を帰そうとすべきです。そして、誰かが神様からの賜物を用いるとき、そのことを喜ぶべきです。

残念ながら、教会の中でも競争が生じることがあります。人々は「どの教会のほうが大きいか」「どのミニストリーのほうが優れているか」を考えます。

さらに、相手の方法が自分と異なれば、批判を始めることもあります。しかし、それはイエス様の望まれることではありません。それはむしろサタンの望むことです。もし教会の人々が互いに争えば、サタンとの戦いに費やすべき時間が失われてしまうからです。

だからこそ、教会として、また教会のメンバーとして争うことをやめましょう。そして、むしろ協力し合いましょう。なぜなら、私たちは同じチームに属し、同じ目標を持っているのだから。

私たちが分裂するなら、神様の名を汚してしまいます。しかし、一致し、協力するなら、神様の御名に栄光を帰すことができます。

そのような人々になりましょう。

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箴言

プライド

箴言には、さまざまなテーマが繰り返し登場します。その中の一つは、プライドの危険性です。

私たちのプライドによって、どのように私たちは苦しむのでしょうか。

叱責を聞かないと、私たちは最終的に悩んでしまいます。もちろん叱責を聞くのは痛いですが、将来の苦しみから私たちを救います。

ソロモンはこう書きました。

知恵のある子は父の訓戒に従い、あざける者は叱責を聞かない。(箴言13:1)

私は父の叱責を楽しまなかった。多分、私に対する一番心を刺した父が言った言葉は「私はお前をもう信頼できない。」ということでした。

私が何回も父に嘘をついたので、彼はそう言ったのです。けれども、私は父の信頼(また、私の周りの人々の信頼)を望んだので、あれから私は正直に言うことを心掛けています。

ソロモンはこれも言います。

みことばをさげすむ者は身を滅ぼし、命令を敬う者は報いを受ける。

知恵のある者のおしえはいのちの泉、これによって、死のわなをのがれることができる。(13-14)

また、

貧乏と恥とは訓戒を無視する者に来る。しかし叱責を大事にする者はほめられる。(18)

私たちは知恵のある人の言葉を聞くと、命を見つけます。なぜなら、私たちがまだ経験していないことを、彼らは経験したからです。もし彼らの意見に従えば、私たちは彼らが落ちてしまった落とし穴を避けることができます。

しかし、私たちのプライドによって、その意見を無視すると、私たちは苦しむことになるでしょう。

私たちのプライドによって、私たちの人間関係も壊れるかもしれません。ソロモンはこう書きました。

高ぶりは、ただ争いを生じ、知恵は勧告を聞く者とともにある。(10)

実は、多くの場合私たちの喧嘩は(特に妻や夫との喧嘩は)プライドから生まれるのです。私たちは自分が悪かったと認めたくないし、自分が間違っていると認めたくありません。だから、私たちは頑固に自分の意見が正しいと言い張ります。

けれども、あなたが自分の心に素直になって認めるなら、自分が悪いと分かることがあります。

時々、私の妻は「こうするべきだよ」と言ったけど、私はそうしたくなかった。しかし、神様は私に、「あなたのプライドを離しなさい。あなたの妻の言うことを聞きなさい。」と言いました。

時々、私が確かに正しいと思ったけど、神様は私に、「あなたのプライドを離しなさい。この喧嘩は些細なことだから。」と言いました。

私たちのプライドを飲み込むのは難しいです。けれども、関係がうまくいくことを望むなら、プライドを捨てることを学ばなければなりません。それに、時々、妻や夫が正しいので、その意見に従った方が良いです。

