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マルコの福音書のデボーション

あなたをまだ信じているよ

さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできますと。」(マルコの福音書16:7)

天使のことばを読んだとき、ある表現が私の目に留まりました。それは、かなり普通で、読み流してしまいそうなことばですが、今日、私の心に深く響きました。

そのことばは——

「…とペテロ…」

天使は、ただ「弟子たちに伝えなさい」と言ったのではなく、「弟子たちとペテロに伝えなさい」と言ったのです。

私は確かなことは分かりませんが、きっとイエス様はその天使に特別に命じられたのでしょう。

「そのメッセージを伝えるとき、必ずペテロの名前を挙げなさい。彼は、私を知らないと言ってしまって以来、自分を責め続けている。でも、私は彼をまだ信じていると伝えなさい。」

もしかすると、そのことばを聞いても、ペテロはなお罪悪感を抱いていたかもしれません。

だからこそ、イエス様はペテロに直接現れて語られ(ルカ24:34;第一コリント15:5)、その後、もう一度ペテロと向き合い、励ましてくださいました(ヨハネ21章)。

ペテロに対するイエス様の反応を思うと、私は深く励まされます。私がどんなに失敗しても、イエス様は私の名前を呼び、「あなたをまだ信じているよ」と言ってくださるのです。

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ヨハネの福音書のデボーション

あなたは、わたしに従いなさい

イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」(ヨハネの福音書21:22)

多くの人々は、しばしば自分を周りの人々と比べてしまいます。正直に言うと、私もよくそうしてしまいます。

でも、そうしてしまうと、私たちは一番大切なことを忘れてしまいます。それは、イエス様に従うことです。

今日の話を読んだとき、私はペテロのことを思い起こしました。イエス様を見ると、ペテロは湖に飛び込んで、イエス様のもとへ泳いでいきました。

私の最初の思いは、「イエス様に対するペテロの情熱が欲しいなぁ」ということでした。

次の思いは、「ペテロはクレージーだった。私は絶対に湖に飛び込まない」というものでした。

もちろん、私はイエス様を愛しています。でも、ペテロの性格と私の性格はまったく違います。

(あなたはどうでしょうか。イエス様を見たら、湖に飛び込んで、イエス様のもとへ泳いでいくでしょうか。)

でも、神様は私にこう言われました。「たとえ私がペテロにそのような性格を与えようと望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。私はあなたを、ありのままに造りました。あなたは、私に従いなさい。」

神様は、私がペテロのようになることを望んでおられるのではありません。神様は、私が自分の牧師や他のクリスチャンのようになることを望んでおられるのではありません。神様は、私を造られたとおりに生きることを望んでおられるのです。

神様は、あなたに対しても同じように感じておられます。

もし私たちがイエス様から目を離さず、イエス様に従い、神様に託されたものを忠実に用いるなら、神様は喜ばれます。

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マタイの福音書のデボーション

福音の物語における私たちの役割

まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」

そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行って、こう言った。「私に何をくれますか。この私が、彼をあなたがたに引き渡しましょう。」

すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。そのときから、ユダはイエスを引き渡す機会を狙っていた。(マタイの福音書26:13-15)

その言葉を読んだとき、私が気付いたのは、人々がラザロとマルタの妹マリアとその行為だけではなく(ヨハネ12:1-8)、ユダとその行為をもよく覚えているということです。

マリアはイエス様への愛のために覚えられています。ユダは、イエス様を裏切ることのために覚えられています。

そして、私はこう考えました。神様はエデンの時代から今まで、福音の物語を書き続けておられます。その物語の中で、私はどんな役を演じているのでしょうか。人々は私のことについて何を思い出すでしょうか。彼らは、どんな物語を語るでしょうか。

そして、ペテロのことを考えました。人々は彼のことも覚えています。彼らはペテロの大きな失敗をよく覚えています。ペテロは三度、「イエスを知らない」と言い張りました。けれども、ペテロは神の恵みを受けた者としても覚えられています。

それが福音の中心です。福音は神の恵みについての物語です。福音は、私たちの罪の赦しのために十字架で砕かれたキリストのからだと、流された血潮についての物語です。

自分の罪や壊れた人生を見るとき、私たちはよく落ち込んでしまいます。しかし、マリアとペテロのように、私たちは神の素晴らしい愛と恵みを受けた者です。それが、神様が書き続けておられる福音の物語における、私たちの役割です。

それを喜びましょう。

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使徒の働き

神様の働きを妨げる?

