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列王記第二のデボーション

神様の忠実な愛を忘れる

列王記と歴代誌の興味深い違いは、列王記の著者がしばしばユダの王の悪い行為について語らないことです。

例えば、列王記第一15章では、著者はアサ王の深刻な罪について触れていません。

そして、今日の箇所でも、著者はヨアシュ王の深刻な罪について語っていません。

しかし、アサの記述と同様に、著者はヨアシュの人生に否定的な側面があったことをほのめかしています。

著者はこう記しています。

ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えた間、いつも主の目にかなうことを行った。(列王記第二12:2)

上の言葉を読んだとき、この問いが浮かぶかもしれません。「エホヤダが死んだ後、ヨアシュは何をしたのだろうか。」

残念ながら、エホヤダが死んだ後、ヨアシュは主に背を向け、偶像礼拝を始めました。そして、エホヤダの息子ゼカリヤがヨアシュを責め、悔い改めを促したとき、

ヨアシュ王は、ゼカリヤの父エホヤダが自分に尽くしてくれた誠意(別約:忠実な愛)を心に留めず、かえってその子を殺した。(歴代誌第二24:22)

でも、ヨアシュはエホヤダの忠実な愛だけでなく、神様の忠実な愛までも忘れてしまいました。

特に、ヨアシュの祖母は彼を殺そうとしましたが、神様はヨアシュを守ってくださいました。

だからこの話を読んだ後、私はこのように祈りました。

天のお父さん、ヨアシュのようにならず、私があなたの忠実な愛を決して忘れることのないようにしてください。あなたの愛を忘れるなら、私はたやすくあなたに背を向けてしまうからです。

天のお父さん、私はあなたから決して離れたくないのです。

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列王記第二

尊敬だけでしょうか。または心からの愛でしょうか。

イスラエルの王ヨアシュ(ユダのヨアシュではなく)と預言者エリシャにはどのような関係があったのでしょうか。

ヨアシュは父エホアハズやほかのイスラエルの王たちと同じように悪いことを行い、偶像礼拝をしました。

わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち(列王記第二13:14)

神様がエリヤを天に取られたとき、エリシャは同じ言葉を言いました。(列王記第二2:12)

けれども、もしヨアシュがエリシャを本当に愛していたなら、エリシャの言葉に従ったはずです。しかし、ヨアシュはそれをしませんでした。

この話で、エリシャはヨアシュに最後の命令を与えました。そして、エリシャはこう言いました。

弓と矢を取りなさい。。。弓に手をかけなさい。。。東側の窓をあけなさい。。。矢を射なさい。(列王記第二13:15-17)

ヨアシュはそうしました。そして、エリシャは言った。

主の勝利の矢。アラムに対する勝利の矢。あなたはアフェクでアラムを打ち、これを絶ち滅ぼす。(17)

そして、エリシャはさらにこう言いました。

矢を取りなさい。。。それで地面を打ちなさい。(18)

ヨアシュはそれを聞いて、どう思っていたのでしょうか。

おそらく、エリシャがそのように命じた理由が分からなかったため、ためらいながら三回打ったのでしょう。

エリシャはそれを見て怒り、こう言いました。

あなたは、五回、六回、打つべきだった。

そうすれば、あなたはアラムを打って、絶ち滅ぼしたことだろう。

しかし、今は三度だけアラムを打つことになろう。(19)