あなたはどうですか。あなたのプライドに支配されていますか。それとも、あなたがプライドを支配していますか。

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エステル記

二人の高ぶる者

皮肉なことですが、昨日私はモルデカイを誉めました。それは、彼が王を尊敬していたからです。けれども、今日はモルデカイを批判します。

なぜでしょうか。それは、モルデカイのプライドと頑固さのせいで、彼がハマンを尊敬しなかったからです。エステル記3:3では、こう書いてあります。

[ハマンに対して]モルデカイはひざもかがめず、ひれ伏そうともしなかった。

どうしてでしょうか。聖書にはモルデカイの言い訳は書かれていませんが、私たちは想像することができると思います。

ハマンを神様のように礼拝したと考える人もいます。私はそうは思いません。なぜなら、アハシュエロス王が人々にハマンにひざをかがめてひれ伏すように命じたからです。

アハシュエロス王は人々に自分を神様として礼拝することを要求しなかったのに、人々にハマンを神様として礼拝するように命じたでしょうか。それはあり得ないと思います。

さらに後で、モルデカイはアハシュエロス王の次の位につきました。けれども、もしモルデカイが王にひざをかがめてひれ伏さなかったとしたら、おそらく彼はその地位を得ることができなかったでしょう。

それでは、どうしてモルデカイはハマンにひざをかがめてひれ伏さなかったのでしょうか。

モルデカイの家系を見ると、彼はサウル王の子孫でした。神様はサウルにアマレク人とその王アガグを殺すように命じられました。なぜなら、アマレク人はいろいろな酷い罪を犯していたからです。

例えば、イスラエル人が沙漠を越えた時、アマレク人は疲れた弱い人々を攻撃して殺しました。

ところが、サウルはその命令に完全には従いませんでした。そのため、神様は王国をサウルから取り去られました。(第一サムエル記15章)

その時からユダヤ人とアマレク人の間には悪意がありました。特に、サウルの子孫とアマレク人の間には悪意がありました。

おそらくそのために、モルデカイはハマンにひざをかがめてひれ伏したくなかったのでしょう。つまり、プライドのためにそうしたくなかったのです。

それでも長い間、ハマンはモルデカイのことに全く気づいていませんでした。(おそらく、彼の鼻があまり高くて、周りのことにほとんど気づいていなかったのでしょう。)

けれども、王の家来たちがハマンにモルデカイのことを伝えると、ハマンは本当に怒りました。そして、ハマンはモルデカイがユダヤ人であることを知ったため、モルデカイだけではなく、すべてのユダヤ人を殺そうと思いました。

ハマンはそのプライドによってその決断をしました。しかし、そのプライドは結局ハマンを没落に導きました。

モルデカイはそのプライドによってハマンを尊敬しませんでした。しかし、もし神様がユダヤ人を救わなかったとしたら、そのプライドのせいでユダヤ人は皆殺しにされていたでしょう。

モルデカイがそのニュースを聞いて泣いた時、そのことについて考えたのでしょうか。彼は自分のプライドを後悔したのでしょうか。(4:1)

あなたはどうでしょうか。何によってあなたは決断をしますか。聖霊とその御言葉はあなたの行動を導くでしょうか。それとも、あなたのプライドがあなたの行動を導くのでしょうか。

私たちのプライドが私たちの人生を支配するなら、私たちは没落に導かれます。

どれほど多くの結婚がプライドによって壊れてしまうでしょうか。

どれほど多くの他の人間関係がプライドによって破壊されるでしょうか。

どれほど多くのキャリアやミニストリーがプライドによって失われるでしょうか。

だからこそ、謙遜になることを学びましょう。神様の前に謙遜に生きましょう。また、周りの人々の前に謙遜に生きましょう。

ヤコブはこう書きました。

神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。(ヤコブ4:6)

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エレミヤ書 オバデヤ書

裁きの理由

なぜ私はエレミヤ書とオバデヤ書の箇所を混ぜているのでしょうか。それは、オバデヤ書を読むと、このエレミヤ書の箇所に似ているからです。

例えば、エレミヤとオバデヤは同じ表現とイメージを使っています。だから、多分オバデヤはエレミヤの言葉を知っていたかもしれません。また、エレミヤはオバデヤの言葉を知っていたかもしれません。

一人の聖書の著者が別の聖書の著者を引用することは珍しいことではありませんでした。

あるいは、神様はオバデヤにこう言われたのかもしれません。「エレミヤの言葉を覚えていますか。彼が言ったことをもう一度書きなさい。」(逆の可能性もあります。)