ペテロがコルネリウスの家から帰ると、教会の大騒ぎに直面しました。なぜなら、彼は教会のリーダーでありながら、異邦人をもてなし、異邦人の家を訪れたからです。さらに、その異邦人はローマの百人隊長でした。

そこで、ペテロが家に入ると、人々は彼を囲み、責め始めました。

あなたは、割礼を受けなていない者たちのところに行って、彼らと一緒に食事をした。(使徒の働き11:3)

そのユダヤ人たちにとって、ペテロの行為は許しがたいものでした。なぜなら、彼はわざわざ異邦人と関わり、自らを汚したからです。

けれども、ペテロは何が起こったのかを説明しました。彼は神様からの幻や、コルネリウスへの天使の命令、そして御霊がどのように異邦人たちを満たしたかを語りました。

そして、ペテロは彼らにこう言いました。

ですから、神が、私たちが主イエス・キリストを信じた時に、私たちにくださったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが、神がなさることを妨げることができるでしょうか。(17)

「どうして私などが、神がなさることを妨げることができるでしょうか。」

私たちはどれほど神様の働きを妨げているでしょうか。

もしかすると、私たちの偏見のせいで神様の働きを阻んでしまうかもしれません。

また、神様が新しい方法で働かれても、私たちはその新しい方法に慣れていないために、その働きを妨げてしまうことがあります。

さらに、神様の働きが私たちの伝統に反するかもしれません。

あるいは、私たちのプライドや固くなった心のせいで、その働きを妨げてしまうかもしれません。

「私の考え方が間違っている」と認めることは、とても難しいものです。

また、「神様はあの人を用いることができる」と認めることが難しい時もあります。

しかし、もし私たちが謙遜な態度を持たないなら、神様の働きを妨げてしまうことになるかもしれません。

最終的に、私たちはパウロの戒めに従うべきです。

ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。あらゆる形の悪から離れなさい。(テサロニケ人への手紙第一5:21-22)

もちろん、新しいものが神様から来るかどうかを吟味しなくてはなりません。けれども、私たちは自分の心も試すべきです。私たちの考え方も試すべきです。私たちのプライドも試すべきです。

エルサレムにいたユダヤ人のクリスチャンたちも、そうしなければなりませんでした。

そして、彼らが出した結論は?

人々はこれを聞いて沈黙した。そして、「それでは神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」と言って、神をほめたたえた。(使徒の働き11:18)

そして、彼は神様の働きを妨げることなく、その務めに加わり始めました。(19-26)

あなたはどうでしょうか。神様の働きを妨げているでしょうか。それとも、神様の働きを目にし、喜んでその務めに加わるのでしょうか。

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使徒の働き

隔ての壁を打ち壊す

ユダヤ人が異邦人に福音を伝えるために、神様は大きな壁を打ち壊さなければなりませんでした。

皮肉なことですが、その壁の一つは神様の律法から来ていました。それは、清いものと汚れたものに関する律法でした。

レビ記を読むと、こうした原則が何度も出てきます。

「このものに触れてはならない。それに触れると、不潔になる。しかし、この儀式を行えば、清められる。」

また、

「この動物を食べてはならない。あなたにとって、それは汚れたものである。しかし、あの動物は清いので食べてもよい。」

この律法の目的は何だったのでしょうか。その目的は、ユダヤ人に重要なことを教えるためでした。それは、神様が聖なる方であるということです。そのため、もし神様との関係を求めるなら、あなた自身も清くなければなりません。

けれども、ユダヤ人のクリスチャンたちは、大切なことを理解していませんでした。それは、汚れたものや清いものに関する律法(また、すべての儀式的な律法)が、彼らの神様との関係を象徴するものであることです。

