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ヨハネの福音書のデボーション

三つの質問

イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」

イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。(ヨハネ6:5ー6)

今朝、私は、イエス様がピリポをどのように試されたのだろうかと考えていました。

イエス様はピリポに実際に何を尋ねられたのでしたか。

私はちょっと分かりませんけど、もしかしたらイエス様はこう訊かれていたかもしれません。

「私が誰であるのかすでに知っている?私が何ができるのか知っている?あなたは私をどれほど信じているのか?」

もしそれらがイエス様の質問であったなら、ピリポはそのテストに完全に落ちてしまいました。

ピリポが考えたのは、「この群衆の必要をどのように満たすことができるだろうか。私たちには無理だろう」ということです。

でもイエス様は、すでにご自分が何をしようとしているのかを、知っておられました。

そして、イエス様はピリポと他の弟子たちが持っていたわずかなもので群衆の空腹を満たしてくださいました。

時々、私はピリポのようです。イエス様は私の回りの人々を見て、その人に触れたいと思っておられます。ご自分が何をしようとしているのかを知っておられるけど、私に向かって、尋ねられます。

「私が誰であるのかすでに知っている?私が何ができるのか知っている?あなたは私をどれほど信じているのか?」

しかし、イエスが誰であり、何ができるかを見る代わりに、私は自分の弱さと力不足を見てしまいます。

でも真実は、私の弱さと力不足は関係ないのです。大切なのは、イエス様が誰であり、何ができるかということです。

だから、私が自問自答しなければならないのは、イエス様を信じるかどうかということです。

なぜなら、イエス様は愛を持って、私が持っているわずかなもので人々に触れることができるからです。

だから私はイエス様の三つの質問についてもっと考えなければならないでしょう。

「私が誰であるのかすでに知っている?」

「私が何ができるのか知っている?」

「私を信じてくれる?」

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コリント人への手紙第二

私たちのミニストリーが誹謗されることのないように

私たちは牧師や宣教師ではないかもしれませんが、キリストの奉仕に参加するよう、誰もが呼ばれています。

5章でパウロは、私たち全員がキリストの使節とされていることを語っています。だからこそ、私たちは和解のメッセージを周囲の人々に伝えるべきなのです。

しかし、私たちのミニストリーが誹謗されることは容易に起こり得ます。私たちの行動や言葉によって、私たちの証しを拒絶する人もいます。

そのため、パウロはこう書きました。

私たちは、この務めがそしられないように、どんなことにおいても決してつまずきを与えず、むしろ、あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しています。(コリント人への手紙第二6:3-4)

周囲の人々に対して、私たちはどのようにつまずきを与えることがあるでしょうか。それは、私たちの生き方によってであり、態度や行動によっても起こり得ます。

だから、どのような状況に直面しても、パウロは忠実にイエス様に仕えました。どんな苦難を経験しても、パウロは、「大いなる忍耐を働かせて、また、純潔と知識、寛容と親切、聖霊と偽りのない愛によって」行動しました。(4-6)

パウロの言葉について考えてみてください。苦難の時、私たちはどれほど不平を言い、忍耐を失い、自己中心になり、周囲の人々を愛さなくなるでしょうか。その結果、私たちの証しが誹謗されてしまうことがあるのです。

しかし、パウロは、周囲の人々に称賛されても、誹謗されても、喜びの時も苦しみの時も、常に忠実にイエス様に仕えました。

彼は聖霊の力によって歩み、両手に義の武器を持っていました。片手には神様のみ言葉を、もう片手には信仰の大盾を携えていました。

私たちは同じことを主張することができるでしょうか。

私たちの行動や態度が、私たちのミニストリーを決して傷つけることのないように。むしろ、毎日、真実と愛、純潔と忍耐を持って歩みましょう。そして、聖霊の力と慰めによって歩みましょう。

そうすれば、私たちはこの世に確かな影響を与えることができるでしょう。

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コリント人への手紙第一

ミニストリーへの私たちの態度

ミニストリー、つまり奉仕をする際、自分自身に焦点を当てるのは容易なことです。

例えば、私たちは次のように考え始めます。

「奉仕をすれば、私はどんな益を受けるのだろうか。私への尊敬はどこにあるのだろうか。経済的な報いはどこにあるのだろうか。」

しかし、パウロの心には、説教への強い熱意がありました。彼はこう語りました。

私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。(コリント人への手紙第一9:16)

パウロの言葉を読むと、私は預言者エレミヤの言葉を思い出します。

私が、「主のことばは宣べ伝えない。もう御名によっては語らない」と思っても、主のことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私は内にしまっておくのに耐えられません。もうできません。(エレミヤ書20:9)

だから、神様のメッセージを伝えるべきかどうかを考えるとき、パウロもエレミヤも経済的な報いや、人々からの尊敬を計算することはありませんでした。もしそのメッセージを伝えなかったなら、彼らは惨めな思いをしたでしょう。