または、彼らがお互いの預言を知らなかったけれど、神様は彼らに同じメッセージを伝えられたのかもしれません。それも珍しいことではありません。

とにかく、神様はユダの周りの国々を裁いておられます。おそらく、エレミヤ書27ー29章の出来事が起こったとき、この預言が書かれたのでしょう。27ー29章では、エレミヤはその同じ国々に対してネブカデネザルに降伏するよう警告しました。

どうして神様はその国々を裁かれたのでしょうか。神様は3つの理由を示されました。

1.偽物の神を礼拝すること。例えば、モアブ人の神はケモシュでした。またアモン人の神はモレクでした。すべての国々は真の神に背を向けて、自分の神々を礼拝しました。

2.プライドのこと。神様はモアブについてこう言われました。

おまえは自分の作った物や財宝に拠り頼んだので、おまえまで捕らえられ[る]。。。

私たちはモアブの高ぶりを聞いた。実に高慢だ。その高慢、その高ぶり、その誇り、その心の高ぶりを。「わたしは、彼の高ぶりを知っている。――主の御告げ――

その自慢話は正しくない。その行ないも正しくない。」(エレミヤ書48:7、29ー30)

アモンについて神様はこう言われました。

裏切り娘よ。あなたの谷には水が流れているからといって、なぜ、その多くの谷を誇るのか。あなたは自分の財宝に拠り頼んで、言う。「だれが、私のところに来よう。」(エレミヤ書49:4)

神様はエドムにこう言われました。

あなたの心は高慢だ。あなたが鷲のように巣を高くしても、わたしは、そこから引き降ろす。(エレミヤ書49:16)

そして、神様がケダルとハツォルという国について話されたとき、神様はネブカデネザルに命じられました。

さあ、安心して住んでいるのんきな国に攻め上れ。――主の御告げ。。。(エレミヤ書49:30-31)

3.その国々は、憐れみと情けを全然知らなかったこと。イスラエルが倒れたとき、モアブ人はイスラエル人をからかいました(エレミヤ書48:27)。

また、アモン人は追放されたイスラエル人の土地を奪いました(エレミヤ書49:1)。

そして、エドム人はイスラエル人の「兄弟」なのに、イスラエルが攻撃されたとき、エドムは全然助けませんでした。むしろ、イスラエルが倒れたとき、エドム人たちは喜んでいました。(オバデヤ12-13)

(エドムはエサウの子孫でした。イスラエル人はエサウの弟ヤコブの子孫でした。)

偶像礼拝。プライド。情けと憐れみのない心。あなたはそのような罪を犯すでしょうか。

仏壇を拝むでしょうか。もしくは、すべてのことよりもお金を大事にするでしょうか。あなたが一番大事にするものは、あなたの神です。

プライドはどうでしょうか。あなたは何に信頼するでしょうか。自分自身を信頼するでしょうか。それとも神様を信頼するでしょうか。

ナルニア国物語の著者C・S・ルイスはこう言いました。

「プライドは一番悪い罪です。ほかの罪よりも、プライドは私たちを神様から遠ざけるからです。なぜなら、プライドによって、私たちは神様がいらないと思うからです。そのプライドによって、私たちは神様に背を向けます。」

あなたには情け深くて、憐れみ深い心があるでしょうか。パリサイ人と律法学者にはそのような心がありませんでしたので、イエス様は彼らを厳しく批判されました。イエス様はこう言われました。「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。」

パリサイ人と律法学者は神様を愛していると言いましたが、周りの人々を愛していませんでした。

あなたはどうでしょうか。あなたの周りの人々を愛しているでしょうか。それとも自分自身のことだけを考えるでしょうか。

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イザヤ書 列王記第二 歴代誌第二

神様の恵みを忘れる

この箇所を読んで私が驚いたのは、神様がいろいろな不思議な方法でヒゼキヤを助けられたにもかかわらず、ヒゼキヤがその恵みを忘れてしまったことです。

歴代誌第二32:35には、このことについてこう記されています。

ところが、ヒゼキヤは、自分に与えられた恵みにしたがって報いようとせず、かえってその心を高ぶらせた。そこで、彼の上に、また、ユダとエルサレムの上に御怒りが下った。

ヒゼキヤはどのように高ぶったのでしょうか。神様がヒゼキヤの病気を癒された後、バビロンから使者がやって来ました。彼らは、神様がヒゼキヤのために何をしてくださったのかを聞いたからです。