さらに、イエス様がすでに来られたので、彼らはその象徴を必要としなくなりました。なぜなら、イエス様にあって、本体が来たからです。

とにかく、教会が誕生した後、クリスチャンたちの間ではこの議論がありました。ユダヤ人の儀式的な規則に従うべきだと主張する人もいれば、その規則に従う必要はないと主張する人もいました。

コルネリウスに出会う前、ペテロと他のユダヤ人たちは、まだその規則に従うべきだと考えていました。

けれども、神様はその壁を強く打ち壊しました。神様はペテロに幻を示されました。その幻の中で、ペテロはいろいろな汚れた動物を見ました。そして、神様はペテロにこう言われました。

「立ち上がり、屠って食べなさい。」

ペテロは驚きました。もしかすると、神様が彼の忠実さを試していると思ったのかもしれません。そこで、ペテロはこう答えました。

主よ、そんなことはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。(使徒の働き10:14)

ところが、神様はペテロを厳しく叱責されました。

神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。(15)

ペテロがその重要なポイントを正しく理解するために、神様はその幻を三回繰り返されました。

その後、コルネリウスのしもべたちがやって来て、神様はペテロにこう言われました。

見なさい。三人の人があなたがを訪ねて来ています。さあ、下に降りていき、ためらわずに彼らと一緒に行きなさい。わたしが彼らを遣わしたのです。(19-20)

もしペテロがその幻を見ていなかったら、彼はコルネリウスのしもべたちと同行することを拒んでいたでしょう。なぜなら、異邦人の家に入って共に食事をすると、彼は汚れた者になってしまうと考えていたからです。

けれども、ペテロはその幻を覚えていたので、彼らと一緒に行きました。

ペテロがコルネリウスの話を聞き、さらに御霊がコルネリウスとその家族を満たすのを見たとき、教会は大きく変わりました。それは教会の転換点となる出来事でした。

では、この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

コルネリウスに対するペテロの言葉を覚えていてください。

神は私に、どんな人のことも、きよくない者であるとか、汚れた者であることが言ってはならないことを、示してくださいました。(28)

もちろん、現代では、私たちはユダヤ人の儀式に従うべきかどうかを議論しません。

しかし、私たちはどれほど他の人を見下しているでしょうか。

どれほど私たちは、「その人は救いに値しない」と考えてしまうでしょうか。

さらに、彼らの人種や身分によって、どれほど私たちは人を軽蔑しているでしょうか。

また、過去の傷のために、どれほど私たちは「彼らは神様の赦しに値しない」と思ってしまうでしょうか。

けれども、イエス様は彼らのためにも死んでくださいました。だから、私たちには「あの人は汚れたものだ」と言う権利はありません。

もちろん、コルネリウスのように、その人は罪によって汚れています。しかし、イエス様はどんな人でも清めることができます。

私たちがその人に福音を伝えると、ペテロのように驚くかもしれません。なぜなら、御霊はその人をも満たすかもしれないからです。

あなたはどんな偏見を持っているでしょうか。どんな人に対して苦々しい思いを抱いているでしょうか。

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使徒の働き

私たちじゃない

ペテロとヨハネに癒された乞食が歩き始め、跳びはね、大きな声で神様を賛美すると、周りの人々は驚きました。なぜなら、その人は約40年間、歩くことができなかったからです。ところがすぐに、人々はペテロとヨハネをぽかんと見つめ始めました。

すると、ペテロは彼らにこう言いました。

イスラエルの皆さん、どうしてこのことに驚いているのですか。どうして、私たちが自分の力や、敬虔さによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。。。

このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。

イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。(使徒の働き3:12,16)

ペテロの言葉の中に、私たちは本当に大切なことを見いだします。

私たち自身は、自分の人生の中心ではありません。大切なのは私たちではなく、私たちができることでもありません。

大切なのは、イエス様です。大切なのは、イエス様が十字架で成し遂げられた御業です。そして、大切なのは、今イエス様が行っておられることです。

ペテロが高慢な態度で、「私たちを見てみなさい。すごいでしょう?神様は私たちに素晴らしい力を与えてくださった。私たちは本当に恵まれているでしょう?」と自慢するのは、簡単だったでしょう。

