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マルコの福音書のデボーション

イエス様が私たちに求められること

彼女は、自分にできることをしたのです。(マルコの福音書14:8)

今日、イエス様の言葉を思いめぐらしています。ラザロの妹であるマリアは、イエス様のためにほとんど何もすることができませんでした。

敵からイエス様を守ることもできず、最高法院の前で擁護することもできませんでした。

イエス様の処刑を阻止するために、彼女にできることは何もありませんでした。

でも、マリアは自分にできることをしました。

自分が何をしているのか完全には理解していなかったとしても、イエス様によれば、マリアはご自身の葬りの日のために、その香油を取っておいたのです。

彼女が理解していたのは、イエス様を愛していること、そして兄ラザロがよみがえったことで、自分の心が感謝に満ちていたことでした。(ヨハネの福音書11~12章)

だからこそ、マリアはイエス様のために、できることをしました。

イエス様が私たちに求められるのも、ただそれだけです。

私たちにできないことではなく、

周囲の人々が私たちに期待することでもなく、

むしろ、私たちの愛と感謝の心から、イエス様に仕えるためにできることを求めておられるのです。

だから、裁きの日に、イエス様が私についてこう言ってくださるように願います。

「ブルースは、自分にできることをしたのです。」

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ルカの福音書のデボーション

開いた口

(マルタ)にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。(ルカの福音書10:39)

マリアの心について読むたびに、私は深く感動します。

でも今日は、祈るときに偶然にも詩篇81篇を開きました。その箇所で、神様は次のように言われました。

わたしは、あなたの神、主である。。。あなたの口を大きく開けよ。わたしが、それを満たそう。(詩篇81:10)

マルタは忙しすぎて、イエス様の御言葉を聞く時間がありませんでした。(40-41節)

律法の専門家は、イエス様の御言葉から逃げようとしました。(29節)

しかし、マリアはイエス様の御言葉に口を大きく開けました。そして、イエス様はその口を満たしてくださいました。

私もマリアのように、イエス様の御言葉に口を大きく開けたいと思います。それだけでなく、その言葉を素直に受け止めたいのです。

あなたのみことばは、私の上あごになんと甘いことでしょう。 蜜よりも私の口に甘いのです。(詩篇119:103)

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ルカの福音書のデボーション

真の平和

いと高き所で、栄光が神にあるように。 地の上で、平和が みこころにかなう人々にあるように。(ルカの福音書2:13ー14)

上記の言葉を読んだとき、私の牧師が最近語られたメッセージを思い起こしました。そのテーマは、イエス様がもたらされる平和がこの世の平和と異なることでした。

天の軍勢が現れたとき、もしかすると、羊飼いたちは天使たちがローマの圧迫を滅ぼすために来たと思ったかもしれません。

恐ろしいことですが、その天使たちが羊飼いたち自身を滅ぼすために来たと思ったかもしれません。神様の栄光によって、人々の罪が明らかにされるからです。

しかし、それどころか、天の軍勢は平和を宣言しました。その平和は羊飼いやユダヤ人たちだけのためではなく、すべての人々のためです。(ルカ2:10)

でも、どのような平和が伝えられたのでしょうか。

それは神様との平和です。

その平和は私たちの人生に入り込み、こう語ります。

「あなたは罪人ですが、恐れる必要はありません。イエス様があなたの罪の代償を支払ってくださいました。だから、あなたは今、恵まれた者です。

エリサベツとマリアと同じように、私の恵みを受けたのです。あなたは私の心にかなう者となりました。」(ルカ1:25、28ー30)

この真理は本当に心に納め、思い巡らすべきものです。(ルカ2:19)

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ヨハネの福音書のデボーション

本当のところ神様は私のことをどう思っておられるの?

イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。(ヨハネの福音書11:5ー6)

多くの人々、クリスチャンたちを含めて、「本当のところ神様は私のことをどう思っておられるのだろうか」と疑問に思います。

イエス様がすぐに来られず、ラザロが亡くなったとき、たぶんマルタとマリアもイエス様について同じことを考えていたでしょう。

「イエス様は本当に私たちを愛しておられるのでしょうか。なぜ来てくださらなかったのですか?なぜ兄を癒してくださらなかったのですか?」

しかし、真実は何だったのでしょうか。本当のところイエス様は彼らのことをどう思っておられたのでしょうか。

イエス様はラザロ、マルタ、マリアを愛しておられました。

私たちが苦しんでいて、神様が沈黙されている時、神様が私たちのことをどう思っておられるのか疑問に思うのは簡単なことです。

でも、覚えておきましょう。神様は私たちの味方です。さらに、神様は私たちを深く愛してくださっています。(ローマ8:31ー32)

そして、何も、死のとげさえも、私たちを神様の愛から引き離すことはできません。(ローマ8:38ー39;ヨハネ11:25)

でも私たちが自問しなければならないのは、その真実を信じるかどうかです。(ヨハネ11:26)

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エペソ人への手紙のデボーション

ふんだんに恵まれている

私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。

神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。(エペソ人への手紙1:3-6)

私は6節の英訳が大好きです。「神様は私たちに恵みの栄光をふんだんに与えてくださいました。」

「ふんだんに与える」と訳された言葉は、新約聖書では2回しか使われていません。2回目は、上のエペソの箇所です。一回目は、マリアへのガブリエルの言葉です。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」(ルカ1:28)

ガブリエルの言葉を言い換えると、「マリア、神様はあなたにふんだんに恵みを与えてくださいました。」

あなたは、御使いがマリアにそのような言葉をかけたのは、マリアが本当に特別な人だったからだと思うかもしれません。

でも、神様は同じようなことを、私たちにも言ってくださいます。

「わたしの子を通して、あなたに恵みをふんだんに与えました。世界の基が据えられる前から、あなたをわたしの子供とするように定めていました。」

マリアへの神様の言葉は、あなたにも当てはまります。あなたは、ふんだんに恵まれた人です。そして、イエス様において、神様はインマヌエルです。「神様は私たちと共におられます。」

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マタイの福音書のデボーション

私のことを考えるとき、人々は何を思い出すのだろうか

マタイの福音書26:6-16では、クリスチャンたちがよく覚えている二人の人物が登場します。

もちろん、私たちはベタニヤのマリアを覚えています。なぜなら、彼女は本当にイエス様を愛していたからです。

イエス様は、彼女についてこう言われました。

まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。(マタイの福音書26:13)

でも14節では、私たちはもう一人の人物を見ます。私たちはイスカリオテ・ユダもよく覚えています。なぜでしょうか。なぜなら、彼はイエス様を裏切ったからです。

私たちが亡くなった後、人々は私たちについて何を思い出すでしょうか。彼らは私たちのことを何と言うでしょうか。彼らは、イエス様に対する私たちの愛を思い出すのでしょうか。

良い知らせは、たとえ私たちが大失敗しても、評価が変わる可能性があるということです。

ペテロは「イエス様を知らない」と三回言いました。もちろん、私たちはペテロの失敗をよく覚えています。でも、私たちはペテロの人生に注がれたイエス様の恵みも覚えているでしょう。

私のことを思い出すとき、人々がその二つのことを思い出してほしいです。つまり、イエス様に対する私の愛と、私の人生に注がれたイエス様の素晴らしい恵みを思い出してほしいのです。

How will they remember me? 
人々は、私について何を思い出すのだろうか。

I hope when they remember they see you.
人々が私のことを思い出すとき、私の中にイエス様を見てもらえるように祈ります。–キム・ボイス

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ヨハネの福音書のデボーション

イエス様の愛を疑う?

イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。 しかし(別訳:「そのようなわけで」)、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。(ヨハネの福音書11:5ー6)

ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか。」

しかし、彼らのうちのある者たちは、「見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか」と言った。(36ー37節)

しかし、彼らのうちの一人で、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない。」

このことは、彼が自分から言ったのではなかった。彼はその年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。(49ー52節)

イエス様は私たちを愛しておられます。それでも、イエス様が私たちの望むように応えてくださらない時もあります。

そのような時、私たちは苦しみ、「どうして」と問いかけます。また、「イエス様は本当に私を愛しておられるのだろうか」と思うこともあります。

けれども、実のところ、多くの場合、私たちは何も分かっていません。神様はすべてをご存じですが、私たちはまったく考えていない要素が多くあるのです。

最大の例は、十字架です。神様がなさっていたことを、誰も理解していませんでした。祭司たちも、パリサイ人たちも、イエス様の弟子たちも、イエス様の母マリアさえも、神の計画を知りませんでした。