しかし、ヒゼキヤは神様を誉めることなく、自分の富、つまり金や銀、武器、そして宝物のすべてを見せびらかしました。

そのため、イザヤはヒゼキヤにこう言いました。

万軍の主のことばを聞きなさい。見よ。あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで、たくわえてきた物がすべて、バビロンへ運び去られる日が来ている。何一つ残されまい、と主は仰せられます。

また、あなたの生む、あなた自身の息子たちのうち、捕らえられてバビロンの王の宮殿で宦官となる者があろう。(イザヤ39:5-7)

多分、その日バビロン人はヒゼキヤの富を目にしたことで、後にその富を得るためにユダを攻めようと考え始めたのでしょう。

それだけではなく、ヒゼキヤはバビロン人に神様の恵みについて伝える絶好のチャンスを逃してしまいました。もし彼が神様の恵みを語っていたなら、彼らは悔い改めて神様に従い始めた可能性もあったのです。

私たちも、神様の恵みを忘れると同じようなことが起こるかもしれません。自分の持ち物や、自分が成し遂げたことを誇ってしまい、それらの祝福がどこから来たのかを見失ってしまうのです。

そして、他の人々が私たちの祝福を見るとき、私たちは時に神様が与えてくださった恵みを忘れてしまい、自分自身がどのようにそれらを得たのかを誇ることがあります。

その結果、彼らは私たちが仕える神様を誉めるのではなく、私たち自身を誉めてしまうのです。

あなたはどうでしょうか。他の人々があなたを見るとき、その人たちはあなたの成功に感動し、あなたを誉めるのでしょうか。

それとも、彼らはあなたを通して神様を知り、神様を求め始めるのでしょうか。

どうか、神様の恵みを忘れないでください。むしろ、謙遜な心を持ち、いつも神様に感謝を捧げ、神様からいただいた恵みを周りの人々と分かち合いましょう。

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イザヤ書

誰が主人でしょうか。誰が道具でしょうか。

聖書が私たちによく警告することはプライドです。そして、この箇所で、神様はアッシリヤ人をプライドのために責められました。

アッシリヤは強い国になって、周りの国々を征服し始めました。しかし、彼らが知らなかったことは、神様が彼らを通してその国々を裁いておられたことです。つまり、アッシリヤ人たちはただ神様の道具にすぎませんでした。

神様はこう言われました。

わたしはこれを神を敬わない国に送り、わたしの激しい怒りの民を襲えと、これに命じ、物を分捕らせ、獲物を奪わせ、ちまたの泥のように、これを踏みにじらせる。(イザヤ書10:6)

けれども、自分のプライドによって、アッシリヤ人たちは自慢しました。

私は自分の手の力でやった。私の知恵でやった。私は賢いからだ。

私が、国々の民の境を除き、彼らのたくわえを奪い、全能者のように、住民をおとしめた。(13)

だから神様は答えられました。

斧は、それを使って切る人に向かって高ぶることができようか。のこぎりは、それをひく人に向かっておごることができようか。(15a)

そして、神様は皮肉っぽく言われました。

それは棒が、それを振り上げる人を動かし、杖が、木でない人を持ち上げるようなものではないか。(15b)

だから、神様は彼らを裁いてこう宣言されました。

それゆえ、万軍の主、主は、その最もがんじょうな者たちのうちにやつれを送り、その栄光のもとで、火が燃えるように、それを燃やしてしまう。(16)

ヒゼキヤ王の治世のとき、その預言は成就されました。(イザヤ37:36ー37)

ここから、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

私たちはよく自分ができること、また自分ができたことを自慢します。社会でも、教会でも私たちはそうします。

しかし、覚えていなくてはならないことは、私たちが主人ではないことです。私たちはただの道具です。

私たちが持っている物の全ては神様から来ます。そうであれば、私たちは何を自慢できるでしょうか。

パウロはこう言いました。

いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。

あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。

もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。(第一コリント4:7)