しかし、ペテロはそうせず、イエス様を示しました。ペテロとヨハネではなく、イエス様がその人を癒されたと指摘しました。

また、ペテロが強調したのは、その奇跡を見た人々がペテロとヨハネを信じて褒めるのではなく、イエス様を信じ、イエス様を褒めたたえるべきだということです。なぜなら、イエス様は彼らのために死なれたからです。

さらに、モーセと他の預言者たちは、イエス様を指して「イエス様に聞きなさい」と語りました。

けれども、多くのクリスチャンはイエス様に焦点を当てず、自分自身に目を向けてしまいます。自分の霊的な賜物に注目し、自分ができることに意識を向け、自分が得た誉れに心を奪われてしまうのです。

その結果、自分のいのちの目的を見失ってしまいます。

それは、イエス様を知り、周りの人々にイエス様を指し示すことです。

もし自分自身にばかり焦点を当てるなら、私たちは神様が私たちに与えようとしているいのちや喜びを理解することができません。

あなたはどうでしょうか。何に焦点を当てていますか。何のために生きていますか。誰のために生きていますか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ21章

私たちを信じてくれる神

これは、聖書の中で私が特に好きな話の一つです。主人公はペテロ――自信満々なペテロ。大胆なペテロ。

それでも、ペテロはイエス様を知っていることを三度否定しました。その瞬間、彼の自信も、大胆さも失われました。もしかすると、彼は自分自身すら信じられなくなったかもしれません。

復活後、ペテロとイエス様の最初の会話を読んでみたいと思います。残念ながら福音書にはその詳細な会話は記されていません。

ペテロはイエス様の墓へ行ったとき、イエス様の遺体が見つからず、激しく困惑したことでしょう。「ヨハネは、イエス様がよみがえられたと信じている。でも、本当にそれが事実なのだろうか?」

もしかすると、ペテロはこう思ったかもしれません。

「正直、ある意味では、それが本当じゃないほうがいいかもしれない。だって、もし本当なら、私はどうやってイエス様と向き合えばいいのだろうか。」

けれども、突然イエス様はペテロの前に現れました。

ペテロはどう反応したでしょうか。驚きでしょうか。喜びでしょうか。それもあるかもしれません。

もしかすると、ペテロはイエス様のもとにひれ伏し、涙を流しながら何度もこう叫んだのではないでしょうか。

「ごめんなさい……どうか赦してください。」

多分、イエス様はペテロにこう言われたことでしょう。

「大丈夫だ。赦してあげよう。私はあなたのような人々のために十字架で死んだのだから。私は今も変わらず、あなたを愛している。」

それを聞いて、ペテロは慰められたかもしれません。けれども、すぐに疑いが心に浮かんだのではないでしょうか。

「まさか、本当にイエス様は私を赦してくださったのか?たとえ赦されたとしても、イエス様は私を弟子としてもう受け入れられないのではないか?私の失敗はあまりにも大きすぎる。。。」

そして、数日が経ちましたが、ペテロはイエス様と再び会うことがありませんでした。そのため、彼の心は再び沈んだことでしょう。

「やはりダメなのか。。。イエス様は『赦してあげよう』と言ってくださった。でも私はもう、イエス様の弟子として歩み続けることはできないのではないか。元の生活に戻るしかないのだろうか…。」