しかし、十字架こそが、神様の愛の最大の表現だったのです。

あなたは今、さまざまな疑問を抱え、苦しんでいるでしょうか。神様に「どうして」と問いかけているでしょうか。

マリアとマルタの模範に従いましょう。彼女たちは深く傷ついていましたが、イエス様に背を向けることはありませんでした。むしろ、彼女たちはイエス様のもとに走り寄り、イエス様を信じ続け、従い続けました。

彼女たちの模範に従うなら、私たちもいつか神様の栄光を見ることができます。

私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのであって、その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。

この知恵を、この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした。もし知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。

しかし、このことは、 「目が見たことのないもの、 耳が聞いたことのないもの、 人の心に思い浮かんだことがないものを、 神は、神を愛する者たちに備えてくださった」 と書いてあるとおりでした。」(第一コリント3:7ー9)

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マタイの福音書のデボーション

福音の物語における私たちの役割

まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」

そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行って、こう言った。「私に何をくれますか。この私が、彼をあなたがたに引き渡しましょう。」

すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。そのときから、ユダはイエスを引き渡す機会を狙っていた。(マタイの福音書26:13-15)

その言葉を読んだとき、私が気付いたのは、人々がラザロとマルタの妹マリアとその行為だけではなく(ヨハネ12:1-8)、ユダとその行為をもよく覚えているということです。

マリアはイエス様への愛のために覚えられています。ユダは、イエス様を裏切ることのために覚えられています。

そして、私はこう考えました。神様はエデンの時代から今まで、福音の物語を書き続けておられます。その物語の中で、私はどんな役を演じているのでしょうか。人々は私のことについて何を思い出すでしょうか。彼らは、どんな物語を語るでしょうか。

そして、ペテロのことを考えました。人々は彼のことも覚えています。彼らはペテロの大きな失敗をよく覚えています。ペテロは三度、「イエスを知らない」と言い張りました。けれども、ペテロは神の恵みを受けた者としても覚えられています。

それが福音の中心です。福音は神の恵みについての物語です。福音は、私たちの罪の赦しのために十字架で砕かれたキリストのからだと、流された血潮についての物語です。

自分の罪や壊れた人生を見るとき、私たちはよく落ち込んでしまいます。しかし、マリアとペテロのように、私たちは神の素晴らしい愛と恵みを受けた者です。それが、神様が書き続けておられる福音の物語における、私たちの役割です。

それを喜びましょう。

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創世記のデボーション

定めた時に

たぶん、クリスマスがもうすぐやって来るからかもしれませんが、最近、私はクリスマスのレンズで聖書を読んでいます。

主はアブラハムに言われました。

なぜサラは笑って、「私は本当に子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに」と言うのか。

主にとって不可能なことがあるだろうか。

わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子が生まれている。(創世記18:13ー14)

私はそれを読んで、マリアに対するガブリエルの言葉を思い起こしました。

聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。

見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。

神にとって不可能なことは何もありません。(ルカ1:35ー37)

そして、ガラテヤ人たちに対するパウロの言葉を思い起こしました。

しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。

それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。(ガラテヤ4:4ー5)

神様はアブラハムに、「あなたによってすべての国民は祝福される」と約束されました。

サラがイサクを出産したことによって、神様はその約束の成就を始められました。

その時、サラは九十歳で、最初は赤ちゃんを産むのはもう無理だと思っていました。

しかし、イサクを生んだとき、サラの疑いの笑いは喜びの笑いに変わりました。

そして、時が満ちて、神様は処女であるマリアを通して、イエス様を送られました。

たぶん、マリアも少し疑いを持っていたかもしれませんが、最終的にガブリエルの言葉を信じて、イエス様を生みました。

そして、イエス様によって、私たちは神様の子供たちとして喜びます。

そういうわけで、パウロはこう書きました。

そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。

ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。(ガラテヤ4:6ー7)