だから、教会でも、この世界でも、私たちが素晴らしいことをする時、すべてがどこから来るか思い出しましょう。

私たちの賜物と才能がどこから来るか思い出しましょう。私たちの祝福がどこから来るか思い出しましょう。

そして自分自身のために生きずに、謙遜な態度を持って、神様に感謝して仕えましょう。

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アモス書

自己中心、プライド、自己満足

私はこの箇所を読むと、イエス様のたとえ話の一つを思い出します。

その話では、ある金持ちの畑が豊作でした。そして彼は、その作物を蓄えておく場所がないことに気づきました。

彼はどうしたでしょうか。貧しい人々を助けたでしょうか。その祝福が神様から来たことを理解し、感謝の心を持って周りの人々を助けようと思ったでしょうか。

いいえ、違います。むしろ、彼は自分自身のことだけを考えました。そして、彼はこう言いました。

こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。

そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。(ルカ12:18-19)

しかし、神様は彼にこう言われました。

愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。(ルカ12:20)

そして、イエス様はこう言われました。

自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。(ルカ12:21)

アモスの時代、イスラエル人はそのような愚か者でした。彼らは自己満足に陥り、金持ちで安心しきっており、たくさんの物を持ち、高慢になっていました。

そのため、彼らは貧しい者のことや、自分たちの罪のことをまったく気に留めませんでした。だからこそ、神様は彼らにこう言われました。

それゆえ、今、彼らは、最初の捕らわれ人として引いて行かれる。身を伸ばしている者どもの宴会は取り除かれる。(アモス書6:7)

あなたはどうでしょうか。自分の力でいろいろなことができると思い、高慢になってはいませんか。たくさんの物を持って自慢したり、自己満足に陥ってはいませんか。

そのイスラエル人たちや金持ちのたとえ話のようにならないように気を付けてください。

自分自身だけに焦点を当てるのではなく、神様と周りの人々に焦点を当ててください。

もし神様があなたを祝福されたなら、その祝福には理由があります。その理由は自分自身を喜ばせるためではありません。

その理由は、あなたが周りの人々に対して祝福となることです。そして、あなたが周りの人々に良い影響を与えることなのです。

あなたが金持ちであろうと貧しくても、影響力があってもなくても、神様は自己中心な態度やプライド、自己満足な態度を嫌われます。

神様は私たちに、自分自身に焦点を当てるのではなく、周りの人々に焦点を向けるよう招いています。また、神様は私たちが周りの人々に対して、神様の目、口、手、そして足となるように招いているのです。

神様、自己中心になるのは簡単です。どうか赦してください。

私に与えられている物は私のものではありません。それらは本当にあなたのものです。

どうかその真理をいつも心に留められるよう私を助けてください。自分自身に焦点を当てず、あなたに、そして周りの人々に焦点を向けられるよう助けてください。

私が自分自身のためではなく、あなたの御国のために生きることができるよう導いてください。アーメン。

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列王記第二 歴代誌第二

プライドは私たちをどこに導くか

「父が父なら子も子」――それはアマツヤとその子アザルヤの話です。

彼らは良いスタートを切りましたが、最終的にはプライドによって倒れてしまいました。

アザルヤの場合、ゼカリヤ(預言者ザカリヤとは別人)がアザルヤに主を恐れることを教えていました。

そのため、アザルヤは若いころから主を求め、神様は彼を栄えさせてくださいました。(歴代誌第二 26:5節)

彼は多くの敵と戦い、彼らを打ち破りました。アザルヤは非常に強力な軍隊を持ち、強い王となりました。

けれでも、歴代誌第二 26:16にはこう書かれています。

しかし、彼が強くなると、彼の心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。

列王記によれば、アザルヤはツァラアト(皮膚病で、ハンセン病に似たもの)にかかりました。けれども、歴代誌はその理由を明らかにしています。

神様の律法によれば、祭司だけが香の壇の上で香をたくことを許されていました。ところが、プライドに支配されたアザルヤは、自ら香をたこうとしたのです。

おそらく彼はこう思ったのでしょう。

「私は良い王だし、神様を愛している。なぜ私が香をたいてはいけないのだろうか。」

祭司たちはアザルヤに注意を促しましたが、彼はそれを全く聞き入れませんでした。それどころか、彼は激しく怒りました。

ところが、その時突然、彼の額にツァラアトが現れたのです。アザルヤはそれを見て急いで神殿を出て、自宅に戻りました。

その結果、彼は死ぬまでその病気に苦しむことになりました。

さらに、彼は王位を息子ヨタムに譲ることを余儀なくされました。

そしてその病気のために、アザルヤは決して神殿に入ることができず、家族から離れ、別の家で孤独な生活を送らざるを得ませんでした。

ソロモンはこう書いています。

高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。(箴言16:18)