そこで、ペテロは他の弟子たちにこう言いました。

「私は漁に行く。」

他の弟子たちも、おそらく少し退屈していたので、ペテロと共に漁に出ました。ところが、夜通し漁をしても、何も捕れませんでした。

もしかすると、ペテロの気持ちはさらに沈んだのではないでしょうか。

「私はもう、何をやってもダメだ。。。魚を捕ることすらできない。」

そして、彼らは岸辺から声を聞きました。

「おい!食べる魚がないみたいだね。船の右側に網を打ってみなさい。」

弟子たちがその言葉通りにすると、突然、彼らの網は魚でいっぱいになりました。それを見たヨハネは叫びました。

「あれは主だ!」

ペテロはヨハネの言葉を聞くと、すぐに湖へ飛び込み、イエス様のもとへ泳いでいきました。ペテロが岸に着くと、イエス様は微笑みながら言われたことでしょう。

「ペテロ、何をしているのだ。他の弟子たちを助けなさい。」

ペテロは船に戻り、弟子たちと共に魚を岸辺まで持ってきました。彼らが到着すると、イエス様はすでに魚を焼いて、彼らのために食事を用意されていました。

彼らが食べながら、きっと笑ったり、様々なことを語り合ったりしたでしょう。けれども、食事が終わると、イエス様はペテロに言われました。

「ペテロ、少し話がある。こちらへ。」

その言葉を聞いて、ペテロは内心ひやひやしていたかもしれません。

「やはり。。。イエス様は私を責め、私を捨てるのだろう。弟子としての私の歩みは、もう終わりなのだろうか。。。」

不安を抱えながら、おどおどとペテロはイエス様と共に歩き始めました。もしかすると、無言のまま何分も散歩したかもしれません。そしてついに、イエス様はペテロに問いかけました。

ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、私を愛していますか。(ヨハネの福音書15:15)

新改訳では、「この人たちが愛する以上に」と書かれています。しかし、実際にイエス様の言葉は、それほど明確ではありませんでした。

イエス様が語られたのは、こういうことです。

「これらよりも、私を愛していますか。」

多くの聖書学者によれば、おそらくイエス様は他の弟子たちについて話していたのだろうと考えられています。そのため、新改訳では「この人たちが愛する以上に」と訳されています。

けれども、ペテロの答えを考えると、その解釈には納得できない部分があります。

ペテロはこう答えました。

「はい。私があなたを愛していることは、あなたがご存知です。」

ペテロは、自分がイエス様を三度否定したことを痛烈に覚えていたはずです。それにもかかわらず、どうして「はい」と答えることができたのでしょうか。

だから、私は異なる視点を持っています。

もしかすると、彼らが歩いているとき、ペテロの船や網、魚が視界に入ったかもしれません。

もしそうなら、イエス様の問いかけの意味は、こうだったのではないでしょうか。

「ペテロ。このものよりも、私を愛していますか?私はほんの少しの間、あなたのもとを離れた。それなのに、その間にあなたはすぐに元の生活へ戻ってしまった。本当に、これらよりも私を愛しているのか?」

この問いかけに対して、ペテロは迷いなく答えたはずです。

「はい。あなたを愛しています。」

すると、イエス様は答えられました。

わたしの子羊を飼いなさい。(15)

彼らはしばらく歩き続けると、イエス様は再び問いかけられました。

「私を本当に愛しているのか?」

ペテロはもう一度「はい」と答えました。

すると、イエス様は言われました。

わたしの羊を牧しなさい。(16)

彼らはしばらく歩き続けると、イエス様はもう一度問いかけられました。

「ペテロ、私を愛しているのか?」

この問いを聞いて、ペテロの心は痛みました。

そこで、ペテロは答えました。

主よ。あなたはすべてをご存知です。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。(17a)

イエス様は答えられました。

わたしの羊を飼いなさい。(17b)

そしてイエス様は続けてこう言われました。

まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若い時には、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。

しかし、年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。(18)

イエス様はペテロの死を預言されました。そして何年か後、ペテロはイエス様への信仰ゆえに、十字架で死ぬことになります。

どうしてイエス様は、そのことをペテロに伝えられたのでしょうか。おそらく、イエス様はこう言いたかったのではないでしょうか。

「ペテロ。私は、あなたが犯した大きな失敗をよく知っている。それでも私は変わらず、あなたを信じているのだ。

実は、あなたは将来、同じような試練に直面することになる。そのとき、あなたは再び選択を迫られる。私を否定するのか。あるいは、私のために命を捧げるのか。

しかし、今度はあなたは、私のために死ぬことを選ぶのだ。」

そして、イエス様はペテロに言われました。

私に従いなさい。(19)

ペテロのように、私たちも皆、失敗することがあります。そのたびに、ペテロと同じように思うかもしれません。

「私は大失敗した。神様は私なんて受け入れてくださるのだろうか。」

しかし、安心してください。

神様はあなたを受け入れ、今もあなたを用いられます。なぜなら、神様はあなたの現在の姿だけを見ているのではなく、あなたが将来どのようになるかをよくご存じだからです。

神様はあなたを信じておられます。

だから、自分の力に頼らないようにしましょう。

また、自分の知恵に頼らないようにしましょう。

神様があなたを受け入れ、あなたを信じておられることを覚え、心を安らかに過ごしましょう。

そして、歩みましょう。イエス様に従いましょう。

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マタイの福音書 マタイ26章 マルコの福音書 マルコ14章 ヨハネの福音書 ヨハネ13章 ルカの福音書 ルカ22章