だからパウロと共に感謝しましょう。

ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。(第二コリント9:15)

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マタイの福音書 マタイ28章 マルコの福音書 マルコ16章 ヨハネの福音書 ヨハネ20章 ルカの福音書 ルカ24章

いつも私たちと共におられる方

イエス様の復活について、二つの注意事項をお伝えしたいと思います。

一つ目は、マルコ16:9-20を省略することです。なぜなら、多くの聖書学者によれば、マルコはこの部分を書いていなかったと考えられているからです。

では、なぜマルコは具体的にイエス様の復活について語らなかったのでしょうか。私は三つの説を聞いたことがあります。

1つ目は、マルコが福音書を完成させる前に亡くなったという説です。

2つ目は、元々の結末が何らかの理由で失われたという説です。

3つ目は、使徒の時代には、教会で牧師がマルコの福音書を朗読した後に、イエス様の復活を目撃した人々が自分の証を語っていた可能性があるという説です。

いずれにせよ、マルコが亡くなった後、現在の結末が加えられたと考えられています。

二つ目の注意事項は、福音書間でイエス様の復活の記録を統合するのが非常に難しいということです。できる限り、復活の出来事の順番を整理しようと思いますが、これはあくまで私の考えです。

とはいえ、どの福音書を読んでも、基本的な事実は一致しています。

女性たちがイエス様の墓に着いたとき、その墓はすでに空っぽでした。そして、天使たちが現れ、イエス様の復活を彼女たちに知らせました。

その後、イエス様はマリアやほかの女性たちにご自身を現され、彼女たちは弟子たちにイエス様の復活を伝えました。

現代の弁護士によれば、法廷では証人の証言に多少の違いがあったとしても、これらの四つの事実は十分に認められるでしょう。

では、簡単にですが、復活の出来事の順番を説明します。

1.女性たちはイエス様の墓に行ったが、イエス様の遺体はありませんでした。

2.マリアが墓に入り、イエス様の遺体がないと分かると、すぐに弟子たちに知らせるために戻りました。

3.ほかの女性たちはその場に残り、おそらく何が起こったのか疑問に思ったでしょう。そして、二人の天使が現れ、そのうちの一人がイエス様の復活の良い知らせを伝えました。

4.そこで、女性たちは弟子たちに伝えるために急いで戻りました。彼女たちは急いでいたため、誰とも話しませんでした。(マタイ28:5-8;マルコ16:1-8;ルカ24:1-10)

5.その間に、マリアは弟子たちにイエス様の遺体がなくなったことを伝えました。(ヨハネ20:2)そこで、ペテロと(おそらく)ヨハネは墓を調べに行きました。マリアは彼らと共に墓に戻りました。

彼らが家を出た後、ほかの女性たちは家に来て、残っていた弟子たちに天使のメッセージを伝えました。(ルカ24:9-11)

6.ペテロとヨハネは墓に着き、マリアの話を確認しました。ヨハネはイエス様が復活されたと信じたようですが、ペテロはまだ疑っていたようです。おそらく、彼らは戻る途中でそのことを話し合ったでしょう。(ルカ24:12;ヨハネ20:3-9)

7.ペテロとヨハネが墓へ向かう際、走ったため、もしかするとマリアは遅れて着いたかもしれません。そのため、マリアがようやく墓に着いたとき、ペテロとヨハネがまだそこにいたかどうかは分かりません。

そして、イエス様はマリアの前に現れ、彼女を慰められました。その後、彼女はすぐに弟子たちのもとへ戻りました。(ヨハネ20:12-18)

8.マリアが戻っている間に、イエス様はほかの女性たちの前に現れました。彼女たちは道中だったのかもしれません。また、弟子たちが彼女たちの言葉を信じなかったため、多少の失望を感じていたかもしれません。

けれども、イエス様が彼女たちを励まされたので、彼女たちはもう一度弟子たちのもとへ向かいました。

その頃、マリアも戻ってきたため、弟子たちはマリアと女性たちの話を聞きました。(マタイ28:9-10)