そして、パウロはさらに説明しました。

私が自発的にそれをしているなら、報いがあります。自発的にするのでないとしても、それは私に務めとして委ねられているのです。(17)

パウロは何を伝えたかったのでしょうか。彼にとって、喜びに満ちた心から、そして主と人への愛を持つ心から福音を語ること自体が報いでした。

18節で、パウロは福音を宣べ伝える際、無報酬で提供することこそが報いであると述べています。なぜ彼はそのように感じたのでしょうか。それは、無報酬で福音を提供することで、御国に入る人が増えたからかもしれません。

現代と同じように、一部の人々はパウロの動機を疑いました。彼らは、パウロが金銭的な利益を求めているのではないかと思ったのです。

けれども、パウロは彼らにこう語りました。「私はあなたからお金を求めていません。私があなたに与えたいものは、神様の赦しと永遠のいのちです。」

さらに、人々がパウロを見たとき、彼らは自分の利益を求める人物ではなく、仕えることを望む人物を見ました。人々に仕えるため、パウロは常に自らの権利を手放しました。

その結果、多くの人々が御国に入ることができ、パウロは大いに喜びました。(19-23)

それだけではなく、パウロは、主が喜んでおられることを知っていました。

しかし、人を愛していなくても、福音を伝えたい気持ちがなくても、パウロは福音を宣べ伝えなければなりませんでした。なぜなら、神様が彼にその責任を託されたからです。

そして、もしパウロがその使命を果たさなかったなら、神様は彼に責任を問われたでしょう。

タラントのたとえ話に、その原則を見ることができます。あるしもべは、主人を愛することなく、むしろ恐れていました。

だからこそ、主人が彼にお金を預けたとき、そのしもべはそれを投資せずに地中に埋めてしまいました。そして結局、主人はそのしもべの責任を問いました。(マタイ25:24-30)

エレミヤもまた、その責任を強く感じていました。エレミヤ書20章を見ると、彼の奉仕が常に自発的なものではなかったことがわかります。

エレミヤは、神様が自分を正しく扱っていないと不満を述べ、また、イスラエルの民からの迫害について嘆きました。(20:7-8)

それでも、エレミヤは神様のメッセージを伝え続けました。なぜなら、主のことばは彼の心のうちにあり、骨の中に閉じ込められた燃えさかる火のようになり、彼はそれを抑えきることができなかったからです。

パウロと同じように、エレミヤもそのメッセージを語らなければなりませんでした。もしそうしなかったなら、彼は災いを招いたことでしょう。

とはいえ、心から仕えることは、何よりも価値のあることです。「しなければならない」という義務感ではなく、「仕えたい」という心が大切です。

そのような心を持つなら、私たちの人生はより充実したものとなり、ミニストリーも喜びをもたらすものとなるでしょう。

何よりも、主にお会いする時、私たちはその報いを受けるのです。

あなたはどうでしょうか。どのような心で仕えますか?

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使徒の働き

私たちの心を知っておられる神

この箇所では、マッティアが使徒として選ばれ、ユダの務めを引き継ぎました。

ある人々は、ペテロや他の弟子たちが勝手にマッティアを任命したと考えています。つまり、神様はマッティアではなくパウロを選びたかったのだ、と主張するのです。

その人々によれば、イエス様がパウロに現れて彼を使者として任命したとき、実はパウロがユダの務めを引き継いだのだそうです。

私もかつてはそう考えていましたが、今はそう思いません。なぜなら、第一コリント15:5で、パウロはマッティアを12人の使徒の一人として認めていたからです。

イエス様が復活された後、ユダに現れることはなかったため、この文脈ではパウロがマッティアについて言及していたのでしょう。

それに、パウロが使徒として任命されたにもかかわらず、彼はこう言いました。「私は使徒の中で最も小さい者です。私は使徒と呼ばれるに値しない者です。」(第一コリント15:9)

もう一つ注意すべき点があります。それはユダの死です。マタイの福音書27章によれば、祭司長はユダが返した銀貨を受け取り、畑を購入しました。そしてユダは出て行って首を吊りました。

しかし、使徒の働きによれば、ユダ自身が地所を購入し、真っ逆さまに落ちて、体が真っ二つに裂けたと記されています。どうやって、その2つの話を調和できるでしょうか。

アケルダマ(その畑の名前)はベン・ヒノムの谷にあります。たぶん、ユダは崖の上で首を吊ったでしょう。そして、ユダの死体が腐敗し始めている間に、その綱は切れたかもしれません。だから、その死体は谷に落ちて、その畑に着地しました。

それを聞いて、祭司長たちはユダの代わりに、その畑を買ったでしょう。なぜなら、彼らは「そのお金は血の代価だから、神殿の金庫に入れることは許されない」と言ったからです。(マタイ27:6)