エリシャの言葉は成就しました。神様の助けによって、ヨアシュはアラム人を三回打ち破り、父エホアハズから奪われた町々を取り返しました。

しかし、ヨアシュのエリシャに対する態度は、神様に対する態度によく似ていました。

彼はエリシャや神様を尊敬していたかもしれませんし、少し愛していたかもしれません。

それでも、ヨアシュは心のすべてを神様に捧げることはありませんでした。

心を尽くして神様の言葉に従うこともありませんでした。彼が捧げたのは、せいぜい心の半分、あるいはそれ以下だったかもしれません。

そのため、神様がヨアシュに多くの良いことを望んでおられたにもかかわらず、ヨアシュはその良いことをほとんど経験できませんでした。

もしヨアシュが心を尽くして神様に従っていたなら、もっと多くを成し遂げることができたかもしれません。

あなたはどうでしょうか。

心のすべてを神様に捧げていますか。

心を尽くして神様に従うことを決心していますか。

それとも、ヨアシュのように、神様を少し尊敬しているだけでしょうか。

「神様の言葉は良いかもしれないけど、ちょっと遠慮します」と言っていないでしょうか。

半端な心で神様を求めるのではなく、すべてを神様に捧げましょう。

心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、神様に従いましょう。

ある讃美歌の歌詞には、こう書かれています。

素晴らしい神様からの愛は、
私の魂、命、そして私のすべてを要求する。

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列王記第二 歴代誌第二

全然成長しなかった少年

成長しなかった少年。その話を聞くと、私はピーター・パンを思い浮かべます。彼は決して成長したくありませんでした。

残念なことに、ヨアシュ王もそのような人物でした。

祭司エホヤダがヨアシュを育て、教えたことで、ヨアシュは人生の前半、主に仕えることができました。

また、エホヤダや他の祭司たちが主の宮を修理しないとき、ヨアシュは彼らを叱責しました。

しかし、ある日エホヤダが亡くなりました。

ヨアシュを育てた人、そして彼を教えていた人がいなくなったのです。

エホヤダがヨアシュを訓練したおかげで、ヨアシュには学んだことを活かしてユダを賢く治める機会が与えられていました。

それでも、ヨアシュはその機会を活かしませんでした。

むしろ、エホヤダが死んだ後、ユダのつかさたちがヨアシュの心を神様から離れるように導きました。そして、ヨアシュは修理したばかりの宮を捨て、他の神々を礼拝し始めたのです。

それだけでも悪いことでしたが、ヨアシュはさらに悪いことをしました。

神様はエホヤダの息子ゼカリヤをヨアシュに送られました。そして、ゼカリヤはヨアシュにこう言いました。

神はこう仰せられる。「あなたがたは、なぜ、主の命令を犯して、繁栄を取り逃がすのか。」

あなたがたが主を捨てたので、主もあなたがたを捨てられた。(歴代誌第二24:20)

ヨアシュはそれを聞いても、その父エホヤダの親切さに全く感謝せず、ゼカリヤを殺しました。

そのため、神様はユダを裁かれました。

ユダの軍隊がアラムの軍隊よりも規模が大きかったにもかかわらず、神様はユダをアラムの手に渡されました。

その際、ヨアシュは重傷を負い、すぐに彼の家来たちによって暗殺されました。

皮肉なことに、エホヤダは王たちと一緒に葬られましたが、ヨアシュは王たちと一緒に葬られませんでした。

なぜでしょうか。それは、ヨアシュが本当に成長することがなかったからです。

彼は心を尽くして神様に信頼することを決して学びませんでした。むしろ、彼は人間に頼ることを選びました。

エホヤダのような善良な人に頼れば良いことを行いましたが、悪い人々に頼ると悪いことを行いました。

そして結局、それが彼の没落を招いたのです。

あなたはどうでしょうか。あなたのメンターは誰ですか。誰に信頼し、誰に頼っていますか。

いずれ私たちは成長しなくてはならない時を迎えます。敬虔な人々は永遠に私たちと共にいるわけではありません。

彼らが私たちの元を去った時、私たちは霊的な大人として成長し、人々に頼るのではなく、神様だけに頼ることを学ばなければなりません。

私たちはそのことを学び、私たちの人生を神様の御手に委ねましょう。

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列王記第二 歴代誌第二

私たちの宮を清める

ヨアシュ王は、祭司エホヤダの訓練と影響を受けて、王として順調なスタートを切りました。

王となると、ヨアシュはすぐに宮の修復をしたいと考えました。

アハズヤがユダの王であった時、その母アタルヤの影響を受けていたのか、アハズヤとその兄弟たちは宮を打ち壊し、宮の聖なる品々をすべてバアルの礼拝に使用しました。(歴代誌第二24章7節)

その結果、宮は次第に荒廃していきました。そこで、ヨアシュは祭司たちに命じて、人々から資金を集め、宮の修理を行うように指示しました。

なぜ、あなたはレビ人に要求して、主のしもべモーセとイスラエルの集団の、あかしの天幕のための税金を、ユダとエルサレムから持って来させないのですか。(歴代誌第二24:6)

こうして、彼らはようやく修理に取りかかりました。

彼らは宮を修理しただけでなく、アハズヤが盗んだ物の代わりに新しい器具も作りました。

この箇所を見ると、私はこう考えます。「私たちは主の宮を十分に注意しているだろうか。」

もちろん、ここで私が話しているのは建物のことではありません。私たち自身の体について話しています。

なぜなら、パウロがこう言ったからです。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。(第一コリント6:19)

罪によって私たちの宮はどのような霊的な損害を受けているのでしょうか。

私たちはその罪をそのまま残しているのでしょうか。

それとも、聖なる器となるために、その罪を清めているのでしょうか。

時々、この話の祭司たちのように、私たちは神様に仕えることに忙しくなってしまいます。

しかし、私たちが忘れてはならないのは、神様が最も関心を持っておられるのは、私たち自身のことだということです。

私たちが神様のために何かを成すこと以上に、神様は私たち自身を気にかけておられます。

神様は、宮が清められ、修復され、聖なるものとなることを望んでおられます。

私は「神様に仕えるには、完全に清められなければならない」と言っているのではありません。

けれども、「神の仕事」をしているからといって、自分自身の宮を顧みる時間がない、という態度をとってはいけません。

神様の最初の仕事はあなた自身です。

神様がまずあなたの中で働き、その後で、神様がどのようにしてあなたを用いるかを考え始められるのです。