その順番が正しいかどうかは分かりませんが、これが私の推測です。

さて、マリアのことを少し考えてみましょう。私がこの場面を想像すると、イエス様の墓の外で、マリアが深い悲しみに沈み、絶望している姿が浮かびます。

もし私の考えが正しければ、彼女はまだほかの女性たちの天使の経験を聞いていません。マリアが知っているのは、ただイエス様の遺体がなくなったという事実だけです。

そして、マリアが墓に入ると、二人の天使がいました。ところが、ほかの女性たちの話をまだ聞いていなかったため、マリアは彼らが天使であることを認識しませんでした。

すると、天使たちは「なぜあなたは泣いているのですか」と尋ねました。

マリアはただこう答えました。「誰かが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」

もしかすると、天使たちがイエス様の復活を伝えようとしたその瞬間、イエス様が現れたのかもしれません。

最初、マリアはイエス様を認識しませんでした。しかし、イエス様が彼女の名前を呼ばれました。

「マリア。」

その瞬間、マリアの悲しみの涙は、一気に大きな喜びへと変わりました。

私たちはどれほどマリアのようでしょうか。苦しみに沈み、神様が遠く感じることがあります。

祈っても、まるでその祈りが天井にぶつかり、神様に届かないかのように感じることもあります。

神様を求めても、見つけられないことがあります。まるで神様が沈黙し、いなくなったかのように思えることもあります。

けれども、実際には神様は私たちとともにおられます。マリアのように、私たちは神様を見ていないだけかもしれません。しかし、神様は確かにそこにおられます。そして、最もふさわしい時に、ご自身を現してくださいます。

だから、諦めないでください。誰もが悲しみの時を経験します。誰もが、神様が遠く感じる時を通ることがあります。けれども、神様はインマヌエルです。すなわち、「神様は私たちとともにおられる」ということです。

そして、イエス様を復活させたのと同じ力で、神様は私たちの悲しみを喜びへと変えてくださいます。

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ヨハネの福音書 ヨハネ19章

自分の苦しみを脇へ置くことができる?

私たちがどれほど自己中心的であるかを知りたいなら、悲しんでいるときの自分の反応を見るべきです。試練に直面し、苦しんでいるとき、私たちは何に焦点を当てるでしょうか。自分自身でしょうか。

自己憐憫に浸るのは、ごく自然な反応かもしれません。

「どうして私はこんな試練に向き合わなければならないのか。いつまで苦しみ続けるのか。」——そう考えるのは普通のことです。

けれども、私たちが十字架を見るとき、イエス様は自分自身よりも、周りの人々に焦点を当てておられたことに気づきます。イエス様は一人の犯罪人を憐れみ、敵のために祈り、そしてこの場面では、母マリアへの深い愛を示されました。

マリアは十字架のもとで涙を流していました。彼女の長男は、ひどい罰を受け、死のふちに立たされていました。しかし、マリアの他の子どもたちは十字架の近くにはいなかったようです。

もしかすると、彼らはイエス様が狂っている(マルコ3:21)と思い、彼が家族に恥をかかせたと感じたのかもしれません。

だからこそ、他の息子や娘の姿はなく、マリアは十字架のもとで一人涙を流していました。家族からの慰めはありませんでした。

そのとき、イエス様は愛する弟子(おそらくヨハネ)を見て、マリアにこう言われました。

女の方、御覧なさい。あなたの息子です。(ヨハネの福音書19:26)

(当時、「女の方」という表現は、非常に丁寧で敬意を込めた言葉でした。)

そして、イエス様はヨハネにこう言われました。

御覧なさい。あなたの母です。(27)

その後、ヨハネはマリアを自分のもとへ引き取りました。

イエス様は、ご自身の苦しみだけを考える権利があったでしょう。彼は無実でした。この苦しみを受ける理由は何もありませんでした。

それでもイエス様は、自らの苦しみを脇へ置き、周りの人々を見て、愛を示されました。

あなたはどうでしょうか。

かつて、私の牧師の奥様は本当に素晴らしい方でした。私が知り合った人の中でも、彼女は最も愛を示す人の一人でした。彼女は亡くなるその日まで、変わることなく愛を示し続けました。

彼女はがんにかかり、少しずつ健康を失っていきました。最終的には、自分のベッドにずっといる状態となり、周りの人々が彼女を介護する必要がありました。それでも、彼女は自己憐憫に浸ることはありませんでした。