私たちの弱さを知り、それでも受け入れてくださる神

イエス様が弟子たちに、「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません」と言われたとき、彼らは当然戸惑いました。イエス様は彼らの師であり、彼らはイエス様がそばにおられない人生を想像することができませんでした。

そこで、いつものようにペテロは、皆が考えていたことを口にしました。

主よ。なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちを捨てます。(ヨハネ13:36-37)

イエス様の答えを聞いて、ペテロとほかの弟子たちは衝撃を受けました。

わたしのためにいのちを捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。(ヨハネ13:38)

そして、イエス様はペテロにこう言われました。

シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。

しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。

ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカ22:31-32)

それでも、ペテロは再び言いました。

主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。(ルカ22:33)

ところが、イエス様は再び繰り返されました。

ペテロ、あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたし知らないと言います。」(ルカ22:34)

もしかすると、ほかの弟子たちはそれを聞いて、「まさかペテロが裏切り者なのだろうか。さっきイエス様は、私たちの中に裏切り者がいると言われたが、それはペテロのことなのだろうか」と思ったかもしれません。

ペテロ自身も、そう疑問に思ったかもしれません。

そこで、イエス様は続けて言われました。

あなたがたはみな、つまずきます。「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる」と書いてあるからです。

しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」(マルコ14:27-28)

それでも、ペテロはなおも主張し続けました

たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。(マタイ26:33)

そこで、イエス様はさらに具体的に、そしてより力強く宣言されました。

まことに、あなたに言います。まさに今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。(マルコ14:30)

それでも、ペテロはイエス様の言葉を信じませんでした。そして、ペテロとほかの弟子たちは、「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」と言い張りました。(マルコ 14:31)

しかし、最終的には、イエス様が預言された通りに、彼らは皆つまずきました。イエス様が捕らえられたとき、彼らは逃げ去り、ペテロは三度イエス様を知らないと言いました。

この話のポイントは何でしょうか。私たちが自分自身を理解しているよりも、イエス様は私たちのことを深く知っておられます。私たちが気づかなくても、イエス様は私たちの弱さをよく知っておられます。それでも、イエス様は私たちを受け入れられます。

それこそが、この話の最も驚くべき点です。イエス様は決してペテロを責められませんでした。むしろ、イエス様はペテロを励まされました。

「わたしはあなたのために祈っているよ。あなたはつまずくけれど、あなたはきっと立ち上がる。だから、立ち上がったら、ほかの弟子たちを励ましなさい。」

このように、イエス様は私たちの弱さをよく知っておられます。しかし、イエス様は私たちを責めるのではなく、大祭司として、毎日私たちのために祈ってくださいます。

私たちが転んだとき、イエス様は私たちを引き上げてくださいます。そして、私たちを引き上げると、「他のつまずいた人を憐れんで、励ましなさい」と言われます。

だから、私たちが失敗しても、弱くても、この言葉を心に留めておきましょう。

こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)

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イエス様の邪魔するもの

私たちはよく、他のクリスチャンにつまずきや妨げとなるものを置かないよう、注意するように教えられます。

また、キリストを信じない人々に対して、イエス様が「つまずきの石」や「妨げの岩」であるということをよく聞きます。

しかし、私たちはどれほどイエス様の働きを妨げる存在になってしまうことがあるでしょうか。この箇所を読んだとき、そのことを考えさせられました。

イエス様は弟子たちに、神様の計画を成し遂げるために、ご自身が死ななければならないと語られました。

弟子たちはその言葉を聞いて驚きました。彼らは初めてこの話を聞いたし、それは彼らが思い描いていたメシア像とはかけ離れたものでした。

彼らは、イエス様がローマ帝国を打ち倒し、イスラエルを解放されると信じていました。そして、彼ら自身がイエス様の大臣になると思い込んでいました。そのため、イエス様の言葉に深く戸惑ったのです。