でも、それは今日の要点ではありません。

興味深いのは、使徒たちがユダに彼らと同じ務めを割り当てられていたと認めたことです。つまり、ユダは他の弟子たちと共に二度の宣教旅行に行き、福音を述べ伝えたり、悪霊を追い出したり、病人を癒したりしました。(ルカ9-10章)

とはいえ、イエス様はユダの心をよくご存じでした。ユダがさまざまな素晴らしい働きをしても、彼の心は真にイエス様のものではありませんでした。そのため、彼は最終的に暴露され、追い出されました。

その後、神様に属する心を持つ者がユダの務めを受け継ぎました。

私は何を言いたいのでしょうか。

私たちがミニストリーに携わっているなら、毎日自分の心を探らなければなりません。私たちの動機を吟味しなければなりません。私たちの心が本当に神様のものかどうか、試さなければなりません。

私たちはイエス様の御名によってさまざまな良いことを行うことができます。私たちのミニストリーを通して人々が救われるかもしれません。

しかし、神様は私たちの心を見抜かれます。もし私たちの心が神様の目にかなわないなら、最終的に神様は私たちの務めを取り去り、別の人に与えます。

そして、もっと恐ろしい可能性もあります。

もしかしたら、私たちはイエス様にこう言うことになるかもしれません。

主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡をおこなったではありませんか。(マタイ7:22)

ところが、イエス様は私たちにこのように答えられます。

わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。(マタイ7:23)

あなたの心はどうですか。あなたは本当に自分の心をイエス様に捧げたでしょうか。

もしかしたら、良いクリスチャンのふりをしているかもしれません。もしそうなら、結局あなたの務めは取り去られ、ほかの人に与えられるでしょう。

あなたの心は、誰のものでしょうか。

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使徒の働き

イエス様の再臨を待つ

イエス様が天に上っていくのを目にするのは、本当に驚くべき光景だったでしょう。だから私は、弟子たちが口をぽかんと開けて、イエス様が見えなくなるまで空を見つめていたことがよく理解できます。もし私がその場にいたなら、同じことをしていたでしょう。

しかし、そのとき二人の天使が現れて、彼らにこう言いました。

ガラリヤの人たち、どうして天を見上げて、立っているのですか。

あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。(使徒の働き1:11)

その言葉から、私たちは二つのことを学ぶことができます。

一つ目は、私たちの希望の理由です。この世は混乱し、ますます悪化しているように見えますが、イエス様は必ずこの世に戻られます。その日、イエス様はすべてを新しくされます。

二つ目は、イエス様が戻られるまで、私たちには果たすべき重要な使命があるということです。

おそらく、天使たちが伝えたかったのは、「ここにただ立ち尽くしているのではなく、イエス様の言葉に従いなさい」ということだったのでしょう。

弟子たちはまずエルサレムに行き、御霊を待つ必要がありました。もし私たちがミニストリーを志すなら、まず同じように、御霊を待つことから始めるべきです。

前回の記事で述べたように、私たち自身の力には限界があります。しかし、聖霊に満たされた人は、この世を変えることができます。

だから、この世を見渡すとき、ただ不平不満を言うだけではなく、ただ天を仰ぎながらイエス様の再臨を待つだけでもなく、むしろ、聖霊に満たされて、神様の言葉に従いましょう。

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マルコの福音書 マルコ9章 ルカの福音書 ルカ9章

ミニストリーに関するプライド

イエス様が弟子たちに「神の国でどのように偉くなるのか」を教えられたとき、おそらく彼らは少し違和感を覚えたことでしょう。なぜなら、彼らは誰が一番偉いのかを巡って言い争いをし、さらに自分たちのグループの外にいる人々を軽んじていたからです。

そのため、ヨハネは少し緊張しながら、こう尋ねました。

先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。(マルコ9:38)

イエス様はこう答えられました。

やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行ないながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。

あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。(39-41)

教会の問題の一つは、人々が自分のミニストリーを守ろうとすることです。つまり、彼らはこう考えます。 「これは私の役割であり、私のミニストリーだ。他の人が参加するべきではない。」

弟子たちも同じような態度を取りました。 ある人物が悪霊を追い出しましたが、その人は弟子たちの仲間ではありませんでした。 そのため、弟子たちは彼に「やめなさい」と命じました。

けれども、イエス様は彼らにはっきりとこう言われました。

「これは競争ではありません。その人は私を愛し、仕えたいと思ったのです。だから、彼にやらせなさい。私は彼にその力を与えたのだから。」

私たちも同じような態度を取るべきです。たとえ相手が私たちよりも優れた働きをしていても、喜んで彼らをミニストリーに迎え入れるべきです。なぜなら、私たちはミニストリーをする際に自分の栄光を求めてはならないからです。