最後まで、彼女は介護してくれる人々にイエス様の愛で触れようとしていました。

もちろん、彼女は完全な人ではありませんでした。きっと、気が沈むこともあったでしょう。それでも、イエス様のように、彼女は自分の苦しみを脇へ置き、周りの人々に愛を示しました。

あなたはどんな苦しみを経験しているでしょうか。どんな試練に直面しているでしょうか。

あなたは何に焦点を当てるでしょうか。自分自身でしょうか。それとも、あなたは自分の苦しみを脇へ置き、周りの人々のニーズを見ることができるでしょうか。

苦しみの中で自分自身に焦点を当てる心は、その苦しみに留まり続けます。しかし、自分の苦しみを脇へ置き、周りの人々のニーズを見る心は、苦しみを越えて、もう一度喜びを見いだすのです。

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マタイの福音書 マタイ26章 マルコの福音書 マルコ14章 ヨハネの福音書 ヨハネ12章

真の愛。偽りの愛。

この話では、私たちはイエス様に対する二人の人物の愛を見ることができます。けれども、彼らの愛は全く異なるものでした。

マリアの愛は心から生まれたものでした。一方で、ユダの「愛」は自分勝手で利己的なものでした。

イエス様はベタニアという町に行かれました。その時、イエス様はシモンという人の家を訪れました。弟子たち、ラザロ、そしてその姉妹マリアとマルタも来て、一緒に食事をしました。

食事の後、マリアは非常に高価な香油を持ってきて、イエス様の頭に注ぎ、さらにその足にも塗りました。そして、自分の髪でその足を拭いました。

ユダはそれを見て、こう言いました。

どうして、子の香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。(ヨハネ12:5)

他の弟子たちも同意し、同じようなことを言ったようです。

けれども、ヨハネはユダの動機を説明しています。

彼がこの言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。(12:6)

だから、イエス様はこのように答えられました。

彼女を、するままにさせておきなさい。なぜ困らせるのですか。私のために、良いことをしてくれたのです。

貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいます。あなたがたは望むとき、いつでも彼らに良いことをしてあげられます。しかし、わたしは、いつもあなたがたと一緒にいるわけではありません。

彼女は、自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました。

まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。(マルコ14:6-9)

この言葉に対するユダの反応は何だったのでしょうか。彼はイエス様を引き渡すために、祭司長たちのところへ行き、彼らから銀貨30枚を受け取りました。

私たちはユダの動機を完全には知りません。けれども、それが単にイエス様の叱責に対する反発ではないと思います。おそらく、もっと深い理由があったのでしょう。

もしかしたら、彼の愛は、相手から何を得られるかに基づく利己的なものだったのかもしれません。だから、自分の利益のためにお金を盗める限り、彼は貧しい者にお金を渡すことに満足していたのでしょう。

また、イエス様が王になりそうだと期待する限り、ユダはイエス様に従うことを選んでいたのかもしれません。

しかし、何度もイエス様は、王になることではなく、自分の死について語られました。もしかしたら、ユダはその話にうんざりし、「もし死にたいと思うなら、死ねばいい」と考えた可能性もあります。

だからこそ、彼はイエス様を裏切ったのではないでしょうか。

一方で、マリアは心からイエス様を愛しました。ユダとは異なり、マリアはイエス様から何かを得ようとはせず、純粋な心でイエス様に貴いものをささげたいと願いました。

私はヨハネの生々しい描写がとても好きです。

家は香油の香りでいっぱいになった。(ヨハネ12:3)

イエス様に対する私たちの愛は、そのようであるべきです。この世は、イエス様に対する私たちの愛の香りで満たされるべきです。私たちの愛が明らかになれば、周りの人々はその愛を見過ごすことはないでしょう。

ユダがマリアを責めたように、私たちを責める人もいるかもしれません。けれども、イエス様にとって、私たちの愛は香油のようなものです。

あなたはどうでしょうか。あなたの愛は自分勝手なものでしょうか。イエス様から何を得られるかだけを考えているでしょうか。

あるいはあなたの愛は、イエス様にとっても、この世界にとっても、素晴らしい香りを放つものでしょうか。