けれども、いつものように、ペテロは真っ先に自分の思いを表現しました。

主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。(マタイ16:22)

「神の御恵みがありますように」という言葉は直訳するとそのようになりますが、その本当の意味は「まさか!」という驚きの表現です。

つまり、ペテロはイエス様の言葉に対して強く反対しました。

私たちはどれほどイエス様を「主」と呼びながらも、イエス様の言葉に逆らうことがあるでしょうか。ペテロもそうしました。

そのため、イエス様は彼を厳しく叱責されました。

下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。(23)

もしイエス様に「サタン」と呼ばれたら、あなたはどう感じるでしょうか。イエス様はペテロを「サタン」と呼ばれました。なぜなら、ペテロの口から出た言葉は、サタンの考えそのものだったからです。

イエス様は、私たちの罪のために十字架で死ぬことをすでに決断されていました。しかし、ペテロはイエス様の計画に強く反対しました。だからこそ、イエス様の敵がイエス様を逮捕しようとしたとき、ペテロは下手ながらも彼らを攻撃しました。

ところが、その態度によって、彼はイエス様とその計画を妨げる者となってしまいました。ペテロは、自分の思いをイエス様の思いに合わせようとはしませんでした。むしろ、イエス様の思いを自分の思いに合わせようとしたのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの人生において、あなたは神の御心を考えていますか?それとも、人の考えにばかりとらわれていますか?

あなたは自分の計画を神様の計画に合わせているでしょうか?それとも、神様の計画を自分の計画に合わせようとしているでしょうか?

あなたは神様の御心に従っているでしょうか?それとも、神様の名前を自分の計画に利用しようとしているでしょうか?

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教会が立つ基礎

これは本当に印象的な箇所ですので、もう一度見てみましょう。

ペテロがイエス様に向かって「あなたはキリストです」と告白した後、イエス様は彼を称賛されました。

するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。

ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。

わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」(マタイの福音書16:17-19)

それは本当に印象的な言葉ですが、その言葉が意味するものとは何でしょうか。そして、私たちは何を学ぶことができるのでしょうか。

まず最初に、神様がご自身を現わされると救いがもたらされるということです。

人々は神様を自ら見出すことができないため、神様がご自身とその真理を明らかにされなければ、私たちは神様のことを知ることはできません。そのため、救いはまさに恵みから来るものなのです。

カトリック教徒たちはペテロを尊敬し、ペテロの権威によってイエス様が教会を建てられたと教えています。

けれども、この箇所では、イエス様はそのように教えられたわけではありません。「ペテロ」という名前は「小さい石」という意味を持っていますが、イエス様は「岩の上に教会を建てる」と言われました。

ペテロ自身もその言葉を忘れず、こう語っています。

主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。

あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。

なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」(第一ペテロ2:4-6)

ペテロによれば、教会は何の石の上に立つでしょうか。それはイエス様です。

私たちクリスチャンは何者でしょうか。私たちは生ける石です。そして、神様は私たちを用いて、ご自身の家、つまりご自身の神殿を建てておられます。

さらに、私たちはイエス様の十字架の働きのゆえに、神様の祭司となりました。

私たちには祭司が要りません。なぜなら、私たち自身が神様の祭司だからです。私たちは確信をもって、大胆に天の父の御もとに近づくことができます。

教会がイエス様の上に建てられたので、ハデスの門もそれには打ち勝つことができません。サタンはずっと教会を滅ぼそうとしましたが、教会は今もなお立っており、イエス様が戻られるまで立ち続けるでしょう。

イエス様はペテロに特別な権威を与えられたでしょうか。おそらくそうされたでしょう。しかし、その時、ペテロとほかの弟子たちはイエス様の言葉を完全に理解していなかったと思います。

イエス様が天に戻られた後、ペテロの最初のメッセージを通して、多くのユダヤ人がクリスチャンとなりました。(使徒の働き2章)

また、異邦人もペテロを通して福音を聞き、初めてクリスチャンになりました。(使徒の働き10–11)