むしろ、私たちは神様に栄光を帰そうとすべきです。そして、誰かが神様からの賜物を用いるとき、そのことを喜ぶべきです。

残念ながら、教会の中でも競争が生じることがあります。人々は「どの教会のほうが大きいか」「どのミニストリーのほうが優れているか」を考えます。

さらに、相手の方法が自分と異なれば、批判を始めることもあります。しかし、それはイエス様の望まれることではありません。それはむしろサタンの望むことです。もし教会の人々が互いに争えば、サタンとの戦いに費やすべき時間が失われてしまうからです。

だからこそ、教会として、また教会のメンバーとして争うことをやめましょう。そして、むしろ協力し合いましょう。なぜなら、私たちは同じチームに属し、同じ目標を持っているのだから。

私たちが分裂するなら、神様の名を汚してしまいます。しかし、一致し、協力するなら、神様の御名に栄光を帰すことができます。

そのような人々になりましょう。

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マタイの福音書 マタイ10章 マルコの福音書 マルコ6章 ルカの福音書 ルカ9章

弟子づくり、霊的な教え、実用的な教え

イエス様が弟子を育てる際には、霊的な指示だけでなく、実用的な指示も教えられました。

まず、イエス様は弟子たちに霊的な真理を教え続けました。例えば、山上の垂訓や平地の説教を説かれました。また、数々のたとえ話を用いて教えられました。

けれども、弟子たちを奉仕に送り出す際には、実用的な指示も与えられました。

例えば、弟子たちはサマリヤ人や異邦人のところへ行かず、ユダヤ人の町だけを訪れるべきだと教えられました。それはなぜでしょうか。パウロが語ったように、福音は最初にユダヤ人に届けられるべきものだったからです。(ローマ1:16)

もちろん、イエス様は時々異邦人やサマリヤ人を癒し、教えることもされましたが、彼らに福音を伝える時期はまだ来ていなかったのです。

イエス様はさらに具体的な指示を弟子たちに与えられました。

イエス様は、弟子たちが何を持つべきか、持たないべきかを教えられました(マタイ10:9-10)。

また、彼らがどこに泊まるべきかを教えられました(マタイ10:11-13)。

さらに、彼らが拒絶される場合や迫害される場合の対処方法についても教えられました(マタイ10:14,23)。

そして、イエス様は弟子たちに厳しく警告されました。「信頼できない人もいるので注意しなさい。もちろん、悪を行うことは避けなさい。それでも、相手を賢く扱うように。」(マタイ10:16-17)

このように、イエス様は霊的な教えも並行して教え続けられました。

例えば、神様はスズメの必要を日々備えておられるので、弟子たちの必要も必ず備え、彼らを守られるということです。なぜなら、神様はスズメ以上に彼らを愛し、大切にしてくださるからです。そのため、彼らは神様を全面的に信頼すべきでした(マタイ10:9-10;29-31)。

また、彼らは神様を何よりも愛するべきだと教えられました。イエス様は弟子たちにこう語られました。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。

自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。(マタイ10:37-39)

私が伝えたいのはこれです。私たちが人々を奉仕のために訓練する際には、霊的なことと実用的なことの両方を教えるべきだということです。

もちろん、彼らはミニストリーや日常生活における霊的な原則を学ぶ必要があります。

しかし、それと同時に、彼らにどのようにミニストリーを行うべきかという実践的な側面も教える必要があります。

イエス様もそのようにされました。まず、弟子たちはイエス様がどのようにミニストリーを行うかを目の当たりにしました。そして、イエス様は必要な指示を簡潔に与え、弟子たちを送り出されました。

弟子たちが戻ると、イエス様は彼らの報告を聞き、必要に応じてフィードバックを与えられました。私たちも、同じようにして人々を訓練するべきではないでしょうか。

もちろん、彼らが私たちと全く同じようにミニストリーを行う必要はありません。私たちが基本的なことを教えた後は、その基礎の上に彼らが神様の導きに従って、自分のミニストリーを築いていくべきです。

けれども、残念なことに、多くの場合、訓練はどちらか片方に偏りがちです。

例えば、霊的な訓練だけを与える一方で、ミニストリーに関する実用的な訓練を与えない場合、その弟子は大きな失敗をし、そのミニストリーは早々に崩れてしまうことがあります。

逆に、ミニストリーに関する実用的な指導だけを与えると、最初は順調に見えても、弟子自身がプライド、罪、その他の霊的な落とし穴に陥り、結果的にそのミニストリーも崩壊してしまうことがあります。

ですから、弟子たちを訓練する際には、このような失敗を避けるべきです。霊的な訓練と実用的な訓練の両方を与えましょう。そうすることで、神様は彼らと私たちを用いて、神の国を成長させてくださるでしょう。