アザルヤはそれを学びましたが、彼の人生は完全に行き詰まってしまいました。

あなたはどうでしょう。ご自身のプライドが、あなたを支配してはいないでしょうか。

その場合、あなたのプライドは、あなたが築き上げたものを崩してしまうでしょう。それは、あなたの人間関係や評判を壊してしまうのです。

しかし、私たちがへりくだり、神様に従うならば、神様によって祝福されます。

ヤコブはこう書いています。

神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。(ヤコブ4-6)

私たちのプライドが私たちの人生を崩してしまう前に、そのプライドを打ち砕きましょう。

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列王記第二 歴代誌第二

私たちはどのように神様の言葉に応答するか

プライドによって、ユダの次の二人の王、アマツヤとアザルヤは没落しました。アマツヤの場合、彼の人生はこの一言で要約されます。

彼は主の目にかなうことを行なったが、全き心をもってではなかった。(歴代誌第二25:2)

例えば、アマツヤがエドムという国と戦う準備をしていたとき、北イスラエル王国から勇士を雇いました。けれども、ある預言者がアマツヤにこう言いました。

王よ。イスラエルの軍勢をあなたとともに行かせてはなりません。主は、イスラエル、すなわち、すべてのエフライム族とは、共におられないからです。

それでも、あなたが行くと言われるのなら、そうしなさい。雄々しく戦いなさい。神は敵の前にあなたをつまずかせられます。

神には、助ける力があり、つまずかせる力もあるからです。(歴代誌第二25:7-8)

アマツヤはそれを聞いて非常に怒りました。なぜなら、彼はすでにその勇士たちに多額のお金を支払っていたからです。

しかし、最終的には彼らを引き離し、それぞれの場所に帰しました。

ところが、次に預言者が来たとき、アマツヤの態度はまったく問題がありました。

ユダがエドム人を打ち破った後、アマツヤはエドム人の偶像を取って礼拝し始めたのです。

預言者が来てアマツヤを戒め始めると、アマツヤはこう答えました。

私たちはあなたを王の議官に任じたのか。

身のためを思ってやめなさい。なぜ、打ち殺されるようなことをするのか。(歴代誌第二25:16)

預言者はそれを聞いて話すのを止めましたが、彼はこう言いました。

私は神があなたを滅ぼそうと計画しておられるのを知りました。あなたがこれを行ない、私の勧めを聞かなかったからです。(歴代誌第二25:16b)

その預言はただちに成就しました。

アマツヤは愚かにも北イスラエル王国を攻撃しようとしましたが、ヨアシュ王は彼にプライドについて警告を与えました。

あなたは、どうだ、自分はエドムを打ち破ったと言った。あなたの心は高ぶり、誇っている。

今は、自分の家にとどまっていなさい。なぜ、争いをしかけてわざわいを求め、あなたもユダも共に倒れようとするのか。(歴代誌第二25:19)

アマツヤはヨアシュの言葉を無視し、北イスラエル王国を攻撃しました。その愚かな決断によって、彼は命を落としました。

あなたはどうでしょうか。あなたは神様の言葉にどのように応答するでしょうか。

しぶしぶ従いますか。

それとも、無視しますか。

もしくは心から従いますか。

多くの場合、私たちは自分の知恵に頼り、神様の言葉を拒絶します。私たちは高ぶって、自分の知恵で成功できると思い込むことがあります。

しかし、そのプライドは私たちを没落へと導きます。

ソロモンはこう書いています。

人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。(箴言16:25)

自分の知恵に頼るのではなく、命へと導く道を歩みましょう。