つまり、ペテロは天の御国の鍵を使ったことで、ユダヤ人と異邦人が初めて神の国の門に入ることができました。

さらに、その鍵を用いて、ペテロとヤコブは、ユダヤ人の儀式的な律法および食事に関するルールのほとんどを解きましたが、教会の平和を守るためにいくつかの律法を守るよう指示しました。(使徒の働き15章)

それでも、ペテロが最初の法王であり、他の人々がペテロの権威と立場を継いだとは言えません。イエス様は、そのようなことを決して言われませんでした。

実は、ある程度、イエス様の言葉はすべてのクリスチャンに当てはまります。

神様の祭司として、私たち皆は天の御国の鍵を受けています。そして、私たちが福音を伝えると、その福音を聞いて信じる人々に天の国の門が開かれます。

また、私たちは信じる人々に対して、彼らの罪が恵みによって赦されることを宣言する権威を持っています。したがって、彼らは自分の働きによって救いを得ようとする考え方から解放されます。

ですから、その鍵を使いましょう。そうすれば、彼らも私たちがいただいた救いを受けることができるのです。

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イエス様を疑う?

この箇所を読むとき、いくつかのことが私の心を打ちます。

1つ目は、イエス様がご自身の人生のバランスを保たれたということです。周りの人々のニーズに応えるためにご自身のニーズを犠牲にされたこともありましたが、イエス様は天の父と共に過ごす時間を最優先されました。

もしイエス様がその時間を優先されたなら、私たちもそうすべきではないでしょうか。

いずれにせよ、イエス様が山におられる間、弟子たちが海で苦しんでいるのをご覧になりました。それでもイエス様は3時から6時ごろまで待ってから彼らのところに向かわれました。

同じように、私たちが苦しんでいても、イエス様は時に待っておられることがあります。それは、イエス様が私たちを見放したということではありません。イエス様は私たちを見守っておられるのです。

ただし、イエス様はその試練を許されます。なぜなら、イエス様はご自身が見えなくても、私たちがどれほど信頼しているかを知りたいからです。

弟子たちがイエス様のところから去ったとき、イエス様は「後で私は向こうで会います」と言われました。しかし、弟子たちが海で苦しんだとき、イエス様の言葉を覚え、信じていたのでしょうか。

そしてイエス様は湖の上を歩いて、彼らを通り過ぎようとされました。弟子たちがイエス様を見たとき、彼らは恐れて、イエス様を幽霊だと思いました。けれども、イエス様は彼らに言われました。「心配しないで。私だよ。」

ペテロはイエス様のところに行こうと思い、湖の上を歩き始めました。ところが、風と波を見たとき、ペテロはパニックになり沈み始めて、「主よ!助けて!」と叫びました。

イエス様は愛と恵みを持ってペテロを救われましたが、「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」と言われました。

とはいえ、この話の最後を読むとき、薄い信仰を持っていたのはペテロだけではなかったことが分かります。イエス様が舟に乗り込まれると、風がすぐにやみました。弟子たちはそれを見て非常に驚きました。なぜでしょうか。

というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである。(マルコ6:52)

その言葉は、私の心を何よりも強く打ちました。彼らはパンの奇跡の本当の意味を理解していませんでした。何がわからなかったのでしょうか。

1.イエス様が彼らを本当に愛しておられ、彼らのニーズに応えてくださること。

2.イエス様が彼らのニーズに応える力を持っておられること。

ペテロが海の上を歩いたとき、最初は全く問題ありませんでした。しかし、彼がイエス様から目を離し、周りの波や風を見たとき、困惑してしまいました。

どれほど私たちも同じことをしているでしょうか。私たちは自分の境遇に集中しすぎて、イエス様から目を離してしまい、イエス様の愛と力を忘れてしまうことがあります。その結果、私たちは疑って沈み始めるのです。

実際、私もそうしてしまうことがあります。だから、一緒に祈りませんか。

主よ。あなたは私のために多くのことをしてくださいました。私はあなたの善さを見ました。あなたの愛を感じました。あなたの力を経験しました。それなのになぜか、私はまだ疑っています。

どうか、私の信仰を強めてください。私の固い心を柔らかくしてください。私がパンの奇跡の意味を理解できるように助けてください。あなたの愛と力を深く理解できるようにしてください。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。